人気ブログランキング | 話題のタグを見る

組織のスケールアップと変曲点

「ご趣味は?」ときかれたら、「音楽です。」と答えることにしている。「どんな音楽がお好きなんですか」とさらに質問されたら、「別にこだわりなく、何でも聴きます。やる方で言えば、素人コーラスが趣味でして」と答えるだろうか。合唱で歌を唄うというのは、いかにも中産階級的で、室内派的な道楽だ。ダイビングとかヨットとか、もっと活動的でリッチな趣味だったらかっこいいのだが、あいにくアウトドア派ではない。

ここ何年かは、荻窪を中心に活動する小さな男声アンサンブルに所属している。メンバーは今のところわずか6人。指導の先生を入れて7人。これくらい小さなグループだと、あまり組織といえるほどのものはない。広報、渉外、楽譜の手配、合宿、会計、そして演奏会の準備など、みな手分けしてやっている。一応、対外的な書面上ではリーダーがいるが、ほとんど実際の運営上はみな対等である。手が空いたら他の仕事も手伝う。あまり専門分化しておらず、フラットな人間集団である。学者だったら、「ネットワーク型の組織」だとか名付けるのだろうか。

(ところで、まるきり余談だが、もし少人数の男声アンサンブルでやさしい曲を歌ってみたいという方がいらっしゃったら、ぜひご参加ください。「せめて各パート2人は欲しいよね」などと言い合っているのです。詳細はホームページ「アンサンブル・ハイブリッジ」まで)

さて、話を元に戻すと、会社形態になっても事情は似たようなものらしい。先日、高校時代の旧友がはじめた電子出版の会社に遊びに行った。友人が社長で、ほかに3名ほどのスタッフがいる。だが、これくらい小さな組織では、社長も当然ながら、編集そのほか自分でいろいろ手を動かさなければならないはずだ。社員はみな、何でもやらざるをえず、その結果、多能工的に動く。

ただ、会社がもう少し成長して、人数も増えていった場合は、少しずつ担当が専門分化していくだろう。また、皆に共通な『雑用』的な仕事は、くくりだして誰かひとりが受け持つ方が効率的だと気がつく。そして、対外的な責任者としての顔、あるいはいろいろな局面での決断、などの必要から、次第にリーダー役の重要性が大きくなっていく。数人のころは皆で相談して決められるだろうが、しだいにスタッフ全員が同時に顔を合わせられる時間が減っていく。必然的に、「会議」を設定せざるを得なくなる。会社組織っぽくなっていくわけだ。

それでは、組織がほんの数人規模からスケールアップしていったとき、「専任のマネジメント職」が必要になるのは、どれくらいの規模だろうか? これについては、仕事の種類や複雑さによって、かなり答えはばらつくに違いない。ホワイトカラー的な、つまり(一応)知的な職種か、コールセンター的な、やや繰返し的な職種か、あるいは製造現場や建設現場での本物の力仕事かで、違いはあると思う。

ただ、わたし自身がかかわってきたプロジェクト的業務の場合、コスト管理や決断・交渉といった「リーダー」的な業務は、ざっくり見積もって、仕事全体の7~8%程度はありそうな気がする。またこれ以外に、「サポート」的な仕事、すなわちオフィス環境の整備だとか伝票・ファイルの整理だとか入出金の事務だとかが、やはり仕事全体の7~8%程度を占めるように感じられる。

つまり、言いかえると、メンバー数が12人から15人程度になると、専任の「リーダー」が一人と、専任の「事務的スタッフ」が一人ずつ、必要になる計算である。それ以下の人数のチームでは、リーダー的な仕事は無論あるが、それは専任一人分の量はない。だからリーダー格の人間が、自分でも設計業務など手を動かしながら、その傍らパートタイム的にマネジメント機能を担うことになる。スポーツにたとえれば「プレイング・マネージャー」の状態である。だが、たぶん15人以上の組織になると、もう兼任はできなくなる。リーダーも設計のレビューなどはやるだろうし、やるべきだが、自分自身で計算したり図面を書いたりする暇はなくなっていく。

もちろんプロジェクトの場合は固定組織と違ってチームの人数が途中で変動するから、ピーク時に15人でも全期間を平均すると10人以下になろう。まあ期間を1年足らずと見て、全体の工数が100人月程度のところに、ある種の変曲点がある。それ以上の規模の仕事では、マネジメントに専任する人がどうしても必要になる。それに、上記の7~8%という数字は、プロジェクトの種類・内容にもよる。ここでは、面倒な顧客で、やれ契約書だやれ進捗レポートだと、事細かく要求してくるようなタイプを想定している(海外顧客は大概これだが)。もっと鷹揚な顧客で、“君に任せておくから好きにやってくれたまえ。代金? 一括先払いしておくよ”、という場合はパーセンテージはずっと小さくなるはずだ(あいにく、そんなお客にあたったことはないが)。

マネジメントに専念するリーダーがいる組織では、メンバーはその部下ということになり、組織内に上下関係(階層)が生じる。学者なら「階層型組織」のタイプになった、と分類するだろう。仕事の結果も、それなりにリーダー個人の能力や個性に引きずられることになる。なぜなら、もはや意思決定は全員の合意ではなく、リーダーが結果責任とともに引き受けることになるからだ。欧米はこの種の、一人に権限と責任を集中させる組織が好きらしい。音楽で言えば、指揮者のいるオーケストラのようなものだ。少人数のアンサンブル(弦楽四重奏など)はメンバー同士の息を合わせて演奏できるが、楽曲の規模が大きくなると、専任の指揮者が必要になっていく。

では、専任のリーダーがいる組織が、さらにスケールアップしていったとき、それ以上の変化はないのだろうか。百人でも千人でも、あるいは10万人でも、あとはずっと、トップの個性が全体を引っ張っていくのだろうか?

どうも、そうではないらしい。ある規模を超えると、組織はさらに質的な変化をとげて、次の段階に移るようである。先輩の経営コンサルタント諸氏の話を総合すると、次の変曲点は、意外と小さくて、200~300人程度らしい。この規模を超えると、社長一人の意気込みだけでは、会社を引っ張りきれなくなるという。そして、きちんと会社を動かす「仕組み」が必要になってくる、と。

この点については、異論もあろうかと思う。やはり組織ってリーダーの影響は大きいんじゃないの? 経営者がダメだと大会社も業績が落ちるし、戦争の勝敗だって将軍で決まる。スポーツを見たって、やはり監督の采配が勝敗を決するじゃないか。

だが、スポーツのチームはせいぜい10数人である。控えや2軍を入れたって、スポーツの世界で200人を超える組織というのは、まず無い。大企業の業績でいうと、おかしくするのはトップ一人でもすぐできる。しかし、好業績を持続するのはそう一朝一夕には出来ない。壊すのは簡単だが作るのは大変なのだ。

そして、戦争の例でいえば、桶狭間の戦いなら、たしかに信長のリーダーとしての決断と実行(つまり能力)の成果だと言っていい。しかし、関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成のリーダーとしての能力の差だけで説明できるだろうか。まして、太平洋戦争の勝敗結果は、両両国のトップの能力の差だと言ったら、読者諸賢は納得できるだろうか。アメリカ人なら"Yes"と言うかもしれないが、日本人でこの見解に賛成するのはかなり少数ではないかと思う。

だとしたら、組織がスケールアップしていくと、どこかで組織としての働きは質的に変化するのだ。そして、それは200~300人という、わりと小さな数字でおこるというのが、多くの中小企業を見てきた先輩診断士の証言である。

その点を超えると、何が変わるのか? まず、社長が全部の問題を決めるだけの時間がなくなっていく。それと、社長が社員全員の顔と名前、そして性格を覚えきれなくなる。そうすると、個性に応じた適材適所の配置が困難になる。そこでどうしても、個人ではなく、組織で決断したり問題解決をしたりする仕組みが必要になる。判断や行動のためのルールも求められる。教育の段取りや分担もしかり。つまり、「マネジメント・システム」がないと会社が回らなくなるのだ。

そして、この変曲点を理解して、乗り切れるかどうか、トップが自分の手中にすべてを握るのを諦めて、かわりにきちんと権限移譲の仕組みを構築できるかどうかで、会社がその先に成長できるかが決まるという。たしかに、この変曲点を乗り越えられずに、200人規模で伸び悩んでいる会社をわたしも見たことがある。

それにしても、この200-300という数字が、14~17の自乗になっているのは偶然だろうか? 上にあげたように、12人くらいのチームに、専任のマネージャー1人と事務スタッフが1人ついて、14人。このチームが14個集まると、196人になる。その上に、トップが1人。トップが直接、面倒を見ていられる部下(ミドルマネジメント)の数も、これくらいだろう。それ以上規模を拡大した場合、ミドルの数を増やしてもトップが全員を見きれなくなる。かといって、ミドルの数を14人のままに固定したとしても、今度はミドルが部下を見きれなくなる。それで結局、階層を一つ増やす事になる。(チーム単位が15人なら、マネージャーとスタッフを加えて17人。上限は17×17=289で、約300人だ)。そうなるとやはり、マネジメントのための「仕組み」の出番だ。

では、組織が300人をうまく超えたら、あとは一直線なのか。そこも少し疑問がある。わたしの経験にもとづく漠然とした直感では、製造業の場合、年間売上が1000億円を超えるところで、さらに組織に変曲点があるような気がする。売上を人数に換算すると、一人当たりの売上が2-3千万円として、従業員3,000-5,000人くらい。どうもここらあたりに、次のバリヤーがありそうだ。それ以上になると、今度はスタッフすなわち間接機能を、さらにうまく専門分化させていく必要がでてくる。

さて、この3,000-5,000人という数字、どう根拠づけるか。先のベースを無責任に外挿すると、1単位14-17人の3乗の数字が、ちょうどそれくらいの人数になる。ここに何らかの機序があるのかもしれない。しかしむろん、何の根拠もない素人の空想である。誰か経営学者が、もっときちんと研究してくれるとありがたいのだが。
# by Tomoichi_Sato | 2013-06-16 22:41 | ビジネス | Comments(0)

書評:世界の経営学者はいま何を考えているのか 入山章栄

世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア


「ドラッカーなんて誰も読まない!?
 ポーターはもう通用しない!?」

--これが本書の帯の宣伝文句だ。著者の入山氏はニューヨーク州立大学バッファロー校(ビジネススクール)の助教。2008年にピッツバーグ大学でPhD(博士号)をとったばかりの、新進気鋭の経営学者である。

ドラッカーなんて米国の経営学では完全に過去の人だ、というと、日本ではやはり驚く人が多いのだろうか。最近もドラッカーに女子高生をかけあわせた本がベストセラーになったばかりだし、彼の本は古くから広く読まれ、「ドラッカー学会」まであるくらいだ。(ドラッカー自身も日本が好きだった)

もちろん、ドラッカーがマネジメント研究の先駆者であることは確かである。しかし、ドラッカーはウィーン出身の人だけに、発想の根本が非常に『中欧的』である。たとえば「企業は基本的に社会のものである」という彼のテーゼは、“企業は株主の所有物だろ”との考えが主流の現代アメリカのビジネス文化とは、(その当否は別としても)かなりかけ離れてしまっている。

ポーターについて言えば、彼の「競争優位戦略」論は元々、ミクロ経済学を逆手にとった発想であった。効率的な完全競争市場では、誰も度はずれに大きな利益は手にできない。だから、すぐれたポジショニングによって不完全な競争状態をつくる(=ムダな競争を避ける)ことが、持続的な優位を得る戦略である。そう、ポーターは主張した。'80年代前半のことである。

ところが本書によれば、'90年代後半から現れた大規模な実証研究により、企業が10年以上続けて同業者より高い業績を上げるケースは、全産業で2-5%にとどまり、かつ優位性を維持できる期間が短くなっていることが分かってきた。さらに、より多く競争行動を行う企業の方が、シェアや総資産利益率が上昇するとの発見も出てきた。だから、ポーターの競争優位戦略「だけ」では、競争戦略を説明できないようである。なるほど、たしかに面白い。

この例のように、現在のアメリカの経営学は、理論に加えて、統計を多用した実証を重んじる。これは経営学が「科学」science を目指しているためで、西洋人の科学志向に立脚している。だから著者の入山氏は導入部第2章で、「経営学は居酒屋トークと何が違うのか」という、根源的な問いを立てる。居酒屋でSONYやパナソニックと韓国の電子メーカーを比べて、まるでサッカー試合の批評のようなことを論じるのと、経営学研究とは、どこが違うのか?

答えは、“実証可能性”である。言葉を並べただけの感覚的な一般論と、データで検証可能な理論は、厳然と区別されなければならない。それが学問的訓練というものだ。そして著者は、そうした訓練をきちんと受けて身につけている。おまけにとても明晰で論理的ある。頭の良い人の文章を読んでいると、読んでいる自分まで頭が良くなったような気がする--この人の文章は、そんな徳をそなえている。

本書には、他にも学べる点が非常に多い。たとえば『トランザクティブ・メモリー』の概念を、わたしは初めて知った。「組織の記憶力に重要なことは、組織全体が何を覚えているかではなく、組織の各メンバーが他のメンバーの“誰が何を知っているか”を知っておくことである、というものなのです。」(p.90)--つまり、組織のメモリーとは、メタ・メモリーの形にしておく方が効率がいいらしい。

あるいは、ウォルマートの販売予測戦略である。「ウォルマートは郊外を中心に出店を進めて他社との競争避けていました。さらに"Everyday low prices"の印象を消費者に与えることで広告費を抑え、販促活動を減らして売り上げ変動を減らし」た。でも、それだけではない。「その結果ITシステムを使っての販売予測をより正確にする効果もありました」(p.121)。さすがである。くやしいくらい頭が良い経営だ。

日本と国民性が1番近いのはポーランドだ、という発見もあった。「ホフステッドは(多国籍企業IBMの従業員11万人の分析を通じて)国民性という概念が4つの次元からなることを明らかにしました」(p190)。その4つとは、

(1) 個人主義か集団主義かを表す指標
(2) 権力に不平等があることを受け入れているかという指標
(3) 不確実性を避けがちな傾向があるかという指標
(4) 競争や自己主張を重んじる「男らしさ」で特徴づけられるかという指標

である。その結果、国民性の近さを数値的に計算できるようになったのだが、著者の計算によると「日本と国民性がいちばん近いのはハンガリーとポーランドです。東ヨーロッパのニカ国が日本と近い国民性を持っている、というのはなかなか面白い結果と言えます」(p.194)。なんとなく半信半疑に思えるが、データがすべて公開されているから、きちんと議論が成り立つ。これが居酒屋風感覚論との相違である。

とはいえ、現代の最先端の経営学が、キレイな理論構築とその統計的実証にあまりにも傾きすぎている問題点も、著者は指摘している。それは、主流のアカデミック・ジャーナルへの発表論文数で競争し続ける、経営学者たちの陥るバイアスである。理論的根拠が不明だが、実務上は意味のある統計や、個別のケースに深く入り込んだ事例研究が、評価されにくい。本来、実学であるべき経営学が、あまりに強い科学志向のために歪んでいるのだ。

もう一つ、問題がある。著者は、企業をその保有する資源の観点で分析評価するResource-based viewについて、J・バーニーの有名なテーゼを紹介する:
「(1) 企業の経営資源に価値(value)がありそれが希少なとき、その企業は競争優位を獲得する。
 (2) そのリソースが、他社には模倣不可能で、またそれを代替するようなものがないとき、その企業は持続的な競争有用獲得する。」 (p.291)

この文章、読んですぐおかしいと思わないだろうか? 競争優位は、たしかに継続的な利益やシェアなどの指標で測ることができる。しかし、経営資源の『価値』とは、どういう意味なのか。それが稀少だったら、その価値は誰がどう決めるのか。

ここで問題となっている資源とは、労働市場で一山いくらで買える我々エンジニア(笑)や工場労働者たちのことではない。組織の中に知識や技術とともに蓄積体現されている、能力や商権のことだ。それは滅多に売りに出されない(だって稀少だから)。たとえば「モナ・リザ」や「ゲルニカ」は貴重で価値が高い絵画だが、もはや値段などつけられないし、つける意味もない。ピラミッドその他の世界遺産だって同じだ。稀少なものほど、価値は市場価格から別次元のものになっていく。

それなのに、著者を含む大多数の経営学者たちはバーニーの命題を支持し、あまつさえビジネススクールで教えもした。そして2001年のプリムらによる、「バーニーの命題は実は何も言っておらず、同義反復にひとしい」との批判で、はじめて問題点に気がついたらしい。だとしたら、経営学は「価値」Valueという言葉を、論証不要な自明な概念と信じていたことになる。ちょうどマッキンゼーのコンサルタントが、二言目には呪文のように「バリューを出す」とつぶやくのと同じで、価値が「お金」や「成果」にあまりにも近すぎるため、その概念を掘り下げるのを忘れていたらしい。

誰もがその概念をよく知っていると信じている、しかしそれを正確に説明しろと言われるとできなくなる--社会構築論Social Constructivismの立場の研究者なら、“それは実体概念ではなく、社会的な必要が作り上げた幻想ではないか”と疑うだろう。ちょうど「リーダーシップ」などと同じように(「リーダーシップを浪費する組織」に書いたマインドルの研究を参照のこと)。そうした観点からいうと、現代アメリカの経営学は、ちょっとだけナイーブに過ぎるように思われる。

そもそも、本書のタイトルは「世界の経営学者は」となっているが、実際に紹介されているのはほとんどがアメリカでの研究の話題だ。たしかにアメリカが世界の経営学をリードしていることは、紛れもない事実だろう。だが、アメリカだけが世界ではない。欧州にもそれなりにマネジメント研究が存在し、しかも各国別に個性があるのだ。(もちろん、著者もそんなことは承知で、しかし出版社がタイトルを決めた可能性はある)

とはいえ、論文の出典もすべて正確に記載し、かつ非常に広範な文献雑誌をカバーしたレビューになっている点は、とても立派である。文章も、とてもわかりやすい。学術的内容にもかかわらず「ですます調」で書いていることも美点の一つだ。初心者向けのためかリアル・オプションや複雑性について短絡的な記述が目につく所はあるが、全体としてこうした本は、これまでほとんど我が国ではなかったように思う。

部外者であるわたしの勝手な印象論でいくと、日本の経営学は、昔はもっぱら欧米の学問の輸入代理業者だった。しかし、その輸入は'80年代の「日本型経営」礼賛時代に入ると、急速に減ってしまったらしい(しかもその「日本型経営」たるや、企業の現場から生まれてきたもので、日本の経営学が指導して生み出したものではなかった点が皮肉だ)。その後の長引く不況で、大学の経営学の威信は傷ついた。自説を海外に積極的に輸出している学者も、いないわけではないが多くはなさそうだ。つまり、残念ながら日本の経営学はひどく内向きになっているように見える。

そのような内向きスタンスを破るためにも、また現代の経営問題に対し、知的にラディカルにタックルするためにも、著者のような高いレベルの仕事がもっと増えることを期待する。経営論に興味のある読者に、強くお薦めする。
# by Tomoichi_Sato | 2013-06-09 16:38 | 書評 | Comments(1)

それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?

東大で大学院生にプロジェクト・マネジメントを教えていたら、「自分は計画を立てるのが元々あまり上手ではないが、どうしたらいいでしょうか」という質問を受けた。プロジェクト計画の立案、とくにその中心になるWBSの作り方について説明し、二人一組でちょっとした演習をした後のことだ。WBSを作るだけなら誰にでもできるが、良いWBSを作るのは、案外難しい--そういう話をしたら、出てきた質問だった。

秀才タイプの人は、自分の弱点を人前にさらすのをきらう。だから逆に、この率直な質問には好感がもてた。わたしは学生にこう聞いてみた。
--失礼だけど、あなたは英語の会話は得意ですか?
相手はちょっと質問の論点から外れたことに戸惑ったようだが、答えた。
「えっと・・、いや、苦手です。」

--じゃあ、得意になるためにはどうしたらいいと思いますか。
「うーんと。やっぱりたくさん練習するしかない、ですか?」
--そう。それはたしかに答えの一部だけれど、全部じゃない。自分が何かを得意になるためには、どうしたらいいか? 大事なことは三つあるんです。
「三つですか。」
--うん。まず、良い先生を見つけること。ね? いい師匠がいないとつらいよね。
「はい。」

--でも、師匠がすぐには見つからない時もある。その時は、誰か手本になる人を見つけましょう。先輩とか、ライバルでもいいから。とにかく、その人みたいに上手になりたいと感じる人を見つけて、真似たり盗んだりすること。『ベンチマーキング』とも言います。これが第一点。
 二番目は、きちんと原理や方法論について学ぶこと。これは座学でもいいし、本を読んでもいい。これをしないと、とっても効率がわるい。
 そして三番目が、あなたの言ったように、繰り返し練習することだ。能力を身につけて、上手になるためには、この三つがどれも必要なんです。まあ、この中の一つか二つだけで、上手になれる人もたまにはいるけれど、その人は生まれつきセンスが良かったということです。あなたがもし「計画が苦手」と感じているんなら、センスだけでは切り抜けられないんでしょう。

まとめると、こういうことになります:
(1) 良い先生か、手本になる先輩(ベンチマーク)をみつける
(2) 原理と方法について学ぶ
(3) 繰り返し練習する
これはどんな能力を身につける時でも共通だから、覚えておいてください。そしてこの授業は、まずは原理や方法を皆さんに伝えるためにやっているわけなんです。・・・


よく世間で、「あの人は出来る、能力がある」というとき、それが知識のことを言っているのか、スキルを指しているのか、それとも資質なのか、わたしはいつも考えてみる。たいていのことはこの三つのコンビネーションであるが、その比率がどれくらいなのか。たとえば『リーダーシップ』という能力がある。これは知識なのかスキルなのか資質なのか。

ある能力が、知識・スキル・資質の三種類のどこに重心があるかを知りたいときは、その能力をどんな方法で身につけ、またどうやって評価し測るべきかを、考えてみるとわかる。

・知識ならば座学で学べ、ペーパーテストで測れる。
・スキルならば師匠について繰り返し練習することで身につき(上で述べたように座学で促進できる部分はある)、ポイントをしぼった実技テストで測れる。
・資質だと持って生まれるしかなく、パフォーマンス全体の結果から想像するしかない。

たとえば先日、書評で紹介した「採用基準」の著者・伊賀康代氏によれば、リーダーシップは訓練によって向上することができる、という。だとすれば伊賀さんはリーダーシップが単なる資質や知識だけでなく、スキルの面が強いと主張しているわけだ。これに同意しない人も、もちろんいるだろう。リーダーとは生まれつくもの、という信念の人や、リーダーシップに関するもろもろの教科書の著者などだ。

米PMIが主催するProject Management Professional (PMP)の資格はどうか。わたしも持っているが、これはパソコンの画面からひたすら四択問題を選んでいく試験であった。受験のためには実務経験を示す経歴書が求められるが、PMIは実際には知識を問うているわけだ。とすると、(まさかとは思うけれど)マネジメント能力の主要な部分は知識である、と米国人は考えている、のだろうか?

司法試験はどうか。あれはペーパーテストである。実技試験はない(と思う)。無論そのあとで司法研修所に通う仕組みだが、ここの実技テストで落とされて法律家になれなかった、という例を聞いた覚えがない。上級国家公務員は? あれもペーパーテストだ。とするとこの国では、少なくとも法学部を出て要職に就くような人の能力は、知識で代表されると信じているわけだ。いや、そもそも大学入学自体が、かなりの程度ペーパーテストで決まる。

それで思い出したが、イタリアから来た留学生の話だと、ヨーロッパの国々では、大学における学科試験(卒業試験を含む)は教官たちによる口頭試問が主体なのだそうだ。いわば面接形式による実技テストである。つまり、彼らは(どこまで普遍的に言えるのかは知らないが)大学教育で身につける能力はスキルである、と伝統的に考えているらしい。そう言われてみると、たしかに博士の学位取得審査は、日本でも米国でも口頭試問である。研究者として一人前の能力とは、さすがに身についたスキルであるべし、と思われているのだろう。学位審査は英語ではDefense(防御)といい、審査員がいろいろな角度から攻め込んでくる質問をはっしと受け止めて、切り結ばなければならない。

ただし、口頭試問や実技テストには、手間がかかって非効率だという制約がある。このためマスプロ(大量生産)方式には向かない。大勢の能力を一斉に測るには、ペーパーテストが一番経済的なのである。だから大企業の採用などでも、最初にペーパーでふるいにかけてから、面接を行うところが多い。それも、コンサルティング会社の「ケース面接」のような実技テスト的な面接ではなく、単純なQ&Aが主体である。

わたし自身は、多くの能力は先天的な資質よりも、後天的に身につくスキルのウェイトが大きい、と信じる傾向が強い。そしてスキルは、最初に述べたように (1)良い手本と (2)座学と (3) 繰り返し練習によって身につくものだと考えている。ちなみに、同じスキルの中でも知識のウェイトが大きいものを「ハードスキル」、修練と反射神経化が大事なものを「ソフトスキル」と呼ぶ。しかし、世の中には、能力の主要な部分は資質である、と考える人も非常に多い。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という風に。

たしかに、たとえば芸術家だとかトップ・アスリートとかいった人たちの能力については、資質が何よりも必須な要件だろう。これら職種のコーチやスカウトに携わる人がそう主張するのは、よく分かる。しかし、それは同時代に数人しかいない、高き山の頂点に輝く人の話だろう。わたしが考えるのはむしろ、何万人もいるような職種、山の中腹に位置するクラスの能力だ。同時代の社会の働きを実際に支えているのは、このクラスの仕事ぶりなのである。99点か100点かを争う天才たちではなく、70点台前半のレベルをなんとか後半に近づけないかと努力しているのが、わたし(たち)自身の実像ではないか。

もちろん、人間には生まれついた資質の方向性、ないし適性というものがある。ただ、幸いなことに、能力の種類も、社会のニーズにしたがって非常に豊富に存在するのだ。そしてこの適性というやつは、“試しにちょっと体験してみないと、自分ではなかなか気がつかない”ものなのだ。試さないと、気がつきにくい。だが気がつけば、伸ばすことも可能になる。この、ちょこっとした『お試し』は、若くて自由なときでないと、社会が与えにくいものだ。だからわたしは、全員がプロマネになる訳でもないことを知りつつ、プロジェクト・マネジメントの講義を大学生相手にしているのである。

関連エントリ
→「書評: 「採用基準」 伊賀泰代」 http://brevis.exblog.jp/20469756/
→「プロマネのハードスキルとソフトスキル」 http://brevis.exblog.jp/5669403/
# by Tomoichi_Sato | 2013-06-02 20:32 | 考えるヒント | Comments(3)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(6/17) 開催のお知らせ

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」 は、小生が主査を務めるオープンな研究会です。スケジューリング学会の下に位置していますが、学会員でなくても、どなたでも自由に参加できます。

ご承知のとおり、企業や市場などを分析評価するプロフェッショナルを『アナリスト』と呼びます。プロジェクトと、その上位概念であるプログラムに対しても、アナリストの職能を確立する必要があると考え、ほぼ二ヶ月に1回のペースで研究会活動を続けています。

今月は外部講師として、東京大学の川島博之先生をお招きし、講演をしていただきます。川島先生は、東大の国際環境経済学の専門家としてご活躍中ですが、 また最近では、数々のベストセラー著作を発表し、アカデミアの外からも注目を集めておられます。

『食糧危機』をあおってはいけない 」(文芸春秋)
農民国家・中国の限界 ―システム分析で読み解く未来」(東洋経済新報社)
『作りすぎ』が日本の農業をダメにする」 (日本経済新聞出版)
『戦略』決定の方法  ビジネス・シミュレーションの活かし方」 (朝日新聞出版)

本講演では、プロジェクトマネジメントにとってもっとも重要な戦略決定について、 システム分析の観点からお話をうかがう予定です。どうぞご期待ください。
参加費は無料です。

===============================================
<記>

日時: 6月17日(月) 18:30-20:00
場所: 慶應義塾大学 三田キャンパス、旧図書館・2F小会議室
    〒108-8345 東京都港区三田2-15-45
    http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
    キャンパスマップの【2】です。

タイトル: 「『戦略決定の方法』 ビジネスシミュレーションの生かし方

講師: 東京大学  川島博之 准教授

内容:

協調を旨とする日本人のものの考え方や組織の在り方は戦略的ではない。 協調に重点を置いているために時代な流れに適合している時は大きな力を発揮するが、 一度流れから外れると、方向を変えることが苦手である。 本講演では、ビジネスシミュレーションを生かした戦略決定の考え方について解説する。

参加費用: 無料。
    ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、
    学会の入会金(\1,000)は免除されます。

===============================================
参加を希望される方は、人数確認のため、 できれば当日までに研究部会主査にご連絡ください。
よろしくお願いいたします。

研究部会 主査  佐藤知一(日揮株式会社)
# by Tomoichi_Sato | 2013-05-29 18:32 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

オークション理論と「勝者の呪い」

ミクロ経済学の一分野に「オークション理論」と呼ばれる研究領域がある。広義のゲーム理論に属し、最近注目度の高まっている分野だ。わたしが主査を務めるスケジューリング学会の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」でも、昨年夏に政策研究大学院大学の安田洋祐先生を招いて、講演していただいた。ところで、わたしが前回書いた入札は、ある意味でオークションの一種である。では、オークション理論とは何なのか、昨年の講義録などを紐解きながら、ちょっと勉強してみよう。

オークションというと、英国のサザビーズやクリスティーズなど、美術品の競売がすぐ連想される。参加者同士が、互いに値をつりあげていき、最後に残った者が(つまり最高値をつけた者が)その品物を落札することができる。格式ばっていて、派手であり、かつ競り合いの様子がその場で見える。ちょっとした見ものである。

ところで、同じ公開の場でのオークションで、かつ最高値をつけた者が落札する仕組みなのに、まったく逆のプロセスをたどる方式もある。つまり、売り手である主催者が、最初に高い値段を設定する。そして、それを少しずつ下げて行く。最初に手をあげてその価格に合意した参加者が、落札できる。オランダで発達した方法で、日本でも花き市場などで採用されている。オランダ生まれなので、これを、「ダッチ・オークション」と呼ぶ。そして英国流の競り上げ方式を、「イングリッシュ・オークション」と呼んで区別する。

さて、我々が普通ビジネスの世界で行う入札は、こんな人前でのオープンな競り合いはしない。価格と、様々な条件を書いた見積書を、(ライバルに覗き見られないよう)封書にして提出する。クローズドな条件下での競争だ。それも、一度提出した価格は勝手に変えることはできない。こうした方式を、「封印入札」とよぶ。そして、販売入札では最高価格をつけた者が落札できる(なお、工事入札では主催者側が買い手だから、逆に最低価格をつけた者が落札する)。

さらに、この封印入札にも変種がある。それは、一番良い価格を提示した者が勝つのだが、その時の2番目の価格でそれを売買する、という仕組みだ。切手売買の世界などで行われてきたらしい。一見、奇妙な方式だが、たとえば「1円入札」などの弊害を防ぐことができる。1円入札とは、売値わずか1円の見積で応札するやり方で、もちろん採算などあうはずはない。だが、どうしてもその仕事をとりたい、メンツをかけてでもライバルを妨害したい、という業者が行う、イレギュラーな行為だ。1円という価格が「前例」になったり、無理な受注で遂行が破綻しかけたり、現実には多くの不都合が生じる。2位価格なら、こうした問題を多少は防ぐ事ができる。

オークション理論の創始者であるヴィックリーは、この2位価格入札に、新しい生命を吹き込んだ。これこそ理論的に最も美しく合理的な競争方式だ、というのである。絵画などの競売では、品物の「価値」は参加者各人が、自由に、自分の価値観のみに照らして決めることができる。ところで、2位価格入札においては、入札者は自分の感じる価値を、そのまま提示価格とするのが最適戦略になることを、彼は数学的に示した。

それだけではない。ヴィックリーは、この2位価格封印入札と、イングリッシュ・オークションが実は戦略的に等価であり、また逆に通常の1位価格封印入札とダッチ・オークションが等価であることを明らかにした。

2位価格封印入札と、イングリッシュ・オークションが等価だというのは、ちょっと奇妙な気がするが、これは落ち着いて考えてみると分かるはずだ。ある美術品を、自分は1億円の価値があると感じ、ライバルは9,000万円だと思っている。他の参加者はもっと低い値打ちしか見ていない。このとき、ササビーズのオークションなら、順に値をせり上げていって、8千万円台の後半で、ライバル以外の競争相手は黙って降りてしまうだろう。ライバルは9,000万円で声をかける。このとき、自分は1億、と正直に言う必要はない。相手より少しでも高い、9,100万円の値を出せば、もう相手に勝のだ。だから、競り上げ式競売では、実は参加者の中の第2位価格が、事実上の落札価格になる。

そして、この2位価格封印入札では、入札者は自分の感じる価値を提示価格とするのが最適戦略(ナッシュ均衡)になる、というのがヴィックリーの発見だ。これは、数学的には非常に美しい性質であり、多くの研究者を引きつけた。ヴィックリーはさらに、競争者が多ければ一位価格オークションも二位価格オークションも、売り手にとっては期待収入が同じになるという「収入同値定理」を証明して、後にノーベル経済学賞を受賞する。余談だが、彼は受賞のニュースを聞いた3日後に亡くなるが、「ビックリーして死んじゃいました」というのが日本の研究者でつぶやかれているジョークだそうだ(^^;)。

オークション理論はこの後、“どんな方式をとれば主催者側の利益が最大化するのか”(とくに複数の財を同時に扱うとき)という『制度設計』の方向に向かう。これは'90年代の米国で、周波数帯など公共財の入札方式に応用されて、大きな社会的価値を生む。またヴィックリーお勧めの2位価格入札は、2000年代の初めに、ネットオークション世界最大手のeBayや、世界最大の広告業者であるGoogleの広告オークションAdWordsなどに採用されて、ネットの分野で次第に広まっていく。

ところで、わたしのような受注ビジネスに関わっている人間にとっては、主催者側の制度よりも、入札者側の戦略の方に興味がある。2位価格入札では、「自分の感じる価値」をそのままオファーすることが最適戦略だと、理論は告げる(1位価格入札では少し安めが最適になる)。ところが、これには前提があって、美術品や切手のように、買い手が自分で、他人とは関係なく、純粋に『価値』を決められること、との条件がついている。私的価値(Private Value)と呼ばれる条件である。

しかし工事入札などは、そうではない。どこかに真の評価額があるのだが、見積の誤差のために、参加者は正確にはそれを決められない。とはいえ、対等な能力を持つ参加者同士では似た評価をするわけだ(このような条件を『共通価値』Common Valueという)。おまけに、それ以上は赤字になる原価ラインがあるから、ナイーブに値引きすると、落札した後で後悔することになる。これを『勝者の呪い』と呼ぶ。それを避けたい者は、逆に消極的な入札をして、あまり値引きをしなくなる。というわけで、主催者側から見ても、競争が売り手の利益には必ずしも貢献しないことになる。

この『共通価値』の条件下では、数学的な扱いがかなり面倒になるため、理論解析はあまり進んでいないようだ。そこでわたしも微力ながら、この問題について少し検討してみた。見積誤差がある時には、真っ正直な入札者だけの競争でも、安めの落札価格となって、一種の「勝者の呪い」が生じることを、前回示した(『競争入札における見積精度とコスト超過のこまった関係』2013/05/19)。

では、入札の競争相手が真っ正直であるとき、自分はどのような値引き戦略が最適になるのか。見積精度を±5%(AACE Class 2)とし、通常の利益マージンを10%とした場合、計算手順は省略して結論だけを述べると、入札者が2社の場合、利益の期待値はおよそ6%となる。3社相見積もりの環境では、通常の見積よりも4%ほど出精値引きして応札するのが最適であるが、その時の利益期待値は約5%にすぎない。利益が5%といっても、そもそも見積精度が±5%なのである。最初からぎりぎり塀の上を歩いているようなものだ。しかもこれは、「相手は正直者」という前提での計算である。相手も同じように値引きを書けてくる場合、最適価格はさらにこれを下回るのは明らかである。

となると、結論は明白だ。単なる値引き合戦は無益だから、価格だけの勝負の場に引きずり込まれてはいけない--これが大原則である。もし、それがどうしても避けられないなら、どうするか。さらなるコストダウンを追求する? でも、それは競争相手もやっていることだ。そもそも、購入材料費も人件費も相場というものがある。

だとしたら、とるべき方策の一つは、外部調達の比率を下げて、内製化率を上げることだろう。スループットを上げる、と言いかえてもいい。そうすれば、一つには、見積精度を上げることができる(毎回外から買うからコストが読めなくなるのだ)。また、価格変動リスクへの耐性を強めることができる。無論、すべて外注化して、競わせれば安くなるはずだ、という従来の常識の逆を行くことになる。でも、それも当然なのだ。薄利の世界で無理に競わせれば、相手を破壊するだけだというのが、上で見た理論の結果なのだから。
# by Tomoichi_Sato | 2013-05-26 19:30 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)