「データで読み解く中国経済―やがて中国の失速がはじまる」 Amazon honto 社会にとって経済成長とか経済発展とは、どういうプロセスなのだろうか。そのことを時々考えている。そういうことを考えるのは、本来、経済学の仕事だろう。だが、この10年間ほど、経済学が人々からその信用を失った事はなかった、と感じる。 なるほど、今でもエコノミストや経済学者は、論壇で活躍し、国の舵取りの指南をしている。でも、その結果、わたし達の社会は10年前に比べて、豊かになっただろうか。豊かさの方向に向かって、波しぶきを切って進んでいるだろうか。今ほど、わたし達の社会が、経済に関して自信喪失に陥った時期は無いのではないか。 本書の著者・川島博之氏は東大農学部の先生である(本書執筆当時)。もともとの専門は化学工学で、工学博士の学位を環境工学の研究で得られた。専門はシステム分析、特に農業生産に関するシステム分析的な研究で知られる。経済学者ではない。 そして本書の出版は、2012年11月。今から10年以上前の本だ。ちなみに本書の帯には、「中国は『失われた20年』へ突入した!」との煽り文句が、出版社によって描かれている。とりあえず今までのところ、この予言はあまり当たっていないように思われる。 だとしたら、今、この本を読むのはなぜか。そして書評に書き、読者諸賢にも、手に取って見ることをお勧めする理由は何だろうか? 答えは簡単だ。ここには普通の経済学者がやらない、経済成長に関するシステム工学的な分析が描かれているからだ。それも手に入りにくい、かつ信頼性に乏しいデータをもとに、いかに複雑な対象のシステムをモデリングしていくかについて、誠実かつ克明に記されている。この点が、本書の最大の価値である。 ただし、ほとんどの読者は、この本を「中国論」の文脈で読むだろう。そして著者もそういう意図で書いている。今や中国を理解せずに、現代世界の動きを理解することはできない。だが「中国の理解」と言う時、これまでのほとんどの論者は、自分の得意とする分野や視点に限り、定性的に論じることがほとんどだった。中国政府が公開する統計データが信頼に足りないことも、大きな一因だ。それ故、多くの論者たちは、中国に対する自分たちの価値観や願望やら敵意をもとに、議論の弱さを補強してきた。 しかし著者の川島氏は、あえてその方法をとらず、手に入り得る限りのデータをもとに、極めて多角的・多面的な分析を加えることで、立体的な中国像を描こうと努力している。 その真骨頂は、第2章の、エネルギー消費量から始まる各種統計数字の分析である。90年代後半から2000年にかけての、中国のエネルギー消費量の数字には不自然な点がある。そこで一人当たりのエネルギー消費や、経済のエネルギー効率(石油換算1トンのエネルギーを使用して生産できるGDP)などのグラフを作って国際比較を行い、中国の石炭依存と、朱鎔基の国営工場改革から、実像を割り出していく。 また、農業生産額・工業生産額やサービス生産額がGDPに占める割合と、一人当たりGDPの関係を他国と比較し、開発途上国としての中国における一人当たり農業生産が、都市住民に比べて、12.3%程度にしかならないことを指摘する。これはこの後の本書の論点に対する、重要なフックになっている。 さらに、政府支出額がGDPに占める割合の分析から、社会主義国であるにもかかわらず、中国は大きな政府とは言えないことも指摘する。ただ、GDPに占める消費と投資の比率では、中国は44%が投資によっており、突出して高い比率であることを示している。「日本の高度成長も投資によって牽引されたものであったが、1970年頃になると低下し始めている。それに比べると、中国の投資の割合は高い水準を維持しており、(中略)奇跡の成長の秘密はここにあるようだ」(P.99) 続く第3章では、著者は「中国統計年間」のデータをもとに、成長から取り残される農村社会について、いろいろな角度から分析する。周知の通り、中国の戸籍制度(「戸口」)は、都市戸籍と農村戸籍に分けられている。「農村戸籍の人は、年金制度や医療保険において、都市戸籍を持つ人よりも著しく不利になっている。」(p.109)。年金もなく、医療保険についても差別される。「都市に出た農民工が都市で、農民戸籍の女性と結婚しても、生まれた子供は農民戸籍になってしまい、都市の学校に通わせることができない」(p.109)。そのかわり、農民に対する農業収入には税金が課されない訳だが。 中国における工業の発展と、農村生活が決して豊かとは言えないことから、農村から都市への人口流入が大きく続くことが見て取れる。では、その人達への住宅供給は、誰が行うのか? 「中国の土地は公有制になっている。個人や企業が土地を所有することはできない。農地は多くの場合、村が所有している。農民は村から農地を借りて耕作を行う」(P.165)。ここに、もう一つのポイントがある。 日中戦争の末期、日本軍が大陸から敗退し、「共産党は延安を根拠地にして、解放区と呼ばれる支配地域を少しずつ広げていった。解放区において、地主から土地を取り上げて、小作人に分配したのだが、このことは共産党が中華人民共和国を建国する上で、極めて重要な役割をになった」(P.167) 何億人もの人口が農村から都市に流入する。その際の都市のインフラや住宅は、誰がどのように投資し供給してきたのか。それをコントロールしてきたのは、地方の共産党幹部であった。著者は土地開発公社が、100ヘクタール程度の都市近郊住宅造成の開発を行う場合の、不動産価格等の分析を行って、ほとんどタダ同然の値段で手に入れた農地が、1500億円相当の儲けを生み出すと推算している。ブルームバーグが推定する中国の裏マネーの総額は、この土地取引に関わる金額とほぼ同額になる。 農業中心の社会が、近代化とともに、工業中心の社会に変わっていく時、農村から都市への大きな人口流動がある。そしてそれに伴って、鉄道、港湾、道路、河川等のインフラの整備が必要になる。教育、医療、スポーツなどのサービス施設も必要だ。それは高度成長期の日本でも求められたことだ。 こうした実物資産、言い換えると社会資本がビルドアップしていく時、そこに経済価値が生まれる。このプロセスを整合性を持って進められるかどうか、また意思決定に透明性を持てるかどうかが、社会の成長や発展にとって致命的に重要になるのだろう。 本来、これはまさに「プログラム・マネジメント」の領域である。そして、経済政策・産業育成政策は、投資プロジェクトのポートフォリオと、産業連関と、その効果測定によって計画され、コントロールされるべきなのだ。だが、これが一部の権力を持った政治家と開発業者たちの、私的な利潤追求の物語にすり変わってしまいがちなのが、現代社会の病根だろう。そうした権力者たちは、経済政策と言われると、不動産開発やイベントしか思い付かない、思考の欠乏症に陥りがちだ。 本書の最後の部分は、中国における土地インフラ開発による経済成長が、ある種の踊り場にたどり着き、不動産のバブル崩壊が始まっていることから、中国の経済停滞が起きるだろうとの予測に紙数が使われている。ただし、中国共産党の支配体制は、そう簡単には崩壊しないと著者は予測する。 「地方政府が農地の転用に際して、不当に手に入れた資金が奇跡の成長の原動力であった。しかしそれによる成長は行き詰まりつつある。それがバブル崩壊を引き起こしている」(p.301)――これが本書の基調をなす論点だ。 しかし現実を見ると、著者が予言したような中国経済の失速は、あまり劇的な形では起きてこなかったように思う。コロナ禍による経済停滞はあったが、それは中国だけの現象ではない。 このことは、システム分析による予測のある種の難しさを示している。システムがビルドアップしていくときは、比較的予測がしやすい。順々に発展していくからだ。ところがシステムの崩壊現象は、何らかのきっかけで短期間に突然起こる。こちらは具体的にいつ、どこが崩れるかを、正確に予測する事は難しい。ちょうどテーブルに荷重をどんどんかけていった場合に、いつどこの脚が重みで座屈するかを予測するのが難しいのに似ている。 川島氏は、本書のいわば続編として、2015年に「データで読み解く中国の未来―中国脅威論は本当か」https://amzn.to/45LUSVC も出版しておられる(こちらは未読)。これもデータに基づくシステム分析のアプローチを展開しているようだ。川島氏には、わたしが主宰する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」でも、ずいぶん以前だが、一度講演をお願いしたこともある。その時のテーマは文字通り、『システム分析』であって、著書「戦略決定の方法」https://amzn.to/3PdBQ4X で展開された方法論を解説いただいた。 システム分析とかシステム・アナリストといった職種・専門分野を名乗る人は多い。しかし、そのほとんどがIT分野における業務プロセスの分析とかITシステム要件の定義の仕事である。複雑でわかりにくい対象をモデリングし、価値観をもとにどのようなアプローチの戦略を立てるか、といった問題を論じられる人は少ない。まして、それをプログラム・マネジメントの視点に立脚して構築できる人は、ほとんど皆無に近い。 だが、エコノミストの職分を含めて、私たちの社会で本当に必要とされるのは、結局のところ、そういった専門家=本当のシステム分析家ではないだろうか? <関連エントリ> 「書評:「『戦略』決定の方法 〜ビジネス・シミュレーションの活かし方」 川島博之・著」 https://brevis.exblog.jp/22891611/ (2015-03-19) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-08-27 19:04
| 書評
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プロジェクト・マネジメントの研修と言うと、読者諸賢はどんなイメージをもたれるだろうか? 大学の授業やネット配信の教育コンテンツのような、座学と確認テストを組み合わせた形のものだろうか。それともテーブルを囲んでグループでにぎやかに議論したり、イメージ図を書いたりするようなタイプだろうか。あるいは、合宿形式の新兵訓練トレーニングのような、肉体的にハードな管理職強化訓練プログラムだろうか。 それは研修に何を求めるかによって、異なるはずだ。知識伝達型の座学は、資格試験の合格を目指すケースに多い。資格制度ではなくても、社内や業界内で確立されたプロジェクト・マネジメントの手順や書式について、伝授するような目的にフィットしている。 テーブルを囲んで議論するグループ演習タイプの研修は、 もう少しソフトで不定形な、 もやっとした種類のプロジェクトを、どうやって乗り切るかが主題になる。テーマは、デザイン思考だったり、ステークホルダー対応だったり、リスク対策だったり、あるいは部下の使い方一般に関することだったりする。新兵訓練型トレーニングは、PM界では最近ほとんど見かけないので、略そう。 ちなみに、座学で伝達可能な情報や技法を中心としたスキルを「ハード・スキル」と呼び、 創発的でやや定性的な問題解決などの能力を「ソフト・スキル」と呼ぶ。 後者は「人間力」などと呼ばれたりもする。ハードスキルは、ペーパーテストでの評価に向いている。後者は、状況の個別性に依存する分が大きいので、ペーパーテストで判定するのは難しく、経験した時間数や年数等でおよそ推察されることが多い。 もう少し言い方を変えれば、座学による情報伝達中心の教育プログラムは、「インプット学習」のためのものだと言える。 他方、グループ編集による問題解決の研修方法は、「アウトプット学習」に向いている。 そしてインプット学習とアウトプット学習の2つは、本来上手に組み合わせて使うべきものだ。 わたしは15年ほど前から、大学でプロジェクト・マネジメントの講義をずっと続けている。法政を皮切りに、東大、静岡大学、そして筑波大学と、都合により時期や場所を変えつつ、学部や大学院で1学期単位の授業を持ってきた(他の先生と2名で分担するケースもあるが)。いずれのコースでも、全体の前半はインプット学習、後半〜最後の部分は、グループ単位でのアウトプット学習を活用している。 悩ましいのは、むしろ社会人相手の研修だ。大学生よりも、社会人の方が、ずっと研修意欲が高い。 実際のプロジェクトで苦労した経験があるだろうから、当然のことだ。しかしその代わりに、研修を受けるまとまった時間がなかなか取れない。 丸1日か、せいぜい丸2日。それが限度らしい。 だがこれでは、大学1学期分の講義を教えることはできない。PMBOK Guideが長らくカバーしてきた、10の知識エリア・5つのフェーズを、本当ならば全部触れておきたい。そうしないと、10エリアの中心に位置する「プロジェクト統合マネジメント」が、うまく理解できないからだ。そしてここがわからないと、プロジェクトで良い決断を下すことができない。 プロジェクトになぜ、「統合マネジメント」が必要なのか? それは、プロジェクトにおけるスコープやコスト、スケジュール、品質、リソース、リスクといった要素が、お互いに関係し、あるいはトレードオフを形成しているからだ。 つまり端的に言って、プロジェクトとは「システム」なのだ。システムだから、その中の1つの要素は、他とつながりあいながら機能している。ただしプロジェクトと言う名のシステムは、携帯電話や人工衛星と違って、目に見えない。アクティビティ(単位作業)のネットワークによって構成される、一過性のものだからだ。 この「システム的なプロジェクトの見方」を理解してもらうには、二つのアプローチがある。一つは、プロジェクト計画立案のステップを順次追いながら、それぞれの関係性を学ぶ方法。もう一つは、自分の目や手を動かしつつ、議論を通して、体得する方法。前者は座学セミナー的な枠組みになんとかはまる。後者は、リアルなグループ演習の方が望ましい。 わたし自身は、1日オンラインセミナー形式で前者を、そして2日間のリアルセッション形式で後者を、カリキュラム開発して提供してきた。今年も、9月28日に1日オンラインセミナーを、そして10月25日と11月3日に浜松で2日間リアルセミナーを開催することになった。 今回はまず、9月28日のお知らせをさせていただこう。浜松のセミナーについても、近々詳細が固まるはずなので、決まり次第こちらでご案内するつもりだ。 記 来る9月28日(木)に、プロジェクト・マネジメントに関する1日セミナーを行います。プロジェクト計画と遂行の基本となる、PM「7つ道具」をはじめ、プロマネが身につけるべき基本的なスキルと技術について、解説します。 オンライン形式ですが、グループ演習などもできる限り取り入れて、具体的な学びにつながるセミナーにするつもりです。遠隔地の方も参加しやすいと思いますので、ご検討ください。 「プロジェクトを成功させる実践マネジメント技法とそのポイント」(9月28日) 日時: 2023年9月28日(木) 10:30 ~ 17:30 主催: 株式会社日本テクノセンター セミナー詳細: 下記のURLをご参照ください(受講申込もここからできます) 大勢の方のご来聴をお待ちしております。 佐藤知一@日揮ホールディングス(株) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-08-20 22:26
| プロジェクト・マネジメント
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自分のプロフィールに「国内外の製造業及びエネルギー産業向けに、工場作り・生産システム構築の仕事に従事してきた」などと書いているためか、「日本の製造業は、海外に比べて特殊なのですか?」という趣旨の質問をされることが、時々ある。「なぜ日本と海外はこうも違うのでしょうか?」といった聞き方の場合もある。 こうした質問は、日本と海外で同等なはずのものが、なぜか違っていた、との事例とともに、語られることが多い。例えば、同じ企業のグループに属しながら、生産管理系のパッケージソフトを、海外工場ではノンカスタマイズでスムーズに導入できたのに、国内工場では苦労したあげく、失敗したという事例。あるいは、国際標準に従ったサプライチェーンの仕組みが、日本国内だけどうしても使えなかった事例。 さらに、国内では立派なプロジェクトマネジメントの実績を持つ会社が、海外に出て行って遂行したら、赤字や納期遅延で痛手を被ったケース、など、似たような事例は案外多い。かくして『日本特殊論』みたいな疑念が生まれてくる。それは果たして本当だろうか、という訳だ。 この種の質問に対する、わたしの答えは、イエスでもありノーでもある。海外と言う時、具体的にはどこを指すのか。一口に海外といっても、米国と欧州では事情もかなり違うし、中国、韓国、東南アジアでも状況はそれぞれ異なる。南アジアや中東のややこしさは言うまでもない。それなのに十把一絡げに、「海外はああだが、日本はこうだ」と対比して言えるのか? さらに「特殊」という言葉には、一種の価値判断的な響きがある。特殊はまずいことで、普通が良いことであるかのような。そこで、グローバル標準を背負って推進する立場の人に、「日本は特殊だ」と主張されると、なんだかお前は劣等生だ、と言われてるみたいな反発心も芽生えたりする。 一方、「特殊」という用語は、「差別化された」「専門的な」とのニュアンスで、ポジティブに使われることも多い。特殊陶業とか特殊鋼板といった言葉を含む社名は、もちろんそれなりのプライドを感じつつ選ばれたに違いない。むしろ「特別」という形容に近いのだろう。 なので、海外と比べて日本は特殊か、と問われても、わたしの答えは「場合による」となってしまう。違っている点はいろいろある。ただ、それは日本だけのことなのか、他にも同様の国はないのか、吟味が必要だ。もちろん、世界の8割がある傾向に属していて、日本が2割の側だとしたら、さすがに「日本は少数派だ」とは言えるだろうが。 それでもわたしの経験から、日本企業にかなり共通する特徴的な点を一つ、挙げることができる。それは、「自分たちの業務は特殊である」という自己認識が、非常に多い点だ。 仕事柄いろいろな企業と付き合ってきたが、どこの会社を訪れても、「ウチの業務は特殊です」「うちの業界は特殊です」という。人の命を預かる医薬品を作っているから特殊だ、爆発物や危険物を大量に扱うから特殊だ、人の口に入る食品を作っているから特殊だ・・という訳だ。 どこの会社に行っても、「うちは特殊です」と、判で押したように言われる。この点は驚くほど共通していて、普遍的である。おかしなことに、ほぼ正反対の理由でも、特殊性の説明になる。曰く、ひどく高価で少量な製品を扱うから特殊だ、ひどく安価でバルキーな商品だから特殊だ・・。そして(わたしの限られた経験ではあるが)、このような特殊性の言明を、欧米企業やアジアの企業から聞いた覚えがない。 「自分の業務は特殊だ・特別だ」という自己認識が、日本企業に限っては普遍的である。まことに奇妙なパラドックスと言わざるをえない。そして、特殊なるが故に、「自社の仕事は難しい」「他の業界や他社の事例は、参考にならない」という反応につながっていく。 この特殊性の主張は、業界や企業個社だけでなく、部門の業務に降りていっても、現れる。この部の業務は他に比べて特殊で、という枕詞が、たいていの説明の頭につく。さらに、「この業務を担えるのは⚪︎⚪︎さんだけで」との、属人的な分担にまで行き着く。これをわたしは、『特殊病』と呼ぶことにしている。 ちなみに「特殊」を表す英語は、”Special”である。もちろん欧米企業にも、specialな業務は色々ある。そして、それを担う職種は「スペシャリストSpecialist」だ。会計にも設計にも物流にも、スペシャリストがいる。彼らは、一種の敬意の対象でもある。だがそれは、彼らの仕事が属人的であることを意味しない。 むしろ、設計のスペシャリストなら、どこの会社に移っても、専門家として通用することが期待される。スペシャリストの技量は普遍的である、というのが彼らの認識であって、特殊な仕事だ、とは見なされない。この点が、日本における『特殊病』との違いだ。 『特殊病』はなぜ、立ち現れるのか。「特殊である」という説明は、日本企業や当事者にとって、どのようなメリットがあるのか? そのヒントは、先に述べた「差別化」にある。特殊な会社・特殊な業務とは、差別化された存在であることを暗示している。差別化されているが故に、他社や他の業界からは学ぶことができない、という訳だ。 もともと差別化戦略は、単純な競争を避けるための手段として、発展してきた。同じような性能・仕様での、コスト競争のガチンコ勝負を避けるため、ライバルにはない機能・特徴を加味し、それをユーザにアピールする。これが差別化だ。 差別化とはつまり、単純比較から逃れるための手段である。他業界とのベンチマーク、他社とのベンチマーク、そして他の部署や従業員との比較競争から、少しでも逃れ出るために、無意識に差別化=特殊化を選ぶ。 普遍化とか標準化という思考は、物事を定型的に比較しやすくする作用を持つ。差別化・特殊化は、それに対抗する方向性だ。つまり『特殊病』とは、比較からの無意識の逃走である。これは無意識的な傾向であって、別に業務の特殊性を、戦略として会社が意識して選んでいる訳ではない。たいていの社内業務はユーザとは無縁のところで働いており、アピールする意義もないからだ。 業務の細部が属人化していく傾向もまた、その仕事を担う個人の、ジョブ・セキュリティを守る意義がある。彼(彼女)しかできない仕事があって、それが重要なら、簡単にはクビにできないことになるからだ。「この業務は特殊」派の人々は、現場業務に現れる例外的な事象をよく知っていて、ああいう事象もある、こういう例外もある、と指摘するのが得意だ。 では、特殊病が企業にもたらす病状とは何か? こたえは簡単、「学ぶ能力の喪失」である。なにせあらゆる存在、あらゆる業務が特殊で、比較できる対象が無いのだから、外を見て学ぶことはできない。そればかりか、特殊性は新規業務や新規製品にともなっても現れるから、昔と今を単純比較することも難しくなる。つまり、製造業お得意のPDCAサイクルさえ、十分機能しにくくなっていく。「最近の状況は特殊」だからだ。 企業が学ぶ能力を喪失したら、前進していける訳がない。日本企業を覆う『特殊病』が、重大な病状であることはお分かりいただけると思う。 そしてこの『特殊病』は、ある意味、単純なグローバリズムに対峙する局面で現れやすい。グローバリズムを単純に一括りすることは難しいが、少なくともその中心に、規模拡大志向と標準化思考があることはお分かりだろう。秦の始皇帝や豊臣秀吉が、度量衡の統一を重要な施策としたのは、彼らが標準化の力をよく理解していたからだ。 現代のグローバリズムはもっとソフィスティケートされた仕組みで、標準化のローラーを世界中にかけていこうとする。そして、もちろん日本国内にも、欧米の最新の方法論を輸入して、強引に展開していこうとする人たちがいて、政財界やメディアに一定の影響力をもっている。 ここまで来ると、なんとなく、学生時代に読んだ丸山眞男『日本の思想』 における、「理論信仰と実感信仰」の議論を思い出す。丸山は日本文化における、二つの無意識的傾向を指摘する。一つは「理論=公式」に寄りかかって、万事にそれを適用しようとする、理論信仰派である。もう一つは、現実世界に対する自分の実感が全てで、それによって理論を拒絶する、実感信仰派だ。前者の方が少数だが口数は多く、後者は多数派で無言の抵抗をする。この書物は今でも必読の文献だと思う(昭和の思想史の文脈を多少知らないと読みにくいが)。 ・・さて、以上の書き方でお分かりの通り、わたし自身はどちらの側にも組みしない。グローバルな公式を無邪気に振り回す理論信仰派には共感できないが、現場業務の特殊論で身構える実感信仰派も、問題があると感じる。『特殊病』のスタンスは所詮、守りでしかなく、将来のビジョンを生みにくいからである。 特殊か普通か、個別か普遍か、といった議論は元々、相対的なものだ。それは西洋哲学を知るとよくわかる。もちろん、日本と欧米の製造業の商慣習はいろいろと異なるが、どちらが特殊でどちらが普通かといった議論よりも、経済社会という大きなシステムの中で、どれが合理的かというふうに考えるべきだと思う。 そしてわたしは、現状肯定に陥りやすい特殊性への着目よりも、より広いパースペクティブでの『抽象化』能力を育てることの方が、現代の日本企業には必要ではないかと考えている。 わたしのよく使うたとえだが、在庫理論とは業種業界を問わず普遍的で、ストックする対象がダイヤモンドであろうが、トイレットペーパーであろうが適用できる。それは在庫理論が、対象を抽象化した上で得られた、マネジメント・テクノロジーだからである。ダイヤモンドとトイレットペーパーでは、単価も、売り方も、生産技術も、なにもかも違うように思える。だが、在庫として抽象化してしまえば、共通の考え方とツールが使えるのだ。 『特殊病』が日本ではびこっているのは、経済の下降局面で守りのスタンスにいるからだろう。だが特殊化思考だけでは、未来は切り開けない。わたし達の社会の個性や伝統を生かしながらも、外に打って出られるだけのビジョンを得るには、抽象化する能力が必要なのである。 <関連エントリ> 「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/10565262/ (2009-07-06) 「必要な人はいつもたった一人しかいない」 https://brevis.exblog.jp/2916445/ (2006-03-06) 「書評:「反哲学入門」 木田元・著」 https://brevis.exblog.jp/23954340/ (2015-12-12) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-08-12 21:00
| ビジネス
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お知らせです。(財)エンジニアリング協会「 次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」 では、来る9月6日(水)に、第3回目のスマート工場技術に関するシンポジウムを開きます。 当研究会では一昨年、昨年と、「製造実行システムMES/MOM」をテーマに、オンラインシンポジウムを開催しました。おかげさまで昨年は500名を超える方に参加いただき、日本でも普及しつつあるMES/MOMについて、内外の活用事例などを学べる機会となりました。 今年は単なるMES/MOMの枠を超えて、もう少し広く工場スマート化のための技術を取り上げることにしました。そのため、テーマ設定も 『スマート製造への道のり ~ デジタル・ロボット・サプライチェーン』 と題し、MESに加えて、ロボット化や、サプライチェーンに関する最新技術に関するテーマ講演も予定しています。 工場デジタル化に向けた投資も、ようやく本格化しつつあるようです。これは平成不況以来、長らく投資不足に苦しんできた日本の製造現場にとって、朗報でしょう。しかし改革のターゲットが大きくなれば、それだけチャレンジも大きくなります。また必要な技術の範囲も広がります。全体像を理解して語れる人が、まだまだ少ない現実があります。 また欧州や米国の「スマートな」やり方を、そのまま真似ても、日本の現実にはなかなかフィットしません。道具は輸入できますが、日本流の使いこなしは、自分達で工夫しなければならないのです。というのも、工場の在り方も人の資質も、そして工場を取り巻くビジネス環境や取引慣行も、相当に異なるからです。 その一つの良い例が、需要変動と生産スケジューリングのあり方でしょう。米国やドイツの製造業は本質的に計画生産です。あらかじめ決めた通りに、モノを調達して作ります。個別製の強い受注生産でさえ極力、標準化とグループ化で乗り切ろうとします。そこでのスケジューリングは、どのような手順で作るのが一番効率的かという、いわば数学問題のような視点になります。 ところが日本では、流通業からの短納期の注文、目まぐるしく変わる需要予測、あてにならない販売計画、そして内示と乖離した実需(かんばん)などの商慣習があり、大手でさえ計画や見通しの立てにくい状況です。まして大手から「ジャスト・イン・タイム納品」を要求される中小下請けは、言わずもがな、です。ここでの問題は「乱気流のような需要変化に、どう機敏に対応するか」であって、計画変更のスピード、計画のサイクルタイム短縮に鍵がありそうです。 生産スケジューリングは一応、MES/MOMの領域に含まれますし、ERPでカバーされるケースもありますが、独立したジャンルと言っていいでしょう。幸い、日本には優れた生産スケジューラのメーカーが複数あり、PC上で軽快に動作するソフトを以前から提供してきました。 そこで今回のシンポジウムでは特に、スケジューラの二大巨頭であるアスプローバ(株)さんと、(株)フレクシェさんにお願いして、最新の技術を紹介いただきます。両社の実力と、個性の違いを楽しんでいただけると確信しています。 また、製造現場のロボット化については、日本ロボットシステムインテグレータ協会(SIer協会)を設立初期から牽引してこられた(株)ヒロテックさんの講演が、非常に参考になるでしょう。くわえて、「身の丈に合ったスマート工場への変革」の実践事例を、アイシン九州(株)さんから聞けるのも楽しみです。 そしてサプライチェーンに関しては、先月翻訳を出版したばかりの「サプライチェーン・サイエンス」(W・ホップ著、近代科学社)の監訳者である慶応大学・松川弘明教授から、入門的なレクチャーをいただきます。サプライチェーン・マネジメントには原理原則がある、などと力説しなければならないのが、日本の根性主義文化の現実なのかもしれません。ですが、それに風穴を開けるための方法論がここにあります。 なお、(紹介の順序が逆になってしまいましたが)全体シンポジウムの基調講演として、経産省製造産業局・杉原諒様から「ものづくり白書」 の概要と、スマート工場に関する国の施策をお話しいただきます(念のために書いておきますが、「ものづくり白書」って読んでみると、意外と面白いですよ!)。あわせて研究会の幹事である野村総研・藤野様とわたし自身が、3回目を迎える我々の研究会の歩みと、昨年のアンケート調査結果の紹介などを行う予定です。 局所的なスマートを積み上げても、工場全体のスマートさは得られない――わたし達の研究会は繰返し、こう主張してきました。全体を理解し、全体を構想する能力を得ること。これがわたし達に課せられた、課題です。そのためには定期的に、外部のフレッシュな情報に身をさらすのが一番です。 たまたまこの文章を書いている今、わたしは米国の巨大製造業の本社を訪れている最中ですが、DX担当役員やSCMの上級管理者の話などを聞いても、スマート製造化にマジックはない、との感を強く持ちました。資金と技術に恵まれた大企業でさえ、既存資産の伝統の重みを背負いつつ、悩みながら進んでいるのです。 本シンポジウムは今回から有償(会員企業7千円、非会員企業1万円)とさせていただきましたが、その代わり参加された方は、当研究会の「フォーラム会員」に登録いただけます。例会やプロジェクトに参加し、研究会の報告書等のアウトプットを共有することができるようになります。また希望者には、PMIが発行するPDU (Professional Development Unit)証を授与いたします。 多くの方のご来聴を願っております。 <記> 「スマート製造への道のり ~ デジタル・ロボット・サプライチェーン」 日時:2023年9月6日(水) 10:00 ~ 17:00 開催方法:ハイブリッド開催 (ただし、リアル会場は人数に限りがあります――24名・先着順。 オンラインは、とくに上限を定める予定はありません) 協賛団体ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会(RRI) 一般社団法人インダストリアルバリューチェーンイニシアティブ(IVI) 開催案内と参加申込みはこちらのページから: エンジニアリング協会HP https://www.enaa.or.jp/seminar/62702 以上、よろしくお願いいたします。 佐藤知一@日揮ホールディングス(株) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-08-05 12:14
| サプライチェーン
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生まれて初めて中東の国を訪問したのは90年代半ばのことだった。かつて「パンのみに生きるにあらず」 という記事にも書いたが、季節はまだ確か5月か6月、本当の真夏になる前だった。でも、好奇心から持っていった温度計で、ホテルの裏の路地を測ってみて、気温34度と言う数字にぶったまげた。 「なんて暑いんだ。」日本では信じられないほどの暑さだ。・・実際、その頃、関東では真夏になっても、気温が33度を超えることなど、めったになかったのだ。 暑いだけではない。ペルシャ湾(アラビア湾)に面したその国では、大気中の湿度が非常に高いのだった。これは現地に行ってみるまでわからない、意外な事実だった。砂漠の国=カラカラに乾燥した土地、と言うイメージしか持っていなかったからだ。湿度がほとんど100%なのに、半年間、一滴の雨も降らないような天候が存在するなど、誰が想像できるだろうか。 そんな気候なので、驚くような出来事に次々、出くわした。例えば日本では冬に、ガラス眼鏡をかけて外から室内に入ると、眼鏡が湿気で曇ることがある。でも、この国では夏に、メガネが曇る。エアコンの効いたホテルから眼鏡をかけて外に出ると、外の湿気で一気に曇るのだ。 ホテルの窓ガラスも結露する。ただし外側に結露するのである。中は冷房で冷えているので、外側の湿気が、ガラス表面に凝縮するからだ。だったらペルチェ効果で冷やした金属線を縦横に格子状に張り巡らせたら、空気から水だけを分離回収できるのではないか。そんな空想をしたりした。 ホテルではシャワーの水とお湯に気を付けろ、と言われた。なぜか。実は「お湯」とラベルされた蛇口から出るお湯より、「水」の温度の方が高いのだ。ほとんどの建物では、給水タンクは屋上に設置される。むき出しだから、太陽が照りつけて、簡単に60〜70度になる。ところがお湯の蛇口は、ボイラーの給水系統につながっている。ボイラー・フィードウォーターのタンクは普通、屋内に設置する。だからボイラーの「お湯」は、40度くらいで来るのである。 中東の地は、色々と生活習慣も違う。何しろ、イスラム教の国である。朝昼晩、1日5回お祈りのタイミングがあり、そのたびに各所のモスクに設置してある拡声器から、アザーンの呼び声が大音量で聞こえてくる。 お酒も基本的には許されていない。なのでいい歳をしたおっさん達が、長い昼下がりを、お茶と甘いお菓子だけで延々、おしゃべりして過ごす姿を、あちこちで見た。なんとも優雅な(いや正直、怠惰な)風景だ。だから中東社会では、糖尿病患者が非常に多い。 ただしお酒について、外国人をどう処遇するかは、国によって厳格さが異なる。当時その国では、首都の中に4カ所だけ、お酒を出すレストランないしバーが許されていた。その1つは、わたし達のホテルの中にあるレストランだった。ただし入り口の前に大きな机をデンと置いて、宗教警察の担当官が見張っている。もちろん、その国の人間が入ったりしないかチェックするためにだ。 外国人かどうか、どうやって見分けるのだろう? わたし達、日本人や韓国人なら見かけですぐわかる。欧米人もまぁ、わかりやすいだろう。だがアラブ人とパキスタン人とトルコ人を、顔つきだけできちんと見分けられるかというと、なかなか難しい。 実はアラブ人は人種的には、非常に幅のある、ある意味、ブロードな民族なのである。ほとんど白人と見紛うような人から、ブラック・アフリカに近い肌色の人まで、アラビア半島には雑居している。 でも、その国の宗教警察にとって、判断基準は簡単だった。服装でわかるのである。その国の国民は、上から下まで白いアラブ風の装束を着ている。一方、外国人は、開襟シャツやスラックスといった西洋風のカジュアルな格好をしている。これで区別するのだ。 外国人が、その国のアラブ風の民族衣装を着てはいけない、という法律があるわけではない。だが習慣として、皆そうしている。わたし達、日本人だって、わざわざ白装束に着替えて仕事をしたりはしない。 そして働いているうちに、だんだんわかってきたのだが、その国--べつに批評しようというつもりで書いているのではないから、ここでは仮に「Q国」と呼んでおく--の人口と社会構成には、際立った特徴があった。それは、住民数と国民数の違いである。 Q国の住民の数は当時、約50万人だった。ところがそのうち国民の人口は、10万人に過ぎない。つまり、5人に1人しか、Q国の国民ではないのだ。土地に住んで社会を構成している人間の8割は、外国から来ている出稼ぎの人間たちなのであった。それがどんな社会か、想像がつくだろうか? オフィスで働いている人たちは、ざっくり3階層に分かれる。一番下には、雑役、あるいは単純な事務処理的な仕事がある。こうした仕事のほとんどは、インド・パキスタン系の男性たちが受け持っていた。屋外で働く建設労働者たちなども、同様である。中東社会では、オフィスのお茶くみなども、ボーイがやる仕事なので、とにかく男性の比率が高い。 真ん中にいる階層は、エンジニアなどホワイトカラー層である。この階層はほとんどが外国人なのだった。出身国は主に、欧米だ。アジアなら、日本だったり、韓国だったりもする(当時まだ中国人エンジニアはそれほど中東に進出していなかった)。 欧米・極東と並んで、第3の勢力が、レバノンやパレスチナといった「同じアラブ圏だが、あまり石油資源に恵まれない国」から来た、エンジニアたちだった。彼らはアラブ人で、アラビア語を話していたが、白装束を着ずに、普通のオフィス風の格好をしていた。 そしてピラミッド組織の一番上に君臨するのが、Q国の国民たちである。石油資源に恵まれたQ国では、税金は全て無税だった。それどころか国民に対して、いろいろな形でかなりの金額の所得配分を行っていた。何せ地面を掘れば、石油やガスが吹き出してくるのだ。 もちろん、Q国の国民として生まれた有為の若者の中には、志を持って職人技を習得しようとしたり、エンジニアとして技量を身に付けようと留学したりする者たちもいる。でも相対的には少数派だ。何せ、中層の職種にも、下層の職種にも、外国から希望者がいくらでも押し寄せてくるのだ。放っておいても、国はお金をくれるのに、なんでわざわざ苦労して、働いたりしなければいけないのか。 働くとは、人間にとって何を意味することなのか、こういう国に行ってみるとよくわかる。お金のために働く事は、誰にとっても最低ラインである。お金がなければ生きていけない。だから皆、まず生きていくために働く。 だが、まさに、かつて「パンのみに生きるにあらず」と言う記事に書いたように、人は働くことによって、パン以上の何かを得たいと願うのだ。それはかっこよく言えば、達成感とか自己実現とか、あるいは心理学的に「承認欲求」などと呼んでも良い。自分が価値ある存在であることを、職業を通じて、他人にも自分にも示したいのだ。 ただ、そのためには大事な条件がある。それは、その人の仕事が創造的であるということだ。単に誰かの模倣だけだったら、どうして他人が感謝し称賛するだろうか。 生成型AIの話で、今や世間は持ちきりだ。何か調べてくれと頼むと、それらしい内容を、そつのない文体で書き上げてくれる。プログラミングもこなし、うまく仕込めば設計的な仕事もできそうだ。ホワイトカラーの仕事の、大きな部分を代替してくれるとも言う。戦略コンサルティングファームでは、若手中堅の仕事の大きな部分が、この生成型AIによって自動化され、置き換わるのではないかと言われている。 でもそんなこと、中東では25年も前に、とっくに実用化されていた。ただしAIではなく、外国人エンジニアという名の道具を使って、だが。 これからは単純な繰り返し労働も、人と一緒の環境で働ける「協働ロボット」が普及して、置き換わるだろうとも予測されている。すでに工場の危険作業は、それなりに工業用ロボットが担っているし、少し種類は違うが、オフィスの単純作業もRPA=Robotics Process Automationが引き受けてくれる。ロボットは24時間いつでも文句を言わず働くし、壊れたり古くなったら捨てればいいし、労働組合を結成して人権を主張したりもしない。 でも、これも中東では25年前から、外国人労働者という名の『人的ロボット』によって、とっくに実用化されていた。彼らには居住権がないから、文句を言う奴は出身国に送り返せばいい。代わりに来て働きたがる奴だって、いくらでもいるのだ。ヒト1人に対して、ロボット4人。それで社会はちゃんと成立していた。 その結果、国民達はきわめて創造的に働くようになっただろうか。この地域から、すばらしい文化や芸術、科学や技術が続々と、生まれ出ただろうか? いや、むしろ中世のアラビア科学や文学の精髄の方が、ずっと世界を驚嘆させたのではなかったか。 ロボットやAIが普及すれば、人間は今ほどあくせく働かずに暮らせるようになり、皆がもっと文化的人生を楽しめるようになる、といった未来予想は、ずっと以前から存在した。だがわたしは懐疑的だ。 まず、ロボットだとかAIソフトだとかいった道具は、値段が高い。それを所有できるのは、経営者であり資産家層である。彼らはロボットやAIを、自社の生産性向上のために活用するだろうが、それはつまり、不要になった従業員を切るという形で実現する。つまりロボットのおかげで、人間が失業するのである。 え? AIは無料じゃないか、って? それはAIベンダーが、無料で使わせてくれているからで、その代償としてユーザからインプットデータをたくさん得ているのである。自前でLLMなどを動かそうと思ったら、それなりにコストがかかるし、まして独自にLLMを開発しようと思ったら、途方も無い巨額の費用とデータセンター資源が必要になる。こういう芸当ができるのは大資本だけで、もはや天才的プログラマが個人で立ち向かえる分野ではなくなりつつある。 技術は一般に、装置や設備や道具の形に結実し、実装される。そうした高価な道具を当初、所有するのは、一般の働く人たちではなく、すでに生産資源を有する企業など大資本側である。もしもその技術が、「生産性向上」タイプの効果を生むならば(その例がロボットや生成型AIであるが)、当然ながらその果実は道具の所有者が手に入れ、無用になった人間の労働力は切られることになる。つまり、テクノロジーというのは本質的に、経済社会における格差拡大を助ける傾向があるのだ。 その技術が真の普及期に入り、誰もが(スマホのように)手に入れられるようになったら、格差拡大のパワーは弱まる。その代わり各人は、テクノロジーのおかげで手に入れた余剰の時間を、どう使うかについて、覚悟を問われる。放っておけば、余剰(余暇)時間を誰もが創造的に使うだろうと思うのは、いささか楽観的に過ぎる。それは長い午後、お茶とお菓子で延々と時間を潰していた、Q国民達の姿を思えばわかる。 テクノロジーとは、非常に社会的な存在である。技術屋はつい、これを趣味的な愛好の対象物のように捉え、投資すれば配当を期待できるように感じ、社会的コストも危険も忘れがちになる。だが、うっかり放っておけば、わたし達は怠惰に陥るか、さもなければ職も居場所も失うリスクをはらんでいるのだ。それは決して、遠く離れた中東の地だけの問題では無い。現に、我々の住む島国でも、気温35℃は全く珍しくなくなったではないか。それは、今や全地球が、中東化しつつある象徴なのである。 <関連エントリ> 「パンのみに生きるにあらず」 https://brevis.exblog.jp/11000113/ (2009-08-30) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-07-27 09:27
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