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海外プロジェクトの障壁は文化や言語ではない

銀座のカフェに座って、この文章を書きはじめている。周囲は外国人ばかりだ。耳慣れない、いろんな音声が飛び交う。みんな観光客なのだろうな。日本にようこそ、楽しんでいってもらえば幸いです・・滅多に銀座なんかに来ないわたしだが、勤め先である横浜みなとみらいでも、事情はだんだんと似てきた。


観光地のカフェで外国人旅行客に取り囲まれる事と、海外企業とのプロジェクトを進めることとに、共通点はあまりない。耳慣れない外国語の音声がときどき聞こえる、でも意味が分からないので聞き捨てにする。髪の毛や肌の色の違う人たちが、ちょっと物珍しいことで喜んだりする。そんな楽しみ方もあるのかと驚くが、自分も共感できる訳では無い。共通するのは、そんなところだろうか。


海外プロジェクトの最大の障壁は文化・風習や言語の違いである、と考える人は少なくないようだ。たとえばイスラムの国では、1日に5回お祈りをするから、仕事がしょっちゅう中断されがちだ。とか、インドでは鉄道が遅れるのは当たり前、来れば御の字で、日本のように分刻みで正確に来たりしない、とか。


さらに言えば、日本人は勤勉で真面目な人種だが、途上国はそうでもない、みたいな風説もある。だから、納期なんかいい加減で守らないんだ、とか。


ちなみに念のため言っておくと、イスラム教の礼拝には、真夜中と夜明け前と日没時が含まれるから、日中のお祈りは、昼と午後3時ごろの2回だけである。だったら日本の休憩とさほど変わらない。また納期について言えば、半導体飢饉の昨今、サプライチェーンの混乱等で、「真面目な」日本企業だって、あまり胸を張って言えた義理ではない。


交通インフラが不十分で、サプライチェーンが分断されがちな社会では、分刻みの正確なスケジュールで動くことは困難である。そのことは、終戦直後の日本人の先輩たちに聞いてみればわかる。手紙と電報と呼び出し電話しかなかった昔の日本に比べれば、スマホで連絡が取り合える現代は、はるかにマシとも言える。これは文化の問題ではないし、まして、真面目かどうかの問題でもない。


上に述べたような言い方は、そもそも、日本人から見て「遅れた」国々に対して表明されることが多い。イギリスとかドイツの企業と共同で何事かを成し遂げようとする時、英独との文化の違いをリスクとして懸念するだろうか? キリスト教社会だからとか、論理的で堅物だからとか、そうしたことをプロジェクトの困難として挙げるだろうか。相手に合わせるべきだと、きっと最初から考えるのではないか。では、なぜ途上国相手だと、相手に合わせようとしないのか。


ちなみに、わたしの勤務先では、海外プロジェクトのスタートにあたって、文化の違いが真っ先にリスク項目として上がる事は、まずない。もちろん、我々がすべての国の文化をよく知っているわけでもない。文化については(我々が受注ビジネスであるため)、お客様に合わせ、その国の文化を尊重するしかないと思っている。


しかし、それ以上に大事なことがある。それは、「ビジネスにおける企業や個人の振る舞いは、文化の差を越えて、かなり普遍的である」という認識があることだ。すなわち、予測可能性が高いのである。


どこの国・どこの文化であっても、企業は営利追求を主たる目的とする存在である。お金が儲かるか損するかという選択肢においては、儲かる方を必ず選ぶ。金銭的ペナルティーを課せられる危険性があるなら、出来る限りそれを回避する方向に動く。見つからないと思えば、ズルをするかも知れない。これは、相手が聖なる月に断食をする人々であろうが、五体投地で礼拝する人たちだろうが、変わりは無い。ビジネスとはそういうものなのだ。


だって考えてみて欲しい。あなたの仕事では、同僚や取引先相手の宗教や、政治的信条によって、ふるまい方が変わるだろうか? そんなことは、話題にもしないだろう。こうした内心の事柄については、個人差が大きい。だが内心の価値観とは独立して、ビジネスのやりとりはできる。相手がお正月の初詣に行かないからといって、約束した納期を誰が疑うだろうか。


文化とは何か。それは簡単に言うと、人間にアイデンティティを与えるものである。アイデンティティは、価値観と考え方、並びに、周囲の人々との関係性の取り方によって支えられる。3ヶ月ほど前の記事「考える技法——人間は言葉で考えるかにも書いたが、言語は人間の考え方をある程度規定するので、言語と文化には深い関係がある。また、家族や氏族制度、共同体のあり方は、人間の関係性に強く影響する。


社会は、文化を通じて、個人の価値観を同調化させようとする働きを持つ。ただし価値観それ自体は内面にあって、外からは見えない。だから社会はもっぱら、人のふるまいを外的に規制しようとする。地鎮祭に参列して頭は下げるかも知れない。だがその人が八百万の神々に深く帰依しているかは、誰にもわからない。


一方、文化と対比した言い方をするならば、文明とは人に利便を与えるものである。そしてビジネスは文明のほうに属する。食料、衣服、住居、移動手段等は、基本的に文明によってもたらされる。食べるものがなければ、人間は生きていけない。そしてこれらは皆、お金で買うことができる。だからビジネスが成立する。


ところがアイデンティティはお金で買うことができない。アイデンティティとは、その人がその人である事を保証するもの、すなわち、その人の個性や価値観だ。


無論、文化的要素を売る商売は存在する。映画や音楽、文学は買えるし、さらに法事で読むお経にだって、お布施と言う対価を支払いはする。それらは文化を支えるが、文化自体を買っているわけではない。ビジネス上の行動は、極めて普遍的だ。しかし文化は極めて個別的だ。


まあ、そうは言っても、島国に育つわたし達は、文化の違いや類型をあまり意識してこなかったのは事実だ。だから自分たち以外は、みんな違うのかと思ってしまう。でも、そこには大きなパターンがあり、それを意識しておくことは有益である。


以前、「英語と運命」という本の書評で、英語教育家の中津燎子氏による「ソフト型」「ハード型」の文化類型を紹介した。日本やタイなどはソフト型の類型に属するが、世界では少数派である。英米、中国、南アジアなどはハード型に属する。人口はこちらの方が圧倒的に多い。


ソフト型は、主張よりも妥協が美点と感じるが、ハード型は主張は常識であり、対立は喧嘩ではないと考えている。そして、お互いが相手について、どう感じているかを整理したのが、次の表である。我々はハード型のきつい主張を、「生意気に見える」と感じる。逆に彼らは、すぐ「妥協する人はごまかしている」ように見える。我々は彼らを、自分中心で冷たい、と感じる。彼らは我々について、自他の責任が不明確、と考える。


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そして最後の2行は、海外型プロジェクトの説明用に、わたしが勝手につけ加えたものだが、ソフト型では「下請け側に無限責任がある」ように相手からは見え、ハード型は「権利主張ばかりで誠意なし」と感じられる。


わたし達がビジネスを行う時、その直接の目的は利益であり、経済合理性に従う。ただし他者の行動を理解したり推測したりする際には、しばしば自分が無意識にもっているパターン=型紙に当てはめて、その動機や感情や性格を理解しようとしがちだ。とくに我々の文化は、ハイ・コンテキストな、互いに文脈や感情を共有している(はず)、と考える類型に属している。なので言語化が足りない場合が多い。


そうした不足や誤解は、海外の相手と接して初めて、自覚することになる。それも、お互いの利害がはっきり絡む場合に、強烈に出てくるものである。文化はある意味で、人間を規制するものだ。それはなんとか、社会を協調的に保とうと働く。だから海外旅行をしたって、異文化は表層しか分からない。利害の絡むプロジェクトを一緒にやってみて、はじめて相手との本当の付き合い方が分かる。


海外プロジェクトの障壁は文化や言語ではない。所詮よく知らない相手と、ビジネスをせざるを得ないことなのだ。それは言語化をあまり意識して行わない、ソフト型文化の人間にとっては苦手なことだ。ビジネスには協力もあれば嘘もありうる。だから何より一番こわいのは、国ごとに個別にある文化ではなくて、普遍的な人間の欲得なのである。



<関連エントリ>

  (2014-06-18)

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# by Tomoichi_Sato | 2023-10-07 10:19 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評2点:「高い城の男」フィリップ・K・ ディック、「ムントゥリャサ通りで」ミルチャ・エリアーデ著

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(honto)


フィリップ・K・ディックの代表作。ずいぶん久しぶりに再読した。若い頃に、いちど読んだはずなのだが、ごく一部のエピソードを除いて、内容はほとんど忘れていた。というか、よく理解できていなかったらしい。それだけ深い内容を秘めた話なのだろう。今回読み直してみて、改めてこの小説の価値に気づくとともに、ディックの作家としての技巧の高さに、舌を巻いた。

周知の通り本作品は、日本とドイツが第二次世界大戦でアメリカに勝利してから15年後の、アメリカを舞台にしたSFである。反実仮想的なこの舞台設定の本書で、ディックは1963年度のヒューゴー賞を見事に受賞する。

20世紀アメリカを代表するSF作家を3人選べ、という人気投票をしたとして、P・K・ディックがその中に入るかどうかは、よくわからない。ハインライン、アシモフ、ベスター・・優れた作家は、もちろん数多い。しかしディックも、一定数の強い支持層を持つ、独自の個性ある作家だ。

何よりも、彼独特の、リアリティーが足元から次第に崩れていくような、不気味なサスペンスと、人間性のありか・根拠を問い直す独特の視点が、持ち味だ。

それは例えば、逃亡したアンドロイドをハンティングする賞金稼ぎが、次第に、自分自身も人間かどうか自信がぐらついていく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 (映画「ブレードランナー」原作として有名)にも表れているし、傑作「ユービック」 の奇怪な時間退行現象が支配する世界もそうだった。

ドイツと日本が戦争に勝ってから15年後。1960年代初めのサンフランシスコで、この物語は始まる。かつてのアメリカ合衆国は、3つの国に分断されていた。西海岸は、日本が事実上支配する「太平洋岸連邦」。それに隣接して、かろうじて中立的な立場を維持している「ロッキー山脈連邦」。そして、残る大半の地域が、ナチスドイツの支配する合衆国である。

物語は、特定の主人公を持たない群像形式で進められていく。美術商のチルダン、ユダヤ系の職工フランク、フランクの別れた妻ジュリアナ、そして通商代表部の高官・田上信輔らの行動と独白が、交代する形で叙述され、読者は次第にそのグロテスクな第二次大戦後の世界の有り様を理解する。

小説家としてのディックが非常にうまいなと感じるのは、それぞれの準主役級の登場人物たちが関わる、ディテールや小道具の扱いである。職工が手にする工具、女性が選ぶ服のスタイル、そうしたものを通じて、普通のアメリカ人の気分とメンタリティーが、現実味を伴って、読者に迫ってくる。

そして戦争に負けた国民が、いかに心根とメンタリティーを傷つけられ捻じ曲げられていくかを、ディックは見事に描く。ある者は勝者に媚びへつらい、ある者は反抗して打ち捨てられ、ある者は勝者側の女をモノにしたいと思う。戦争に負けるとはどういうことか、ディックはよくよく分かっている。この小説世界では、アメリカ人が、日本人やドイツ人に対して、敗者として振るまうのだが、それはまるで歪んだ鏡に映った自分たちの姿を見せられているような感じである。

そんな中で、ただ一人孤高の心を保つ、「高い城」に住む作家が、空想的な小説を書く。それは第二次大戦で、日本とドイツが、アメリカと英国に敗れると言うプロットの話だった。その本は当然ながらドイツの支配する合衆国では発禁処分になるが、登場人物たちはいろいろな手段で手に入れて読み、米英が戦勝国となった仮想の世界を知る事になるのだ・・

第二次大戦で、ナチスドイツが勝つという設定の小説を書いた人間は、他にもたくさんいるらしい。しかしディックの独創は、そのような世界で、さらに裏返した物語の中の物語を作って、そこから第二次大戦後のわたし達の住む、リアルな世界の歪んだ有り様を、逆照射するところにある。

ところで、この小説にはもう一つ、他にない重要な特徴がある。それは『易経』である。街角で易者が筮竹を手に、占いと称してする、あれだ。

ただし正確には、易は占いではない。普通、占いと言うと、既に決まっている運命を先読みすること、ちょうど天気予報のように、将来予測をすることだと思われている。言い換えるなら、未来は既に確定して存在していて、占いはその姿を垣間見せてくれる、との世界観にのっている。

だが中国で4千年前に成立した易は違う。易では、万物は変化し続けており、確定した未来は存在しないと考えている。では、筮竹やコイン投げによって現れる、「泰」「中孚」「剥」といった64種類の卦と呼ばれる状態(モード)は、一体何を表すのか?

答えは簡単だ。占う人間が、今のその気持ちや考えを持ち続けていくと、そのような状態に至る、との予測なのだ。だから、卦を見て反省し、考え方を変えるならば、別の未来が立ち現れる。これが易なのである。

この小説の主人公たちは、なぜか皆、易に詳しく、重要な決断の際には、易を立てて考える。実は作者のディック自身が、60年代初め頃から、易を立てるようになったらしい。神秘主義的な性格の強いディックにとって、易は東洋の英知が結晶したようなものに思えるのだろう。

この小説に出てくる日本人には、イヤミな人間はほとんどいない。居丈高な、権力好きな、強欲な、暴力的な日本人も出てこない。ナチスドイツの高官たちとは、対照的な扱いだ。日本人は、理解しにくいが東洋の叡智に近い存在、であるかのように描かれる。だから我々読者にとっては、とても読みやすい。本物の日本人は、こんなに潔ぎよくも、かっこよくもないな、とは思うのだが。

もっともそれは、我々がアメリカとの戦争に負けた存在だからなのかも、知れない。



「ムントゥリャサ通りで」 ミルチャ・エリアーデ 著、直野 敦訳

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昨年、所用で神保町を歩いていたら、東京堂書店のウィンドウに「ムントゥリャサ通りで」のポスターが貼ってあった。そのポスターは黒を基調とした、とてもアーティスティックなデザインだったが、著者の名前すら書いて無い。が、これを見て本を買う人なんているのかしら、と思ったが、たまたまわたしは著者を知っていた。ずっと気になっていた、宗教学者エリアーデの幻想小説だったからだ。思わず店に入って買い求めた。

渋い小説だろうな。そう思って、しばらく積ん読にしていたが、今年に入って手に取り読み始めた。そうしたら、何と、めちゃめちゃ面白かった。「一読、巻を置く能わず」という言葉があるが、まさに一気読みの状態になった。

この小説は意外にも、現代の「ほら男爵の冒険」である。いやあ、あの高尚かつ難解な宗教学者が、こんな話を書くんだなあ。

主人公はさえない元小学校教員だ。彼の相手をするのは、非情で冷酷なルーマニア共産党の内務警察の面々である。ここらへん、共産主義独裁国ルーマニアから西側世界に亡命したエリアーデの人物造形は、いかにも冷静かつ的確だ。だが、主人公の取り留めのない物語が述べられるにつれて、いつのまにか彼らが端からバタバタとなぎ倒されていく。

はじまりの場面は首都ブクレシュティ(ブカレスト)の、暑い夏の日。ムントゥリャサ通りという地名を地図で調べると、国会議事堂からも遠からぬ、街の中心部にある。主人公は拘束されてずっと街中にとどまるのだが、彼の語る物語は自在に広がり、遠く山岳地帯にまでのびていく・・

幻想文学には悲劇的なものが多いが、これは読んでいて実に楽しい。まさに傑作である。


# by Tomoichi_Sato | 2023-09-27 23:17 | 書評 | Comments(0)

プロジェクト・マネジメントをマネジメントする 〜プログラム・マネジメントとは何か

「マネージャーをマネジメントする事」がガバナンスであると、前回の記事 で書いた。

それでは、部長が課長をマネージすることも、ガバナンスなのか? 課長だって、立派なマネジメント職である(ちなみに、わたしの職場では課長職のことを、昔から「マネージャー」と言う職名でよんできた)。

答えから言うと、それは違う。確かにガバナンス的な側面も、少しはある。だが、課長は部長にマネジメントされている。部長の指示には強制力があるからである。強制力を伴う計画・指示と報告・評価のサイクルをマネジメントと呼ぶ

強制力とは何か。それは簡単に言うと、賞罰の力である。指示に従った場合には、褒賞を与え評価する。従わなかった場合には、罰を加え、あるいはその地位から追放することができる。また、重要な経営資源の運用に関する決裁の権限も持つ。具体的には、特に金銭である。費用の支出には、承認が必要となる。それがマネジメントの強制力だ。

これに対して、取締役会が会社の執行役員や経営者に対して用いる権限は、影響力でしかない。取締役会はなるほど、役員や社長の首を切る権限がある(株主の同意が前提だが)。また、重要な予算に関しては、承認の権限もあるだろう。だが、ほとんどの決裁事項は、執行側にゆだねられている。そのかわり、大きな指針や基準を与える。これがガバナンスのあり方だ。

さて、プロジェクト・マネージャーはどうだろう。プロマネにも普通は上司がいる。課長だったり部長だったり役員だったり、その規模や役割に応じて様々かもしれない。

プロマネを任命し、プロジェクトに予算枠を与える権限を持つ者を、「プロジェクト・オーナー」ないし「プロジェクト・スポンサー」と呼ぶ。普通、プロジェクト・オーナーないしスポンサーは、執行権限のほとんどをプロマネに譲渡し、あまり日々のオペレーションに口を出さない。ただし、重要な判断や予算・配員等については、相談に乗り、プロマネを支援する義務がある。

もっとも、こうしたオーナー制(スポンサー制)を充分きちんと認識し、確立していない日本企業は、非常に多い。が、日本企業だけでなく米国企業でも、実際はその弊害をしばしば見かける。

ところで、プロマネを任命し、プロジェクトに予算枠を与え、そのスタートを承認する権限を持つ職種が、もう1種類ある。それは「プログラム・マネージャー」である。

プログラム・マネージャーとは誰か。それはプログラムをマネジメントする責任者である。・・じゃぁ、プログラムってなんだ?

プログラムとは、その配下に複数のプロジェクトを持ち、互いに調整して動かすことで、共通の事業目標を達成する活動の集まりである。

例えば、アポロ計画の英語は、Appolo Programであった。アポロ計画は、60年代のうちに人類を月に送り込む、と言うケネディ大統領の'61年の演説で公式にスタートした。そして、複数ロケットの製造と打上げを経て、次第に技術開発と実証を繰り返しつつ、最後に'69年のアポロ11号で、本当に乗員3人を月に送り込んだ。

アポロ計画では、個別のロケット打上げミッションが「プロジェクト」と呼ばれた。つまり、複数のプロジェクトを組み合わせることで、月面制覇という最終目的を達成したのである。もちろん、個別のロケット打上げ以外の活動として、地上側設備の構築、ロケット乗員の育成訓練、様々な技術開発などが並行して進められた。これらも皆、ある意味プロジェクトである。

アポロ計画を構成するプロジェクトは、最初から全て決まっていたわけではない。難しい技術開発を組み合わせた困難なチャレンジであるから、その途上で、新たなプロジェクトの必要性も生じてくるだろうし、中には不要となったプロジェクトもあったかもしれない。ただ、全体としては、相互にコーディネートされた複数のプロジェクト群によって、アポロ計画は一応見事に遂行された。

プログラムとは、何らかの目的(多くは能力獲得や価値創出)を達成するための活動で、複数のプロジェクトを組合せ、調整しながら進める。プロジェクトとは、それぞれが明確なゴールと目標をもつ、期限のある営為で、複数のActivityを組み合わせて調整しながら進める。そしてActivityとは、特定のインプットとアウトプットをもつ任務である(プロジェクトを構成する期間を表す場合は「フェーズ」とも呼ばれる)。
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そしてプログラムの達成のために、配下のプロジェクトをアウトカムと価値の視点から絶えずウォッチし、ガバナンスを効かせる仕事を「プログラム・マネジメント」と呼ぶ。それはプロジェクトを起案し、発進させ、完了を見届け、あるいは途中で中止させることをも含む。

プログラムマネジメントとは言いかえるなら、配下のプロジェクトの間に、全体目的に合致したシナジーを生み出す働きである。この「シナジー」と言う用語は、あまりPMIやPMAJの標準には出てこないが、プログラムを理解する上で非常に重要である。

このような「プログラム・マネジメント」の概念は、残念ながらわが国にはほとんど輸入されなかったようだ。もともと、プロジェクト・マネジメントの概念自体、20世紀の間はロクにかえりみられなかった社会だから、当然と言えば当然かもしれない。

わたし達の社会で何かが広まり、受け入れられるためには、わかりやすい物語、スター的なカッコいい人物や企業の存在が必要だ。抽象概念だけが、世の中に広まる事は滅多にない。目に見えないことには、あまり興味を示さない人々が、大多数なのだ。

でも、当サイトのミッションは、その抽象概念を少しでもわかりやすく提供することにある(笑)。プログラム・マネジメントは、その典型例であろう。

そこでもう一つ、プログラムの例をあげよう。英国のロンドン五輪開催の事例である。彼らがオリンピック競技場を作った際のやり方は、どうだったか。2020年を目指した東京五輪の国立競技場建設の際のドタバタを思い出しながら、比較すると分かりやすい。

ロンドンのメイン・スタジアムは入場者数8万人で、規模は東京と同じだが、じつは本設2.5万人、仮設5.5万人のスタンド形式になっていた。総工費は4億8600万ポンド=日本円でわずか644億円である(2011年のレートで換算)。それも納期内に、予算より1000万ポンドも安く完成した。

推進母体のオリンピック開発公社(略称ODA)は当初から、プログラム・マネジメント方式による取り組みを決めていた。ODAはスタジアムなど遺産(Legacy)の五輪後の活用計画を最初に作成し、本設2.5万人の構想はそこから生まれた。そして彼らは、五輪準備のためのプログラムおよびプロジェクト・マネジメントを、外部の専門家人材に委託した。かれら専門家は、配下の請負業者たちのマネジメントに携わった。

さらにODAは、他の競技場を含むプログラム全体を一元的にマネジメントするチームを設置した。このチームは、複数プロジェクト間のスケジュール、コスト、変更、そしてリスクなどを横断的に調整し、コントロールした。特に複数箇所の工事で物流が輻輳するため、物流センター3カ所の建設など、効率的なロジスティックスも考案した。

じつはロンドン五輪の準備期間は、2008年のリーマン・ショックの金融危機に重なる時期だった。業者の倒産や資材価格値上げに見まわれ、環境問題対策のための大幅設計変更もおきた。だが、適切なマネジメントと十分な予備費の設定によって見事に乗り切っている。

これに対して、日本の新国立競技場建設プロジェクトはどうだったのか? 新国立競技場整備計画経緯検証委員会は、一連の騒動の後、2015年に「検証報告書」を発表した。それによると、プロジェクトの方向性を見直すべきタイミングは、全部で3回あった。ザハ・ハディド氏の設計が最優秀案と決まった(同時にその工費が懸念された)12年11月と、下村文科相が工費3000億円に達する見込みと国会で表明した2年後の13年10月、そしてゼネコン2社が技術協力者として見積り直した、4年後の15年1月。最後の時点で、予算も納期も危いことが、あらためて明らかとなった。

にもかかわらず政府は、当初予算枠からの超過を、事後的にずっと承認し続けた。新競技場自体がライフサイクル全体でどれだけの価値をもたらすのかも、十分な評価を行わなぬままだった。

上記の検証報告書は「プロジェクト・マネージャーが不在だった」ことを問題原因の一つに挙げている(p.59)。しかしプロマネには原則として、プロジェクトを途中で中止させる権限はない。正しくは、プロマネに中止を命じる職能、すなわちプログラム・マネジメントの不在を指摘すべきであった。

プロジェクトは普通、何らかの成果物(アウトプット)を目指して動く。ただし、そのアウトプット自体は、より大きな目的を実現するための手段であることが多い。ちょうど競技場がスポーツ振興や親善という目的のための、手段であるように。

だが、わたし達がいったん、プロジェクトに配属されると、手段だったはずのプロジェクトが、いつの間にか目的にすり替わりやすい。そしてゴール到達のために、必死に頑張ることになる。あるいは、プロジェクトを提起した責任者のメンツのため、さらにこれまでプロジェクトに投入した労力と費用のために、意義の薄れたプロジェクトが無理やり続けられる。こうしたことを、わたし達はあまりにも多く眼にしてこなかったか? それはプロジェクトに対するガバナンスの不在である。

わたしは何も、英国が日本よりすぐれているとか、東京五輪に関わった人々が無能だとか主張するためにこの記事を書いているのではない。新国立競技場に関わった多くの人が優秀で有能だったろうことは、疑いがない。だが、担当者が優秀で有能なだけでは、足りないことがあるのだ。その有能さが、価値を生み出す活動に関わるように振り向ける仕組みが、わたし達の社会には断じて必要なのである。
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建設中(当時)のロンドン五輪スタジアム

<関連エントリ>
「プロジェクトのオーナーシップとは何か」 https://brevis.exblog.jp/27925736/ (2019-01-17)
「企業経営のガバナンスとシナジーを再考する」 https://brevis.exblog.jp/30433520/ (2023-09-04)


# by Tomoichi_Sato | 2023-09-20 22:56 | プロジェクト・マネジメント | Comments(2)

拙著『革新的生産スケジューリング入門』の内容を順次公開します

2000年に刊行した拙著『革新的生産スケジューリング入門』 は、ご承知の通り、長らく版元品切れ状態になっています。本書はわたしの初めての単著でもあり、また類書がなかったため、それなりに広く受け入れていただいた、思い入れ深い書籍です。おかげさまで10年以上にわたり売れ続け、今も問い合わせを時折いただいていますが、次第に入手が難しくなってきました。

では生産スケジューリングについて、他にお薦めできる分かりやすい入門書があるかというと、あまり見当たらない状況ではあります。加えて昨今、製造業の方とセミナー等でお話しすると、決まって「計画系に悩んでいます」「スケジューリングをどうにかしたくて」という声を聞くようになりました。

幸い、日本にはアスプローバ、フレクシェの2大巨頭をはじめ、すぐれた生産スケジューラを開発・販売している企業が複数あり、ツールの技術面では、世界のトップ水準を走っていると言えます。

しかし生産スケジューラは高性能・多機能ゆえに、買ってきたらポンと使えるような道具ではありません。工場への導入と使いこなしのためには、生産計画やスケジューリングの基本的な原理原則や、注意すべき点などを、ユーザがあらかじめ、よく理解しておく必要があります。そのためには、やはり適切な入門書が必要です。

そこで、『革新的生産スケジューリング入門』を何らかの形で公開できないかと考えるようになりました。ただ本書の版権は、まだ出版社が保有しています。著者とはいえ、かってにPDFやテキスト・図表などを配布することはできません。

そこで、著者による朗読の形で、拙著『革新的生産スケジューリング入門』の内容を、無償で順次公開することにいたしました。各章をそれぞれ、10分内外の長さになるように分けて、youTubeにアップしていきます。サンプルのurlを以下に記します

プロの制作動画ではないため、多少手作り感のあるコンテンツにはなっていますが(笑)、内容はきちんと理解いただけると思います。

なお当面の間、上記に続く各章の朗読ビデオのurlは、当サイトの新ニュースレターのみでお知らせすることにいたします。

新ニュースレターへの登録は、Blogの右側の欄にある、「著書・姉妹サイト」の「ニュースレターに登録」リンク から行えます。また「ブログパーツ」の「購読」バナーからも登録できます。

(なお、以前の旧ニュースレターにご登録いただいていた方は、お手数ですが、こちらの新ニュースレターに移行・登録をお願いいたします)

ちなみに当サイトのニュースレターについても、わたしの宣伝不足のため、ご存じなかった読者も多いかと思います(苦笑)。こちらに登録いただくと、新しいサイト記事を毎回、メールで受け取ることができます。なおBenchmark Emailのメーリングリスト・サービスを利用しているため、利用する際はご自身のメールシステムで、@benchmarkemail.comからメールを受信可能にしていただく(迷惑メールに振り分けられないよう設定いただく)ことをおすすめします。

『革新的生産スケジューリング入門』は20年以上前に書いた本ですが、内容的にはそれほど古びていないと信じています。とはいえ自分で朗読していると、直したい点も出てきました。たとえば用語です。PERTとCPMの用語は、現在のわたしは違う使い方をしていますし、EPSTはESと略すのが普通になりました。ですが、原則として出版時のまま、朗読しています。

また第6章で紹介する生産スケジューラのソフトウェアは、i2 Technologies社のFactory Plannerですが、もうこの会社もソフトも、そのままの形では存在していません。まったく別のソフトで解説し直すことも考えましたが、やはりオリジナルの形のままお届けすることに決めました。パッケージソフトは、いずれにせよ時間とともに変わっていくものですし、Factory Planner自体はこの分野の原型の一つを作ったソフトだからです。

朗読ビデオは数本ずつ順次、ニュースレター経由で公開していきます。朗読・制作にもそれなりの手間がかかりますので、試聴する方が増えてくれれば、それなりに、はげみになります。できるだけ多くの方のご登録を、お待ちしております。


佐藤知一@日揮ホールディングス(株)


# by Tomoichi_Sato | 2023-09-13 16:00 | サプライチェーン | Comments(0)

企業経営のガバナンスとシナジーを再考する

わたしの勤務先は数年前、ホールディングス体制に移行した。ご存知の通り、ホールディングス体制と言うのは、親会社が持ち株会社となり、子会社がそれぞれの事業を担う形で、企業体を運営していく方式だ。従来ひとつの会社だったものが、事業分野ごとに分社化したとも言える。

たまたま、わたし自身は、ホールディングスの所属となり、経営企画部門で仕事をしている。分社化する前から、足掛け10年位にわたり、経営企画とIT戦略の仕事を行ったり来たりしていたので、仕事の内容自体に大きな違いはない。

ただ、一つだけ変化した点がある。事業部門との距離感が微妙に、しかしはっきりと、遠くなったのだ。言い換えると、より気を使わなければならなくなった(佐藤に「気を使う」ようなセンスがあるのかどうか、とのご批判はさておくとして)。その代わり、事業部門側の意思決定が速くなった面もあるはずだが。

さて、経営企画部門の仕事には縁遠い読者諸賢も多いと思うので、念のために書いておくと、日本企業の経営企画のおそらく一番重要な仕事は、「中期経営計画」の立案とモニタリングだろう。

「中期」がどれくらいの期間を指すのかについては、会社によって幅がある。多分一番多いのは3年間だろうか。ただし、わたしの勤務先は5年間としている。大型のプラント建設プロジェクトは、4〜5年かかるものも多いので、3年間では1つのプロジェクトさえ終わらないからだ。

経営計画だから、当然ながら向こう3年なり5年間の、売上高や利益額を規定することになる。会社全体の計画数値があり、事業分野・事業会社単位の計画値も当然並ぶことになる。

計画を立てたら、当然、その実行も追いかけなければならない。つまり毎年ないし半年ごとに、計画通りの売上や利益額を上げているかどうか、モニタリングするのである。そして、計画から乖離していたら、何か是正策をうたなければならない。

ここら辺はまぁ、ちょっとプロジェクト・マネジメントに似ている。最初にプロジェクト計画を立案する。そして遂行段階に入ったら、ベースライン計画と実績を比較する。進捗や費用が乖離していたら、是正策を講じる。

実際には、外部環境が色々と変化するから、計画通りいかないのもプロジェクトと同じだ。ところでプロジェクトなら、プロマネが週次ミーティングで、メンバーに対して、ここをこうしろ、あそこをああ変えろ、と指示することができる。

ところが、ホールディングスと事業会社との関係では、ここにちょっと厄介な面が生じる。一般にホールディングス体制では、事業会社は事業の成績、すなわち売上や利益に対して最終的責任を持つことになっている。事業会社の役員や社員の賞与なども、普通はその会社の業績に連動する。他の姉妹会社が黒字でも、その会社の業績が赤字だったら、それなりの報酬しかもらえないことになる。こうしたことも含めて、業績に責任を持つわけである。

そうなると、もしもあなたが事業会社の社長だったとしたら、親会社のホールディングスがああしろ、こうしろと指示してきた場合、どう感じるだろうか。「貴重なご助言、ありがとうございます。しかし当社の業績には、わたしが最終的な責任を負っています。したがって、それに従うかどうかは、わたしが決めたいと思います」と言いたくなるかもしれない。

プロジェクトでは一応、プロマネがメンバーに対する指示の権限を持っている。プロジェクトの最終結果に責任を負うのはプロマネだからだ。ところがホールディングス体制では、個別の事業に責任を負うのは事業会社と言うことになる。すると、親会社であるホールディングスは、ルールやモニタリングのプロセスを決めることができるが、事業に対してはアドバイスできるだけで、従うかどうかは、事業会社側の一存である、ということになる。・・でも、本当にこれでいいのだろうか?

マネージャーをマネジメントすることを、ガバナンスと呼ぶ。マネージャーにはそれぞれ、独立した権限と責任が与えられている。そして、自分で判断する能力もある。そういう自主性・独立性の高いマネージャーを、どのようにマネージするかというのが、ガバナンスの本質だ。財務ガバナンスとか、ITガバナンスとか、データ・ガバナンスとか、いろいろな種類があるが、その点は共通している。

ではガバナンスには、ルールやプロセスを決めるだけで、何の強制力は無いのか? もしそうなら、そもそもガバナンスにはどういう実効性があるのか?

この問題のヒントは、実は意外なところにある。M&A=企業買収である。経営企画部門に入ると、実にいろいろなところから、M&Aの案件が持ち込まれる。秘匿性が高いので、社内でもごく一部の人間しか、その検討内容は知らされない。ともあれ、「こんなところが、売りに出ているのか」といった世の中の実情が、結構あらわにわかる仕事である。

おまけにM&Aの仲介業は、現在最も年収の高い職種の1つであると言われている。M&Aに関わる仕事は「かっこいい」と受け取る人たちも少なくないようだ。

そんなに素晴らしい仕事かどうかはともかく、M&Aでしばしば使われる言葉が「シナジー」だ。シナジーとは、買収や合併によって、事業価値が増大する効果を指す。つまり、1 + 1が2以上になる、そういう働きをシナジーと呼ぶ。

例えば、自社が持っていない製品を相手先が複数持っていたりすると、製品ラインナップを総合的に強化する働きが生まれる。あるいは、自社の得意とする販売先の業界や地域エリアが、相手先と重なっていない場合には、互いの製品を販売できるルートが増えることになる。こうしたことをシナジーと呼ぶ。

さらに、調達面でのシナジーもあり得る。単純に購入量が増大するから、仕入れにボリュームディスカウントが聞きやすくなると言うこともあるし、異なるサプライヤーと信頼できる関係を築いているのならば、調達における自由度や安定性が増す。

お互いに持っている知識・経験や技術などを共有できるメリットも大きい。さらに、人材や生産設備・物流設備など、経営資源を共有化することで、オペレーションのフレキシビリティーや効率性を上げることが期待できる。

時期的なものもあるかもしれない。自社は半導体のシリコンサイクルに売り上げが影響されるが、相手先は別の業界サイクルによって動いていれば、売り上げの総合的な安定性が増す面もある。さらに、ブランド面での相乗効果も期待できるかもしれない。

このようにシナジーは、いろいろな面で起こり得る。したがって、M&A =企業買収においては、どのようなシナジーが期待できるかが、買収価格決定における大きなファクターとなる。

もしもシナジーが全く期待できなければ(そういうこともしばしばあるわけだが)、その買収は「単なる足し算」と呼ばれる。売上も利益も単に合算されるだけ。まぁ、売り上げが見かけ上、増加するだけで喜ぶ株主もいないわけではないが、M&Aには、相当な費用と労力と、しばしば双方の苦痛を伴うので、それだけのコストを支払って、単なる足し算で一体何を得たのか、と問われることになる。

さて、このような観点で、ホールディングス体制と言うものを見つめ直してみると、気づくことがある。それはまさに、自社グループの事業会社間に、シナジーがどれだけ働いているのかと言うことである。もしも全く他とのシナジーのない事業会社があるのならば、その会社はグループ内にとどまっている価値がほとんどない。

逆に言うなら、コアの事業会社は、その企業グループ内において、他と大きなシナジーを生んでいるわけである。他のグループ会社を助けているわけであり、他から助けを得ているわけでもある。

こう考えてくると、事業会社の社長が、損益に最終的責任を持つ、と言うことの意味が少し変わってくる。その会社が、外とのシナジーを置き去りにしてまで、自社の利益を追求した場合、どうなるか。企業グループ全体では、価値を毀損するかもしれない。

シナジーと言うのは、『協力』の別名である。兄弟会社との協力をながらないがしろにして、自分だけの損得を優先するのでは、次第に信頼を失っていくだろう。そのようなふるまいは、中長期的にはサステイナブルとは言えない。

ガバナンスは、だから必要なのである。ガバナンスは、グループ内のシナジーを維持強化するために必要なのだ。事業会社の自由度を多少減らしても、シナジーの働きを確保すること。これがガバナンスの重要な目的の1つである。ガバナンス上の要請は、単なるアドバイスにとどまらず、事業会社に従ってもらわなければいけない場合もあるのである。

ところで、このシナジー効果について、リストを作ったり、客観的に大きさを測ったりすることができるのだろうか? この点は率直に言って、現在の経営学ではまだあまり手付かずの状態らしい。

ネットなどを調べてみるとわかるが、シナジーの分類についても、ずいぶんと諸説ある。例えば、三井住友銀行は、以下の3つを挙げている(三井住友銀行「ビジネスにおけるシナジーとは?効果やメリット、生み出す方法を解説」)。

<以下引用>
  • 事業シナジーは、事業の推進に関するものです。売上の増加、コスト削減、スケールメリットの増大、人材の獲得・活用、ノウハウの統合によって付加価値が高まるといったものがあります。
  • 財務シナジーは、お金や税金に関するものです。合併などで増加した余剰資金の有効活用が可能になることや、単年度で所得が赤字だった際の繰越欠損金の税控除やグループ法人税制を利用した節税効果などが挙げられます。
  • 組織シナジーは、組織に関するものです。互いに協力してアイディアを出し合うことによる生産性の向上や事業部門の集約による業務効率化、高いパフォーマンスを発揮できる環境が整うことによる従業員のモチベーション向上などがあります。
<引用終わり>

ところが、日本M&Aセンターと言うところは、シナジーを、仕入れ・製造・物流・販売・事業・財務の6つに分類する(日本M&Aセンター「シナジーとは?企業経営におけるシナジー効果、企業事例を解説」)。他にもいろいろな分類の仕方があり、英語にまで検索を広げてみると、もっとバラエティーが増えてしまう。これはつまり、経営学の中で、まだ定説がない状態であることを意味している。

M&Aと言えば、現代の経営論の花形である。それなのに、なぜ、その重要なファクターであるシナジーについて、かくも未整理な状態なのか。

ここから先はわたしの単なる推量だが、現代の経営学には、企業の機能と構造を、システム工学の観点から見るアプローチが、欠落しているからではないか、と思われる。システムとは、それを構成する要素が、互いに支えあったり、強めあったりすることによって、特定の機能なり目的を果たす仕組みである。機能要素の助け合いの中には、しばしばループ的な強め合う関係も生じる。それが安定なシステムの特徴だ。

シナジーとは、まさに、このシステムとしての特徴を指す言葉ではないか。

ただし、人工衛星や携帯電話といった機械的なシステムと違い、企業とはそれぞれ思考能力も思惑も欲望を持った人間群から、成り立っている。そして意思決定は、組織の中の職員に従って階層化されている。こうした複雑性があるので、単純な機械論的アプローチでは、なかなか経営のシステム分析が進まないのだろう。

中期経営計画とは、いわば経営のシミュレーションである。定量的なモデルがあって、それを回すと結果が出てくるならば、ありがたい。しかし何しろ、外部環境にも内部状態にも不確定性が多く、そう単純にはいかない。ただ、中期経営計画は、投資家に対するコミットメントと言う性格も持つ。そこで計画から乖離した場合には、何らかの挽回処置が必要になる。

この時、企業グループ内の全体をハーモナイズさせ、より良きシナジーを見出そうとするのが、本社としての役割である。シナジーが期待される以上、グループの構成員は、完全に独立した自由裁量を持っているわけではない。

そしてこの関係は、もう少し一般化すると、社会と個人の間にも言うことができる。社会は、企業のような経済活動を目的とした組織ではないが、互いに支え合う協力関係によって成り立っている。だから各個人は、たとえ法律に明文化されてないとしても、社会の中で、お互いの振る舞いにある程度の制約を受ける。というより、このシナジー=協力関係こそが、個別の法律の根底にあるのかもしれない。

現状のわたし達の社会は、まだまだ成熟から程遠いのかもしれないが、「損得だけで動き、何をやっても自由」と言う論理だけでは、サステイナブルな社会は築けないのである。

<関連エントリ>
「ガバナンスの最適設計を考える​​」 https://brevis.exblog.jp/19964608/ (2013-03-18)

# by Tomoichi_Sato | 2023-09-04 19:13 | ビジネス | Comments(0)