書評:「怒りの葡萄」(上・下) ジョン・スタインベック著

このところ、書評を書くペースが遅くなって、なかなか読み終わるスピードに追いつかない、と昨年はじめの「書評 2016年のベスト3」 に書いた。その事情は変わっていないが、2017年は読む本の冊数自体も随分減ってしまった。これはスマホでなんとなくだらだらと、ネットを見ているからだと気がついた(わたしは主に移動時間に本を読む習慣なので)。そこで、最近は電車では可能な限り、紙の本を読書ようにしている。まあその方が情報内容に読み応えがあるし、ピンチの出版業界の助けにもなるし、何より目にも良い。

昨年読んだベスト3の内、1冊は「ケセン語訳 新約聖書 【マタイによる福音書】」(山浦玄嗣・著)だったが、これは書評をすでに書いているので、残りの2冊について早めに紹介しておきたい。もっとも2冊というのはどちも上下2巻本なので、実質的には4冊だが。「怒りの葡萄」は、そのうちの一つである。


怒りの葡萄〔新訳版〕(上)」・「怒りの葡萄〔新訳版〕(下) 」 (Amazon.com)

1930年代、アメリカ中西部から南部にかけて走る「グレート・プレーンズ(大平原)」の農業地帯は、厳しい日照りと砂嵐に見舞われる。通称「Dust Bowl」とよばれた現象である(本書では純粋に天災として書かれているが、実際には、生態系を無視した収奪的な開墾農業に起因する、人災の面が強かったことが分かっている)。

アメリカ社会はすでに1929年から、大恐慌時代に入っており、多くの農民は借金を抱えていた。そこに、この砂嵐が追い打ちをかけた。結果として彼らの多くは、借金のカタとして土地の所有権を奪われた。さらに貸し手の金融業者達は、機械化トラクターを使って、容赦なく農民たちを半暴力的に住み家から叩き出した。生活の糧を得るために、彼らは仕方なく州外に逃れなければならなかった。

この小説は、そのような難民達の物語である。そう。100年近く前の米国には、国内に、多数の経済難民を輩出していたのである。彼らの多くは、仕事がある豊かな地というイメージにひかれて、カリフォルニア州を目指した。とくにオクラホマ州は多くの農民が放浪状態になり、「オーキー」と蔑まれてよばれた。オーキーの小作農出身であるトム・ジョードが、本書の主人公だ。

彼らの多くは、自家用車を改造したトラックにありたけの荷物を積んで、ルート66と呼ばれる道路を西に向かう。そこにはアメリカの農民たちのバイタリティと、自動車のエンジン部品まで自分で修理するDIYの精神が息づいている。

だが、彼らを待っていたのは過酷な運命であった。カリフォルニアの農業は、すでに土地の大土地所有化が進み、さながら大企業かプランテーションのように、安い労働者を搾取することに慣れていた。彼らは中西部に無際限に労働者募集のビラをまいて、集まった労働者同士で競争させ、単価をさらに下げると言う方策をとっていた。加えて豊かな土地の住民にありがちな、貧しい余所者のへの差別。そして難民収容所さながらの、劣悪な生活。

その中で、貧しい者同士が団結して、単価の値上げを要求しようとするリーダーが生まれてくる。しかし大農地の所有者たちは、彼らを「アカ」と呼び、保安官を動かして彼らを逮捕、あるいはこっそり殺そうとする。この辺もまことに米国的である。

主人公のトムも、そうした中で保安官に追われる身となる。彼が母親に別れ際に言う有名なセリフ、「俺の魂はそこら中の暗闇の中にいる。飢えるのはごめんだと言って喧嘩する奴がいたら、俺はそこにいる。おまわりが誰かをぶちのめしていたら、俺はそこにいる。」--これは実は新約聖書にあるイエスの言葉、最後に弟子たちに向かって別れ際に言う言葉のもじりだ。『怒りの葡萄』というタイトル自体、この世の終わりを描写した「ヨハネの黙示録」からとられている。

本書は1939年に出版されるやいなやベストセラーとなって、賛否両論の激しい渦を巻き起こし、いくつかの州では発禁となった。またジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され、さらに多くの人に知られるようになる。この重厚な名作によって、後にスタインベックはノーベル賞をもらう。昔から翻訳は出ていたが、スピルバーグが再映画化するというので、出版社は新訳を出したのだろう。わたしはそちらの方で読んだ。

それにしても、ぎりぎりの賃金で苛烈な生活を送る、最下層の貧しい人びとの果敢な精神と、彼らを容赦なく利用・簒奪し、かつ差別する富める者たちという二分法の構図は、100年前どころか今も既視感のある情景である。本書はジョード一家の個別の物語と、特定の人称を持たないアメリカ社会の描写を交互に配した重層的な構成だが、話が重たいだけに、結末の不思議な、しかしある意味、苦難を超越した幕切れが印象に残るのであろう。100年前の出版ながら、いまだに今日的な意義を持つ小説である。


# by Tomoichi_Sato | 2018-01-31 08:40 | 書評 | Comments(0)

サービス業の生産性と、プロ意識との関係について


久しぶりに首都圏に大雪が積もったので、いつもより朝早く起きだして、家の前の雪かきを、ささやかながら行った。既に空は晴れ上がって、少し働くと汗が出る。「雪の明日は裸で洗濯」と言う諺を思い出した。東京の下町、荒川生まれの人に教えてもらった言葉だ。関東では主に2月や3月に雪が降るが、降った翌日は良い天気になることが多い。

雪かきという仕事は相互的だ。お互いに、ちょっとずつ汗をかく。そうすると通り道ができる。隣の家がやらないんだから、うちもやらない、などと言っていた日には、街の中はちっとも歩けなくなる。家の前は公道なんだから、雪かきは行政がやるべきだ、なんて批評して待っていても、問題は解決しない。

まだ公共交通機関もうまく動いていないのに、積もった雪の轍を急ぎ足に出かけていく勤め人の人達も多い。どうしても時間通りに職場に着かなくてはならない立場なのだろう。サービス業的な職種の人達かな、とふと思った。とくに9時-17時といった時間枠を決めてサービスを提供する部門なのかもしれない。私の勤務先だってエンジニアリング会社だからサービス業だが、設計的な仕事はもう少し時間の融通が利く。

ユーティリティー的なサービス業の辛さについては、3·11の直後に「休めない人々」http://brevis.exblog.jp/14417945/ と言う記事で書いたことがある。ユーティリティーとは、電気・水・通信・交通など、常に供給されているのが前提となる、都市のインフラサービスである。

もともとサービス業の定義とは、リソースを提供する仕事である。『リソース』とは、仕事において必要とされ、その活動の間は占有されるが、活動が終わると解放されて、他の用途にまた再利用できるもののことを言う。金型・ツール・作業場所とはリソースである。コンピュータもリソースだ。また働く人も会社にとってのリソースである(Human resourceと英語では呼ぶ)。日本語では経営資源と呼ばれることもある。

例えばホテルは部屋と言うリソースを宿泊客に提供する。交通機関は移動手段を提供する。通信会社は回線を提供する。これらは皆、サービス業だ。また床屋や、マッサージ屋は人による作業を提供する。サービス業は大きく、物的リソースを提供するものと、人的リソースを提供するものに分かれる。

電力や水は、実際には消費されるが、常に供給され続けていつでも利用可能だと言う点で、こうしたリソースに準ずる。ユーティリティーがサービス業の一種なのも、この所以である。

こうしたユーティリティ的サービス業のつらさは、それがいつも提供可能であると利用者が信じているところにある。だから供給が途絶すると、ひどく怒られる。提供している間は、皆が当然だと思って誰も何も言わない。怒られはするが、感謝されない。そういう仕事だ。

特に最近は、消費者の立場になった途端、突然居丈高になる人も多い。お金と引き換えに、他人を気楽に批評し、一方的に要求する立場を、手に入れたと思っている。モンスター・クレイマーと呼ばれる人たちも増えている。それはわたし達の社会において、プロフェッショナル精神が衰弱していることの表れだと思う。売り手ではなく、買い手側のプロ意識が、である。

世の中には、単にその仕事で給料をもらっているから、「俺はプロだ」と思う人が沢山いる。だが、英語のProfessionalはもう少し条件が厳しい。通常、それは知的な仕事であって、それなりの教育と収入を伴う。たとえば医師とか弁護士とか、牧師とか、建築家とかだ。何より、高い職業意識を持つことが資格である。

でも、わたしはプロフェッショナルという言葉を、何も高収入の職業だけに限定するつもりはない。技術者だってお菓子職人だって、きちんとした職業訓練と能力をもち、プロ意識を持って行動する人が、プロフェッショナルだと考えている。

年末、都内でタクシーを拾って四谷駅に向かった。四谷駅は交差点にあるが、JRと地下鉄で入口が確か違っていたように記憶していた。そこで「丸ノ内線の四谷駅に行ってください」と頼んだら、運転手は「地下鉄に乗ったことがないので、駅が分かりません」などという。そしてJRの駅前におろされたのだが、そこから交差点を渡って回り道をしなければならなかった。

だが、そんな妙な言い訳があるだろうか。客の望むところに連れて行くのが、プロフェッショナルの仕事ではないのか。自分に小さな子どもがいなかったら、「○○小学校へ」と頼む客に、「分かりません」というのだろうか? 待ち合わせた連れ合いに、遅れた詫びを言い、タクシー運転手について文句を言ったら、「近頃はプロ意識がない人が多いの。ただ会社に使われるだけで、ちっとも将来に良いことがないから」という。思わずうなってしまった。

プロフェッショナルは、自分の職業的能力をつねに磨こうという意識をもつ。プロフェッショナルは単なるワーカーではない。ワーカーとは、言われた通りのものを作る人、言われたことしかしない人たちのことだ。またプロフェッショナルは、アーティストでもない。芸術家は自分が作りたいものを作る。プロフェッショナルは依頼に基づき、作るべきものを作る。ただし依頼に対して、自分の考え・意見を持ち、それを提案する。「言われたことだけやる人」の反対である。「やるべき事をやる人」といってもいい。

プロフェッショナルは、基本的にサービス業である。能力を売る人だから、当然だろう。特定のモノや成果物を売るのではない。医師は患者の回復を保証する訳ではないし、弁護士は顧客の勝訴を売る訳ではない。ただ、リソースとして、彼らの信頼するに足る能力を売っているのだ。どんな場合でも、つねに80点以上の仕事をする、というのがプロフェッショナルである。そこは、できばえにムラのある天才と違う。安定性と信頼を売っているのだ。

プロフェッショナルになるには、かなりの勉強と継続的学習が必要である。大学出であることが多いが、必須ではない。むしろ、社会に出てからの学びの方が大切だ。

そして、プロフェッショナルは、他の分野のプロフェッショナルを尊重する。なぜなら、専門知識というものの幅や深さを知っているし、一人前の職業能力を得るのがいかに大変か、熟知しているからだ。それを知らない人、プロ意識のない人ほど、他人の仕事に口を出したがる。わたし達の社会で、サービス業へのクレームが多くなる理由が、ここにある。

なお、元々、西洋の概念におけるプロフェッショナルは自営が基本だ。医師・弁護士・建築家など、皆そうだった。英米ではエンジニアという職種もプロフェッションの一種であり、実際カナダでは技術者は労働組合に入れない。ワーカーではないからだ。

だが現代では、専門性を持つプロフェッショナルの多くは、組織人である。たとえばエンジニアという職種は一人だけで仕事を完結できず、多の人たちとの協力連携が必要だ。まあオーケストラの音楽家のようなものだ。だが、このことが、いろいろな混乱の元となっていると、わたしは思う。たとえば、仕事はプロフェッショナルの流儀に従うのか、会社の慣習に従うのか。プロ意識が優先すべきなのか、それとも会社員の帰属意識が優先するのか?

プロフェッショナルの概念と行動規範(倫理)について、最初に議論したのはギリシャ人だったろう。それ以降、いろいろな要件があげられた。たとえば、次のようなことだ:

(1) 真実を尊ぶ(顧客に嘘はつかない。信頼が資本だから)
(2) 自分の美学を持つ
(3) 持論を持つ(思想とまではいかないにせよ)

こうした行動規範に従う代償として、社会的な尊敬を得るのである。そしてプロフェッショナルは自分の職能集団の、社会的な信用を守るのだ (自社を守る、ではなく)。

しかし、現代の企業には、経営思想にもよるが、「一部のスーパーリーダーが決めた仕組みに従って、ただ言われた通りのことだけやる人」を求める傾向がある。一方、プロフェッショナルは自分でやり方を工夫改良し、人にも教える。マニュアル通りにうごき、消耗したら部品のように交換可能な人、ではない。

単なるワーカーはプロフェッショナルではない、と書いたが、もう一つ、プロフェッショナルに程遠いのは、「お役人」である。ここで言う「お役人」とは、公務員と言う意味ではなくて、官僚主義者のことだ。常に権力や規則を振りかざして、人を従わせたがり、また序列の上に上がることばかりを考える。そういう官僚主義者は、民間企業にも多い。

彼らは2、3年ごとにポジションを変わって、ジェネラリストとして管理職に上がると言うキャリアパスを生きる。ふつう1つの職業的能力を得るのに、少なくとも10年はかかるはずだが、彼らはそうした成長への労力を、1つの専門分野につぎ込んだ経験がない。だから他人の能力に対する尊敬心も薄い。彼らが頼りにするのは、自分の能力ではなく、組織の中の自分の職位である。名刺の肩書きで仕事をしたがる。

「ワーカーになれ」というトップダウン式の淘汰圧力と、「上に行きたければジェネラリストになれ」という組織の論理にはさまれて、プロフェッショナルの領域は狭まってきている。プロフェッショナルを目指すとは、実は「業界で通用する人間になる」=「転職できるように自分の価値を上げる」だから、日本企業にとってはそもそも、両刃の剣なのだ。あまり皆に、プロ意識など持ってもらいたくないという気持ちが働く。

それでも、プロ意識を持ちつづけて仕事をする人たちだって立派にいる。彼らが、他のサービス業者に対して臨む態度は、平凡なワーカーやお役人達と、どこが違うのだろうか?

それは、「サービスとは相互的なものだ」との理解を持っている点である。サービスは、人的なものであれ物的なものであれ、信頼の上に成り立っている。その信頼は、じつはサービス提供者だけが責任を負うものではなく、相互信頼に基づくものだ。

サービスの利用者は、自分が何を望んでいるか、きちんと理解して、伝えなければならない。そうでないと、相手は適切に動けない。そして利用者は、自分の要求と、自分のやる行動とが、ちゃんと整合性・一貫性をもたなければならない。相手が口で言うことと、相手の手が求めていることが異なっていたら、何を提供すべきかわからないではないか。プロ意識のある買い手は、この点をきちんと心得ている。

そのような意味で、サービスとは協業なのである。売り手はプロフェッショナルとして、最良のサービスを提供する。買い手は、売り手の能力を最善に引き出せるよう、自分の過度な要望を制する。そして相手のやり方を尊重する。とくにサービスが不定型なものになればなるほど、相互性の度合いも増す。

サービスを買う側と提供する側は、対等である。この「対等」という概念も、現代ではとても誤解されやすい。対等とは、単なる「平等」のことではない。必要に応じて、フェアに、応分の義務を負うという意味だ。高速道路を利用するドライバーは、高速の運転ルールに従う。医師が指示したら、患者はそれに従う。金を払ったのだから、後は何をしても勝手だ、とドライバーや患者が考えるのは賢い態度ではない。もちろん、提供者は報酬をもらう以上、適切な品質の道路や治療を提供する義務がある。

道路や医師のたとえならば誰にも分かりやすいのに、設計や開発やユーティリティ提供などのサービスになると、すぐ忘れられてしまうのはどうした訳か。命じれば何でも出てくる、と思う人が増えると、サービス業全体の生産性が損なわれてしまう。それが、わたし達の社会の問題なのだろう。

サービスとは、いわば「雪かき」のようなものである。誰もが応分に、少しずつ汗をかいて歩み寄る。そうすることで、通じる道ができる。そのような形で、わたし達の社会のプロ意識を再興する希望を、持てるだろうか? 通勤に急ぐ人たちの残した足跡を見ながら、わたしは魯迅の言葉を思い出していた。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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<関連エントリ>
 →「休めない人々」 http://brevis.exblog.jp/14417945/ (2011-03-12)


# by Tomoichi_Sato | 2018-01-24 23:54 | ビジネス | Comments(0)

考え、気づく場としての空間を設計する


目を閉じ、頭を下げて腕組みをする。あるいは、逆に椅子の背にもたれかかって、足を組む。そして、しばらくじっとしている。ほとんど、居眠りをしているのではないかと、疑われるポーズだ。どうみても、働いている姿勢ではない。少なくとも、何かをしてるようには見えない。・・こういうことが、勤務先でのわたしには、ときどきある。

だが、こうした、傍目からは何もしていない(居眠りしている)ように見えるときが、じつは一番働いている瞬間なのだと、わたし自身は思っている。いや、別にクビにならないための言い訳をしているのではない(笑)。それは、自分が集中して考えているときの姿勢だからだ。

逆に言うと、自分がパソコンに向かって忙しくキーボードをたたいているときは、もうアウトプットの段階にいるのだ。あるいは、材料の整理の段階かもしれない。考えるときは、インプットの材料の整理が必要だ。そして、考えた結果は、アウトプットしなければ使えない。ただ、考えるプロセスそれ自体は、頭の中のできごとで、外からは見えない。

もちろん、人が考えるときの姿勢ややり方は、様々だ。部屋の中を歩き回らないと考えられない人もいる。背筋を伸ばし、首を伸ばして宙をにら人もいる。ただ、どういう姿勢でいるときが、自分にとって一番頭が回るか、自覚している方が良い。皆さんは、ご自分にとってベストな「考える姿勢」をお持ちだろうか?

ソフトウェア工学の大家トム・デマルコが、昔の友人のエピソードを、たしか『ゆとりの法則』に書いていたと記憶する。その友人は、ベル研究所の自分のデスクで、ある問題について、考えていた。アメリカ人の若い学者がよくやるように、足を机の上に投げ出し、椅子にそっくりかえって、込み入った数式の解決法を考えていたのだろう。すると彼の部屋にマネージャーが来て、「何をしてるのかね?」とたずねる。「え? 考え事をしているんです」と彼が答えると、その管理職は、

「考え事! そんなことは、家でしたまえ」

と叱りつけて、行ってしまったというのだ。その友人はあっけにとられたが、後年、研究職を離れて、会社を作り、かなり成功したという。まあ、研究所なのに、考えるのは家でやれと命じられたら、そういう気持ちになるのも無理はない。

この話を紹介しつつ、デマルコは、「時間的プレッシャーをかけても、人間は早く考えることはできない」という『リスターの法則』を紹介する。これは現代の、スピードと効率性重視の経営に対する批判でもある。人が考えるためには、集中できる時間が、ある程度持続して必要なのだ。集中して考える時間が与えられなければ、創造的なアイデアは生まれない。

ただし、アイデアを思いつくのは、机の前とは限らない。昔から、「馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)」という言葉がある。これらをまとめて「三上(さんじょう)」とよぶのだが、考え事をするのに適した場所、アイデアを思いつくのは、馬に乗っているとき(現代なら車の中か)、ベッドの中、そして厠(かわや=すなわちトイレ)の中だ、というのである。アルキメデスのように、風呂に入っているときひらめく、というのもあるだろう。わたし自身、かなり重要なアイデアを、出張先の新幹線のホームとか、台所で皿を洗っているときに、思いついた経験がある。

そういう意味では、考え事なら外でやれ、というデマルコの元・上司の発言も、完全に間違いとはいいきれない。ただし、事前の「仕込みの時間」がなければ、外を歩いただけでは思いつかないのも事実だ。

米国の広告業界で有名なクリエーターだった、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』 は、薄いけれども非常に中身のある本だ。ヤングは、アイデアの作成技術は5つの段階がある、という。5段階とは、
(1) 資料を収集する(ヤングは、カードやスクラップブックの使用を推奨している)
(2) 資料を咀嚼し、断片的な思いつきを蓄積する
(3) いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう
(4) →ここで突然、真に価値のあるアイデアが生まれる
(5) 生まれたばかりの新しいアイデアを現実に適合させるために、吟味し展開する

ヤングはこの発想法のプロセスを、とても生き生きとしたエピソードで描いてみせる。有用なアイデアは第4段階で生まれるのだが、ここにいたるまでに、(1)〜(3)の準備段階を、丁寧に、かつ周到に行う必要がある。それぞれ、どういう注意が必要かは、同書をぜひお読みいただきたい。ただ、インプットと準備がないまま、漠然と腕組みして待っていたって、どんなインスピレーションも訪れないのは確かだ。

また、このようなプロセスを、組織がきちんと理解して『OS』化する方が、当然、企業の知的生産性は上がるだろう(組織のOSとは、体系化され習慣化された思考と行動規範のことを指す)。そもそも、知的生産性という事に関して、組織が関心を持ち注意を払って、施策をほどこしているかどうか。ただし、そうした施策はしばしば、人間のモチベーション研修や報奨制度など、ソフト面からのアプローチに偏りがちだ。でも、もっと別のアプローチもあるのだ。

随分前のことになるが、わたしの勤務先の大先輩から、ある顧客企業の話を聞いた。その企業は、東京近郊と、地方の学園都市に、二つ研究所を持っていた。東京近郊の研究所は、建物も小さく設備も古い。他方、学園都市の研究所の方は、もっと後から作られたのだが、広大な敷地に豊かな近代的設備を持っている。組織もでかく、若くて優秀な人も多い。

ところが、その企業の重要な新製品は、古くて狭い東京の研究所ばかりから、なぜか生まれるというのである。その先輩は、二つの研究所を実際に訪問し、何が違うのかを調べた。途中の詳細は省くが、彼がみつけた仮説は驚くべきものだった。それは、知的生産性の差は、建物のハードウェアにかなり依存しているというのだ。

古い研究所の建物は、実験設備と研究室がごっちゃに混在しているタイプのレイアウトだった。職員はその中を互いに行き交う。他方、新しい研究所の方は、近代的なアクセス・セキュリティの観点から、研究室は個室化され、また職員が自分の領域外に勝手に出入りできないよう、扉のロックがきめ細かく制御されていたらしい。もちろん、居室と実験室の動線もきれいに分離されている。

その結果、何が起きたか。古い研究所の方では、互いに異なる研究テーマを抱えた研究者達が、おもわぬところでばったりと行き会い、そこで議論や雑談が生まれる。他方、新しい研究所では、まるで団地のように、通路はあれどすべて個室はドアで閉ざされていて、思わぬ出会いのうまれる余地がない。このことが、新製品開発の知的生産性を、左右しているのだろう、というのだ。

その先輩は、論拠として、MITのトマス・アレンの研究成果を引用していた。トマス・アレンはMITのビジネススクールの教授で、製品開発プロセスについて長年研究した人である。彼は元々、航空機会社のリサーチ・エンジニアだったが、ビジネススクールに通って、どうしたら開発の生産性を上げられるかを学ぼうとした。ところが当時の経営学には、そうした問題への答えがないことを知って、みずから研究に取り組んだのである。

トマス・アレンが注目したのは、人と人とのコミュニケーションであった。アイデアは、異質なものの組み合わせで生まれる。このことは、以前から知られていたし、上記のヤングの本も指摘している。である以上、研究開発におけるアイデアの創出には、人と人のコミュニケーション量がかかわっているだろう、とアレンは推測した。彼は実際に、数多くの企業において、コミュニケーションの頻度調査を行った。

その結果、アレンが見いだしたのは、「30m理論」とよばれる法則性だった。簡単に言うと、組織内でのコミュニケーションは、人と人が実際に物理的にどれだけ離れているかに、かなり依存するのだ。頻度はちょうど惑星の引力のように距離とともに減少していき、30mを越えると、かなり無くなってしまう。

それは昔の研究だろう、今は電子メールがあるから違うはずだ、と思われる方もいるかもしれない。アレンはちゃんと、その問題もフォローしている。そして、「対面のコミュニケーションが少ない相手とは、電話や電子メールのやりとりも少ない」という統計的法則を見いだしている。不思議なことに、人間は、物理的に近くにいる人と、しゃべりたがるのだ。オフィシャルな用件の多い少ないにかかわらず。

そこから導かれる方案とは何か。それは、人の知的生産性を活性化したかったら、人と人が出会うように、組織と空間のあり方を工夫すべきだ、ということである。組織をへたに分断すると、一種のみえない壁をつくってしまうことは、よく知られている。しかし建物の中にある、物理的な壁も、けっこう人と人とを分断するのだ。経営学はこの点を見落としていた。

では、一切の壁を取り払って、全部大部屋にすれば良いのか。話はそう単純ではない。建物の構造や空調、そして実験室など部屋の機能に応じて、どうしても壁は作らざるを得ない。と同時に、人には考え事に集中できるための、雑音から切り離された空間も必要である。

集中できることと、人との出会いの機会を、どう両立させるか? ここに建築設計の知恵が登場するのである。トマス・アレンがドイツの建築家グンター・ヘンと共同で執筆した『知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する』には、そうした建築上の工夫がさまざまに紹介されている。

たとえば欧米はどうしても個室志向が強く、下っ端の内は大部屋でも、リーダークラスになると2人部屋、管理職には個室、という慣習をよく見かける。しかし、個室の前面に広いガラスを用いて、静寂だがオープンな雰囲気を作ることはできる。そもそも大部屋でも小部屋でも、見渡した時「あそこに誰某君がいるな」と視認できることが、コミュニケーションを活性化する上で、大切なのである。また、人と人とが出会って立ち話ができる、導線のコーナーのような場所を作ることも大事だ。

グンター・ヘンはBMW社のために、新製品開発センターである「プロジェクトハウス」も設計している。この建物は、通常のオフィスの居室が各フロアの周囲にあり、中心部分に向かう通路がスポークのように通じている。その中心部分のスペースには、現在開発中の新車種のモデルなどが置かれており、それを見ながら皆がディスカッションしたり雑談できるようになっている。こうした建物は、従来のただ真四角の箱のような研究所とは、違った活性を持つように思える。

彼は工場にも同様に、人が他の部署の人やモノにふれあえるレイアウトを作っている。チェコのシュコダ社の自動車工場は、2本並行して走る組み立てラインの中央に、技術部門や管理部門のオフィスが並んでいて、つねに工場の製造現場を見ながら仕事できるようなレイアウトだ。こうした発想は、「現地現物主義」を標榜する日本の自動車会社にも、見かけないように思える。
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スコダ社のチェコ自動車組立工場
(T・アレン、G・ヘン「知的創造の現場」ダイヤモンド社 (2008)より引用)

「生産性革命」という掛け声が、世の中を駆けめぐっている。生産性にはいろいろな切り口があるが、創造的なアイデアの創出は、大事な尺度である。そして、その中の、意外に大きな部分を、執務空間のあり方が決めていることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。アイデアとか、イノベーションといったことは、まだ誰も知らないことを生み出す行為だ。だからそれは計画できないし、知的創造性は一切のマネジメントを拒絶する、と信じている人も、時折見かける。しかし、それは組織や建築空間の工夫によって、ちゃんと向上させることができる。

といっても、何もわたしは、知的生産性を上げるために、建物をつくりかえろと主張しているのではない。机と人の配置やパーティションの選び方でも、改善できる部分はたくさんあるのだ。ただ、一人ひとりが自分に会った熟考の姿勢を体得すると共に、組織も知的生産性を意識して、ちゃんとOS化することが大切だと申し上げているのである。












# by Tomoichi_Sato | 2018-01-15 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

シンプル化のすすめ

最近、勤務先のPCの環境を移行・再構築せざるを得ない機会があった。まあ、一種のお引越である。面倒な作業だが、このチャンスに、少しファイルやアプリの整理をはかろうと思った。PCを数年間も使っていると、いつのまにか、ローカル環境にも、不要なもの、使わなくなったものが溜まってくる。引越は、ゴミ捨ての良い機会でもある。よし、デスクトップもクリーンにしよう。自分の環境は、できる限りシンプルにしよう。そう、考えている。

いろいろな事を、シンプル化したい。最近はそういう気持ちが強くなった。その方がすっきりして、精神衛生にも良いし、集中できるからだ。

わたしは元々、整理整頓・お片付けがそれほど得意ではない。机の上は、ほっとくとすぐ乱雑になってしまう。読んだりファイルしたりしなければならぬ書類が、どんどん積み上がっていく。そのあげく、書類探しで余計な時間を費やすことになる。忙しいから書類整理の時間がとれない、と自分では思っているのだが、その結果、生産性が下がって、さらに自分を忙しくしているのだ。こういうことを何年間も繰り返し、さすがに「このダウン・サイクルから抜け出すべきだ」と思った。

一つのきっかけは、ある方からのEメールだった。

わたしは経営企画部門の仕事をしているため、回ってくるメールの情報量が多い。わたしでこれなら、本物の経営トップの所には、さらに大量のメールが入ってくるに違いない。

ところで、昨年、ある日本でも指折りの大企業のトップに、直接メールする機会があった。そうしたら、数時間以内に当人から短い返信が返ってきて、度肝をぬかれた。当然、秘書経由で2〜3日後に返事があるんだろう、と想像していたからだ。

その後、ご本人に実際にお目にかかる機会があったが、その頭の回転の速さ、視点の戦略的なことに、また印象づけられた。だからこの会社は、低迷する同業他社を尻目に、業績を伸ばしているのだろう。それにしても、本当に仕事ができる人は、ボールをすぐ相手に打ち返して、自分のコートに止めておかないのだだな、と思った。それなのに、はるか格下のわたしが、何日も遅れて返事するのは、まことに恥ずかしいと肝に銘じた。

そこで、最近わたしが取り組んでいるシンプル化のやり方を簡単に記しておこう。けっして偉そうなことは言えないが、多少なりとも読者諸賢の参考になるかも知れない。

まず、モノのシンプル化である。

自分の持ち物は、自分なりに、ずいぶんと減らした。自分が好きで、大事なものだけを手元に残すように心がけるようになった。たとえばワードローブには、自分が気に入った服だけが並んでいる。引き出しには、いつも使う気に入りの文房具だけが入っている。こういう状態が、理想だ。

ベストセラーになった近藤麻理恵・著「人生がときめく片づけの魔法」には、不要なものを捨てる際のテクニックが、いろいろ書いてる。この著者によると、片付けの際は、自分が持っている服を、全部、床の上に並べろ、という。つまり在庫を一望できる状態に「見える化」するのだ。服全部だと多すぎる場合は、カテゴリー単位に、たとえばシャツなり上着なりを、全部棚から出してきて並べる。その上で、一つひとつ手にとって、「ときめく」かどうかを感じろ、という。ときめかなくなったものは、感謝した上で、捨てろというのだ。いかにも感性が女性的だが、とても面白い。

自分もそれにならって、いくつかのカテゴリーについて思い切った整理を行った。さて、モノが減って少なくなると、なんにもしてないのに、自然と部屋の中が整った形になってくる。これは思いもよらぬ効果だった。

実際、いろんな沢山のモノに囲まれている生活よりも、大切な少数のものを長く使う方がカッコいい。学生の頃、聞いた話がある。ヨーロッパの人は、たとえば毛皮のコートなど、仕立て直して長く着続ける。ときには、親から子に引き継ぐのだという。その後、西欧の街で短いながら暮らす機会があったが、周りを見ていると、たしかにそんな感じがあった。

本当に良いものは、長く使える。値段が多少高くても、引き合う。だから質素な暮らしぶりの人達でも、仕立ての良い服を着ている。環境派の人はリサイクルなどを盛んに言うが、それよりも、長く使える良いものを買う方が地球に優しい。すごく安いけど、買ってすぐダメになってしまう衣類を手に、出張先でため息をついた。

ただし、シンプル化の目的は、整理整頓ではない。見た目が整うことは、むしろ副次的な結果だ。けっして、美意識のためにやっているのではない。また、通常思われているように、シンプル化できるかどうかは個人の性格の問題でもない。片付けられない奴はダメな奴だ、という風には、わたしは思わない。台所はゴチャゴチャだけど、ため息が出るほど美味しい料理を出す人だっている。美観の問題ではなく、その人の大切なモノがちゃんとすぐ出てくるようにすることが、目的なのだ。つまり、シンプル化は生産性向上の問題である。

まとめよう。
(1) モノを整理するときは、カテゴリー単位に在庫の全貌を見てから取捨選択する
(2) 気に入った良いものだけに囲まれて暮らす
(3) モノが少なくなれば、必然的に部屋は整う

モノの次は、タスクのシンプル化だ。昨年わたしはシカゴに行ったときに、有名なLeo Babuta氏のサイト"ZEN habits"を読み、あらためて作業をシングルタスク化して、単純化することの大事さに感銘を受けた。("Creating the Elegance of Simplicity & Focus in Your Work Day” https://zenhabits.net/elegance/
Leo Babutaの教えは、単純だ。
・一度に一つのタスクだけに集中する。できれば10〜15分間は中断せずに。
・PCでもスマホでも、一つのアプリだけを立ち上げる。気が散らないようにするためだ。
・ブラウザのタブも、一つを残して閉じる。もし必要ならば、ブックマークしておく。
・メーラーも、メールの読み書き以外をしているときは、閉じる。

メーラーについては、わたしもかつて「メーラーを閉じろ」(2008-10-18)なる記事を書いたことがあるので、同感だった。だが、Leo Babutaの徹底ぶりは、はるかに上をいっていた。ブログには、彼のiPhone画面がのっているが、その何もないシンプルさには驚嘆した。

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彼の場合、アプリは全部、一つのフォルダの中にしまってある(それは別の頁においてあるので、画面には見えない)。ではアプリの起動はどうするかというと、検索画面から起動するのである。iPhoneでは、フロントページから1スワイプで検索窓が出てくるし、最近使ったアプリのアイコンがその下に並ぶ。だから実際やってみると、複数の画面をめくっていくより、ずっと簡単で早い。

比較のために、普通のiPhoneのホーム画面をのせよう。誰のiPhoneかは、ご想像にお任せする(笑)。残念ながら、なんとゴチャゴチャしていることか! この手のアイコン・タイルが、さらに数画面も続くのだ。
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つづいて、Eメール処理のシンプル化にも取り組もう。モノのシンプル化に比べ、メールや書類は情報だから、取り組みがやっかいだ。

まず、毎日送りつけられてくる大量のダイレクトメールは、極力、すべて購読を止める。毎日、いちいち仕分けして捨てる手間とイライラを考えれば、元から絶つ方が得だ。

つぎに、メールはタイトルやプレビュー画面をざっと見て、以下の3種類に仕分ける:
A. アクションや返信が必須のもの
B. アクションはいらないが、仕事上、必読の情報を含むもの
C. 参考的な情報

BとCは、それぞれ「必読」と「後で読む」のフォルダに移す。インボックスに残るのは、Aランクのものだけだ。一つひとつ開けて、すぐにアクションをとる。開けたメールは、しかるべきフォルダに移す。こうして、インボックスは、極力、きれいな状態にしておく。

すぐ返信できないような内容のメールは、いついつまでに回答します、とまず返信しておいて、自分のToDoリストに期限付きでタスク化する。この方が、何も言わずに数日たってからアクション結果を返信するより、ずっとシンプルだし、相手にも感じが良い。

ここでのポイントは、ToDoリストの利用だ。メールボックスというのは、実は一種のタスクリスト(=ToDoリスト)である。そこには読むべき未読メールと、返信すべき既読メールが、着信時間順に並んでいる。だが、自分にとっての優先度順には並んでいない。ここが不便なのだ。

ところで、拙著『時間管理術 (日経文庫)』にも書いたとおり、ToDoリストをきちんと回す最大の秘訣は、一つのリストに集約することである。いくつものタスクが、複数の異なるリストに入っていたら、自分がやるべきタスクの全貌が見えない。だから仕事上であれプライベートであれ、すべてのToDoを一つのリストに集約する。自分には、1日に24時間しかないのだから、当然である。

ここでも、「持っているタスクの全貌を見えるようにする」が秘訣だ。タスクを全部、ToDoリストの形で、見渡す。それを優先度順に並べ替える。そして最重要なタスクから、一度に一つずつ、取り組んでいく。ToDoリストに転記する手間が面倒に思えるが、得られる効果の方がずっと大きい。

なお、Bランクのフォルダに移した未読メールも、それを読むタスクを定期的にToDoリストに入れておく。時間は30分から、1時間程度にとどめる。Cランクのフォルダは、気が向いたときに読めば良い。

まとめよう。
(1) 一度に一つのタスクに、集中する。最低でも10〜15分間は。
(2) 集中できる環境を作るため、余計なアプリは閉じる。メーラーの通知機能もオフにする。
(3) メールはToDoリストを併用して優先度をコントロールし、読んだら極力その場で返信する。

くどいけれど、シンプル化の目的は、美学でも整理整頓でもない。知的生産性を向上させることにある。なぜ、知的生産性を上げたいのか。それは、「落ち着いて考える時間」を手に入れるためである。


<関連エントリ>
 →「メーラーを閉じろ」http://brevis.exblog.jp/8779827/(2008-10-18)


# by Tomoichi_Sato | 2018-01-08 21:00 | ビジネス | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:サンタは存在するか?

Merry Christmas !!

白髪。白い頬髭。男性。年齢は70歳以上かと思われる。白色人種だが、赤ら顔。真っ赤なウールの外套と帽子をかぶっていることが、目立った特徴である。職業、住所は不詳。ただしフィンランド国ロヴァニエミ市宛てに、郵便を出すことは可能らしい。トナカイの引く雪橇という、北国風の珍しい移動手段を使う。それで空を飛ぶという噂もあるが、目撃者は皆無だ。

家の屋根におりて、煙突伝いに暖炉から侵入するらしい。ただし暖炉のない家にも訪れるという。侵入経路は不詳である。そして、眠っている子ども達に、おもちゃなどのプレゼントを贈る。それもなぜだか、靴下に入れておくらしい・・

子ども達が、「サンタさんなんていない」と思い始めるのは5歳から小学校の低中学年の頃である。幼稚園や小学校の年上の子から、「あれって、両親がこっそりプレゼントを寝てる間におくんだよ」という『真相』を教えることが多いらしい。それでも、小さい子は半信半疑だろう。小学生になると、「両親の手前、信じたふりをしておく」くらいの演技もすることがある。

サンタさんを信じなくなる頃は、『幼児』が『子ども』に変わるときだ。荒唐無稽から、理性の時代に入るわけだ。

かくして、みんな大人になる。

それなのに、いまだにサンタさんの話が街に溢れているのはなぜだろうか? だって、大人は、そして多くの青少年だって、サンタは存在しないことを知っているのだ。だとしたら、なぜ、一代限りで『サンタ伝説』はしぼんでしまわなかったのか?

そりゃあ、小さな子ども達の夢を奪わないためさ、というのは寸足らずの説明でしかない。だって、夢を保つなら、もっと信憑性のある別のやり方だって考え得るではないか。空から雪橇でやってきて暖炉から忍び込む、というストーリーは、あまりにも反証がたやすすぎる。それならせめて、「夢の国からやってきて」という方が、まだしも「寝ないで起きて確かめる」を防止できる。

「売らんかな」のコマーシャリズムがサンタ像を利用しているんだ、というのも一理ありそうでいて、必然性のない理由付けだ。だって元々、クリスマスはプレゼントの季節である。クリスマス商戦を盛り上げたいなら、ツリーやらイルミネーションなど、道具立てはいくらでもある。今の、赤い服着たサンタ像は、たしかに20世紀前半にアメリカのコマーシャリズムが補強したものだ。幼児向けのマーケティングだったのかも知れない。だが、なぜそれが世界中に広まり受け入れられているのかが、分からない。

ただ、子どもを育てていて、分かったことが一つだけある。それは、人間が育っていくためには、「物語」が必要だと言うことだ。それも、神話的な物語である方が、「物語力」が高い。

理性の発達しない小さな頃は、それこそ夢と現実の混ざり合った中で育つ。でも、多少は分別のつきはじめる歳になっても、まだ自分を支えるには「物語」を必要としている。自分が成長した先を準(なぞら)えるために、モデルやエピソードとして参照するのだ。そのためには、時代を経た、神話的な色を帯びた物語が良い。豊富なキャラやエピソードの供給源となってくれる。

そして、現代ではTVなどメディア産業が、新しい物語の配給に余念がない。たとえば勇壮な音楽とか、光る武器とかが飛び交う物語などだ。ただ、わたしはそうした消費型商品としての物語が、なぜか奇妙に痩せて平板になっていることが気にかかっている。それは、子ども達にどのような影響を与えているだろうか。

大学でプロジェクト・マネジメントを教えるようになって、もう9年目になる。この間、いささか気になる微妙な変化を感じてきた。教えにくくなってきているのだ。学生たちの学力、とくに書き言葉を含む知的能力自体は、とくに低下していないと思う。低下しているのは、学ぶ力=学びに対する態度である。

わずか一週間前、全員で手を動かして理解したはずの事を、翌週たずねると、もう忘れている学生が、少しずつだが増えている。授業は単位の取得が第一の目的だ。だが、せっかく受けるなら、何かを蓄積し、自分のできる事を増やそうと、望んでいるか。そこが奇妙に希薄になってきた。目の前、その一瞬の課題だけを、頑張ってやり過ごせば良い。一部の学生は、そう考えているらしい。

授業で、「あなたは卒業後5年後に何をしていたいか?」という質問を出すことがある。プロジェクトとは、個人と組織が成長するための最良の手段だと思うからだ。そこまず、自分の近未来の成長の姿をイメージしてもらう。だが近頃は、「会社で命じられる仕事をこなして、あとはプライベートな生活を守りたい」という回答がいくつも出てくる。わたしは複数箇所で教えているが、いずれも有名大学・一流校といわれるところだ。それなのに、日本で最高峰と言われる学校の大学院でさえ、そうした傾向が散見されるのだ。

彼ら学生にとってどうやら、勉学・仕事とは報酬を得るために与えられる苦役である、らしい。世界は次々と、自分たちに課題や苦役を与えてくる。それを、いかにしのいで、自分らしさを守るかが、二十歳そこそこでテーマになっているようだ。だから、就活に向かう学生たちは、ブラック企業かどうかを問題にする。

もちろん、労働搾取的な経営は重大な社会問題だ。そこに議論の余地はない。だが、ジョブズの下でMacintoshを開発していたチーム、Bill Joyと一緒に寝食を忘れてSUNを開発していた創始者達。あれは長時間労働の、ブラック企業だったのか? 彼らは、自分たちが世界を変えられると信じて、働いていたのだ。

ブラックとは、労働時間だけで計れるものではない。「自分たちが世界を変えられる」と信じる度合いと、投入する労働時間の比率で、ブラックかどうかは決まる。自分たち自分たち自身の主人であるかどうかが大事なのだ。希望なき奴隷制度の下で働く人達の下では、たとえ1日6時間労働でもブラックに違いない。

わたしが最近の学生の傾向について心配を述べると、それは「ゆとり教育世代だから」という解説がかえってくることがある。だが、ゆとり教育とは何だったのか。わたし自身の子どもが、まさにゆとり世代だったから、その実相については多少知っている。

ゆとり教育』と呼ばれた制度は、2002年から2011年までの期間、続いた。ゆとり教育が本当に学力低下をもたらしたかどうか、という事実についてはまだ、論争に決着がついていない。だが、学校の授業時間が減らされるときいて、真っ先に浮き足だったのは親達だった。このままでは「良い学校」の受験に通らないと焦った都市圏の父母は、子どもを学習塾に通わせるようになった。

数値的データは示せないが、この10年くらいに目立って増えたのは、小学生の夜の塾通いだ。夜8時、9時に電車に乗っている子ども達の姿を見かけるようになった。あの子達は、いつ、誰と夕食をとっているのだろうか。すでに勤め人の父親は、平日は家で夜、家族と食事をとれなくなっている。それで子どもも夕食を外でとるのだとしたら、家族はバラバラではないか。そして受験教育と、繰り返される模擬試験。そのように育って得られた世界観とは、子ども達にとってどのようなものだったのか?

それはいわば、会社用語に翻訳すると、KPIと査定の繰り返しとしての人生であろう。あるいは、≪自動販売機としての世界≫といってもいいかもしれぬ。そこでは、労力というコインを投入すると、投入額に比例して、お目当ての商品が出てくる。投入しない者には、与えられない。そこから生まれるのは、何も持たぬ者、貧しい者は、「投入しなかったのだ」という結論である。努力を投入しなかった奴がいけない、という自己責任論。それが≪自動販売機的な世界観≫の、脅迫的な帰結である。

もう一つ、付け加えたいことがある。それは『談合』の存在だ。今、メディアでは巨大な公共的工事をめぐって、談合が行なわれていたというニュースが流れている。だが、わたしの知るところでは、問題の某業界のみならず、〇〇業界でも××業界でも、受注調整の相談がこっそり行なわれている。公共事業だけでなく、私的取引の分野でも、だ。わたし達の社会はそのようにして、目に見えない既得権と参入障壁の網の目が、がんじがらめに取り囲んでいる。新参者がイノベーションを持ち込めないようにできている。

公式にはダメなはずの談合が行なわれ続けているのは、受発注の双方に、それなりの社会的なメリットがあるからだ、という議論も非公式には存在する。だが、そういう主張に仮に三分の理を認めたとしても、談合社会には一つ明らかな弊害がある。それは、若い人から参入と成長の希望を奪うということだ。すでに頑丈に出来上がった社会、先行者の既得権に穴をうがち入り込む隙もない社会に、どうやって希望を持てるというのか?

どんなに経済的に立派であろうと、若い人が希望を持てない社会は最悪だと、わたしは思う。自動販売機としての世界とは、投入とその結果が、すべて予見可能な世界である。何か驚くような、思いもかけぬ、しかし良いことなんか起こりようのない人生。それは、サンタクロースが表象する世界観とは正反対だ。サンタが教えているのは、この世には、何か予見できない、しかし驚嘆すべき、うれしいことが起こりうるという感覚である。それは自動販売機ではない世界だ。

学生達に教えていると、それを、多少感じることはある。「将来は結婚して、家庭生活を守ります」などと言っていた学生に、ていねいに教えていると、「プロジェクトで人と何か作り上げていく体験は、面白いと感じました」などと、最後に感想を述べてくれることもある。ほんのちょっとでも、人が変わりうるということ、成長しうると言うのは、ありがたい(有り難い)ことだ。

そうした成長への意欲は、とくに女子に多く感じられるのも、最近の傾向である。今の世の中は、なぜか男の子が育ちにくいのだと思う。男はどうしても社会的動物としての性格が強い。だから社会の目が詰まっていて息苦しいと、希望を持ちにくいのかも知れぬ。彼らはまさに、オトナ達が作り上げてきた「教育という名の管理」の犠牲者である。

ただ、犠牲者と言っても、まだ若い。だから、本当は復元力がまだある。そのきっかけになるのは、『信じること』である。この世には何か良いことがありうると、信じること。それと同時に、逆に教えたり管理したりする側のオトナたちも、彼らを「信じる」ことが必要なのだ。信じないから、取り締まり的な「管理」をしたくなる。だが、人を育てたかったら、「信じて」「待つ」ことが一番大切なのだ。すぐに相手を査定し選別・排除しないで、じっと可能性を待つこと。それはずいぶん忍耐心のいる仕事だ。だが、それをあきらめたら、結果として「人が育たない」「人手不足」という形でツケが回ってくるのは自明だ。

今から2千年前、完成し煮詰まってしまったようなローマ帝国の片隅で、変わらぬ支配下にあえぐ下層民の間に、「この世はもっと良くなりうる」という、不思議なメッセージを携えた人が生まれた。クリスマスとは、その人の生誕、この世への来訪を記念する行事としてはじまった。「あなた方の中で一番小さい者、弱い者に対してすることは、すなわちわたしに対してすることだ」と、その人は最後に言い残した。サンタクロースは、後年、その人にならって、現在のトルコで貧しい子ども達のために活躍した、聖ニコラオという人がモデルになっている。この世を少しでも住みよくしたければ、消費財としての夢物語を売るだけでなく、人の成長という不思議な物語を『信じる』ことから、はじめなければならない。


<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:幸せな人」 http://brevis.exblog.jp/22671239/ (2014-12-23)



# by Tomoichi_Sato | 2017-12-25 07:56 | 考えるヒント | Comments(0)

わたしはなぜ、「プロジェクト管理」という言葉を使わないのか

旅先ではいつも、その土地のものを食べるのが習慣だ。だが、ときおり、外国で日本料理屋に入ることもある。そして、たまに面食らうような体験もする。いつだったか、アメリカの日本料理屋で食事を頼んだら、まっさきに味噌汁だけが出てきた。ふつうの街にある店で、来客はアメリカ人が多い。どうやら彼らの概念では、味噌汁はスープだから(Miso soupとよばれる)、真っ先に出すのが当然だということらしい。味噌汁を飲み終えたら、メインのおかずとご飯が出てきて、妙な気分だった。

汁物をsoupと訳するのは、もちろん正しい訳だ。だが日本語で言う汁物と、英語のスープは微妙に違う。たとえば英語では、スープは食べる(eat)という。日本人で、「味噌汁を食べる」という人は滅多にいるまい。ふつうは飲む、を使う。そして、当たり前だが、ご飯と一緒にいただくものだ。

わたし達が言葉を翻訳をするときは、自国の文化にある似たものや、似た概念を対応づけている。だがスープと味噌汁に見るように、翻訳は近似でしかない。時には、けっこう違うことに注意が必要だ。

わたしは、このサイトでは原則として「管理」という言葉を使わないことにしている。拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』でも書いたように、わたしのモットーの一つは、言葉を大切にする、である。だから、このサイト内では、二つの原則に従うことにしている。第一に、このサイト内では、用語はできるかぎり整合性・一貫性を持った使い方をする。第二に、そうはいっても、世間での使い方からあまりかけ離れないようにすること、の二つだ。

以前も書いたが、日本語の「管理」に対応する英単語は三つある。
  • マネジメント(management)
  • コントロール(control)
  • アドミニストレーション(administration)
なお日本語では、「管理・監督」と並べて使うことも多い。「監督」の英語は、supervision, superintendenceなどだ。

英語では、これらは別の概念である。これを全部、「管理」と一括りに呼んでしまうと、どれのことをいっているのか、分からなくなる。それでは、言葉を大切にしているとはいえない。

ちなみに英語の”manage"には、「荒馬を乗りこなす」といったような語感がある。自分の意思ではなかなか動かない相手を、なんとか自分の目的にあうよう、使いこなす感じだ。

これに対し、”control"は、自分の意思の通りに動く対象について行う、もっと精度の高い行為である。たとえば機械を制御する、自分の思った方向や速度に持って行く、というように。あるいは、個別にきちんとチェックし記録する、という風に。だから、品質管理はQuality controlだし、在庫管理はInventory control、原価管理はCost controである。空港における入国管理官の仕事はパスポート・コントロールであって、これを「パスポート・マネジメント」といったら変だ。入国窓口担当官が、個別の旅行客のパスポート発行に、すごく裁量を持っている感じになる。

そして"administration"は、執務環境を整えるとか、事務手続きをするイメージである。総務的・行政的・庶務的な仕事といってもいい。あるいは、銀行や役所などの窓口業務と言えるだろうか。よくsystem administration(略称シスアド)と呼ばれる仕事があるが、ユーザを登録削除したり記憶領域をバックアップしたりメンテナンスしたりというのが内容だ。ある米国人が”housekeeping type of work”といっていたが、とても感じが出ている。

では、「プロジェクト管理」とは、一体このうち、どれに相当するのか?

わたしの働く業界では、大規模なプロジェクトになると、プロマネ一人では面倒見切れなくなるため、プロマネをサポートするスタッフ達からなるPMT(Project Management Team)が必要になる。このPMTの中には、
  • Project Manager
  • Project Controller (Project Control Manager)
  • Project Administrator
という役職が、それぞれ存在する。

Project Manager(PM=プロマネ)はもちろん、プロジェクトの成果に対して最終的な判断を下し、その責任を負う人物である。これに対し、Project Control Manager(PCM)は、プロマネの立てた戦略を元に、プロジェクトの詳細な計画を立案し、WBS・スケジュール・予算配分などを決め、その計画通りに遂行が行われているかをチェックする。もしコストや進捗について、予実の差異が生じて問題だったら、是正策を考え、プロマネに進言する。つまりプロマネが将軍だとしたら、PCMは参謀役である。Project Adminは、それに比べて、プロジェクト・チームの配員や執務環境のケアをしたりする、まあ総務課長的な役割だ。

これらを全部、「プロジェクト管理」といってしまうと、どの職の仕事を指しているのかわからなくなってしまう。もちろん、小さな規模のプロジェクトでは、プロマネがControlもAdminの仕事も兼ねるし、もっと小規模なら設計などの実務も片手間でやるだろう。ただ、それはConrolやAdminの仕事の要素がなくなる、という意味ではない。

で、日本語の「管理」概念(あるいは語感)は、三つの英語を全て包含するかというと、そうではなくて、もう少し狭い。

たとえば、何か大事な物品をあずけて、「ちゃんと管理しておいてくれ」という場合、それはモノをちゃんと保管し、位置や状態を把握しておくことを意味する。つまり「管理」とは、誰かや何かを、自分の指示下に置いて、細かく動かすことである。言いかえれば、コントロール下におくイメージだ。

同じように、部下を管理する、とは、部下の一挙手一投足を指示し把握することを、通常、意味しがちだ。それは部下の自由度を奪うこと、ないし、上司の権力(強制力)を誇示することにも、通底している。こういう「管理」とは、上官の指示で突撃する兵卒に対して使う言葉のニュアンスをもっている。実際、少なからぬ組織では、軍隊式が「管理」の暗黙のモデルになっているようだ。

逆に、「管理」という言葉は、目上や対等な相手については、使わない。「ステークホルダー(たとえば顧客主や官庁)を管理しておけ」、とはあまり言うまい。この点、英語のManageとは違う(ご存じの通り、PMBOK Guide第5版からは、"Stakeholder Management"という章が付け加わった)。このように、日本語における管理概念は、とてもタテ社会的な序列感覚に裏打ちされている。したがって、『管理』という語に反発心を感じる人も、現場には多い。
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さらに言うと、日本語の「管理」は語義が広いとは言え、英語のManagementの全領域をカバーしきれていない。たとえば「マネジメント・サイクル」という概念がある。Plan-Do-Seeのサイクルを回すことである(PDCAのデミング・サイクルの方が日本の製造業ではポピュラーだが)。あるいは、計画・組織化・統率という、ファヨールのプロセスでもいい。

仕事をきちんと回すとは、このサイクルを動かすことと同じである。であるからには、
  • ろくな計画も立てずに行き当たりばったり獲物を追いかけたり
  • フォーメーションや役割分担も考えずに自分が真っ先に走り
  • 終わったことについて記録もとらずふりかえりの反省もしない
  • もちろん標準化も考えず、改善も変革もしない
…こんな「突撃型」上司を持った日には、下の人間はたまらない訳である。これではマネジメントをしているとは、言えない。なのに、マネジメントの仕事をきちんと教育せぬまま、『管理職」につけて、部下を管理する権力を与えてしまう組織を、しばしば見かける。

ちなみに、知的な職種でも、『管理』という言葉をカッコいい、と感じる人は多いらしい。昔、中小企業診断士の勉強をしていたとき、教科書や教科書に、管理・管理のオンパレードで驚いたことがある。経営基本管理・販売管理・仕入管理・財務管理・労務管理・生産管理・・あらゆる項目名に管理がついていた。それどころか、労務管理のテキストを読んでいたら、「労務管理の管理」という章があって、頭が痛くなった。なんだそれ? である。

その説明によると、労務管理という仕事について、計画→統率→評価のプロセスを回せ、と書いてある。これ、英語ならHuman resourceに関する仕事のManagement cycleを回せ、と表現するだろう。だが、この先生の頭の中では、「労務管理」とは労働者への指示命令のことだけを指すらしい。だから「労務管理」の管理、などという、屋上屋を架す用語が出てくるのだ。こういうのは管理中毒と言うべきだろう。

だが、もっとこまるのは、『管理過剰症候群』という病気だ。この病気にかかった人や組織は、何かうまくないことが起きると、「管理を強化しろ」という。業績が不振になったり、プロジェクトがうまくいかなかったりすると、上位職の管理者が、事細かにプロマネや現場に指示を出し、報告を要求する。そして、ありとあらゆる判断に、承認手続きを義務づけ、現場の裁量を奪う。事細かに目標値や制約条件を設定し、押しつける。これによって、現場の暴走を止め、プロマネの無能力を補正するつもりなのだ。だが、結果としてプロマネは報告義務に追われ、落ち着いて考える時間を持てなくなりがちだ。

たいていの場合、トラブルに陥ったプロマネに対して必要なのは管理ではなく、支援であろう。プロマネの悩みとは、いつも相場が決まっている。それは、お金がないか、人が足りない、なのだ。だが部門の壁や、プロジェクト独立採算制の制約にはばまれて、こまっている。だから、会社の側は、そこをどうにかしてやる必要があるのではないか。仮にもし、それでもプロマネが無能力だったなら、それはそもそも、任命した側に責任があることになる。

マネジメントとは、適切な裁量を持たないとできないことを、管理過剰症候群の人達は忘れている。裁量とはすなわち、(わたしの好きな用語で言うと)『自由度』だ。いいかえると、自分で決められる、ということ、自分が自分自身の主人であることである。これが自由の意味だ。

適切な自由度を与えることで、はじめて現場の様々な環境変化に、自在に適応できるようになる。日本語の「管理」には、あいにく、この「適切な自由度」の感覚が足りない。だが、自由度を与えないと、現場の者に責任感が生まれない。責任感のある仕事をしてもらいたかったら、「管理」するだけでは不十分である。そうでなければ、どうして創意などというものが生まれるだろうか。

名著「自由を子どもに」 を書いた小児科医の松田道雄は、次のような意味のことを述べている。保育や教育という仕事は、いつの間にか、子どもの「管理」になってしまっている。子どもたちに問題が生じると、もっと管理を強化しろと、親も社会もいう。それほどまでに、今の大人は管理に自信を持っているのだ。だが、そのこと自体が、まさに子ども達を不幸にしているのに気がつかないのだ、と。

松田道雄がこの本を書いたのは、今から44年前の1973年だった。わたし達はそれ以来、少しは進歩しているのだろうか。もし仕事に責任感と創意を求めたかったら、まず「管理」を見直すことから、はじめるべきではないだろうか?


<関連エントリ>
 →「マネジメントと管理はどこが違うか」 http://brevis.exblog.jp/10625203/(2009-07-15)

# by Tomoichi_Sato | 2017-12-18 06:04 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(1月25日)開催のお知らせ

各位:

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2018年第1回会合を開催いたします。

新年第1回は、久しぶりに製品開発、とくに研究開発におけるプロジェクト・マネジメントについて、キユーピー(株)の元常務取締役・研究所長であった和田義明様に、ご講演いただきます。

ご承知の通り、企業におけるイノベーションの創出活動、とくに研究という仕事は、まだ誰も知らないものを生み出すことにあります。他方、マネジメントとは計画を立て、明確な目標イメージを持って統率していく行為です。誰も知らない目標に向かって、一体どのように組織をマネージすべきなのか? ここに研究開発マネジメントの本質的な難しさがあります。

今回は、実際の研究開発の実務を長年リードしてこられ、さらに研究開発の方法について博士号を取られた和田様から、R&Dのマネジメントについて実戦的なお話を伺う予定です。ぜひご来聴ください。


<記>

■日時:2018年1月25日(木) 18:30~20:30

■場所:三田キャンパス 研究室棟B会議室(1F)
 ※キャンパスマップの【10】
 (いつもの北館とは別の場所ですので、ご注意ください)

■講演タイトル:
企業における研究開発の活性化策(プラットフォームとブーストゲート法)

■概要:
 研究開発を活性化してイノベーションにつなげることを目的に、キユーピー㈱研究所にて取り組んだ手法を紹介する。具体的には、組織力を高めるプラットフォーム・マネジメントと、研究を事業につなげるブーストゲート法である。その方法、効果、事例について紹介する。

■講師:キユーピー㈱ アドバイザー 和田 義明

■講師略歴:
【学歴】
 1978年 東京農工大学農学部農芸化学科卒業
 2012年 東京農工大学専門職大学院技術経営研究科修了
 2014年 東京農工大学大学院工学府応用化学専攻博士後期課程修了
    博士(学術)
【職歴】
 1978年 キユーピー㈱入社(以後工場、研究所、マーケティング部門勤務)
 2000年 同社研究所部長
 2006年 同社執行役員品質保証本部長
 2009年 同社取締役研究所長
 2012年 同社常務取締役(ファインケミカル事業、研究開発本部、品質保証本部、商品開発本部、知的財産室管掌)
 2017年 同社取締役退任
【現在役職】
 キユーピー㈱アドバイザー
 上海海洋大学客員教授
 中央大学、関西大学、千葉工業大学非常勤講師
 東洋食品工業短期大学非常勤講師兼テクニカルアドバイザー
 国際プロジェクト・プログラム・マネジメント学会評議員
 タマゴ科学研究会理事、日本能率協会食品安全部判定委員

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥2,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。

佐藤知一@日揮(株)

# by Tomoichi_Sato | 2017-12-15 00:48 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロジェクト計画のロジックとは何か 〜 やはりExcelで工程表を書いてはいけない (2)

前回の記事「ダイレクト・ガントチャート方式の問題点」http://brevis.exblog.jp/26231556/ で、世間ではそもそも「WBS」とか「Activity」という概念のレベルで、誤解や混乱があると書いた。

たとえば、WBS=「ガントチャートの線表に引いた線の集合」だ、と理解している人達を、よく見かける。ためしにネットで、「WBS スケジュール」の2キーワードで検索をかけてみると、よくわかる。上位の検索結果に、こういう説明が出てきたりする:

「WBSとはプロジェクトのスケジュール管理に使われるツールの1つ。作業工程を分解して示したものと、それをスケジュールにしたものを合わせてWBSと呼ぶことが多い」

この説明など、残念ながら逆立ちしている。WBSはスケジュール管理用のツールでもないし、もちろんガントチャートの線も含まない。WBS(Work Breakdown Structure)とは、プロジェクトのスコープを階層的に分解したものを指す。スコープを単位作業の集合として構成し管理番号を付番したもので、つまりスコープ管理用のツールなのだ。まずWBS作成が先にあって、最後にガントチャートや予算表ができる訳なのだから、逆立ちなのである。(なお、たまたまGoogle検索で上位にヒットしたので、上記サイトをやり玉にあげさせていただいたが、全体としては平易で良い記事が多いと思う。だからこそ、こうした誤解が残念なのだ)

ついでにいうと、タスクとアクティビティという用語も、しばしば混乱して使われているようだ。プロジェクトのWBSを構成する要素作業は、「タスク」とよぶのか、「アクティビティ」とよぶべきなのか?

世界で最も広く普及しているPM分野の標準書「PMBOK Guide」では、一貫して、プロジェクトの要素作業を”Activity"とよんでいる。これが、世界的な共通語である。ただ、わたしの知る限り、日本のIT業界では、プロジェクトの下位要素を「タスク」とよぶ人が非常に多い。まあ、一種の業界慣習(?)なのだろうか。むろん習慣に従うのは自由だが、外の人と話すときには、自分たちが方言を使っていることを意識しておいた方が良い。

ちなみにPMBOK Guideでは、タスクという用語は、"Daily task”の形で出てくる。日々の細かな宿題、課業である。すなわちTaskとは、To Doリストとか課題管理表で追いかけるべき、細かな作業を指す。

しかし、Activityは違う。これはプロジェクトを構成する単位作業で、ある意味、プロジェクトの縮小版であり似姿だ。Activityは、通常、完了条件を持つ。つまり、アウトプットとしての成果物がある。あるいは、ある状態になったら完了していい、との条件がある。

たとえば、要件定義というActivityは、『要件定義書』という成果物を生み出したら完了する。あるいは、テストだったら、試験完了の状態になれば終わる(まあ普通はテスト報告書も作成するけれど)。つまりActivityというのは、プロジェクトと同じく一過性の仕事なのである。じゃあ、週次ミーティングは何なのか? WBSには入れないのか? との疑問が浮かぶかもしれない。それはDaily taskです、というのが答えだ。

Activityには、必要なインプットがある。インプットは、部品・材料といったモノの場合もあるし、情報の場合もある。さらにActivityには、それを遂行するためのリソース(経営資源)も割り当てなければならない。つまり担当者であり、機械やツールであり、作業場所である。こうしたものは作業中は占有するが、終われば開放されて、別の仕事に使える。リソースは、Activityで消費されてしまうインプットとは性質が異なる。

そして、各Activityはその内容・種類に応じて、作業量(BoQ=Bill of Quantity)を推算しなければならない。これがコストやスケジュールのベースとなるからだ。

プロジェクトのWBSを構成する全Activityについて、そのインプット、アウトプット(完了条件)、リソース、そして作業量(BoQ)をまとめた表を、Activitlyリストとか、WBS Dictionaryとよぶ。たとえていうならば、WBSとは、日本全国を50都道府県に分解し、さらに各県を市町村に分割し、マネジメントしやすい自治体の単位に表示した、お仕事の地図のようなものである。この地図帳には、WBS Dictionaryという統計表がついている。これが、プロジェクト・マネジメント計画の土台なのだ。単なるスケジュール管理用のツールではないことが、お分かりいただけたと思う。

さて、「ダイレクト・ガントチャート方式」の問題点に話を戻そう。いうまでもなく、ガントチャートは、チームメンバーや顧客・外部協力会社とのコミュニケーション上、必須の道具である。PERT/CPMの計算に使うActivity Network線図など、誰も見たくないだろうし、見てもよく分かるまい。わたしの勤務先でも、PERT/CPMの計算の後、必ずガントチャートを作成して、プロジェクト・チームに配布する。それを元に、キーパーソン同士による「総合工程会議」を開いてレビュー・議論し、完成するやり方をとっている。

だが、頭の中にWBSもActivityリストもないまま、いきなりガントチャートの線表を書き始める「ダイレクト・ガントチャート」方式は、全然別物だ。アウトプットとしての線表は共通だが、背後にきちんとしたスケジューリングのロジックがないため、これをスケジュール管理用に使うのは、けっこう危険である。まあ「ロジック・ガントチャート」方式と「ダイレクト・ガントチャート」方式は、アウトプットの線表だけ見ると似ているので、両者の違いを知らない人が多いのかもしれない。

では、プロジェクトのロジックとは何か?

狭義には、Activity間の依存関係やスケジュール上の制約条件を示したものを指す。たとえば、あるActivityのアウトプットが、他のActivityのインプットやリソースになる場合、両者の間に先行→後続という、依存関係が生じる(Finish to Startの略でFS関係とよぶ)。あるいは、ペンキ塗装のように、あるActivityが開始してから一定日数後に、別のActivityを開始できることがある。これをStart to Startの依存関係とよぶ(略してSS)。

こうしたロジックは、Activity Networkを組むベースとなるだけではない。あるActivityが予定から変化(遅れた・早く完了した)場合に、他のActivityにどう影響するかの予測を、可能にする。

なお、スケジュール・ロジックは広い意味では、Activityの所要期間の推定根拠(何で決まるか)も含む。つまり、作業量(BoQ)と、投入リソース量と、生産性である。所要期間は、以下の式で計算する。

所要期間=作業量÷(生産性×投入リソース量)

リソースが人間の場合は、所要期間=作業量÷(生産性×人数) になる。作業量は、ソフトウェア開発の場合なら、たとえばFunction Point(FP)だとか画面帳票数だとかLOC(コード行数)などのパラメータで測ることが多い。

かくして、WBSを構成する各Activityについて、作業量(BoQ)と投入リソース量と生産性から、所要期間が決まる。もっとも中には外部調達機器の納期のように、外から与えられる所要期間も無論ある。

そして、ロジックを元にActivity Networkを組んで、はじめてクリティカル・パスがわかり、プロジェクト全体工期が計算できるのである。全体工期がわかって、はじめてプロマネの工数を積むことができる。だから、計画立案は必ず、スコープ→WBS作成→スケジュール計画→コスト見積の順番になる。

ところが、ダイレクト・ガントチャート方式は、途中を中抜きして、いきなりスコープからガントチャートを作ってしまう。家を建てるのに、土台や柱の骨組み抜きで、壁を立て屋根を乗せているようなものだ。途中で倒れなかったら、まあ幸運である。

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ダイレクト・ガントチャート方式をとる人には、しばしばもう一つの問題がつきまとう。それは、ガントチャート上に、フロートを表示しないことである。フロートとは、そのアクティビティがどれだけ遅れると、プロジェクト全体の納期に影響を与え始めるかを表す数値だ。無論、クリティカル・パス上のアクティビティのフロート日数はゼロである。

たとえば4月開始で、実質の所要期間は3ヶ月のActivityがあるとしよう。ただし、並行する別の作業があるために、8月末までに完成すればいい。このとき、本来ならば3ヶ月間の実線と、2ヶ月分の余裕日数(フロート)を表す点線を、横に並べて引くべきだ。

だが4月から8月末まで、5ヶ月分、バーの実線を引いてしまうケースが多いのである。ロジックをよく理解していない人は、フロートの概念があいまいだからだ。こうすると、そのActivityの正味の所要期間が見えなくなってしまう。

こういう線をあちこち引いたガントチャートを見て、さて、プロジェクトの最長の経路(見かけ上の最長経路)をクリティカル・パスだと判断したら、当然おかしなことになる。クリティカル・パスとは、フロートを差し引いた正味の経路長が最大のものを指す。プロジェクトの全体工期を制約する最長の経路である。プロマネは、納期を守るために、クリティカル・パスが遅れないよう、注意を集中すべきだ。だが、フロートが見えないと、間違ったAcitivityに注意を向けたりしかねない。

ちなみに、プロジェクト・マネジメントという特殊なActivityについても、注意を向けておきたい。これをWBSにいれていない大企業を、見かけたことがある。思わず、「プロジェクト・マネジメントはしないんですか」、と口走ってしまった(苦笑)。もちろん、プロジェクト・マネジメントには確実に工数がかかるので、見積に必要である。プロマネだけでなく、書類事務などが多い場合は、アシスタントもつける必要もある。だからWBSに無いのはおかしい。

ただしプロジェクト・マネジメントというActivityは、固有の成果物と、固有の所要時間を持たない点が特殊だ。その期間は、プロジェクトのクリティカル・パスの長さに依存する。
だからガントチャートでは、省略されることも多い。うっかり線を引くと、それがクリティカル・パスみたいに見えてしまう。だが、WBSの一部である。このように、WBSとガントチャートは、一致しない点がある。

以上、ダイレクト・ガントチャート方式を批判してきたが、じつはわたし自身、直接ガントチャートを引くことがある。それは、身近で数人が関わる程度で、期間も数週間程度のごく小規模なプロジェクト的業務の場合である。役割分担を決め、やる事とタイミングを決めたら、あとは走りながら考える。必要に応じて、微調整していく。その程度で十分な仕事が、確かにある。え? 線表は何で引くかって? もちろんExcelでだ(笑)

無論、きちんとWBSを作りプロジェクト計画を立てるべき仕事もある。当たり前だが、規模によって、マネジメントのやり方は変えなければならない。3人のお客様を呼ぶパーティーと、300人のお客様を呼ぶパーティーでは、段取りから何から全て違うのだ。あるいは、先ほどの家を建てるアナロジーでいうと、犬小屋なら地面にすぐ壁を立て屋根を乗せても大丈夫だ。だが普通の木造家屋では、そうはいかない。そして10階建てのビルなったら、そもそも材料も構造も変える必要がある。

つまり、規模とマネジメント手法の相関が大事なのである。少しでも複雑化した仕事、規模の大きなプロジェクトでは、それに見合うやり方を選ばなければならない。なぜなら、小さなスケールの仕事で「分かっている」と思ったやり方が、通用しなくなるからだ。本格的なやり方を知った上で、小さな場合には適時省略する、のは構わない。だが、本式のやり方を知らないのでは危うい。

現在のPMBOK GuideやPMP試験の問題点は、ここにある。プロジェクトの規模や複雑性によって、適切なマネジメントのやり方を選ぶべきだ、という事をハイライトしていない。たとえ規模は変わらなくても、海外プロジェクトは、パートナーやステークホルダーと契約関係が、複雑性を増大させる。なのに国内と同じ簡略化した進め方が通用すると思ってはいけない。規模が大きくなったり、プロジェクト構造が複雑化したら、より精度の高いプロジェクト計画が必要なのだ。

ちなみに、上に挙げた図の中で、点線で囲まれた部分は、わたしの主催するプロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会が開発中の、初級者向け研修コースのカバー範囲である。わたし達の研修プログラムの最大の特徴、他との違いは、PMにおける「システムズ・アプローチ」の涵養にある。受講者には最初に手を動かして、ロジック・ネットワークを作成してもらう。それを通じて、「プロジェクトとはActivityからなるシステムであり、そこには独特のロジックと動力学がある」という感覚を得てもらうことがポイントだ。ここが身につかないと、どこを簡略化すべきか、分からない。

Excelで工程表を書くべきではない、というのは、こうしたロジックが磨かれないからだ。それは、本当はツールの問題ではない。MS ProjectでもPrimaveraでも、やろうと思えば「ダイレクト・ガントチャート方式」は可能だ。まずいのは、ツールではない。ツールを使う条件、使える範囲を知らずに、いつでも使うことだ。

知らないことは、別に恥ではない。知ろうとしないことが、恥なのである。


<関連エントリ>
→「ダイレクト・ガントチャート方式の問題点」http://brevis.exblog.jp/26231556/ (2017-12-02)
→「仕事の最小単位ーーアクティビティの構造を学ぶ」 http://brevis.exblog.jp/13992804/ (2011-01-16)



# by Tomoichi_Sato | 2017-12-10 06:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(4)

ダイレクト・ガントチャート方式の問題点 〜 やはりExcelで工程表を書いてはいけない (1)

このほど、自分で「マイ・ベスト・セレクション」なる本を編んでみた。過去17年間に書いてサイトに公開した数百の記事の中から、自分が気に入っているベスト12を選んで、ePub形式の電子書籍をつくってみたのだ。まあ書籍といっても、素人のつくった手製(手編み?)の本で、いってみればβバージョンではある。ベスト・セレクションの中には、アクセス数の多かった記事も入れたが、目立たないけど愛着のある記事も選んだ。多少は文章に手を入れたつつも、なるべく発表当時のスタイルを残している。

ところで、わたしのサイトには、アクセス数で言うとダントツ1位の記事がある。「Excelで工程表を書いてはいけない」(http://brevis.exblog.jp/9052344/)という、2008年11月24日の記事だ。もう9年前の記事だが、いまだに毎週のBlog記事ランキングのトップに位置し続けている。

そして、実を言うと、これほど評判のわるい記事もない。それは、コメント欄を見ていただければ分かる。当サイトのコメント欄は、明らかに広告宣伝と分かるもの以外は原則、消さないことにしている。コメントの8割以上が、まあ、ぼろくそな批判である。

批判の主旨は、「お前はExcelを批判しているが、かわりの提案をしていない」というものが多い。たしかにその通りで、これは批判者の方が正しい。「Excelのかわりにこのツールを使えば大丈夫だよ」というソリューションを書いていないから、記事の前半で提起した問題意識が、後半で腰砕けになっている、という風に読める。かわりにわたしは、「自分で考えましょう」みたいな書き方をしているからだ。

しかし、そんなに程度の低い記事だったら、なぜあっという間に忘れられてしまわなかったのか。なぜいまだに、毎日かなりの数の閲覧があるのか。そして、なぜ皆、Excelのかわりを求めて読みに来て、回答が書かれていない、と怒って帰って行くのか? −−もちろん、Excelで描く工程表が、やはり不便だからだ。

では、わたし自身は、実際の仕事では何を使っているか。

わたしは現在、経営企画部門におり、プロジェクトのライン部門は5年前に離れている。ライン部門にいた時は、じつはPrimavera Project Planner(略称P6)をつかっていた。Primavera P6は、いわゆる大規模なエンジニアリング系プロジェクトでは、ほとんど国際的な標準ツールになっている。

今でもわたしは、ちょっと込み入ったプロジェクトのスケジュールを考えるときは、Primaveraを使いたくなる。それだけ便利だからだ。

ただし、これはプロのツールである。

プロとは、"Project Control Manager”とか"Schedule Engineer"とか呼ばれる職種・ポジションの人達を指す。そもそもこういう職種自体、多くの業種には馴染みがないと思う。大規模プロジェクトをつねに遂行している組織でなければ、こういう専門職種は必要ないからだ。ちなみにプロジェクト・マネジメントはゼネラリストの仕事だと思っている人が多いが、じつは、スケジュール、コスト、品質、ドキュメントなどの要素別に専門分化している、プロマネのためのスタッフ職種があるのだ。米国PMIには資格試験まである。

それはともかく、Primaveraというソフトウェアは、きちんとトレーニングを受けなければ、使えないし、使っても意味がない(出力の意味が読み取れない)。値段は1本約30万円。まあ、プロの道具としては安いとわたしは思う。

参考までに、Primaveraの画面の一つ(典型的なガントチャート表示と、各Activityの属性を示すサブペイン)のスナップショットをつけておく。Primaveraでは、Activityには自由にカテゴリーと属性を定義でき、その順にソートしたりフィルタリングしたりできるようになっている。もちろん、リソース負荷山積みによるヒストグラム表示なども、よく用いる。
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では、それほど大きくない、もっと日常的なプロジェクトを組む場合、わたしは何を使うか? −−じつは、Excelで工程表を書くことが多い。

なんだBlog記事の主張と矛盾してるじゃないか! とお怒りの読者もいるかもしれない。いや、だが元の記事を、よく読んでほしい。別にわたしは、ガントチャートを画くのにExcelを使うこと自体がわるい、といっているわけではない。「Excelで工程管理してはいけない」と書いているのだ。

『工程管理する』とはどういう意味か。それはもちろん、工程(日程とかスケジュールと読み替えても良いが)の計画とコントロールである。

  • プロジェクトのスタートにあたり、工程表(ガントチャート)を作成し、定期的にアップデートすること
  • 進捗上の問題を検知し、対策を立てて問題解決をすること
  • それによって、プロジェクトの最終納期を目標通り収まるようコントロールすること、そして
  • 社内・社外の関係者に、先々の予定を立て準備できるようにすること

これが工程管理だ。そして、こういうひとまとまりの仕事を、Excelの絵1枚だけで済まそうとすると、相当に苦労するよ、と申し上げているのである。

2008年に書いた問題のサイト記事では、Excel工程管理について、とくに実行段階に入ってからのトラッキングとアップデートが大変だと書いた。しかし、もう一つの問題があることに、最近気がついた。それが、「ダイレクト・ガントチャート方式」である。

3ヶ月ほど前のことになるが、研究会仲間のY氏からメールをもらった。Y氏は、問題プロジェクトの火消しのために、海外に駐在されているところだった。この時期、わたしは「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の仲間とともに、新しいPM教育のプログラムを作成していた。それに際して、Y氏がコメントを送ってくれたのである。

わたしたちのつくった研修カリキュラムでは、最初にプロジェクトのWBS構成と、アクティビティを表すカード数十枚を、受講者に配る。受講者はグループを組んで、各アクティビティのインプットとアウトプットを見ながら、アクティビティ間の順序関係(ロジック)を理解する。そして、アクティビティ・カードを模造紙の上に並べて、ロジック・ネットワークを作成する。ここは手作業で、ワイワイ言いながら、結構時間のかかる部分だ。その上で、PERT/CPMの計算をして、余裕日数(フロート)=0となるクリティカル・パスを見つけ、納期を予測する、という段取りになっている。

コンピュータソフトを使わず、あえて紙の手作業、それもグループ単位の演習にしたのは、言葉にして話し合う方が、より頭に残りやすいからである。

そしてこの演習では、プロジェクト計画立案の本来のプロセス(の一部)を、順を追って理解してもらうことに主眼がある。本来のプロセスとは、

(1) スコープ定義
(2) WBSの作成
(3) Activityリスト(WBS辞書)作成 →アウトプット(成果物)とインプットの定義
(4) ロジック・ネットワーク作成
(5) クリティカル・パス法(PERT/CPM)計算
(6) スケジュールの決定
(7) コスト見積

という流れである。このプロセスをきちんとやるのは面倒で、時間がかかるが、計画の精度が高まり、うっかりした見落としがなくなる。

ところで、Y氏はメールの中で、しばしば現実には「ダイレクト・ガントチャート方式」が行われている、と指摘された。ダイレクト・ガントチャート方式とは、プロマネがプロジェクト計画をつくる際に、WBSやアクティビティ・ネットワークを作成せず、いきなりスケジュール・ガントチャートを描き始めるやり方である。

「プロマネのハンドリングでさばける範囲であれば、Activity Networkを作成するより、ダイレクトにガントチャートを作成する方が負担にならない」とY氏は指摘する。しかし、「その範疇を超えた、(より規模の大きな)プロジェクトに対して、Activity Networkとクリティカルパスの概念を理解していないプロマネが、ガントチャートでマネジメントしようとすると、失敗プロジェクトに陥る。」−−これがY氏の経験から見た観察であった。

ちなみにY氏は、「ソフトウェア業界ではActivity Networkを作っていないケースが非常に多い」とも書いている。これは、そうだろうと感じた。いや、わたしの見るところでは、その前にそもそも、「WBS」とか「Activity」という概念のレベルで、誤解や混乱があるのである。

(この項続く)


# by Tomoichi_Sato | 2017-12-02 15:05 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

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# by Tomoichi_Sato | 2017-11-28 22:56 | ビジネス | Comments(0)