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BOMのレベルとは何か

  • BOM用語はなぜ分かりにくいか

BOMの用語はややこしい。BOM(Bill of Material=部品表)の概念自体はもう、50年以上もの歴史がある。その間に、いろいろな用語・概念が確立し、徐々に変遷してきた。またBOMをめぐるソフトウェア業界にもいろんな技術進化と流行があり、大手ベンダーが差別化のために提唱した用語が、いつの間にかスタンダードみたいに普及していくこともある。

近年では、BOP(Bill of Processes)という用語がそうだ。このBOP概念はここ10年くらいに普及してきたものだが、実はまだ発展段階で、きちんと定まっていない。同一企業内でも異なる意味で使っていたりする。ちなみに2004年に発刊した拙著「BOM/部品表入門」では、BOPという言葉は取り上げなかった(ほとんど使われていなかったのだ)。しかし最近のBOMのセミナー等では、かならず説明する必要がある。

ちなみに、ERP(Enterprise Resource Planning)という用語だって、ある意味その一例だ。これは元々、MRP(Manufacturing Resource Planning)=製造資源計画という、生産管理用語からきている。これは部品・資材をはじめ、機械設備、人員、そして資金など、製造活動に必要な資源(Resource)を包括的に計画する活動を指す。その中心にあるのが、製品とその部品表BOMデータだった。80年代後半頃の話だ。

ところで、そこにドイツのSAPという会社が現れ、財務と管理会計を中核にして、企業内のあらゆる活動(部門間取引)データを集約するパッケージを考えた。彼らは、企業の財務部門が原価をベースに、すべての経営資源を計画するのが理想だと考えた(らしい)。そして、MRPをもじってERPなる造語をつくったのである。だがSAP社がメジャーになるに従い、ERP概念も通用範囲が広まり、今では世のはじめからある一般概念みたいな顔をしている。


  • BOMのシングルレベル表現とは

話を戻そう。BOM概念は、MRP(Material Requirement Planning)=資材所要量計画という生産管理手法と共に産まれ育ってきた。60年代アメリカでの話である。ここで述べている60年代のMRPと、上で書いた80年代のMRPでは、頭文字は同じだが、単語・概念が違うことに注意してほしい。普通は区別するため、後から出てきた方(製造資源計画)を、"MRP II"とよぶ。

MRPが産まれた当初、コンピュータは大型ホストしか存在せず、言語はアセンブラかCOBOLかFORTRANのみ。RDBなど存在すらしない時代だった。この時代に、ツリー構造のBOMデータを定義した先人達は、相当な苦労をした。

今日のテーマであるBOMのレベルとか、シングルレベル・マルチレベルという表現は、その時代からある考え方である。これには、コンピュータ内部のデータ構造としての側面と、ユーザに見せる表現系としての側面がある。でも分かりやすいように、表現系の話からしよう。

一番初期のBOMは、単純な部品リストだった。つまり製品を構成する部品の表である。親子関係は1段階。BOMの世界では、ツリー構造に表示した際に、上から順にレベル番号をふっていく。建物のように、一番下を1階として、順に上の階に番号を振るのではなく、最上階から下りるように番号を振る。

BOMの最上位にある最終製品を、レベル0とよび、そこから段階に従ってレベル1、レベル2とする(なお、最終製品を1とする流儀もあるが、レベルとは最上位からの距離を示す「距離」だと考えて、0とする方が計算上、何かと便利なので、わたしはこちらを採用している)。


  • 機械組立図の部品表と、シングルレベルBOM

さて、機械製品などでは、設計部門が組立図を作成する。そして通常、製品を構成する部品をリストアップして、図の右とか下に表形式で表示するのが、つねだった。これが設計部品表(E-BOM = Engineering Bill of Material)の原型だ。ちなみに古い時代は、Bill of MaterialをBOMではなく"B/M"と略すことも多かった。この部品表は、親である製品と、子である部品の1段階の親子関係を示す。つまり、機械組立図から導出される部品表は、通常、シングルレベルBOM(サマリー型部品表)になる。

ところで機械モノではしばしば、アッセンブリー品(Assembly item)が用いられる。これは、ある程度独立した機能と内部構造を持つ、パーツのことである。たとえば、駆動用モーターなどがその例だ。同じモーターが、複数製品に用いられたりする。そこで設計部門は普通、アッセンブリー品の組立図を別に作成する。その組立図にも、アッセンブリー品の部品表がつく。これもシングルレベルBOMだ。

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さて、BOMの重要な用途は、構成管理や資材手配計画である。だから、二つバラバラにあるシングルレベルBOMを結合して、一緒に見たくなる。こうして、マルチレベルBOMが形成されることになる。E-BOMは、このように複数階層のマルチレベルBOMになりうる。

ちなみに、「部品のローレベル・コード」とは、その部品がマルチレベルBOMの、どの階層に現れるかを示す数字である。汎用的な部品は同一製品で複数カ所に使われたりするが、その場合は、一番下の階層を指す。


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  • シングル/マルチレベルと、サマリー型/ストラクチャー型

もしその企業が、部品はすべて外部から購入し、自社では組立しか行わないのなら、これでBOMとして完成である。「BOMとして完成」とは、これで構成管理もできるし、原価企画も可能だし、生産・購買計画と、工場へのオーダー指示にも使えるからだ。つまりBOMの主要な用途に耐えうる、という意味である。

このようなマルチレベルBOM(組立図に表されるシングルレベルBOMを統合したもの)は、設計部門だけで作成できることに注意してほしい。つまり、担当部門別のカテゴリーでいえば、E-BOMなのである。今日の大企業なら、それは何らかの洒落たPDMないしPLMパッケージソフトの中に、データとして構築されるケースも多いだろう。

そして日本の大企業には、部品はサプライヤーに納入させ、自社は組立・検査・出荷だけ、という形態の企業が、案外多い。こういうケースでは、

  E-BOM = M-BOM = P-BOM、

という等式が成り立つ。作成・保守に関わる部門は、製品設計の1部門だけ。ツールはPLMだけ。非常に単純である。大企業の設計部門は、本社にいて予算も持っていることが多い。だからPLMベンダーなどは、「BOMはPLMだけで大丈夫ですよ」などと宣伝することになる。

ただし、ここには外部から購入した材料の、加工などの段階が含まれていない点に注意してほしい。社内で部品加工などの工程をおこなう製造業では、さらに外部購入の原材料まで遡った、中間段階を付け加えて、はじめてBOMがが完成する。少なくとも、生産・購買計画と工場へのオーダー指示には使えない。こうした加工工程や購買に関する情報は、普通は設計部門ではなく製造部門が所掌とするので、担当部門別のカテゴリーでは、製造部品表(M-BOM = Manufacturing BIill of Matrial)になる。

ともあれ、シングルレベルBOMという呼び方自体は、E-BOM、M-BOMなどの種別にかかわらず、用いられる用語である。これは用途や作成部門ではなく、表現の形をしめす概念だからだ。

ところで、シングル/マルチレベルと、サマリー型/ストラクチャー型の区別は、別の概念である事に注意してほしい。たとえば、今でもよく用いられるサマリー型の購買部品表P-BOMは、親の製品に対して、その外部購入の原材料が並ぶ表である。これは1段階の階層しか、もたない。しかしそれは直接の親子関係を示すものではない。

かりに機械製品の原材料に、ステンレス丸棒が書かれていたとしても、それは通常、切断され加工され表面処理などをされた上で、機械部品として組み込まれるからだ。つまりP-BOMというのは、途中の親子関係を全部捨象して、最終製品と一番元の原材料を示しているのである。だから、これはシングルレベルBOMとは呼べない、ということになる。シングルレベルかどうかと、サマリー型かどうかは、厳密に言えば別なのである。

・・などと説明していたら、うーん。例によって、思わず長くなってしまった。データ表現としてのシングルレベルBOMの話は、稿を改めて、また別に書くことにさせてください。


<関連エントリ>
「BOM(部品表)、その第1世代~第2.5世代の変遷を知る」 https://brevis.exblog.jp/32520484/ (2024-06-24)

# by Tomoichi_Sato | 2024-10-18 10:58 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「ガンディーの真実」間永次郞・「ガンディーの真理」(上下)E・H・エリクソン

  • ガンディーの「サッティーヤグラハ」

10月2日はインドの祝日だった。独立の父・ガンディーの生誕記念日である。我々は学校で、彼の名前をマハトマ・ガンジーと習う。だが、これは元々の名ではない。マハーは「大いなる」、アートマー(アートマン)は「魂」で、マハートマーとは「偉大な魂」「聖者」というほどの意味だ。これは、国民会議等から賜った名である。

彼自身は、しかし、この呼び名をありがた迷惑なものと考えていたらしい。本名はモーハンダス・カラムチャンド・ガンディーで、幼い頃は「モニヤ」、少年時代は「モーハン」、青年時代は「モーハンダス」と呼ばれた。エリクソンは彼のライフ・ヒストリーを、この名前で象徴的に記述している。

ここにあげた2種類の本は、彼の思想を扱っている。もっとも、インド文化では、思想と実践と修行は地続きなので、いずれの本も、彼の具体的な行動に分け入って、分析を含めている。

そして、2冊はとてもよく似たタイトルになっている。なぜなら、ここで真実とか真理とか呼ばれているものは、ガンディー自身が『サッティーヤグラハ』と名付けた思想=実践=修行を指しており、その意味は「真理の把持」(間永次郞氏はあえて「真実にしがみつくこと」と訳している)だからである。この言葉自体、サンスクリット語の「サッティヤ(真実)」と「アーグラハ(把握する)」からガンディーが作った造語だ。

そしてこの『サッティーヤグラハ』が、英語ではnon-violenceと呼ばれ、日本語では非暴力と訳される。Non-violenceという英単語はとても新しく、自覚的にこの語を使い始めたのは、英国人でも米国人でもなく、じつはガンディー自身だったと間氏は指摘している。それまで、非暴力という概念は、西洋世界には存在しなかったのだ。

ところでわたしは1年ちょっと前、「RRR」 という映画を見た。時代は今から100年前、英国支配下のインド。そしてインド映画らしく、まるで頭からしっぽまであんこの詰まったタイ焼きのように、とても面白い娯楽映画だった。

しかし、映画の描写がとてもバイオレントなことに、驚いた。無論、英国人のインド支配が、極めて苛烈なものだったのは事実だ。この事は決して、軽く見るべきではない。だが、その英国人に反抗し、観客に快哉を叫ばせる主人公らの活躍も、相当にバイオレントである。描かれた時代は、ちょうどガンディーが独立運動に駆けずり回っていた時だが、映画にはその姿など微塵もない。

一体、名高いインドの非暴力・無抵抗主義はどこに行ったのか? ガンディーから百年たって、彼の思想も運動も、インドの主流思潮からは消え去ってしまったのか? そもそも彼の思想とは何だったのか。


  • 「ガンディーの真理」(上下)E・H・エリクソン

「ガンディーの真理 〜 戦闘的非暴力の起源」(上)E・H・エリクソン著、星野美賀子訳

「ガンディーの真理 〜 戦闘的非暴力の起源」(下)E・H・エリクソン著、星野美賀子訳


E・H・エリクソンは、『アイデンティティ』の概念を確立した、名高い心理学者である。彼は1960年代の初めに、セミナーのためにインドのグジャラート州アーメダバード市を訪れ、地元の名望家であるサーラーバーイ家の知遇を得る。アーメダバードは、古代から織物産業の街として知られ、サーラーバーイの当主アンバラールは、大手工場主であった。

このアーメダバードで1918年に、大規模な労働争議が起きた。その背景は複雑だが、当時インドの「余剰生産物」はすべて、英国が排他的契約によって持ち去ることができた。英領インドの判事は全員、英国人だった。そして英国人は、伝統的にインドに無かった概念、すなわち「地主制度」と「地代(生産物の一部を上納させる)」を、法律的に彼らに強制させたのだ。

その支配概念は農業だけでなく、すべての産業に及ぶ。長らくインドの重要な伝統産業だった織物は、ほぼ一方的に東インド会社だけが、言い値で生産物を引き取れる制度にされた。かくて独立した自営業だった織物職人達は、自活の方法を奪われ、さらに機械化の進んだ英国からの逆輸入にさらされて失職し、住処のないプロレタリアートに没落し餓死していった。

さて、アーメダバードで織物工の労働争議が激しくなったのは、1917年頃からだった(これはちょうど第一次世界大戦末期で、英国は植民地から少し注意が離れたのだろう)。その中心に居たのがサーラーバーイ家で、当主の姉のアナスーヤは労働者の福祉のために尽力していた。そしてこの争議に割って入って、両者を和解させようとしたのがガンディーだった。

ガンディーは小国の宰相の子として生まれ(カーストとしては商人階級だった)、英国に留学して法廷弁護士資格を取っていた。彼は、ある事件のために南アフリカに渡って、現地で苛烈な人種差別を目の当たりに体験し、自分の使命に覚醒する。そこで人びとをリードする指導原理として、サッティーヤグラハ(非暴力・非協力運動)を確立する。そして22年もの間、南アに居て、帰国した彼が拠点として選んだ地が、アーメダバードだったのだ。

エリクソンは60年代にこの市を訪問したとき、まだ生き残って1918年の事件を記憶している当事者達に会い、さらに国外では得がたい様々な記録を調べる。そうして、このガンディーという、偉大だが、ある面では理解しがたい非凡な人物の精神を、精神分析家の眼と歴史家の手法で、記述・分析していくのである。

争議において労働者側は、インフレ下で40%の賃上げを要求していた。これに対し工場主側は、どのような手を打ったか。これは今日でも共通して学べる点だから書いておくと、工場を強制的にロックアウトしてから、25%の賃上げに同意した労働者だけを、工場の職場に入れるよう許可する、と告げた。つまり労働者の切り崩しである。労働者側には資金も生産手段も何もないから、ストライキを打っても、収入ゼロの日が続けば生きていけなくなる。

ガンディーは市内に道場(アシュラム)を持っていて、南アの時と同様、非暴力・非協力を労働者に説いていた。しかし工場主達の一方的なやり方に、激怒する労働者も少なくなかった。そうなれば暴力的な行為に出る者もいるだろう。ガンディーが親しくしていたサーラーバーイ家も、当主と姉が、経営者側と労働者側にそれぞれ分かれて、争う状態になった。

窮地に陥ったガンディーが、最後の調停手段として持ち出したのが、『断食』であった。彼は後に生涯で17回も断食を行い、48年に暗殺されたときも、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の内戦状態を止めるために、断食に入っていた。だが、彼がこのやり方を初めてとったのが、アーメダバードの事件だったのだ。『ガンジー自伝』 ではほとんど触れられていない本事件を、エリクソンが彼の生涯の重要な転換点としたのも、この点が大きい。


  • 「ガンディーの真実」間永次郞

「ガンディーの真実 〜 非暴力思想とは何か」 間永次郞・著


ガンディーの『サッティーヤグラハ』は普通、非暴力・不服従運動として「民衆運動」と捉えられている。しかし上に述べたとおり、これは一種の思想であり、かつ修行でもあった。彼自身は自伝の中で、これを『実験』だと述べている。つまり、自分の生き方を通して、試行錯誤しながら確かめている、仮説検証だと。では、彼の仮説とは何だったのか。

「ガンディーの真実」の著者・間永次郞氏によると、彼の長い生涯の中で、ドラマティックな大衆抗議行動に直接関わっていた時期は、合計で4年しかなかった。それ以外の時期は、サッティーヤグラハの思想を深めるべく、日常の生活の中で実験を続けていたことになる。

その実験とは、食事・衣服・性・宗教など多岐にわたる。たとえば食事について言うと、彼は独自の菜食主義をとっていた。菜食主義自体は、インドでは珍しくない。非殺生(アヒンサー)のための菜食の伝統は、古代からある。ヴィシュヌ派に属する彼のカーストも、生まれついての菜食(ただし乳製品は許す)だった。

だがガンディーは、「暴力とは、他者を自らの欲望を満たす手段とすること」のすべてだ、と定義する。そして彼は、食品を得るサプライチェーンの中の暴力的要素を、どんどん排除していく。チョコレートの中にさえ、植民地の黒人の奴隷労働を見る。かくて香辛料も減らした、かなり厳しい食のあり方を、道場(アシュラム)で皆と実践した。

衣服についても同様だ。若い頃は、パリッとした一流のスーツ姿に身を固めた、英国弁護士だった。しかし、そんな装いの彼が、初めて訪れた南アフリカの鉄道で、一等の客席の切符を所持しているのに、「褐色の肌の色」だけの理由で警官によって客車から放り出され、凍える駅で一夜を明かすことになった。

後に「あなたの人生で最も創造的な経験は?」と問われ、この駅で明かした一夜をあげる。それは、この社会の巨大な病、人種差別と戦うことを決意した夜だったからだ。それも、差別者個人だけでなく、システマティックに人びとを差別していく、白人至上主義の社会や文明そのものを「巨大な病」ととらえた。

だから彼が後に、有名な「塩の行進」でインド洋の海水から自ら塩を作って、英国の製塩専売法と戦い、また手紡ぎの綿糸による白い布(カーディー)を身にまとって人前に現れるようになったのは、当然の帰結だった。菜食もカーディーも、彼にとっては「真実にしがみつく」実験の一部だったのだ。

彼は性においても、非常に独自な取組をする。ガンディー夫妻には4人の息子がいたが、1906年(36歳)のとき、「ブラフマチャリア」(禁欲)の誓いを行い、生涯にわたって妻との性交渉を絶ち、すべての時間を公益のために捧げると宣言し、実行した。

ガンディーの性については、南ア時代のドイツ人男性カレンバッハとの奇妙な同居生活や、晩年のマヌという若い女性との同衾の実験などが、批判的に取り沙汰されることもある。著者の間氏は、性欲に対する彼の否定的な見方に、タントラ学派などの影響を見る。ちなみにエリクソンはフロイト派の分析家らしく、ガンディーの少年時代(彼は13歳で結婚した)のトラウマ的経験を指摘する。彼のような禁欲実践に、誰もがついていける訳ではない、と。

その、ついて行けなくなった人間の代表格が、彼の家族、とくに長男ハリラールだったのだろう。20歳の頃はマハトマの跡継ぎとして発言し活動したハリラールは、父が社会的尊敬を集めるのに反比例するように、転落していく。最後にはイスラム教に改宗したあげく、アル中になって、極貧のうちに世を去る。ガンディー暗殺からわずか数ヶ月後のことだった。

そして妻のカストゥールバーは、つねに長男ハリラールの味方だった。そんな妻子に対して、ガンディーは決して包容力のある優しい夫とばかりは言えなかった、と間氏は書いている。ハリラールと反目していた最晩年、ガンディーは禁欲実践を通した自己浄化によって、外界も変化するという思想に強く傾斜していった。まさにこれが、彼の実験していた仮説だった、という訳だ。

ガンディーは、目の前のヒンドゥー対イスラムの殺戮も、長男ハリラールの離反も、自分が禁欲と自己浄化で解脱すれば、変わりうるのだと信じていたのではないか。だとすればそれは、究極の自己中心性ではないか。そう間氏は断じる。

「ガンディーの真実」著者の間永次郞氏は、1984年イタリア生まれ、滋賀県立大学講師・兼マックス・プランク研究所シニア・フェローの、新進気鋭の社会学者である。この人はグジャラート語を含むインドの諸言語にも精通しているらしく、最近の現地語の出版物まで丹念に目を通して、学者らしく優れた仕事をしている。そして礼賛一辺倒か、逆に冷笑的批判だけになりがちなガンディー研究を、冷静な複眼的視野で行っている。


  • 非暴力思想とは何か

それにしても、非暴力思想とはいったい何なのか。ガンディーは言う。

「もし臆病か暴力のどちらかしか選択肢がないならば、わたしは疑いなく暴力を選ぶよう助言するでしょう」

「非暴力は決して臆病者の盾に用いられるべきではありません」

「インドが弱者であるから非暴力を実践せよと懇請しているのではありません。私は自身の強さと力に自覚的になった上で非暴力を実践してもらいたいのです。」

これを読むと、彼の「非暴力」は暴力の絶対的否定ではないことが分かる。彼には目指すべき真理なり大義があり、そのための最善の方法として、非暴力の実践ないし実験があるのだ。

じっさい、インドの紙幣にも描かれた有名な「塩の行進」では、ダラーサナー製塩工場に迫った、無防備なデモ隊の群衆を、武器を持った警官隊が片端から殴りつけた。だが、次々に押し寄せる人の波。警官隊は、そして彼らを動かした英国権力は、局地戦には「勝った」かもしれないが、威信を失って結局、独立運動には「負ける」のだ。

なぜなら無防備な人を武器で打ち倒すような行為を、大多数の人は、目的に関わらず許さないからだ。まあ、ごく一部、異常に政治的な人たちは、「手段は選ばない」「目的は手段を浄化する」というような考え方をする。だが世界の普通の人々は、そんなことはすべきでないと感じる。そして人々の感情的な受け取り方が、世論を作るのだ。ガンディーの「断食」が奏功するのも、彼を死に追いやるような「暴力」には、加担したくないと人々が感じたからだ。

そのような意味で、非暴力・不従順は、強大な権力を前にした人々の、重要な戦略である。ただし、製塩工場の例を見れば分かるとおり、それは命がけの行為になる。そして、大勢の賛同者が必要だ。

そのためには、命をかけるべき大義と、清廉無私な指導者が必須である。それこそ、現代に最も欠如しているものなのだ。ガンディーを拳銃で撃った男は、RSSという団体のメンバーだった。そして、現代インドのモディ首相が率いるインド人民党こそ、このRSSの流れをくむヒンドゥー至上主義政党なのだ。

21世紀は、20世紀よりもさらに権力が集中する時代である。だが「自己利益の経済的最大化」が主要な指導原理であるこの時代において、無私無欲なリーダーが頭角を現せるだろうか。インドでも、その他の世界でも、ガンディーの非暴力思想を受け継ぐ人が少ないのは、そのためなのだろう。



# by Tomoichi_Sato | 2024-10-10 18:00 | 書評 | Comments(0)

考える技法——解決策を議論する前に、まず問題を見よう

  • ビジネスアナリシスは、「ニーズ」を考える仕事

久しぶりに、「わたしのプロフィル」 を変更した。前回の更新から、気がつくと数年経っていた。もともと、「マネジメントのテクノロジーを考える」という、一種のアーカイブサイトをWordPressで作ろうとしたのだが、いろいろな経緯からしばらく放置していた。「わたしのプロフィル」は、その中に置いていたので、 ずっと手を入れるのを忘れていたのだ。

ちなみに、わたしの今の肩書は、「 チーフエンジニア(ビジネス・アナリスト)」と名刺に書いてある。もちろん名刺の肩書きなど、しょっちゅう変わるのだが、とりあえず職場では、ビジネスアナリシスを専門に見る立場、と言うことになっている。

ビジネスアナリシスとは、どんな仕事か。それは、「コンテキストを考慮しながら、ニーズを定義し、ステークホルダーに価値を提供するソリューションを推奨することにより、エンタープライズにチェンジを引き起こすことを可能にする専門活動である」と、BABOK (A Guide to the Business Analysis Body of Knowledge) Ver. 3は定義している。

(・・ずいぶん、カタカナが多い説明文だ。「エンタープライズ」とか「チェンジ」とかは、「企業」や「変化」ではだめなのか? でも、この方がかっこいいと、訳した人たちは思ったのだろう)

ビジネスアナリシスとは、通常、IT分野の人たちが、いわゆる「上流工程」で行う仕事に分類される。ただし、わたしの勤務先はエンジニアリング会社なので、提供するソリューションは、工場のハードなども含む。もちろん、ソフトだけの場合もあり得る。顧客のニーズに応じて、より良いソリューションが決まる。そういうことを考えるのが、わたしの仕事だ。

でも、『ニーズ』とは何か。クライアントのニーズを引き出して定義するとは、どんな仕事なのか。 顧客が「あれが欲しい」「これがしたい」と口にしたことが、ニーズなのか。

こういう仕事を続けていくうちに、最近ずっと悩みの種になっている問題に突き当たった。人はなぜ、わたしと同じように考えないのか。いや、むしろこう言い直そう。わたしはなぜ、人と同じように考えられないのか?

  • MES『標準11機能』の謎

たとえば、その1つの例が、MESの『標準11機能』である。ご存じの読者の方も多いと思うが、MESとは製造実行システム(Manufacturing execution system)の略で、工場の製造オペレーションをマネージする、スタッフ層の人たちの業務を、支える仕組みである。 90年代頃から登場し、一部の先進的業界では早くから導入されたが、日本ではようやく最近になって、広く注目されるようになった。

昔は各社がMESを手作りしていたが、 欧米を中心にパッケージソフト化が進み、現在では複数のソリューションを比較検討して導入することが普通になってきた。そこで導入を考えるユーザ企業は、RFP(Request for Proposal)を作成して、MESパッケージベンダーに配り、提案を依頼する事になる。
問題は、そのRFPの中身なのだ。RFPの中核部分は、ユーザがしたいこと、「ニーズ」が書かれている。そのシステムを使って、どのような業務を実現したいのか、現在の業務をどのように変えたいのか。システムにどのような機能を期待するのか。こうしたニーズが明確でないと、RFPを受け取ったベンダー側は、何を提案したらいいかわからなくなる。

ところがMESのRFPの中核部分に、『MESの標準11機能』のリストがついてくるケースを、しばしば見かけるようになったと、大手ベンダーの人たちは口々に語る。標準11機能とは、米国のMESA Internationalという団体が90年代に策定した、リストに基づいている。念のため具体的に書くと、こんな感じだ:

  • 生産資源の配分と監視 Resource Allocation & Status
  • 作業のスケジューリング Operations/Detailed Scheduling
  • 差立て・製造指示 Dispatching Production Units
  • 仕様・文書管理 Document Control
  • データ収集 Data Collection Acquisition
  • 作業者管理 Labor Management
  • 製品品質管理 Quality Management
  • プロセス管理(工程品質管理) Process Management
  • 設備の保守・保全管理 Maintenance Management
  • 製品の追跡と製品体系の管理 Product Tracking & Genealogy
  • 実績分析 Performance Analysis

昔、最初に見たときもそうだったが、あらためて今読み直しても、わたしにはこのリストがさっぱり理解できない。個別の項目は一応、分かる。だが全体として、なぜ機能がこの体系なのか、どういう切り口なのかが、見えないのだ。特に、日本の製造現場での業務をイメージした場合、どこがどう対応するのかピンとこない。

だから、このリストをRFPでもらって、「貴社のMES製品の機能に○×をつけろ」と言われたベンダーの人たちが絶句するのも、無理ないと思う。ユーザ側がやりたいこと、ニーズが理解できないのだ。RFPを出すユーザ企業は、なぜ、このリストを使うのか、よく分からない。多分、ネットでMESを調べるとこの11機能が出てくるので、海外の標準ならば、と使うのかもしれない。


  • わからないことは分からないと言おう

こういう状況だったので、わたしが幹事を務める「次世代スマート工場」の研究会では、有志を募って、MES/MOMに関する『MES/MOM導入のためのRFP作成用標準テンプレート』を一緒に策定することにしたのである。(その使い方の詳細については、10月22日に開催する「第4回 ENAAスマート工場シンポジウム」 で無料のワークショップを開くので、興味ある方はご参加いただきたい。なお前回の記事でもこのシンポジウムを案内したが、リンク先が誤っていたので訂正させていただいた)

でも、話を元に戻そう。わたしが不思議なのは、海外製の標準リストだからといって、あまり疑わずに自分の要求資料に引用する人たちの、ものの考え方である。「知らない」というとバカにされるとでも思ったのか? だが理解できない用語を並べるより、自分の言葉で伝える方が良いではないか。

言葉を知っているという事と、理解して使えるのとは別だ。だから、自分がピンとこない・分からない事を、ニーズとして人には要求しないし、すべきではない。だって実感として分からない事は、自分では実現できないのだから。

もちろん、わたしの理解力が低いから、よく分からないのだ、という見方もあるだろう。わたしが物事を納得し理解するのに、人一倍、時間がかかる。別にそれは否定しない。だがわたしは、世の中の人の頭の良さ、頭の回転の速さが、かえって奇妙に感じられることが多い。

もう一つ、例を挙げる。7月に、同じ次世代スマート工場の研究会で、人材育成のためのセミナーをやった。そのプログラムでは、研究会仲間である渡辺薫さんが演習を担当された。その一つ目の問題は、工場における納期問題がテーマだった。、

当該工場での生産は、半数とはいわないが、1/3以上は納期に遅れていると思われる。製品(10種類)によって状況が異なるようだ。少数だが、大幅な納期遅れになるものがある・・こんな状況下で、納期問題の「正確な現状把握と目標設定に向けた『見える化』の方法を検討」せよ、という出題である。なかなか良い演習だと思う。

ところで、このテーマを出題した後、渡辺薫さんが参加者に注意を呼びかけた。「考えてほしいことは、納期問題の解決方法ではありません。原因の究明でもありません。現状把握のためには、どんな『見える化』をすべきか、検討してほしいんです」と。


  • 解決策を議論する前に、まず問題を見よう

この注意は、とても印象的だった。というのも、わたし自身の職場における議論でも、よくこういう傾向が見られるからだ。プロジェクトのスケジュールに遅れが出る。じゃあ、どうするか。あの手を打つべきだ、いやそれよりこの方策が良い・・

みんな、頭が良すぎるのだ。だから、現状把握も、原因分析もすっ飛ばして、解決策の議論をしたがる。だがそれでは、建物の土台も1階もすっ飛ばして、2階から建築しようとするのに似ていないか。それで本当に、有用な議論になるのか。

問題が起きたら、まず問題のあり方を注意深く、客観的に、できれば定量的に見る。事実の正確な認識から、議論をスタートする。これがわたしには、基本に思える。定性的で曖昧な問題認識から出発すると、雰囲気や思い込みや、感情に支配されやすい。そうなると自由で闊達な発想が出てこない。

議論するときには、お互いに了解できる、誤解の余地のない、客観的事実から出発するべきである。そうしないと、出発点からかみ合わないからだ。

こうしたことは、議論をする上での基本中の基本だと思うのだが、どうやらわたし達は、これを学校で習うのを忘れてしまったらしい。そもそも、日本の学校というのは、議論の仕方を習う場所ではない。学校では、正解は天から降ってくる。議論して作り上げるものではないとの論理で、動いている。

だからわたし達は、本当の意味で問題解決を、そのための議論と衆知の集め方を、学んでいない。これでは、日本社会が様々な問題状況から、上手に脱出できる訳がないではないか。頭の良い人は大勢いるのに、社会がうまく機能しないのは、じつは皆、頭が良すぎるためなのである。

「ソリューション」とは解決策であり、「ニーズ」とは期待である。《ニーズを定義し、ソリューションを推奨することで変革を可能にする活動》が、ビジネスアナリシスだと主張する人たちは、その定義の中に『事実(ファクト)に基づき』の一語を、入れておいてほしかった。

上流工程を担えるビジネス・アナリストへの、ニーズは今も高い。だが、この社会に「チェンジ」を引き起こすには、できあいの「ソリューション」に飛びつくだけではダメなのである。まずは問題事実を客観的に、多面的に理解する。その上で、一人だけの狭い視点では気づかない、すぐれた発想を得るために、衆知を集める。それが必要な手順なのだ。

わたし達が議論という営為を実りあるものにしたかったら、頭が良すぎることの弱点に、もっと気がつくべきなのである。


<関連エントリ>
「「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか」 https://brevis.exblog.jp/21816699/ (2014-03-14)

「IoT時代のMESをもう一度考え直す 〜 (2) MESの機能と階層を理解する」https://brevis.exblog.jp/26007261/ (2017-08-27)

# by Tomoichi_Sato | 2024-09-28 08:14 | 思考とモデリング | Comments(1)

お知らせ:『第4回 ENAAスマート工場シンポジウム』(10/22)・『BOM/部品表の基礎』1日セミナー講演(11/13)

スマート工場に関する無償シンポジウム登壇と、BOM/部品表についての1日セミナー 講演〔有償)のお知らせです。
(追記:シンポジウムの案内リンクが間違っていたため、修正しました)

一点目は、(財)エンジニアリング協会(ENAA)「次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」が、10月22日に開催するシンポジウムです。わたしが幹事を務める本研究会は、2021年以来、毎年秋にシンポジウムを開催し、今回が第4回目になります。

ちなみに第1回と第2回のシンポジウムは、MES(製造実行システム)をメインテーマとしました。近年、幅広い業界でMES/MOMシステムへの関心が高まっており、とくに21年度は経産省/NRIからの委託調査の関係もあって、最新の技術を紹介するとともに、ユーザ側の実態も知りたいと考えました。そして「スマート・ファクトリーとはMESを活用する工場である」にも書いたとおり、MES/MOMはスマート工場実現に必須の道具である、との認識があるからです。

第3回の昨年は少し間口を広げ、「スマート製造への道のり~デジタル・ロボット・サプライチェーン」と題し、ロボットやサプライチェーンなどのテーマもカバーしました。製造に関係するシステムを『つなぐ』ことも、MES/MOMの主要な役目なのです。

そして今年は、午前・午後の二部構成にします。午前中はMES/MOM導入に関する、受講者参加型のハンズオン的な技術ワークショップです。午後はメインのシンポジウムで、テーマは「ハードウェアとしての工場」と題しています。

午前中(10:00-12:00)の技術ワークショップは、6月に当研究会が公開した『MES/MOM導入のためのRFP作成用標準テンプレート』の概要と使い方に関するセッションです。MESを導入したいと考える製造業のユーザが、ソフトウェアベンダーやSIerに適切なRFPを出すためには、まず自社の業務のAs-IsとTo-Be像を明確にする必要があります。

ところがこれは、決して簡単ではありません。製造業の組織は製造・生産管理・生産技術・資材購買・・などと縦割りになっているために、業務の全体像を把握している人が少ないからです。その上、部署間の様々な利害・力関係、用語の違いなどが影響して、合意形成のベースとなる業務機能の定義を定めること自体、容易ではありません。

わたし達はこの問題を乗り越えるために、日本の製造業(とくに組立加工系)の現場をイメージして、約500件からなるAs-Is業務の整理と、システム導入のためのテンプレート化を行いました。これ自体はExcel表で提供していますので、ユーザは自社の状況に合わせて取捨選択・編集して使うことができます。
(なお上記テンプレートは現在、集計の都合上、HPからのダウンロードを一旦停止していますが、シンポジウムに興味のある方には共有できますので、個別にご連絡ください)

技術ワークショップでは、リアル会場ならびにオンラインでの参加者に対して、ハンズオンで使い方を解説します。またパブコメ版としてリリースした本テンプレートへの、ユーザからのフィードバックも期待しています。

本ワークショップは、製造業の実務に携わる方に加え、製造系IT・OTシステムの構築に関わるベンダー/SIer側エンジニア、そしてアドバイスに従事するコンサルタントなどの方にも、有用な情報を提供できるつもりです。



ちなみに今回は、より広い会場を確保するために、(株)日立アカデミーさんの協力を得て、大森にある同社セミナースペースをお借りできました。ただし日立さんもMES製品を提供されていますが、本ワークショップは特定のベンダーに偏らない、中立な立場での開催です。

午後のシンポジウムでは、あえて『ハードウェアとしての工場』にスポットライトを当てることにしました。というのは、スマート工場は決してデジタルだけで実現できるモノではない、と考えるからです。デジタル(IT/OT)は、もちろんスマートな製造を実現する必要条件です。しかし決して十分条件ではありません。

工場は生産のための仕組み(システム)です。デジタルとそのデータはシステムの重要な要素ですが、主役は働く人間である事を忘れてはなりません。そして人間を支えるために、機械設備があり、そのためのレイアウト・動線があり、またそれらを支える建築や空調やエネルギー供給などがあります。こうした要素がバランスを取って連携してこそ、真にスマートな、つまり見た人が皆、「ぜひここで働きたい」と考える工場ができあがるのです。

ハードウェアとしての工場を考えるために、その戦略から見た企画構想、サプライチェーンを考慮した計画立案、工場シミュレータ、自動車工場における生産ラインのエンジニアリング、そして食品工場・物流センターの建設事例など、幅広い視点からこの問題にアプローチしますので、ご期待下さい。本シンポジウムは午前・午後ともハイブリッド形式で、参加無料、かつ見逃し配信つきです。


さて、お知らせの二点目は、BOM/部品表のマネジメントに関する一日セミナーです。本セミナーは6月に実施したのですが、参加希望者が多すぎて定員を超えたため、11月にアンコール講演することになりました。

この1〜2年、MES/MOMと並んで、BOMに関する問合せが非常に増えています。理由をたずねると答えは個別で様々なのですが、BOMを課題と考える企業が一斉に出てきたのは、不思議に感じるほどです。拙著『BOM/部品表入門』 も昨年に続き、おかげさまで今年も増刷になり、20年前の本なのに読み続けられています(中国語版も隣国で出ています)。

本セミナーでは、BOM概念の誕生からはじめて、製造業の生産形態や生産方式に応じたBOMのあり方、そして典型的な難所などを解説し、グループ演習も交えながら、応用テクニックを学ぶ構成です。ただし20年前の本には書けなかった、最新の技術動向や考え方なども盛り込んだ内容になっています。

BOMの問題は、大企業は大企業なりに悩みがあり、中堅・中小もそれぞれハードルを抱える、難しい取組みです。それは結局、縦割り組織化しすぎた企業の中で、マテリアル・マネジメントの横串を指す機能が不在であるところから来ています。

その意味で、BOMの難所は、MES/MOMの難所でもあります。BOMはMESの主要なマスタ・データでもある訳ですから、一緒に解決していかなければ、真のものづくり改革はあり得ません。

大勢の方のご来聴をお待ちしております。


<記>

第4回 ENAAスマート工場シンポジウム

  • 日時: 2024年10月22日(火) 10:00 ~ 17:00

  • 開催方法: ハイブリッド開催
 【リアル会場】日立アカデミー・大森キャンパス、大森ベルポートD館 5F 503-504研修室 会議室
 (リアル会場30名・先着順。オンラインは300名が目安ですが、上限を定める予定はありません)

  • 協賛団体: 一般社団法人インダストリアルバリューチェーンイニシアティブ(IVI)、ロボット革命・産業IoTイニシアティブ協議会(RRI)・予定

  • 開催案内と参加申込みはこちらのページから:
・エンジニアリング協会HP 
https://www.enaa.or.jp/seminar/70642

BOM/部品表の基礎とBOM構築の留意点および応用テクニック ~演習付~

  • 日時: 2024年11月13日(水) 10:30 ~ 17:30

  • 主催: 日本テクノセンター

  • 会場: 日本テクノセンター研修室
 〒163-0722 東京都新宿区西新宿二丁目7番1号
        小田急第一生命ビル22F

  • 内容詳細および申込み: 下記をご参照ください
https://www.j-techno.co.jp/seminar/seminar-61801/
 (なおコンテンツおよび説明順序は、参加者のニーズに応じ多少変える場合があります)


<関連エントリ>
「スマート・ファクトリーとはMESを活用する工場である」https://brevis.exblog.jp/30503581/ (2023-12-02)



# by Tomoichi_Sato | 2024-09-16 20:07 | 工場計画論 | Comments(0)

本システム導入の目標は、生産性向上なんかじゃありません

  • 不安感情のコスト

「 ありがとうございました、こちらがタイヤ交換サービスの領収書です。でも、プントって、なかなかおしゃれな車ですね。」 オートバックスのサービス員は、そう言いながら、キーをわたしに返した。お世辞だろうが、言われて悪い気はしない。

——まぁ、ずいぶん古い車ですけれどね。そう、わたしは答えた。 誇張ではない。わたしが乗っているフィアットの『プント』という車は、ほぼ20年前に買ったものだ。プント Punto はイタリア語で「点」を意味する。小さなコンパクト・カーだ。でも、たまに街乗りをするだけのわたしには十分である。そして気に入って、使い続けている。

わたしは基本的に、ひどく壊れない限り、工業製品は買い替えないポリシーである。世間では、数年ごとに車やコンピューターを買い換えるのが、常らしい。だが、 壊れてもいないものを手放すのは、なんだかもったいない気がする(単にケチなだけかもしれないが)。

とはいえ、20年間の走行距離が2万5千キロというのは、あまりにも利用回数が少なくて、車がかわいそうかもしれない。機械は、それなりに使ってあげる方が、機嫌良く動いてくれる。「機嫌良く」という、擬人化した感情的形容詞を、機械モノに使うのは奇妙だが、それが多くの技術者の実感でもある。あまり使わないと、かえってトラブルが起きやすい。

今朝もそうだった。連れ合いを送っていく予定だったが、「車、ちゃんと動くかしら?」と聞かれた。冬の間、動かさないのでバッテリーが上がってしまった事があるからだ。「先週も乗ったから、大丈夫だと思うよ」そう答えたが、何のことはない、ガレージに行ってみるとタイヤがパンクしている。このタイヤも10年前に買ったものだから、まあ経年劣化だったろう。

しかし、いざ使おうとするたびに、「ちゃんと動くだろうか?」と不安になるのは、小さなストレスである。別に時間を取られる訳でもない。具体的にお金がかかる訳でもない。だが不安感情は、確実にわたし達にとって、コストになる。金銭を想起させる「コスト」という用語が適切でないならば、リスクとでも呼ぶべきだろうか。

連れ合いを送っていく予定の場所も、初めていく所だった。でも道順は、カーナビのアプリで、事前に確認できる。そちらの不安感情は、地図アプリというITシステムが、低減してくれるのだった。


  • ITシステムのもたらす価値

ITシステムのもたらす価値とは、何だろうか。いきなり話がデカくなったが、 たまたまこの1週間、何度かこの問いに直面したのだ。一度は、次世代スマート工場に関する研究会の議論の席上だった。MES(製造実行システム)などの、工場スマート化のための仕組みを導入する際に、しばしばネックになるのは、投資に経営層の同意を得る段階である。

我々の調査では、IT投資のROI(Return on Investment=投資収益率)を示すことが、多くの場合、求められる。平たく言うと、「それ入れたら、ナンボ儲かるねン?」という、経営者からの問いである。これが、難しい。

工作機械やロボットを導入する場合だったら、計算は比較的簡単である。 それで、どれだけ生産能力が増大する、あるいは手作業が減る、などを推計できるからだ。ところがMESを 入れて、現場の作業進捗が見える化されたとしても、それで生産量が上がるだろうか? 在庫が減るわけでもない。現場の人員削減にもつながらない。ただ、「可視性」が良くなるだけだ。 その効果を、どう経済評価するべきか?

別のある日、社内のITガバナンスに関する委員会でも、似たような問いに直面した。 議題は、業務系システムの導入・稼働後の投資対効果のモニタリングだった。もちろん、投資対効果の評価が必要であることについて、反対するものは誰もいなかった。 プロジェクトの出発時に、目標を設定して、それが達成されたかどうかをチェックすべき、と言う点でも異論はなかった。 だが、本当に客観的に数値化できるのか?

わたしの勤務先のビジネスは、大規模プロジェクトを中心に回っている。プロジェクトに適用した際の効果を測定するといっても、本当の意味で結果が出るまでに、2年も3年もかかったりする。おまけにプロジェクトの成果は、外部環境に大きく影響されやすい。コロナ禍で国際サプライチェーンが分断された時、良い結果が出なかったと言って、情報システムの評価を下げるのは適切なのか。

プロジェクトにはリスクがつきものである。情報システムによって、リスクが減少したとしても、その結果は、当初のプロジェクト計画通りにプロジェクトが進行した、ということで示される。でも計画通りに進行するのは、当たり前ではないか、と言われたら、反論しようもない。


  • 生産性という名前の呪縛

そして三番目は、あるIT系の研究会に呼ばれて、マテリアル・マスタの話をしたときだ。マテリアル・マスタ(品目マスタ)とは、企業のBOM=部品表マネジメントの中核になる、重要な基準データである。

その品目コード改革に関する事例を紹介した際に、「この改革を行ったからといって、業務プロセス自体は大きく変わっていないので、生産性は向上していません」と説明したら、参加者からかなり質問が出た。「どうして上がらないのか?」「生産性が上がらないのだったら、なぜ改革に承認が得られたのか?」という、驚きとも当惑ともつかない反応だった。

それでも、システムが何か新しい機能や業務を実現できるなら、まだ受け入れ可能なのだろう。だがマテリアル・マスタをきれいに整合性を取ったからといって、特段素晴らしい、画期的なことができる訳ではない。もちろんITエンジニアなら、その意義は共感できる。だが本当に、それで上の承認が得られるのか?

結局、3つの場面に共通する暗黙の仮説は、こうらしい:

「 ITシステムの効果は、生産性向上というモノサシによって測られるべきだ」

日本企業の生産性が低すぎるという認識は、この数年間、 ほとんど呪縛のようにビジネス界を支配しているらしい。企業の付加価値労働制を上げるべきだとの見解には、わたしも異存がない。 しかし本当に、モノサシはそれ1本でいいのか。 特に、ITシステムの価値を、「生産性」(もう少し広く捉えて、効率性や正確性を加味してもいいが)だけで評価していいのか?

それは言いかえると、「スマートである」とは、どういう意味か、との問いでもある。 スマート工場とは、生産性だけが高い工場でいいのか? だったら高性能な機械とロボットばかりを並べて、単一製品だけを大量生産すれば、生産性は極大になる。それが本当にスマートなのか?

最近は「データ・ドリブン経営」なる言葉も、流行りはじめている。それはつまり、データによって、生産性が最高の経営が実現される、ということを意味するのだろうか? じゃあ、経営の生産性とは、いったい何のことなのか?


  • 価値には3つの側面がある

ここで冒頭の話に戻る。フィアット・プントの話である。20年前、安価なモデルとはいえ、イタリアからの輸入車を買うことには、故障などの面で不安もあった。だが最後に決め手となったのは、「ミッション系は富士重工製です」というディーラーの一言だった。だったらまあ、信頼できるかな。そしてこの20年間、電装系などのトラブルはあったが、駆動系自体はちゃんと動いてくれた。

ユーザの不安感情を取り除く事は、とても重要な価値なのである。たかが感情、されど感情だ。人は感情に基づいて決断し、理性でそれを正当化する、という〔英語の)標語もある。

ちなみに20年前に車を買ったとき、カーナビはまだ標準装備ではなかった。だから別に購入して付けてもらった。運転の上手でない自分には、カーナビは必須だと思ったからだ。

カーナビは何の役に立つのか。少なくとも、燃費向上のためではない。燃費はむしろ、わずかだが下がる。加速性や積載重量も上げない。つまりカーナビは、「クルマの生産性」を一切、上げないのだ。ブレーキやハンドルさばきなど、運転のスキルも助けてくれない。

だが、カーナビはGPSを通じて現在位置を地図上に示してくれる。つまり現状の「可視性」を上げるのだ。通ってきた場所を記憶してくれる。そして、知らない場所でも適切なルートを提案してくれる。さらに渋滞状況を加味して、到着時刻も予測してくれる(「予見可能性」の向上)。

すなわち、現在・過去・未来について、事実に基づく判断の根拠を示してくれる。それによって、我々運転者の不安感情を取り去り、「判断の質」を上げてくれるのである。質の高い判断ができること——これが、「スマートである」ことの意味なのだ。

こうしてみると、ITシステムの価値には、大きく3つの側面ないし目標があることが分かる。

本システム導入の目標は、生産性向上なんかじゃありません_e0058447_13445702.png


一つ目は、たしかに生産性(効率性・正確性)の向上である。すでに保有し実現している自分たちの能力を、増強してくれる。これが、世間では一番強調され、期待されている事だ。

二番目は、新しい能力の獲得である。今までできなかった事を、可能にしてくれる。瞬時に計算する能力は、新しい設計プロセスを生み出しうる。正確な幾何学的画面表示は、CADからゲームまで、あたらしいビジュアル体験を創出できる。そしてこれもまあ、近年はUXなどの言葉で、よく語られてきたことだ。

そして三番目はリスク〔不確実性)の低減を通じて、判断の質を向上することだ。判断は「判定+決断」と分解することもでき、自動判定はAIの普及でかなり可能になった。ただ、『決断』はどうしても、人間の領域として残る。そして人の決断力は、つねに不安感情と表裏の関係にある。ITシステムは、データに基づくサジェスチョンの形で、決断を支えることができる。

とはいえ判断の質は、計測するのが簡単ではない。たとえば、プロジェクトのキーパーソンに誰を当てるべきかは、とても重大な判断だ。だが、仕事は一回限りで、環境条件に影響されやすい。判断の質の善し悪しを、数字で測れるだろうか? それでも、組織の決断力は向上させなければならない。そして、そのためにこそ、情報システムの最大の価値があるのだ。決断こそ、マネジメントの一番大事な仕事だからである。


# by Tomoichi_Sato | 2024-09-08 13:50 | ビジネス | Comments(0)