戦略としての生産形態 - リードタイムを設計する

前回の記事 https://brevis.exblog.jp/28051644/ では、「下請け型受注生産」とも呼ぶべき生産形態が存在し、それは特定顧客仕様の製品を、需要を見込んで生産する形態だ、と書いた。このような生産形態は普通の生産管理の教科書には出てこないが、わたし達の社会では、案外広く見られる。特に、大手セットメーカーが、「JIT納品」をサプライヤーに要求する場合、部品メーカー側はこの形態を強いられることが多い。

そして、このような生産形態は、サプライチェーンの需給ミスマッチのリスクを、経営基盤の弱い中小下請けに背負わせるうようなやり方であり、この国の産業構造の見えない弱点になっている、とも述べた。この指摘は、なぜか意外と多くの読者の注意を引いたようで、驚いている(というのも、似たようなことは10年以上前から、書いてきたつもりだからだ)。

では、どうしたらよいのか?

そもそも「下請け型受注生産」の形態が生じる最大の理由は、「顧客の要求する納期が、自社の生産リードタイムよりも明らかに短い」ことに起因する。

だったら答えは明瞭だ。生産リードタイムを短縮すればいいのだ。

前回の記事で、パン屋の主人であるあなたの悩みは、FAXで注文を受けてから2時間後に納品しなければならないのに、サンドイッチを作るのに2時間以上かかることだった。もし、これが2時間以内だったら、悩みは基本的に解決する。

でも、どうやってリードタイムを短くすればいいのか?

えーと、その前にここで注意を一点ほど。「リードタイム」という言葉は、しばしば漫然と使われている。だが、リードタイムにはいくつもの種類があり、どれを指しているのか明確にしないと、誤解が生じる。生産リードタイムと、納入リードタイムは違う。そのことについて、すでに書いたはずだ。と思って探したら、やっぱり解説があるじゃないか。なんて役に立つサイトだろう(笑)
 「リードタイムとは何か」 https://brevis.exblog.jp/7376582/ (2008-02-27)

ついでにこちらの記事も読んでおいてほしい。こちらは12年前に書いたものだ。
 「購買リードタイムとは何か?」 https://brevis.exblog.jp/6006346/ (2007-07-01)

さて、生産のリードタイムを短縮する方策として、たいていの場合思いつくのは、以下の4つだろう。
(1) 能力オーバーの分を外注に出す
(2) 機械化を進めて生産性を上げる
(3) 人を増やす
(4) あらかじめ作りだめしておく
では、これらを一つ一つ検討してみよう。

ただしこの先は、論点を分かりやすくするため、6時間の鮮度指定の制約を、いったん外して考えよう。つまり機械部品などのように、作ったら1週間でも1ヶ月でも、置いておけるとするのである。

納期対策として、まず誰もが思いつくのは、(1)外注化である。需要のピーク時に、自社の生産能力が追いつかない場合、外注化して量をさばくやり方は、従来から多くの製造業で行われてきた。外注するかどうかを生産管理部門が決める場合もあるが、製造現場が自分たちの判断で、一部を外注化してしまうケースも、実際には見かける。あるいは飲料業界のように、季節性が高いため、製造委託業が広く行われてきたところもある。

しかし、外注化はじつは両刃の剣である。社内で作れる製品を外注化すれば、当然ながら自社の粗付加価値(つまり利幅)は薄くなる。それに昨今、どこも空雑巾を絞るような人減らしと設備廃棄をしてきた後の、降って湧いたような人手不足状態である。製造能力を持て余している工場など、それほどない。おまけに、あなたのパン屋のケースについていうと、日中わずかの時間帯だけサンドイッチ製造を引き受けて欲しい、という要望だ。小さな町で引受け手を見つけるのは無理だろう。

余談だが、工場の余剰能力を、UberやAir B&Bみたいに気軽に取引できるようにするべきだ、という議論もある。可能ならば、それはそれで結構であろう。だが、小口の製造委託を受けるとは、言いかえれば納期を確約することを意味する。そうでなければ、誰が頼むだろうか? だが、自分の工場でさえ受注オーダーの正確な納期回答が難しいのに、よその工場では確約できるはずだと考える根拠は、一体何か。

昨今、結構大手の企業においても、納期問題や品質問題が多発しているが、その多くの部分が、サプライヤーや外注先に由来しているようだ。大手企業が従来のように、下請けの納期をコントロールできなくなっているのだ。いや、もっとはっきり言おう。従来は大手の無理難題を聞き入れてくれた下請けが、もう応えられません、という状況になってきている。そのあおりを受けて、大手の社内でも生産スケジュールが混乱する。混乱すれば、結果は品質にはね返る。

かつてのような、能力ピークをしのぐための外注化は、簡単にできなくなった。では、自社内でどこまで作れるか、どう判断すべきか。製造の実態は、ITシステムを見てもわからず、実は現場の班長と毎日書き換えるExcelだより、という状況下では、適切な外注判断はとても難しい。

この問題は結局、自社の生産能力を正確に把握することが困難である、という根本原因から生じている。これ以上は話が長くなるから深入りしないが、多品種を扱っている工場では、どこも納期確約は難しいのだ。タクシーやホテルみたいな調子では、工場の能力はなかなかB2B取引できないことを知っておいてほしい。

では、二番目の方策はどうか。すなわち機械化である。もっと大きなパン屋なら、それもあるだろうな、とあなたは思う。しかしサンドイッチに具をはさむ機械とか、ビニール袋でラップして段ボール箱にしまうロボットとか、本当にあるのだろうか? たとえあったとしても、品目が増えたり、レシピが変わったりしたら、自分で設定を直せるだろうか。

店のパン焼き職人は、もっと大型の食パン専用焼き窯が欲しい、とも言っていた。だが、パンを焼く速度が全体を律しているとは思えない。それに、学校給食が減っているのに、食パンだけ能力増強するのも、アンバランスではないか。機械化による生産性向上は、量産型のところでないと、なかなか功を奏さない気がする。

それなら、(3)人を増やす、という古典的な対策は? まあこれは人手不足の昨今、容易でないことはご承知の通りだ。それに、いったん人を雇ったら、すぐに首は切れない。でも、景気も需要も変動しがちである。人を増やせばリードタイムを短縮して、余計な製品在庫を抱えるリスクを減らせるが、その代わり不稼働な余剰人員(リソース)を抱えるリスクを増やすことになる。実はリスクが姿を変えただけである。

この問題があるから、過去25年間の不況の間、企業は正規従業員数を増やしたがらず、パートや季節工など、人数の増減がしやすい雇用形態へシフトしてきた。特に今世紀に入ってからはその傾向が加速し、派遣労働に頼る割合が増えた。つまりリソースを変動費扱いできるような状況を、企業経営者は求めてきたのである。

だがその結果、今度は労働者の側に、いつ仕事を失うか分からない、というリスクとなった現れた。「メーカーの在庫リスク」→「下請けの余剰人員リスク」→「労働者の雇用リスク」、という風に、リスクが姿を変えながら、より弱い立場に転嫁されてきたことが分かる。そればかりか、低賃金で不安定な雇用条件の人口が千万人単位で増加し、総需要が減って、ものの売れない状況が、ますますが固定化してしまった。

まあそれはさておき、今時、パートでさえ確保は困難だ。おまけにあなたのパン屋さんの場合、1日の中でも昼前が一番忙しく、午後は暇になって、ピーク人数だけでは考えにくい。家族を手伝わせるのも限界がある。

ということで、どうも答えは、(4)「需要を見込んであらかじめ作りだめしておく」、しかないように思えてくる。実際、下請け型受注生産を強いられている部品材料メーカーの中には、顧客納入先の近くに倉庫を借りて、作りだめした製品をストックして置く企業も、それなりに存在する。注文を受けたら、そこから出荷する。中には、サプライヤー同士で共同倉庫を運営しているところさえある。

だが、そんな非効率な形態はやめたいから、解決策を考えているのだ。とはいえ、何を、どこまで作りだめしておいたらいいのか? いろんな段階の部品も製品も、全部作りだめしておくのか?

ここに、『カップリングポイント』という重要な概念が登場する。

図を見てほしい(この図は2015年に書いた記事「「すべての製造業は受注生産かつ見込生産である」 https://brevis.exblog.jp/23904094/ の再掲である)。生産を始めてから終わるまでの工程が、一列に並んでいる。ところで、各生産工程に要する時間を合計した総リードタイムは、顧客の要求するリードタイムよりも長い。これが問題の根源なのだ。
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問題を解決するためには、出荷からさかのぼって、要求リードタイムよりも長い上流側(図の左側)の部分を、あらかじめ計画的に作っておくしかない。そして、途中まで製造した中間部品ないしサブアッシーを、在庫としてストックしておくのである。顧客から確定注文が入ったら、そのストック在庫から出発して、残る右側の工程を粛々と進めていく。このような在庫点を、カップリングポイントと呼ぶ(APICSの用語ではCODP = Customer order decoupling point)。

カップリングポイントの左側、上流側は需要予測に基づく計画生産になる。そして右側、下流側は、確定受注にひもづいた受注生産である。つまり、このような生産形態は、見込み生産と繰返し受注生産を、カップリングポイントで接合した形である。いわばハイブリッド型の生産形態といえよう。カップリングポイント以外の在庫は、できれば減らすほうがいい。

もちろん、上の図は直鎖的な工程だけを描いたが、実際には複数部品を組み合わせるケースも多いだろう。また多品種で共通する資材もあるだろうから、カップリングポイントの設定は、それなりに複雑である。また、カップリングポイントのストック在庫量の適正値はどう決めるか、という問題もある。ただ、こうした細部については、今回は割愛しよう。

なお、カップリングポイントを持つハイブリッド型生産形態とは、全体としてATO(Assemble-to-order)ではないかという疑問をお持ちの方もあるだろう。確かに似ているが、厳密には少し違う。米国生産・在庫管理協会APICSは、ONBOK第3版でATOをこう定義している:

(拙訳)「ATOの形態では、製品は、顧客の注文を受けた後に、部品から組み立てられる。組立工程ないし最終工程に使うキー部品類は、あらかじめ顧客の注文を想定して計画生産し在庫しておく。注文を受けたら、組立を開始する。オプション選択の組合せによって製品に多くのバリエーションがあり得るが、共通部品の組立てで製造可能な場合に、この戦略は有効である。」
(参考)APICS Operations Management Body of Knowledge Framework, Third Edition 4.2節

つまり、ATOとは、カップリングポイントをできるだけ下流側に引きつけて、注文を受けたら一気呵成に組立出荷する形態であり、かつ、多数の製品バリエーションを実現する工夫でもある。

ところで、逆に考えると、カップリングポイントをどこに置くかによって、あなたの会社は納入リードタイムを設計できる、ということだ。ポイントを極力、下流側(図の右側)に置いて、注文から出荷までを短くし、短納期を競争力にすることもできる。ただしその場合、最終需要に近い中間部品をストックすることになるから、在庫の陳腐化リスクも高まる。

逆に、カップリングポイントを上流側(左側)に置けば、注文から納入までのリードタイムは長くなるが、より共通性の高い基礎的な部品材料をストックするだけで済むため、おそらく在庫リスクは小さくなる。また、在庫ポイントは普通、自社で持つから、それ以降は内製が基本だ。内製する部分が多くなれば、それだけ利益も、粗付加価値額も高まるだろう。

このように、自社の強み・訴求点をどこに持つかに応じて、どのような納期を設計し、どこまでを内製化するかが決まる。つまり、自社の生産形態というのは、すぐれて戦略的な決定事項なのである。

この概念を説明するのに、わたしは以前からうなぎ屋のたとえを使ってきた。しかし最近、愛知県の江藤様という読者の方から、大変素晴らしい事例を教えていただいたので、簡単にご紹介させていただきたい。それは、うどん屋チェーンのケースである。

うどん屋は、顧客の注文を受けてから作る、繰返し受注生産である。そのチェーンの代表が、「丸亀製麺」と「はなまるうどん」だ。ところでこの両社は、実は異なる戦略を取っている、というのである。
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(写真は江藤様の資料より引用)

「丸亀製麺」は、小麦、野菜などはすべて素材形状のままで在庫し、店内で麺打ちから調理し販売する。他方、「はなまるうどん」では、麺や揚げ物はすべて別の工場(セントラルキッチン)で調理したものを使い、店舗では最終の茹で、揚げを行うのみである。

「丸亀製麺」は、麺や汁を計画生産してカップリングポイントとし、揚げ物や茹でなどは受注生産する、ハイブリッド型形態である。ただ、注文を受けてから具を作るので、リードタイムが長い。それをカバーするため、大勢のリソースを厨房に使う。顧客に手作りかつ出来立てのうどんを提供できるのが特徴だ。

逆に「はなまるうどん」は下流側にストック在庫持つことで、短い納品リードタイムを実現している。つまり受注組立生産(ATO)に近い。そして少ないリソース、狭い店内で顧客要求に対応できる。このように、両者には一長一短がある。肝心の味に関しては、両派ともに言い分があろう。

うどんは多品種的な商品だし、それを組み合わせで実現できるから、はなまるのATOは一応、理にかなっているように見える。しかし、よく考えてみると、カップリングポイントが最終需要に近いため、需要の読みが正確でないと、在庫ロスが生じやすい。またセントラルキッチンからの輸送時間・コストもかかる。出店はセントラルキッチンと一緒に計画する必要があるため、面で出店計画を考えざるを得ない。丸亀製麺なら、店舗を個別に増やすことが可能だ。

では、両者の業績はどうなのか。その比較は、以下の通りだ。

丸亀製麺    2018年3月期: 904億円、利益140億円(利益率15.5%) 792店舗
はなまるうどん 2018年2月期: 306億円、利益 6.7億円(利益率2.2%) 458店舗

この二つの会社は、ほぼ同じ時期(2000年)に一号店を出店した。だが、今や差は歴然としている。この差がすべて、上記の生産形態に関する違いから生まれたかどうかは、定かではない。ただ、現時点までを見ると、丸亀製麺の方が上をいっている。おそらく、より的確な戦略を繰り出せたのだろう。

生産形態というのは、製造業にとって、非常に重要な戦略なのである。それは、よくよく考えてデザインすべきだ。それなのに、過去の経緯に引きずられて、漫然と決めている企業が多すぎるように思う。それは単純に「もったいない」のである。わたし達の社会には、技術も現場も、優秀な人には事欠かない。しかし、会社全体・サプライチェーン全体を見た戦略が、足りないのだ。戦略の欠落を、なんとか戦術で補おうと、真面目な人たちが苦心惨憺している。それは本当に、人の使い方が「もったいない」のである。


<関連エントリ>

カップリング・ポイント
 →「工場計画論(5) BTOと製品アーキテクチャー」 https://brevis.exblog.jp/12306818/ (2010-03-14)

デリバリーの設計とCODP
 →「すべての製造業は受注生産かつ見込生産である」 https://brevis.exblog.jp/23904094/ (2015-11-25)

(追記)
あなたのパン屋の場合も、うどん屋のように、在庫の賞味期限(鮮度指定)の問題がある。だからサンドイッチという製品で在庫するのは、もちろん得策ではない。でも、部品であるカツやパンだって、期限がある。こちらはさらに難問である。読者の皆さんだったら、どうアドバイスされるだろうか? たまには双方向で、議論して見みたいと思うので、メールでもコメント欄でもいいから、解決策を書いてみていただけると幸いである。



# by Tomoichi_Sato | 2019-03-12 23:34 | 工場計画論 | Comments(3)

下請け型受注生産という日本的形態を考える

あなたは、小さなパン屋の社長さんだ。町の商店街に店をかまえ、店の奥には小さいながらパン焼き工場(こうば)に職人も抱えている。店の売り場は、親族が受け持つ。実はあなたは少し前まで、都会でエンジニアをしていたのだが、やむを得ない事情で、郷里のパン屋を引き継ぐことになったのだ。

店を引き継いだ時は、赤字経営だと税理士さんから聞かされた。御多分に洩れず、地方都市の商店街は地盤沈下で客足が遠のき、売上の柱だった小中学校の給食パンも、少子化で減っていた。パン作りについては素人で何の知識もないが、ただ、あなたは一応、会社勤めで得たビジネス・センスを、多少は持っている。何とか頑張って、店や雇い人たちを盛り立て、まだ経営は低空飛行ながら、ようやく収支トントンのところまで持ち直した。

そんなあなたのところに、面白そうな商談が舞い込んできた。その地方のチェーンストアの店舗に、サンドイッチを納めないか、というのだ。あなたが人脈づくりのために顔を出した商工会で、昔の同窓生を経由して、そんな話が来たのだ。早速、先方と会って話を聞いてみる。

そのストアでは、コンビニに対抗してお弁当お惣菜コーナーをもうけ、そこにサンドイッチも置く計画だ。サンドイッチは、毎日250食以上が見込める、という。そのかわり、コンビニ並みに、JIT納品の方針である、と伝えられた(JITはジャスト・イン・タイムの略)。1日4回、2時間おきの納入である。注文の数量は、2時間前にFAXで送られてくる。

忙しそうだが、業容拡大のチャンスだ、とあなたは思う。うまくいけば、月商100万円近い売上増になる。パートを雇っても、何とかペイするだろうと、ソロバン勘定をしてみた。利益が出れば、古くなった店の設備も新しくリニューアルできるかもしれない。

ところで、生産管理の用語でいうと、あなたの店は今まで、顧客の需要を予測して商品を作る、見込生産(MTS = Make-to-stock)の生産形態だった。しかしチェーンストアの注文を受けてサンドイッチを作るビジネスは、繰返し受注生産(MTO = Make-to-order)の形態になる。

一つの会社が、商品種別ごとに、異なる生産形態を持つこともありうるのだから、これは格別おかしなことではない。だが、このような生産形態の変更は、あなたのパン屋ビジネスに、どのような変化をもたらすだろうか?

(注:前回の記事ではMTS = "Make to Stock"と書いたが、つい最近入手したAPICS Dictionary日本版を見たら、間にハイフンを入れている。そこで今後は、"Make-to-order”のように表記することにする)

さて。1ヶ月も経つと、あなたは次第に大変な仕事を引き受けたと感じ始める。

注文(納入指示)は2時間前にFAXでくる。しかし、カツサンドなどの調理をしていると、2時間のリードタイムには、間に合わないのだ。しかたなく、あなたは一日のはじめに、出荷量を想定してカツ調理の指示を出すことにした。注文の分だけ、パンにはさんで出荷する。

だが、見込がちがうと売れ残る可能性がある。しかも、チェーンストアの仕入れには、鮮度指定があり、製造後6時間以内のものでなければ受け取ってくれない。これはライバルであるコンビニなどとも同様だ。

何よりも困るのは、材料仕入れだった。毎日の出荷変動が激しいため、余裕を多目にとって発注するしかない。だが、どれだけ在庫量を持つのが適正だろうか? それに肉などは、賞味期限がある。たくさん買えば安くなるのはわかっているが、あまり大量に買い込んでおくわけにもいかぬ。

おまけに、もう一つ、誤算があった。月末になると、出荷数量に応じて請求書を作り、チェーンストアに請求する。ところが、この時点でさらに、単価のネゴをうけるのだ。その月に、たくさん売れれば、値引きを要求される。でも逆に、売れなければ、自分が廃棄ロスを背負うことになる。

注文を受け納品した後で、単価値引きの要求をされるなんて、不合理な商習慣だ、とあなたは憤慨する。だがストアの仕入れ担当者は、商売なんてこういうものだ、と平然としている。自分がかつて勤めた企業でも、購買部門ではこんなことをしていたのだろうか?

前回 https://brevis.exblog.jp/28031713/ の記事で、生産形態は4種類に大別できると、わたしは書いた。だが、あなたのサンドイッチの生産形態は、本当に繰返し受注生産(MTO)なのだろうか? MTOは、注文を受けたら、資材購買をかけて、製造する形態のはずである。だが、あなたのサンドイッチ・ビジネスは、どう見ても先に資材購買しておき、さらにカツにまで調理している。

だとしたら受注組立生産(ATO = Assemble-to-order)なのだろうか? 確かに、食パンの間にハムやカツをはさむ作業は、「組立」工程だと言えなくもない。するとあなたは、常備品としてのカツを、いわば機械系工場におけるサブアッシー(Sub-assemblyの略称で、あるまとまりまで組み上げた部品のこと)として、常備在庫でストックしているのだろうか? そして注文が入るたびに、組立てて出荷しているのだ、と?

だが、顧客であるチェーンストアは、「製造後6時間以内」との鮮度指定をしていることを、忘れないでほしい。ATOにおける常備品在庫とは、性質が違うのだ。ATOは需要変動を、常備品在庫で吸収する点が最大の特徴だ。注文が少なかったら捨てるしかないような在庫は、常備品とは言えない。

おまけに、あなたのケースでは、チェーンストア向けのサンドイッチは、ハムもパンも調味料も同社特有の仕様になっており、他の客に売ることはできない契約になっている。そもそも専用のラッピングで包装しているから、作りすぎた製品を、自分のパン屋の店頭には置けない。

しかもATOは、ある程度バラエティのある顧客の注文を、常備品在庫した部品やサブアッシーを使って、モジュール的に組み合わせて実現できる点に長所がある。特定顧客の固定した仕様だけを実現するなら、別にモジュラー型の製品アーキテクチャは必要ない。サンドイッチは組立製造にも見えるが、これがアンパンやデニッシュだったら、誰も受注組立製造だとは思わないだろう。

明らかに、あなたのチェーンストア向けビジネスは、ATOではない。少なくとも、アメリカの教科書に定義してあるATOとは、はっきりと異なる。だが、ATOではないとしたら、一体どんな生産形態なのか?

わたしはこれを、「下請け型受注生産」と呼ぶことにしている。下請け型受注生産の定義は、次の三つの条件を満たすことだ:
(1) 特定顧客向け仕様の製品を作っている
(2) 需要は変動しやすい
(3) 受注から納品までのリードタイムが、必要な製造リードタイムよりも明らかに短い

あなたが困っている根本の理由は、FAXで注文を受けてからサンドイッチを作り始めても、2時間の納品リードタイムに間に合わないからだ。だから、あらかじめカツを作り置きしておいて、ちゃんと6時間以内に出荷(消費)されるかどうか、心配していなければならない。もしこれが、十分に間に合うような納期(例えば12時間)だったら、あなたは冷凍庫に材料の肉を常備在庫しておいて、注文に応じて作ればいい。

あるいは、たとえ納期が2時間だったとしても、毎日の出荷量がいつも時刻毎に正確に同じだったら、全然困らない。予定を立てて、計画生産できるからだ。需要が読めない。それなのに、注文を受けてから製造したら間に合わない。だから、あなたの自己責任で、廃棄のリスク込みで、途中まで製造に着手していなければならないのだ。

それでも、その製品が汎用的で、いろいろな顧客に売れるようなものだったら、まだしも救いがある。チェーン店向けに作りすぎて残っても、店頭で売りさばくことができる。仮に通常の部品類だって、A社がダメでも、B社が買うかもしれない。たとえ個別には需要の変動が大きくても、複数顧客の需要を足し算すると、プラスの変動とマイナスの変動が打ち消しあって、相対的にリスクは小さくなる。これは数学的にも明らかだ。

上記(1)(2)(3)の条件を満たすような生産形態では、明らかに受注側は、需要を先読みして購買と製造に着手しておかなくてはならない。機械や電子部品のように賞味期限がない製品は、最後まで作っておいて、製品在庫として抱えておくことになるだろう。あるいは、あなたと同じように途中まで作っておいて、中間在庫とするかもしれない。いずれにせよ、発注者側はその在庫リスクを取ってくれない。つまり、契約上は受注生産のように見えるが、実態は形を変えた「見込生産」なのだ。

わたしが見てきた多くの事例では、一般に、発注側が受注側(中小部品メーカー)に対し、製造に十分なリードタイムを与えず、かつ、直前に数量を確定してくるケースが大半だ。特に発注者(大手セットメーカー)がJIT生産・JIT納品を標榜している場合がそうだ。まあ業種によっては、発注者側が大枠の先行内示を出してくるケースはあるが、それでも数量が2,3割ずれるのもざらである。

こういう商慣行が通用している場合には、生産管理の教科書にあるような「繰返し受注生産」は、成り立たない。

以前も指摘したことだが、JISの定義によると、受注生産とは
 「顧客が定めた仕様の製品を生産者が生産する形態」
ということになっている。他方、見込生産とは
 「生産者が市場の需要を見越して企画・設計した製品を生産し,不特定な顧客を対象として市場に出荷する形態」
である、という。(JIS Z 8141 「生産管理用語」https://kikakurui.com/z8/Z8141-2001-01.html

だが、あなたのサンドイッチ生産は、明らかに顧客が定めた仕様の製品を、需要を見越して生産している訳だから、JISの定義のどちらにも当てはまらない。このような矛盾が生じるのは、JISの規定が、考え足りないからだ。仕様が特定顧客向けかどうかと、生産の起点が需要見込か確定受注か、というのは独立した問題である。

したがって、生産形態とは、本当は次の図のような二次元の表になっていなくてはならないはずだ。

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この図は、わたしが『“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない』(日刊工業新聞社・2011年)で、初めて導入したものだ。そしてここには、5番目の生産形態として、「下請型受注生産」を入れてある。そして、このよう奇妙な生産形態があることは、以前からこのサイトでも繰り返し指摘してきた。だが残念ながら、未だに生産管理の常識にまではなっていない。

顧客仕様品の見込生産
「受注生産という名前の見込生産」 https://brevis.exblog.jp/8271502/ (2008-07-08)

受注生産と見込み生産の混合
「受注生産企業に生産計画は必要か?」 https://brevis.exblog.jp/23882328/ (2015-11-18)


日本の製造業における生産管理が混乱しがちなのは、このように、その基礎であるはずの生産形態の概念自体が歪んでいて、実態を反映していないからだ。

ちなみに、日本には下請法という法律があり、発注者(「親事業者」)による「優越的地位の濫用」を抑制する建前になっている。例えば、内示書を出したのに、下請け業者がその通り納品しても、全品を受け取らない、といった行為は法律で禁じられている。

(参考) 下請法 − 対象となる4つの取引と11の禁止事項 

ただ、この法律には、資本金による制約がついている。受注側の資本金が3億円以上だったら適用されないし、それ以下でも、発注者側の資本金が1千万円以下だったら対象にならない。それに、あなたのサンドイッチ・ビジネスの場合、発注者は先行内示を出さずに、FAXによる注文で全品受け取る訳だから、禁止事項には該当しなさそうだ。明らかに在庫リスクを下請け側に押し付けているのだが、法律は守ってくれない。(ただ月末の値引き再交渉は、「下請代金の減額」に該当する可能性があるかもしれないが)

なお、日本の自動車業界では、先行内示を前々月から出しておいて、かんばん等で実需を調整するやり方が広く行われている。そして、中には内示と実需がかなり食い違う会社があって、部品メーカー泣かせとなっている。ところが、わたしが業界の人から聞いた限りでは、同じ日本の自動車会社が、北米ではこのようなやり方をせず、部品メーカーには確定注文を出し、その通りに引き取るという。

なぜこのような違いが生じているのか、詳しい事情は分からない。でも(ここから先は想像だが)、北米の部品メーカーはそれなりの企業規模であり、かつ法律知識も権利意識も高いので、在庫リスクを押し付けるような発注契約が難しいのではないか。そして、その事情は、おそらく欧州や他の新興国でも似ているのであろう(新興国のマネージャー層は、しばしば欧米のビジネススクールで高度な教育を受けているものだ)。

結果として、JIT納品の旗印のもとに、需要変動のリスクを下請け側に押し付ける「下請け型受注生産」は、極東のガラパゴス的な島国だけに残るような気がする。経営基盤の弱い中小下請けが、サプライチェーンの需給ミスマッチのリスクを背負うような生産形態が蔓延していることこそ、この国の産業構造の弱点であることに、より多くの人が気がついてほしいと願う。

で、気がついた人は、どうすべきか? それについては、項を改めて、もう一度書こう。



# by Tomoichi_Sato | 2019-03-03 13:30 | 工場計画論 | Comments(1)

自社の生産形態をデザインする

ときおり頼まれて、生産スケジューリングの話を人前でする。生産計画やスケジューリングについて困っている方が、製造業には多いのだろう。中堅中小の工場はいうに及ばず、結構な大企業の工場に行っても、Excelの生産日程表を現場に配って、現場のリーダーたちが個別に指示采配しているケースを、よく見かける。

Excelだから悪いと決めつけるのは早計かもしれないが、現場の状況に応じて臨機応変に修正するには、どうしたって時間がかかる。だから納期や機械稼働に変動の多い工場では、機動的に指示変更が出せない。出せないと、需給のタイミングがずれて、欠品や在庫が増えることになる。かくて納期遅れが多いのに、無駄な在庫も多い、という現場ができ上がる。

そこで、何か良い知恵はないかとお集まりの皆さんに、わたしが必ず最初にする話が、『生産形態』の種別の説明だ。なんだか肩透かしを食らったような気がすると思う。生産方式と生産形態というテーマは、生産管理の教科書なら、最初に出てくる概念だ。だが、セミナーに集まる多くの方は、あまり生産管理の理論をキチンと学んだ経験がないようにも、見受けられる。奇妙なことだが、これが日本の製造業の実態らしい。

生産方式とは、モノの作り方と工程のあり方に関する分類だ。たとえばプロセス型生産とか、組立加工型生産といった類型がある(後者はディスクリート型ともいう)。組立加工型はさらに、フローショップ型とかジョブショップ型などに分かれる。作る製品の量と質によって、生産方式はおのずと制約される。牛乳は旋盤で削らないし、豪華客船は反応釜では作れない。だから生産方式は、主に生産技術部門が考え、結果は工場レイアウトなどに現れてくる。

他方、生産形態とは、需要(顧客注文)に対してどのように応じるかを分類した概念である。たとえば見込み生産とか、個別受注生産といったタイプがある。生産形態は生産方式がどうであるかにかかわらず、独立して決まる事柄で、むしろ生産管理(とくに生産計画)と関係する。だからスケジューリングの話の最初に説明するのだ。生産形態をどう選ぶかによって、リードタイム・在庫量が大きく変わる。

では、生産形態はどこの部門の誰が決めるのか? そう。ここが問題なのだ。

多くの企業では、自社の製品の生産形態を、主体的に決める人がいない。なんとなく、従来の行きがかり上、現在の形態に落ち着いているだけで、それがベストかどうかを吟味する人もおらず、責任部門も存在しない。少なくとも日本では。これがたとえばアメリカの先進的企業なら「サプライチェーン・マネージャー」あたりが決めるのだろう。だが、そうした職位は、わたし達の社会では希少だ。

自社の生産形態は、日本人お得意の全員コンセンサスで決める? わたしは違うと思う。そういう問いを、誰も立てた事がないのではないか。

もっとも先ほど、「生産管理の教科書なら最初の方に書いてあるはず」といったが、そもそも率直に言って、生産管理には良い参考書があまりないようだ。この国では現在、生産管理関連の本は、超初心者向けの易しいものしか、出版社が出さない状況になっている。数式が出たら売れない、「××学」はダメ、とにかく(IT本を除けば)エンジニアは専門書を買って読まない・・これが出版界で信じられている常識のようである。

話を戻すが、それでは、生産形態にはどのような種類があるのか。

これについては、わたしはこのサイトで何回も、もう10年以上前から書いている。でも、未だにネット上に情報源は限られているようだから、もう一度書く。

わたしは生産形態を、基本的に4種類に分類している。学問的にはもっと細かく5〜7種類に分ける流儀もあるのだが、分かりやすさが大事なので、4つとしている。以下の図は、2007年に書いた記事の図を少し手直ししたものだ。
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4つの生産形態の図
ATO、BTO、CTO」(2007-11-09)

4つの生産形態

ものづくりはどんな分野でも、最初にモノを「設計」し、それから部品材料を「調達」して、加工・組立・検査などを通して「製造」し、最後に「出荷」して客に届ける必要がある。すなわち、生産とは
 (1)設計 → (2)資材調達 → (3)製造 → (4)出荷
の4つのステップからなるプロセスを必ず通る。これは乳製品だろうが、豪華客船だろうが同じことだ。

この、設計→資材調達→製造→物流、という4ステップのうち、どこまでを先に準備しておき、どこからを需要情報(顧客注文)に合わせるか、によって、生産形態は大きく4種類に分かれる。

わたし達の社会で、皆が一番イメージしやすいのは、「見込生産」だろう。英語ではMTSと呼ぶ。MTSはMake to stockの略語で、ストックするために作る(=生産して在庫しておく)形態をいう。英語の表現の方が、実質をわかりやすく示している。「見込み」という日本語には、何を見込むのかという曖昧性が残るので、わたしの所属する中小企業診断士協会「生産革新フォーラム」(略称MIF研究会)は、「需要予測生産」と呼ぶことを提案し、共著『“JIT生産”を卒業するための本』 でも、そう書いた。

MTS(見込生産)という生産形態は、この(1)設計から(3)製造までを、自分たちの需要予測に基づいて事前に行っておき、出来上がった製品をストック在庫の形にしておき、実需に応じて流通経路に配する。いわば、顧客の需要(注文)と、生産による供給が、(3)と(4)の間にある製品在庫でマッチする(調整される)形になっている。

顧客から見ると、注文したらあとは出荷のみだから、入手までのリードタイムが短いし、メーカーの立場から見ると、予測に基づく計画生産で工場を動かせるから、すごく生産性もコスト効率も良い、ということになるはずである。ただ、その代償として、陳腐化リスクの高い製品在庫を、たくさん用意しなければならない。

このMTS(見込生産)の代表的業種は、家電・自動車・食品・日用品などの製造メーカーである。これらの業界はほとんどがBtoC(消費者向けビジネス)の企業だから、盛んに広告宣伝をするので目立つし、特に自動車と家電業界は長らく、日本の製造業をリードしてきた業界だった。だから、なんとなく「ものづくり産業」というと、このMTS(見込生産)形態が日本の主流のように、皆が思い込む時代が長く続いた。

しかし日本の電機メーカーは、知っている人は周知の通り、海外市場では見る影もなく落魄し、日本はむしろ電子材料・部品メーカーとしての面だけが生き残っている。部品が強いというのは、航空宇宙業界などでも似ていて、日本製旅客機はいつまでたっても空に雄飛しないが、航空機部品メーカーは海外でもそれなりに存在感を示している。

こうした電子材料・部品や機械部品メーカーの業界は、ほとんどが「繰返し受注生産」(MTO = Make to Order)の形態をとっている。英語のOrderは注文を意味し、MTOとはつまり、注文に応じて作る、の意味である。ものづくりのプロセスでいうと、(1)設計だけは事前に行っておく。注文が来たら、(2)資材調達→(3)製造→(4)出荷、というステップを進める。

MTO(繰返し受注生産)の形態では、MTSと違って、製品在庫という形のリスクを負う必要はない。注文を受けてから資材を手配すれば良いからだ。まあ、正確にいうと、注文に応じて調達する資材(引当品)の他に、注文がなくても常備しておく資材(常備品)も抱えている場合が多いが、在庫リスクはMTSに比べて小さい。

その代わり、MTO(繰返し受注生産)では、注文してから手に入るまでのリードタイムが長くなる。仮にあなたが年末ジャンボ宝くじの特等にあたって、海外メーカーのディーラーに行き、念願通りカタログにある最上等の豪華なスポーツカーを注文したとしよう。もちろんカタログに載っているからには、設計は済んでいる。だが、店頭に在庫はあるまい。十中八九、注文生産になる。そして何ヶ月も待たされることになろう。在庫リスクは小さいが、リードタイムの長さが、この種の生産形態のネックだ。それでも、先に述べたように、今日の日本の製造業のかなりの数が、この生産形態をとっている。

ところで自動車のケースについていうと、あなたが冬のボーナスで普通の乗用車を買うためにディーラーに行った場合、仮に車種はすでに決まっていたとしても、エンジンの排気量や外装・シートの色から、エアバッグ装備、カーナビ等電装品の配置等まで、相当数のオプションを選べるはずである。あなたが選んだオプションは、隣のテーブルで同じ車種を買おうとしている客とは、きっと全然違う。これもまた、注文生産ではないのか? では、自動車メーカーは何ヶ月も待たせる代わりに、どうやって数週間で配車してくれるのか?

それは、国産車メーカーの多くが、自社の主力商品について、じつはATOという生産形態をとっているから可能になるのだ。ATOはAssemble to Orderの略で、日本語では「受注組立生産」と呼ぶ。

ATOでは、受注したら詳細な仕様やオプションに従って、組立に必要な部品やサブアッシーを選び出す。そうした各種部品やサブアッシーは、すでに(1)設計し(2)資材調達して、常備在庫としてストックを持っている。だから工場では組立てして検査するだけで、すぐ(4)出荷できる。MTS(見込生産)ほどではないが、注文から出荷までのリードタイムはかなり短い。そしてMTS(見込生産)に比べて、在庫リスクも小さい。

こうした業態は、PCのようにオプションが多数ある製品に向いている。早くから、この生産形態を徹底化したのがデル・コンピュータ社だ。彼らは自分たちの生産形態をBTO(Build to Order)と呼んで、普通のATOより進化したものと主張している。

事実、デル・コンピュータ社は、工場に常備品を多数ストックするようなことはしていない。そもそもPC用の電子部品(特にチップ系)は数ヶ月単位に値段が下がっていくので、常備すると陳腐化リスクが大きい。だから、彼らは現物として工場にストックする代わりに、部品市場で価格と需要を先読みしながら、先行手配をして、実需ニーズにほぼ合致するようにしている。実物在庫ではなく、サプライチェーン全体の供給予定(一種のエシェロン在庫)で、正確にコントロールする能力が、彼らの強みである。

ここまでに、MTS(見込生産)、MTO(繰返し受注生産)、ATO(受注組立生産)の3種類を説明した。では、残りの1種、図の一番上にあるETO(受注設計生産)とは何なのか?

あなたが仮に、豪華客船を手に入れるべく、造船所に注文に行ったとしよう。豪華客船の購入は、年末ジャンボ宝くじ程度では無理だが、まあ、遠縁の叔父の遺産のおかげで、クルーズ会社の経営者の立場を引き継いだことにしようか。いや、何だったらあなたは投資会社の辣腕役員で、これからは特殊なLNGタンカーの需要が高まると睨んで、造船所に掛け合うのでもいい。

豪華客船であれ特殊タンカーであれ、こうした船は通常、注文を受けてから(1)設計し、(2)資材調達し、(3)製造して、(4)出航(出荷)する、という4ステップを踏むことになる。これをETO = Engineer to Order(受注設計生産)と呼ぶ。特殊な船だけでなく、航空機や産業機械といったものも、この範疇に入る。顧客の仕様があまりにも個別ないし特殊なので、設計が都度必要になるのである。

このETO(受注設計生産)形態は、したがって、注文から出荷までのリードタイムが最長となる。その代わり、ETO企業はふつう、一切ストック在庫を持たない。毎回、個別に必要な資材だけを調達する。工場内にある在庫は全て、仕掛り中のフロー在庫である。

お分かりだろうか。生産形態の選択は、その製品に関して抱えるストック在庫の量と、リードタイムの長さを規定する。一般にリードタイムの短さと在庫量の少なさは、相反の関係にある。短納期を武器にするのか、それとも低在庫リスクのコストメリットを追求するのか? 自社の強みと競争力を、どこに置くのか。したがって、どの生産形態をとるべきかは、製造業における戦略の重要なポイントになるのである。

そして戦略である以上、それは一種の仮説、ないし賭けである。戦略が適切であるかどうか、継続して検証していかなければならない。検証するためには、しかるべきKPIを設定して、測定していく必要がある。とるべき生産形態(戦略)によって、重視すべきKPIも異なるはずである。

ちなみに、上の説明を読むと、何だかATOが一番良さそう(リードタイムと在庫のバランスが取れている)との印象を受けたかもしれない。だが、ATOを実現するためには、
(1)顧客がバラエティ豊かなニーズを持ち、それを受け付けられれば営業上の優位となること、
(2)バラエティを、モジュール化したサブアッシーや部品の組み合わせで実現できる製品アーキテクチャになっていること、
の2条件を満たせる必要がある。つまり、生産形態の選択には、設計部門や営業部門を巻き込んだ検討が必要なのである。

営業、設計、製造の3部門がそれぞれ分権化(あるいは分社化)し、「分業病」の高い壁で隔てられているような企業では、どのような生産形態が望ましいか、といった問題設定を立てること自体が難しくなっている。結果として、「なりゆき」思考で生産形態が決まってしまう。だが競争力を取り戻したかったら、生産形態に関する適切な戦略が必要なのだ。

もっとも、このサイトを読んでくださる読者諸賢の多くは、おそらく3部門を統括する社長でも事業部長でも、ないだろう。でも、そのような問題意識にあふれた貴方こそは、会社の将来、あるいは日本の産業の将来を担うはずの人材なのだと思う。だったらまずは、こうした分業病の限界に気づいて、一人一人が「なりゆき思考」から、脱却するべき時なのである。


# by Tomoichi_Sato | 2019-02-24 15:00 | 工場計画論 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(3月13日)開催のお知らせ

前回から少し間が空いてしまいましたが、「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2019年第1回会合を開催いたします。

皆さんは、自分や人の『感情』がマネジメント可能だと考えたことがおありでしょうか? あるいは、プロジェクトにも感情があるのでは、と思うことはありませんか?

プロジェクト・マネージャーの仕事の半分以上は、コミュニケーションにあてられています。チーム員や顧客・外部のステークホルダーとのやりとりに時間が割かれ、しかもその多くは、単なる情報伝達以上の、説得や交渉や動機付けといった難しい仕事です。難しい理由は、自分や他人が内心抱えている「感情」が、伝えるべき「理路」を左右してしまうからでしょう。おまけに、感情には一種の共鳴性ないし伝染性があり、チームの中でどんどん広がっていきます。

では、そもそも、感情にはどんな種類があるのか。自分や他者が抱えている感情に気づくには、どうしたら良いか。そして感情はどんなダイナミクスに従って動くのか。こうした感情に関する教育やトレーニングは、ほとんど受けたことがない人ばかりだと思います。

今回はPM関係の教育・コンサルティングに従事しておられるアイシンク(株)の丸山奈緒子様に、感情マネジメントのスキルについて、入門編をお話いただきます。目からウロコの話題がたくさん出ること、請け合いです。プロマネの仕事は技術をリードすることだ、だから優秀な技術者がやればいい、と信じている組織が世間ではほとんどでしょうが、本当は感情とリスクのマネジメントがその8割以上なのではないかと、皆さんもきっと思われるようになるはずです。

大勢の皆様のご来聴をお待ちしております。

<記>

■日時:2019年3月13日(水) 18:30~20:30

■場所:慶応大学三田キャンパス 研究室棟B
※キャンパスマップの【10】

■講演タイトル:
「プロジェクトマネジャーが高めたい『感情マネジメント』スキル」

■概要:
 感情の取り扱い能力は、個人やチームのパフォーマンスを高めるうえで大変重要です。
 一方で、ネガティブな感情に振り回されたり、むやみに抑え込もうとしたりと、
 どのように扱うべきか学ぶ機会がなかった方が少なくありません。
 本講演ではプロジェクトマネジャーなどチームを率いる方に知ってほしい、
 感情とのつき合い方についてお伝えします。

■講師:アイシンク(株)
丸山奈緒子(まるやま・なおこ)

■講師略歴:
 お茶の水女子大学 生活科学部 発達臨床心理学卒
 桜美林大学大学院 心理学研究科 修士課程修了
 日本健康心理学会認定 専門健康心理士
 米国PMI®認定PMP®
 東京大学特別講師
 心理学をベースにしたヒューマンスキル系講座の開発・講師担当。ストレスマネジメント、
 アサーション、コーチング、交流分析、ファシリテーションなど、PMのニーズに即した講座を提供。

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)


# by Tomoichi_Sato | 2019-02-17 15:00 | プロジェクト・マネジメント | Comments(3)

書評:「菊と刀」 ルース・ベネディクト著

平凡社ライブラリー「菊と刀」 (Amazon.com)

昨年読んだ中で、インパクトのあった本のTOP 3を挙げろ、と言われたら真っ先に挙がるのが本書「菊と刀」であろう。1946年に刊行された日本文化の研究書であるが、未だにその輝きを失っていない。むしろ今日、現在の日本の姿を念頭に置いて読むと、いよいよその切り口の鋭さと洞察の見事さに驚き、感動さえ覚える。

「合衆国がこれまで総力をあげて戦ってきた敵のなかでは、日本はいちばん異質な相手だった。」−−本書は、こう始まる(p.9)。文化人類学者である著者ルース・ベネディクトは、1944年6月に、米国戦時情報局(OWI)からの依頼で、日本文化について研究する任務を与えられた。

'44年(昭和19年)6月といえば、日米開戦後2年半が経ち、すでに戦局は大きく米国側に傾いていた時期である。米国はすでに戦争の最終段階と、その後の占領政策について考え始めていた。(日本は)「本土に侵攻しないでも降伏に応じるだろうか? 皇居空爆は断行すべきだろうか?・・日本人はいつまでも軍政下に置いておかないと大人しくできない民族なのか? わが軍は、山岳地帯のありとあらゆる天然の要害に閉じ籠り、捨て鉢な徹底抗戦を繰り広げる日本兵を相手に、戦闘をする覚悟をしなければならないのか?」(p.12)・・これが、彼らの直面した問いだった。

この問題に取り組むにあたり、文化人類学者に研究を依頼する、というのがアメリカ人らしいアプローチであった。異質な相手と取り組むには、その思考と感情の習慣を、科学的・客観的に理解しなければならない。これが西洋流の合理思考だ。

しかし、当然ながらルース・ベネディクトの仕事は困難を極めた。何より、文化人類学の基本は、フィールドワーク調査にある。戦争中の相手だから、当然それはできない。彼女は代わりに、米国内にいる日本人・日系人へのおびただしいインタビューと、先行研究の徹底サーベイによって乗り切った。現地・現場・現物に接することなく、知性はどこまで異文化を理解できるのか。本書はその精髄である。

『菊と刀』とは、「日本文化=恥の文化、西洋文化=罪の文化」という二項対立的な図式で日本を論じる本だ−−そう信じている論者は、今も多い。恥の文化とは、他者の目を意識して自分の行動規範とする、いわば他律的な文化であり、一方キリスト教を背景とした西洋文化は、絶対的な善悪の基準によって行動規範を持っている。だから西洋は日本よりも優れている。そういう主張の本だ・・という風に誤解しているようだ。

いや、正直に言おう。わたし自身、そう思い込んでいた。だが、そういう人は、この本をちゃんと読んでいないのだと、思い知った。「恥の文化」という有名な言葉は、分厚い本書の後半になって、それも日本人論ではなく一般的概念として、初めて出てくる。それまではもっぱら、「忠」「孝」「義理」などが日本人の人生観を支配している、という話が続く。特に重要な要素として、「」の感覚が詳しく記述される。

「日本人にとっては、恩の返済こそ徳目なのだ」(p.143)。これは、無償の愛で他者に恩を与えることが徳目とされる米国の倫理とは、随分異なっている。また中国では最高の徳目である「仁」(親や支配者が示す博愛)は、日本では無法者の道義に堕ちている。ベネディクトは、日本人における恩を、一種の貸し借りとして、いわば貸借対照表のように理解できる、と説明する。そして恩の返済に関連して、「義理」が登場する。

恥の文化という概念が登場するのは、汚名をすすぐ、そして自重する、といった徳目に続く章においてだ。「西洋人は、因習への反逆や障害を乗り越えて幸せをつかむことを、強さの表れと考える傾向がある。しかし日本人の見解では、強者とは個人的な幸福を顧みず自らの義務を全うする者のことである。」(p.254)

このような強い自制心への方向づけは、いわゆる罪と罰の概念による行動規制とは別物だ。それゆえ、日本人は、「この世は善悪の闘争の場」などではないと考え、「人間の生活では肉体と精神という二つの力が互いに相手を凌駕しようと絶え間無く争っているという西洋の人生観」(=非常にピューリタン的な人生観)とは無縁だ(p.232)と、著者は驚く。

ただし、彼女は単純に米国と日本を対比して比較評価している訳ではない。あくまで文化人類学的な相対主義の立場に立って、日本文化を多面的に理解しようとしている。例えば中国文化との相違点もいろいろと書かれている。忠孝の概念は中国から来た。だが、中国の祖先崇拝と大家族主義の元では、伯父や伯母への関係も「孝」であるが、日本では普通「義理」にすぎない。日本人の祖先との結びつきは、せいぜい3世代さかのぼる程度であり、むしろフランスの家族制度に近いという。

もう一つ、ルース・ベネディクトが日本の重要な価値観として指摘するのは、階級序列の感覚である。個人は誰もが社会における(あるいは家族内における)序列のいずれかに位置し、その場所に応じて、果たすべき役割と義務、享受すべき権利と責任を与えられる。彼女はこれを、教育勅語の中にある「各々其ノ所ヲ得」という言葉で象徴させている。

「日本人を理解しようとするならばまず、彼らのいう「各々其ノ所ヲ得」ということが何を意味するかを考えてみないといけない」(p.60)。日本では、上位者に対して下位の者は礼儀に従ってお辞儀をし頭を下げる。「頭を下げる方は、相手が自らやりたいことを好きなようにやる権利を認め、その代わり頭を下げられた方は自分の『其ノ所』にともなう責任を受け入れる」(p.67)。この秩序を守ることが、日本人にとって安全の重要な要件なのだ。

そして日本人は、「国内ばかりか、国際関係における諸問題まで、彼らなりの階級序列との関わりで見てきた」(p.60)。かくて、八紘一宇というスローガンのもと、日本を頂点とした東アジア秩序概念を輸出しようとしたことが、日本の破滅のきっかけとなったのだ。真珠湾奇襲の当日にも、日本は米国のハル国務長官に、同じ言葉遣いで「惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ」るのだと伝えた。その無礼な主張に、多くの国は憤慨した。国々は互いに対等であるべしというのが、世界的な常識・通念だからだ。

ところが「日本の将兵は、占領した国家で住民に歓迎されないといっては、その都度いつまでも驚愕を繰り返した」(p.118)。其ノ所の感覚が、日本以外では通用しないことを知らなかったのだ。

さて、ルース・ベネディクト達にとって特に問題となったのは、日本人の戦争の勝敗に対する感情である。日本の軍隊は、簡単に降伏しない。「西洋国家の軍隊では、兵力の四分の一から三分の一が戦死すれば、軍隊が降伏するのはほとんど自明の理となっている」のに対して、「ホランディアで初めて相当数の日本兵が降伏した時、投降の割合はおよそ戦死5に対して降伏1だった」(p.55)。

これほどまでに頑強に抵抗し、しかも、赤穂四十七士による主君の仇討ちの物語を大切にする日本人たちは、たとえ戦場で米国に敗北しても、その後ずっと怨念を抱き復讐を誓う存在であるように思われた。

ところが驚いたことに、一旦降伏を受け入れるや否や、日本軍の「古参兵や長年の国粋主義者が、味方の弾薬集積地の場所を探し出し、日本軍の配置を念入りに説明し、わが軍の宣伝文を書き、わが軍のパイロットと爆撃機に同乗して軍事目標まで導いたりした」(p.58)のである。こうした「敗北した日本人の180度の方向転換は、アメリカ人には額面通り受け取ることが難しい。私たちにはそんなまねはできないからである」(p.213)。彼ら日本兵は、「鬼畜米英」を放逐し、「東亜新秩序」を打ち立てるという大義のために、命を懸けて戦ったのではなかったのか?

だが、そうではなかったのだ。そして、このような敗北後の180度方向転換は、別に太平洋戦争の特殊事情ではなかった。同じことは幕末時代にも起きた。薩英戦争に負けた薩摩藩、下関戦争に負けた長州藩は、いずれも「英国に永遠の復讐を誓う代わりに、英国との友好を求めたのである。その相手から学ぼうとしたのだ」(p.215)。もっとも先鋭的な尊皇攘夷の藩だったはずの薩長の、この変貌は、現代のわたし達自身にさえ、なんだか奇妙に思える。

しかし、それこそまさに「各々其ノ所ヲ得」という日本人の序列感覚が生んだ現象だと、ベネディクトは説明する。太平洋戦争に負けて、日本人は「アメリカ当局を自分たちの国における階級序列の最高位として受け入れた」のだった。「日本人は、持てるすべてを一つの行動方針に投入し、それに挫折すると、別の行動方針を採用する。・・それはあたかも、人生のページを真新しくめくったかのようだった。」(p.58-59)。

逆にいうと、日本人は何かの絶対的な観念や哲学に従って行動するのではなく、常に相対的な序列に応じて、実利的に行動するのだ。それこそまさに、善悪の絶対基準による罪の文化ではなく、名誉を基準にした恥の文化のパターンが示す行動規範である。

なお、翻訳について一言いっておきたい。訳者の越智敏之・越智道雄(どちらも大学教授で、父子と思われる)は、丁寧かつ手厚い翻訳を行なっているが、しかし同時に本書が「数多くの事実誤認を含む」として、詳細な、ほとんど教師が学生のレポートを添削するがごとき訳注を付している。一例を挙げると、生麦事件が薩摩藩内で起こったかのように書いているのは、確かにベネディクトの誤りに違いない。しかし、生麦という小さな町が神奈川県にある、と知っている日本人は何割いるだろうか。また、「ビルマ」に訳注をつけて「今日のミャンマーをさす」と書かないと、読者は分からないと考えているらしい。いささかお節介にすぎると思われるのだが。

ともあれ、それなりに読みやすい新訳で出されている本書は、日本人が日本を理解する上で、必須の文献であると改めて思った。ルース・ベネディクトは、決して勝者米国の人間として、日本文化を裁いて見下すような書き方はしない。彼女はプロの文化人類学者であり、文化の相対論者である。だがそれ以上に、本書を通して感じられるのは、研究対象である日本への、率直な驚嘆と愛情である。

そして驚きと愛こそ、異文化理解の最大の原動力なのだ。



# by Tomoichi_Sato | 2019-02-06 23:15 | 書評 | Comments(0)

ITシステムのオーナーシップとは何か

男が道を歩いていたら、「言葉を話せる犬、売ります」という看板を見つけた。興味を惹かれて門をくぐり、中にいた犬にたずねた。「お前さんがその犬か。これまで、どんなことをしてきたんだい?」

すると犬は答えた。「自分はとても充実した生活を送ってきました。まず、アルプスで雪崩の犠牲者救助をしてました。その後は、イラクで米軍の補助犬として働き、今は近くの老人ホームの人たちに本を朗読してあげているんです。」

感心した男は、オーナーに向かってたずねた。「こんな立派な犬を、何であなたは手放すんです?」
オーナーは答えた。「大嘘つきだからだよ。そいつが言ったことなんて、実は何一つやってないんだ!」

・・アメリカのジョークである。犬はまあ、それなりに知的な生き物だが、人間の所有物だ。オーナーの役に立つことをするから、飼ってもらえる。役に立たなければ、オーナーは手放したり売ったりするだろう。特に、それが「できる」と称している機能と、現実とにギャップがあれば。おまけに、米国の商品には(ソフトを含め)案外その手の品質ギャップが多いのだ。

前回の記事『プロジェクトのオーナーシップとは何か』https://brevis.exblog.jp/27925736/ で、わたしは「プロジェクト」という目に見えない活動のオーナーについて考えた。今回は、ITシステムという、同じく目に見えない道具について検討してみよう。

そもそも、オーナーシップとは何か。それは、端的に言って、何らかの対象を「自由にできること」を意味する。自由とは、例えば、利用したり、譲渡したり、変更したり、破棄したり、といったことだ。

もちろん、そのためには、自分がその対象を、正当に取得した(ないし自分で作成した)のでなければならない。そして、自分はその対象の価値を知っているし、はかることができる能力を持つ。
法律的には、いろいろなモノに対し、所有権とは区別して「利用権」を設定でき、他者に譲れる。土地がその良い例だ。所有しているということと、現在使っているということは、別なのである。

オーナーは、所有する対象から直接生じる便益や損失についても、対外的に責任を持つ。経済的な利益も損害も、そしてそれに伴う栄誉も、不名誉も、オーナーに帰せられる。犬を飼う人は、犬が他人に迷惑をかけたら、賠償したり詫びたりしなければならない。

また、その対象に依存して何かを行う他者がいる場合、オーナーはその維持にも責任を持つ。自動車の場合、特定他者とは、例えば家族の場合もあるだろう。あるいはレンタカー業で、ユーザと個別に契約を結ぶ場合もあろう。さらに、利用者が不特定な場合だって、何らかの社会的な責任というものは生じる。
要約すると、何らかの対象について、お金を出して取得し、その価値を活用し、さらに改善し、無価値になったら破棄することを、責任を持って行うのがオーナーシップである。つまり、
 PDCAサイクルを回す主体 = オーナーシップ
だと考えていい。
さて。読者諸賢の職場では、IT予算は誰が決めて、誰が払うのだろうか。情シス部門? ユーザ部門? それともケースバイケース?

IT予算に関する調査レポートは、日本情報システムユーザ協会(JUAS)をはじめ、いくつかの調査機関が出しているが、あまり予算の出所や管理権の所在について、書いたものを読んだ記憶がない。わたしが気づいていないだけかもしれないが。
じゃあ、別の聞き方をしよう。IT開発プロジェクトのオーナーは、誰か。IT開発チームのプロマネの上司である、情シス部長やCIOか。

ここで問題にしたいのは、社内の業務で使うタイプの業務系ITシステムのことだ。外部顧客向けのソリューション商品とかの話ではない(その場合は、プロダクト・オーナーが当然いるはずだ)。
実は、そのシステムを使って実現する「業務プロセス」のオーナーが、オーナーシップを発揮すべきだ、というのが今回の話だ。それが販売系プロセスであれば営業部門、製造系であれば生産、設計系であれば技術、物流系であれば物流部門がオーナーであるはずだ。

業務ユーザ側の部門が、開発予算の実質的スポンサーであり、IT投資からその価値を引き出す任務に当たる。である以上、開発投資(予算)の決断も、その内容とスコープ(範囲)も、その主たる業務機能も、業務ユーザ側部門が最終的な判断権を持つ。(なお、サーバやネットワークといったITの基幹インフラ系システムは、情シス部門がオーナーで構わない)

そして、業務ユーザ側が、IT投資に見合う価値があるかどうかを、判断する。これが、あるべき姿ではないか。
こう書くと、早速反論が寄せられそうだ。「ITのことなんか何にもわかんないユーザ側が、決められる訳ないだろ。第一、開発工数のことも、運用保守の負担も、テクニカルなアーキテクチャーの良否も、判断できないじゃないか? だから、俺たちが一番良いように、ちゃんと考えて決めてやるさ。俺たちが作って与えた通り、ユーザは使ってればいいんだ・・」
あえて嫌味な書き方をしたが、こういう感覚を内心持ったことのあるITエンジニアは、案外多いのではないか。
だが、これは危険な、官僚主義への道だ。その昔、汎用計算機しか世の中になくて、1台なん億円もした時代の感覚だろう。高価なリソースを管理し、使わせてやっている、という時代は、「専門家判断」に全てを依拠するのが主流だった。

だが、こうしたあり方は、かつての鉄道事業や電気通信事業のあり方を思い出す。あの当時、10円玉と100円玉の両方を使う公衆電話で、技術的にはできるくせに100円玉にお釣りを出さなかった電電公社のことを、覚えている人はまだ多い。こうした官僚主義のサービス事業は、みんな民営化されてしまった。

同じように、社内の情シス部門が聞く耳を持ってくれないと感じるユーザ部門は、しまいには自分たちで外部に直接アウトソースし始める。つまりITサービスが社内で「自由化」され、外部との競争にさらされることになる。今はそれが、十分可能な時代だ。昔の汎用機の時代とは違うのだ。そうして、社内バラバラなシステムが横行したら、最後に困るのは自分たちITエンジニアではないか。

「いえいえ、わたしは言われた通りのものを作るだけです・・」そういう受け身のITエンジニアたちも、もちろんいる。ただ、その姿勢はどうかというと、ユーザ部門の要望に従って作った結果、どうなっても、それは知りません、という印象をしばしば与える。つまり、オーナーシップを忌避ししてる訳だ。だが、ユーザ側にオーナーシップを求めている訳でもない。
結果として、「オーナー不在」なまま宙に浮いた業務システムが、社内に多数存在することになる。そうした業務システムは、PDCAサイクルを誰も回さない。いずれ、アーキテクチャ的にも機能的にも、温泉旅館的つぎはぎ構造になっていき、誰もまともに保守できなくなる。それもありがたくない話だ。

一番望ましいのは、ユーザ側が企画構想と実業務適用と評価・改善のPDCA責任を持ち、IT部門が開発と運用についてプロの専門家として委託される形だろう。

そして、IT機能の実現方法について、複数の案が存在するときは(たいていの場合はそうだが)、IT側が比較表を作成してユーザ側に提示する。比較表に記載すべき項目は、以下のようなものだ:

  • 実現手法
  • 実現できる機能要件
  • 想定される非機能要件(レスポンスタイム、スケーラビリティ、オペラビリティ等)
  • 初期コスト及び運用コスト
  • 長所
  • 短所

そして、ユーザ側が総合的な観点から、比較評価して決める、という手順を取るべきである。この時、開発予算や運用予算は、ユーザ部門側がオーナーシップを持って起案することになる。

ただ、ユーザ側がITにまるきり無知なままでは、ちゃんとしたオーナーシップを持てないのも、事実だ。結局、これは社内一般ユーザのIT的な育成という課題にたどり着く。

無論これは、かつてのような社内OA講座みたいな「コンピュータ・リテラシー教育」の問題ではない。ITとは何で、ITシステムとはどういうもので、開発プロジェクトはどう進められ、運用保守は何が大切か、といった研修が必要なのだ。業務をITに合わせるべき点はどこで、逆にITシステムにはどういう機能要件を持たせるべきか、という最適バランスを、ちゃんと議論できるようになってもらわなければ、良いITシステムは作れない。
ところで、単独の部門の業務に関わるシステムの場合はいい。複数の部門にまたがるような、複雑広範な業務プロセスのITシステムは、誰がオーナーシップを持つべきなのか?

これがまた、現実には厄介な問題なのである。ここでも、前回と同様、「ステアリング・コミッティ」方式を取るしかない。関係する部門からメンバーを出してもらい、委員会方式でコンセンサスをとっていくのだ。

ただ、その場合でも、リーダーとなる部門は明確に決めるほうがいい。そうしないと、意思決定の責任所在が不明の、いつもの「日本型無責任体制」になりかねない。

なお、米国などのグローバル企業には、「業務プロセスのオーナーシップ」という考え方がある。例えばマイクロソフトには、数名のエグゼクティブがいて、彼らがそれぞれ業務プロセスについてグローバルに責任を持っている体制だと、数年前に聞いた。しかし日本企業では、こうした体制になっている例は、寡聞にして聞いたことがない。目に見える「モノ」には非常にこだわるが、無形の「プロセス」には興味がない人が多いから、だろうか。

だが、ITシステムというのは、より競争力の高い業務プロセスを実現するための、ツールなのだ。だから、本当はITシステムではなく、『業務プロセスのオーナーシップ』を考えるのが、より適切なのだろう。ただ、これまた、確立するには、随分と道のりの遠い話だ。だが、そうしないと、言葉はペラペラ喋るが、内実は全く伴わない犬を飼っているのと同じで、カッコいいけれど出費だけが虚しく続く生活に陥るのである。



# by Tomoichi_Sato | 2019-01-27 21:21 | ビジネス | Comments(0)

プロジェクトのオーナーシップとは何か

オーナー(Ower)とは、所有者であり、オーナーシップ(Ownership)とは所有権を意味する。ただ英語の語尾 -shipは、名詞について、それを持つ人の志や、性質や「らしさ」をも示す(例えばリーダーとリーダーシップのように)。だから、オーナーシップとは、所有者らしいふるまい、ということにもなる。

有形のもの、車とか家などのオーナーシップの意味は、誰にも明らかだ。そのものを所有して、自分の意のままにすることができる。無形のもの、例えばライセンスといったものにも、オーナーシップを考えることができる。自分がお金を払い、そこから得られる便益を自分の自由にすることができる。何であれ、それを維持する労力や費用負担し、そこから主たる価値を得るものは、それに対するオーナーシップを持つと言えるだろう。

それでは、プロジェクトのオーナーシップとは、何なのか?

X社のプロマネP氏は、困惑していた。大型プロジェクトを受注して数ヶ月。このままでは、かなりの赤字になることが明白だ。現時点での詳細設計から、全体コストを見積もり直してみると、当初想定していた金額を大幅に上回ってしまう。

顧客のA社に窮状を訴えて、追加費用を出してもらうことも考え、実際内々に打診してみた。だが顧客の反応は冷たかった。そもそも基本設計も、X社が有償で行なったのではないか。その基本設計書の内容をもとに、両者が合意して一括請負契約を結んだのだから、その通り実行してもらいたい。それが向こう側の言い分だった。

確かにその通りだ。要件定義は前任者のプロマネが行い、P氏はそれを引き継いだまでだ。ただ、顧客の業務要件は思ったよりはるかに複雑で、例外が多く、新しく入ったメンバーが理解するまでの時間も、かなり必要だった。

おまけにもっとまずい事に、プロジェクトで中心的に使うつもりでいた自社製の新型装置を、隣のチームが並行して開発中だったのだが、予定された期日からかなり遅れていた。基本設計レベルに問題があったらしく、期待したパフォーマンスがさっぱり出ないのだ。そのおかげで、上司の命令により、自分のチームから優秀なメンバーを数名、隣に回さなければいけなくなった。

仕様は思ったより膨らんでいる。優秀なメンバーもとられてしまった。あてにしていた中核装置も出来上がってこない。顧客は頑固な態度である。このままでは赤字は必至だ。一体どうしたらいいのか?

世の中ではしばしば、大赤字を生みデスマーチが見えているプロジェクトが、延々と続けられている。なぜだろうか。受注したからには完成させるのが受注者の義務? だが、たとえ違約金を払ってでも、プロジェクトから降りてしまう方が、ビジネス的には傷が小さく済む場合だってあるではないか。

だが、一般にプロジェクト・マネージャーには、プロジェクトを中止・撤退する権限はないのである。プロマネとは、プロジェクトを遂行するように命じられた存在である。遂行の義務と責任を負っている。仕事のパフォーマンスがまずくて、プロマネの職を解かれることはある。だが、プロジェクトの価値が下がったからといって、自分からプロジェクトの遂行をやめる権利は無い(会社自体を辞めてしまうなら別だが)。

そこで改めて考えてみよう。プロマネを任命するのは、一体誰か。プロマネの成果を認定し、評価するのは誰なのか?

それが、「プロジェクト・オーナー」なのである(オーナーは、業界によっては「スポンサー」と呼ばれる場合もある)。プロジェクトの価値を考え、プロジェクトを発進させ、プロマネを任命し、予算を与えるのがオーナーの仕事である。なお、プロジェクトが上位の「プログラム」の一部である場合は、プログラム・マネージャーがオーナーシップをとる。だが、日本ではプログラム・マネジメントをまともに実施している企業がほとんど無いため、そのケースは無視していい。

さて、苦境に陥ったP氏は、上司である事業部長K氏に、状況を正直に報告し、対策を相談した。事業部長が、このプロジェクトのオーナーだったからだ。そこでK事業部長も、自ら顧客に追加交渉にいってみた。だが、相変わらず相手の態度は硬い。このまま続ければ、この開発プロジェクトと、自社の新型装置開発の、二つのプロジェクトがともに道連れで沈没しかねない。

K氏はさらに上の役員と相談の上、苦渋の決断を下した。顧客A社に対し、違約金を払って、このプロジェクトから降りると宣言したのだ。

発注者A社側のプロジェクト責任者は、X社の撤退に驚き、大いに怒った。たとえ違約金をもらったからといって、費やした時間も労力もかなり無駄になったからだ。しかしA社の担当役員は、X社の決断に舌を巻き、内心、敬意を評したという。X社が受注者としてのスポンサーシップを発揮し、痛みは伴うが適切な決断を下したからだ。「確かにウチは迷惑した。だが、あの決断は大したものだ。なかなかできる決断ではない。」

撤退の判断は、つねに難しい。特に受注型プロジェクトの場合は、なおさらだ。お金も労力も失われるが、自分のメンツや顧客からの評判は丸潰れになる。業績評定にだって、大いに影響が出るだろう。

プロジェクトが完遂できないのは、明らかにプロジェクト・マネジメントの失敗である。だが、失敗したプロジェクトから、適切なタイミングで撤退する事は、正しいオーナーシップの発揮なのだ。この点を世間の人は誤解しがちなので、あえて繰り返し強調しておく。失敗したプロジェクトから思い切りよく撤退する事は、オーナーシップの失敗ではない。

オーナーシップの失敗とは、価値のなくなったプロジェクトを、延々と続ける事なのだ。プロジェクトにおいて最も恐ろしい事とは、プロジェクト自体が自己目的化してしまう事だ。ゴールに到達したが、結果は無価値で、労力と金と時間の無駄だった、という事ほど、人心を荒廃させる事はない。それはオーナーシップの不在を意味する。

わたしは授業でよく、公共事業のケースを例にあげる。有名な公共事業の中には、すでに半世紀以上にわたって遂行中で、予算規模も千億円クラスのものがある。だが、終戦直後に計画されたその事業の完成を、もはや誰も待ち望んでいない。それでも続いているのはなぜか。役人という人種が、いったん始めた事は絶対に失敗を認めないし、撤回もしないからだ。だが、繰り返す。失敗を認めず、意味のなくなった事業を続けることこそ、より大いなる失敗なのだ。

もちろん、オーナーの仕事はプロジェクトを中止し撤退することだけではない。むしろそれは最後の選択肢だ。オーナーは、プロマネを助けて、プロジェクトが意味ある仕事として完遂することを支援するのが、本来の仕事である。

以前、米国のPMコンサルタントであるNeal Whittenの主張を紹介した(「プロジェクト・スポンサーシップが足りない」 https://brevis.exblog.jp/23393425/)。彼によると、米国におけるプロジェクトの問題の1/3は、オーナーシップの不全にある、という(彼は「スポンサー」という用語を使っている)。

それでは、プロジェクト・オーナーの仕事とは何か。それは、

  • プロジェクトを起動し
  • プロマネを任命し
  • Project Charterを承認し
  • 予算枠と期限を与え
  • プロジェクトの状態と価値を定期的にウォッチし、
  • プロマネの相談に乗り、助ける
  • プロジェクトの終結を承認し
  • あるいは、無価値となったプロジェクトを中止する

こうした、プロマネに対する「上からの支援」が、プロジェクトの成功のためには、非常に重要なのである。だからあえて、以前も掲げた図をここに再掲しておこう。
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プロジェクト・オーナー(スポンサー)は、プロマネの相談相手として機能しなければならない。そして、プロマネの悩みはたいてい決まっている。それは、お金が足りません、か、人が足りません、なのだ。オーナーというのは上級職の仕事で、普通はプロジェクトにフルタイムで関わることはない。だが、プロマネに対しては、いつでも悩みを聞いてあげる存在でなければならない。

ところが、わたし達の社会では、これが弱いのだ。あるいは、オーナーという役割が存在しない場合も多い。その必要性さえ、認識されていない。だが、プロマネを助けないプロマネの上司とは、一体何のためにいるのか?

とはいえ、多くの読者諸賢の職場では、実際問題、オーナーというポジションは存在しないかもしれない。だったら、どうすべきか。居ないものは居ないとして、それでもプロジェクトが倒れないようにするための、現実解を考えなければならない。

わたしがお勧めする方法は、三つである。

第一に、きちんとProject Charterを作ることだ。Charterというのは、日本では「憲章」と誤訳されているが、「趣意書・許可書」のことだ。もともと英国で、国王が特に出す勅許状のことを、Charterと呼んだ。特別仕立ての飛行機のことをチャーター便と呼ぶのは、その名残だ。また英国では、公式に認定された技術者をChartered Engineerと呼ぶ。

Project Charterという文書は、組織が、そのプロジェクトを公式に認めて、その発進を許す書状である。そこにはプロジェクトの目的や目標などを書く。そして本来は、このCharterはプロジェクト・オーナー(スポンサー)が作って、プロマネに与える、という建前になっている。少なくとも、PMPの試験では、そう書かないと正解にならない、と教わったはずだ。

だが現実には、プロマネがCharterを作っている企業が大半である(だってオーナーはいないのだから)。そこでCharterを作ったら、それをしかるべき上司に、承認してもらおう。表紙にハンコの承認欄を作るのもいい。判子をもらってしまえば、それは上司が公式に認めたことになる。そして上司にも責任(命令責任)が生じる。

あるいは、もう少しモダンなやり方としては、皆で集まってチームビルディングを行う。そして、最後に皆で「コミットメント・シート」を作る。そこにサインを寄せ書きする。無論、上司には中央にサインをしてもらおう。そのシートは、プロジェクト・ルームの壁に掲げて、いつでも見えるようにしておく。こうして、オーナーたるべき人物を、責任と面子のループに取り込んでおくことが重要である。わたし達の社会は、面子とコンセンサスの社会なのだから。

第二に、プロジェクトのJournalを頻繁に発信することである。Journalというのがまた、適切な訳語がない言葉なのだが、元々は日誌のことで、転じて定期刊行物や雑誌を意味するようになった。プロマネにとって、日誌をつけるのは非常に良い習慣である。それはいざという時の法的根拠にさえなる。だが、もっとソフトな意味で、定期的な情報発信のことを、ここでは言っている。

つまり「プロジェクト週報」だとか「プロジェクト新聞」といった簡単なニュースメールを発信し、関係者皆に送りつけるのである。関係者の中には、もちろん「オーナーたるべき人」も、さらにその上司をも、送付先に含めておく。

こうして、プロジェクトの状況を、定期的に、かつできる限り頻繁に、皆に知らせておき、上層部にも関心を持ってもらう。「そんなの多分、メルーボックスの肥やしになるだけだ」などと、最初から悲観してはいけない。捨てる神あれば拾う神ありで、世の中にはたまに、ちゃんと見ている人もいるのだ。プロマネはなるべく、いろんな人に味方になってもらう必要がある。

三番目の方法は、ちょっと大技だが、プロジェクトのために「ステアリング・コミッティー」を設置してしまう(設置してもらう)やり方だ。これは、拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』 (最近増刷が決まった)に書いた方法でもある。

この本では、製造業の若手エンジニア・小川君が突然、海外企業とのジョイント・プロジェクトに巻き込まれるのだが、このプロジェクトたるや、誰がプロマネなのかも判然としない。そんな中、大学の先輩だった広田氏のアドバイスをもらいながら奮闘していく物語だ。その際、プロマネもオーナーも不明ながら、なんとか仕事を前に進めるために、あえて複数部門の管理職の層でステアリング・コミッティーを設置してもらうよう、小川君が上に提案する(広田氏がそう勧めたのだ)。

その顛末は本を読んでいただくとして、いったんコミッティーを作ると、なにせ面子とコンセンサスの国だから、なんとかサポートは得られる。そして、プロジェクト・ガバナンスの点からいうと、これはこれで立派な方策なのである。

もちろん、上記の三つの方法が、いつも功を奏するとは限らない。忙しい中、権限もないのに、実行するのはかなり大変だろう。でも、本当にプロジェクトが傾いてきたら、一番こまるのはプロマネの自分なのだ。だとしたら、少しでも会社にオーナーシップを自覚してもらうべきである。

それにしても、研究会などで多くのプロジェクト事例を聞くにつけ、感じることがある。日本の多くの組織で見られる、現場リーダークラスの共通の悩み、共通の問題があるのだ。

それは、ビジョンの不在や戦略の失敗を、戦術レベルでなんとかカバーしようと努力して苦労している、という事実だ。これが、中堅若手のプロマネや、サブリーダー・クラスの疲弊感を生んでいる。たとえば、営業部門が売上目標のために無理な価格、納期で受注してきた案件を、技術部門が苦心惨憺、遂行する。そして、プロジェクトをなんとか黒字にできないか、悩んでいる。あるいは、ヘンテコな製品戦略のために、新製品開発プロジェクトが迷走し、BOMや基準情報までが混乱する。こうした例は、枚挙にいとまがない。

なぜ、そんなことに努力を費やすのか。それは、現場リーダーに与えられた権限範囲と、リーダーの責任(評価・賞罰)とが、あっていないからだ。プロマネ自身ではどうしようもない環境条件において、結果だけを評価される。ここでプロジェクトの「環境」とは、プロマネが短期的な努力では左右し得ない条件をいう。

プロジェクトのオーナーシップは、プロマネを任命する権限を持つ者にある。したがって、プロジェクトの最終的な損益やアウトカムに対する最終的責任・評価もオーナー側にあるのだ。プロマネは与えられた条件下で、どこまで良くやったか(計画し遂行したか)を評価されるべきである。プロマネは、自分では途中でやめられないのだ。プロマネには実行責任がある。だが、命令責任は、オーナーは負うべきなのである。


<関連エントリ>
 →「プロジェクト・スポンサーシップが足りない」 https://brevis.exblog.jp/23393425/ (2015-07-08)
 →「アカウンタビリティとは『命令責任』である」 https://brevis.exblog.jp/24837740/ (2016-11-05)


# by Tomoichi_Sato | 2019-01-17 23:12 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

望みと抱負とふりかえり

一年の計は元旦にあり、という言葉がある。ときおり、これを「一年の総決算は元日にあるという気概で、最初の日を過ごすべきだ」みたいな意味にとる人がいる。だが、これは誤解だ。ここでの「計」とは、総計の意味ではない。一計を案ずる、のように、計る・計画を立てる、という意味である。

ついでに言うと、旦と言う漢字は、地平線の上に太陽が昇っていく有り様を表し、朝のことを意味する。つまり元旦と言うのは、元日の朝のことである。まぁ漢字というものは、わかっているようで、案外わかっていないものだ。

ところで、これに対して、大晦日は一年のふりかえり、などと言う言葉はあまり聞かない。だが、年の瀬に1年のことを想い起こすのは、とても大事な習慣だと思う。

1年間のふりかえりは、まず、あれがあった、これもあったという、「10大ニュース」的な思い出しから始めるのが良い。わたし達はいろいろなことを、忘れやすい。だから手帳やカレンダー、日誌、記録などをみて、記憶の地層から掘り起こすようにする。

特に最初は、昨年の「3大ラッキー」を思い出すことをお勧めする。いろいろなことがあった。でも、ラッキーだったこともあるはずだ。たとえ小さな事でもいいから、自分の身に降りかかった幸運な出来事を考える。そうすると、気持ちが穏やかになるはずだ。気持ちを穏やかに、新年を迎える方がいい。

もちろん、中には忘れたいこともあるだろう。不運なできごと、イタい結果を招いた自分の決断(ないし不決断)、あるいは悔やまれるミス、などなど。そうしたことから無縁でいられる人は少ない。

それでも、そうした経験から何が学べるか、教訓(Lessons Learned)を考えてみる。仮に不運は避けえぬとしても、予兆はなかったか。早く気づけば、傷は浅く済んだかもしれない。失敗や本ミスなどの場合は、自分の間違いがすぐさま外に出ないよう、ダブルチェックやフェイルセーフを考えるべきかもしれない。

え? うじうじと考えて過去を振り返るのは自分の趣味じゃない? なるほど。そういう方には、「KPTフレームワーク」をご紹介しよう。これは仕事で使うツールである。KPTは、Keep, Problem, Tryの頭文字で、文字通り、この三種類についてふりかえりを行い、文章にまとめる。もちろん箇条書きで良い。

K(Keep):振り返ってみてよかったこと、これからも続けたいこと
P(Problem):問題だと思うこと、解決すべきテーマ
T(Try):次の回にはチャレンジしてみたいことがら

KPTフレームワークはチームで行う定期的なふりかえりに用いられ、アジャイル開発のミーティングなどでも、よく使われているようだ。

ここで、T(Try)の中には、目標設定の萌芽がある。つまり、次の計画のタネである。

わたしは、2000年に出した最初の単著『革新的生産スケジューリング入門』で、計画という仕事を、次の式で表した:

 計画=予測+意思決定

計画という仕事は、単なる予測とは違う。予測計算だけだったら、今後はきっとAIが人間よりずっと上手に行っていくだろう。しかし、そこには意思決定がなければならない。何に関する意思決定か? 1つには、不確実な外部環境に関する仮説である。もう一つは目標設定に関することだ。自分の目標設定は、機械に任せるわけにはいかない。

ところが、この「目標」あるいは「目標設定」と言う概念が、残念ながらわたし達の社会では、あまりよく理解されていないように思える。その証拠に、非常に漠然とした目標設定が、プロジェクトの出発にあたって設定されたりすることを、しばしば見かける。

わたしはプロジェクト・マネジメントの授業で、学生に対して、目標設定の演習として、自分の卒業論文作成プロジェクトの目標を書かせたりする。すると、
「研究活動に慣れ、装置の使い方をマスターする。分析には○○を用いるので取り扱いを慎重にして事故を起こすことなく、必要なデータを取る」
などと答える学生がいる。まことに優等生的な文言だが、これは目標だろうか? やり方、プロセスを答えてるだけではないか。

あるいは、就活プロジェクトの目標を書かせると、「会社に入社し働く」などという答えがかえってくる。これではどんな会社であれ、入社できればOKということになってしまう。どのような会社にESを出し、何を狙うかといった方向性が、目標からさっぱり出てこない。

この事情は学生に限らない。社会人相手に研修をしてみても、プロジェクトの目標設定で、例えば「納期と予算を守ること」などと答える人が少なくない。もちろん普通たいていのプロジェクトは、予算・納期・品質・Scope・法令等の制約条件を課されるものだ。だが、制約を満たすことは「必要条件」であって、目標ではない。

目標とは、成功・失敗を測る基準=Success criteriaである。それはゴールや目的とは異なる。陸上競技に出て100mを走る時、ゴール地点まで走ることは、誰だってできる。目標とは、「12秒台で走る」「自己記録を更新する」などでなければならない。これだったら、ゴールインした時に、目標を達成できたか明確に、すぐ分かる。

ふりかえりの効かない目標を設定してはいけない。終わってみて、結果をふりかえり、良かった点を伸ばし、まずかった点は改善する。こうして、人も組織も成長していく。曖昧な目標、例えば「精一杯頑張る」「事業の進展を図る」などという目標を設定すると、ゴールインした時に、達成したのかしなかったのか、議論が分かれて誰も分からなくなる。こうなると、ふりかえって考えるべきポイントを見失ってしまう。

これを避けるために、目標設定では、『SMART基準』というやり方を知っておくべきである。SMART基準とは、以下の5条件の頭文字をとったものだ。

  • Specific=具体的である
  • Measurable=計量可能である
  • Achievable=達成可能である
  • Relevant=目的に関連している
  • Time-bound=期限がある

目標は、具体的でなければならない。抽象的な「事業の進展を図る」では、何がどう進展すれば成功なのか、判然としない。また、目標は計量可能でなければならない。「精一杯頑張る」は本人の主観で、客観的に測りようがない。

さらに、目標は達成可能でなければならない。「100mを5秒台で走る」という目標を立てて、達成できる人間がいるだろうか? 不可能すぎる目標は、やる人のモチベーションを削いでしまう。また目標は、その仕事の目的に関連していなければならない。100m競走の目標を、「優勝して女の子にモテたい」にするのは、何か別の目的が混入しているだろう。

そして、目標設定は、一応の期限をつけた方がいい。まあ1年の抱負なら、必ず期限がくるはずだが。

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このSMART基準は、英国における公共サービスや公共事業において、政策評価チェックシステムであるPSA (Public Service Agreements: 公共サービス協定)で用いられる基準である。公的な資金を投入して、なんらかのサービス開発や事業を行う場合、必ず「政策評価」というチェックを実施するのが、英国のやり方である。その際の「チェック=ふりかえり」において、最初に立てた目標を検証する。だから、目標をSMARTに立てることが要求されるのだ。これがまあ、成熟した民主主義社会というものの姿なのだろう。

一年のはじまりは、望みや抱負をいだく季節である。希望とは、自分にとってより良い未来を、自分が関わって創りだしうる、という感情だ。自分の努力が関わらないこと、例えば「今年は宝くじに当たります」を、自分の目標にする人はいない。「宝くじが当たったら」という夢を見るのは、いい。ただ、その夢を見ているだけでは成長はできないのだ。

わたし達の社会で、SMART基準といった目標設定の考え方が普及していないのは、なぜなのか。これは想像だが、かつての昭和時代、多くの人にとって、目標とは抽象的な数値や基準ではなく、「ああなりたい人」の背中だった。いつかは、あの人に追いつきたい、あんな風になりたい、が目標だった。少しは近づいたかどうか、節目ごとにふりかえりも可能だった。

今の時代は、若い人(特に男子)にとって、追いかけたい「背中」が見えない。だから、ふりかえりが難しくなったのだ。

いや、社会全体で見ても、高度成長期には、欧米先進国が「追いかけたい背中」だった。それがバブル期になると「もう欧米に学ぶものなし」の有頂天になり、その後のバブル崩壊で向かう方向も見失ったのだろう。目標は、「売上の前年度維持」みたいなものになってしまった。自分の背中を、自分で追いかけているのだ。ただ、既存の市場を守ることだけが、自己目的化した。

出来上がってしまって、蟻の這い出る隙もないような業界構造、一方的で不公正な組織や慣行、そして身分制度のように固定され、公正さが望み得ない社会では、誰が希望を持ちうるだろうか。今、わたし達の社会で足りないのは、将来の人口数ではない。将来の望み、ビジョンが足りないのだ。

たとえ経済的に豊かでも、希望を持ち得ないコミュニティの中では、人間は孤独になる。自分しか信じるものがなくなってしまうからだ。そうした殺伐とした社会は、この地球を見渡すと、確かに存在する。わたし達の社会がそんな状態に陥るのを防ぐためには、人は変わりうるし、組織も成長しうることを、やはり示さなければならない。

つい大げさなことを書いたが、わたし自身も、今年はまた、少し技術的なスキルを学び直そうと思っている。ま、なんとかの手習いだが(笑)。それは昨年末に発表した、勤務先の長期的なビジョンとも関わっている。

海図は引いた。だが船出はこれからだ。年明けの今こそ、望みを自分の中に持ち直すときである。


<関連エントリ>
 →「今年の抱負はこう作ろう」 https://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)
 →「“仕事が面白くない”症候群とたたかう三つの方法」 https://brevis.exblog.jp/23726856/ (2015-09-30)


# by Tomoichi_Sato | 2019-01-07 22:36 | ビジネス | Comments(0)

クリスマス・メッセージ: 序列でも競争でもなく

Merry Christmas!


大学を出て随分経つのに、入学式のことを、不思議と今でも覚えている。当時は、学内にあった講堂が事情で使えず、学外の大きな会場を借りて行っていた。わたしたち新入生が神妙な顔で並んでいる前を、まず学部長達が入ってきて、ステージ上に並んだ椅子に順に腰掛けていった。そして最後に、学長が入ってきて、「新入生諸君!」といった感じで、訓示が始まる。

わたしの入った大学はマンモス校というか総合大学で、学部は全部で10あった。ところで、司会者が学部長を端から紹介したのだが、その順番が奇妙だった。まず法学部、次に医学部、さらに工学部、そして文学部・・といった風なのだ。文系・理系の区別でもないし、もちろん入試枠の順番でもない。何なんだ、この順番は? と不思議だった。

その順番の意味が分かったのは、入学式からずっと後のことだった。そこの大学では、学部の偉さの順位というものが、なぜか決まっているのだ。一番偉いのが法学部で、次が医学部、三番目が工学部・・ということで、学部長はその序列にしたがって、式典に並ぶしきたりになっている。だが、なぜ法学部がトップなのか、理由はよく分からなかった。一番新しくできた教育学部とか薬学部が最も下位らしいので、できた順番か、とも思ったが、必ずしもそうでもないらしい。

わたしはそれまで、学問なんてみな対等で、別段、学部に上下などないのだと信じ切っていた。だが、その大学では、違っているらしかった。少なくとも、下位の学部からは、学長を出せないのだそうだ。学長は選挙で決まるはずだ。だが、選挙に立てないし、もし立っても当選できないのだと聞いた。

まあ、これは昭和時代のことだ。今では事情は、まったく変わっているのだろう。変わっているだろうと思いたい。でも、つい今しがた、念のため大学のHPをのぞいたら、学部紹介の順番は相変わらず法医工文理・・という順番だった。ま、何というか、伝統に忠実な(あるいは因習に固陋する)立派な組織ではある。

ついでにいうと、その大学では学長を「総長」と呼んでいた。私立のマンモス校ではおなじみの呼称である。ところが、公立・国立では、学長ではなく総長と呼べるのは、たった2校のみと決まっているらしかった。さらにいうと、国公立大学で、法学部を持てるのは旧帝大のみ、ということも知った。なぜあちこちの都道府県に、法律を学ぶ場所を設置しないのか、わたしは理系だったが、不思議に思った。

しかし、大学間には、そうした「」というものが、厳然と存在するのだ。そして、大学内にも、学部間で、やはり「格」だとか偉さの順番という序列が、見えない形で生きている。

社会に出てからも、この国には、目に見えない序列と規制の網の目が張り巡らされていることを、次第に実感するようになった。やっかいなことに、こうした序列や規制は明文化されていないか、されていても目立たぬところに書かれているらしい。何も知らぬ新人は、壁にぶち当たって痛い目に遭わないと学べない。いや、この歳になってからも、まだわたしはいろいろな序列の存在に驚かされている。

たとえば経団連の会長には、製造業の社長でないと、なれないのだそうだ。なぜ金融や通信や不動産ではいけないのか、わたしは知らない。いや、これだけ激変の時代なのだから、どんな業種だろうと、ビジョンと力量のある企業が会長になってリードすればいいじゃないかと考えるのだが、財界はそう考えないらしい。

あるいは、最近、小説を読んでいたら、「東京地検特捜部は、検察の中のエリート集団だ。だから彼らがいったん狙いをつけた案件は、必ず有罪に持ち込む」という記述があって、驚いた。別に最近の某有名外国人経営者の逮捕事件を連想して驚いたのではない。わたしは愚かにも、東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、地域である以上は、対等だろうと思っていたのだ。でも、たぶん作家の方が正しい。最も優秀な「エリート」は、なぜか東京に配属されるのだ。

きっと似たような事情は、全国の地域をまたがる組織群には、陰に陽に存在しているにちがいない。電力会社も、鉄道会社も、たぶんガス会社も、みんな東京が序列の一番トップにいるのだろう。言われてみれば、そういう兆候をなんとなく見聞きしたように思う。東京の組織で功成り名を遂げた人は、地方の組織に天下ったりする。だいたい、東京以外をまとめて「地方」と呼ぶのはなぜなんだ。

わたし自身は東京の郊外の生まれだが、東京が全国で一番偉いという感覚はない。北海道だろうが四国だろうが、地域はみんな対等だと思っていた。今は横浜市民だが、もちろん横浜は東京と対等と思っている。でも、わたし達の社会では、東京がデフォルトで偉さの序列のトップにくるらしい。わたしは自分の間抜けさを思い知らされた気がした。

もう一つ言おうか。自分が中小企業診断士のはしくれだから感じるのかも知れないが、わたし達の社会では、「大企業」と「中小・零細」では、単なる実力の差以上に、ハンディキャップがのしかかっている。銀行の金利であれ、機械の保守費であれ、中小零細は大手の倍以上の負担を迫られる。販売ルートの確保にいたっては、言うまでもない。大手はいつまでも大手で、中小企業はいつまでも中小、というのが社会のデフォルトの想定なのだ。

それにしても、この、目に見えない位階というか序列というものは、何なのだろうか? なぜ、このような不合理なしきたりが、平成も終わろうとしている21世紀のわたし達の社会に生きているのだろうか。

それで急に思いだしたことがある。何年も前のことだ。勤務先のある優秀な中堅の人に、「なぜ出身のX県ではなく、ウチのような横浜の会社に就職したの?」とたずねたことがあった。懇親会の席上で、軽い話題のつもりだった。彼の出身地・X県は、豊かで立派な産業があり、気候も温和な、良いところだ。だが、彼の答えは意表を突くものだった。「X県は、いまだに江戸時代なんです。だから、どうしても県外で就職したかった。」というのだ。

江戸時代? どういうこと!? そうたずねると、彼は答えた。ーーX県では、江戸時代の士農工商みたいに、あらゆる会社の順位が決まっているんです。X県で他を圧倒する大企業の○○社があり、それの系列会社や販売代理店やさまざまな周辺企業が、順にランクづけされています。町内会や地域行事も、いろんな会社がランクごとに援助しています。それだけではなく、お父さんの勤務先や職位によって、奥さんや子ども達さえも、微妙にランク付けされるんです。

○○社を頂点とした序列が、社会生活の隅々まで覆っているのがX県だ。彼はその息苦しさに耐えられなかったと言う。

わたしは噂に漏れ聞いた○○社の内情を思い出した。定年退職した工場の技能者は、その人の生涯の成績が最上位だと、会社から家まで、高級車で送ってもらえる。次のランクの人は、車で最寄りの駅まで送ってくれる。さらにその下のランクは・・定年退職で工場の門を出るときまで、処遇の差が見える化されているのだ。そして同じ企業内でも、激しい工場間・部門間の競争があり、社内競争でボーナスも決まる。

それがどうした。競争社会とはそういうものじゃないか。そんな声もきこえそうだ。たしかにそうかもしれない。だが、それと、X県の(あるいは○○社の系列の)会社間に、まるでどこぞの大学の学部のように、見えない序列があることと、どう両立するのか。どの職位の管理職が、どこの会社に天下りするかみたいなことが、格付けで決まっているのも奇妙ではないか。企業というのは、努力して伸びたら業界の上に行けるものではないのか? わたし達の社会の競争原理というのは、どこかで何かが歪んでいないか。

競争こそ、世の中を進歩させる原動力だ、という信念は強い。たしかに、人に勝ちたい、負けたくないという気持ちは、たいていの人の心の中にある。そして、とりあえず競争に勝ってきた人間は、競争の意味を疑わない。学歴競争や実力競争で勝ち残ってきた人ほど、その擁護者になる。だからメディアでも学識経験者でも、競争礼賛的な言論が流通しやすい。

だが、わたし達の社会の競争原理には、どこか寸足らずのところがある。大きな枠組みでは、すでにエレベーターのように、高層階行き、中層階行きと出発時点で決まっていて、ひっくり返せない。そしてエレベーターの箱の中で、どんぐりの背比べみたいに、互いに競争している。

このような社会では、小勝負に長けた人は出ても、大勝負に挑む人びとは出にくい。大きな勝負は、すでに枠組みで序列が決まっているからだ。

小勝負の方は、土俵もルールも勝敗の評価基準も、上から与えられている。こうした仕組みは、与えられた目標、命じられた事だけを必死に実行する人間だけが勝ち残りやすい。つまり兵卒や下士官だけを、輩出する事になる。一方、エリート層はエリート層で、彼らの小さな箱の中で競争させられ、勝った負けたといって、大多数が挫折感だの劣等感だのを抱き続ける。くだらぬことである。

そして、何よりもっともまずい事は、協力のためのコミュニティが育ちにくい点だ。

著名な経営学者ミンツバーグが来日したとき、講演で彼は、アメリカの経営学はリーダーシップを強調しすぎてきた、今大切なのは、職場における「コミュニティシップ」だ、と提起していた(Community-shipというのは彼の造語で、通常の英語辞書にはない)。コミュニティがないと、共通の知恵を蓄積することができない。本当の創造的アイデアも、品質の高い議論のスキルも、育ちにくい。もちろん個人個人の自律性も。

工場間の競争でボーナスが左右される上記の会社を、思い出してほしい。たぶん優れた技術的工夫は、改善大会で表彰され共有されていくのだろう。だが、その時までは共有されない。それどころか、マクロな業務プロセスは、工場ごとにバラバラだったりする(これは納入するSIerから聞いた)。業務プロセスにこそ、共通した管理技術が活きるのだが、部門が互いに競争していたら、標準化・共通知化など進む訳がない。

わたし達が生きているのは、苛烈な競争のみが支配するアメリカ社会とも違う。序列意識のスキマに競争原理が導入された、珍妙な社会である。序列の中でのみ、競争が行われる。

そうした序列は、しかし、いつまでも永続的なものではない。海外との競争にさらされると、いきなり危機を迎えるのだ。江戸時代にずっと続いた、「親藩>譜代>外様」の序列は、黒船の到来でいきなり崩壊した。外敵への対応能力は、序列と関係ない事が明らかになったからだ。

大学の序列も、似ている。国内で最高だと自負していた大学も、世界でのランキングでは10位にも入らないので、どぎまぎしている。(そんな海外のランキングなどくだらないことだ、自分たちは我が道を進む、と主張するなら見所もあるが、外部から競争尺度を与えられると、それを無視できないのが彼らの常だ)

こうした価値の転換に備えるには、横のつながりによるコミュニティに優るものはないと思う。異なる視点と経験を持った者同士が、対等に議論できる場。コミュニティという場は、原則として、お互いが対等な仲間が集って作り上げるものである。対等とは、互いに権利を主張し合えることだ。

アメリカとバヌアツは、国際社会では対等である。対等に、権利を主張し合える。むろん、対等であることと、結果として平等であることとは違う。この世は残念ながら、なにかと不平等にできている。いうまでもなく、アメリカは比較にならぬほど、強大なパワーを持っている。

ただし、不平等社会でパワーを持つ者は、そのために重い義務も背負っている。権利と義務は秤で釣り合っている、というのが対等の原理だからだ。逆に、労苦は下の階層の者が背負うべき、というのが序列の原理である。それが江戸時代の、士農工商の論理だった。序列社会に競争原理を持ち込んだ、木に竹を接いだような社会に、どうして活力が生まれるだろうか? みんながレミングのように同じ価値観と方向性で進んでいくのは、滅びに至る道である。

滅びに至る門は広く、そこから入るものは多い」と、かつて2千年前の賢者は言った。彼の生まれた中東の地では、都市は城壁で囲まれ、そこには大きな門があって、その脇に小さな通用門のような入口がついていたらしい。大きな門は、王侯や軍隊が入城するときの門である。下級市民は、小さな門を入った。

だが彼は、あえて、命を得たければ狭い門から入れ、と説いた。天の下で、あらゆる人間は対等だと、彼は信じていたからだ。

また彼は、去る前に、心を一つにした人が「二人あるいは三人集まるところには、わたしのその中にいる」という意味の言葉を残していった。彼は共同体というものに、信頼を置いていたのだ。

与えられた序列と尺度で走るだけ、与えられたことを実行するだけの生き方は、もう卒業すべきだ。小さな勝負はできるけど、大きな勝負はできない人では、小さな改善はできるが、大きな刷新は難しい。わたし達の社会はそろそろ、そういう刷新の時期なのだ。世の中がひと時、戦火を閉じて平穏になるこの季節、本当に何をなすべきかを、既成の秩序は忘れて、静かに想いをめぐらすときが来ている。


そして、どうか読者の皆さんの上にも、平和なクリスマスがありますように。



# by Tomoichi_Sato | 2018-12-24 17:30 | 考えるヒント | Comments(0)

ひとはなぜ、同じ話を繰り返すのか

10代の頃読んだスタインベックの短編に、同じ話を孫たちに何度も繰り返すお爺さんの物語があった。西部開拓時代の生き残りであるこの老人は、駅馬車がインデアンの攻撃にあった時、どう防ぐかという持論を、たまに会う息子や孫に、繰り返しするのだった。

年寄りはなぜ、誰に何を話したかを、覚えていないのだろう? 10代の頃は、そう思った。さて、それから長い月日がたって、自分が《若い衆》に何か話す側になると、なんだか同じ話を何回もしているような気がする。

とくに、大学で授業を持つようになってからは、その印象が強くなっている。まあ、いたし方ない面もあるが、「この話、前にもしたな」と感じる。それがいやなので、講義内容は毎年少しずつバージョンアップするようにしているが、それでも部分的である。

それにしても、人はなぜ、同じ話を繰り返すのか? 一番単純な理由は、「誰にどの話をしたか」を覚えきれないからである。そんな単純なことを、なぜ覚えきれないのか。答えは、「そんな簡単」なことではないからだろう。

例えば、自分に5人の友達がいるとしよう。そして、皆に伝えたい話題を、4つ持っていたとする。すると、誰に何を話したかは、5行4列の、簡単な表で表すことができる。縦に並ぶ行は、それぞれの友達だ。横には、話題を表す列が並ぶ。友達2に話題3を話したら、2行3列目に、チェックマークを入れる。

さて、この表というかマトリクスは、全部で何パターン、あるだろうか?

答えは簡単だ。表の各マス目は、空欄かチェック済みかの2つの状態を持つ。マス目は全部で20個あり、お互い独立に変化しうる。ということは、このマトリクスは、

2の(5×4)乗 = 2の20乗 ≒ 100万個

のバリエーションがあるわけだ。自分はこの100万個の中から、一つの状態を覚えておかなければならない。

では、自分が少し成長して、友達は6人、話題を5つ、持っているとしよう。すると今度はが、5かける6で30個のマス目を持つマトリクスが必要になる。このマトリクスがあり得るパターンは、

2の(5×6)乗 = 2の30乗 ≒ 10億個(!)

になる。あなたはこの中の一つを、覚えておかなければならない。これは、思ったほどたやすい仕事ではないことが、分かるだろう。実際には、マトリクスは連続的に成長していく(友達は入れ替わるし話題も賞味期限がある)から、パターン数は絞られるけれども、なかなかややこしい。

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であるからして、大人になると、誰に何を話したかなんて、「いちいち覚えちゃあ、いられないんだぞ、小僧!」ということに、あいなる。年長の大人が何回も同じ話をして、なおかつ威張っているのは、このためなのである。少なくとも、半分は。


半分は、と書いたのは、残り半分には、別の理由があるからだ。大人は、分かっていて、同じ話を繰り返すことがある。

例えばわたしは、大学の授業の中で、「マネジメントとは、人を動かすこと」「人に働いてもらって、共通の目的を達成することである」という話を、日を変え場面を変えて、5、6回は繰り返してしゃべる。東大の大学院生など、一回聞けば忘れずに覚えるタイプの人が多いけど、それでも、「マネジメントは多義語だが、その中核にある意味は『人を動かす』という事です」としつこく語り続ける。

なぜなら、しつこくなければ全員に伝わらない、からである。授業というのは、基本的なことは全員に理解してもらわないといけない。プロジェクト・マネジメントの授業では試験はしないが、仮に試験をしたとしたら、基本部分は全員が満点を取れるようにするのが、教育である。試験結果で差がつくのは、教育の本義ではない。品質検査をしたら全品が良品である、というのが製造の目標であるように、全員に理解させるのが教育であろう。

実際のプロジェクトでも、大事なことは繰り返し、皆に伝えないと徹底されない。

目的や方針や指示を、末端まで徹底すること。そのために、メンバーに繰り返し伝えること。それが数人の小規模プロジェクトでも、数百人の大規模プロジェクトでも、本質的な部分は変わらない。

ただ組織が大きくなるほど、難しくなるのは道理だ。だから、たとえばプロマネは部下のリーダークラスに指示を出したら、さらに一階層下のメンバーにちゃんと伝わっているか、自分で確認したりする。たとえ部下たちが「前にも聞いた」「耳タコだ」などと感じても、伝えなければならない。マネジメントが「人に働いてもらう」ことである以上、指示を徹底することはプロジェクト・マネジメントの生命線だからだ。

これはたとえば、噂に聞くトヨタのしつこさ、にも通じる。自動車生産の系列は巨大だから、その末端まで思想を浸透させようとすると、たしかに同じ話を何度も繰り返すことになる。以前紹介した、フランス人作家パレの小説「ザ・ジャストインタイム」の中に、それを物語るジョークがあった。トヨタ生産方式では、在庫量を湖の水位にたとえ、水位を減らせば隠れていた岩(問題)が見えてくる、という話をよくする。ところが、あまりにもこのたとえ話を何度も聞かされるので、

「ペルーでフランス人と日本人とアメリカ人が工場を建てようようとしていた。だがゲリラに捕まって人質にされ、資本主義の手先だから銃殺すると言われた。ゲリラは3人に、最後の言葉を残すことを許した。フランス人は『フランス万歳!』と叫んで撃たれた。次は日本人の番で、『では湖と岩について話したいと』言った。その途端にアメリカ人が飛び出してきて、銃口の前でシャツの胸をはだけて叫んだ。『湖と岩の話をもう一度聞かされるくらいなら、先に撃ってくれ!』」(p.264)

という訳である。

トヨタ生産方式なら、一応そこに理屈があるわけだが、理屈抜きにそれを繰り返し聞かされるとなると、もはや宗教の領域であろう。それこそ同じ祝詞やら念仏を、1千回、いや百万遍くりかえす、というのは、マントラを深層心理に植え付ける効果があるに違いない。

ただしまあ、ずっと何度も繰り返すだけというのは、伝達の手段としては芸のない話だ。人に何かを理解してもらいたいのなら、むしろ、その内容を他の人に伝えさせる、という方がずっと有効である。人に教えには、自分が理解していないとならない。だから人に教えさせるのが、一番勉強になる。つまり間接教育である。

それにしても、同じ話を何度しても、相手に全く伝わらない場合も、けっこうある。つまり、相手に「聞く耳がない」という事態である。とくに相手が、思い込みの強い人だったり、「信念の人」だったり、あるいは年配者だったりする場合である。こういう人達は、ひとのいうことをあまり聞かない。むしろ逆に、自分たちは同じ話(彼らの持論)を、何度もしたがる。こういう人達も社会には一定数いるので、つき合い方を考えなければならない。

そして、こういう人に出会うたびに、なんとなくわたしは「コミュニケーション伝導度」の測定器が発明されればいいのに、と思ったりする。コミュニケーション伝導度とは、熱伝導率と電気伝導度などと類似の概念で、

[相手の理解の増加量] = [コミュニケーション伝導度] × [自分の理解度 — 相手の理解度]

によって定義される量だ。コミュニケーションとは基本的に、ある事実や思考について、理解のギャップを埋める行為である。自分と相手の理解度の差が、いわば差圧というか、Driving forceになる。そして、相手のコミュニケーション伝導度が高ければ、こちらの話す情報が、相手にすっと入っていく。伝導度が低いと、何度話しても伝わらない。

なので、相手の伝導度が0.3だと分かれば、(うーむ、この相手には3回以上、同じ話を繰り返さないと伝わらないな)といった判断ができるようになる。0.5なら、2回ですむ。もちろん、理想的な聞き手の伝導度は1である。一度いえば、なんでも100%すっと理解してくれる。伝導度ゼロの人は、何を言っても決して受け付けてくれない。話すだけ時間のムダである。

これを測定するスマホアプリができたら便利だろうな。誰か発明してくれないものか。

ただ、言うまでもないが、こうした伝導度というのは、相手だけでなく、話題の種類に依存する。誰だって、自分が聞きたい話に対しては、伝導度が高くなり、聞きたくない情報に対しては低くなる。そして、こちらの話し方にも依存する。だからこそ、「伝え方のテクニック」というものが存在するのだ。

拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』にも書いたとおり、わたしは、「発信者責任の原則」が、世界のビジネス上のコミュニケーションにおけるデフォルト標準だと考えている。情報を伝えるのは、発信者の責任である。だから話し手は、相手が理解したかどうかを確認し、伝わるまで繰り返し話すべきだし、あるいは伝え方を工夫していくべきだ、と考えている。

あいにくわたし達の社会におけるデフォルトは、「受信者責任の原則」である。教師が教壇から何かしゃべったら、生徒はそれを聞き漏らしてはならない。理解できないのは、生徒の側に責任があり、だから試験で罰せられるべきだ、となる。分からないのは、分からない奴がバカだ、という論理である。講演をしても、質問の時間に皆、あまり手を上げない。質問するのは理解できなかったことを意味し、それは頭の悪い証拠だ、となるからだろう。

わたし達はそろそろ、こうした上意下達型の論理から卒業すべき時が来ている。むしろ、現場の側から、マネジメントに対して、いろいろな不便や問題点を伝える必要のある時代なのだ。そうした話は、管理者の側にはたいてい都合の悪い話題なので、伝導度が低く、そう簡単には伝わらない。だが、正しい情報が上がってきてこそ、マネジメントは適切な判断ができるのだ。である以上、わたし達は、繰り返し伝える勇気も持たなければならないことになる。


<関連エントリ>
 →「書評:『ザ・ジャストインタイム』 フレディ・パレ&マイケル・パレ 著」 https://brevis.exblog.jp/22515622/ (2014-10-26)
 →「プロジェクト・コミュニケーションのベーシック 〜 情報のトレーサビリティを確立する」 https://brevis.exblog.jp/24679751/ (2016-09-25)



# by Tomoichi_Sato | 2018-12-17 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)