あるとき、日本のオーケストラに関する文章を読んでいたら、高名な音楽家バーンスタインのこんな発言にぶつかった。 「このオーケストラ(N響)のことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」 (大友直人「あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ ~ バーンスタイン氏の痛烈なひと言」 ) 著者の大友直人氏は指揮者で、若い頃にバーンスタインから直接聞いた発言として書いている。セイジとは故・小澤征爾のことで、彼はバーンスタインの助手だったが、N響とトラブルを起こしたことがあり、だからこういう大げさな言い方をしたのだ、と推測している。つまり、大友氏はバーンスタインの批判に同意していない訳だ。 そうなのかもしれない。だが、別のところで、作曲家の久石譲氏がよく似たようなことを言っていた。久石譲氏は日本では特にジブリの映画音楽で知られているが、指揮者でもある。彼によると、海外のオーケストラに比べて、日本の楽団は非常に気をつかう。指揮者として単純に指示を出せず、「お願い」しないといけない、というのだ(別に特定の楽団を指している訳ではないらしい)。 もっとも直接本人から聞いた訳ではなく、伝聞である。しかも久石譲という人は、日本のクラシック音楽業界の感覚では、すいぶんとカーストが低い人だから、オケが軽く見てあまり言うことを聞かない、という可能性だって、ありそうだ。さそうあきらのマンガ「マエストロ」 でも、第一バイオリン奏者が怪しげな指揮者を警戒して言うではないか。「指揮者はオーケストラの敵だねっ。」・・でもまあ、外国人指揮者、それこそバーンスタインとかカラヤンとかだったら、ごく忠実に指示に従うのかもしれない。
だが、日本の楽団に関するこうした話を聞いて、なぜかわたしは工場での着手完了入力のことを思い出した。ご存じの通り、工場には複数の工程や設備が並んでおり、部品の加工や組立ては、それら一連の作業を通って、製品として完成される。 顧客から受注した製品の納期をたずねられたら、それを構成する部品群が、それぞれ工場のどこの工程まで進んでいるかを把握しなければならない。従来のアナログな工場では、加工対象の現物と、それに添付して流れる紙の現品票だけが、進捗管理の頼りだった。だから生産管理担当者は、現場をあちこち駆け回って、部品の所在と進度を確認する必要があった。こういう仕事だけを専門にやる「進捗追っかけマン」職種のいる工場だって存在する。 ところがバーコードやRFIDの普及は、この消耗で生産性に寄与しない仕事を、不要にすることができる。現品票にバーコードを印字したりRFIDを添付しておき、各工程では、作業担当者が着手時と完了時に、バーコードリーダやRFIDリーダで、それをスキャンすれば良い。現代の生産管理システムや工程管理パッケージ(製造実行システム=MES)には、こうした入力を受け付けるインタフェースを備えているものも多いから、各部品の進捗状況をリアルタイムで収集することができるはずである。 ところがこれが、日本の工場に限っては、なかなか実現できないのだ。まず、現場の抵抗に遭う。現場側は、「できない」理由をたくさん挙げてくる。技能員が機械を複数台持ちしている、現場に入力端末のための電源やWiFiが届かない、バーコードの汚れや破損時の対応が難しい・・ こうした事は、どれも技術的問題だ。だから技術的に取組めば、何とか解決可能である。だが本当の障害は、技術面にはない。本当の理由は、現場の人間の感情面にある。 「そんなの面倒くさい。今までは無かった作業の追加だ。そんなことをしても、ものづくりのコアの仕事の足しには1mmもならない。」そして、「なんで俺たちが、こんなオフィスから来た他部門のIT担当者の指示を聞かなくちゃならないんだ。」ーー口には出さないが、これが多くの本音であろう。 同じ日本企業に属する工場なのに、海外工場はパッケージソフトが導入できて、日本のマザー工場だけはうまく導入できない、というケースもよく聞く。その背後には、『ものづくり』という直接業務以外の、一切の間接業務を余計な仕事と感じる、一種職人的なメンタリティーがある。さらにその底流には、「よそ者に指示されたくない」という感情の流れがあるのではないか。
指示・決断は、マネジメントという仕事の中核である。『マネジメント』という言葉の一番根幹の意味は、「人に働いてもらうこと」にある。働いてもらうにあたっては、目標やプランを決め、迷いや問題が出たら決断しなければならない。とくに複数の人が働く組織で、分業が行われていたら、全体を見て指示・調整する役割が必要である。 つまりマネジメントとは、『役割』なのである。工場では生産管理担当セクションが、生産計画を決め、製造指図を出す。製造現場はそれに従って動く。生産管理が製造部の中にある会社も、部として横に独立している会社もあるが、とにかく生産管理は一種の役割である。生産管理者が現場の技能員の「上位」の地位にいる訳ではない。 ところで、生産管理の指示と、現場側の裁量のバランスは、日本では現場側に秤が傾いている。日単位の作業の着手順などは、現場側の裁量に任されるケースが、わたしの知る限り大多数である。また指示がなくても現場が自発的に作業に動くこともある。 ところが、これが海外工場となると(欧米であれアジア・中東であれ)、基本「指示されたことだけする」形になる。指示されたら、必ず従う。指示されないことは、必要に思えても、しない。労働契約も、そうなっている。作業の着手完了時にバーコードをスキャンしろ、と指示されたら、従う。「そんなの自分の仕事じゃない」とは言わない。 良し悪しを論じているのではない。また「日本だけ特殊だ」「遅れている」という話ではない。ただ、違いを述べている。そして、この違いを理解しないと、海外のやり方を取り入れるときに、気づかぬ障害が起きかねないと思って書いている。
ここから先はあまり数値的エビデンスのない定性的な話になるが、日本の組織は、自分が属する職能集団の上位者以外からの指示を、嫌うように思える。仕事のやり方は自分たちが一番よく知っている、だから外部から余計な指示はされたくない、と。 指示を聞くのは、「自分が属する職能集団」の先輩・権威者、というのがポイントである。きわめて職人的なメンタリティーかもしれない。現場の作業者は、直属のチーフ・係長・課長・・の指示ならば聞く。しかし斜め上とか外の部門からの指示は嫌う。 会社の仕事を大きく変えるような取組みは、普通、複数部門をまたがったクロス・ファンクショナルなプロジェクトになる。そうした取組みでは、上に役員クラスの責任者もいるだろうが、実質的にはリード役のキーパーソンがどこかの部署から出る。そして、他の部署から見ると、その人間は「外の人」である。 プロジェクトの決定事項は、この人からの決断・指示に見える。だから、心理的には聞きたくない。口には出さないが、意識下ではそういう感情が流れる。こうした感情こそが、「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 にも書いた、日本の製造業の問題に通底しているのではないか。 ただし、例外が二つある。一つ目は、買い手だ。買い手からの指示は、一応ちゃんと聞く。この国では(いや、どこの国でも大抵そうだが)商取引では、売り手より買い手の方が、一般に強い。権力勾配と呼んでもいい。とにかく、お客に言われたら従う(内心不満であっても)。これが、我々の社会のエートスである。 もう一つは、青い目の外人である。明治維新この方、真の本物は、海の向こうから来ることになっている。本家・本場は、西洋にある。だから彼らに従うのは、別にプライドも傷つかない。
ところで、あなたは車を運転していて、交通整理のお巡りさんに指示されて従ったら、プライドが傷つくだろうか? そんなことはあるまい。それは別に、その警官に権力があるから、ではない。たまたまその警官は交通整理の役割をしていて、自分は運転手の役割だから、それに従ったまでだ。 つまり、指示されることとプライドが関係するのは、その指示が自分の仕事の「質」や「手間」(生産性)に関わる場合なのだ。もっと言うと、指示が仕事のスキルやプロセスに関わるときである。交差点で一時停止しても道を譲っても、それは運転の質には関わらない。製造部が生産管理セクションの指示に一応従うのも、それと同じだ。 もう一つ。交通整理のお巡りさんは、毎回変わる。固定的な関係ではない。上下関係でもない。わたし達の社会では、ほとんどの指示は「固定的な上下関係」から来る。つまり、地位だ。いわゆるタテ社会で、わたし達は地位の上下をめぐって毎日しのぎを削っている。その上下を決めるのは、仕事の質や成果だと、わたし達は思っている。それなのに、それと無関係な斜め上から指示されると、仕事の質を批判されたかのようにプライドが感じるのだ。 ここで最初のオーケストラの話に戻ろう。バーンスタインは、日本の楽団の演奏技術を批判したのではない。指示に対する体勢(スタンス)を批判したのだ。個々の演奏技術と、組織としての動きは別物である。ソロの技巧は高くても、オケ全体がバラバラでは音楽にならない。逆にアマチュアでも、一糸乱れず活き活きと演奏する姿に感動することは、よくある。 指揮者は器楽奏者に、具体的なテクニックを指示できる訳でもない。ただ、そのアウトプット(音量や音程やタイミング)の要求仕様を、伝えているだけである。全体の構造の中で必要なことを、伝えている。全体を構想して、指示を与え、形にしていくのが指揮者の仕事だからだ。指揮者は独立した専門職であって、それなりの教育と訓練を受けなければ、なれない。 そしてもちろん、指揮者はオーケストラの上司ではない。オーケストラを雇っている訳でもない。普通は任期付きの役割である。指揮者は指示し、オケは実行する役割だ。である以上、その決断と指示に従ったからと言って、演奏家=アーティストとしてのプライドが関わるだろうか? 指示と実行は、車の両輪だ。どちらが上位か下位かの問題ではない。それは役割の違いなのである。両方がそろってこそ、優れた細部と、素晴らしい全体が両立する。わたし達はそろそろ、指示・決断と上下関係とを切り離して、よりオープンな体勢(スタンス)に移行すべき時にきているのではないだろうか? <関連エントリ> 「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 (2024-12-01) 「書評:『マエストロ』 さそうあきら」 (2014-09-19) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-16 19:32
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「プディングの味は、食べてみないとわからない」という西洋のことわざがある。物事の中には、実際に自分で体験してみないと、わからないことがある。言葉での説明が難しい、言語の伝達だけでは尽くせない何かがある、という意味のことを言っている。大抵の物事は、言語できちんと記述・伝達可能だ、と信じる西洋文化だからこそ生きる、逆説的なことわざである。 マネジメントもそういうものだと、わたしは思う。マネジメントにはいろいろな流儀やスタイルがあるし、あって良いが、明らかに上手・下手がある。自分が属する部門であれ、たまたま自分がアサインされるプロジェクトであれ、あるいは会社全体の経営であれ、マネジメントにはレベルの上下がある。できれば上手なマネジメントの下で働きたいし、自分がマネージする立場の時は、うまくやりたい。 だが実は、マネジメントが本当に上手かヘタかは、事後的にしかわからないのだ。事前にマネージャーの経歴や資格や人材スペックをいくら見たって、それで安心して評価できるだろうか? あなたが仮に、誰か外部の業者にプロジェクトを発注するとして、提案書に書かれている経歴や手順で、自信を持ってその企業のマネジメント・レベルが判断できるか? 言葉では、何でも書けるではないか。だがマネジメント能力は言葉だけでは判別できず、プディングの味は食べてみないと分からないのである。
わたしの働くエンジニアリング業界では、大型プロジェクトに取り組む際に、しばしば複数の企業(ライバル同士)が「ジョイントベンチャー」(JV)を組成する。つまり一緒に仕事をするのである。1社だけではリソースが足りないとき、あるいは1社で受けるにはリスクが大きすぎるとき、そうする。初めとの相手と組むことだって、当然ある訳だ・・ 「どうだった?」 「いやー、ビックリしました。あの会社、『コレスポンデンス・コントロール』の概念が無いんですわ」 「な、なんだそれ。」 ——海外のJV相手からの出張から帰ってきた人間が、週次ミーティングでこう報告してきた。JV相手側で調達業務がトラブっているため、調べに行ったのだ。 コレスポンデンス(略称コレポン)というのは、会社間の公式なやりとりの事である。コレポンには普通、通しのNO.が発番されており、かつ発信者と受信者の略号が付記される。そして、プロジェクトでコレポンの全リストを保持・共有する。 これにより、「貴方が何月何日に誰それに打った、No. XX番のコレスポンデンスによれば、当該系統の電源条件は○○だが・・」という風に、明確にリファー可能な形で伝達し合うのである。リクエストやオーダーの発信・受信確認や、アクションのオープン・クローズなどにも用いる。 コレスポンデンス・コントロールは、「言った・言わない」の無用なトラブルを防ぎ、かつ、だらだらと長いチェーンメールの下の方を参照するような、分かりにくいやり方を避けることができる。つまり、コミュニケーションのトレーサビリティを上げる方法である。 多くの場合、コレポンはメーリングリスト的な仕組みを媒介して伝送しあうが、Webサイトの書き込みや添付ファイルの場合もある。一昔前だったらFAXだったろうし、TELEXや紙のレターの時代から、こうしたやり方をとっている企業はあった。ところがこの現地のJV相手は、担当者間のメールだけで発注先と連絡を取り合っているという。 「発注先ベンダーが5社や10社なら、それでもいいよ。しかし数十社を超えたら、メールだけだと誰に何をいつ言ったのか、トラッキングできなくなるじゃないか?」 「そうなんですよ。小規模なプロジェクトしか、経験したことが無いんでしょうね」 「それじゃ他のマネジメント業務のクオリティも、推して知るべし、だな。プログレスの把握とリソースの掌握も、よほど注意して見ていく方が良いぞ・・」
コレスポンデンス・コントロールは、プロジェクト・マネジメントのほんの一部の領域でしかない。だが、一事が万事、である。マネジメントの分野では、一部を切り取ってダメだったら、他が格段に素晴らしいことは期待しがたい。 そして念のために言うと、上記のJVパートナー企業の設計能力がダメだという事ではない。技術的には、必要なレベルには達している(だから組んだのだ)。だがマネジメントの仕組みが足りないために、内部での情報のやりとりがグズグズになることを心配しているのである。どんなに個人個人のエンジニアが優秀でも、インプットの情報伝達が怪しければ、良い結果は出せない。 マネジメントとは舵取りであり、情報処理の仕事である(交渉と説得なども「情報」と広くとらえれば)。そして情報には、一種の『質量転化の法則』が働く。処理すべき量が増えると、質(処理の仕方)の変化を促すのである。外注先のマネジメントだって、数社相手なら担当者の記憶だけでまかなえても、数百社ならリストの共有と番号によるコントロールが必要になる。数人のチームなら、顔と名前と能力は覚えていられる。だが百人単位の組織では、職務記述と能力表が必要になる。一事が万事、なのだ。 だから、ビジネスの規模が大きくなったら、異なるマネジメントの仕組みとレベルが要求される。会社が成長するためには、ワンランク上のマネジメントがいる。記憶と主観と定性的な判断から、数値的で客観的な把握とルールベースの判断基準が望まれる。判断が属人的でなく、メトリクスと原則に基づくものになる。 こうした高度なマネジメントでは、様々な手法やテクニックが組み合わさった「方式」「システム」になっている。もちろんマネジメントにはサイエンスとアートの要素があり、マネージャーの資質やスキルに依存する部分も必ず残るが、それを余計な判断に浪費しないですむようになる。 とはいえ、こうした「マネジメントの質的な違い」は、なかなか体験してみないと分からない。企業が外部に提出する、製品・サービスとか情報(設計図等)を個別に見ても、固有技術レベルの差は見えるだろうが、企業内部のマネジメントの良し悪しは、見えにくい。 マネジメントの良し悪しは、利益すなわち財務諸表に出るはずだ、って? そうだろうか。マネジメントは判断プロセスに関わるものだ。決算は結果でしかない。それに企業業績は、とりまく市場環境に大きく左右される。好景気で市場全体が成長していたら、平凡なマネジメントでも会社はどんどん利益を拡大できる。企業内の大半の仕事はオペレーションで、マネジメント業務はごく一部である。もし現場にオペレーションを全部任せて、同じ製品を繰返し量産しても利益が出るなら、マネジメントなどお飾りでいい。 逆に言うと、マネジメントの上手下手は、逆境の時にこそ分かるのだ。なぜなら、マネジメントとは「適応能力」「問題防止能力」のためにあるからだ。
つまり、マネジメントというのは、金銭的価値だけでは評価しにくいのである。じつは、上手なマネジメントのありがたみは、「感情的価値」=安定感・信頼感にあるからだ。従業員にとってのワクワク感、顧客にとっての信頼感、投資家にとっての安心感。これらはすべて、金銭では測りにくい、主観的な価値である。 だから、わたしはよく、カーナビの例えを使う。カーナビがなかった昔と今は、何が違うか。それは安心感、ないし見通しの良さだ。カーナビをつけたって、運転それ自体がうまくなるわけではない。アクセルを踏みハンドルを切るのはドライバー自身だ。だが、現在位置を正確に表示し、目的地までのルートを提示し、到着時刻や速度などを予測してくれる。だから、ドライバーの判断の質が向上する。ここに、ナビの価値がある。 では、外から見て分かりにくい上質なマネジメントを、どうしたら知ることができるのか。考えられる方策は、三つある。 一番良いのは、ワンランク上の企業に出向して、その中で体験することだ。できれば2年程度は必要だろう。なぜならマネジメントの価値は「いざという時」こそ分かるからで、優れた企業ではそんなに緊急事態は発生しない。 ただし、この方法の問題点は、他社で体験した個人が元の組織に戻ったときに、それをうまく伝えてポート(移植)できるかどうかにある。日本の慣例として、出向に出せるのは実務層まで。部門長レベルを出向で勉強に出すことはめったにあるまい。でも知って変革をドライブすべきなのは、この層なのだ。 二番目に良い方法は、ワンランク上の企業と、一蓮托生のジョイントベンチャーをすることだ。こうすると実務層からミドル層、そしてエグゼクティブ層まで、否が応でも相手と接して、そのやり方の違いを実感することになる。JV以外でも、協力の仕方はいろいろあるが、JVは共通の財布で利害も共通する点が特徴だ。一緒に仕事し一緒に判断するためには、情報もやり方もある程度開示しなければならないからだ。 たとえて言えば、これは運転の上手な人の助手席に座らせてもらうようなものだ。どこが優れているか、どう安心か、体感できる。とはいえ、JV方式が一般的な業界ばかりではない点が、このやり方の限界かもしれない。 そして三番目の手段は、ワンランク上の企業に、マネジメント実務の一部を支援してもらうことだ。たとえば大規模プロジェクトを進める差異に、PMO的な業務を外部専門家に委託する方法である(これをプロジェクト・マネジメント・コンサルタント=PMCと呼ぶ)。エンジ業界や建設業界では、PMCを専門とする企業も海外には多く存在する。いってみれば、運転上手な人に助手席に座ってもらい、自分が運転するやり方だ。 ただしこれは、経営コンサルを雇え、という意味ではない。経営コンサルは経営層にアドバイスをするだけで、自分で手は動かしてくれない。PMCは面倒なPM実務(とくに情報収集や分析まで)やってくれる。助手席で地図をめくったり、いろいろ情報収集してナビゲーションしてくれると思えば良い。とはいえ、ハンドルを切るのは自分だ。つまり、大事な決断は自分で行わなければならない。それでも学びはそれなりに大きいはずだ。 マネジメントという仕事は、言葉で伝えにくく、外から見ても分かりにくい。その価値はお金で測りにくく、だからお金で買ってくることも難しい。体験してみるしかないのだ。どのようにして体験のチャンスを広げるかを考えることが、わたし達の能力をワンランクアップするには、ぜひ必要なのである。 <関連エントリ> 「問題はミッドスケールのシステムで生じる」 https://brevis.exblog.jp/17083095/ (2011-12-18) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-08 14:10
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Merry Christmas!
ビリー・ワイルダー監督の名画「アパートの鍵貸します」(1960)に、忘れがたいシーンがある。大晦日の夜、新年を待つパーティーの乱痴気騒ぎの中、午前零時が訪れ、皆が声をそろえて『蛍の光』を合唱する。日本では卒業と別れを象徴する歌だが、元はスコットランド民謡で、英米では新年に歌う習慣だ。歌い終えた企業の重役が、ふと振り向くと、連れの若い愛人(シャーリー・マクレーン)の姿が消えている。愛人としての人生に疲れていた彼女は、自分の真の望みに気づき、外に出て目的地に向かって走るのだ。 白黒の古い映画だが、映像はとても美しい。白黒の方が、なぜか観客のイマジネーションを刺激するのだろう。パーティーの様子も、彼女が走る街路も、一つ一つ鮮やかなイメージを残す。初めて見たのは、10代の終わり頃だったかと思う。映画には当時のハリウッドの職人芸が詰まっている。 監督・脚本のビリー・ワイルダーは、ウィーン生まれのユダヤ人だ。彼はナチスの迫害を逃れて、英国、そして米国へと渡る。ハリウッドでは最初不遇だったが、独特の反骨精神を洒落たウィットで包み込み、次第に人気が出て優れた作品を生み続ける。 主人公(ジャック・レモン)は、ニューヨークの生命保険の大企業組織で働く、会社員だ。彼はアメリカの強烈な競争社会で、上役達に自分のアパートの鍵を貸すことによって、金銭と栄達を得ようとしている。盛り場に近い彼の部屋を、上役達は女との密会と逢瀬の場所に使うのだ。ここら辺の偽善的で酷薄な社会の有様を、映画は皮肉を込めつつ見事に描く。 いったんは自暴自棄になって、彼の部屋での逢瀬の後に睡眠薬を飲み、自殺を図った例の若い愛人は、彼と隣室の医師のおかげで一命を取り留める。だが後ろ盾も何もない彼女にとって、生きるとは権力とお金に支配され続けることだ。その彼女が、最後に気づいた、真の望みとは何か。彼女は何を、本当の幸せだと感じたのか。
現状のAs-Isを分析して、あるべきTo-Be像を描く。そういう仕事を、社内でも社外でも続けてきた。その中で感じるのは、わたし達の社会における、「ありたい姿」を描く力の弱さである。企業も個人も、そして社会全体もそうだ。日本社会がどういう「ありたい姿」に向かっているのか、わたしにはサッパリ分からない。 わたし達は経営の流行やビジネス・トレンドに敏感だ。スマート製造だのDXだのも、流行の一種と言えよう。皆が走る方向に、自分も走り出す。ライバル企業が既にやっているというと、稟議も通りやすい。だがそれは大学受験と同じで、皆が進学するというから、自分も試験を受けるというのに等しい。成績優秀な人は医学部や法学部に行くからといって、医者や法律家になることが、自分の望みと言えるのか。 日本企業は(わたし自身の勤務先も含めて)、『顧客の望み通り』に働くのが得意である。問題を出されると、それが無理難題に近くても、なんとか技術的に解こうとする。一種のプル型、ないし受け身の能力といってもいい。その問題解決能力は一級品だ。だが、自分で課題を設定することは上手ではない。言われた通りのものを作るのは得意でも、自分から「良いもの」を提案することは、あまりない。人に褒められることは得意だが、自分の中に価値観が薄い。 だから、あえて言うが、日本のエンジニアは詳細設計は一流でも、全体に関する基本設計は凡庸だ。すぐれた基本設計のためには、「良い」ものとは何かについての、価値観が必要だからだ。 価値観とは、わたし達が何かを選ぶ際の、優先度に関する基準である。それは言語化されているかもしれないし、暗黙かもしれない。ただ、何かを決めて行動をする場合に、それは現れる。価値観を持つ人びとは、行動の選択に、ブレがない。
わたし達が何かをする場合、理由はいろいろである。息をしたり、夜眠ったりするのは本能、すなわち生理的欲求に他ならない。朝起きて職場に行ったりするのは、習慣だからかもしれない。「行きたくない」気分のときも、行かないと不利な結果が待っていると思い、無理に出かけるのは、規範やルールに基づく義務感かもしれない。ルールと言うのは、大抵罰則を伴うものだ。 本能、習慣、そして規範に続く要因として「欲求」があろう。わたし達人間には「社会的要求」というものがある。人に認められたいとか、人に勝ちたいとか、人を支配したいとか。ここで欲求段階説などに深入りするのはやめておく。ただ、「この世は所詮、色と金」と思う人は、人間は全て欲望にドライブされている、との世界観を表明しているわけだ。 そして、わたし達の欲求の充足度合いをフィードバックする信号が、感情なのである。欲求が充足されていれば、満足感や安心感を、不足していれば、不満や怒りや恐れを、脳の思考回路にフィードバックする。欲求という動因を強化する補助剤として、感情がある。 ただし人間の面白いところは、過去や未来を想像する能力があることだ。そして過去や未来の状況についても、感情を得ることができる。過去への後悔、未来への不安などが、わたし達を動かすことも多い。 将来のあるべきTo-Be像を議論していて、よく出てくる発言が「ワクワクするか」である。そ の製品、その仕事、その会社像に、ワクワクできるのか。数字だけでは人は、モチベーションを持てない。ワクワクできることが大切だ、と。それはつまり、感情を刺激する物事が必要だ、今のままでは感情的価値が足りない、といっている訳だ。
さて、望みとは何か。それは未来の状況、それも感情的な価値を持つ未来を期待することである。天気予報のように科学的で数値的だが、感情的価値を伴わない未来予測は、望みとは言わない。電車は5分遅れて到着します、というアナウンスは期待値の表明だが、感情の動きがない限り、望みではない。 人間が、自己の将来の望みに従って、現在の行動をとったり抑制したりする働きを、意思と呼ぶ。意志が強い人とは、将来のために、今の行動をコントロールできる人のことである。明日は大事な約束があるから、今夜は酒を控えよう、というのは意思の表れである。それなのに誘われたら飲みに行く人は、「意志が弱い」といわれる。 ここまでを少し整理しよう。人の行動を決める動因には、次のようなレベルがある: 本能 → 習慣 → 規範 → (社会的)欲求 → 望みにもとづく意思 目の前の欲求に条件反射的に従って行動するだけなら、下等動物だってできる。しかし「おあずけ」の芸などを見ると、犬にも意思があるらしいことが分かる。でも意思の強さは、人間の重要な特徴だ。 近頃の社会で目立つのは、『ワガママなくせに意思がはっきりしない』面倒な人たちだ。そんな顧客を、あなたも見たことはないだろうか。こういう人たちは、欲求に基づく快不快には敏感でも、自分の中に明確な望みや価値観がない。だから、何を提示されても真の満足がない。しかし自分のありたい姿に向けて、構造的に戦略的に、行動をプログラムしていくこともできない。こういう他律的な人や組織が増えると、互いの協力やアライメントが難しくなる。今の社会がバラバラで分断されがちなのも、不思議ではない。 どうして、こうなるのか。理由の一つは、わたし達が外部・社会から与えられるモノサシ、とくに競争社会での勝ち負けによって、学校時代からずっと駆り立てられてきたことにある。意味不明な受験勉強、ワケワカな出世競争、それに駆動されるうちに、自分の評価を、自分自身でなく外部に委ねてしまうようになる。自分の真の望みも価値観も、見えなくなってしまう。
では冒頭の映画の中で彼女が見つけた、自分の真の望みとは何だったのか。それは、「自分が幸せになること」だ。当たり前ではないか? そして、幸せとは感情的価値なのである。 たいていの人は、より良く生きたいと望んでいる。死のうかと考えている人でさえ、じつは「自分がより良く生きられる望み」が見えないから、そう思うのだ。ただ、「より良く」と思う事柄の内容とレベルは、人によりバラバラだ。同じ人でも時によりブレたりする。でも価値観に裏打ちされた明確な望みを抱く人ほど、強い意志を持ち、ブレが少なくなる。 価値観を持つとは言い換えるなら、お金以外の判断基準を持つことだ。お金はもちろん必要である。だが、お金は(生き延びて)幸せになるための必要条件でしかない。お金だけあっても幸せにはなれない。充分条件では無いのだ。そしてブレない人が多い社会の方が、実はお互いに住みやすい。だから、わたし達は自分の意思と望みをもって生きるべきなのだ。 ・・普通ならここで、筆を止める。でも今はクリスマスの季節だから、これはクリスマス・メッセージだから、もう少しだけ続けさせていただこう。人を動かす動因、人の望みには、本能・習慣・規範・欲求・個人の意思、の上にもう一つ、レベルがある。 それは、自分だけでなく、人類すべてが幸せになりたい、と望む事だ。人類が皆、労苦から解き放たれていつか救済される、という望みに従って動くこと。このような望みをもつのは、人類だけの特徴だろう。サルや鯨にどれほど知性があるかは知らないが、彼らが自分たちの種全体の救済を望むかは、あやしい。 もちろん、こんな望みは、全ての人がいつでも持てる訳ではない。ただ時々、歴史上にはそういう人が現れるのだ。 今から2千年ほど前、中東パレスチナの地で、弟子達と祭りの食事を囲んでいた人も、そうだった。後に「キリスト」という尊称で呼ばれることになる、ナザレ出身のイエスは、晩餐の終わりに葡萄酒の杯をとり、弟子達にいう。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。あなた方と多くの人のために流される、新しい契約の血である」、そして「わたしを忘れないために、これを行いなさい」と。 いわれた弟子達は、何のことやら分からなかっただろう。だが彼は当時の宗教的権力との対立の中で自分の死を予感し、これが最後の晩餐となることを知っていた。生贄の血を流して誓いを立てる中東の習慣にしたがって、だから葡萄酒を自分の血に見立てたのだ。その彼の願いとは、すべての人の救いだった。 彼の望みが果たされるのかどうかは、2千年たっても不明のままだ。今のパレスチナの地を、そして地球表面のあちこちの争いを見ると、まだまだ遠い道のりに思える。彼の弟子達がおこした新宗教だって、プラスの面もマイナスの面もあったし、今もあるだろう。 だが一つだけ確かなことがある。自分の栄達や利益でなく、他者を助けて和解しようとする意思は、死のうとした人をも再び立ち上がらせ歩かせることができるのだ。それは、映画の主人公が示したとおり、彼が最後に取り戻したアパートの鍵と同様、人生への鍵なのだ。 <関連エントリ> 「意思を持つために――未来はわたし達の意思がつくる」 https://brevis.exblog.jp/30153969/ (2022-10-25) #
by Tomoichi_Sato
| 2024-12-22 12:27
| 考えるヒント
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このところ外部から、研修セミナーの講演を頼まれる機会が増えている。それは当サイトにおける「お知らせ」記事の増加からもお気づきだろう。生産管理、プロジェクト・マネジメント、スマート工場、BOM・・テーマはさまざまだ。そして幸いにも、大勢の方が聞きに来られる。定員が満員になって、アンコールを依頼されることもある。日本の技術者は急に、勉強に熱意を燃やし始めたのだろうか? ちなみに、例えばわたしが生産管理とか生産統制のセミナーでお話ししているのは、こんな内容だ:まずは、リードタイムと在庫の関係の基本理解。これは納期問題が生産管理の主要テーマだからだ。ついで基準在庫・安全在庫量の計算法。在庫管理にはちゃんと理論があることを知っていただく(こういう事を、そもそも知らない人が多いので驚く)。そして生産形態と在庫ポイントの理解へと進む。 さらに、生産リードタイムの計算演習、生産計画の基本的なサイクルの理解へと(計画と統制は車の両輪なので)進み、生産管理系ITシステムを少し紹介した後、リードタイム短縮の定石を解説する。そして(多くの場合は)トヨタ生産方式がそのままでは合わないことを説明して締めくくる。そして最後に、「本セミナーの参加報告書の雛形」をお見せする。多くの方は会社から派遣されて来ているので、報告がいるだろうから、との親切心(?)である。 わたしのセミナーには特徴が二つある。一つは、特定の業種業態にこだわらず、マクロな観点から問題を捉えるためのアプローチを提供すること。もう一つは、一応定量的な理論がバックにあり(数式はほとんど出さないが)、ITシステム活用につなげやすいことだ。 これはわたしが、製造業出身者でなくエンジニアリング会社の人間だから、かもしれない。仕事柄、いろいろな業界の工場を見たり作ったりしてきている。そしてIT開発プロジェクトにも一応通じている。大手製造業出身者のセミナーは、実務の知見は豊富だろうが、どうしても自分の業界に偏りがちで、かつITに強い人があまり多くないように感じられる(IT部門と実務部門が分業しているからかも)。
だが受講者の方とのQ&Aを通じて、最近いささか感じることがある(わたしは大学みたいな一方通行な講義スタイルが好きではないので、相互対話の時間を極力取る)。それは、「本来はこの人の立場で考えるべきでない問題を、なんとか自分で解決しようとして」セミナーに勉強に来られる方が、少なからずおられる、ということだ。 例を挙げよう。前々回の記事『製造業のトリレンマ・QCDを決めるのは誰か』 にも書いたように、製造業ではコストC・納期D・品質Qは、互いに関係し合ってお互いを制約している。 そしてコストの大勢は設計と調達で決まってしまい、製造段階で改善できることは限られている。だから工場では「納期と品質の戦い」になるのだが、品質の大勢は工程設計と製造部門で決まってしまう。だから生産管理部門は、ごく狭いプレーグラウンドの中で、顧客(≒営業部門)からの納期圧力に抗することになる。 かくして納期問題に悩む生産管理部門の、実務担当レベルの方が、わたしのセミナーを聞きに来られる訳なのだ(技術者ばかりでなく、事務職で採用された女性も結構こられる)。もちろん、各工程にオーダーを手配するのは生産管理の仕事だから、工夫すればリードタイムを改善できる部分は多い。 しかし、「直近の急な割り込み・納期変更が多いので、どうしたら良いか」といった質問がよく出る。その際、自分はまず相手の業種や生産品目を聞き返し、製造リードタイムの概略をつかむ。でも、それより極端に短い期日で変更を受け付けるには、どうしたら良いかとの質問には、「いや、ちょっと待ってください」と言いたくなる。
生産管理にマジックはない。そんな無理な納期対応のためには、すでに他にやりかけていた手を止めて、割り込みのために製造資源を割かなくてはならない。 「それには余計なコストがかかりますよね。御社はそのコストを、顧客にチャージして上手に回収できるのですか?」という質問が、喉元まで出るのだが、いつも我慢して止めなければならない。その質問にYESと答えられるなら、生産管理担当者がわたしのセミナーに、勉強に来るはずなど無いからだ。「それは工場が頑張って何とかしろ」と会社に言われるから、仕方なく学びに来ているのだろう。 納期変更にはコストがかかる。短納期にはその分プレミアムがつく。これは、QCDのトリレンマを理解していたら、当たり前の原則だ。したがって、短納期を武器にしたり、急な割り込みをあえて受け取って受注したりすることで、その分を価格に転化して利益を上げている会社を、わたしも数社は知っている。それは一種のすぐれた戦略であり、経営判断である。 だが大多数の製造業では、そうではない。コストも品質も決まった上で、納期だけなんとか無理をしろ、と現場は上から言われる。上というのは工場の責任者かもしれないし、強い営業部門、あるいは経営者からかもしれない。それが誰でもいい。その誰かは、QCDのトリレンマ原則も知らないで、納期問題だけを担当者に押しつけているのだ。
ちなみに生産計画の分野では、『タイム・フェンス』という大事な概念がある。これには二種類あって、
と定義されている。製造業が自社のコストや利益を守りたかったら、この2種類について、生産側と販売側が合意してルールを決めるべきなのだ、本当は。そして、そういうルールや仕組みを決めるのは経営層なり上級管理職の仕事である。 でも多くの企業では、現実にはそうなっていない。というか、そういう原則自体を上位の人たちが知らない。知らないまま、問題を実務層に片付けさせている。タイム・フェンスの説明など、拙著『革新的生産スケジューリング入門』 に、24年も前に書いたことで、何を今さら、なのだが。
無論、彼らにも言い分はあろう。代表的なのは「お客が認めないから」である。なぜ認めないのか。それは調達部門が、納期変更にはコストがかかると認識していないからだ。 日本の(大企業の)製造業の調達部門に、いろいろと問題があるのは事実だろう。本当は調達部門の人ほど、ちゃんと生産管理を知らなければならない。だが、では自社の調達部門には、生産管理を勉強させているだろうか。お客から無理な納期変更があったからと言って、後ろを向いて部品サプライヤーに無理な納期変更を要求しているなら、自分も同じ問題を再生産しているだけではないか。 戦略が欠落しているのに、戦術でなんとか頑張ろうとしている。日本の共通の病が、これだ。経営者が決めない問題を、現場で解決しようとする。発注者に思慮が足りない問題を、下請けがなんとか受け止めようとする。これでは「兵隊は勇敢だが、将軍は無能だ」と敵国に揶揄された、どこかの国の軍隊と同じではないか。 でも、話を戻そう。わたしのセミナーに、何か特徴があるとすれば、マクロな視点から、問題構造を理解できるようになる点だ。「着眼大局、着手小局」という格言があるが、大きな問題理解の上で、自分の裁量範囲でできることを考える。それがまあ、組織人として生きる道だ。 実際、拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』や『革新的生産スケジューリング入門』 などで紹介してきたケース例などでも、本来は上位マネジメントが整理すべき問題を理解した上で、実務でどう動くかを書いてきた。現実はもちろん、本の物語よりも複雑だが、それでも動くべき大きな方向性を知れば気持ちの助けにはなるだろう。 お知らせ:生産統制セミナーを来年1月22日に大阪で開催します ということで、お知らせです。今回はリアル開催ですので、より密度が高く理解の深まるセミナーにするつもりです。関西圏の方、ぜひご参加下さい。 <記> 日時: 2025年1月22日(水) 9:45~16:45 テーマ: 納期遅れを起こさない 生産統制のポイント 主催: 公益財団法人 大阪府工業協会 会場: 大阪府工業協会 研修室 セミナー詳細・申込み: 下記Webサイトをご参照ください 佐藤知一 <関連エントリ> 「製造業のトリレンマ・QCDを決めるのは誰か」https://brevis.exblog.jp/33340696/ (2024-11-19) #
by Tomoichi_Sato
| 2024-12-10 14:36
| サプライチェーン
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先日、名古屋工業大学で開催されたプロジェクトマネジメント学会中部支部のシンポジウムに参加し、アビーム・コンサルティングの阿部さんと一緒に講演をする機会があった。メインテーマは「MES導入のための標準業務テンプレート」の紹介で、我々の研究会で開発リーダーである阿部さんが解説されたが、わたしはその前振りとして、製造業におけるプロジェクトの共通課題についてお話しした。 わたしが訴えたかった共通課題とは、一言でいうと『プロマネ不在問題』である。プロジェクトは必要があって発足し、進んでいくのだが、肝心のプロマネが誰だか分からない。大事な決断を誰が下し、誰が権限と責任を持つのか分からない。そんなバカな、と思う人もいるだろうが、しばしば見かける現実である。こんな状態では、ものづくり改革だとか工場スマート化などが、うまく進むわけがない。 プロマネが誰だかわからないのだから、「プロジェクト・マネジメント計画書」なども、きちんと存在するわけがない。当然ながら、ベースライン計画を前提としたマネジメント・プロセスも機能するわけがない。つまり、普通の意味でPM標準が規定するような知識や技術は、適用されない(適用しがたい)ことになる。 日本PM学会は、米国PMIが策定したPMBOK Guide(R)の紹介活動や、最近は欧州IPMAとの提携によるPM標準の普及などを進めている。そしてPM学会の構成員の大多数を占めるIT業界では、確かにプロマネなりプロジェクトリーダーなりの職種も、かなり確立してきた。しかし、プロマネすら不在の組織では、PMBOKの10のマネジメント領域どころではない。非常に大きなギャップが存在する。どうしてこうなのか?
ずいぶん以前のことだが、プロジェクト・マネジメントの本を読んでいたら、 「『プロジェクトはタコ壺であり骨壺だ。一度入ると生きては戻れない』--こんな感想をよく耳にする」 と書かれていて驚いたことがあった(「書評:『はじめてのプロジェクトマネジメント』近藤哲生・著」 )。著者は製造業の重鎮・日立製作所のOBである。「そういう会社なんだなあ」と、当時思った(今は違うのかもしれないが)。 日立は製造業であり、かつIT受託開発の元請けもやる会社だ。だがIT受託の分野をもたない普通の製造業でも、実際には様々なプロジェクトに取り組む必要がある。それは新製品開発プロジェクトであり、新工場ないし製造ライン増設プロジェクトであり、新販路開拓プロジェクトであり、あるいは業務改革プロジェクト(これにはしばしば、ITシステム開発プロジェクトが付随する)であろう。ものづくり改革とか工場スマート化は、最後のカテゴリーの一つと捉えても良い。 これらのプロジェクトに共通する1つの特徴は、複数部門の協力がいる点だ。もちろんそれはプロジェクトの規模や複雑性に依存する。比較的シンプルな製品のバージョンアップに伴う新製品開発などは、設計開発部門だけで完結するかもしれないし、 小規模なラインの増設は、生産技術部門だけでほとんど終わるだろう。仮に他部門の協力が必要だとしても、業務上隣接する部門、例えば企画部門と設計部門、あるいは生産技術部門と製造部門といった、接点の多い部署との調整で良い。 ところが、新しい製品ファミリーを作るようなタイプの新製品開発では、企画・設計・研究・生産技術・調達・製造・物流・営業…といった、かなり多数の機能部門が関わることになる。 そして、それぞれの部門は、お互いに異なる目標やKPIの尺度を持っていて、意見調整が簡単にいかないことがある。大型の新工場建設や、未経験の地域や国での販路開拓などでも、似たような事情が起きやすい。
日本企業は業務を回す実務レベルの人々が優秀で、それなりに権限範囲を持ち、隣接する部門同士の調整は上手にできると、前回の記事で書いた。 しかし、隣同士でのすり合わせで問題が解決しない場合、問題の全体構造を見た上で、誰かが決断を下す必要がある。それは本来、プロジェクト・マネージャーの役割である。 問題の全体構想とは何か。それはプロジェクトの予算であり、納期であり、またスコープ=責任範囲(役務範囲)の制約である。 製造業の3大パフォーマンス目標値がQCDで、トリレンマの関係にあることを前回記事で書いたが、 プロジェクトでは、一般に品質の代わりにスコープ(役務範囲)をとる。これはスコープが全体の仕事量を表すからだ。品質を 確保するためのレビューやテスト等のアクティビティーもスコープの中に含まれるため、このようにする習慣だ。 そしてこの3つもトリレンマの関係にある。どれか1つを変更すると、他の2つに何らかの影響が及ぶ。だからプロジェクト・マネージャーの1番大切な仕事は、この3つの制約条件の中で、プロジェクトの価値を最大化するような選択肢を探して、決断することにある。 決断のためには、プロジェクト・チームの中で議論を戦わせ、様々な事実認識を共有し、いろいろな方策・オプションを提示し検討することが大切だ。だが、最終的には何らかの決断を下さなければならない。そして決断はタイムリーに行わなければならないのが、プロジェクトの現実である。 ところで、ほとんどの製造業は、機能別の組織になっている。1番上に経営者がおり、それを支える形で人事・財務といった本社機能と、研究開発機能があり、そしてライン業務を受け持つ部門が並ぶ。具体的には営業であり、技術、製造、物流などである。では、プロマネのいるべき部門はどこなのだろうか?
ところで読者諸賢は、上のようなピラミッド型の組織図で、各部門を結ぶ線のことを、何と呼ぶかご存知だろうか? 英語では、これをレポーティング・ライン(Reporting line)という。 つまりレポートする(報告する)線である。「私の上司はジョンだ」を、英語では "I report to John"と表現する。 組織図の線は、報告及び指示を伝達するコミュニケーションのルートを意味している。 すなわち、組織における公式なコミュニケーションは、この線を経由しなければならないルールなのである。もちろん、昼食時に食堂でおしゃべりしたり、休日に一緒にスポーツを楽しんだりするような非公式のコミニケーションは、個人同士で直接行って構わない。 しかし例えば新工場プロジェクトで、検査部門の担当者が、生産技術部門の工程設計技術者に対して、新しい検査装置についての要望を出すとしたら、 本当は検査課長から製造部門長に上げて、技術部門長を通って、生産技術課長経由で下ろさなければならない。 これがピラミッド型機能別組織の、本来のルールなのである。 だがご存じの通り、部長同士が定例的に顔を合わせる部長会など、週1回か隔週である。プロジェクトの連絡調整を、いちいちそのルートでやっていたら、日が暮れてしまう。そして各部門は異なる目標値KPIと、異なる利害意識を持っている。それらが対立した場合、誰が意見調整をするのか? まさか多忙な社長が、いちいちプロジェクトの個別の決断を下してはいられまい。 そこで本来は、経営者がプロジェクトに必要な権限と予算と責任を、『プロジェクト・スポンサー』という役職に委譲する。そしてスポンサーはプロジェクト・マネージャーを任命して、プロジェクト実務に専任させる、という建て付けでPMBOK Guideなどはできているのである。プロマネは、手を上げて自分でなるものではない。スポンサーが(あるいは、プロジェクトの上位にプログラムがある場合は、プログラム・マネージャーが)任命するものなのだ。 プロマネは、プロジェクト・チーム内の意見をとりまとめて、必要な決断を下す。決断を下すからには、その結果についても責任を持つ。それでも、周囲のステークホルダーが納得しないような重大な問題がもしも生じたら、スポンサーが経営層を通じて説得・調整を行う。これが欧米などのPM標準を貫く思考原則なのである。
ところが、日本の多くの製造業では、こうした思考習慣自体が存在しない。だから、プロマネ不在のまま、プロジェクトが始まってしまう。 拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』 も、じつはこの問題を取り扱っている。本書の内容は元々、東大や静大の大学院でのPM講義がベースだが、講義そのままでは面白くないので、ストーリー仕立てに設定した。主人公は製造業の若手エンジニアである。年齢は30歳そこそこ。まだプロマネに立てるような年代ではない。 ところが彼の会社では、社長の思いつきで突如、アジア新興国の海外企業との「共同製品開発プロジェクト」が走り出すのだ。とはいえ、誰がプロジェクト・マネージャーなのかも、定かでない状態なのである。 主人公は設計部門に属していて、彼の直属上司の課長は本プロジェクトに大いに乗り気だが、その上の部長は腰が引けている、といったシチュエーションになっている。どう見ても、このままではプロジェクトはうまく行かない。そしてその問題は、担当者である自分の上に被さってくるはずだ。 危機感を覚えた主人公が、偶然空港で出会った大学時代の大先輩に、「プロジェクト・マネジメントの基本を教えてください」と他の頼み込むところから、本書のストーリーは始まる。単なる担当者の立場でありながら、主人公はどうプロジェクトを動かし、リスクを乗り越えていくべきか? 無論、著者としては主人公をこのまま放り出しておく訳にはいかないから、製造業の組織論に即した現実解の一つを、本には書いている(ご興味があれば、ぜひお読みくだされ^^)。でも、こういう風に進むかどうかは無論、個別の企業の状況によっている。 長引く不況の間、日本の製造業は、差別化を求めて新製品を開発し、新興国などの市場を開拓し、あるいは海外工場の移転などで活路を求めてきた。それらは皆、プロジェクトだ。だが、プロマネ不在の機能型組織でプロジェクトを進めたって、納期もコストも守れず、目指したアウトカムは得られまい。失われた30年は、製造業におけるプロジェクトの不調がもたらした結果である。 そして、その真の理由は、PMBOKみたいなPM標準が普及しない事にあるのではない。もっとそれ以前のところ、企業がプロジェクトを『プロジェクト』だと認知していないこと、決断が必要なのにプロマネが不在なことに起因するのである。 <関連エントリ> 「書評:「はじめてのプロジェクトマネジメント」 近藤哲生・著」 https://brevis.exblog.jp/10266445/ (2009-05-18) 「製造業のトリレンマ・QCDを決めるのは誰か」 https://brevis.exblog.jp/33340696/ #
by Tomoichi_Sato
| 2024-12-01 21:19
| プロジェクト・マネジメント
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