プロジェクトのオーナーシップとは何か

オーナー(Ower)とは、所有者であり、オーナーシップ(Ownership)とは所有権を意味する。ただ英語の語尾 -shipは、名詞について、それを持つ人の志や、性質や「らしさ」をも示す(例えばリーダーとリーダーシップのように)。だから、オーナーシップとは、所有者らしいふるまい、ということにもなる。

有形のもの、車とか家などのオーナーシップの意味は、誰にも明らかだ。そのものを所有して、自分の意のままにすることができる。無形のもの、例えばライセンスといったものにも、オーナーシップを考えることができる。自分がお金を払い、そこから得られる便益を自分の自由にすることができる。何であれ、それを維持する労力や費用負担し、そこから主たる価値を得るものは、それに対するオーナーシップを持つと言えるだろう。

それでは、プロジェクトのオーナーシップとは、何なのか?

X社のプロマネP氏は、困惑していた。大型プロジェクトを受注して数ヶ月。このままでは、かなりの赤字になることが明白だ。現時点での詳細設計から、全体コストを見積もり直してみると、当初想定していた金額を大幅に上回ってしまう。

顧客のA社に窮状を訴えて、追加費用を出してもらうことも考え、実際内々に打診してみた。だが顧客の反応は冷たかった。そもそも基本設計も、X社が有償で行なったのではないか。その基本設計書の内容をもとに、両者が合意して一括請負契約を結んだのだから、その通り実行してもらいたい。それが向こう側の言い分だった。

確かにその通りだ。要件定義は前任者のプロマネが行い、P氏はそれを引き継いだまでだ。ただ、顧客の業務要件は思ったよりはるかに複雑で、例外が多く、新しく入ったメンバーが理解するまでの時間も、かなり必要だった。

おまけにもっとまずい事に、プロジェクトで中心的に使うつもりでいた自社製の新型装置を、隣のチームが並行して開発中だったのだが、予定された期日からかなり遅れていた。基本設計レベルに問題があったらしく、期待したパフォーマンスがさっぱり出ないのだ。そのおかげで、上司の命令により、自分のチームから優秀なメンバーを数名、隣に回さなければいけなくなった。

仕様は思ったより膨らんでいる。優秀なメンバーもとられてしまった。あてにしていた中核装置も出来上がってこない。顧客は頑固な態度である。このままでは赤字は必至だ。一体どうしたらいいのか?

世の中ではしばしば、大赤字を生みデスマーチが見えているプロジェクトが、延々と続けられている。なぜだろうか。受注したからには完成させるのが受注者の義務? だが、たとえ違約金を払ってでも、プロジェクトから降りてしまう方が、ビジネス的には傷が小さく済む場合だってあるではないか。

だが、一般にプロジェクト・マネージャーには、プロジェクトを中止・撤退する権限はないのである。プロマネとは、プロジェクトを遂行するように命じられた存在である。遂行の義務と責任を負っている。仕事のパフォーマンスがまずくて、プロマネの職を解かれることはある。だが、プロジェクトの価値が下がったからといって、自分からプロジェクトの遂行をやめる権利は無い(会社自体を辞めてしまうなら別だが)。

そこで改めて考えてみよう。プロマネを任命するのは、一体誰か。プロマネの成果を認定し、評価するのは誰なのか?

それが、「プロジェクト・オーナー」なのである(オーナーは、業界によっては「スポンサー」と呼ばれる場合もある)。プロジェクトの価値を考え、プロジェクトを発進させ、プロマネを任命し、予算を与えるのがオーナーの仕事である。なお、プロジェクトが上位の「プログラム」の一部である場合は、プログラム・マネージャーがオーナーシップをとる。だが、日本ではプログラム・マネジメントをまともに実施している企業がほとんど無いため、そのケースは無視していい。

さて、苦境に陥ったP氏は、上司である事業部長K氏に、状況を正直に報告し、対策を相談した。事業部長が、このプロジェクトのオーナーだったからだ。そこでK事業部長も、自ら顧客に追加交渉にいってみた。だが、相変わらず相手の態度は硬い。このまま続ければ、この開発プロジェクトと、自社の新型装置開発の、二つのプロジェクトがともに道連れで沈没しかねない。

K氏はさらに上の役員と相談の上、苦渋の決断を下した。顧客A社に対し、違約金を払って、このプロジェクトから降りると宣言したのだ。

発注者A社側のプロジェクト責任者は、X社の撤退に驚き、大いに怒った。たとえ違約金をもらったからといって、費やした時間も労力もかなり無駄になったからだ。しかしA社の担当役員は、X社の決断に舌を巻き、内心、敬意を評したという。X社が受注者としてのスポンサーシップを発揮し、痛みは伴うが適切な決断を下したからだ。「確かにウチは迷惑した。だが、あの決断は大したものだ。なかなかできる決断ではない。」

撤退の判断は、つねに難しい。特に受注型プロジェクトの場合は、なおさらだ。お金も労力も失われるが、自分のメンツや顧客からの評判は丸潰れになる。業績評定にだって、大いに影響が出るだろう。

プロジェクトが完遂できないのは、明らかにプロジェクト・マネジメントの失敗である。だが、失敗したプロジェクトから、適切なタイミングで撤退する事は、正しいオーナーシップの発揮なのだ。この点を世間の人は誤解しがちなので、あえて繰り返し強調しておく。失敗したプロジェクトから思い切りよく撤退する事は、オーナーシップの失敗ではない。

オーナーシップの失敗とは、価値のなくなったプロジェクトを、延々と続ける事なのだ。プロジェクトにおいて最も恐ろしい事とは、プロジェクト自体が自己目的化してしまう事だ。ゴールに到達したが、結果は無価値で、労力と金と時間の無駄だった、という事ほど、人心を荒廃させる事はない。それはオーナーシップの不在を意味する。

わたしは授業でよく、公共事業のケースを例にあげる。有名な公共事業の中には、すでに半世紀以上にわたって遂行中で、予算規模も千億円クラスのものがある。だが、終戦直後に計画されたその事業の完成を、もはや誰も待ち望んでいない。それでも続いているのはなぜか。役人という人種が、いったん始めた事は絶対に失敗を認めないし、撤回もしないからだ。だが、繰り返す。失敗を認めず、意味のなくなった事業を続けることこそ、より大いなる失敗なのだ。

もちろん、オーナーの仕事はプロジェクトを中止し撤退することだけではない。むしろそれは最後の選択肢だ。オーナーは、プロマネを助けて、プロジェクトが意味ある仕事として完遂することを支援するのが、本来の仕事である。

以前、米国のPMコンサルタントであるNeal Whittenの主張を紹介した(「プロジェクト・スポンサーシップが足りない」 https://brevis.exblog.jp/23393425/)。彼によると、米国におけるプロジェクトの問題の1/3は、オーナーシップの不全にある、という(彼は「スポンサー」という用語を使っている)。

それでは、プロジェクト・オーナーの仕事とは何か。それは、

  • プロジェクトを起動し
  • プロマネを任命し
  • Project Charterを承認し
  • 予算枠と期限を与え
  • プロジェクトの状態と価値を定期的にウォッチし、
  • プロマネの相談に乗り、助ける
  • プロジェクトの終結を承認し
  • あるいは、無価値となったプロジェクトを中止する

こうした、プロマネに対する「上からの支援」が、プロジェクトの成功のためには、非常に重要なのである。だからあえて、以前も掲げた図をここに再掲しておこう。
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プロジェクト・オーナー(スポンサー)は、プロマネの相談相手として機能しなければならない。そして、プロマネの悩みはたいてい決まっている。それは、お金が足りません、か、人が足りません、なのだ。オーナーというのは上級職の仕事で、普通はプロジェクトにフルタイムで関わることはない。だが、プロマネに対しては、いつでも悩みを聞いてあげる存在でなければならない。

ところが、わたし達の社会では、これが弱いのだ。あるいは、オーナーという役割が存在しない場合も多い。その必要性さえ、認識されていない。だが、プロマネを助けないプロマネの上司とは、一体何のためにいるのか?

とはいえ、多くの読者諸賢の職場では、実際問題、オーナーというポジションは存在しないかもしれない。だったら、どうすべきか。居ないものは居ないとして、それでもプロジェクトが倒れないようにするための、現実解を考えなければならない。

わたしがお勧めする方法は、三つである。

第一に、きちんとProject Charterを作ることだ。Charterというのは、日本では「憲章」と誤訳されているが、「趣意書・許可書」のことだ。もともと英国で、国王が特に出す勅許状のことを、Charterと呼んだ。特別仕立ての飛行機のことをチャーター便と呼ぶのは、その名残だ。また英国では、公式に認定された技術者をChartered Engineerと呼ぶ。

Project Charterという文書は、組織が、そのプロジェクトを公式に認めて、その発進を許す書状である。そこにはプロジェクトの目的や目標などを書く。そして本来は、このCharterはプロジェクト・オーナー(スポンサー)が作って、プロマネに与える、という建前になっている。少なくとも、PMPの試験では、そう書かないと正解にならない、と教わったはずだ。

だが現実には、プロマネがCharterを作っている企業が大半である(だってオーナーはいないのだから)。そこでCharterを作ったら、それをしかるべき上司に、承認してもらおう。表紙にハンコの承認欄を作るのもいい。判子をもらってしまえば、それは上司が公式に認めたことになる。そして上司にも責任(命令責任)が生じる。

あるいは、もう少しモダンなやり方としては、皆で集まってチームビルディングを行う。そして、最後に皆で「コミットメント・シート」を作る。そこにサインを寄せ書きする。無論、上司には中央にサインをしてもらおう。そのシートは、プロジェクト・ルームの壁に掲げて、いつでも見えるようにしておく。こうして、オーナーたるべき人物を、責任と面子のループに取り込んでおくことが重要である。わたし達の社会は、面子とコンセンサスの社会なのだから。

第二に、プロジェクトのJournalを頻繁に発信することである。Journalというのがまた、適切な訳語がない言葉なのだが、元々は日誌のことで、転じて定期刊行物や雑誌を意味するようになった。プロマネにとって、日誌をつけるのは非常に良い習慣である。それはいざという時の法的根拠にさえなる。だが、もっとソフトな意味で、定期的な情報発信のことを、ここでは言っている。

つまり「プロジェクト週報」だとか「プロジェクト新聞」といった簡単なニュースメールを発信し、関係者皆に送りつけるのである。関係者の中には、もちろん「オーナーたるべき人」も、さらにその上司をも、送付先に含めておく。

こうして、プロジェクトの状況を、定期的に、かつできる限り頻繁に、皆に知らせておき、上層部にも関心を持ってもらう。「そんなの多分、メルーボックスの肥やしになるだけだ」などと、最初から悲観してはいけない。捨てる神あれば拾う神ありで、世の中にはたまに、ちゃんと見ている人もいるのだ。プロマネはなるべく、いろんな人に味方になってもらう必要がある。

三番目の方法は、ちょっと大技だが、プロジェクトのために「ステアリング・コミッティー」を設置してしまう(設置してもらう)やり方だ。これは、拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』 (最近増刷が決まった)に書いた方法でもある。

この本では、製造業の若手エンジニア・小川君が突然、海外企業とのジョイント・プロジェクトに巻き込まれるのだが、このプロジェクトたるや、誰がプロマネなのかも判然としない。そんな中、大学の先輩だった広田氏のアドバイスをもらいながら奮闘していく物語だ。その際、プロマネもオーナーも不明ながら、なんとか仕事を前に進めるために、あえて複数部門の管理職の層でステアリング・コミッティーを設置してもらうよう、小川君が上に提案する(広田氏がそう勧めたのだ)。

その顛末は本を読んでいただくとして、いったんコミッティーを作ると、なにせ面子とコンセンサスの国だから、なんとかサポートは得られる。そして、プロジェクト・ガバナンスの点からいうと、これはこれで立派な方策なのである。

もちろん、上記の三つの方法が、いつも功を奏するとは限らない。忙しい中、権限もないのに、実行するのはかなり大変だろう。でも、本当にプロジェクトが傾いてきたら、一番こまるのはプロマネの自分なのだ。だとしたら、少しでも会社にオーナーシップを自覚してもらうべきである。

それにしても、研究会などで多くのプロジェクト事例を聞くにつけ、感じることがある。日本の多くの組織で見られる、現場リーダークラスの共通の悩み、共通の問題があるのだ。

それは、ビジョンの不在や戦略の失敗を、戦術レベルでなんとかカバーしようと努力して苦労している、という事実だ。これが、中堅若手のプロマネや、サブリーダー・クラスの疲弊感を生んでいる。たとえば、営業部門が売上目標のために無理な価格、納期で受注してきた案件を、技術部門が苦心惨憺、遂行する。そして、プロジェクトをなんとか黒字にできないか、悩んでいる。あるいは、ヘンテコな製品戦略のために、新製品開発プロジェクトが迷走し、BOMや基準情報までが混乱する。こうした例は、枚挙にいとまがない。

なぜ、そんなことに努力を費やすのか。それは、現場リーダーに与えられた権限範囲と、リーダーの責任(評価・賞罰)とが、あっていないからだ。プロマネ自身ではどうしようもない環境条件において、結果だけを評価される。ここでプロジェクトの「環境」とは、プロマネが短期的な努力では左右し得ない条件をいう。

プロジェクトのオーナーシップは、プロマネを任命する権限を持つ者にある。したがって、プロジェクトの最終的な損益やアウトカムに対する最終的責任・評価もオーナー側にあるのだ。プロマネは与えられた条件下で、どこまで良くやったか(計画し遂行したか)を評価されるべきである。プロマネは、自分では途中でやめられないのだ。プロマネには実行責任がある。だが、命令責任は、オーナーは負うべきなのである。


<関連エントリ>
 →「プロジェクト・スポンサーシップが足りない」 https://brevis.exblog.jp/23393425/ (2015-07-08)
 →「アカウンタビリティとは『命令責任』である」 https://brevis.exblog.jp/24837740/ (2016-11-05)


# by Tomoichi_Sato | 2019-01-17 23:12 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

望みと抱負とふりかえり

一年の計は元旦にあり、という言葉がある。ときおり、これを「一年の総決算は元日にあるという気概で、最初の日を過ごすべきだ」みたいな意味にとる人がいる。だが、これは誤解だ。ここでの「計」とは、総計の意味ではない。一計を案ずる、のように、計る・計画を立てる、という意味である。

ついでに言うと、旦と言う漢字は、地平線の上に太陽が昇っていく有り様を表し、朝のことを意味する。つまり元旦と言うのは、元日の朝のことである。まぁ漢字というものは、わかっているようで、案外わかっていないものだ。

ところで、これに対して、大晦日は一年のふりかえり、などと言う言葉はあまり聞かない。だが、年の瀬に1年のことを想い起こすのは、とても大事な習慣だと思う。

1年間のふりかえりは、まず、あれがあった、これもあったという、「10大ニュース」的な思い出しから始めるのが良い。わたし達はいろいろなことを、忘れやすい。だから手帳やカレンダー、日誌、記録などをみて、記憶の地層から掘り起こすようにする。

特に最初は、昨年の「3大ラッキー」を思い出すことをお勧めする。いろいろなことがあった。でも、ラッキーだったこともあるはずだ。たとえ小さな事でもいいから、自分の身に降りかかった幸運な出来事を考える。そうすると、気持ちが穏やかになるはずだ。気持ちを穏やかに、新年を迎える方がいい。

もちろん、中には忘れたいこともあるだろう。不運なできごと、イタい結果を招いた自分の決断(ないし不決断)、あるいは悔やまれるミス、などなど。そうしたことから無縁でいられる人は少ない。

それでも、そうした経験から何が学べるか、教訓(Lessons Learned)を考えてみる。仮に不運は避けえぬとしても、予兆はなかったか。早く気づけば、傷は浅く済んだかもしれない。失敗や本ミスなどの場合は、自分の間違いがすぐさま外に出ないよう、ダブルチェックやフェイルセーフを考えるべきかもしれない。

え? うじうじと考えて過去を振り返るのは自分の趣味じゃない? なるほど。そういう方には、「KPTフレームワーク」をご紹介しよう。これは仕事で使うツールである。KPTは、Keep, Problem, Tryの頭文字で、文字通り、この三種類についてふりかえりを行い、文章にまとめる。もちろん箇条書きで良い。

K(Keep):振り返ってみてよかったこと、これからも続けたいこと
P(Problem):問題だと思うこと、解決すべきテーマ
T(Try):次の回にはチャレンジしてみたいことがら

KPTフレームワークはチームで行う定期的なふりかえりに用いられ、アジャイル開発のミーティングなどでも、よく使われているようだ。

ここで、T(Try)の中には、目標設定の萌芽がある。つまり、次の計画のタネである。

わたしは、2000年に出した最初の単著『革新的生産スケジューリング入門』で、計画という仕事を、次の式で表した:

 計画=予測+意思決定

計画という仕事は、単なる予測とは違う。予測計算だけだったら、今後はきっとAIが人間よりずっと上手に行っていくだろう。しかし、そこには意思決定がなければならない。何に関する意思決定か? 1つには、不確実な外部環境に関する仮説である。もう一つは目標設定に関することだ。自分の目標設定は、機械に任せるわけにはいかない。

ところが、この「目標」あるいは「目標設定」と言う概念が、残念ながらわたし達の社会では、あまりよく理解されていないように思える。その証拠に、非常に漠然とした目標設定が、プロジェクトの出発にあたって設定されたりすることを、しばしば見かける。

わたしはプロジェクト・マネジメントの授業で、学生に対して、目標設定の演習として、自分の卒業論文作成プロジェクトの目標を書かせたりする。すると、
「研究活動に慣れ、装置の使い方をマスターする。分析には○○を用いるので取り扱いを慎重にして事故を起こすことなく、必要なデータを取る」
などと答える学生がいる。まことに優等生的な文言だが、これは目標だろうか? やり方、プロセスを答えてるだけではないか。

あるいは、就活プロジェクトの目標を書かせると、「会社に入社し働く」などという答えがかえってくる。これではどんな会社であれ、入社できればOKということになってしまう。どのような会社にESを出し、何を狙うかといった方向性が、目標からさっぱり出てこない。

この事情は学生に限らない。社会人相手に研修をしてみても、プロジェクトの目標設定で、例えば「納期と予算を守ること」などと答える人が少なくない。もちろん普通たいていのプロジェクトは、予算・納期・品質・Scope・法令等の制約条件を課されるものだ。だが、制約を満たすことは「必要条件」であって、目標ではない。

目標とは、成功・失敗を測る基準=Success criteriaである。それはゴールや目的とは異なる。陸上競技に出て100mを走る時、ゴール地点まで走ることは、誰だってできる。目標とは、「12秒台で走る」「自己記録を更新する」などでなければならない。これだったら、ゴールインした時に、目標を達成できたか明確に、すぐ分かる。

ふりかえりの効かない目標を設定してはいけない。終わってみて、結果をふりかえり、良かった点を伸ばし、まずかった点は改善する。こうして、人も組織も成長していく。曖昧な目標、例えば「精一杯頑張る」「事業の進展を図る」などという目標を設定すると、ゴールインした時に、達成したのかしなかったのか、議論が分かれて誰も分からなくなる。こうなると、ふりかえって考えるべきポイントを見失ってしまう。

これを避けるために、目標設定では、『SMART基準』というやり方を知っておくべきである。SMART基準とは、以下の5条件の頭文字をとったものだ。

  • Specific=具体的である
  • Measurable=計量可能である
  • Achievable=達成可能である
  • Relevant=目的に関連している
  • Time-bound=期限がある

目標は、具体的でなければならない。抽象的な「事業の進展を図る」では、何がどう進展すれば成功なのか、判然としない。また、目標は計量可能でなければならない。「精一杯頑張る」は本人の主観で、客観的に測りようがない。

さらに、目標は達成可能でなければならない。「100mを5秒台で走る」という目標を立てて、達成できる人間がいるだろうか? 不可能すぎる目標は、やる人のモチベーションを削いでしまう。また目標は、その仕事の目的に関連していなければならない。100m競走の目標を、「優勝して女の子にモテたい」にするのは、何か別の目的が混入しているだろう。

そして、目標設定は、一応の期限をつけた方がいい。まあ1年の抱負なら、必ず期限がくるはずだが。

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このSMART基準は、英国における公共サービスや公共事業において、政策評価チェックシステムであるPSA (Public Service Agreements: 公共サービス協定)で用いられる基準である。公的な資金を投入して、なんらかのサービス開発や事業を行う場合、必ず「政策評価」というチェックを実施するのが、英国のやり方である。その際の「チェック=ふりかえり」において、最初に立てた目標を検証する。だから、目標をSMARTに立てることが要求されるのだ。これがまあ、成熟した民主主義社会というものの姿なのだろう。

一年のはじまりは、望みや抱負をいだく季節である。希望とは、自分にとってより良い未来を、自分が関わって創りだしうる、という感情だ。自分の努力が関わらないこと、例えば「今年は宝くじに当たります」を、自分の目標にする人はいない。「宝くじが当たったら」という夢を見るのは、いい。ただ、その夢を見ているだけでは成長はできないのだ。

わたし達の社会で、SMART基準といった目標設定の考え方が普及していないのは、なぜなのか。これは想像だが、かつての昭和時代、多くの人にとって、目標とは抽象的な数値や基準ではなく、「ああなりたい人」の背中だった。いつかは、あの人に追いつきたい、あんな風になりたい、が目標だった。少しは近づいたかどうか、節目ごとにふりかえりも可能だった。

今の時代は、若い人(特に男子)にとって、追いかけたい「背中」が見えない。だから、ふりかえりが難しくなったのだ。

いや、社会全体で見ても、高度成長期には、欧米先進国が「追いかけたい背中」だった。それがバブル期になると「もう欧米に学ぶものなし」の有頂天になり、その後のバブル崩壊で向かう方向も見失ったのだろう。目標は、「売上の前年度維持」みたいなものになってしまった。自分の背中を、自分で追いかけているのだ。ただ、既存の市場を守ることだけが、自己目的化した。

出来上がってしまって、蟻の這い出る隙もないような業界構造、一方的で不公正な組織や慣行、そして身分制度のように固定され、公正さが望み得ない社会では、誰が希望を持ちうるだろうか。今、わたし達の社会で足りないのは、将来の人口数ではない。将来の望み、ビジョンが足りないのだ。

たとえ経済的に豊かでも、希望を持ち得ないコミュニティの中では、人間は孤独になる。自分しか信じるものがなくなってしまうからだ。そうした殺伐とした社会は、この地球を見渡すと、確かに存在する。わたし達の社会がそんな状態に陥るのを防ぐためには、人は変わりうるし、組織も成長しうることを、やはり示さなければならない。

つい大げさなことを書いたが、わたし自身も、今年はまた、少し技術的なスキルを学び直そうと思っている。ま、なんとかの手習いだが(笑)。それは昨年末に発表した、勤務先の長期的なビジョンとも関わっている。

海図は引いた。だが船出はこれからだ。年明けの今こそ、望みを自分の中に持ち直すときである。


<関連エントリ>
 →「今年の抱負はこう作ろう」 https://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)
 →「“仕事が面白くない”症候群とたたかう三つの方法」 https://brevis.exblog.jp/23726856/ (2015-09-30)


# by Tomoichi_Sato | 2019-01-07 22:36 | ビジネス | Comments(0)

クリスマス・メッセージ: 序列でも競争でもなく

Merry Christmas!


大学を出て随分経つのに、入学式のことを、不思議と今でも覚えている。当時は、学内にあった講堂が事情で使えず、学外の大きな会場を借りて行っていた。わたしたち新入生が神妙な顔で並んでいる前を、まず学部長達が入ってきて、ステージ上に並んだ椅子に順に腰掛けていった。そして最後に、学長が入ってきて、「新入生諸君!」といった感じで、訓示が始まる。

わたしの入った大学はマンモス校というか総合大学で、学部は全部で10あった。ところで、司会者が学部長を端から紹介したのだが、その順番が奇妙だった。まず法学部、次に医学部、さらに工学部、そして文学部・・といった風なのだ。文系・理系の区別でもないし、もちろん入試枠の順番でもない。何なんだ、この順番は? と不思議だった。

その順番の意味が分かったのは、入学式からずっと後のことだった。そこの大学では、学部の偉さの順位というものが、なぜか決まっているのだ。一番偉いのが法学部で、次が医学部、三番目が工学部・・ということで、学部長はその序列にしたがって、式典に並ぶしきたりになっている。だが、なぜ法学部がトップなのか、理由はよく分からなかった。一番新しくできた教育学部とか薬学部が最も下位らしいので、できた順番か、とも思ったが、必ずしもそうでもないらしい。

わたしはそれまで、学問なんてみな対等で、別段、学部に上下などないのだと信じ切っていた。だが、その大学では、違っているらしかった。少なくとも、下位の学部からは、学長を出せないのだそうだ。学長は選挙で決まるはずだ。だが、選挙に立てないし、もし立っても当選できないのだと聞いた。

まあ、これは昭和時代のことだ。今では事情は、まったく変わっているのだろう。変わっているだろうと思いたい。でも、つい今しがた、念のため大学のHPをのぞいたら、学部紹介の順番は相変わらず法医工文理・・という順番だった。ま、何というか、伝統に忠実な(あるいは因習に固陋する)立派な組織ではある。

ついでにいうと、その大学では学長を「総長」と呼んでいた。私立のマンモス校ではおなじみの呼称である。ところが、公立・国立では、学長ではなく総長と呼べるのは、たった2校のみと決まっているらしかった。さらにいうと、国公立大学で、法学部を持てるのは旧帝大のみ、ということも知った。なぜあちこちの都道府県に、法律を学ぶ場所を設置しないのか、わたしは理系だったが、不思議に思った。

しかし、大学間には、そうした「」というものが、厳然と存在するのだ。そして、大学内にも、学部間で、やはり「格」だとか偉さの順番という序列が、見えない形で生きている。

社会に出てからも、この国には、目に見えない序列と規制の網の目が張り巡らされていることを、次第に実感するようになった。やっかいなことに、こうした序列や規制は明文化されていないか、されていても目立たぬところに書かれているらしい。何も知らぬ新人は、壁にぶち当たって痛い目に遭わないと学べない。いや、この歳になってからも、まだわたしはいろいろな序列の存在に驚かされている。

たとえば経団連の会長には、製造業の社長でないと、なれないのだそうだ。なぜ金融や通信や不動産ではいけないのか、わたしは知らない。いや、これだけ激変の時代なのだから、どんな業種だろうと、ビジョンと力量のある企業が会長になってリードすればいいじゃないかと考えるのだが、財界はそう考えないらしい。

あるいは、最近、小説を読んでいたら、「東京地検特捜部は、検察の中のエリート集団だ。だから彼らがいったん狙いをつけた案件は、必ず有罪に持ち込む」という記述があって、驚いた。別に最近の某有名外国人経営者の逮捕事件を連想して驚いたのではない。わたしは愚かにも、東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、地域である以上は、対等だろうと思っていたのだ。でも、たぶん作家の方が正しい。最も優秀な「エリート」は、なぜか東京に配属されるのだ。

きっと似たような事情は、全国の地域をまたがる組織群には、陰に陽に存在しているにちがいない。電力会社も、鉄道会社も、たぶんガス会社も、みんな東京が序列の一番トップにいるのだろう。言われてみれば、そういう兆候をなんとなく見聞きしたように思う。東京の組織で功成り名を遂げた人は、地方の組織に天下ったりする。だいたい、東京以外をまとめて「地方」と呼ぶのはなぜなんだ。

わたし自身は東京の郊外の生まれだが、東京が全国で一番偉いという感覚はない。北海道だろうが四国だろうが、地域はみんな対等だと思っていた。今は横浜市民だが、もちろん横浜は東京と対等と思っている。でも、わたし達の社会では、東京がデフォルトで偉さの序列のトップにくるらしい。わたしは自分の間抜けさを思い知らされた気がした。

もう一つ言おうか。自分が中小企業診断士のはしくれだから感じるのかも知れないが、わたし達の社会では、「大企業」と「中小・零細」では、単なる実力の差以上に、ハンディキャップがのしかかっている。銀行の金利であれ、機械の保守費であれ、中小零細は大手の倍以上の負担を迫られる。販売ルートの確保にいたっては、言うまでもない。大手はいつまでも大手で、中小企業はいつまでも中小、というのが社会のデフォルトの想定なのだ。

それにしても、この、目に見えない位階というか序列というものは、何なのだろうか? なぜ、このような不合理なしきたりが、平成も終わろうとしている21世紀のわたし達の社会に生きているのだろうか。

それで急に思いだしたことがある。何年も前のことだ。勤務先のある優秀な中堅の人に、「なぜ出身のX県ではなく、ウチのような横浜の会社に就職したの?」とたずねたことがあった。懇親会の席上で、軽い話題のつもりだった。彼の出身地・X県は、豊かで立派な産業があり、気候も温和な、良いところだ。だが、彼の答えは意表を突くものだった。「X県は、いまだに江戸時代なんです。だから、どうしても県外で就職したかった。」というのだ。

江戸時代? どういうこと!? そうたずねると、彼は答えた。ーーX県では、江戸時代の士農工商みたいに、あらゆる会社の順位が決まっているんです。X県で他を圧倒する大企業の○○社があり、それの系列会社や販売代理店やさまざまな周辺企業が、順にランクづけされています。町内会や地域行事も、いろんな会社がランクごとに援助しています。それだけではなく、お父さんの勤務先や職位によって、奥さんや子ども達さえも、微妙にランク付けされるんです。

○○社を頂点とした序列が、社会生活の隅々まで覆っているのがX県だ。彼はその息苦しさに耐えられなかったと言う。

わたしは噂に漏れ聞いた○○社の内情を思い出した。定年退職した工場の技能者は、その人の生涯の成績が最上位だと、会社から家まで、高級車で送ってもらえる。次のランクの人は、車で最寄りの駅まで送ってくれる。さらにその下のランクは・・定年退職で工場の門を出るときまで、処遇の差が見える化されているのだ。そして同じ企業内でも、激しい工場間・部門間の競争があり、社内競争でボーナスも決まる。

それがどうした。競争社会とはそういうものじゃないか。そんな声もきこえそうだ。たしかにそうかもしれない。だが、それと、X県の(あるいは○○社の系列の)会社間に、まるでどこぞの大学の学部のように、見えない序列があることと、どう両立するのか。どの職位の管理職が、どこの会社に天下りするかみたいなことが、格付けで決まっているのも奇妙ではないか。企業というのは、努力して伸びたら業界の上に行けるものではないのか? わたし達の社会の競争原理というのは、どこかで何かが歪んでいないか。

競争こそ、世の中を進歩させる原動力だ、という信念は強い。たしかに、人に勝ちたい、負けたくないという気持ちは、たいていの人の心の中にある。そして、とりあえず競争に勝ってきた人間は、競争の意味を疑わない。学歴競争や実力競争で勝ち残ってきた人ほど、その擁護者になる。だからメディアでも学識経験者でも、競争礼賛的な言論が流通しやすい。

だが、わたし達の社会の競争原理には、どこか寸足らずのところがある。大きな枠組みでは、すでにエレベーターのように、高層階行き、中層階行きと出発時点で決まっていて、ひっくり返せない。そしてエレベーターの箱の中で、どんぐりの背比べみたいに、互いに競争している。

このような社会では、小勝負に長けた人は出ても、大勝負に挑む人びとは出にくい。大きな勝負は、すでに枠組みで序列が決まっているからだ。

小勝負の方は、土俵もルールも勝敗の評価基準も、上から与えられている。こうした仕組みは、与えられた目標、命じられた事だけを必死に実行する人間だけが勝ち残りやすい。つまり兵卒や下士官だけを、輩出する事になる。一方、エリート層はエリート層で、彼らの小さな箱の中で競争させられ、勝った負けたといって、大多数が挫折感だの劣等感だのを抱き続ける。くだらぬことである。

そして、何よりもっともまずい事は、協力のためのコミュニティが育ちにくい点だ。

著名な経営学者ミンツバーグが来日したとき、講演で彼は、アメリカの経営学はリーダーシップを強調しすぎてきた、今大切なのは、職場における「コミュニティシップ」だ、と提起していた(Community-shipというのは彼の造語で、通常の英語辞書にはない)。コミュニティがないと、共通の知恵を蓄積することができない。本当の創造的アイデアも、品質の高い議論のスキルも、育ちにくい。もちろん個人個人の自律性も。

工場間の競争でボーナスが左右される上記の会社を、思い出してほしい。たぶん優れた技術的工夫は、改善大会で表彰され共有されていくのだろう。だが、その時までは共有されない。それどころか、マクロな業務プロセスは、工場ごとにバラバラだったりする(これは納入するSIerから聞いた)。業務プロセスにこそ、共通した管理技術が活きるのだが、部門が互いに競争していたら、標準化・共通知化など進む訳がない。

わたし達が生きているのは、苛烈な競争のみが支配するアメリカ社会とも違う。序列意識のスキマに競争原理が導入された、珍妙な社会である。序列の中でのみ、競争が行われる。

そうした序列は、しかし、いつまでも永続的なものではない。海外との競争にさらされると、いきなり危機を迎えるのだ。江戸時代にずっと続いた、「親藩>譜代>外様」の序列は、黒船の到来でいきなり崩壊した。外敵への対応能力は、序列と関係ない事が明らかになったからだ。

大学の序列も、似ている。国内で最高だと自負していた大学も、世界でのランキングでは10位にも入らないので、どぎまぎしている。(そんな海外のランキングなどくだらないことだ、自分たちは我が道を進む、と主張するなら見所もあるが、外部から競争尺度を与えられると、それを無視できないのが彼らの常だ)

こうした価値の転換に備えるには、横のつながりによるコミュニティに優るものはないと思う。異なる視点と経験を持った者同士が、対等に議論できる場。コミュニティという場は、原則として、お互いが対等な仲間が集って作り上げるものである。対等とは、互いに権利を主張し合えることだ。

アメリカとバヌアツは、国際社会では対等である。対等に、権利を主張し合える。むろん、対等であることと、結果として平等であることとは違う。この世は残念ながら、なにかと不平等にできている。いうまでもなく、アメリカは比較にならぬほど、強大なパワーを持っている。

ただし、不平等社会でパワーを持つ者は、そのために重い義務も背負っている。権利と義務は秤で釣り合っている、というのが対等の原理だからだ。逆に、労苦は下の階層の者が背負うべき、というのが序列の原理である。それが江戸時代の、士農工商の論理だった。序列社会に競争原理を持ち込んだ、木に竹を接いだような社会に、どうして活力が生まれるだろうか? みんながレミングのように同じ価値観と方向性で進んでいくのは、滅びに至る道である。

滅びに至る門は広く、そこから入るものは多い」と、かつて2千年前の賢者は言った。彼の生まれた中東の地では、都市は城壁で囲まれ、そこには大きな門があって、その脇に小さな通用門のような入口がついていたらしい。大きな門は、王侯や軍隊が入城するときの門である。下級市民は、小さな門を入った。

だが彼は、あえて、命を得たければ狭い門から入れ、と説いた。天の下で、あらゆる人間は対等だと、彼は信じていたからだ。

また彼は、去る前に、心を一つにした人が「二人あるいは三人集まるところには、わたしのその中にいる」という意味の言葉を残していった。彼は共同体というものに、信頼を置いていたのだ。

与えられた序列と尺度で走るだけ、与えられたことを実行するだけの生き方は、もう卒業すべきだ。小さな勝負はできるけど、大きな勝負はできない人では、小さな改善はできるが、大きな刷新は難しい。わたし達の社会はそろそろ、そういう刷新の時期なのだ。世の中がひと時、戦火を閉じて平穏になるこの季節、本当に何をなすべきかを、既成の秩序は忘れて、静かに想いをめぐらすときが来ている。


そして、どうか読者の皆さんの上にも、平和なクリスマスがありますように。



# by Tomoichi_Sato | 2018-12-24 17:30 | 考えるヒント | Comments(0)

ひとはなぜ、同じ話を繰り返すのか

10代の頃読んだスタインベックの短編に、同じ話を孫たちに何度も繰り返すお爺さんの物語があった。西部開拓時代の生き残りであるこの老人は、駅馬車がインデアンの攻撃にあった時、どう防ぐかという持論を、たまに会う息子や孫に、繰り返しするのだった。

年寄りはなぜ、誰に何を話したかを、覚えていないのだろう? 10代の頃は、そう思った。さて、それから長い月日がたって、自分が《若い衆》に何か話す側になると、なんだか同じ話を何回もしているような気がする。

とくに、大学で授業を持つようになってからは、その印象が強くなっている。まあ、いたし方ない面もあるが、「この話、前にもしたな」と感じる。それがいやなので、講義内容は毎年少しずつバージョンアップするようにしているが、それでも部分的である。

それにしても、人はなぜ、同じ話を繰り返すのか? 一番単純な理由は、「誰にどの話をしたか」を覚えきれないからである。そんな単純なことを、なぜ覚えきれないのか。答えは、「そんな簡単」なことではないからだろう。

例えば、自分に5人の友達がいるとしよう。そして、皆に伝えたい話題を、4つ持っていたとする。すると、誰に何を話したかは、5行4列の、簡単な表で表すことができる。縦に並ぶ行は、それぞれの友達だ。横には、話題を表す列が並ぶ。友達2に話題3を話したら、2行3列目に、チェックマークを入れる。

さて、この表というかマトリクスは、全部で何パターン、あるだろうか?

答えは簡単だ。表の各マス目は、空欄かチェック済みかの2つの状態を持つ。マス目は全部で20個あり、お互い独立に変化しうる。ということは、このマトリクスは、

2の(5×4)乗 = 2の20乗 ≒ 100万個

のバリエーションがあるわけだ。自分はこの100万個の中から、一つの状態を覚えておかなければならない。

では、自分が少し成長して、友達は6人、話題を5つ、持っているとしよう。すると今度はが、5かける6で30個のマス目を持つマトリクスが必要になる。このマトリクスがあり得るパターンは、

2の(5×6)乗 = 2の30乗 ≒ 10億個(!)

になる。あなたはこの中の一つを、覚えておかなければならない。これは、思ったほどたやすい仕事ではないことが、分かるだろう。実際には、マトリクスは連続的に成長していく(友達は入れ替わるし話題も賞味期限がある)から、パターン数は絞られるけれども、なかなかややこしい。

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であるからして、大人になると、誰に何を話したかなんて、「いちいち覚えちゃあ、いられないんだぞ、小僧!」ということに、あいなる。年長の大人が何回も同じ話をして、なおかつ威張っているのは、このためなのである。少なくとも、半分は。


半分は、と書いたのは、残り半分には、別の理由があるからだ。大人は、分かっていて、同じ話を繰り返すことがある。

例えばわたしは、大学の授業の中で、「マネジメントとは、人を動かすこと」「人に働いてもらって、共通の目的を達成することである」という話を、日を変え場面を変えて、5、6回は繰り返してしゃべる。東大の大学院生など、一回聞けば忘れずに覚えるタイプの人が多いけど、それでも、「マネジメントは多義語だが、その中核にある意味は『人を動かす』という事です」としつこく語り続ける。

なぜなら、しつこくなければ全員に伝わらない、からである。授業というのは、基本的なことは全員に理解してもらわないといけない。プロジェクト・マネジメントの授業では試験はしないが、仮に試験をしたとしたら、基本部分は全員が満点を取れるようにするのが、教育である。試験結果で差がつくのは、教育の本義ではない。品質検査をしたら全品が良品である、というのが製造の目標であるように、全員に理解させるのが教育であろう。

実際のプロジェクトでも、大事なことは繰り返し、皆に伝えないと徹底されない。

目的や方針や指示を、末端まで徹底すること。そのために、メンバーに繰り返し伝えること。それが数人の小規模プロジェクトでも、数百人の大規模プロジェクトでも、本質的な部分は変わらない。

ただ組織が大きくなるほど、難しくなるのは道理だ。だから、たとえばプロマネは部下のリーダークラスに指示を出したら、さらに一階層下のメンバーにちゃんと伝わっているか、自分で確認したりする。たとえ部下たちが「前にも聞いた」「耳タコだ」などと感じても、伝えなければならない。マネジメントが「人に働いてもらう」ことである以上、指示を徹底することはプロジェクト・マネジメントの生命線だからだ。

これはたとえば、噂に聞くトヨタのしつこさ、にも通じる。自動車生産の系列は巨大だから、その末端まで思想を浸透させようとすると、たしかに同じ話を何度も繰り返すことになる。以前紹介した、フランス人作家パレの小説「ザ・ジャストインタイム」の中に、それを物語るジョークがあった。トヨタ生産方式では、在庫量を湖の水位にたとえ、水位を減らせば隠れていた岩(問題)が見えてくる、という話をよくする。ところが、あまりにもこのたとえ話を何度も聞かされるので、

「ペルーでフランス人と日本人とアメリカ人が工場を建てようようとしていた。だがゲリラに捕まって人質にされ、資本主義の手先だから銃殺すると言われた。ゲリラは3人に、最後の言葉を残すことを許した。フランス人は『フランス万歳!』と叫んで撃たれた。次は日本人の番で、『では湖と岩について話したいと』言った。その途端にアメリカ人が飛び出してきて、銃口の前でシャツの胸をはだけて叫んだ。『湖と岩の話をもう一度聞かされるくらいなら、先に撃ってくれ!』」(p.264)

という訳である。

トヨタ生産方式なら、一応そこに理屈があるわけだが、理屈抜きにそれを繰り返し聞かされるとなると、もはや宗教の領域であろう。それこそ同じ祝詞やら念仏を、1千回、いや百万遍くりかえす、というのは、マントラを深層心理に植え付ける効果があるに違いない。

ただしまあ、ずっと何度も繰り返すだけというのは、伝達の手段としては芸のない話だ。人に何かを理解してもらいたいのなら、むしろ、その内容を他の人に伝えさせる、という方がずっと有効である。人に教えには、自分が理解していないとならない。だから人に教えさせるのが、一番勉強になる。つまり間接教育である。

それにしても、同じ話を何度しても、相手に全く伝わらない場合も、けっこうある。つまり、相手に「聞く耳がない」という事態である。とくに相手が、思い込みの強い人だったり、「信念の人」だったり、あるいは年配者だったりする場合である。こういう人達は、ひとのいうことをあまり聞かない。むしろ逆に、自分たちは同じ話(彼らの持論)を、何度もしたがる。こういう人達も社会には一定数いるので、つき合い方を考えなければならない。

そして、こういう人に出会うたびに、なんとなくわたしは「コミュニケーション伝導度」の測定器が発明されればいいのに、と思ったりする。コミュニケーション伝導度とは、熱伝導率と電気伝導度などと類似の概念で、

[相手の理解の増加量] = [コミュニケーション伝導度] × [自分の理解度 — 相手の理解度]

によって定義される量だ。コミュニケーションとは基本的に、ある事実や思考について、理解のギャップを埋める行為である。自分と相手の理解度の差が、いわば差圧というか、Driving forceになる。そして、相手のコミュニケーション伝導度が高ければ、こちらの話す情報が、相手にすっと入っていく。伝導度が低いと、何度話しても伝わらない。

なので、相手の伝導度が0.3だと分かれば、(うーむ、この相手には3回以上、同じ話を繰り返さないと伝わらないな)といった判断ができるようになる。0.5なら、2回ですむ。もちろん、理想的な聞き手の伝導度は1である。一度いえば、なんでも100%すっと理解してくれる。伝導度ゼロの人は、何を言っても決して受け付けてくれない。話すだけ時間のムダである。

これを測定するスマホアプリができたら便利だろうな。誰か発明してくれないものか。

ただ、言うまでもないが、こうした伝導度というのは、相手だけでなく、話題の種類に依存する。誰だって、自分が聞きたい話に対しては、伝導度が高くなり、聞きたくない情報に対しては低くなる。そして、こちらの話し方にも依存する。だからこそ、「伝え方のテクニック」というものが存在するのだ。

拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』にも書いたとおり、わたしは、「発信者責任の原則」が、世界のビジネス上のコミュニケーションにおけるデフォルト標準だと考えている。情報を伝えるのは、発信者の責任である。だから話し手は、相手が理解したかどうかを確認し、伝わるまで繰り返し話すべきだし、あるいは伝え方を工夫していくべきだ、と考えている。

あいにくわたし達の社会におけるデフォルトは、「受信者責任の原則」である。教師が教壇から何かしゃべったら、生徒はそれを聞き漏らしてはならない。理解できないのは、生徒の側に責任があり、だから試験で罰せられるべきだ、となる。分からないのは、分からない奴がバカだ、という論理である。講演をしても、質問の時間に皆、あまり手を上げない。質問するのは理解できなかったことを意味し、それは頭の悪い証拠だ、となるからだろう。

わたし達はそろそろ、こうした上意下達型の論理から卒業すべき時が来ている。むしろ、現場の側から、マネジメントに対して、いろいろな不便や問題点を伝える必要のある時代なのだ。そうした話は、管理者の側にはたいてい都合の悪い話題なので、伝導度が低く、そう簡単には伝わらない。だが、正しい情報が上がってきてこそ、マネジメントは適切な判断ができるのだ。である以上、わたし達は、繰り返し伝える勇気も持たなければならないことになる。


<関連エントリ>
 →「書評:『ザ・ジャストインタイム』 フレディ・パレ&マイケル・パレ 著」 https://brevis.exblog.jp/22515622/ (2014-10-26)
 →「プロジェクト・コミュニケーションのベーシック 〜 情報のトレーサビリティを確立する」 https://brevis.exblog.jp/24679751/ (2016-09-25)



# by Tomoichi_Sato | 2018-12-17 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)

なぜエレベーターは(そして仕事も)、一度にまとまって来るのか

デパートに買い物に行った。行きたい階は、上の方だったから(なぜ男性用のフロアはいつも上階にあるのだ)、エスカレーターだと時間がかかって面倒そうだ。エレベーターにしよう、と決めた。ところがエレベーターの所に行って待っていても、なかなか来ない。しまった、これならエスカレーターの方が早かったか、と思う。

とくにイライラしたのは、3台並んでいるエレベーターが、みな同じような階を同じ向きで動いていることだった。自分は1階にいて、6階にいきたいと思っている。ところが数台あるエレベーターは、皆なぜか、8階あたりを上に向かって進行中だ。何だこりゃ。もっとばらけて動いていたら、待たずにすむのに、と思う。

なぜ、エレベーターというのは、複数台あっても同じような動きをしていて、来ないときはずっと待たせ、来るときは一度にまとまってくるのか?

オフィスビルでも、エレベーターの待ち時間は、たぶん似たような状況にある。あるはずだ、と思う。ただ断定できないのは、最近のオフィスビルのエレベーターでは、どの階にいてどちらに動いているのかを表示せず、単に近くまで来たらランプで知らせるような仕組みが多いためだ。各エレベーターの位置や動きを表示しないのは、それを表示すると利用者がかえってイライラするからだ、と聞いたことがある。
(デパートが現在位置を表示しているのは、逆にたぶん顧客サービスの観点なのだろう。)

それにしても、エレベーターが団子のように固まって動くと、どういう状態が生じるのか? ようやく来たエレベーターに乗り込んでから、あらためて考えてみた。たとえば1分に1台ずつ来る場合と、3分に3台がまとめてくる場合の、待ち時間を比べてみよう。前者では最大待ち時間が1分なのに、後者では最大3分待たされる。そのため、エレベーターホールに並んで待つ人数が、どうしても増えてしまう。つまり、いったん団子運転の状態が生じると、待ち時間にムラが生じるのだ。

では、待っている人数が増えると、どうなるか。当然、乗り降りに余計な時間がかかることになる。すると、エレベーターが階と階の間を移動する平均速度が、どうしても遅くなってしまう。そして、さらに待ちの人数が増えることになる。悪循環である。別にここで待ち行列理論など持ち出すつもりはないが、結局、ある限度まで人数が増えたところで、平衡点に達する。その人数は、平均的に分散して動いているときよりも、ずっと多くなる。

なぜ、エレベーターは適度に分散して動かず、団子になってしまうのか? これは、よく考えてみると当然の理由がある。たとえば、複数台のエレベーターが、同じ方向を、一定間隔をおいて動いている状態を想像してみよう。さて、進行方向の先の階に、利用者がいて、ボタンを押して呼んだとする。すると、その階に一番近い箱が、止まってその客を拾うはずだ。

するとどうなるか。先頭の箱(ちなみに、英語ではエレベーターの箱のことをCarと呼ぶ)は、利用者を乗せるため、平均の移動スピードが、他の箱よりも遅くなる。たくさん乗客を乗せた箱は、降りるために止まる階も増えるだろう。各階停車になりがちだ。他方、一群で動いている最後の箱は、平均よりも速いスピードで移動する。なぜなら、ほとんどの利用者を、前に走っている箱たちが拾ってくれるからだ。

集団で移動する群れにおいて、先頭が遅く、後尾が早くなったら、団子状態が生じるのは当たり前である。だからエレベーターは、はじめは均等に動き出しても、次第に団子運転に陥っていくのだ。
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いったん団子ができると、利用者の到着がかなり減るまでは、解消しにくい。エレベーターには追い越しもあるが、追い越して先頭に行った箱は、やはり乗降客を先に拾うので遅くなる。満員通過もあるが、利用者の降りる階は通過できない。だから混んでいると各駅停車になりやすい。

そして、これと同じ事が、わたし達の仕事でも起きているはずだと、気がついた。

仕事というのは、なぜか知らないが、しばしばまとまって、やってくる。忙しいときに限って、さらに依頼だの注文だのトラブルだのが舞い込んでくるのだ。そして、これが、わたし達の仕事を、いっそう非効率で、ややこしいものにしている。

わかりやすいように、工場の例で考えてみる。建物のエレベーターではなく、工場の機械を想像しよう。機械は別に、階を移動したりはしない。しかし、かわりに、時間のなかを移動する、と考えてみる。1階ずつではなく、1日とか1時間という単位(タイム・バケット)ごとに、動いていく、と。載せるのは、利用者ではなく、加工対象のワークである。そのワークごとに、所要時間(=移動日数)が決まっていく。ちょうど利用者ごとに行き先の階が決まっているように。

ただ、エレベーターとは違い、別々の客(=異なる種類の品目)を混載することは、普通ない。だから機械の処理速度自体は、どれだけ注文が混み合って、その機械の前に未加工品の在庫の列が並んでいようと、変わらない、と思われている。いや、セットアップ・タイム(段取り時間)を考えれば、ロット数が大きいほど、むしろ全体の効率が上がるはずだ、と。

ところが、工場をよく観察していると、加工待ちの行列が増えるほど、機械の平均的な処理速度が落ちていく現象が、しばしば観察される。その主な理由は、モノ探しである。手前の行列が増えるほど、次に加工すべきワークの所在が分かりにくくなるからだ。加工速度は変わらなくても、セットアップ・タイムが長くなってしまうのだ。

とくに、個別性の高い多品種の組立加工をしている場合(今の日本ではたいていそうだが)、それに必要な部品が全部そろっていなかったり、ツールや金型を待ったりする可能性が増える。しかたなしに、製造順序を入れ替えて、別のワークを探しに行かなければならない。現場の製造順序が入れ替わると、下流工程や出荷日にまで影響が及ぶ。だから社内外の調整作業も発生する。本来そんな作業は不要だったはずなのに、余計な仕事が増えるのだ。

おまけに、機械も人もフル稼働が続くと、どうしても疲労や故障も起きやすい。忙しいプロジェクトの追い込み時期に限って、キーパーソンが倒れたり現場で事故が起こったりするのも、よく見聞きする話ではないか。

機械ではなく、人間が頭脳労働だけを担うホワイトカラー的職種も、じつは似たような事が起きる。人間だって、マルチに案件を抱えると、どうしても頭の切替えのために、一時的に集中度が落ちる。これは心理学的実験でも明らかだ。それに受注した仕事量が増えると、どうしても優先順位の判断だとか、日程の入れ替えのための調整時間が増える。

人が足りないから、他から人を入れて増員することもよくある。だが、そうすると、増員された人がその案件の状況を理解するまでの、学習時間がかかる。キャッチアップするまでの間、当然ながらその人の生産性は、最初から関わっていたときよりも落ちる。こうしたことが、仕事の繁忙に伴う、生産性の低下である。

仕事量が増えて忙しいと、平均的な生産性が下がる。でも仕事量が減ってある程度余裕ができると、処理スピードが上がる。だったら、職場全体では、適正な速度にバランスするのではないか、と思いたくなる。

ところが、そうはならないのだ。現在の原価計算では、工場の稼働率が下がると、機械の1時間あたりのコスト(賃率)が上がるしかけになっている。SIerや建設業など、受注産業では同じ事情だ。つまり、同じ仕事でも見積金額が上がるのだ。上がったら、コスト競争力が下がって、仕事がとれなくなる。

仮に賃率が据え置かれたとしても、会社というのは受注量が減ると、注文を取ろうとして、見積案件数を増やしていく。見積自体は、金にならない。だから大してヒマにならないのに、生産性(付加価値労働生産性=労働時間あたりのスループット)は下がっていく。

仕事については、もう一つの要因も考えられる。それは、繁盛している店には客が殺到し、閑散とした店は客が敬遠する、という事情だ。行列がさらに行列を呼ぶ、といってもいい。コンサルタントなども、満足した顧客による評判が、さらに顧客を集め、逆に評判の乏しい所には、あまり顧客が集まらない。つまり顧客の側に同調作用が働くのだ。株価は上がるとそれを買う人が集まってますます上がり、下がると離れる人が増えてますます下がるのと、同じ理屈だ。同調作用は、不安定性と偏りによる波を生む。

このような波が生じると、当然ながらその波は、さらに発注先の企業や業種に伝播していく。セットメーカーに波があれば、部品メーカーにも波が及ぶ。サプライチェーン全体に波が伝わっていくのだ。しかもこの波は、ブルウィップ現象によって、しばしば増幅されていく。

世の中には、「シリコン・サイクル」だとか「エチレン・サイクル」などの、業界別の設備投資の数年単位の波が観察される。こうした波も、似たようなメカニズムで生じているのかも知れない。そうでなくても、もっと細かな波は、あるいは需要の「団子現象」は、あちこちで起きやすいのだ。

こうした波の存在は、企業全体の、いや、業界全体の生産性を損なっている。波がひどすぎると、企業経営者は、人件費を固定費から変動費に切り替えたいと考えるから、派遣労働者に頼る比率が増えていく。そうなると雇用環境が不安定になって、ますます実質賃金が下がり、消費が冷え込んでいく。すると需要が下がって・・

それでは、どうしたら良いのか?

エレベーターの話に戻そう。世の中には、「AIで制御すればいいじゃないか」と、何でもAIで解決するかのように思う人もいるだろうが、そうではない。この問題の本質は、「先行する箱が、待っているすべての乗客をサービスしようとするため、平均移動スピードが下がる」「後続する箱は、客が少ないから、早く移動できる」という問題にある。この原則がある限り、AIでも団子運転はどうにもならない。

したがって、先着の箱が「すべての客をサービスする」ことをやめない限り、解決はないことが分かる。

答えは簡単である。一度に乗り降りする客数を制限して、移動速度を平均化するのだ。そんなことをしたら乗れなかったお客が怒って大変だぞ、と思うかもしれない。そこで、乗降客を、行き先の階ごとにまとめて、一つの箱に乗ってもらうよう誘導する方法が考えられる。行き先別に、2-4階、5-7階、8-10階、という風にグルーピングし、箱にもそう表示するのだ。

ただしこの場合は、エレベーターホールの上下リクエスト・ボタンを、箱ごとに個別に設定する必要がある。事実、最近のオフィスビルでは、上下ボタンではなく階別にボタンが並んでいて、自分の行き先階を個別に押すタイプも出てきている。

もっとも、この方法はハードの改造が必要だ。それがムリな場合は、人が制御するしかない。つまり、一昔前の、エレベーターガールの復活である(別にボーイでもいいが)。とにかく、意思を持って、需要量をコントロールするしかない。「恐れ入りますが、次のエレベーターをお待ち下さい」という必要がある。

では、仕事は? 仕事についても、実は同じだ。自分の適正な能力を超えて、仕事を取り過ぎないようにしなければならない。だが、たいていの企業にとって、これはとても難しい。営業部門は受注高で目標管理するのがつねだし、経営者もできる限り売上を増大して株主にアピールしたい。多くの企業にとって、自社の実際的な遂行キャパシティは、数値的によく見えていない。だから、過剰な受注でも「気合いと根性」で何とかできると思いがちだ。

ところで以前も書いたように、トヨタ生産方式の人達は、「ムラがあるからムリをする。ムリをするから、ムダがでる」という言い方で、仕事量のムラが様々な問題の根本原因と考えている。だからこそ、あれほどトヨタは平準化生産にこだわるのである。

多品種の場合も、品種ごとに数量を固めて作りだめをするのではなく、あえて数量を期間内に一定に散らして指示を出す。営業部門に対しても、平準化した受注ができれば、どれだけ工場は作りやすいかを、トヨタでは教育する。

営業部門が、平準化も何も考えずに、ただ客のいうとおり仕事を取ってきて、特急注文も変更も右から左に技術部門や工場に回すような企業では、波は防げない。だから、自社のキャパシティを、営業と技術部門とで可視化して共有するような仕組みが必要だ。それはたとえば、製造業における「生産座席予約」のような仕組みである。

と同時に、逆に、自社の波を、サプライヤーに波及させない工夫も必要だ。サプライヤーに波をかぶせると、相手の生産性を下げるわけだから、結局は高い買い物をすることになる。それよりもむしろ、自社で原材料の在庫をある程度抱えて、サプライヤーには平準化した一定量を発注するようにした方が、賢いということになる。今、あちこちの会社がやっている「JIT納品の押しつけ」とは、反対のことをやる訳だ。

「そんなことをしたら、自社だけが変動のリスクをかぶることになる」という意見が出そうだ。あらゆることを変動費化して、すべてのリスクを他者にヘッジするという、現代流の経営思想には、あまりマッチしない。外資系コンサルなどからも、賛同は得られまい。

だが、サプライチェーンの中では、自らがリスクに身をさらして、需給を調整する機能を持つところが、結局はパワーを得る。それが、サプライチェーンの原理である。団子になったエレベーター群で、誰が一番先に乗り込むか競争するよりも、団子にならないエレベーター操業を考えて守る方が、わたしは賢いと思うのだ。


<関連エントリ>
 →「とれるだけ仕事をとってはいけない」 https://brevis.exblog.jp/22850999/ (2015-03-03)
 →「ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?」 https://brevis.exblog.jp/25029784/ (2016-12-09)
 →「BtoB企業とサプライチェーンの強者 ~これから就活をする大学3年生へ」 https://brevis.exblog.jp/19283044/ (2012-11-28)


# by Tomoichi_Sato | 2018-12-05 23:18 | サプライチェーン | Comments(1)

マネジメント的な認知症を防ぐ

何年か前、まだ肌寒い季節の夕方のことだったと記憶している。車で隣町を移動していると、ふと、助手席にいた連れ合いが、道端を指さして、「あの女の人、さっきもあのあたりを歩いていなかった?」といった。見ると、高齢の女性がぼんやりした様子で立っていたが、パジャマのような衣類の上に、薄いカーディガンを羽織っているだけで、足元はスリッパだった。

わたし達は車を止めて、その女性に声をかけてみることにした。すると、こちらが何か言う前に、女性の方から「あの、○○さんの車じゃありません?」と問いかけられた。
「いえ、○○さんという方は知りませんが、どなたかお待ちなんですか」とわたしは答えた。
「日曜日の朝は、弟が車で迎えに来てくれる筈なんですが、その車かと思いまして」と老婦人は答える。

もちろん、今は日曜の朝ではない。連れ合いと顔を見合わせて、ともあれ、その女性を車に乗せることにした。いわゆる徘徊老人なのかも知れないと思ったからだ。

「寒いでしょうからお宅までお送りしますよ。どちらにお住まいですか?」とたずねた。すると、丘を一つ越えたあたりの住所らしきものを答える。「ご親切にどうもすみません」と、その老婦人は品良くこたえる。そして、この辺りにはもう20年も住んでいる、という。車内でおしゃべりをしながら、その住所の近くに来たら、「ここでいいからおろして下さい。後は歩けますから」という。なんとも心配だったが、言い張るので結局、その女性をおろしてあげた。

帰り道、連れ合いとわたしは、その女性との対話について語り合った。言葉遣いは丁寧で、よどみなくすらすらと受け答えし、ちゃんとした会話になっていたように聞こえる。だが、よく考えてみると、住んでいる年数をはじめ、つじつまが合わない。何より、衣服などから見て、どこか施設から飛び出してさ迷っていたようにも思える。たとえ嫌がったとしても、警察に送り届けるべきだったかもしれない。

それから数日後、わたし達は、一人暮らしをしていた母のもとをたずねた。母はすでに高齢だったが、亡くなるまでずっと、頭はちゃんとしていた。その母が、何かTV番組を見たらしく、こんなことを言い出した。

「認知症になると、ものごとの全体をつなげて考えられなくなるみたいね。たとえば冷蔵庫の中にある材料を使って、今夜の献立を一揃い考える、とかができなくなるらしいわ。つまり、マネジメントができなくなるの。」

老いた母から『マネジメント』という言葉が出たので、わたしはびっくりした。母はずっと職業婦人で、記録映画や映像展示プロデュースに関わる分野において、プロジェクトに従事していた人だ。だからマネジメントとはどういう仕事か、もちろん良く知っている。でも実務の世界から引退して何年もたっていたし、ビジネスの話はあまり自分からは出さなかったので、驚いたのだ。

いま手元にある資源(=食材)を活かして、なんとか価値のある結果(=料理)を生み出すこと。それがマネジメントのだと、母はいっている。まったくその通りだ。そして、部分と部分をつなげて、全体を構想するのがマネジメントの仕事だ、とも。

わたしは、隣町で出会った認知症らしき老婦人のことを思い出した。その人の会話の特徴は、部分部分はちゃんとまともに聞こえるのに、全体としてつじつまが合っていないことだった。また、どこに向かって進んでいこうとしているかも、よく分からなかった。ただ何となく、自分が元いた(らしき)場所に戻ろうと、さ迷っているのだ。

認知症について、わたしはさほど知っているわけではない。身内にそうした人を抱えて苦労した経験も、今のところ、ない。ただ、なんとなく、認知症というのは、カメラのピントがぼやけていくように、その人の世界の認知が少しずつぼやけていくのかと想像していた。

しかしどうやら、そうした先入観は間違っているらしい。細部のピントがぼけはじめるのではない。むしろ、個々のピントは合っているのに、全体の構図が崩れはじめる、という表現の方が合っているようだ。認知症の人は、初期段階ならば、日常生活はさほど支障なくすごせるという。日々の生活でするべき、細々とした動作を、とりあえずちゃんとできるからだろう。一種の条件反射のようなものだ。歯を磨く、顔を洗う、水を飲む、食事をする。こうしたことは、すべて滞りなくできる。

話もできる。話も、一応ちゃんと筋がある(ローカルに見れば)。だが、見当識、つまり自分が誰だとか、今が何月何日だとか、ここがどこかとかいった事が、正確に言えない。事実が客観的に、認識できないのだ。自分の主観の中で再構成された、自分になじみのいい関係性だけが、事実の解釈を乗っ取ってしまう(「弟の迎えの車かと思いましたの」)。

わたしは家に戻り、書棚から、10年以上前に読んだ阿保順子・著「痴呆老人が創造する世界」を取り出して読み直して見た(この本は「認知症」という言葉が普及する前に出版されたが、現在は「認知症の人々が創造する世界」と改題され岩波現代文庫に収録されている)。本書は、看護職だった著者が、文化人類学的な手法で認知症入院患者を調査し記述した、独創的な本だ。

そして、著者の阿保氏によると、施設に入居して介護を受けつつ暮らしている老人たちは、ある意味、驚くほど「豊かな」社会生活を送っている。単に砂時計の砂が流れ落ちるように、崩壊への時を過ごしているわけではなく、架空の地理感覚や家族観念の中で、役割を演じて生きている。つまり彼らは、世界を我流に再構成しているわけだ。

とくに、コミュニケーション、つまり他者との手短かなやり取りは、本人たちの言語機能が壊れているのに、いつまでも残る。内容や意味は他者と通じていないのに、「言葉をかわす行為」自体は非常に良く保たれているのである。彼らにSNSがあったら、タイムラインは意味なきおしゃべりに満ち溢れているだろう。

医学的な認知症は、「エピソード記憶」「分割注意機能」「計画力」の機能不全として現れる。認知症は、単に物忘れがひどい、とは違う。最近の体験的記憶を保持できないのだ。自分の経験から学ばない、とも言える。ただし過去に身についた習慣や、過去の感情の記憶だけは残っている。分割注意機能の障害とは、つまり複数のことに同時に注意を向けることができないという意味だ。認知症の初期の人は、たった一つのことだけに集中しすぎる。そして「計画力」の欠如とは、上に述べたとおりだ。

ミクロには機能している。だが、マクロには方向性もつじつまも合わない。それが「マネジメントができなくなる」という事だと、母は言った。そう言われて、わたしは急に、気になることに思い当たった。

当時、わたしはひどいプロジェクトに関わっていた。ここで詳しくは書けない。だが、それこそ、「ローカルには機能しているのに、グローバルには方向性がなくバラバラ」というプロジェクトだった。個別の設計作業は、それぞれ一応は動いている。だが、全体のスケジュールやコストを守るための戦略が見えぬまま、混沌ともつれた状態のまま進んでいた。

それはたしかに、プロジェクト・マネジメントの問題だった。いや、むしろ力量不足のプロマネをちゃんと支援できない、プログラム・マネジメントのレベルの問題といっても良かった。

さらに、世の中に目を転じてみると、似たようなことはいろいろと見つかる。営業が無茶な条件で取ってきた案件を、プロマネがヒイヒイ言いながら苦心惨憺、遂行するという例は数知れぬ。営業は営業で、受注高の成績を上げなければいけない。だから厳しい競争でも取ってくる。

だが、厳しい条件でスタートするプロジェクト案件ばかりが増えたら、どうなるか。プロマネはなんとか有能な人員を囲い込んで、自分の仕事だけは守ろうとするだろう。個々には合理的に見えるふるまいだが、組織全体では筋が通らぬ。

あるいは、技術的なことについては、論理的に考えるのに、仕事全体の認識となると、とつぜん非科学的になってしまう管理職も、よく見かける。個別の設計では「これだけ負荷がかかるのに、こんなヤワな構造で設計して、持つ訳ないだろ!」と論じていた人が、沢山の仕事を受注できそうなあかつきには、人の配員の問題について「気合いと根性で乗り切れ」みたいなことを言い始める。ミクロには合理的だがマクロには不合理。まことに不思議である。

いや、ことはビジネス界だけではなさそうだ。行政の分野でも、教育の分野でも、メディアや政治の世界でも、なんだかミクロには機能しているのに、マクロにはビジョンが不在、という例を多く見かける。わたし達の社会は、そんなマネジメント的な認知症がはびこりはじめているらしい。どうしたらいいのだろうか?

医学的認知症の人は、知性は壊れているが、習慣的行動と、快不快の感情に駆動された短期的行動はとれる。マネジメント的な認知症も、これに似ている。以前からの習慣と、売上目標だとか原価低減といった目先の判断基準だけで、直近の行動が決まっていく。

加えて、医学的認知症の患者は、自分で勝手に自分の周囲に物語を、それも事実とは似て非なる物語をつくり上げる。マネジメント的な認知症も、似た傾向がある。事実を勝手に自分流に解釈し、脊髄反射的に対応する。これが症状である。

認知症は、自分では病識がない。だから、まず「これは(マネジメント的な)認知症だ」と判断することが、問題解決の出発点だ。

防ぐには、他者と交流しろ(孤独を避けよう)、運動をしろ、脳を刺激しろ、良い食事をしろ。医学的な認知症の予防には、そんなことが言われている。だが、マネジメント的な認知症には効くまい。

マネジメント的な認知症の一番の原因は、上で述べたように、自分の認知を離れて、「客観的に」「他者の視点で」事実を検証しようとする働きがないことにある。問題が起きたら、まず事実を客観的に把握する。その上で、適切な対策を計画する。こうした、あたりまえのことができるようになる必要がある。

そのためには結局、意味のある議論、品質の高い議論を、くりかえしするべきだし、できるような場を組織の中に用意すべきだ、というのが現時点でのわたしの仮説だ。すれちがいの対話やコメントの応酬ではなく、あるいは勝ち負けのある勝負事としての言い合いではなく、お互いの認識と考えを変えるための議論。それを可能とする、コミュニティの存在。縦社会の会社組織の中で作るのはむずかしいが、これを避けていると、自分たちもいつかマネジメントの立場に立ったとき、認知症に陥る危険性がある。

マネジメントは、逆境のときにこそ、重要になる。順調なときは、環境がそろえば、あまり深く考えずとも組織は成長できる。それは昭和の高度成長時代が示したとおりだ。してみるとわたし達の社会は、本当は、ずっと以前から、マネジメント的な認知症の気(け)があったのかもしれない。社会が老成してきた今こそ、わたし達は他者との議論を大切にしていくべきなのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)
 →「どうどう巡りの議論を避けるために」https://brevis.exblog.jp/27411722/ (2018-07-14)




# by Tomoichi_Sato | 2018-11-27 12:24 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著

珠玉のような、という形容詞は,この本のためにあるのだろう。

少し前、久しぶりに熱を出して数日間寝ていたとき、病床でこの本を読んだ。小さくて薄く、持ちやすい装丁。活字は少なく、美しい自然の写真にあふれている。ベッドの中、熱に浮かされた頭で、ポツリぽつりと読み継ぐのにちょうど良かった。そして、疲れていた心も、静かに慰められるようだった。

「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
 海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、まっ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
 そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。」(P. 7)

・・この本は、こんなふうに始まる。著者のレイチェル・カーソンは海洋生物学者で、著名な作家だ。自然を深く愛した彼女は、米国の最北東端メイン州の海岸にある、小さなコテージ風の別荘に、毎夏数ヶ月を暮らしている。そして、幼いときに母を亡くした小さなロジャーと共に過ごした時間を、この短いエッセーにまとめた。

R・カーソンといえば、『沈黙の春』(The Silent Spring)が有名だ。1962年に出版されたこの本は、人間の文明活動が、見えぬ間に引き起こす環境破壊について、史上初めて、明確な形で警鐘を鳴らし、ベストセラーとなった。環境問題はその後、公害反対やエコロジー運動と結びついていくのだが、彼女自身には別に活動家という意識はなかった。ただ彼女は、自然を愛していただけなのだ。

“The Sense of Wonder”が、本書の原題である。定冠詞のtheがついている。それは、誰もが知っているはずの、あるいは知りうるはずの、ものである。「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、SFなどの評論でよく使われたりもした。読者に驚異の感覚を与える、という程度の意味だ。でも本書では、

「センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目を見はる感性」

との意味で使われる(P. 23)。それは対象が自分(読者)に働きかける力ではない。自分から、対象に感じ取るべき能力、自分の中に育てるべき感受性のことを指している。目で見る視覚だけでなく、鳥の声や虫の音を聞きとる聴覚、いつまでも自分の中に忘れ得ぬ経験として残る嗅覚、ふかふかの苔の絨毯を踏んで走り回る触覚など、五感のすべてを動員して、気づき、受け入れる力だ。こういうセンスを、すべての大人達が持ってほしい、そして子どものときから育んでほしい、と著者はいう。

自然についての知識、たとえば鳥や木々の名前を知ること、星の巡りや潮の満ち干の法則を理解することは大事だ。だが彼女は、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」(P. 24)と書く。

『美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます」(P. 26)

これを読むと、著者のレイチェル・カーソンが(書いたときは50代に入る頃だったはずだが)、いかに深く豊かな感情を心に抱いていたかが、よくわかる。感情とは、人の心の中の資源である。それを掘り起こして、価値あるものに実らせるかどうかは、生きることの質に大きくかかわっている。

そうした感覚を育てる最良の教師は、自然とふれあうことだ、というのが著者の信じることだ。これは米国のナチュラリストの系譜に通じる考え方だろう。米国はきわめて人工的な文明を発達させた国だが、その一方で、手つかずの自然の美を大切にするナチュラリスト達の、細いけれども絶えざる流れがある。彼らの存在が、現代アメリカ文化に、ときおり細やかな陰影を与えている。

そして著者は、ナチュラリストの感性を、美しい言葉のつらなりに表現する才能に恵まれていた。ほとんど散文詩のように書かれた本書は、その結晶であろう。『沈黙の春』完成後、すぐ56年間の生涯を閉じたレイチェル・カーソン晩年の遺稿をまとめたのが、本書「センス・オブ・ワンダー」であった。

自然は驚くべき優しさをもって、小さな子どもや、傷つきやすく疲れた人びとの魂を癒やしてくれる。そういう彼女の信条を歌い上げた、最後の絶唱が、この本だ。憂うつなとき、ひどく疲れていると感じたときに、手にとって読むことをおすすめする。写真もとても美しい。


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-17 15:24 | 書評 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(11月27日)開催のお知らせ

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2018年第5回会合を開催いたします。

当研究部会は2012年の12月に、4人の講師を招き、半日を使ってミニ・シンポジウムを開催しました。今回は、その時の講師の中で最も人気が高く反響の大きかった森茂利氏に、久しぶりにご講演いただきます。

森さんはリクルート社での長年の経験を起点に、現在はフリーのコンサルタントとして、主にサービス業のビジネス開発と組織づくりの仕事に関わっておられます。ところで、新しいサービスの開発とは、どのように進むものなのでしょうか? 周知の通り『独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の業務』というのが、プロジェクトの一般的定義です。そして新製品開発だとかITシステム開発のように、成果物としての実質を作り出すプロジェクトについては、多く語られています。

しかし、目に見えず、顧客の利用と同時的にしか存在しえない「サービス」を開発していくプロジェクトの進め方、マネジメントのあり方は、当然かなり異なるはずです。とくに今回は、IT企業における事例をとりあげ、請負体質から脱却し、自らのビジネスをいかに創り上げていくかを、語っていただきます。またIT企業における営業のあり方には、さまざまな問題点が見受けられますが、森さんは営業・マーケティング改善のプロでもあり、その面でも、《お悩み解決》のヒントを多く聴けるはずです。

大勢の皆様のご来聴をお待ちしております。

<記>

■日時:2018年11月27日(火) 18:30~20:30

■場所:田町キャンパスイノベーションセンター 
5F スペース:509AB
(いつもの慶応大学三田キャンパスとは場所が違いますのでご注意下さい!
 JR田町駅の芝浦口から右方向の階段をおりて、50mほど先の右手の建物です)

■講演タイトル:
「IT企業 請負体質からの脱却
 〜 AIに振り回されず、お客さま起点で人材育成とサービス化推進中」

■概要:
50年続いているIT開発企業は、これまでずっと請負体質のままで商いを継続。しかし二代目社長になった年、次の成長にむけて、自立型企業への変革を一人に賭けた! この三年半の動きをお伝えします。

■講師:フリーエージェント、《稼げる力と強い組織創り》エヴァンジェリスト
森茂利(もり・しげとし)

■講師略歴:
名古屋工業大学卒
78年 リクルート入社
85年 ネットワーク起ち上げ事業に参加 技術系マネジャーとしてデータ・ 
   スーパーコンピュータ・音声サービスの技術支援部隊を統括
03年 ソフトブレーンに主席コンサルタントとして入社
15年 ソフトブレーン退社 独立コンサルタントとして、現在に至る

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-11 21:30 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

コード体系の設計法を考える

はるか数千年前の古代中国。動物は、以下のように分類されていたという。

(a) 皇帝に属するもの、(b) 香の匂いを放つもの、(c) 飼いならされたもの、(d) 乳呑み豚、(e) 人魚、(f) お話に出てくるもの、(g) 放し飼いの犬、(h) この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k) 賂蛇の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l) その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。

これは哲学者M・フーコーの『言葉と物』の冒頭に紹介されている話だ。分類体系としては、いささか奇妙である。まず、皇帝に属するもので、かつ、香の匂いを放つものは、どちらに分類するのか。それに、乳飲み子から育ってしまった豚はどうするのか・・

ま、これはもちろん真面目な顔をして書かれた冗談である。調べると、どうやら元ネタは、アルゼンチンの作家ボルヘスのようだ。幻想的な作風で知られる南米の巨匠ボルヘスらしい、奇妙なウィットに富んだジョークだ。

ただ、物事を体系的に精緻に分類するのが好きな文化と、あまり分類には関心を持たぬ文化が存在するのは事実らしい。たとえばギリシャ・西欧文明は前者で、彼らの学問はしばしばカテゴリー論と認識論にこだわる。他方、東アジア・東南アジアは、後者に属するのではないかと感じている。これは個人的な感触に過ぎないが、しかしたとえば梅棹忠夫も「東南アジア紀行 」 で、タイや中国の大学研究のあり方についてそんなことを述べていた。ちなみに生物の分類学を体系化し、「学名」という命名システムを発明したのは、西洋人のリンネであった。

ところで今、分類体系とか命名システムという語を用いたが、では中国語で『系統科学』というと、何を差しているかご存じだろうか? じつはこれ、System science すなわち「システム学」の事なのである。システムとは、元々、系統あるいは体系のことを指していた。現に今でも英語では、(生物)分類学のことをSystematicsと呼んでいる。

だから我々も日本語では、システム工学とか書かずに、「系統工学」とでも呼んでおけば良かったのではないかと、時々思う。システムエンジニア(SE)ではなく、系統技術者である。漢字の方が、カタカナより、多少は分かるような、あるいは威厳を感じさせるような気がする。今日、多くの経営者が、「俺はシステムとかコンピュータとかって、サッパリ分からん」、で済ましていて、IT分野の技術者はいつも傍流扱いの金食い虫みたいに思われている事態も、少しは防げたかもしれない。

さて、前回の記事「従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について」 で、コード化に関するリテラシーの低さが、わたし達の社会のアキレス腱になっていると書いた。わたし達の仕事においては、何かを追いかけコントロールしたかったら、それに整理番号のコードをふっておくべきである。これはビジネスにおける業務知識だとか技術だとかよりももっと基本的な、思考と行動の習慣であって、わたしが「OS」と呼ぶものの一部だ。

わたし達の社会は、はっきり言って、物事にコードを振る、という部分のOSが弱い。コード体系の作り方も、あまり上手ではない。いや、それ以前に、コード体系の作り方に上手下手がある、という感覚自体が薄い。「コード設計論」を、本来は大学でも教えるべきだとわたしは思うが、そんなコースを開設したというニュースを聞いたことがない。

ビジネスでは従業員番号にはじまって、製品コード、部門コード、取引先コード、受注ジョブコード(製番)、マテリアル・コード(品目コード)など、様々なコード体系が必要だ。なのに、それらは、どこか担当部門が勝手に決めているか、あるいは(例によって、ERP導入に伴う大騒ぎの際に)IT部門の若手あたりに押しつけられる仕事になっている。そして、上に述べたような、わたし達の文化に内在する「体系的分類に関する思考の弱さ」が、足を引っ張ることになる。

一例を挙げよう。ある会社では、マテリアル・コード(品目コード)を、以下のような桁区切りのシステムでとっている。

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このようなコード体系の長所は、何だろうか。そして短所は? −−先を読む前に、少しだけ考えてみていただきたい。

ちなみにこの会社は、製造業である。日本では最も一般的な、組立加工系の業種の、部品メーカーだ。それなりの技術力も持つ、業界では一目置かれる存在の企業である。そこが、このような体系を使っている。そのことについて、あなたはどう思うだろうか。

長所を挙げよう。まず、固定桁数のコードなので、コンピュータで扱いやすい。そんなの当たり前だろ、と思われるかもしれないが、放っておくと、「1, 2, 3….11, 12, 13」みたいな桁数可変の番号を振り始める人間は、いくらでもいる。

それにもう一つの長所は、部品番号を見ると、それがどの製品に使われているか、すぐに分かることだ。これは、製造現場で現品票などがきちんと添付されているならば、「この部品ってどれに使うんだっけ」といったことが、すぐ分かるメリットがある。

では、欠点は? まず思いつくことは、製品の後の部品の連番が、3桁しかないことだ。一つの製品を作るのに、999個を超える部品数が必要な、複雑な製品だったらどうするのか? ・・まあ、この会社は部品メーカーだから、この会社にとっての「製品」は、顧客である自動車メーカーや家電メーカーにとっては、小さな「部品」にすぎないので、たぶんそんなケースはないと思ったのかもしれない。だが、この会社が、将来もっと消費者に近い製品を開発して、売り出さないと、誰が決めたのか? 経営者か? そうではあるまい。

もう一つの欠点。それは、複数の製品で共通の部品を使う場合はないのか、という問題である。ボルト・ナットの類いは、おそらく共通性が高いはずだ。それはどうするのか? まさか、製品ごとに、異なる品目コードを振り直しているのか? だとしたら、合計の在庫数量は、どうやって管理しているのか。謎である。

そもそも、このような部品コード体系を考える、ということは、この会社の技術部門には、「部品の共通化」という大事な問題意識が、最初から欠落しているらしいことを示している。部品メーカーは、顧客の個別注文にいちいち応じることが、命題になっている。だが、自分たちの生産性を上げたかったら、いかに共通部品を増やし、設計を再利用するかが、ポイントとなるはずではないか。

でも、もう少し続けよう。次の例は、どうだろうか?
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このようなコード設計の長所をあげるとしたら、最初の5桁で表される製品コードの決め方が、より体系的(システマティック)であり、2桁目までで種別が明確なことだ。

では、短所は? これは、ここではあえて論じない。読者諸賢は、ご自由に考えてみていただきたい。

この例のように、コードを複数の桁の単位に区切り(見た目が分かりやすいように、ハイフンが良く使われる)、その後に連番を打つ、という方法は広く使われる。前方に置かれるのは、分類を示す記号である。それも大分類・中分類・小分類といった、複数のレベルにまたがる分類であったり、異なるカテゴリー(分野別・素材別・地域別など)の表示だったりする。

つまり、こうしたコード体系では、前半は主に人間にとって「意味」のある判別記号を表し、後半は意味のない番号になっている。問題は、そのようなコード体系の「意味」を、どこまで普遍性を持ち、かつ、長持ちできるように定義できるかだ。

最初にあげた中国の動物分類は、あまりにも馬鹿げているので、まずい体系だということは誰でも分かる。あのような体系は、MECEになっていない。MECEとは、Mutually Excludive and Completely Exhaustiveの略で、ロジカル・シンキング用語である。意味は、「お互いに重複もなく、漏れもない」という意味である。

何かを分類する人は、その分類方法が、MECEであるかどうか、意識する必要がある。ところが、これが案外、難しい。わたし達の文化では、そのような思考の訓練を、初等教育でも高等教育でも、受けていない。

それにもう一つ。西欧的な文化で育った人は、MECEには慣れている。しかし、逆に、分類というものが、時と共に移りゆく可能性のある、動的なものだという感覚が薄い。コード設計には、このMECEセンスと、分類は動的なものという感覚の、両方が必要になる。

じつをいうと、上にあげた2例は、藤井一良著『「品目コードNo.」の考え方・採り方』(日刊工業新聞社)から引用させていただいた。本書は、わたしの知る限り、この問題を正面から扱った唯一の和書である。

この中で著者は、こう指摘している:

「実際、長年パンクなど大きな不具合もなく運用され続けている体系に共通しているのは、“分類の定義設定が懲りすぎていないこと”です。コード体系は永久に継続していくことが大切なのです。」

まことに正しい指摘だ。過度に分類しすぎた体系は、時の移り変わり(事業環境やビジネス構成の変化)についていくことができなくなる。

ついでにいうと、上の文章で「パンク」と表現されているのは、『品番爆発』とよばれる現象である。品目数が、色や外形や表面処理などのバリエーションのために掛け算で増えてしまい、連番の上限を超えてしまう現象である。上の例では3桁しか連番がないから、1000以上に増えると、コード体系が破綻してしまう。

したがって、上手なコード設計では、「意味」の部分をあまり多く取り過ぎず、なるべく単純な「連番」を使う方が良い、ということになる。とはいえ、連番部分の桁数が増えすぎると、人間が覚えきれないし、入力時にミスを誘発しやすい、といった副作用が出る。しかもいったん設計に失敗すると、後でコード体系の変更などという、とんでもないコストを支払うことになる。

コード設計は、こうしたトレードオフの中で、リーズナブルな形態を決めていく、高度に知的な作業なのである。いってみればIT技術、とくに上流工程といわれるビジネス・アナリシスにおいて、きわめて重要なスキルである。なのに、こうした知恵について教える大学もなければ、書いている本もきわめて少ない。こういう知的状況を見ると、わたし達の社会のアキレス腱は本当に大丈夫かなと、いつも心配になるのである。


<関連エントリ>
 →「従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について」(2018-10-19)https://brevis.exblog.jp/27603707/


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-04 18:50 | サプライチェーン | Comments(0)

講演(計装制御技術会議・11月1日)と論文記事執筆(経営システム誌)のお知らせ

(1) 講演のお知らせ

いつもながら直前のお知らせで恐縮ですが、来る11月1日に、日本能率協会主催の「計装制御技術会議 2018」で、日本の化学産業とプロセスプラントの変貌について、講演します。

これは3日間にわたる計装制御系の会議で、三日目の「スマート化で実現するプラントの未来像」の午後一番にお話しします。かなり専門的な技術分野の会議でもあり、また申込期限まで日数がありませんが、この話題に興味をお持ちの方はぜひご来聴下さい。

<記>

題目:「ディスクリート・ケミカル工場の設計論と 中央管制システムの姿

講師:佐藤 知一 (日揮株式会社 データインテリジェンス本部 DIプランニング部 部長)
日時:2018年11月1日(木) 13:00-13:40
場所:品川フロントビル (港南2丁目3-13, 東京都)

・参加申込み・会場アクセスは下記ホームページをご参照下さい。


(2) 論文記事執筆のお知らせ

日本経営工学会の「経営システム」誌・第28巻1号に、下記の論文記事を書きました。

佐藤知一:「生産システム,そのパラダイム・シフト
 経営システム, Vol. 28, No. 1, pp. 70-75 (2018) 

紙の学会誌は7月に発行されましたが、おそらく購読されている方は少ないと思います。同誌は一応、学会のWebでも公開されています(ただし閲覧には会員登録とパスワードが必要です)。

ただし、学会誌には「別刷り」という古き良き習慣があり、読みたい人には論文のコピーを配布することができます。わたしの手元にも多少の部数がありますので、講演を聴きに来ていただいた方には、希望があれば別刷りを進呈いたします。

ちなみに 元々この記事は、拙サイトに掲載した同名の記事である、
 『生産システム、そのパラダイム・シフト』 https://brevis.exblog.jp/27223637/ (2018-04-28)
を読まれた編集委員のリクエストで、論文記事の形式にしたものです。そして下の図も、載せています。学会誌ですから内容はもっと敷衍していますが、主旨は同じですので、興味がある方は上記のエントリもご覧下さい。

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(1)と(2)のいずれも、近年わたしがずっと主張している、「工場とは生産のための仕組み(システム)であり、その設計と操業には、システム工学の視点が重要である」という事柄を論じた点では共通しています。今年の経産省『ものづくり白書』でも触れられていましたが、「システム思考」の弱さが、今日の日本の製造業の苦境をもたらした原因の一つであると、わたしは考えています。それを脱却するにはどうしたらいいかが、目下のわたしの主要なテーマです。



# by Tomoichi_Sato | 2018-10-23 22:32 | ビジネス | Comments(0)