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経済学を疑う — 価格リスクと豊作貧乏は本当に不可避か?

随分前のことだが、北フランスのシャンパーニュ地方を列車で通ったことがある。車窓の外に広がる、なだらかな丘陵地帯には、整列したような緑の低木がずっと連なる。葡萄畑だ。有名なシャンパンは、この地で栽培され、収穫されたブドウだけから作られる。それ以外の土地でできたものは、「発泡性ワイン」と呼ばなければならない。

シャンパーニュ地方の中心地エペルネは、パリを抜いて全国で最も一人あたりの収入の多い、豊かな町だという。ふーん、そうですか。ただ、美しく広がる田園地帯の風景を見ながら、「ここに住む人々は、きっと毎年、天気に一喜一憂しているんだろうなあ」と思った。

農産物とは、天の恵みと、労働の実りとが、かけ合わさってできるものである。どちらも、必要だ。そして天候は、太古の昔から、決して人の願いだけでは左右できない、気まぐれなものだ。つまり、今風に言えば「リスクが大きい」のである。リスクとは、自分たちが簡単にコントロールできない事象の可能性を言う。そして、農業収穫のリスクは、近年の温暖化と異常気象のせいで、さらに抑制が難しいものとなっている。

農業生産物は、需給の面では、もう一つの難しさをもっている。それは、ある季節に一度にできてしまう性質だ。もちろん、稲作の世界で、「早稲(わせ)」「晩稲(おくて)」という言葉があるように、多少のシフトは可能である。また同じ作物でも、品種により、収穫できる季節が違ったりもする。とはいえ、どうしても作物ごとに『旬(しゅん)』の季節がある。

このため、農業ではどうしても、労働力の需要に、山と谷が生じる。仕事のピーク時、つまり「農繁期」には、立って動ける者が総出で働かなければならないし、村中で互いに協力する必要がある。「村八分」という言葉があるが、これは10種類ある交際のうち、「火事」と「葬式」以外の付き合いを、すべて断つ、という意味らしい。これをされると、農家は、非常にこまる。日本は横並びで協調原理の強い「ムラ社会」だ、とよく言われるが、その根底には農業社会における労働需要の問題があった。

農産物は、1年間をならして「平準化生産」したりすることは、できない。ここが工業製品との最大の違いだ。市場に対する供給量に、波があるということだ。

他方、人間は毎日、お腹のすく生き物である。ある季節だけたらふく食べて、あとは寝て過ごせたりすると楽なのだが、そうはいかない。市場への需要量は、比較的一定だ。むろん、季節によって食べたいものの種類が変わる、ということは多少はあるだろう。だが、とんかつ屋は付け合せのキャベツを、季節によって白菜や水菜にかえたりするだろうか? 時季によって主食をお米から、パンやうどんにかえる家庭があるだろうか? 

だから、農産物の市場には、基本的に需給のギャップが生じやすい。

需給にギャップが生じたら、どうなるか? 経済学は、よく下のような図を描いて、価格メカニズムを説明する。横軸には、市場を通じて取引される商品の量をとる。縦軸は、価格だ。そして需要線と供給線の、2本の線を描く。
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需要線は、右下がりの、下に凸のカーブである。価格が安ければ、買いたいと思う人が増え、高ければ、逆に買いたいと考える人が減る。いわば、需要者全体のお財布の中の金額は一定だから、需要量と価格は、おおむね反比例の関係にある、とするわけだ。(ふつうの数学の感覚では、横軸に独立変数をとり、縦軸に従属変数を取る。上記の関係は、価格が決まると需要量が定まるのだから、縦横の軸が逆のような気もするが、昔からこう書く習慣である)

供給線は、逆に右肩上がりのカーブである。つまり、価格が高くなれば、供給量が増える(それを作って売りたい人が増える)、という傾向を表している。

そして両者の交わるところが均衡点であり、市場価格はそこで決まる、と考える。売り買いは、当たり前だが同じ価格で合意するのだし、需要量と供給量が一致する点だから、という訳である。これが通常の経済学の価格モデルである。

これに従うと、市場に対する供給量が全体として増えた場合は、供給線が右にずれることになる。そうなると、均衡点は現在よりも右下に動き、価格が下がってしまう。逆に供給量が下がると、均衡点は左上にずれて、市場価格が上がる。このように、需給量のギャップは、価格によってコントロールされる、というのが、経済学の教えるところだ。

以前、農業生産者の方に話を伺ったことがある。農業をやっていて、何が一番つらいかというと、「豊作になりすぎて、価格が暴落するとき」だという。ひどいときは、それこそ、できた作物を収穫せずに、畑で潰したりすることもある。天の恵みと労働の実りで得た産物を、捨てなければならない。これほど情けないことはない、という。聞いていて、たしかにそうだろうな、と感じた。

そして、それは農業が本質的に、気候に左右されやすい生産量の不安定な仕事であることに起因しており、経済学でいう市場価格のメカニズムがある限り、それはかわり得ないと、普通は解釈される。これに従うと、農業はつねに「せつない産業」であり続ける宿命を背負っていることになる。

だが、それって何だかおかしくないだろうか? いや、別に農業を批判しているのではない。わたしが変だと言っているのは、経済学の方である。

今、ある工業製品の市場取引量が、だいたい1日1万トンだったとしよう。そして価格は、簡単のため1トン10万円とする(キロ100円である)。取引額は1日あたり10億円だ。年間で3千億円の商品市場である。

さて、ある日、何らかの理由によって、供給量が1割増えて、1.1万トンになったとする。で、生産側はどうするか。値段を1割下げてでも、売り切ろうとするか? ふつうの経営者なら、そんな事はしない。余剰の1千トンは、『在庫』にするのだ。在庫1千トンはずいぶん多いように見えるが、各社の持つ在庫の送料だ。そして日数基準で測れば、0.1日分、つまり2時間ちょっとの間に、消費されていく量である。需要も供給も、実際には日々、小さな変動がある。だからこの程度の量ならば、1週間か2週間も経てば消化されて、価格は均衡点のあたりに留まるだろう。

逆に、供給量が1割落ちたとする。すると、どうするか。需要量に対して、供給量が足りない訳だ。これ幸いと、価格を釣り上げる? そうは問屋が下ろすまい(ここは市場だしね)。おそらく需要家の方は、「じゃあ、足りない分は明日以降に持ってきて」と言うだろう。つまり、「納期」が延びるのだ(バックログが増えると表現してもいい)。

市場で需給にギャップが生じたら、「在庫」と「納期」で調整する。これが、ふつうの企業における取引の方策である。そして価格が、妙にブレないようにコントロールする。

ちなみに納期とは、一種の「マイナスの在庫」である。だから、サプライチェーンにおける需給のギャップは、短期的には在庫によって調整されるのだ。そして、在庫(納期)がかなり大きくなりすぎて、短期的な調整の範囲を超えるとき、いいかえると需給変動の通常の時定数をかなり超えてしまった際に、価格による調整メカニズムが働きだす。

ミクロ経済学の教科書に書いてある需給曲線の図は、株式や債券のような金融資産の取引から発したのだろう。金融資産は、実質的には一種の権利の取引だから、移動は即時性があって、「出来すぎちゃったから在庫しておく」「不足分は後で届けます」といった、通常の在庫・納期の概念があてはまらない。同様に、サービスの取引の場合も、同時性の原則により、在庫できないため、需給ギャップは価格のみで調整される。

さて、農産物の話に戻ろう。従来の農業の仕組みでは、農業生産者は取れた作物をJA(農協)に納める。JAはそれを集積して青果市場に送る。青果市場では仲買を中心に取引が行われ、一日に入荷された商品は原則、その日のうちにさばいて、売り切る。そして食品の一次卸、二次卸、あるいはスーパーや一般の八百屋さんを通して、消費者の手に渡る。もちろん、一部は飲食業に卸される。

問題は、このサプライチェーンの中に、自らのリスクで在庫を持ち、需給調整の役割を受け持つプレイヤーが、どこにもいないことだ。いや、そもそもその前に、葉物野菜を中心とした多くの農産物は、鮮度が命だ。収穫から消費までの賞味期限が数日しかない。物流の時間を差し引くと、ほとんど在庫できない種類の商品である。

おまけに、ふつうの消費者は、納期(バックログ)も許してくれない。え、キャベツが品切れなの? じゃあ、今日は別の料理にするわ、という訳だ。

つまり、既存の農産物のサプライチェーンには、基本的に「在庫・納期」による調整機能が存在しないのである。だから、生産量が変動し、需給にギャップが生じると、価格変動が最上流までさかのぼって、生産者を直撃する仕組みになっている。天候にも恵まれ、頑張ってたくさん作ったのに、その結果が自分に全部、逆向きにはね返ってくる。豊作貧乏が起きたりして、農業は引き合わない仕事と言われる根本理由は、このようなサプライチェーンの姿にあるのだ。

それでは、どうすべきか? 解決の方向性は、三つほどあるのではないかと思う。

(この項つづく)


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by Tomoichi_Sato | 2020-09-28 12:48 | サプライチェーン | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(10月8日)開催のお知らせ

各位:

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2020年第3回会合を開催いたします。COVID-19感染症問題がなかなか落ち着きを見せないため、研究会日程が定まらず、前回からまた間が空いてしまいました。今回もオンライン開催といたしますので、ご了承ください。

現在のモダンPM論は、設計のマネジメントという重要な仕事について、ほとんど何も語っていません。この問題は、以前から指摘してきたとおりです。エンジニアなら誰でも知っている通り、設計は構築・実装のあり方の大勢を決めます。ですから、きちんとプロジェクトを進めたければ、まず良い設計をすることが先決です。ダメな設計を受け取って、「あとはよろしく」と言われたって、プロマネとしてできることは限られているからです。

しかし、この自明の理に正面から向き合って、プロジェクト・マネジメントを論じる人はわずかです。PMBOK Guide(R) の規定している10のマネジメント知識エリアにも、『設計のマネジメント』は含まれていません。PMBOKの次期・第7版は、従来の構成を根底から変え、プロセスベースから原則(Principle)ベースに転換すると言われています(10の「知識エリア」は、なくなる見込みです)。しかし、現時点では、プロジェクト・デリバリーの原則の中にも、設計論は見当たらないようです。

プロジェクトの成果物が価値あるアウトカムを生み出すためには、その設計が重要です。しかし現実のエンジニアは、過去の事例のコピー&ペーストや、外注先との折衝・チェックといった仕事に忙殺されているようです。設計の業務プロセス自体が、個別化・属人化している事の現れかもしれません。まして、肝心の設計ロジックの構築や、その伝承理解に使える時間は限られています。

今回は、自動車メーカーの設計部門を経験した後、大手ITベンダーでPLM等のコンサルティングに従事してこられた西本明弘様に、設計プロセスの分析・最適化技法である「Design Structure Matrix (DSM)」手法についてご講演いただきます。
昨年12月の梓澤様のご講演に続いて、「設計論シリーズ」の第2弾となる企画です。どうぞ、ぜひご期待ください。


<記>

■日時:2020年10月8日(木) 19:00~20:15

■講演タイトル:
「Design Structure Matrix(以下DSM)の概要と応用~テレワーク時代のプロジェクト管理手法~」

■概要:
設計・開発プロセスは暗黙的かつ多職種連携で、手戻り要因も判りづらい。また、テレワーク時代で細かなコミュニケーションもとりづらく、プロジェクト運営のリスクは増している。
そこで、設計工学手法DSMを応用し、設計プロセス全体を俯瞰してプロジェクトを最適計画&省力運営(PMの負担軽減)する方法について解説する。

■講師:プロセス設計塾 代表 西本 明弘
 
■講師略歴:
三菱自動車にて小型トラック・バスのシャシーフレーム設計。   
IBMにて金融・POSプリンター、自動改頁機構、漢字OCRスキャナーなどの開発。    
IBMにてPLMコンサルタントの後、プロセス設計塾を開業。
2003年より研究しているDSMを用いて、複雑な業務プロセスの改善を支援中。

■シスコシステムズさんのご厚意により、WebExを用いた、オンライン開催となります。
 研究会への参加は、下記のURLからご登録ください。

 はじめてWebexに参加される方は、下記の説明資料も御覧ください(Dropboxへのサインインは不要です)。

 なお、オンライン形式のため、リアルの研究会よりも講演時間は少し短縮しています。ただし、講演とQ&A終了後、希望者だけで別途、オンライン懇親会を行う予定です。

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 
 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮ホールディングス(株)


by Tomoichi_Sato | 2020-09-24 18:18 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

農業に還ろう

今回のパンデミック禍は、世界中が手こずり、当初皆が想像していたよりも、長引いている。そして、パンデミック後の「ニュー・ノーマル」どころか、5年後、10年後の社会のあり方について、あまり前向きで積極的なビジョンが語られないところに、今の世の心理的な病の深さを感じる。

今回の事象は、現代の三つの側面を、大きく痛打した。まず、世界規模にストレッチしたサプライチェーンである。それから、都市への人口集中と濃厚接触型に依存した業務・サービスであり、さらに、レジリエンスのための仕組み(とくに医療資源)を削減してしまった社会であった。この三種類に近い領域ではたらく人ほど、影響を受けた。

そして、影響を受けた職種といえば、独立自営業者と、非正規雇用の労働者である。わたしの身の回りで見ても、一番苦労しているのはこの層だ。他方、若干不思議ではあるが、大企業はそれなりに忙しいように見える。コンサルティング業界などに聞いても、そういう返事だ。景気は悪いが、忙しい。

結果として、社会の格差は確実に広がった。

ただし、グローバリズム的な思想は、影響力を少し弱めたとも思う。グローバリズムとは、「ビジネスは国や場所に関わりなく移転可能であり、だから、もっとも経済効率の高い国際水平分業が望ましい」、という考え方だ。そして、ビジネスにおいては、働く人間の国籍も文化も問わない、とする(ただし、英語ができることは必須の条件らしい)。こうした姿がカッコいい、というトレンドは、各国が国境を分断している今、たしかに魅力度を下げている。

とはいえ、わたし達の社会はあらためて、望ましいビジョンを必要としている。それは、日本人に向いている職種、産業はなにか、という問いだ。日本はこの先、何で食べていくのか。そして、わたし達が働いていて、本当に楽しいと感じられるのは、どんな業種の、どんな仕事なのか? 

それは、「職人的な仕事」であろう。これが、最近のわたしの考えだ。職人的な仕事、すなわち自分の目と手を使い、自分の五感を駆使して、具体的な対象を最新に作り上げていくような働き方。これが、日本人にはとても向いているのではないか。

そのことを、3年前の新潟で、なぜかわたしは急に悟ったのだ。「新潟・酒の陣」というフェアで活躍する、造り酒屋の人たちを見ていたときのことだった。それまで漠然と感じていたことが、自分の中で言葉になった。「職人の国の生産性を上げる、最良の方法」 (2017-07-23)という記事にも書いたから、ここでは繰り返さない。

職人的な仕事に長けている、とは、その逆のタイプの仕事は苦手ということだ。それは、たとえば目に見えない「コト」や仕組みを作り、回していく仕事である。あるいは、抽象的な概念や論理を展開していく仕事だ。こういう事ができる人たちも、もちろん一定数はいる。だが、多数派ではない。

日本の高度成長は、じつは職人的な仕事が支えていた。高度成長を支えたのは日本の技術だと、わたしより上の世代は信じている。だが、多くの製造業を訪れ、その仕事ぶりを見るにつけ、次第に疑問を感じるようになってきた。技術者がラフな図面や仕様を与えても、製造現場がキチンと仕上げてきたというのが現実ではないだろうか? そうでなければ、なぜ今になって、現場の熟練工が引退していなくなる前に、「AIで匠の技をデジタル化すべし」などという議論を、慌ててしているのか。

農業に還ろう。

それがわたしの、提案である。自然の中で植物を育て、眼と手と五感を使って作物と対話する、そういう農芸職人的な生き方のほうが、ずっと日本人には向いている。自分たちが大して好きでも得意でもない、『技術イノベーションだ』の『デザイン思考』だの『データ・ドリブンな経営』だのに、無理して取り組むふりをして経済成長を志向するのは、もう、やめにしよう。

日本は世界第5位の農業大国である。わたしはこのことを、浅川芳裕著「日本は世界5位の農業大国、大嘘だらけの食糧自給率」という本で知った。これによると、2011年FAO数値による世界の農産物生産額ランキングでは、1位・中国、2位・アメリカ、3位・インド、4位・ブラジル、と広大な大陸を占める国が並んでいる。だが、5位はなんと、国土の狭い我が日本だ。ブラジルとの差は、2割以下しかない。ちなみに6位はフランス、7位がドイツである(なお、数値のとり方の差によるのか、7位ないし8位という統計もあるが、農業において有力な国であることは変わらない)。

たしかに国土は狭い。でも、日本は温暖湿潤な気候と、肥沃な山野に恵まれている。世界でも稀に見る、農業の適地と言うべきではないか。大げさに聞こえるかもしれないが、実際に砂漠やツンドラ、乾燥した大地の国々を巡ると、その違いが分かる。
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(小豆島の千枚田)

日本人の職人芸的な仕事ぶりは、農産物の品質に、すでに結実している。日本の農産物は、そのクオリティ(味)の良さと安全性により、すでに中国を始め、アジア各国で定評を得つつある。忍耐強い丁寧な仕事ぶり、出来栄えへのこだわり、いずれも日本人の性格的特徴が生きる部分ではないか。

そして、農業は成長産業である。これも同書で知ったのだが、世界の農産物貿易額は、過去半世紀の間に約30倍に膨れ上がっており、とくに21世紀に入ってからは、年平均10兆円の勢いで伸びている。だからこそ、米国を始めとして各国が農業貿易を重視するのだ。

だとしたら、都会での勤め人の仕事に倦み疲れた人々は、サラリーマン稼業など見切りをつけ、農業に転身したほうが向いているのではないか。満員電車に長時間揺られて、都会に通うオフィス仕事のストレスよりは、自然と生き物を相手にした仕事のほうが、多少きつくても心理的には健康だろう。

外気の下で働く農作業は、「コロナ」や「三密」とも、ほぼ無縁である。

ちなみに、農業は工業や商業よりも、広い土地を必要とする。だから農業にシフトすれば、都市の人口集中問題は、そして地方の過疎問題も、自然に解決する。

農業は、工業や金融業よりも、参入に必要とする資本も小さくてすむ。これも利点の一つだ。製造業を始めようとすると、工場建屋と機械を買い揃えたら、たとえ町工場の規模だって、下手をすれば億の金がかかるのだ。
(もちろん世の中には、ノートPC1台、いやスケッチブック1冊抱えて商売できる、インテリジェントでノマドな職種だってある、との意見もあろう。ごもっとも。ただし、PCやノートが、直接、お金を生み出してくれる訳ではない。そうした仕事は、たいてい、成果物や仕事にかけた工数の対価を、顧客企業が支払ってくれるだけだ。つまりPCやノートは間接的な道具であって、それさえあれば経済的に自立できる生産手段、とは言えないのである)

こうした状況を予感してだろうか、若い人たちの中には、工業よりもむしろ農業に積極的な興味を持つ人が増えている。それは、たとえば東京農工大の農学部と工学部の偏差値を見るとわかる。その昔は、工学部のほうがずっと難関だった。今は、農学部のほうが偏差値が高い。それだけ、農学を志す人が増えたのだ。

農業に適した国土がある、高度な農業を志す人達もいる。それなら、なぜこの国には耕作放棄地がたくさんあるのか? 日本全国で450万haの農地面積があるが、耕作放棄地はその約1割にも及ぶのだ。そして農業は、なぜ、「過去の産業」として、低く見られてきたのか。

それは大きく3つの要因があるように思われる。

第一に、農業が規制産業であり、参入障壁があることだ。具体的には「農地法」の規制があり、農地を売り買いするには「農業委員会」に届け出と許可が必要なのである。言いかえると、農家の子弟でない限り、簡単には農地を取得しにくいのだ。数年前に多少、規制緩和されて、企業は参入しやすくなった。だが、肝心の個人事業主(いいかえると自作農)を、増やす方向には進んでいない。

むしろ、日本の農業の生産性が低く農家が貧しいのは、各戸が所有する農地が狭く、機械化に向かないからだという、「農地のスケールメリット論」がずっと根強くあり、国や財界は大企業の参入と所有農地の拡大を歓迎する方向にある。でも、これでは、農業に興味のある人に、「だったら雇われて小作農になれ」と言っているようなものではないか? また、JAの新規就農者への「農業融資」にもいろいろと制限がついている。

第二に、農業政策自体が歪んでいて、ビジネスとして育ちにくいことが挙げられよう。周知の通り、長らくこの国では、コメの買取制度を中心とした農政だった。それは、農村が長らく保守政党の「票田」だったことの結果でもある。さらに、農水省が奇妙な「カロリーベースの食料自給率」を目標とした政策を、取り続けていることもある(この問題は上述の本がかなり詳しく批判をくわえている)。さらに言えば、農産物のサプライチェーン自体に問題があることも加えていい。

そして第三に、世の中の人の持つマインドセットの問題があろう。農家は、「カッコいい」職業ではないと思われてきた。「田舎」「百姓」という言葉に象徴されるイメージが、長らく広まっていたのだ。実際、昭和時代(とくに戦後の昭和20-30年台)は、現金収入を得られる「サラリーマン」こそが、近代的でカッコいい職業だった。だが、令和の今、サラリーマンがカッコいいと思っている人は、どれだけいるだろうか?

いや、そもそも「サラリーマン」対「専業農家」、という問いかけ自体、おかしいのだ。現代では、兼業農家という生き方こそ、主流なのである。地方の兼業農家には、豊かな生き方をしている人が、じつは少なくない。

ウィークデイは地元の工場なり役所なりでサラリーマンをして給料をもらい、週末だけ自分の田畑を手入れする。当然、収入も比例して大きくなる。安定性と職人性を両立できる生き方である。そして、それで農業ができるくらい、今の農業技術も進歩している。小さい農地だって、ちゃんと機械化できるよう、それこそ日本の技術は進歩したのだ。
 
実際それは数字を見れば分かる。年間の農業GDPは約8兆円だ。そして農業従事者は日本に160万人いる。ということは、一人年間500万円という計算になる。え、500万円じゃ一家4人は養えない? いや、これは収入ではなく付加価値額で、収入から外部経費を差し引いて手元に残る額を示している。ちなみに日本の全産業の平均の一人あたり付加価値額は、約800万円だ。つまり、これは兼業が多いことを示している。事実、全国平均で農家の81%が、兼業農家である。

もちろん、わたしは何も、日本の国全体が農業で食っていけるとか、製造業や流通業を全部やめて農業にもどれ、といった極端な提案をしているわけではない。また、農業が誰でもできる簡単な仕事だ、などと主張するつもりもない。ただ、新たに農業を志す人達が今や一定数いて、その人達のニーズを今の仕組みが救いきれない点を改善すべきだ、そうすれば数十万人単位の雇用が創出できよう、と言っているのである。

兼業という生き方が広がれば、むしろ地方の工場や流通での人手不足だって、少しは緩和されるはずである。家族を含め数十万人が農業に関わるようになれば、農政その他のおかしな点も、必然的に議論の的となるし、それだけの人数がいたら、政治家たちだって無視できないはずだ。

***

COVID-19のパンデミック禍が地球を覆うまで、グローバリズムの思想が、世の主流だった。その世界観の下では、人は巨大なグローバル企業の経営者になるか、あるいは社員として働かされるか、2つに1つを迫られる。そこには、自分自身の生産手段を持つ、自立した自営業者の姿がない。

実際、地方の個人商店は淘汰されて、ロードサイドのチェーン店ばかりになった。町工場も淘汰されて、廃業するか大企業の傘下に入るか、いずれかを選択するケースが多かった。職人もまた「一人親方」という名前の、契約労働者に過ぎなくなってきている。本当にこれが、わたし達の気質にあった、働く幸せの姿だろうか?

わたし個人は技術者で、プロジェクトが好きだから、企業の組織人でいる。だが、これは自分の選択の結果である。誰もが同じ選択肢をとるべきとは、わたし自身、思わない。会社員という生き方以外に、「経済的に自立可能な生産手段を持つ、職人気質の独立自営業者」が社会にたくさんいる姿の方が、ずっと日本らしい、とわたしは信じるのである。

だから今、あえて言おう。「農業に還ろう」と。


<関連エントリ>
 (2017-07-23)


by Tomoichi_Sato | 2020-09-15 23:04 | ビジネス | Comments(2)

設計の知恵を、リアルな価値に変えるために 〜 競争的基本設計(Competitive FEED)とは何か

前回の記事「設計の知恵を、リアルな価値に変えるために 〜 問題の所在」 (2020-08-22)で、わたしは「設計で知恵を出しても、ビジネスとして評価されにくい」点に、SI業界を始め、多くの業種が抱える問題の根本原因がある、と書いた。

製品のコストと品質の殆どを決める設計段階でこそ、知恵を出すことが重要である。一般消費者向けのB2Cビジネスでは、製品・サービスの評価や売れ筋から、設計の良し悪しが、すぐ分かる。良い設計はビジネスの結果にダイレクトにつながって現れる。

だがB2Bビジネス、たとえばSI業界の分野などでは、顧客要求をもとに設計をした後、その基本設計書からRFPを作って複数社に引合いを行うのが通例だ。たとえ良い設計をしても、それは価格競争というレース場への、入場券にしかならない。結局は安い単価で実装をオファーできるところが勝って、利益を得る構図になる。SI以外の業界でも、受注産業のB2Bでは、似たような事例を見かけることが少なくない。

だとしたら、誰が好き好んで設計の技を磨こうとするだろうか。良い設計が、利益という形で自分たちのビジネスの評価につながらないなら、誰がエンジニアなどという職種を目指すだろうか? 日本の産業の技術力が下がっていく一因は、ここにある。

とはいえ、このような問題は、必ずしも日本だけで起きるわけではない(日本社会の固有の特殊性については、後で触れる)。設計段階と実装段階が分離され、途中に価格競争のプロセスが挟まるような慣習のある分野では、どこでも生じがちである。わたしの働いているエンジニアリング業界だって、そうだ。

プラント・エンジニアリングの業界の仕事の流れは、ある意味、SI業界とよく似ている。図を見てほしい。エンジ業界におけるプラントの基本設計は、FEED (Front-end engineering design)と略称されるが、IT業界における「要件定義」段階にほぼ、相当する。顧客はどんな製品を年産何万トンほしいか、程度のイメージしかなく、どのようなプラントの機能構成で、どう実現するかは、この基本設計=FEEDの段階で決まる。
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FEEDの作業が終わり、基本設計書が出来上がると、それをもとに投資額を見積もる。これは通常、複数のエンジニアリング会社をよんで、競争入札の形で行う。その上で、(普通は最安値をオファーした企業の価格をもとに)投資判断であるFID (Final Investment Decision)を行う。これは、SI分野で、FRPを元に複数SIerから提案価格を受け取り、その中から1社を選んで、投資判断するのと同じである。

そして、次に実装の段階が来る。プラントの場合は、詳細設計・調達・建設の仕事になる。Engineering, Procurement & Constructionの略をとって、EPCと呼ぶ。SIでいう開発段階、すなわち設計・実装・テストの各段階に相当する。この段階は、一括請負契約で行われるケースが通例だ(例外もあるが)。

プラントの場合、建設を終え、溶接などの品質検査と機能テストを終えると、このEPCの構築段階は終了になる。これをMechanical Completion = MCと呼ぶ。ちょうどITシステムの結合テスト・総合テストの完了にほぼ相当する。ここでプラントは顧客に引き渡され、立上げ(Start-up)段階に入る。そして実際の原料をプラントに導入し、操業の人員を配置して、100%稼働になるまで立ち上げていく。パフォーマンス・テストなどもここで行われる。

いわゆるエンジニアリング会社が活躍するのは、基本設計(FEED)段階と、詳細設計・調達・建設(EPC)段階である。ただ、前者は設計なのでほとんどが人件費なのに対し、後者は資機材を買って現地で工事するので、報酬の対価はかなり大きくなる。したがって、ビジネス的な利益は、EPC段階の方が魅力的に見える(赤字リスクだって大きいが)。

前者のFEED=設計段階で仕事を得るポイントは、もちろん設計能力である。他方、後者のEPC段階で仕事を勝ち取る主な要因は、価格競争力とプロジェクト・マネジメント能力だ。そして設計段階で、いかに良い設計アイデアを出しても、その成果は入札書類の形で、ライバルを含む入札企業全員に共有されてしまう。もちろん、価格競争に勝てなければ、どんなに良い設計をしても、EPC構築段階は受注できない。

このような慣習が続いた結果、何が起きたか。プラント業界の仕組みを見ると、いかにも「設計能力に秀でた企業に基本設計をやらせ、コスト・マネジメントに強い企業に構築段階を任せるのだから、ベストな設計のプラントを一番安く手に入れられる」ように見えるだろう。

だが、現実には、違う結果が生み出されるようになっていった。実際にしばしば起きたのは、品質の低下とスケジュールの遅延だった。なぜか?

まず起きたのは、エンジ会社の専門分化(すみ分け)だった。欧米系のエンジ企業は、設計には秀でているが、人件費が高いので、コスト競争力が弱い。彼らの中には、FEED段階の仕事のみに特化するものが増えてきた。他方、韓国を含むアジアのエンジ会社などは、技術的差別化よりも価格競争に強みを見出して、EPC段階をもっぱら狙うようになった。

その結果、構築段階での経験が、基本設計に反映されにくくなった。当たり前だが、本当は「建設しやすい設計」「立上げ・運転しやすい設計」こそが、真の意味でコストダウンにつながる。だから建設や試運転部門から、いろいろ文句をつけられてはじめて、設計技術者も育っていくのだ。

だが自分で実装・構築しない会社が、設計だけやるようになると、そのフィードバックループが切れてしまう。設計図面が「絵に描いた餅」になりやすい。こうした危険性は、実装を知らないアナリストが作る要件定義書の危なっかしさ、という点でIT業界の人にも理解できると思う。

かくして、基本設計に隠れた品質問題を抱えながら、熾烈な価格競争でEPC構築段階の契約を勝ち取ったエンジ会社は、どうなるか。もちろん、途中でどんどん設計変更問題が生じる。人も足りなくなる。だが、全体は一括請負契約になっている。追加交渉だって時間がかかる。かくして、赤字と納期遅延がしばしば生じるようになった。

こうした状況の遠因は、基本設計と構築実装の分業化にある。基本設計でいくら知恵を出しても、それが構築ビジネスにつながらず、直接の利益にもならない。誰が苦労して、良い知恵を出そうとするだろうか?

ところで、(ようやく本題に入るが)プラント・エンジニアリング業界で近年行われている『競争的基本設計』(Competitive FEED)という方式は、この壁に風穴を開けるものだった。

『競争的基本設計』では、まずエンジ会社を2〜3社選び出し、彼らに並行して基本設計(FEED)を行わせる。無論、ライバル同士がどのような設計をしているかは、お互いに知りえない。基本設計がおわったら、各社に、自分たちの設計をベースにしたコスト見積を行わせる。そして、技術面およびコスト面で優れた方を選び、そこにEPC構築を任せるのである。敗退した方にも、基本設計の費用は支払う。

この方式のメリットは明らかだろう。設計で良いアイデアを出した企業が、構築段階の仕事を受注できる。構築をよく知らないと、プラントを要求性能通り、しかし安価に作る設計はできない。しかも自分の基本設計を自分が実装するのだから、ヘマな設計をしたら自らの首を絞めるだけだ。また、コスト競争と言っても、単なる単価の安値だけではなく、設計能力を含めた総合力が問われるのである。

ちなみに、こういうやり方をすると、調達・建設コストダウンを追求するあまり、実際の運転段階にはいってからの操業コストや保全コストがかえって高くつくような設計が、生まれる可能性がある。そこで顧客は、投資額(Capital expenditure = CAPEX)と、運転コスト (Operational expenditure = OPEX)の両方を見積らせ、総合的に勘案して比較を行うのが通例だ。

なお、『競争的基本設計』が行われる背景として、プラントの基本的な技術(プロセス・ライセンス)を比較選定したい、というニーズも強い。たとえば液化天然ガス(LNG)分野では、APCIとかPhilipsとかLindeといったライセンサーがいて、競い合っている。IT業界でいうと、SAPやOracleなどパッケージ・ソフトウェアの選定に相当する。そこで、ぞれぞれを得意とするエンジ企業を1社ずつ選んで、競争的基本設計を行わせるのである。

こう書くと、いい事ずくめのように聞こえるかもしれない。だが、このやり方にも限界があることは、指摘しておこう。

一番の問題は、発注する顧客側の手間がかかることである。基本設計を二重・三重に進めるのだから、当然である。基本設計をするためには、顧客側の技術者がかなり、はりついてインプットを与え、適時レビューし、注文をつけなければならない。それを公平に、かつ同時に進めるのだ。

そして基本設計費用だって、2倍ないし3倍かかるわけである(大型プラントの場合、基本設計だけで数億から十数億かかる)。良い知恵を得るため、とはいえ、構築段階のコスト競争で差があまり出なかったら、何を得したのか分からなくなってしまう。

また、ある程度分業化の進んでしまったエンジ業界において、このような『競争的基本設計』を発注できる相手もまた、限られてくる。日本のエンジ会社は比較的、設計も構築も両方できるが、世界を見渡すと、そういうプレイヤーばかりではない。基本設計はあまり得意でないが、価格競争では非常に突っ込んでくる新興国のエンジ企業を、うまく使って安く仕上げたい、と考える購買責任者だって、発注側には、いるだろう。

ひるがえって、日本のSI業界で、この競争的基本設計の方式を取れるかと言うと、なかなか微妙だと思える。要件定義を二重、あるいは三重に、進められるだけの発注側企業が、どれだけいるだろうか。また基本設計費用をダブルで・あるいはトリプルで払う案を、経営者はのめるだろうか。そして、何よりも、出てきた基本設計書と見積書を、きちんと適切に比較できるだろうか? いずれも可能性はあるが、ハードルは高い。

こうして書いていくと、<設計の知恵を、リアルな価値に変える>ための、真の障害がどこにあるか、分かってくる。それは、実は発注者側の技術的能力にあるのだ。発注者側の能力が高く、設計にもちゃんと口を出せ、コストや納期を決める技術要因も熟知し、かつ、きちんと構築・実装段階のプロジェクトを、発注側としてうまくマネージできる能力があれば、たしかに、望ましい結果を得られるだろう。たとえ競争的基本設計方式をとらずとも、技術の目利きがあるのだから、良い設計にはきちんと評価とビジネス的なリワード(継続的な発注と育成など)を工夫できるはずだ。

だが、発注者側に技術能力が欠けていて、自分が何を望んでいるのかもよく分からず、提案の技術評価もうまくできないまま、業者選定に入るようだったら、どうなるか。技術の目利きの不足の代わりに、購買のコストダウン交渉が上手ならいい、と経営が考えている場合、どういう結果が生じやすいか。読者諸賢ならば想像がつくだろう。

設計の価値というのは、対象が単純で、結果が目の前にできあがっており、かつ自分が使い方に熟知しているものほど、分かりやすい。設計の良し悪しが、B2Cの消費財やサービスで、すぐ結果に出るのはこのためだ。

逆にいうと、対象が複雑なシステムであり、かつまだ設計書の段階で、しかも機能や使い方が広範囲でイメージしにくいものほど、設計の良否を評価するのは難しくなる。B2Bでは基本要件は顧客から与えられるから、設計の自由度もおのずから絞られる。では、これを正しく評価できるのは、どんな人間か?

当たり前だが、設計の価値が一番良く分かるのは、優れた技術者なのである。優れた、というのは、それがどう作られ、どう使われるかも熟知した技術者、という意味である。発注者の側に、そうした技術者がいることが、実は業界全体の技術レベルを上げるためには、死活的に重要なのだ。

良い技術者をを育てるには時間がかかる。職場環境という土壌を整え、仕事という水をやり、報酬という肥料を与えても、技術の花が咲き、知恵の実がなるまでは年月がかかる。それを惜しんで、「技術がほしければ、世界中の良い技術をカネで買ってきて使えばいいじゃないか」とする気短な発想だけでは、自国の社会の中から技術がしぼんでいくのだ。ちょうど肥沃な耕適地を耕さずに、海外から安価な商品作物だけ輸入すればいい、と考えている国のようだ。

技術とは自らの能力を増強するイネーブラーである。もし産業界がそれを必須と考えるならば、技術の価値をビジネス上の報いに直結させる仕組みを、ぜひとも工夫すべきであろう。そして、そうした知恵を出すことこそ、経済団体や官界の仕事ではないだろうか?


<関連エントリ>
 →「設計の価値」(2006-01-01)


by Tomoichi_Sato | 2020-09-05 15:00 | ビジネス | Comments(0)