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クリスマス・メッセージ:名前を持つ存在として

Merry Christmas!

少し前のことだが、ある打合せで、システム利用者のマスタをどう設計するか、の議論になった。個人を特定するために、まず各人にユニークなキーとなるIDを振る。それから主要な属性を定義していく訳だ。当然最初に来るのは、『氏名』だろう。

ところで、氏名という属性を格納するために、最初出てきた案は、たしか「名字」と「名前」の2つのフィールドを用意し、それぞれに読み仮名のフィールドを付け加える、というものだった。まあ、普通の日本人が考えると、こうなるだろう。

しかし、ユーザの中には結構な数の外国人もいた。そこで、「ミドルネーム」のフィールドもいるんじゃないか、というコメントが出た。加えて、結婚したけれど旧姓表記のまま仕事を続けている女性もいるから、そうした人はミドルネームに旧姓を入れれば便利だろう。そうなると、ミドルネームにも、読み仮名のフィールドが別に必要かもしれない・・

議論がそういう流れになっていったので、わたしは反対した。

「ミドルネームのフィールドなんか、いらない。姓と名を分けるのもやめて、『個人名』だけでたった一つのフィールドにすべきだ。その中に、その人の好きな表記を書いてもらう方が良い。」

妙なことを言うやつだ、という顔をしたメンバーがいたので、わたしは説明した。

「外国人の中には、苗字と名前というセットではなくて、名前しか持っていない人たちが、それなりにいるはずだ。また、自分の氏名のどこまでが名字で、どこからが名前なのか、分からない人だっている。人の名前ってのは、世界では案外多様なので、海外までユーザの枠を広げる前提で考えるなら、日本的な苗字+名前の枠組みにこだわらないほうが、最終的には安くつく。」

知っての通り、日本人が全員、苗字を持つようになったのは、明治維新後だ。それまでは、士農工商の中で苗字を持てたのは、原則として支配階級である武士だけだった。人口の9割を占める農民町民のたぐいは、皆、「権兵衛」「お富」といった名前しか持っていなかった。

わたしの父は、生前、「佐藤家なんて、3代さかのぼれば新潟の水呑み百姓さ」といっていた。新潟は糸魚川のあたりにいたわたし達の先祖が、「佐藤」という姓を、どこから拾ってきた、いや失礼、貰い受けてきたかは不明だが、ともかく維新後に「佐藤さん」になったのは、ほぼ確実である。

自分の姓を持てることになって、皆が嬉しかったかどうか、そこはよく分からない。ともあれ以来、日本人は誰もが姓と名を持つ、という常識がしっかりと根を下ろした。

ところが、海外に目を向けてみると、実はまだ「名前だけ」という国々が、案外広く残っている。アジアでは例えば、モンゴルがそうだ。またインドネシアもそうだ。独立後の初代大統領スカルノは、「スカルノ」がフルネームである。

それと、ミャンマーもそうだ。アジア人で発の国連事務総長になった「ウ・タント」という人がいたが、「ウ」というのは男性につける尊称(「ミスター」みたいなもの)で、また最後の「t」は発音しないため、「タン」さんが正式名である。また「アウン・サン・スー・チー」という女性政治家もいるが、ほんとは分かち書きをするわけではなく、「アウンサンスーチー」が名前だ。彼女は、ビルマ建国の父・アウンサン将軍の娘だが、別にアウンサンという名字がある訳ではない。

もう少し西に、目を転じようか。アラブ世界にも基本的に、名字に当たるものがない。預言者の名前を戴いたムハンマドさんは、ポピュラーな名前なので、どこにも大勢いる。そこで、区別したいときには、後ろに父親の名前をつけて、ムハンマド・アリーといった風に呼ぶ。それでも区別がつきにくいときは、さらにその後ろに祖父の名前をつける。おかげで電話帳には、「ムハンマド・ムハンマド・ムハンマド」氏が何人も並ぶという(「やわらかなアラブ学」田中四郎・著、P.186)

そんなバカな、こないだ会ったアラブ人はちゃんと姓名があったぞ、とお思いの方もおられるかもしれない。たしかにビジネス上で名刺をやり取りするような階層の人は、そういう氏名表記をしている。でも、それは彼らが西洋流儀に合わせているらしいのだ。たとえば、苗字と名前の間にビンbinがはさまる時があるが、これは父親ないし一族の名前を示している。後ろに出身地を持ってくる場合もあるらしい。

ちなみに、かつてのイラクの独裁者は、「サダム・フセイン」といい、日本の新聞は彼を「フセイン大統領」と呼んだ。しかし彼の本当の名前は「サダム」一語であり、「フセイン」は区別のためにつけた父親の名前であった。だから本来ならば「サダム大統領」というべきだったのだ。実際、湾岸戦争の時、ブッシュ大統領(父)は演説で彼を、「サダーム」と名指しで繰り返し呼んだが、それは正しかったのだ(ブッシュ家は石油業界と深いつながりがあり、アラブ圏ともかなり交流があった)。

トルコも昔は名字がなくて、建国の父ムスタファ・ケマル・アタチュルクも、本来はただのムスタファさんだった。ケマルは士官学校時代につき、アタチュルク(=「トルコの父」)は後に議会から贈られた称号である・・

いや、もういいだろう。とにかく、わたし達が単純に、「人の氏名=名字+名前」だと思っている方程式は、海をひとまたぎ超えると、もう通用しにくくなるのである。

そんな苗字のない状態で、どうやって一族の結束を保てるのか? そう思う人もいるかもしれない。だが、それはまさに、わたし達の3〜4代前の父祖にたずねてみるべきだろう。その時代の人達よりも、今のほうが、祖先を大切にしていると言い切る自信は、わたしにはない。

ついでにいうと、中村日吉丸から木下藤吉郎を経て、豊臣秀吉になった人の例を見れば分かる通り、昔の日本人は生涯に何度も姓名を変える例が、少なくなかった。それでも、この小柄な武将は、自分のアイデンティティを失うことはなかったはずだ。

自分の名前は確かに自分の大事な一部だが、すべてではない。愛着のある人も多いだろうから、他人が変えることを強制するのはどうかと思う。だが、出世魚のように社会的な場面を切り開くごとに、自分でつけ直せたら面白いんじゃないかと感じることもある。実際、SNSなどの匿名コミュニティごとに、違ったIDを使い、違った自分を演出する人だって多いではないか。そこまでいかずとも、筆名・雅号などは昔からあったことだ。

わたし自身は、匿名のネット・コミュニティというのはあまり好きではない。だから、会社員であるにもかかわらず、本サイトは自分の実名で運営しているし、コメント欄にも、原則として実名かそれに準ずる名前で書き込んだ人にしか、答えないことにしている。何か議論する場合は、本当はフェース・ツー・フェースで話し合うべきであり、せめて文字だけでやり合う場合も、自分の社会的アイデンティティを表に出して、自分の発言の結果を引き受けるのが礼儀ではないかと思うからだ。

名前とは、社会的なアイデンティティに対するトレーサビリティの標識のようなものである。「イチロー」のようにたった一語でもいいし、「柳生但馬守宗矩」のように職名(=変数名)がはさまってもいいが、その人の具体的な身体や所属や係累、来歴が立体的にとらえられることが、人と人がつながるためには大事なのだ。匿名コミュニティが好きになれないのは、そうした「つながり」の価値を軽視しているように感じるからだ。スパイ組織ではあるまいし、コードネームだけでどうやって、相手を信頼できるというのか。

そういえば、「イエス・キリスト」も、イエスが名前でキリストが苗字だ、と思っている人をたまに見かける。言うまでもなく、『キリスト』は救世主という意味のギリシャ語であって、要するに「救世主イエス」という称号である。もちろん、本人がそう名乗っていた訳でもない。あとからついた呼称である。

今から2千年ほど前に生まれたこの人は、イェシューという名前を持っているだけだった(イェシューは「ヨシュア」という名前のガリラヤ地方風の発音)。他の人と区別するために、出身地をつけて「ナザレのイェシュー」とも呼ばれた。ちなみにナザレの地元の村では、「マリアの息子のイェシュー」と呼ばれていたようだが、普通は父親の名前をつけて呼ぶべきところだから、もしかすると父親のヨゼフ氏は、彼が社会的に活躍するずっと前に亡くなっていたのかもしれない。

彼が生まれた当時、ユダヤは全体としてローマ帝国の辺境に位置する属国であり、間接的な植民地支配下に置かれていた。一応、王もおり、大祭司もいて、民族宗教の最高の象徴であるエルサレム神殿もある。だが、ほんとうの意味の主権はユダヤ人にはなかった。軍事も司法も納税も、ローマ帝国におさえられていたのだ。そうした時代が長く続き、抑圧された民衆は次第に、救世主の到来を強く待ち望むようになる。

ただしこの人は平民の出身だった。当時の観念では、高貴な血筋の出身や大金持ちなど恵まれた境遇の人ほど、神に近いはずだった。それなのに、「貧しい人々は幸いだ、神の国は彼らのものだ」などと物騒なことを説教して回る。「仲間の中で最も小さい者に対して、あなたがすることは、このわたしに対してするのと同じことだ」ともいった。

この人の中心的なメッセージの一つは、「人とのつながりを大切にすること」、すなわち、通常は『隣人愛』などと訳されている行いである。それは、抽象概念としては美しいが、実際に実行するのはとても大変な業である。だって知っての通り、わたし達はみな、凸凹のある、長所もあるが欠点も多い存在だからだ。

それでも、人と人とが対等につながることを、そして支え合うことを、とても大事だと教えた。些末な律法を全部暗記して、従うよりもずっと重要だ、とも(こういうことを主張するので、結局この人は地上の権力からも宗教界からも迫害されることになる)。

つながりというのは、信頼がなくては保てない。信頼というのはつまり、お互いを裏切らないこと、不確かな未来への期待に応えられること、を意味する。それは対等な間柄で、自由意志によって結ぶものであろう。

もちろん、家族や、仕事上の職位の序列だって、人のつながりの一種ではある。ただ、それは短期的に、自分の意志で選んだり変えたりすることはできないものだ。そしてしばしば上下関係を伴う。植民地支配下に置かれ、支配者と貧しい民衆に二極化した当時のユダヤ社会では、そうした息苦しい関係性の網目がくまなく覆っていたに違いない。

そんな社会を蘇生させ、より良い希望の便りをもたらすのは、人と人との間の自由で対等なつながりである、という意味のことを彼は説いた。少なくとも、彼はそれを短い生涯の中で実践してみせた。

クリスマスChristmasという言葉は、キリストのミサ(Christ + Mass)から来ている。今はキリスト教徒でなくても、キリスト教国でなくても、日本をはじめ多くの国で、人々はクリスマスを祝っている。もちろん商業主義の後押しもあるだろうが、それでも冬至の、陽の光が一番短い時期に、なにか新しい誕生が予感できるのは喜ばしいからだろう。その誕生劇は、厩の中で、いちばん貧しい階層から生まれるのだ。

そして何より、そのお祝いは、名前も顔も持つリアルな人と人の間で共有される。祝祭は何より身体的で、感情的なものだからだ。わたし達が、社会の中の単なる記号やIDから、アイデンティティを持つ生身の人間に戻る時、そこにようやく祝典のつながりが生まれるのだ。


<関連エントリ>


by Tomoichi_Sato | 2019-12-22 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「彼女は頭が悪いから」 姫野カオルコ・著

彼女は頭が悪いから」姫野カオルコ (Amazon)

ちょうど1年前の12月、東大で開かれたシンポジウムを聞きに行った。東大生5人による強制わいせつ事件に想を得た話題の新著、『彼女は頭が悪いから』の著者・姫野カオルコ氏を招いてのブックトークである。姫野さんの外に、スピーカーとして、文藝春秋の編集者と女性活動家、そして東大の教官数名が登壇した。イベントは駒場キャンパスの銀杏並木角にある地下ホールで、平日の夜に行われた。

今思い出しても、このシンポジウムはまことに東大的だった。ひどく真面目なのに、全体としてひどくバカげている。どうしてこんなシンポになってしまうのか。疑問を感じながら家路についた。

シンポジウムではなぜか、この小説にリアリティがない、ということに批判が集中した。その理由として、三鷹寮だとか入試問題だとか女子学生の比率などが、事実と違っている、という論拠が揚げられた。しかしどうやら、この小説に描かれている東大生たちは屈折がなさすぎて、自分たちと違いすぎる、感情移入して読めない、ということに皆が引っかかっているらしかった。だとしても、そのことに、なぜあんなに怒っている参加者が多かったのか。

「彼女は頭が悪いから」は、小説=フィクションである。ちょうどマンガの「巨人の星」がフィクションであるように。

「巨人の星」には、長嶋茂雄をはじめ、実在の人物がたくさん出てくる。だが、実際にあったことをマンガにしたものではない。読売巨人の「中の人」が、あのマンガを読んで、「実際の読売ジャイアンツとはいろいろと違ってる」といってみても、それは批評にはならない。あそこでは、世間の人が、巨人軍について持つイメージを元にした物語が、描かれているのだから。

姫野さんもシンポの冒頭で、「この小説は、東大の人に向けて書いたものではない」と、わざわざ説明している。だが、なぜ東大の人たちは、教員も学生も口をそろえて、『彼女は頭が悪いから』にリアリティが欠けていると著者を批判するのか。人が些細なことに対して、妙に激しく怒るときは、そこに何か見えない心理的機制が働いていると疑ってしかるべきだろう。

わたしは一応、東大の大学院で毎週講義を持ち、それを足かけ8年にも渡って続けてきた人間だ。だから世間の平均的な人よりは、東大生という人種を多少は知っているといっても、バチは当たらないと思う。そして上記の問題は、西村肇・東大名誉教授の次のような発言に、ヒントがあるのではと感じるのだ:

「私は東大をやめてから、初めて東大の卒業生の性格がよく見えてきました。初めて、東大以外の卒業生と深くつきあうようになったからです。その結果、いままで気づかなかった東大卒業生の性格のいやな所、問題のある所が、とてもよくみえてくるようになりました。

私が痛感している点は、三点です。

まず第一は、劣等感の強いことです。これはちょっと意外かもしれませんが、本当です。○○天才などと呼ばれていたものが、東大に入ると、とてもかなわない奴がいることを知って、自信が根本的に崩れてしまうのです。しかしそれを認める余裕がなく、隠そうとします。ですから、東大卒業生は批判されることを嫌い、本当に批判されると壊れてしまいます。ガラスの器のようです。」
(西村肇「日本破産を生き残ろう」 日本評論社・刊、P.152)

東大の卒業生は劣等感が強い。しかし、それは無意識の下に隠されていて、自分でも気づかずにいる。このことは、東大出の人たちと付き合う必要のある人間は、覚えておいた方がいい。彼らは傷つきやすく、本気で批判されることに弱い。だからそういう失敗のリスクのある場は、無意識に避けようとする。Stupid(バカ)なことはしない、というのが東大卒のポリシーなのだ。

ただし、それは自分一人の時である。周囲に誰か同じことをする人間がいて、自分に言い訳が立つ、と判断できたら、彼らもバカな事に興じたりする。この小説の事件が、単独犯ではなく5人の連行犯だったのは、そういう事情を示しているかもしれない。

ところで、本書に登場する東大生たち、副主人公格である竹内つばさをはじめ、和久田悟・國枝幸児・石井照之(エノキ)・三浦譲治ら、いわゆる「星座研究会」の5人はいずれも、あまり劣等感なり屈託がないキャラ作りになっている。わりと素直に育ち、かつ周囲の人間に対する無条件の優越感を持っている。少なくとも、世間の人たちは、東大生とはそういうものだ、と信じている。

この点が、現実の東大生たちの気に障るのだろう。シンポでは、自分たちも挫折を経験している、というような発言が繰り返し出た。だからどうだというのか? 基本的にこの小説は、「中の人」向けに書かれたものではないのだ。もちろん、竹内つばさに感情移入できる読者は、世間でも決して多くあるまい。少なくとも、わたしにはとても難しい。

ついでにいうと、シンポでは、ある教官が、「このような事件が起きた背景には、東大の女子学生の数が、男子学生に比べて圧倒的に少ない、という非対称性がある」という意味の発言をした。

だが、ちょっと考えてみてほしい。もしこのような言明が正しければ、男子学生の比率がもっと高かった昔は、同種の事件がさらに多数起こっていたはずだろう。東大が女子学生を受け入れ始めたのは昭和27年からで、それ以前の東大は男子校だった。かりに時代の変化があって単純に比較できないとしても、じゃあ現代における同種の事件と、各大学の男女比率をもとに、証拠立てるべきだった。

この論者は、自分の主張を事実に照らして検証しよう、という姿勢に欠いている。読者諸賢よ、安心されたい。東大の知性なんて、この程度のものなのだ。

だが、東大以外の世間の人達の方は、ある意味、もっと訳わからない。事件が報道され明らかになってから、被害者である神立美咲の家に電話をかけてきて、いきなり「勘違い女の家?」「バカ女、聞いてるか?」などと怒鳴ってくる人間の大半は、おそらく東大卒ではあるまい。この小説はフィクションだが、この部分は相当に、現実起きた事に近いと思われる。

女性が性的な暴行を受けた後で、周囲から逆に非難されて傷つくような現象を「セカンド・レイプ」と呼ぶらしい。主人公の美咲を襲ったのは、そして摂食障害にまで追い詰めたのは、まさに世間の人間達によるセカンド・レイプだった。

しかも念のために書くと、美咲はレイプされた訳ではない。「5人の男たちが一人の女を輪姦しようとしたかのように伝わっているのはまちがいである」と、作者はプロローグの第1頁に書いているほどだ。たしかに竹内つばさ達5人が、美咲に対して行った事は、「強制わいせつ」に相当する、非道い行為である。だが世間の人間が、報道テロップから単純に連想するような犯罪ではなかった。

にもかかわらず、そのような「いやらしい犯罪」の被害にあったのは、被害者の美咲が「勘違い女」で、悲劇の原因は「彼女の頭が悪いから」だという、ひどく逆立ちした理由付けが、ネットを中心に広まった。一体何を、勘違いしたというのか? その疑問こそが、この小説全体のテーマである。

そして、その答えは、はっきり言語化した形では、小説内には書かれていない。作者も、読者も、その疑問を未解決なまま共有し続けるように、この小説はできている。無論、モラリストで心優しい作者のことだから、被害者の美咲をどん底に突き放したままで終わるような書き方はしないが。

ところで姫野カオルコの小説の中でも、本書は登場人物が多い。しかも複数のエピソードが時代を渡り錯綜して描かれるので、わたしは途中で登場人物表を作って、最初に戻って読み直したほどだ。おまけに、「グレーパーカ」の彼氏のように、結構重要な人物なのに、名無しのままのキャラも数名出てくる。プロの小説家だからまさかとは思うが、途中でキャラに命名するのに疲れたのだろうか?

命名ということでいうと、美咲の通う「水谷女子大学」が仮名なのは当然としても、本書に出てくる学校名には、「東大」「慶応」「理科大」など実在のものと、「横浜教育大」のように仮名のものが混じっている。著者がどのような意図で、この使い分けをしたのか、考えてみると面白い。実名で出てくるのは、「日本女子大付属中」「日大芸術学部」を含め、歴史ある名門と言われる学校だけで、仮名は「その他大勢」でしかないのだ。

また、つばさが大学初年で足を怪我し、微妙にパドルテニスを楽しめなくなった、というあたりの伏線は、いかにも小説的に巧妙だと思う。ちなみに本書は、発刊後1年近く経ってから、あらためて「柴田錬三郎賞」を受賞している。受賞が遅くなったのはむしろ、マスコミ的な興味とは別の、小説的な価値を認められた証左だろう。

とはいえ、この小説は、悲劇的な結末に向かうことが分かっているだけに、読み続けるのがなかなかつらい。とくに主人公の美咲が、東大生で主犯格のつばさと、綱島で2回目のデートをするあたりが、一番悲しい。

それにしても、この小説で描かれている一つの事実がある。それは、
 「頭の良い人間は、頭の悪い人間に対して、どんなことをしても良い」、
という恐ろしい思想を抱いてる人間が、この社会には一定数いる、という事だ。

あるいは、「勝ち組は負け組に対して、どんなひどいことをしても正当化される」と信じている連中が、今の世にはそれなりに存在するということだ。少しはまともだったはずの、わたし達の社会は、もうそこまで落ちぶれてしまったことを、この思想は示している。

18歳の冬のある数日間、たまたまペーパーテストのパフォーマンスが良かったからといって、その人間が一生優秀である保証などないし、一生優越的な立場にある社会は、明らかに間違っている。人はむしろ、大学を卒業後、どれだけ考えどれだけ学ぶかで、賢さが決まる。生まれつきの知能の良し悪しには多少の差があっても、また家の経済的境遇には差があっても、この点で人は互いに対等だ。このまっとうな道理が、通らない世の中になりつつある。

だとしたら確かに、わたし達は皆、頭が悪いのだと言えよう。


<関連エントリ>
  (東大生の非行に対するわたしの基本的な考え方は、 この記事に記したとおりだ。)




by Tomoichi_Sato | 2019-12-17 00:12 | 書評 | Comments(0)

工場コックピットで、何を見たいか?

上層部へのプレゼンは、呆気ないほど短い時間に終わった。あなたが懸命に準備して訴えた、「工場コックピット・システム」の提案は、事業部長からそっけなく拒絶されたのだ。あなたはIoT技術の進展、ライバル会社や欧米企業がスマート工場に向けて着実に動いていること、AIによる故障予知や熟練工スキルのデジタル化などのメリット、工場内で起きている事象をリアルタイムに可視化することの意義を訴えたが、通じなかった。

あなたの脳裏には、2年半前に欧州の展示会で見たエス社のシステムのイメージがあった。エス社が満を持して発表した、M…と言うソフトウェアは、工場内のあらゆる機械やデバイスから信号を受けとり、IoT技術によってクラウドにあげる。ユーザはあらかじめ定義された様々な部品を、グラフィックに組み合わせることで、自社の複数の工場にまたがる、様々な機械や人の動きを、リアルタイムに画面表示できる。

それは工場の通信ネットワークから、産業機械類、それらをコントロールするPLC、さらに上位系のソフトウェアまでを、幅広く持っているエス社ならではのシステムだった。工場に並ぶ工作機械は、ほとんどPlug & Playの状態でM…システムに接続でき、その制御パラメータ等も、上位から変更することができる。あなたはその技術の先進性と、インダストリー4.0に向かって邁進するドイツ産業界のスピード感に、舌を巻いた。

そうはいっても、日本の自社工場内では、様々な状況が異なる。機械もPLCもメーカーはバラバラで、互いに接続できるような通信系統もない。制御盤を持たない古い汎用機も、数多く存在する。あなたはそれでも、様々なセンサーと通信を組み合わせることによって、なんとか主要な機械の稼働状況をモニタリングできる仕組みを考案した。自動倉庫の制御システムWMSとも接続し、在庫状況もリアルタイムに表示できるようになる。セキュリティの懸念からクラウドは断念し、エッジサーバ上に構築しようと決めた。

あなたはこれを「工場ダッシュボード」と呼んだが、副工場長の助言に従って「工場コックピット」といい直すことにした。ダッシュボードでは自動車の運転席みたいだが、コックピットは戦闘機の操縦席である。「うちの会社は今、生き残りをかけた戦闘中だからな」と副工場長は言った。

だが、営業畑出身の事業部長の反応は、ニベもなかった。「うちの工場が、高コスト体質にあるのはよく知ってるはずだろ。このシステムは、下手をすれば億を超える金がかかるそうじゃないか。そんな投資は論外だ。」 賛同してくれると思った工場長も、意外に否定的だった。「うちの工場は、現場改善が命だ。デジタル化やAI技術では、現場主導のPDCAが回らなくなる。」

「こんなものに頼らないと、君は工場を経営できないのか?」事業部長が皮肉を込めて、工場長に尋ねる。「もちろん今でもちゃんとやっております。」当然ながら工場長はそう答えた。 あなたは懸命になって、「ですが、このシステムは一緒のカーナビのようなものです。現在の位置を正確につかみ、より効率的な経路を見つける手助けをしてくれます」とフォローしたが、工場長には響かないようだった。

意外だったのは、頼みにしていた長老の技術顧問も「リアルタイムの可視化だけでは得るところが少ない」と消極的なコメントをしたことだった。あなたは、ゴルフ焼けした事業部長の顔を見つめながら、それ以上反論することを断念した。

席に戻ったあなたは、自分の会社への気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。翌月、あなたは思うところあって、会社に辞表を提出する。政治の世界に転身することを決めたのだ。このままでは社会全体がダメになってしまう。何とか根本から変えなければいけない。

数年後、あなたはいくつかの幸運や、有力者のバックアップなども得て、党代表の地位に上り詰めた。さらにその半年後、総選挙で政権党がスキャンダルのため総崩れとなり、あなたの党が第一党となった。おめでとう。あなたは首相の座を手にしたのだ。

あなたは首相執務室の横に、かねてからの願いであった「首相コックピット」を設置することにした。日本社会全体の状況をリアルタイムに表示し、それを見ながら、あなたは次のうち手を考え、命令を下す。

では、その「首相コックピット」の画面には、何を表示すべきだろうか?

何よりも急務なのは、経済の立て直しだ。25年以上の長い不況を、終わりにしなければならない。だから第一に、GDPと、成長率の表示が必要だ。それも国全体だけではなく、都道府県別の数字が見たい。

政策の基本として、人口データの表示も必要だ。高齢化と人口減少が、多くの人を悩ませている。この流れを食い止めなければならない。もちろん就労人口と失業率も、経済指標として大切だ。

ところでGDPとは、企業セクターの稼ぐ粗付加価値額の、総合計である。したがって、各県別のGDPを、その県の就労人口で割ったものは、そこの付加価値労働生産性を示すことになる。これが地域によって案外バラバラなことを、あなたは肌で感じている。

例えば最近では、名古屋都市圏の経済規模は、大阪を抜いたと言われている。だとすれば限りある国の資金も、大阪から引き抜いて名古屋に投入した方が、有効活用されるはずだろう。

有効に活用されてない資源を引き抜き、より活用されているカ所に振り向ける。これこそ政策ではないか。首相たるあなたはそう考える。そういえば会社員だった時、ERPと言う言葉を聞いたことがあったな。ERPとは、Enterprise resource planningの略称であった。すなわち企業全体の経営資源の、最適な再配置をするための道具。だとしたら、自分がやっているのは、National resource planning = NRPシステムの構築だな。

である以上、交通や都市インフラへの、財政投融資の状況も見る必要がある。また、医療費や福祉介護への費用、教育費用等についても見たい。食料自給率の観点から、農業データへの目配りも大切だ。

これを実現するためには、全省庁と自治体をまたいだ、データ収集基盤のようなものが必要になる。時系列で非定形なデータもあるだろうから、巨大なデータレイクといったところだろうか。有能なデータサイエンティストを何人か連れてきて分析させれば、得られる発見も大きいだろう。

いかん、大事なことを忘れていた、とあなたは気がつく。防衛である。国土を守る防衛システムにも接続して、状況を見えるようにする必要がある。国家存亡の危機事態には、この官邸こそが、まさにその司令塔=コックピットになるはずではないか。

よし。これで万全だ、とあなたは思う。これで、某仮想敵国が北海道に攻め込んでこようと、別の某仮想敵国が南西部の島嶼を襲撃しようと、さらに別の隣国がミサイル(最近マスコミは妙に遠慮して「飛翔体」と呼んでいるが)を打ち上げてこようと、すぐに出撃対応できる。さすがに例のT大統領が、思いつきで何か難癖をつけてくるのだけは、防ぎようがないが。

かくて、巨額の費用をかけて、「首相コックピット」は完成した。これであなたは、日本をうまくマネージできるだろうか?

あなたは経済政策こそが第一優先だ、と考えた。だが、経済活動は企業が主役である。あなたは法律や税制を通じて、企業経営者に間接的に働きかけることができるだけだ。計画経済ではないのだから、これを作れ、あれを売れ、と自分で指示することは不可能だ。つまりコックピットに座るあなたの操縦桿は、じつはエンジン出力や翼の方向を直接、変えることができないのだった。

人口動態や保健医療についても同様だ。出世や結婚は各個人の行うこと。命令はできない。保健医療も、国や自治体が担うのはその一部でしかない。後は、民間の事業者に任せて効率化を図ってきたはずなのだ。

そもそも経済対策といっても、あなたに切れる札は、金融政策と、財政出動しかない。では金利を0.1%上げさせたとき、あるいは一兆円の公共事業投資を行った時、経済はどのように反応して動くのだろうか? もしマクロ経済学に確とした予測方法があるのなら結構だが、そうでないからこそ、この国はこんな状況に陥っていたのではなかったか。

あなたは付加価値生産性や失業率を、重要な経済指標と考えた。だが、では、その数値がどの範囲だったら正常で、どこを超えたら変調を示すのか、決めることができない。せいぜい海外や過去のトレンドと比べるだけだ。あとは、あなたのカンによる気付きに頼るしかない。異常が検知できないモニタリング・システムとは、どのような意義があるのか?

もう一つ。コックピットの前に座る人が、陥りやすい罠がある。それは「選択と集中」による資源の再配置、という思考方法だ。大阪から名古屋に資金や資源を再配置すれば、経済効率が上がるだろう、とあなたは考えた。それは、大阪と名古屋がまったく独立した経済圏ならば、正しいかもしれない。しかし両者の間には、様々なインタラクションがあり、相互依存性があるのだ。ある地域の効率低下が、別の地域の経済の足を引っ張る可能性もある。

それは産業間の資源再配置でも同じだ。各産業が全く独立しているなら、有力な産業に集中する意義もあろう。しかし産業間の連関や労働力のとりあいを考えれば、経済システムというのは単なる要素の足し算ではないことが分かる。

すべての結果は要素の掛け算と足し算で計算できる、という思考を、工学の世界では、「線形的」思考と呼ぶ。人間系が絡む大規模システムの最大の特徴は、線形ではないことだ。それは工場や、一般の企業組織も同じである。そうした要素間の有機的な関係が、コックピットで見えるように表示されていないと、間違った方針設定をしてしまうリスクが高くなるだろう。

結局のところ、「首相コックピット」は、起きている事態のモニタリングはできるが、リアルタイムに現場に指示やガイダンスを出すこともできず、標準値に基づくフィードバック・コントロールもかけられず、異常な変調にも対応できず、要素間の連関性も見えず、打ち手の結果予測すらできない。これでどうやってあなたは、日本国家全体をマネージするのか?

ふりかえって、あなたが会社員時代に作ろうとした「工場コックピット」は、これと本質的にどこが違うのだろうか。

もちろん、国の経済社会システムと、一企業の工場では、いろいろな点が異なる。工場は生産という目的が明確で、利益を目指して動く。製造工程もはっきりしている。一国の社会ははるかに多目的、ないし「存続自体が主要目的」であって、経済合理性だけでは動かない。それでも、より良くマネージするためには、単なる状況の可視化以上の工夫が重要であろう。

誤解しないでほしいのだが、わたしは工場ダッシュボードや経営コックピットといった、可視化の仕組みそれ自体の意義は、十分評価している。ただ、少なくともそこには、現場に対するインストラクションやガイダンスを直接下せる方法と、変調(標準値・目標値からの逸脱)をわかりやすく表示する仕組みが必須だと考えているのである。ユーザの気づきを促すような表示の工夫が大切で、データサイエンティストを連れてこないと状態がわからぬようでは、話にならぬ。

また現場側が、このシステムを通じて、単に「監視されている」と感じるだけではなく、問題が起きたときに、すぐに上が対応し、支援し助けてくれる、という感覚を醸成することも、この仕組みが機能する必須の条件である。

その上で、望むらくは、何らかの予測とシミュレーションの機能が欲しい。あなたが事業所部長に、「これはカーナビです」と言った時、それは半分正しかったのだ。カーナビは少なくとも、最短経路を選んで、到着時間を予測してくれる。

ただしカーナビは、自分の位置を測定するGPSを積んでいる。工場では、どの機械や人が動いているかを知るだけでは、状態把握としては十分ではない。それがどの品目を加工していて、どこまで進んでおり、どのオーダーに紐付いていてるか、までリアルタイムに分からないと「現在位置」の役に立たないのだ。そして、その実現は、決して簡単ではない。

それでも、それは向かうに値する目標である。それは、工場全体レベルでの賢さ(「スマートさ」)を持つためには必須なのだ。賢さとは、答えを出す頭の回転の速さ、の別名ではない。全体を見通し、自分で気づき、事実から学ぶ能力を言うのだから。


<関連エントリ>
 →「『スマート工場』はスマートか?」 (2018-05-26)


by Tomoichi_Sato | 2019-12-01 19:12 | 工場計画論 | Comments(0)