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クリスマス・メッセージ: 序列でも競争でもなく

Merry Christmas!


大学を出て随分経つのに、入学式のことを、不思議と今でも覚えている。当時は、学内にあった講堂が事情で使えず、学外の大きな会場を借りて行っていた。わたしたち新入生が神妙な顔で並んでいる前を、まず学部長達が入ってきて、ステージ上に並んだ椅子に順に腰掛けていった。そして最後に、学長が入ってきて、「新入生諸君!」といった感じで、訓示が始まる。

わたしの入った大学はマンモス校というか総合大学で、学部は全部で10あった。ところで、司会者が学部長を端から紹介したのだが、その順番が奇妙だった。まず法学部、次に医学部、さらに工学部、そして文学部・・といった風なのだ。文系・理系の区別でもないし、もちろん入試枠の順番でもない。何なんだ、この順番は? と不思議だった。

その順番の意味が分かったのは、入学式からずっと後のことだった。そこの大学では、学部の偉さの順位というものが、なぜか決まっているのだ。一番偉いのが法学部で、次が医学部、三番目が工学部・・ということで、学部長はその序列にしたがって、式典に並ぶしきたりになっている。だが、なぜ法学部がトップなのか、理由はよく分からなかった。一番新しくできた教育学部とか薬学部が最も下位らしいので、できた順番か、とも思ったが、必ずしもそうでもないらしい。

わたしはそれまで、学問なんてみな対等で、別段、学部に上下などないのだと信じ切っていた。だが、その大学では、違っているらしかった。少なくとも、下位の学部からは、学長を出せないのだそうだ。学長は選挙で決まるはずだ。だが、選挙に立てないし、もし立っても当選できないのだと聞いた。

まあ、これは昭和時代のことだ。今では事情は、まったく変わっているのだろう。変わっているだろうと思いたい。でも、つい今しがた、念のため大学のHPをのぞいたら、学部紹介の順番は相変わらず法医工文理・・という順番だった。ま、何というか、伝統に忠実な(あるいは因習に固陋する)立派な組織ではある。

ついでにいうと、その大学では学長を「総長」と呼んでいた。私立のマンモス校ではおなじみの呼称である。ところが、公立・国立では、学長ではなく総長と呼べるのは、たった2校のみと決まっているらしかった。さらにいうと、国公立大学で、法学部を持てるのは旧帝大のみ、ということも知った。なぜあちこちの都道府県に、法律を学ぶ場所を設置しないのか、わたしは理系だったが、不思議に思った。

しかし、大学間には、そうした「」というものが、厳然と存在するのだ。そして、大学内にも、学部間で、やはり「格」だとか偉さの順番という序列が、見えない形で生きている。

社会に出てからも、この国には、目に見えない序列と規制の網の目が張り巡らされていることを、次第に実感するようになった。やっかいなことに、こうした序列や規制は明文化されていないか、されていても目立たぬところに書かれているらしい。何も知らぬ新人は、壁にぶち当たって痛い目に遭わないと学べない。いや、この歳になってからも、まだわたしはいろいろな序列の存在に驚かされている。

たとえば経団連の会長には、製造業の社長でないと、なれないのだそうだ。なぜ金融や通信や不動産ではいけないのか、わたしは知らない。いや、これだけ激変の時代なのだから、どんな業種だろうと、ビジョンと力量のある企業が会長になってリードすればいいじゃないかと考えるのだが、財界はそう考えないらしい。

あるいは、最近、小説を読んでいたら、「東京地検特捜部は、検察の中のエリート集団だ。だから彼らがいったん狙いをつけた案件は、必ず有罪に持ち込む」という記述があって、驚いた。別に最近の某有名外国人経営者の逮捕事件を連想して驚いたのではない。わたしは愚かにも、東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、地域である以上は、対等だろうと思っていたのだ。でも、たぶん作家の方が正しい。最も優秀な「エリート」は、なぜか東京に配属されるのだ。

きっと似たような事情は、全国の地域をまたがる組織群には、陰に陽に存在しているにちがいない。電力会社も、鉄道会社も、たぶんガス会社も、みんな東京が序列の一番トップにいるのだろう。言われてみれば、そういう兆候をなんとなく見聞きしたように思う。東京の組織で功成り名を遂げた人は、地方の組織に天下ったりする。だいたい、東京以外をまとめて「地方」と呼ぶのはなぜなんだ。

わたし自身は東京の郊外の生まれだが、東京が全国で一番偉いという感覚はない。北海道だろうが四国だろうが、地域はみんな対等だと思っていた。今は横浜市民だが、もちろん横浜は東京と対等と思っている。でも、わたし達の社会では、東京がデフォルトで偉さの序列のトップにくるらしい。わたしは自分の間抜けさを思い知らされた気がした。

もう一つ言おうか。自分が中小企業診断士のはしくれだから感じるのかも知れないが、わたし達の社会では、「大企業」と「中小・零細」では、単なる実力の差以上に、ハンディキャップがのしかかっている。銀行の金利であれ、機械の保守費であれ、中小零細は大手の倍以上の負担を迫られる。販売ルートの確保にいたっては、言うまでもない。大手はいつまでも大手で、中小企業はいつまでも中小、というのが社会のデフォルトの想定なのだ。

それにしても、この、目に見えない位階というか序列というものは、何なのだろうか? なぜ、このような不合理なしきたりが、平成も終わろうとしている21世紀のわたし達の社会に生きているのだろうか。

それで急に思いだしたことがある。何年も前のことだ。勤務先のある優秀な中堅の人に、「なぜ出身のX県ではなく、ウチのような横浜の会社に就職したの?」とたずねたことがあった。懇親会の席上で、軽い話題のつもりだった。彼の出身地・X県は、豊かで立派な産業があり、気候も温和な、良いところだ。だが、彼の答えは意表を突くものだった。「X県は、いまだに江戸時代なんです。だから、どうしても県外で就職したかった。」というのだ。

江戸時代? どういうこと!? そうたずねると、彼は答えた。ーーX県では、江戸時代の士農工商みたいに、あらゆる会社の順位が決まっているんです。X県で他を圧倒する大企業の○○社があり、それの系列会社や販売代理店やさまざまな周辺企業が、順にランクづけされています。町内会や地域行事も、いろんな会社がランクごとに援助しています。それだけではなく、お父さんの勤務先や職位によって、奥さんや子ども達さえも、微妙にランク付けされるんです。

○○社を頂点とした序列が、社会生活の隅々まで覆っているのがX県だ。彼はその息苦しさに耐えられなかったと言う。

わたしは噂に漏れ聞いた○○社の内情を思い出した。定年退職した工場の技能者は、その人の生涯の成績が最上位だと、会社から家まで、高級車で送ってもらえる。次のランクの人は、車で最寄りの駅まで送ってくれる。さらにその下のランクは・・定年退職で工場の門を出るときまで、処遇の差が見える化されているのだ。そして同じ企業内でも、激しい工場間・部門間の競争があり、社内競争でボーナスも決まる。

それがどうした。競争社会とはそういうものじゃないか。そんな声もきこえそうだ。たしかにそうかもしれない。だが、それと、X県の(あるいは○○社の系列の)会社間に、まるでどこぞの大学の学部のように、見えない序列があることと、どう両立するのか。どの職位の管理職が、どこの会社に天下りするかみたいなことが、格付けで決まっているのも奇妙ではないか。企業というのは、努力して伸びたら業界の上に行けるものではないのか? わたし達の社会の競争原理というのは、どこかで何かが歪んでいないか。

競争こそ、世の中を進歩させる原動力だ、という信念は強い。たしかに、人に勝ちたい、負けたくないという気持ちは、たいていの人の心の中にある。そして、とりあえず競争に勝ってきた人間は、競争の意味を疑わない。学歴競争や実力競争で勝ち残ってきた人ほど、その擁護者になる。だからメディアでも学識経験者でも、競争礼賛的な言論が流通しやすい。

だが、わたし達の社会の競争原理には、どこか寸足らずのところがある。大きな枠組みでは、すでにエレベーターのように、高層階行き、中層階行きと出発時点で決まっていて、ひっくり返せない。そしてエレベーターの箱の中で、どんぐりの背比べみたいに、互いに競争している。

このような社会では、小勝負に長けた人は出ても、大勝負に挑む人びとは出にくい。大きな勝負は、すでに枠組みで序列が決まっているからだ。

小勝負の方は、土俵もルールも勝敗の評価基準も、上から与えられている。こうした仕組みは、与えられた目標、命じられた事だけを必死に実行する人間だけが勝ち残りやすい。つまり兵卒や下士官だけを、輩出する事になる。一方、エリート層はエリート層で、彼らの小さな箱の中で競争させられ、勝った負けたといって、大多数が挫折感だの劣等感だのを抱き続ける。くだらぬことである。

そして、何よりもっともまずい事は、協力のためのコミュニティが育ちにくい点だ。

著名な経営学者ミンツバーグが来日したとき、講演で彼は、アメリカの経営学はリーダーシップを強調しすぎてきた、今大切なのは、職場における「コミュニティシップ」だ、と提起していた(Community-shipというのは彼の造語で、通常の英語辞書にはない)。コミュニティがないと、共通の知恵を蓄積することができない。本当の創造的アイデアも、品質の高い議論のスキルも、育ちにくい。もちろん個人個人の自律性も。

工場間の競争でボーナスが左右される上記の会社を、思い出してほしい。たぶん優れた技術的工夫は、改善大会で表彰され共有されていくのだろう。だが、その時までは共有されない。それどころか、マクロな業務プロセスは、工場ごとにバラバラだったりする(これは納入するSIerから聞いた)。業務プロセスにこそ、共通した管理技術が活きるのだが、部門が互いに競争していたら、標準化・共通知化など進む訳がない。

わたし達が生きているのは、苛烈な競争のみが支配するアメリカ社会とも違う。序列意識のスキマに競争原理が導入された、珍妙な社会である。序列の中でのみ、競争が行われる。

そうした序列は、しかし、いつまでも永続的なものではない。海外との競争にさらされると、いきなり危機を迎えるのだ。江戸時代にずっと続いた、「親藩>譜代>外様」の序列は、黒船の到来でいきなり崩壊した。外敵への対応能力は、序列と関係ない事が明らかになったからだ。

大学の序列も、似ている。国内で最高だと自負していた大学も、世界でのランキングでは10位にも入らないので、どぎまぎしている。(そんな海外のランキングなどくだらないことだ、自分たちは我が道を進む、と主張するなら見所もあるが、外部から競争尺度を与えられると、それを無視できないのが彼らの常だ)

こうした価値の転換に備えるには、横のつながりによるコミュニティに優るものはないと思う。異なる視点と経験を持った者同士が、対等に議論できる場。コミュニティという場は、原則として、お互いが対等な仲間が集って作り上げるものである。対等とは、互いに権利を主張し合えることだ。

アメリカとバヌアツは、国際社会では対等である。対等に、権利を主張し合える。むろん、対等であることと、結果として平等であることとは違う。この世は残念ながら、なにかと不平等にできている。いうまでもなく、アメリカは比較にならぬほど、強大なパワーを持っている。

ただし、不平等社会でパワーを持つ者は、そのために重い義務も背負っている。権利と義務は秤で釣り合っている、というのが対等の原理だからだ。逆に、労苦は下の階層の者が背負うべき、というのが序列の原理である。それが江戸時代の、士農工商の論理だった。序列社会に競争原理を持ち込んだ、木に竹を接いだような社会に、どうして活力が生まれるだろうか? みんながレミングのように同じ価値観と方向性で進んでいくのは、滅びに至る道である。

滅びに至る門は広く、そこから入るものは多い」と、かつて2千年前の賢者は言った。彼の生まれた中東の地では、都市は城壁で囲まれ、そこには大きな門があって、その脇に小さな通用門のような入口がついていたらしい。大きな門は、王侯や軍隊が入城するときの門である。下級市民は、小さな門を入った。

だが彼は、あえて、命を得たければ狭い門から入れ、と説いた。天の下で、あらゆる人間は対等だと、彼は信じていたからだ。

また彼は、去る前に、心を一つにした人が「二人あるいは三人集まるところには、わたしのその中にいる」という意味の言葉を残していった。彼は共同体というものに、信頼を置いていたのだ。

与えられた序列と尺度で走るだけ、与えられたことを実行するだけの生き方は、もう卒業すべきだ。小さな勝負はできるけど、大きな勝負はできない人では、小さな改善はできるが、大きな刷新は難しい。わたし達の社会はそろそろ、そういう刷新の時期なのだ。世の中がひと時、戦火を閉じて平穏になるこの季節、本当に何をなすべきかを、既成の秩序は忘れて、静かに想いをめぐらすときが来ている。


そして、どうか読者の皆さんの上にも、平和なクリスマスがありますように。



by Tomoichi_Sato | 2018-12-24 17:30 | 考えるヒント | Comments(0)

ひとはなぜ、同じ話を繰り返すのか

10代の頃読んだスタインベックの短編に、同じ話を孫たちに何度も繰り返すお爺さんの物語があった。西部開拓時代の生き残りであるこの老人は、駅馬車がインデアンの攻撃にあった時、どう防ぐかという持論を、たまに会う息子や孫に、繰り返しするのだった。

年寄りはなぜ、誰に何を話したかを、覚えていないのだろう? 10代の頃は、そう思った。さて、それから長い月日がたって、自分が《若い衆》に何か話す側になると、なんだか同じ話を何回もしているような気がする。

とくに、大学で授業を持つようになってからは、その印象が強くなっている。まあ、いたし方ない面もあるが、「この話、前にもしたな」と感じる。それがいやなので、講義内容は毎年少しずつバージョンアップするようにしているが、それでも部分的である。

それにしても、人はなぜ、同じ話を繰り返すのか? 一番単純な理由は、「誰にどの話をしたか」を覚えきれないからである。そんな単純なことを、なぜ覚えきれないのか。答えは、「そんな簡単」なことではないからだろう。

例えば、自分に5人の友達がいるとしよう。そして、皆に伝えたい話題を、4つ持っていたとする。すると、誰に何を話したかは、5行4列の、簡単な表で表すことができる。縦に並ぶ行は、それぞれの友達だ。横には、話題を表す列が並ぶ。友達2に話題3を話したら、2行3列目に、チェックマークを入れる。

さて、この表というかマトリクスは、全部で何パターン、あるだろうか?

答えは簡単だ。表の各マス目は、空欄かチェック済みかの2つの状態を持つ。マス目は全部で20個あり、お互い独立に変化しうる。ということは、このマトリクスは、

2の(5×4)乗 = 2の20乗 ≒ 100万個

のバリエーションがあるわけだ。自分はこの100万個の中から、一つの状態を覚えておかなければならない。

では、自分が少し成長して、友達は6人、話題を5つ、持っているとしよう。すると今度はが、5かける6で30個のマス目を持つマトリクスが必要になる。このマトリクスがあり得るパターンは、

2の(5×6)乗 = 2の30乗 ≒ 10億個(!)

になる。あなたはこの中の一つを、覚えておかなければならない。これは、思ったほどたやすい仕事ではないことが、分かるだろう。実際には、マトリクスは連続的に成長していく(友達は入れ替わるし話題も賞味期限がある)から、パターン数は絞られるけれども、なかなかややこしい。

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であるからして、大人になると、誰に何を話したかなんて、「いちいち覚えちゃあ、いられないんだぞ、小僧!」ということに、あいなる。年長の大人が何回も同じ話をして、なおかつ威張っているのは、このためなのである。少なくとも、半分は。


半分は、と書いたのは、残り半分には、別の理由があるからだ。大人は、分かっていて、同じ話を繰り返すことがある。

例えばわたしは、大学の授業の中で、「マネジメントとは、人を動かすこと」「人に働いてもらって、共通の目的を達成することである」という話を、日を変え場面を変えて、5、6回は繰り返してしゃべる。東大の大学院生など、一回聞けば忘れずに覚えるタイプの人が多いけど、それでも、「マネジメントは多義語だが、その中核にある意味は『人を動かす』という事です」としつこく語り続ける。

なぜなら、しつこくなければ全員に伝わらない、からである。授業というのは、基本的なことは全員に理解してもらわないといけない。プロジェクト・マネジメントの授業では試験はしないが、仮に試験をしたとしたら、基本部分は全員が満点を取れるようにするのが、教育である。試験結果で差がつくのは、教育の本義ではない。品質検査をしたら全品が良品である、というのが製造の目標であるように、全員に理解させるのが教育であろう。

実際のプロジェクトでも、大事なことは繰り返し、皆に伝えないと徹底されない。

目的や方針や指示を、末端まで徹底すること。そのために、メンバーに繰り返し伝えること。それが数人の小規模プロジェクトでも、数百人の大規模プロジェクトでも、本質的な部分は変わらない。

ただ組織が大きくなるほど、難しくなるのは道理だ。だから、たとえばプロマネは部下のリーダークラスに指示を出したら、さらに一階層下のメンバーにちゃんと伝わっているか、自分で確認したりする。たとえ部下たちが「前にも聞いた」「耳タコだ」などと感じても、伝えなければならない。マネジメントが「人に働いてもらう」ことである以上、指示を徹底することはプロジェクト・マネジメントの生命線だからだ。

これはたとえば、噂に聞くトヨタのしつこさ、にも通じる。自動車生産の系列は巨大だから、その末端まで思想を浸透させようとすると、たしかに同じ話を何度も繰り返すことになる。以前紹介した、フランス人作家パレの小説「ザ・ジャストインタイム」の中に、それを物語るジョークがあった。トヨタ生産方式では、在庫量を湖の水位にたとえ、水位を減らせば隠れていた岩(問題)が見えてくる、という話をよくする。ところが、あまりにもこのたとえ話を何度も聞かされるので、

「ペルーでフランス人と日本人とアメリカ人が工場を建てようようとしていた。だがゲリラに捕まって人質にされ、資本主義の手先だから銃殺すると言われた。ゲリラは3人に、最後の言葉を残すことを許した。フランス人は『フランス万歳!』と叫んで撃たれた。次は日本人の番で、『では湖と岩について話したいと』言った。その途端にアメリカ人が飛び出してきて、銃口の前でシャツの胸をはだけて叫んだ。『湖と岩の話をもう一度聞かされるくらいなら、先に撃ってくれ!』」(p.264)

という訳である。

トヨタ生産方式なら、一応そこに理屈があるわけだが、理屈抜きにそれを繰り返し聞かされるとなると、もはや宗教の領域であろう。それこそ同じ祝詞やら念仏を、1千回、いや百万遍くりかえす、というのは、マントラを深層心理に植え付ける効果があるに違いない。

ただしまあ、ずっと何度も繰り返すだけというのは、伝達の手段としては芸のない話だ。人に何かを理解してもらいたいのなら、むしろ、その内容を他の人に伝えさせる、という方がずっと有効である。人に教えには、自分が理解していないとならない。だから人に教えさせるのが、一番勉強になる。つまり間接教育である。

それにしても、同じ話を何度しても、相手に全く伝わらない場合も、けっこうある。つまり、相手に「聞く耳がない」という事態である。とくに相手が、思い込みの強い人だったり、「信念の人」だったり、あるいは年配者だったりする場合である。こういう人達は、ひとのいうことをあまり聞かない。むしろ逆に、自分たちは同じ話(彼らの持論)を、何度もしたがる。こういう人達も社会には一定数いるので、つき合い方を考えなければならない。

そして、こういう人に出会うたびに、なんとなくわたしは「コミュニケーション伝導度」の測定器が発明されればいいのに、と思ったりする。コミュニケーション伝導度とは、熱伝導率と電気伝導度などと類似の概念で、

[相手の理解の増加量] = [コミュニケーション伝導度] × [自分の理解度 — 相手の理解度]

によって定義される量だ。コミュニケーションとは基本的に、ある事実や思考について、理解のギャップを埋める行為である。自分と相手の理解度の差が、いわば差圧というか、Driving forceになる。そして、相手のコミュニケーション伝導度が高ければ、こちらの話す情報が、相手にすっと入っていく。伝導度が低いと、何度話しても伝わらない。

なので、相手の伝導度が0.3だと分かれば、(うーむ、この相手には3回以上、同じ話を繰り返さないと伝わらないな)といった判断ができるようになる。0.5なら、2回ですむ。もちろん、理想的な聞き手の伝導度は1である。一度いえば、なんでも100%すっと理解してくれる。伝導度ゼロの人は、何を言っても決して受け付けてくれない。話すだけ時間のムダである。

これを測定するスマホアプリができたら便利だろうな。誰か発明してくれないものか。

ただ、言うまでもないが、こうした伝導度というのは、相手だけでなく、話題の種類に依存する。誰だって、自分が聞きたい話に対しては、伝導度が高くなり、聞きたくない情報に対しては低くなる。そして、こちらの話し方にも依存する。だからこそ、「伝え方のテクニック」というものが存在するのだ。

拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』にも書いたとおり、わたしは、「発信者責任の原則」が、世界のビジネス上のコミュニケーションにおけるデフォルト標準だと考えている。情報を伝えるのは、発信者の責任である。だから話し手は、相手が理解したかどうかを確認し、伝わるまで繰り返し話すべきだし、あるいは伝え方を工夫していくべきだ、と考えている。

あいにくわたし達の社会におけるデフォルトは、「受信者責任の原則」である。教師が教壇から何かしゃべったら、生徒はそれを聞き漏らしてはならない。理解できないのは、生徒の側に責任があり、だから試験で罰せられるべきだ、となる。分からないのは、分からない奴がバカだ、という論理である。講演をしても、質問の時間に皆、あまり手を上げない。質問するのは理解できなかったことを意味し、それは頭の悪い証拠だ、となるからだろう。

わたし達はそろそろ、こうした上意下達型の論理から卒業すべき時が来ている。むしろ、現場の側から、マネジメントに対して、いろいろな不便や問題点を伝える必要のある時代なのだ。そうした話は、管理者の側にはたいてい都合の悪い話題なので、伝導度が低く、そう簡単には伝わらない。だが、正しい情報が上がってきてこそ、マネジメントは適切な判断ができるのだ。である以上、わたし達は、繰り返し伝える勇気も持たなければならないことになる。


<関連エントリ>
 →「書評:『ザ・ジャストインタイム』 フレディ・パレ&マイケル・パレ 著」 https://brevis.exblog.jp/22515622/ (2014-10-26)
 →「プロジェクト・コミュニケーションのベーシック 〜 情報のトレーサビリティを確立する」 https://brevis.exblog.jp/24679751/ (2016-09-25)



by Tomoichi_Sato | 2018-12-17 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)

なぜエレベーターは(そして仕事も)、一度にまとまって来るのか

デパートに買い物に行った。行きたい階は、上の方だったから(なぜ男性用のフロアはいつも上階にあるのだ)、エスカレーターだと時間がかかって面倒そうだ。エレベーターにしよう、と決めた。ところがエレベーターの所に行って待っていても、なかなか来ない。しまった、これならエスカレーターの方が早かったか、と思う。

とくにイライラしたのは、3台並んでいるエレベーターが、みな同じような階を同じ向きで動いていることだった。自分は1階にいて、6階にいきたいと思っている。ところが数台あるエレベーターは、皆なぜか、8階あたりを上に向かって進行中だ。何だこりゃ。もっとばらけて動いていたら、待たずにすむのに、と思う。

なぜ、エレベーターというのは、複数台あっても同じような動きをしていて、来ないときはずっと待たせ、来るときは一度にまとまってくるのか?

オフィスビルでも、エレベーターの待ち時間は、たぶん似たような状況にある。あるはずだ、と思う。ただ断定できないのは、最近のオフィスビルのエレベーターでは、どの階にいてどちらに動いているのかを表示せず、単に近くまで来たらランプで知らせるような仕組みが多いためだ。各エレベーターの位置や動きを表示しないのは、それを表示すると利用者がかえってイライラするからだ、と聞いたことがある。
(デパートが現在位置を表示しているのは、逆にたぶん顧客サービスの観点なのだろう。)

それにしても、エレベーターが団子のように固まって動くと、どういう状態が生じるのか? ようやく来たエレベーターに乗り込んでから、あらためて考えてみた。たとえば1分に1台ずつ来る場合と、3分に3台がまとめてくる場合の、待ち時間を比べてみよう。前者では最大待ち時間が1分なのに、後者では最大3分待たされる。そのため、エレベーターホールに並んで待つ人数が、どうしても増えてしまう。つまり、いったん団子運転の状態が生じると、待ち時間にムラが生じるのだ。

では、待っている人数が増えると、どうなるか。当然、乗り降りに余計な時間がかかることになる。すると、エレベーターが階と階の間を移動する平均速度が、どうしても遅くなってしまう。そして、さらに待ちの人数が増えることになる。悪循環である。別にここで待ち行列理論など持ち出すつもりはないが、結局、ある限度まで人数が増えたところで、平衡点に達する。その人数は、平均的に分散して動いているときよりも、ずっと多くなる。

なぜ、エレベーターは適度に分散して動かず、団子になってしまうのか? これは、よく考えてみると当然の理由がある。たとえば、複数台のエレベーターが、同じ方向を、一定間隔をおいて動いている状態を想像してみよう。さて、進行方向の先の階に、利用者がいて、ボタンを押して呼んだとする。すると、その階に一番近い箱が、止まってその客を拾うはずだ。

するとどうなるか。先頭の箱(ちなみに、英語ではエレベーターの箱のことをCarと呼ぶ)は、利用者を乗せるため、平均の移動スピードが、他の箱よりも遅くなる。たくさん乗客を乗せた箱は、降りるために止まる階も増えるだろう。各階停車になりがちだ。他方、一群で動いている最後の箱は、平均よりも速いスピードで移動する。なぜなら、ほとんどの利用者を、前に走っている箱たちが拾ってくれるからだ。

集団で移動する群れにおいて、先頭が遅く、後尾が早くなったら、団子状態が生じるのは当たり前である。だからエレベーターは、はじめは均等に動き出しても、次第に団子運転に陥っていくのだ。
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いったん団子ができると、利用者の到着がかなり減るまでは、解消しにくい。エレベーターには追い越しもあるが、追い越して先頭に行った箱は、やはり乗降客を先に拾うので遅くなる。満員通過もあるが、利用者の降りる階は通過できない。だから混んでいると各駅停車になりやすい。

そして、これと同じ事が、わたし達の仕事でも起きているはずだと、気がついた。

仕事というのは、なぜか知らないが、しばしばまとまって、やってくる。忙しいときに限って、さらに依頼だの注文だのトラブルだのが舞い込んでくるのだ。そして、これが、わたし達の仕事を、いっそう非効率で、ややこしいものにしている。

わかりやすいように、工場の例で考えてみる。建物のエレベーターではなく、工場の機械を想像しよう。機械は別に、階を移動したりはしない。しかし、かわりに、時間のなかを移動する、と考えてみる。1階ずつではなく、1日とか1時間という単位(タイム・バケット)ごとに、動いていく、と。載せるのは、利用者ではなく、加工対象のワークである。そのワークごとに、所要時間(=移動日数)が決まっていく。ちょうど利用者ごとに行き先の階が決まっているように。

ただ、エレベーターとは違い、別々の客(=異なる種類の品目)を混載することは、普通ない。だから機械の処理速度自体は、どれだけ注文が混み合って、その機械の前に未加工品の在庫の列が並んでいようと、変わらない、と思われている。いや、セットアップ・タイム(段取り時間)を考えれば、ロット数が大きいほど、むしろ全体の効率が上がるはずだ、と。

ところが、工場をよく観察していると、加工待ちの行列が増えるほど、機械の平均的な処理速度が落ちていく現象が、しばしば観察される。その主な理由は、モノ探しである。手前の行列が増えるほど、次に加工すべきワークの所在が分かりにくくなるからだ。加工速度は変わらなくても、セットアップ・タイムが長くなってしまうのだ。

とくに、個別性の高い多品種の組立加工をしている場合(今の日本ではたいていそうだが)、それに必要な部品が全部そろっていなかったり、ツールや金型を待ったりする可能性が増える。しかたなしに、製造順序を入れ替えて、別のワークを探しに行かなければならない。現場の製造順序が入れ替わると、下流工程や出荷日にまで影響が及ぶ。だから社内外の調整作業も発生する。本来そんな作業は不要だったはずなのに、余計な仕事が増えるのだ。

おまけに、機械も人もフル稼働が続くと、どうしても疲労や故障も起きやすい。忙しいプロジェクトの追い込み時期に限って、キーパーソンが倒れたり現場で事故が起こったりするのも、よく見聞きする話ではないか。

機械ではなく、人間が頭脳労働だけを担うホワイトカラー的職種も、じつは似たような事が起きる。人間だって、マルチに案件を抱えると、どうしても頭の切替えのために、一時的に集中度が落ちる。これは心理学的実験でも明らかだ。それに受注した仕事量が増えると、どうしても優先順位の判断だとか、日程の入れ替えのための調整時間が増える。

人が足りないから、他から人を入れて増員することもよくある。だが、そうすると、増員された人がその案件の状況を理解するまでの、学習時間がかかる。キャッチアップするまでの間、当然ながらその人の生産性は、最初から関わっていたときよりも落ちる。こうしたことが、仕事の繁忙に伴う、生産性の低下である。

仕事量が増えて忙しいと、平均的な生産性が下がる。でも仕事量が減ってある程度余裕ができると、処理スピードが上がる。だったら、職場全体では、適正な速度にバランスするのではないか、と思いたくなる。

ところが、そうはならないのだ。現在の原価計算では、工場の稼働率が下がると、機械の1時間あたりのコスト(賃率)が上がるしかけになっている。SIerや建設業など、受注産業では同じ事情だ。つまり、同じ仕事でも見積金額が上がるのだ。上がったら、コスト競争力が下がって、仕事がとれなくなる。

仮に賃率が据え置かれたとしても、会社というのは受注量が減ると、注文を取ろうとして、見積案件数を増やしていく。見積自体は、金にならない。だから大してヒマにならないのに、生産性(付加価値労働生産性=労働時間あたりのスループット)は下がっていく。

仕事については、もう一つの要因も考えられる。それは、繁盛している店には客が殺到し、閑散とした店は客が敬遠する、という事情だ。行列がさらに行列を呼ぶ、といってもいい。コンサルタントなども、満足した顧客による評判が、さらに顧客を集め、逆に評判の乏しい所には、あまり顧客が集まらない。つまり顧客の側に同調作用が働くのだ。株価は上がるとそれを買う人が集まってますます上がり、下がると離れる人が増えてますます下がるのと、同じ理屈だ。同調作用は、不安定性と偏りによる波を生む。

このような波が生じると、当然ながらその波は、さらに発注先の企業や業種に伝播していく。セットメーカーに波があれば、部品メーカーにも波が及ぶ。サプライチェーン全体に波が伝わっていくのだ。しかもこの波は、ブルウィップ現象によって、しばしば増幅されていく。

世の中には、「シリコン・サイクル」だとか「エチレン・サイクル」などの、業界別の設備投資の数年単位の波が観察される。こうした波も、似たようなメカニズムで生じているのかも知れない。そうでなくても、もっと細かな波は、あるいは需要の「団子現象」は、あちこちで起きやすいのだ。

こうした波の存在は、企業全体の、いや、業界全体の生産性を損なっている。波がひどすぎると、企業経営者は、人件費を固定費から変動費に切り替えたいと考えるから、派遣労働者に頼る比率が増えていく。そうなると雇用環境が不安定になって、ますます実質賃金が下がり、消費が冷え込んでいく。すると需要が下がって・・

それでは、どうしたら良いのか?

エレベーターの話に戻そう。世の中には、「AIで制御すればいいじゃないか」と、何でもAIで解決するかのように思う人もいるだろうが、そうではない。この問題の本質は、「先行する箱が、待っているすべての乗客をサービスしようとするため、平均移動スピードが下がる」「後続する箱は、客が少ないから、早く移動できる」という問題にある。この原則がある限り、AIでも団子運転はどうにもならない。

したがって、先着の箱が「すべての客をサービスする」ことをやめない限り、解決はないことが分かる。

答えは簡単である。一度に乗り降りする客数を制限して、移動速度を平均化するのだ。そんなことをしたら乗れなかったお客が怒って大変だぞ、と思うかもしれない。そこで、乗降客を、行き先の階ごとにまとめて、一つの箱に乗ってもらうよう誘導する方法が考えられる。行き先別に、2-4階、5-7階、8-10階、という風にグルーピングし、箱にもそう表示するのだ。

ただしこの場合は、エレベーターホールの上下リクエスト・ボタンを、箱ごとに個別に設定する必要がある。事実、最近のオフィスビルでは、上下ボタンではなく階別にボタンが並んでいて、自分の行き先階を個別に押すタイプも出てきている。

もっとも、この方法はハードの改造が必要だ。それがムリな場合は、人が制御するしかない。つまり、一昔前の、エレベーターガールの復活である(別にボーイでもいいが)。とにかく、意思を持って、需要量をコントロールするしかない。「恐れ入りますが、次のエレベーターをお待ち下さい」という必要がある。

では、仕事は? 仕事についても、実は同じだ。自分の適正な能力を超えて、仕事を取り過ぎないようにしなければならない。だが、たいていの企業にとって、これはとても難しい。営業部門は受注高で目標管理するのがつねだし、経営者もできる限り売上を増大して株主にアピールしたい。多くの企業にとって、自社の実際的な遂行キャパシティは、数値的によく見えていない。だから、過剰な受注でも「気合いと根性」で何とかできると思いがちだ。

ところで以前も書いたように、トヨタ生産方式の人達は、「ムラがあるからムリをする。ムリをするから、ムダがでる」という言い方で、仕事量のムラが様々な問題の根本原因と考えている。だからこそ、あれほどトヨタは平準化生産にこだわるのである。

多品種の場合も、品種ごとに数量を固めて作りだめをするのではなく、あえて数量を期間内に一定に散らして指示を出す。営業部門に対しても、平準化した受注ができれば、どれだけ工場は作りやすいかを、トヨタでは教育する。

営業部門が、平準化も何も考えずに、ただ客のいうとおり仕事を取ってきて、特急注文も変更も右から左に技術部門や工場に回すような企業では、波は防げない。だから、自社のキャパシティを、営業と技術部門とで可視化して共有するような仕組みが必要だ。それはたとえば、製造業における「生産座席予約」のような仕組みである。

と同時に、逆に、自社の波を、サプライヤーに波及させない工夫も必要だ。サプライヤーに波をかぶせると、相手の生産性を下げるわけだから、結局は高い買い物をすることになる。それよりもむしろ、自社で原材料の在庫をある程度抱えて、サプライヤーには平準化した一定量を発注するようにした方が、賢いということになる。今、あちこちの会社がやっている「JIT納品の押しつけ」とは、反対のことをやる訳だ。

「そんなことをしたら、自社だけが変動のリスクをかぶることになる」という意見が出そうだ。あらゆることを変動費化して、すべてのリスクを他者にヘッジするという、現代流の経営思想には、あまりマッチしない。外資系コンサルなどからも、賛同は得られまい。

だが、サプライチェーンの中では、自らがリスクに身をさらして、需給を調整する機能を持つところが、結局はパワーを得る。それが、サプライチェーンの原理である。団子になったエレベーター群で、誰が一番先に乗り込むか競争するよりも、団子にならないエレベーター操業を考えて守る方が、わたしは賢いと思うのだ。


<関連エントリ>
 →「とれるだけ仕事をとってはいけない」 https://brevis.exblog.jp/22850999/ (2015-03-03)
 →「ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?」 https://brevis.exblog.jp/25029784/ (2016-12-09)
 →「BtoB企業とサプライチェーンの強者 ~これから就活をする大学3年生へ」 https://brevis.exblog.jp/19283044/ (2012-11-28)


by Tomoichi_Sato | 2018-12-05 23:18 | サプライチェーン | Comments(1)