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講演(計装制御技術会議・11月1日)と論文記事執筆(経営システム誌)のお知らせ

(1) 講演のお知らせ

いつもながら直前のお知らせで恐縮ですが、来る11月1日に、日本能率協会主催の「計装制御技術会議 2018」で、日本の化学産業とプロセスプラントの変貌について、講演します。

これは3日間にわたる計装制御系の会議で、三日目の「スマート化で実現するプラントの未来像」の午後一番にお話しします。かなり専門的な技術分野の会議でもあり、また申込期限まで日数がありませんが、この話題に興味をお持ちの方はぜひご来聴下さい。

<記>

題目:「ディスクリート・ケミカル工場の設計論と 中央管制システムの姿

講師:佐藤 知一 (日揮株式会社 データインテリジェンス本部 DIプランニング部 部長)
日時:2018年11月1日(木) 13:00-13:40
場所:品川フロントビル (港南2丁目3-13, 東京都)

・参加申込み・会場アクセスは下記ホームページをご参照下さい。


(2) 論文記事執筆のお知らせ

日本経営工学会の「経営システム」誌・第28巻1号に、下記の論文記事を書きました。

佐藤知一:「生産システム,そのパラダイム・シフト
 経営システム, Vol. 28, No. 1, pp. 70-75 (2018) 

紙の学会誌は7月に発行されましたが、おそらく購読されている方は少ないと思います。同誌は一応、学会のWebでも公開されています(ただし閲覧には会員登録とパスワードが必要です)。

ただし、学会誌には「別刷り」という古き良き習慣があり、読みたい人には論文のコピーを配布することができます。わたしの手元にも多少の部数がありますので、講演を聴きに来ていただいた方には、希望があれば別刷りを進呈いたします。

ちなみに 元々この記事は、拙サイトに掲載した同名の記事である、
 『生産システム、そのパラダイム・シフト』 https://brevis.exblog.jp/27223637/ (2018-04-28)
を読まれた編集委員のリクエストで、論文記事の形式にしたものです。そして下の図も、載せています。学会誌ですから内容はもっと敷衍していますが、主旨は同じですので、興味がある方は上記のエントリもご覧下さい。

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(1)と(2)のいずれも、近年わたしがずっと主張している、「工場とは生産のための仕組み(システム)であり、その設計と操業には、システム工学の視点が重要である」という事柄を論じた点では共通しています。今年の経産省『ものづくり白書』でも触れられていましたが、「システム思考」の弱さが、今日の日本の製造業の苦境をもたらした原因の一つであると、わたしは考えています。それを脱却するにはどうしたらいいかが、目下のわたしの主要なテーマです。



by Tomoichi_Sato | 2018-10-23 22:32 | ビジネス | Comments(0)

従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について

その国には、住所というものがなかった。住所表記の仕組みがないので、場所を伝える時は、X市場の前とか、XXホテルの東隣3軒目というしかない。誰かに郵便を出すには、市の名前を書いて、あとは私書箱(PO Box)の番号をつける。だから誰もが、郵便を自分で取りに行くことになる。

その国の名前を、サウジアラビアという。初めて行った時には、ずいぶん奇妙に思えた。だが、毎日の生活は、普通に行われている。最近は、いくつかの市では通りの名前と番号による、欧米式の表記もされているようだ。だが、全国的ではない。カーナビがどうなっているのか、わたしは知らない。

そんなのはごく特殊で例外的な事例だ、と思われるかもしれない。のんびりしたアラブの途上国の、それも国土の大半が砂漠である国の特殊事情だろう、と。多くの日本人は、そんな風に思うかもしれない(現実のサウジはG20のメンバーで大国だが)。

さて。

その会社には従業員番号がなかった。すべては氏名でリスト化していた。

給与台帳も姓名の五十音順だった。部署の配属も昇進も、人事管理はすべて名前ベースで管理していた。PCのログインも自分の名前だ。

こんな運営している会社は、同姓同名がいたらどうするのか、結婚して苗字が変わったらどうするのか、と、はたで余計な心配をしたくなるだろう。

そんな企業はないって? 零細企業以外はありえない? では、先に進もう。

その会社には、製品番号がなかった。製品はつねに、製品の名前と仕様(の略号)でよばれた。注文書も、製品名ベースで営業部から製造に渡された。出荷伝票も請求書も同様。半期に一度の製販予算会議には、製品名がズラリと表に並んだ。

製品カタログはないのか? あっても、顧客はどう注文を入れるのか。また、仕様を少しだけ変更したくなったらどうするのか。よく注意書きにある「予告なく仕様を変更」の類いである。あるいは製品名を変えたくなったら? そうでなくても、長い名前だったら、入力だって不便だし、間違えやすいはずだ。
だからたいていの(まともな)企業なら、製品に管理番号をつけて、「製品マスタ」を作成する。製品に関する情報の台帳である。その台帳を見れば、重要な情報は、全て分かる。それは皆が共有していて、何か変更があったら、全員が共有できる。各人が勝手にメモを持って歩いているのではない。

製品番号がない企業なんて存在しないって? 今どき、よほどの零細企業でなければ、そうか。でも、もう少し先に進もう。

その会社には、取引先リストがなかった。つまり、顧客のリストだ。取引先は、企業であれ、個人であれ、すべて名前で区別していた。同じ名前の時は、住所を参考にして区別した。

これが不便なのは、いうまでもないだろう。

会社は勝手に合併したり、分社化したり、移転したりする。大きな企業だと、事業所ごとに別々に取引が発生する。さらに厄介なのは、代理店の存在だ。実際の納入先と、金銭の支払者が異なったりする。物流と商流のズレという現象である。取引先とは与信管理もしなければならない。あまり貸し売りをしすぎて、貸し倒れになったりするリスクを避けたいからだ。

取引先にどんなコードをつけて整理したらいいかは、悩ましい問題だ。でも、お金の取りっぱぐれがあってはこまるから、やはり普通はなんらかの会社コードをふって、リスト化する。していなかったら、奇妙だ。そう、思われるだろう。

でも、そうだろうか。まあいい、もう一歩だけ、先に進ませていただく。

その会社には、資材に品目番号(部品番号)がなかった。

設計部門は、製品組立図を作り、部品図に展開し数量を拾って、仕様とリストを資材に渡す。資材購買部門は、そのリストと図面を見比べながら、「30φの真鍮の丸棒」「シールXY123相当品」といった調子の、業界内なら常識的に通じそうな記述で、注文を出していた。受け入れた資材は、担当者が、どこの場所に置いたか記憶する。

こういう会社は、実は案外多い。結構な大手でさえ、見かけたことがある。

こんなやり方が非効率なことは、考えれば明らかだ。資材台帳がないから、何を合計いくつ買ったか、よく分からない。保管場所も、各人の記憶に頼っている。つまり、まともな在庫管理ができないということだ。

それでも通用する工場があるのは、そうした品目がすべて都度手配品で、あまり在庫が残らないような生産形態の時だ。いいかえると、個別受注生産では、これでも、かろうじて回っていく。ただ、とても属人的だから、担当者が辞めたら何がどうなっているのか、訳が分からなくなる。

まあ、ここまで極端でなくても、品目コードのかわりに、部品の図面番号(図番)で代用する会社は案外、多い。これができるためには、各部品に一品一葉の図面を起こしていることが、条件になる。一品一葉の図面は、良い習慣だ。だが、工場の製造工程を考えると、図番だけでは不便であることに気づく。同型だが材質違いの部品はどうするのか。あるいは、加工段階を追って、表面処理や熱処理が進んでいく部品はどうするのか。

いや、ウチの工場は、ちゃんと加工段階を区別できるように、品目コードをつけている、という企業もあるだろう。だが、たとえば、設計部門と工場が、同じモノを別のコードで呼んでいる場合は、けっこうある。設計部品表(E-BOM)と、製造部品表(M-BOM)が、乖離しているようなケースだ。この悩みは、あちこちで聞く。

中には、E-BOMとM-BOMの品目コードの対照表をつくって、ITシステムで読み替え処理をしているところもある。その対照表は、いつ、誰がメンテするのか。その表の品質は、誰がどうやって担保するのか。まことにご苦労様である。

マテリアル(品目)にコードをとり、台帳を作るのは、正確な情報を共有するためだ。個人の記憶のかわりに台帳があれば、仕事の品質も生産性も上がるのは、明らかだろう。だが、異なる部署で違うコードを使っていたら、それは情報を共有することになるのだろうか。

マテリアルには全社共通のコードはないが、取引先コードはある。そういう会社もあるかもしれない。だが、よくよく調べると、案外問題があったりする。たとえば、顧客コードと、業者コードと、振込先コードが、別々の体系になっているケースはないだろうか? 同一の企業が顧客でもあり仕入れ先でもあるケースは、ときどき生じる。だが、受注業務と、発注業務と、支払い業務とで、別々のコード体系を使い、同一の事業所を別々のコードで呼んでいる。おかしくないだろうか?

それでも製品コードはさすがに、普通の会社はもっている。だが、国内用と輸出用で、仕様が違うのに、同じ製品コードがつけられたりしている。部品表は、どう作って維持しているのだろう。社内の部署間では共通、業務でも共通、だが国が違うと別物、という訳だ。同じコードで別物を差すというのは、言い方を変えると、コードに重複があるということだ。

そして、従業員番号である。授業員番号のない企業は、珍しい。どこでもたぶん、持っている。部門間でも、全業務でも、共通だろう。だが、その番号は、親会社・子会社を通じて、グループ内でユニーク(一意)だろうか? 

よくあるのは、新しく海外子会社を作った。そこの人事系の仕組みは、親会社のやり方をそっくり真似た。従業員番号の桁数やコード体系も、そのまま真似た。おかげで、親子間でコードが重複してしまう、という問題だ。当然、同一企業グループ内で、そこに属する従業員全体の台帳が存在しない(作れない)ことになる。系列内で、人が異動や転籍になったら、どうするのか。こういう発想の企業は、グループ全体の人材については、ケアしません、といっているのに等しいではないか。

ITエンジニアは良く知っていることだが、コードというのは、たとえ1万件のデータの中にたった一つでも重複があれば、それは識別キーとして使えないのだ。つまり、それを頼りに、マスタは構築できない。だからこそ、コード体系をどうとるのかが、データの収集と同じくらい、大切な技術になるのだ。

コード体系の設計が技術であるという認識が、そもそもわたし達の社会では、とても薄い。これが、ITリテラシーの低さ、情弱社会を象徴している。ITリテラシーというのは、何もパソコンソフトを上手に使えるというような事ではない。そんな陳腐化しやすいスキルを学校で教えて、何が得られるのかと、わたしは思う。

それより、コード化の大事さ、コード設計の基本、データの体系化と分析の重要性を教える方が、ずっと社会のためになる。ここが、わたし達の社会のアキレス腱だからだ。

何かをコントロールしたかったら、コードをつけて、整理する。そしてリスト化し、台帳を作って、皆で共有する。コードは部門にも、業務にも、国にも、資本関係にも依存せず、いつもユニークである。そうしたことは常識であり、生産性の基本だと思うのだ。

サウジアラビアに住居表示がないのは、理由がある。あの国には今でも、結構な人口のベドウィン(ラクダ遊牧民)がいるのだ。遊牧民には、固定した住所がない。テントを持って、土地から土地へと移動する。だから連絡を取りたかったら、どこか決まったオアシス(現代なら郵便局)に手紙を預けておくしかないのだ。そういう国では、私書箱の番号がアドレスのキーになるのは、当然だ。

わたし達の社会は、少し違う。わたし達は、いろんな事がいやに固定的なくせに、数字や番号やデータには無頓着な社会に、生きている。その生きにくさの一部、生産性の低さのある部分は、ちゃんと整理番号をとって情報を共有できていないことから、生じている。わたし達はもっと、コード化に関するリテラシー、データに対するインテリジェンスの高い社会に、なるべきなのだ。


<関連エントリ>
 →「意味無しコードのすすめ」 https://brevis.exblog.jp/2615881/ (2006-01-29)

by Tomoichi_Sato | 2018-10-19 00:24 | ビジネス | Comments(0)

講演のお知らせ:「生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮のポイント」(12月5日)

お知らせです。12月に、生産スケジューリングとリードタイム短縮をテーマとした研修講演を行います(有償)。6月に実施した講演がお陰様でほぼ満席だったため、再企画したアンコール版です。

何度も書いていますが、わたしは長年、エンジニアリング会社で国内外の工場・プラント作りに関わってきました。また、それなりに多くの工場も見学しましたが、疑問を感じるケースも少なくありません。「なぜ、こんな所に在庫を持つのだろう?」「どうしていらないモノはたくさんあるのに、必要なモノは欠品しがちなのか?」「ここを工夫すれば、もっと効率よく、かつ楽に仕事ができるはずなのに」

そうした非効率が生じるのは、生産活動の仕組み=『生産システム』の基本デザインに問題があるからです。つまり、生産活動のシステム・エンジニアリングが欠けているのです。むろん、ここで言うシステムとは、コンピュータのことではありません。情報系も一要素ですが、むしろ働く人々と、機械設備と、物流と、それを包む建築空間のことをいっています。こうした基本的なことを抜きにして、ただ最近の流行であるAIやIoTなどの「スマート化」技術を追いかけても、部分的な改善効果しか生まないのがつねです。

また生産システムは、自社を取り巻くサプライチェーンの特性に応じて、適切な機能構成を選ばなくてはなりません。単に、業績の良い他社の物真似をしても、生産形態が違えば、役に立たないのです。

拙著「革新的生産スケジューリング入門」や「BOM/部品表入門」をお読みになった方はご承知の通り、わたしは具体的なテクニック論のみならず、原理に関する体系的な理解を重視します。そのため、生産システムをより良く運用するにはどうしたらいいかを考える『システムズ・アプローチ』をとります。そのため業種分野については、わりと間口を広くとってお話しできる点が特徴です。

普通の現場改善コンサルタントや、ITベンダー系コンサルタント達の提言に、飽き足りない気持ちでおられる技術者の皆さんの、ヒントになればと思っています。


生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮への活用ポイント」(12月5日)

日時: 2018年12月5日(水) 10:30 ~ 17:30
主催: 株式会社日本テクノセンター
会場: 株式会社日本テクノセンター研修室
     東京都新宿区西新宿2-7-1 小田急第一生命ビル22F
     (都営地下鉄大江戸線「都庁前」駅または丸ノ内線「西新宿」駅)

生産計画とスケジューリング、リードタイム短縮について、事例と演習を含めてお話しします。

セミナー詳細: 下記のURLをご参照ください(受講申込もここからできます)

関心のある大勢の方のご来聴をお待ちしております。


佐藤知一


by Tomoichi_Sato | 2018-10-11 22:21 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「デザインのデザイン」 原研哉・著

デザインのデザイン」 原研哉・著 (Amazon.com)

美ということについて考え直したくて、本書を手に取った。信頼する職場の友人が勧めてくれた本でもある。そして事実、読む価値のある本だった。

普段のわたしは、美とは縁遠いところで仕事をしている。別に醜いものを作っているという意味ではなく、機能だとか効率だとかコストだとかいった尺度でもっぱら測られる業務、という意味だ。

それでもエンジニアリングという仕事に携わっている以上、『設計の品質』という問題にもしばしば、直面する。設計は英語でDesignである。だが、デザイナーと設計者は、日本語では違う。どこの何が違うのだろうか。設計という営為には、「サイエンス」の面と「アート」の面がある。では、工業設計におけるアートの面とは、何だろうか。それは品質と、どう関わるのか。

さらにいうと、マネジメントという仕事も、サイエンスとアートの両面を持つ、といわれる。日本ではマネジメントに科学があるという観念自体が薄いので、こういうことを言うのは主に欧米人である。ただし英語の”Art"という言葉は、日本語の「アート」や「芸術」よりもずっと守備範囲が広くて、やり方という意味もある(だから、いわゆる芸術をさす場合はあえてFine artと限定詞をつける)。だがもちろん、artは美と強く関連づけられた概念である。

マネジメントは意思決定の連続だ。ところで、人が何かを決めるときは、その人の価値観にしたがう。では、人間の価値軸には、どのようなものがあるのか? もちろん、ビジネスでは損得が真っ先に来るだろう。あるいは、ライバルとの競争では勝敗(序列)も大事だ。社会的な意識の高い人は、善悪にもこだわる。研究者なら当然、真偽も重要だ。さらに誰だって、好き嫌いというものもある。

損得、勝敗(序列)、真偽、善悪、好き嫌い・・そして、美醜。もまた、人間の価値観の大切な要素だ。損得や勝敗で決めているように見えて、じつは美意識(=美学、美に関する価値観)にしたがって動く人びとが、意外に多いのではないかと、最近のわたしは考えている。分かりやすくいうと「カッコよさ」である。

損得・勝敗・真偽・正邪などは、合理的にほぼ説明可能な基準だ。そこには一応の客観性がある。しかし美醜の判断基準は、個人差が大きい。美醜は合理性からは遠いのだ。

わたしたちが商品、とくに高額だったり身につけて大切にする商品を選ぶ場合、その機能(使用価値)の他に、美しさ(美的価値)も大事な判断材料になる。たとえばスティーブ・ジョブズは、そうした点にこだわった人だった。でも、商品における「美しさ」とは、何なのか? 設計とデザインは別のことなのだろうか。「デザイナー」とは美大の教育をうけた人のことか。工学部を出た人は「エンジニア」だが、工学部の教育に美学論は不要なのか? ・・疑問はつきない。

本書の帯には、「デザインを分かりたい人達へ。」とある(プロダクトデザイナーの深澤直人氏の推薦文)。そして本文は「デザインを言葉にすることはもう一つのデザインである」と、はじまる。これは、まさにそうした問いに向き合う本なのだ。

「21世紀を迎えた現在、テクノロジーの進展によって、ものづくりやコミュニケーションにおける価値観がゆらいでいる」(P.1)。ここではまず、デザインとは「ものづくりやコミュニケーション」のためにある、という主張がある。

「デザインの発生は、社会思想家のジョン・ラスキンやウィリアム・モリスの思想がその源流と考えられている。その源流を辿ると150年ほど前にさかのぼる。」(P.3)と、著者はまず歴史を振り返る。それはちょうど、産業革命時代の英国だった。「生活環境を激変させる産業の(機械的量産)メカニズムの中に潜む鈍感さや不成熟に対する美的な感受性の反発、これがまさに『デザイン』という思想の発端となったのである」(P.4)

そのあとデザイン史は、モダン・デザインに進んでいく。そして、その行きすぎに対抗して、ポストモダンの運動がでてくるのだが、「ポストモダンはデザイン史の転換点にはなり得ていない」(P.18)と著者はいう。

そして著者自身が中心的に関わった「リ・デザイン展」や「デザインの原形展」、そして田中一光から引き継いだ無印良品に、話は続いていく。例となる写真も多く、どれも内容は非常に面白い。

だが、相変わらず分からない点も多い。一番、自分のような技術者との違いを感じるのは、「美」が最初から、仕事の目的意識に、無条件にある点だ。その違和感は、読み続けても、なかなか消えない。

わたしがたとえば蒸留塔を設計する場合、段数とか、内径とか、温度圧力材質などを決めていく。そこで「美」が前景化することはない。デザイナーと、なぜそこが違うのか。

「デザインは問題解決である」という言い方は、時々見かける。だが、これも奇妙な定義だ。技術者だって、問題解決はしている。そればっかりの毎日だと言ってもいい。でも、美とは疎遠である。

美の概念は、ふしぎと数学の問題解決には使う。「エレガントな解法」「美しい方程式」など。でもそれ以外の理学では、あまりお目にかからない。

デザインという言葉は、ふつう音楽の作曲にはつかわない。たまに「音のデザイン」と形容してみることはあるが。詩や小説など文芸創作にもつかわない。言語(概念)操作による問題解決(法的解決や哲学など)にも、ふつうは使わない。

こうして考えてみると、デザインとは「形をつかった問題解決」であることに気がつく。

工学では、具体的な創造物(人工物)に対して、美の概念が立ち現れることはある。タービンのブレードとか、住宅建築とか、ジェット機の翼とか。どれも形による問題解決だからだ。宮崎駿の映画「風立ちぬ」で、主人公のエンジニアが、食堂で魚の骨をとりあげて、その形状の美しさに感心するシーンがあった。航空工学では、「形」は力学的構造と機械的機能の両方を満たさなければならない。機能と構造の結節点に「形」がある。

形といっても、物質的なものでなくてもいい。組織図もその一例だ。良い組織デザインという言葉には、違和感は少ない。

「デザインは『形と機能の探求』という理想主義的な思想の遺伝子をその営みの内奥に抱えており、経済というエネルギーで運動しながらもクールな求道者のような一面をも維持してきている」(P.23)と著者はいう。なるほど。

さらに著者は、「デザイナーは本来、コミュニケーションの問題を様々なメディアをどうしたデザインで治療する医師のようなものである」(P.204)ともいう。コミュニケーションは、聴覚、視覚、触覚など五感を通じて人に働きかける。理知のほかに、感覚の路を通る。感覚路を設計するのも、デザイナーの仕事なのだ。

さらに著者は、「あったかもしれない万博」として、没になった愛知万博の初期計画に関して、こう語る。

「古来より日本人は、叡智は自然の側にあり人間はそれを汲み取って生きていると考えてきた。これは人間を神の視点に近いところに位置づけて、叡智を人間の側のものとし、荒ぶる野生としての自然を人間の知性で制御しようとした西洋的な思想風土とは異なる発想である」(P.179)
「中心に人間を置いて世界に向き合うという西洋的な発想は、生きる主体の意思と責任を表明する態度であり、それなりに説得力を持ってきた。」(P.179)

だから日本のデザインは西洋のそれとは異なる解決を提供する事になるはずである、と。

それは分かるが、この本を読んでいくとデザイナーという人種には、奇妙な被害者意識と不思議なエリート意識のないまぜになった感覚がある事に気づく。これはなぜだろうか。

文明は人間に利便性をもたらし、文化は人間にアイデンティティを与えるシステムである。文明の仕組みは、標準化・規格化・単純化を志向する。大量生産は文明の生み出したものだ。しかし、アイデンティティの基礎は、他者との違い、差別化である。

規格化され単純化されたものにも、「美」はありうる。ただし、人間の感受性は、繰り返しに対して鈍感になっていく。最初は美しいと感じたものも、次第に見慣れて、当たり前になっていく。だから、本質的に「美」は差別化と個別性を志向する。ただ、それは、あまり経済的ではない。美は贅沢の要素である。

巨大化した文明は、その歯車の中に、美を作り出すデザイナーを取り込もうとする。とくに「高級感のある商品」に、美は不可欠である。商品には使用価値(期待する機能を満たす程度)の他に、美的価値(感覚的なよろこびを与える程度)も、確かに持ちうる。

しかし、それは美を、商業の目的(損得の価値基準)に従属させようとする動きだ。美醜は損得とは独立した価値だと信じ、とくに美に殉じたいと願う人達には、屈辱である。

構造と機能を取り結ぶのが、「形による問題解決」としてのデザインだ、と先ほど書いた。文明の持つ普遍性と、文化的な個別性の狭間で、両者をなんとか調和させようともがいているのが現代のデザイナーなのだ。それを知ることができただけでも、本書を手に取る価値はある。


<関連エントリ>
 →「映画評:『風立ちぬ』」 https://brevis.exblog.jp/21064033/ (2013-09-14)


by Tomoichi_Sato | 2018-10-08 22:04 | 書評 | Comments(0)