<   2018年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

海外プロジェクトの質的変化と、成功体験の罠

わたしが3年前に技術評論社から上梓した『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』は、製造業で働く若手エンジニアを主人公にした、ストーリー仕立ての本である。基本的な内容は、東大の大学院で教えている「プロジェクトマネジメント特論」の講義資料をベースにしているのだが、淡々とした記述のテキストなど、誰も興味をひかれないだろう。それにわたしは、対話形式の文章を書く方が、なぜか筆が進みやすい。

そこでこの本では、ある日突然、プロジェクト・マネジメントを急に学ばなくてはならなくなった若手技術者を、主役に立てることにした。それが、中堅製造業の製品設計部門に働くエンジニア、小川君である。彼の会社の社長は、出張先のとある新興国の企業経営者と意気投合し、共同でその国向けの製品開発プロジェクトをはじめることを、決めてくる。

しかしご承知の通り、製造業の組織というのは、営業・設計・生産技術・資材・製造・・という風に、機能別に縦割りになっている。製品開発プロジェクトは、これら全ての部署が、大なり小なり関わってくる。では、この海外企業との共同プロジェクトは、いったいどの部署の誰がリードするのか? 一般に、日本の製造業では、プロマネが所属すべき部署が、明確でないことが多い。小川君の会社もそうだった。

プロジェクト・マネージャーが誰なのかも不明なまま、結構な労力とリスクをはらむはずの、新プロジェクトは滑り出す。小川君自身はまだ、プロジェクト・マネージャーを張れるような職位ではないし、その経験もない。だが、会社のこの状況に危機感を抱いた彼は、久しぶりに会った大学時代の大先輩・広田氏に、プロジェクト・マネジメントの考え方を教えてほしいと頼み込む。

海外プロジェクトの経験に長けた広田氏は、何度かに分けて、小川君に基本をレクチャーしつつ、プロジェクトの状況を確かめ、アドバイスしていく。だが、海外通を任ずる常務、腰の引けた部長、妙に強気な課長などの上司の下で、プロジェクトを前に動かそうとする小川君に、つぎつぎと難題がふりかかってくる・・この本は、そういう話だ。

新製品開発という仕事それ自体は、製造業にとって珍しいことではあるまい。何度もそれを繰り返して、企業は成長してきているはずである。それなのに、海外企業との共同プロジェクトということになると、急に勝手が違ってくるばかりか、上手く回らなくなることが多い。それをたいていの会社は、言葉(英語)の壁だとか、技術基準の違いだとか、異文化のせいだとかにしたがる。

しかし、そこにはもっと本質的な、プロジェクト・マネジメント上の違いがあるのである。そして、多くの日本企業は、それを知らないまま、見えない壁のようなものに突き当たっているのだ。

図を見てほしい。横軸は、スコープの固さを示している。右側は自発型プロジェクトの世界で、スコープは自分で調整可能である。左側は受注型プロジェクトで、スコープは外部から与えられる。左に行けば行くほど、スコープは「固く」なる。自社の製品開発は、自分がかなり自由に決めることができるから、図では右側の領域にある。
e0058447_22584297.jpg
縦軸は、プロジェクト組織の規模・複雑さを示す軸だ。上は大型、下は小型プロジェクトの領域を意味する。ただし「規模」といっても、予算金額などで測ったのでは、プロジェクトの分野や種類によってかなり差が出てしまい、イメージが伝わりにくい。そこで図ではあえて、「小型プロジェクト」を、同じ行動習慣を持つ同士の協力、「大型プロジェクト」を行動習慣の異なる他社との協力、と注釈をつけた。

そうなると、従来の新製品開発は、図の右下の領域に位置づけられる。自社系列内で完結する場合もあるだろうし、サプライヤー等の他社と協力する場合もあるだろうが、それでも慣れた同士による国内プロジェクトである。

ところが、ほぼ同じ内容での製品開発プロジェクトも、小川君の会社のように、慣れない初めての海外企業と一緒にやることになると、図での位置が変わってくる。まず、海外企業との協力の場合、お互いの責任分担を文書化・契約化して、きっちり決める必要が出てくる。つまり、スコープがけっこう「固く」なるのである。

他方、これまでの慣れた同士の協力関係と違い、慣れない相手とは、コミュニケーションの言語やチャネルからはじまって、いろいろ目に見えない摩擦や障壁が生じがちだ。だからプロジェクト組織の規模・複雑性が,有意に上がることになる。

かくして、ほぼ同じ内容の筈の新製品開発プロジェクトが、図上でかなり左上にずれてしまう。そして、この図では、左上に行けば行くほど、専門的なプロジェクト・マネジメントが必要とされてくるのである。右下のエリアは、身内同士の阿吽の呼吸で進む領域であって、まあいってみれば、ジャズバンドのような世界である。誰かリーダーのもつ、気合いやリーダーシップで進めることができる。

ところが左上の領域は、いわばオーケストラの世界であって、数多くの演奏家(専門職種)と、指揮者(プロマネ)がいて、整然とことを進めなければいけない。各人がバラバラに動いたのでは、意味のある成果は出てこないのだ。スコープ制約が固く、かつ組織規模が大きい仕事とは、そういう存在だ。それなのに、プロジェクト・マネジメント技術もろくに知らぬまま、「気合いと根性」だけで海外プロジェクトをはじめたら、途中で現場が苦労の嵐に巻き込まれることになる。

これが、今、わたし達の社会のあちこちで起きている問題なのだ。そして、多くの若手エンジニア達が、さんざん苦労している。そういうことを、霞ヶ関の新進気鋭の官僚達にも知ってほしい。そう思って、レクチャーでは、前回も述べたように、スコープの話を主にしたのだが、さて、短い時間でどこまで伝わるかは、定かでない。そこで、あえて念押しとして、もう一枚、図を用意した。

e0058447_22595509.jpg
こちらの図は、左右がある意味、逆になっており、右に受注型プロジェクト、左に自発型プロジェクトを置いてある(不統一で申し訳ない)。上の欄に、(強い)←→(弱い) と書いてあるのは、スコープに対する主導権である。自発型の方が、当然ながらスコープの主導権が強い。受注型では、発注者の承認をもらわなければ、スコープ・チェンジが認められない。

こちらの図の上下は、買い手か売り手かという、商取引の立場になっている。取引では通常、お金を出す側の買い手(顧客)の方が強く、売り手の方が立場が弱い。

そして、この図表の4象限に、日本の海外ビジネスのあり方と変化を集約してある。

まず、高度成長期の’70〜80年代は、左下にある。この時代、衣料品にはじまり、家電・カメラ、そして自動車など、消費財の輸出で日本が伸びた時代であった。優秀・高品質な製品力と、円安による競争力に支えられ、大きく世界に進出していった。自分は売り手だからやや立場は弱いが、どこに何を売るかは自分で選ぶことができた。この時期は、「売ってあげる」型の輸出ビジネスだった、といえる。

それが'80年代後半~90年代前半のバブル時代に入ると、さらに勢いをかって、盛んに海外不動産を買ったり、企業買収・工場建設・営業所開設などのラッシュが続いた。舞台は欧米や豪州など先進国だ。そして自分が買い手で、かつ、自発型プロジェクトである。いわば最強の立場にあった時代だ。

ところがバブルがはじけ、不況の2000年代に入ると、海外調達・部品製造外注・オフショア開発などが、海外ビジネスの中心になってくる。まだ、立場は買い手だ。だが相手地域はアジア・中進国にシフトする。そして現地に行った技術者たちは、本社や日本国内の顧客からの勝手な指示に困惑しつつ、内心、OKY(「お前が来てやって見ろ」)と歯噛みしながら仕事をしていた。

そして2010年代。政府は「日本の新成長戦略」をとりまとめ、新興国に対するインフラ・システム輸出が、成長力回復の切り札だ、と位置づける。しかし、日本のものづくりの成果を海外に持っていくという事は、売り手で、受注型のプロジェクトを遂行することを意味する。すなわち、「買って下さい」型の輸出ビジネスになる、という訳だ。

わたしは長年プラント・エンジニアリング業界に働いてきた身として、それがいかに弱い立場であるかを知っているし、その中でいかに立ち回るべきかも、少しは承知しているつもりだ。そのための有力な武器の一つが、専門的なプロジェクト・マネジメント技術なのだ。だから、それについて本も書き、あちこちで講義したり宣伝したりして回っているのである。

繰り返しになるが、日本の海外プロジェクトは、バブル期頃までの、強い立場・先進国相手・売ってあげる型から、2000年以降の、弱い立場・新興国相手・買って下さい型へと、シフトしてきてきた。ところが、世の中にはまだ、バブル期までの過去の『成功体験』を、自らの栄光の記憶として抱えているシニア・マネージャー層がけっこう、残っている。

だが、彼らの成功体験はもう、賞味期限切れで、今の時代には使えないのである。昭和の古きよき時代はもう、とっくに終わったのだ。そして、そんな過去の成功体験にしがみついていると、現実がよく見えなくなってしまう。そのことを、日本の中枢にいる人たちにも、伝えたいのだ。昭和世代のわたしがこんなことを言うのはおかしいかも知れないが、これからわたし達の社会を担う層の人たちに活躍の場を残すためには、過去の成功体験の記憶を一度リセットして、新しい目で日本と海外を見るべきだと思う。


<関連エントリ>
 →「プロジェクトのスコープには硬軟がある」 https://brevis.exblog.jp/27558796/ (2018-09-20)
 →「海外プロジェクトの変化と、契約意識という不可視のハードル」 https://brevis.exblog.jp/18516049/ (2012-07-30)


by Tomoichi_Sato | 2018-09-29 23:12 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロジェクトのスコープには硬軟がある

先月のことだが、霞ヶ関のある有力省庁に呼ばれて、プロジェクト・マネジメントについて1時間ほどの簡単なレクチャーをしてきた。聴衆は、製造業を所轄する部局の、若手中堅の官僚20人弱である。先方からは『ビジネスで成功を勝ち取るプロジェクトマネジメントとは』という、いささか大げさなタイトルを頂戴したが、いかんせん1時間弱でしゃべれる事は限られている。

短い時間でプロジェクト・マネジメントのエッセンスを紹介するなら、何を話すべきか。相手にもよるが、わたしはスコープとWBSの概念の話をすることにしている。プロジェクトにおいて、日本人は概して、計画軽視だ。与えられた目標や暗黙の目的意識のもとで何となく走り出し、人を集め、あとは各人の努力と互いのすり合わせで進めていく。「現場重視」「歩きながら考える」の習慣が、とても強い。

欧米人と一緒に仕事をした経験のある人なら、彼らはまず、全体の計画を立てるところからはじめる習慣が強いことを、ご存じだろう。計画を立てずに走り出すことは、まるで地図を持たずに旅に出るようなもので、心配になるらしい。プロジェクト・マネジメントという概念も、PMBOK Guideのような標準書も、このような文化の元で生まれ育った。

計画力と現場力は、車の両輪で、どちらが弱くても真っ直ぐちゃんと走れない。ただ、自分たちが何に弱いかは、そこに強い相手と組んだり闘ったりしないと、なかなか気づかないものだ。たまたまわたしは、海外プロジェクトを中心としたビジネスをする企業にずっと勤めてきたので、ある程度は両方を知っている。

とくに、日本は製造業の影響力が大きいので、「QCD」、すなわち品質・コスト・デリバリー(納期)の制約については、多くのビジネスマンが常識として肌身で知っている。しかし、現代プロジェクト・マネジメント(モダンPM)の柱は、

 QCD+S

の4つなのである。4番目のSは、『スコープ』の頭文字だ。いや、海外の文献などを読むと、品質は当然の前提としてQを抜かし、SCDの3つがプロジェクトの柱だ、という言い方が多い。スコープは、モダンPMの第一の柱、最大の制約条件なのだ。事実、PMBOK Guideを見てもらえれば分かるように、10の知識エリアの記述順は、最初に統合マネジメント、次がスコープとなっている。

そして、スコープの具体的表現手法として、WBSがある。これはプロジェクト・マネジメントの基礎となる手法で、60年代頃から整備されてきた。だが、この一番肝心なスコープとWBSの概念が、日本では良く理解されていない。

プロジェクトは、何らかの成果物やサービスを生み出すための営為である。ただ、プロジェクト全体は大きいし,出発時点ではもやっとしていて、それを全体として扱うのはやりにくい。そこで西洋人は、彼らの思考習慣である"Structured Approach” にしたがって、大きな問題を小さな部分問題に分割していく。つまりプロジェクト全体を、やらなければならない具体的な個別の要素作業に、階層的に分解するのである。

この要素的作業を『アクティビティ』とよぶ(日本のIT業界では「タスク」ということが多いようだが、PMBOK Guideは昔からActivityという用語で統一している)。そしてプロジェクト全体のスコープ(仕事の責任範囲)を、アクティビティ(タスク)の集合として捉えるのである。まあたとえて言えば、日本全土を、都道府県に分け、さらに県を地形に従い市町村に分割するようなものだ。そのようにして、全体のエリアを、統括可能な部分に分けて地図を作る。

わたしのレクチャーでは、簡単なプロジェクトの例をとって、それを構成するアクティビティの洗い出しを10分ほどの演習で体験してもらった(さすがに優秀な人たちが多く。通常の社会人相手のときより倍近い早さで進んだ)。そして、次は洗い出したアクティビティを、紙の上で階層的に図示してもらう。これだけでも、気づかなかった抜け漏れや作業のアンバランスなどが、気づきやすくなる。

スコープとはプロジェクトのなすべき責任範囲のことであり、それをアクティビティに階層的に分解して、管理番号を付番したものがWBS(=Work Breakdown Structure)である。これは仕事のスコープの見取り図、地図に相当する。WBSこそはプロジェクト・マネジメント計画の出発点であり、その出来不出来によって、その後のマネジメントの成果を大きく左右する。

WBSの一例を、図に示す。これはわたしの勤務先の得意とするプラント・エンジニアリング系のプロジェクトについて、WBSの骨子を示したものだ。本当はもっとずっと詳細なのだが、骨格を理解してもらうのが目的なので、枝葉はばっさり切ってある。
e0058447_23493235.jpg
なお、ここに示したWBSの構成は、Functional-WBS(略称F-WBS)とよばれる種類のもので、主に仕事の機能のプロセスを主体としたものだ。他に成果物の構造にしたがったProduct-WBS(P-WBS)もあるのだが、話が複雑になるのでここでは省略する。

このWBSには、とくに時間の概念はないことに注意してほしい。まだ、ガントチャートは、ない。この後、それぞれのアクティビティの作業量を見積り、割り当てるリソースの量を決めて必要な期間を推定し、さらにアウトプットとインプットから生じる関連性(他のアクティビティとの依存関係)を考慮して、初めてガントチャートが作成可能になる。

日本ではガントチャートのことをWBSだと誤解したり、スコープを明確化する前に、いきなり線表を描き始めたりする『ダイレクト・ガントチャート』方式の人が少なくないが、それでは成功するはずのプロジェクトだってうまくいかない。こうしたことを、日本の中枢を担う若手官僚に分かってもらいたかったのである。

さて、ここから先は、PMBOK Guideにあまり書いていない、大事な話になる。それは、プロジェクトはスコープのあり方に応じて、二種類に分けられ、それに応じてマネジメントの力点も変わる、ということだ。

どういうことかというと、プロジェクトはスコープが『ハード』なものと、『ソフト』なものに分類可能なのである。ハードなスコープとは、プロジェクトのなすべき責任範囲がかなりかっちりと規定されているタイプのものだ。これに対して、ソフトなスコープは、プロジェクトの範囲が、途中でかなり変わりうる(自分で変えうる)タイプである。

なお、プロジェクトについての”Hard”, “Soft"という用語は、2000年頃から欧米のPM研究論文などに現れるようになってきた。ただし、これは別にコンピュータのハードとソフトの話をしているのではないので、注意されたい。鋼鉄製の橋を架けるのはハードなスコープで、木の吊り橋はソフトだ、という話でもない。あくまで、なすべき仕事の領域・範囲の変わりやすさ、硬軟をいっている。

簡単に言うと、自社が自らの意思ではじめる「自発型プロジェクト」、たとえば製品開発や社屋新設などのプロジェクトは、スコープがソフトな場合が多い。他方、誰か顧客から請け負う「受注型プロジェクト」は概して、スコープがハードだ。スコープがふにゃふにゃして曖昧だったら、そもそも見積ができないから、契約が成立しない(無論、単価契約とか派遣契約にすれば別だが、その場合はプロジェクト・マネジメントの責任を受注側は負わない)。

スコープがかっちりと固まっている受注型プロジェクトにおいては、プロマネは通常、コストと納期を、よりシビアにコントロールすることが求められる。したがって、ハード・スコープのプロジェクトを沢山遂行する組織においては、プロマネにより権限が与えられなければならない。権限がなく、判断もできずに、責任など負えないからだ。マネジメントの主眼は、スケジュールとコストになる。

(ただし余談だが、日本のIT企業の方の話を聞いていると、プロマネにはコスト管理の権限がなく、ただ与えられた予算と人員の中で、スケジュールをなんとか守る事が求められているケースが多いようだ。これはわたしのような他の業界人からは、奇妙に見える。コストの権限が上司が握ったまま、納期と品質の責任だけを問われるのでは、まるで後ろ手にしばったパン食い競争みたいで、ずいぶんだと思うのだが)

さて、ところで、自発型プロジェクトは受注型とかなり違う。たとえば新製品開発を考えてみよう。予算を満たし納期を守っても、できあがった製品に魅力がなければ、プロジェクトは失敗だ。したがって、プロマネは何よりも、ユーザにアピールする品質(「前向き品質」)を上げるべく、スコープを調整することになる。この種類のプロジェクトでは、プロマネは管理・監督よりも、創造の役割を強く求められる。

だから、ユーザを惹きつけないと成立しない、いわゆる『SoE』(Systems of Engagement)では、アジャイル開発などの手法に価値が出てくるのだ。アジャイルでは、スコープを動的に入れ替え、調整して進んでいく。しかし、設計図通りに橋梁を建設するようなプロジェクトには、アジャイルは使えない。スコープがハードだからだ。

さて、スコープについて、一般的教科書にあまり書いていないことまで説明したのは、理由がある。せっかく霞ヶ関まで行って、日本の製造業や貿易政策を担う省庁の人たちに聞いてもらうのだから、もう一つ、説明しておきたいことがあったからだ。

それは、海外プロジェクトの進め方に関する留意点、彼我の違いについてである。日本企業とその製品群は、70年代頃から、世界を席巻した。自動車、家電、カメラ、パソコン等、あげればきりがない。高度成長期とはまた、日本企業の国際化・グローバル化の進展でもあった。——そういう風に、マスコミをはじめ、多くの人たちが思っている。

だが、その思考には、意外と大きな大きな罠がひそんでいるのだ。そして、それが『スコープ』の硬軟の概念と、密接に関係しているのである。

(この項つづく)


<関連エントリ>
 →「ダイレクト・ガントチャート方式の問題点 〜 やはりExcelで工程表を書いてはいけない (1)」 https://brevis.exblog.jp/26231556/ (2017-12-02)
 →「Structured Approachができる人、できない人」 https://brevis.exblog.jp/18336958/ (2012-07-08)


by Tomoichi_Sato | 2018-09-20 23:54 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ミニレビュー:ジャパンナレッジ

しばらく前から、『ジャパンナレッジhttps://japanknowledge.com/ を使っている。小学館系の(株)ネットアドバンスが提供する有償サービスだ。iPhoneでは、専用のアイコンをホーム画面において、すぐアクセスできるようにしている。

一番使う用途は、英和辞典としての利用かな。ランダムハウス英和大辞典やプログレッシブ英和中辞典、理化学英和辞典、Cambridge English Dicstionaryなどの複数の辞書が、まとめて一括で検索できる。これは楽だ。

つぎによく使うのは、百科事典としての利用だ。平凡社の世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)が同時に検索でき、電子辞典だから当然ながら、他の記事や他の時点とも相互にリンクされている。

さらに、会社四季報も検索できる。加えて、Imidasや現代用語の基礎知識などの情報源も使える。上記の検索が、すべて一括で行えるから、ある企業の沿革を百科事典で見てから、経営状態と株価推移を確かめる、といった複合的な調査を、一発で行える点がとても便利だ。

それにしても、世の中にはGoogle・Yahoo!など、有力な検索エンジンがいろいろある。そして、知識についてもWikipediaという便利なものがあるのに、なぜ、わざわざ有料のサービスを使っているのか。

それは、自分の検索を、ネットの有力企業に勝手に調べられたくないからだ。GoogleやYahoo!でなにかを検索すると、彼らはわたしの検索履歴を、ちゃんと記憶している。そして、ちょっと何かを調べると、すぐに関連する広告が閲覧中のWebページに表示されたりする。読者諸賢は、自分が買いたいわけではないモノを調べただけなのに、すぐ広告欄に「おすすめです」みたいに表示された経験を、お持ちではないだろうか? わたしには、なんとも気分が良くない。余計なお世話だし、こうやって自分のプライベートな情報が全部、誰かの筒抜けになっているのはやりきれない。

Wikipediaも、最近あまり利用したいと思わなくなった。無償なのは素晴らしい。記事のエントリー数もすごい。内容はまあ、はっきり言って玉石混交だが、もちろんよく書けている記事もある。記事内容の正確性は、市販の百科事典に比べて遜色がない、という話を、何年も前に聞いた。

だが、わたしは執筆者も仮名、組織の代表者も不明、という形で提供されるコンテンツを、本心から信頼できない。ウィキペディア日本語版のリーダー、日本代表者は誰なのだろうか? いや、そもそも日本には、ウィキメディア財団のLocal Chapterすら、いまだに設立されていない。なぜなのだろう? 不思議である。

ウィキペディアの記事は、誰でも執筆・編集できるわけだが、記事に[要出典]等の、さまざまな批判的ラベルを貼って、印象を操作しようと思えば、できないわけではない。公正さを要請するためにあるはずのラベルだが、じつは印象操作にも使えるのだ。Wikipedia日本語版の編集に、某大手広告代理店が関わっているという噂は、もちろん根も葉もないものだと信じたい。しかし、なんだか変だなと思うことも、たびたびある。

わたしは、原則として公開するコンテンツは著者名を明らかにするべきだ。と考えている。なぜなら、著者が明らかならば、どんなにバイアスのかかった記事であっても、「ああ、またこの人が書いているのだな」と受け取れば済むからだ。バイアスのない人はいない。間違いのない人もいない。偏りも不正確さも含めて、文章を書くという行為の責任の一部だと思う。だから、わたしのこのサイトだって(会社員なのに)実名で書いている。Wikipedia日本語版のように、著者も編集者も運営者も、すべてが匿名可能なメディアには不信を感じるのだ。

もともとジャパンナレッジにたどりついたのは、平凡社の世界大百科事典が使えるからだ。かつて、この事典の編集長だった林達夫氏を、わたしは日本最高の知性の一人として、尊敬している。以前はCD-ROMで販売されていた時期もあったが、最近は聞かなくなった。そこで調べたら、ジャパンナレッジに含まれているということが分かったのだ。

おまけに、iPhoneで気軽に使える、しかも信頼性の高い英和辞書もほしかった。ながらく英辞郎を買って使っていたが、いくつかの点で使いにくくなった。ジャパンナレッジなら、辞書と事典が一緒にひける。これは本当に便利だと思う。

おまけに、ジャパンナレッジが素晴らしいのは、辞書事典以外にも、「本棚」として、平凡社の『東洋文庫』(692冊)と、小学館の『新編 日本古典文学全集』(88巻)が、ネットでいつでも読めることだ。

東洋文庫の奥深さは、まことに驚異である。アラビアのロレンス「知恵の七つの柱」がある。ギリシャとインドの哲学対話を描いた「ミリンダ王の問い」がある。西洋人による戦国時代の日本の貴重な記録である、フロイス「日本史」がある。もちろん、「アラビアン・ナイト」全巻もある。「白居易詩鈔」も「聊斎志異」もある。おお、なんと素晴らしい!

日本古典文学全集だって負けてはいない。古事記も日本書紀も、新古今和歌集も、能の謡曲も、ふりがなつき注釈付きで、全部読める。

そして、「週刊エコノミスト」も、直近号まで読める。テキストでもPDFイメージでも表示可能だ。

知識情報は、いかに厳選するかが大切な時代になっている。今や、売りたい側の企業や組織が、資金の力で有無を言わせず、無償の情報をプッシュしてくる時代だ。わたしたちは、かなり防戦一方になってきている。ジャパンナレッジは、そんな現代において、信頼に足る情報源として、また古典的な書籍の無料の電子図書館として、とても有用だ。料金は年契約で、月額1,350円。安価だとはいわない。でも、十分価値があるとわたしは信じて、毎日使っている。


by Tomoichi_Sato | 2018-09-12 12:07 | 考えるヒント | Comments(0)

コンサルタントは何かの役に立つのか?

 ある日、白雪姫が森の中を歩いていると、5人のこびと達が座って、シクシク泣いていました。
——まあ! どうして、みんな泣いているの? それに、あと2人は、どこにいるの?
 すると、5人のこびとは答えました。
「コンサルタントのA. T. ○ーニーが来て、7人も要らないからって、2人リストラされちゃったの。」

・・いつだったか聞いた、アメリカのジョークである。ちなみに、特定の会社を批判するのが目的ではないので社名は伏せ字にしたが、A社は大手経営コンサルティング会社である。とくに、コスト削減のアドバイスで有名な企業だというあたり、皮肉がきいている。

経営コンサルタントという業種は、20世紀初頭から存在するが、以前の記事にも書いたとおり、米国で大きく伸びたのは1970年代からと言われる。なぜ伸びたかというと、少なからぬ大企業が、事業の再編成を強いられる状況になったからである。

「再編成」(Restructuring)は、日本では「リストラ」というカタカナ言葉に略され、首切り人減らしの意味で使われている。米国では全く違っていて、組織を再設計することであり・・といいたいところだが、結果としては、大量の人減らしを伴うのが普通だ。働いている人にとっての心配の種であることは、かわりがない。むしろ、米国では人のクビを切るのも割と簡単だから、よりシリアスだ。

そして経営コンサルタントの利用価値の一つは、この「組織の再編成」を、経営者のかわりに立案してくれる点にあった。基本構想を作り、組織案を練り、職種と人数を定め、どんなクオリフィケーション基準で残る者を決めるかを、きれいなレポートの形で提案してくれる。あとは取締役会で通すだけ。リストラの首謀者は、自分の手を汚さずに、人減らしを遂行できる。’70年代は、アメリカの製造業の曲がり角の時代だった。だから経営コンサルタントが繁盛するようになったのだ。

経営コンサルは首切りのために雇われる、というのは別にわたしの勝手な私見ではない。たとえば著名な経営学者C. N. パーキンソンは、「パーキンソンの成功法則」の中で、早くも'60年代に、こう書いている。

「ビジネス・コンサルタントの戸口に現れるお客は、次の二つのうち、どちらかの動機を持っていることがわかった。ひとつは、かれらがすでに決意している組織の再編成(=リストラ)遂行の身代わりを求めるためだし、もうひとつは、こういう再編成の生ずるのを防ごうとするためだ。」(P. 63)

「デトロイトのホースレス・キャリジ社の重役連中は、その幹部の半分をクビにし、残り半分に何か仕事らしい仕事をさせようと決定した。(中略)そして、自分たちの提起した再編成案を外部のコンサルタントに委ねることに同意した。(中略)コンサルタントが用いられるのは、コンサルタントにはその場でまごまごしている必要がないという利点があるためだ。かれはジェット機のドアに片足をかけながら、報告書を提出し、誰かが第一節(そこには協力者への謝意しか記していない)を読み終えぬうちに、2万フィートの高さまで逃げ出すことができる。」(P. 64)

パーキンソンらしい、皮肉に満ちた書き方だが、米英でコンサルタントがどう利用されたかを、見事に描き出している。もちろん、首切りだけではなく、本当に事業の再展開や、内部の遂行の合理化などを、まじめにアドバイスしたコンサルタント達も、大勢いたとは思う。彼らはとくに、新事業のマーケティングや、財務問題をうまく整理してくれただろう(その一端は、たとえば『世界一やさしい問題解決の授業』渡辺健介・著などに見て取れる)。

だが、英米の経営者にとって一番主要な機能は、こういうことだ:

1 外部コンサルタントは、首切りと社内政治に役に立つ


世の中に存在するのは、個別で特殊な会社ばかりだと、前回の記事https://brevis.exblog.jp/27520991/ でわたしは書いた。しかし、組織再編成の計画づくりは、その会社の業種や技術の特殊性にあまり依存しない。どんな会社にも人事部や営業部が存在し、部長社長といった職位が存在する。それを再設計するのは、分野を超えた共通性の高い仕事なのだ。だから、経営コンサルタントたちは、個別性の泥沼に足を取られずにビジネスができるのである。

ところで、日本の経営事情は、英米などとはだいぶん違う。まず、人のクビを簡単に大量には切れない(少なくとも、以前は切ることに抵抗が大きかった)。新規事業に人を採用するといっても、人材市場の流動性は少なく、大勢を短期間で採用することは難しい。

じゃあ、日本の経営コンサルタントは、どうやって仕事を確保してきたのか。その答えは、人材研修・社員教育ではないかと、わたしは見ている。残念ながら根拠となる統計調査データは示せないが、それなりに大手から独立個人まで、いろいろな経営コンサルタントと付き合ってきた中で得た感触である。おおざっぱにいって、中小規模のコンサル会社の仕事の半分以上は、じつは教育研修ではないか、とにらんでいる。

理由は簡単だ。日本企業のかなり多くが、人材育成で悩んでいるからだ。たしかに、社内に立派な教育の仕組みをつくっている超大手企業も存在するが、それはむしろ例外で、たいていの会社は、教育にまでは手が回らない。人を育てるとしてもOJT(実地教育)しかなく、つまり「俺の背中を見て育て」方式である。会社は教育機関ではないのだから、「即戦力」だけを採用しよう、と考えるところもある。だが昨今の人手不足では、それもままならぬ。

人材育成に共通する悩みとして、技術継承の問題と、ナレッジマネジメントもあげておこう。今後はシニア世代層の引退がつづく。しかし若年層は、そもそも人口が少ない。どうやって、先輩世代が蓄積した技術やノウハウを継承するのか。これもまた、広い意味の研修である。またナレッジマネジメントとは、経験したプロジェクトの失敗事例などから、教訓(Lessons & Learns)を、他の案件にも共有し、品質問題を避けることを目的としている。これも知識の移転だから、広義の研修に隣接した概念だろう。

そこで、経営コンサルタントが呼ばれる、という訳だ。

でも、なぜ、異なる企業をまたいで、研修ができるのか。業種分野が違えば、異なる知識が必要ではないのか? その答えは、人材研修に共通な課題があるからだ。一般の経営コンサルタントは、直接、技術や技能を教えたりしない。製品の設計の仕方や、旋盤の回し方をコーチはしない。そうしたことは、技術コンサルの仕事である。

経営コンサルタントが教えるのは、業種や分野をまたいだ共通性の高い知識、すなわち経営や管理にかかわる考え方である。わたしの言い方でいえば「マネジメント・テクノロジー」である。在庫管理の仕方は、それが日用雑貨であれ半導体であれ建材であれ、ほぼ共通だ。人事評価の方法論や、財務諸表の見方なども、会社の違いに関わらない。むしろ、積極的に他社と比較することが望まれる。そしてほとんどの会社員は、こうした事柄を、高校や大学で教わっていないのである。

ついでにいうと、日本のホワイトカラー層は教育程度が高い上に、自分の余暇時間にビジネス書などを読んで、勉強熱心な人も少なくない。こうした人たちは、他業界や外国の先進的な経営スタイルを見て、自分の会社でも取り入れてほしい、と願う。ところが、彼らの上司たる経営者たちは、なかなか、そうしてくれない。それは、経営者の知識が足りないからだ、あるいは意識が低いからだ、と思える。こうした人たちは、コンサルタントに、自分の会社の経営層をこそ、教えてやってほしいと期待する。

だから、日本における、経営コンサルの主要な機能は、こうだ:

2 外部コンサルタントは、社員を(または経営層を)教育するのに役に立つ


ところで、上では「技術継承の問題」という言葉を使ったが、多くの企業で問題となっているのは、本来は「技能継承」の問題、とよぶべきものである。え、技術と技能は、どう違うかって? 

技術と技能の違いは、いわば、<電卓とそろばんの違い>である。電卓は手にすれば、誰でも、計算にすぐ使える。そして素早く正確に計算できるようになる。後輩に電卓を渡せば、翌日から、素早く正確に計算ができるようにになる。電卓による計算の能力は、移転可能なのである。

しかし、そろばんによる計算は、そうはいかない。そろばんは、習練に長い時間がかかる。そろばんを後輩に手渡すことは簡単だ。だが、翌日から素早く計算できるようには、ならない。そろばんの計算能力は、属人的なスキルだからだ。こうした属人的スキルを、本来は『技能』とよぶ。

技術は元々、移転可能なものである。なんらかの能力を、移転可能な状態にすることを、技術化という。これに対して、技能は簡単に移転できない。訓練に長い時間がかかるのが、ふつうだ。もちろん、真に上達すれば、機械をしのぐ能力を発揮する人もいる。そろばんの上級者は、頭の中だけで、素早く正確に計算をこなす。だが、その能力は、すぐ移転可能ではない。

だから多くの企業が、移転継承になやんでるのは、技術ではなく技能の問題なのである。たとえ、見かけ上は工学的な設計上の能力に見えても、個人のセンスや経験に依存するのであれば、それは技能である。トヨタ系のように「技術員」と「技能員」を区別している会社もあるが、多くの企業では、そもそも技術と技能について、概念上の区別ができていない。

そして、日本企業の共通の悩みというのは、じつは「仕事の成果を個人の技能に頼っていて、技術化を怠っている」ことにあるのである。だから、経営コンサルは、業種分野が違っても、クライアント企業ですぐ仕事のタネを見つけられるのだ。わたしは大昔の2001年に書いた記事「特別な我が社」で、

「日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高い。それは、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということだ。」

と書いた。だからコンサルタントは、たとえ作っているモノが違っても、製造業相手に仕事ができるのだ、と。それと似たようなことが、人材育成についても言えるのだ。

前回引用した、ジェラルド・ワインバーグの『技術コンサルタントの秘密』には、コンサルタントの3つの法則が書かれていた。第1と第2は、次のようなものだ:

コンサルタントの第一法則
 依頼主がどういおうとも、問題は必ずある。
コンサルタントの第二法則
 一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。

人の問題を解決するのに、「人を入れ替えれば良い」というのが、英米式の考え方だった。だから彼らは、経営コンサルタントに、リストラの支援を依頼した。

日本企業は、「人を育てるしかない」と考える。そこで経営コンサルに、人材育成の支援を依頼する。それはいいけど、本当に経営コンサルタントは、この問題を、クラスルームの集合研修で、解決できるのか? マネジメント・テクノロジーそれ自体の教育は、たしかに役に立つ。しかし、企業が本当に継承したいと考えている仕事の能力が、属人的な技能なのだとしたら、そこにギャップが生じないか?

そうなのだ。もし、仕事のパフォーマンスに関する悩みが、「人の問題」ならば、解決法は二つあるはずだ。一つは、人を育成して、仕事の技能を身につけさせること。これは長い時間がかかる。バラツキも大きい(向かない人にはソロバンはできない)。

もう一つの解決法は、「仕事から属人性をなくすこと」である。誰が仕事をやっても、一定のレベルの成果が出るような、仕組み(システム)を作っていくこと。たとえば人材教育なら、OJT以外の教育の仕組みをつくること。たとえば在庫管理なら、在庫レベルをコントロールする方法論とシステムを導入すること。こうすれば、人によるバラツキの悩みは小さくなる。

そして、本当に有能な、役に立つコンサルタントは、社員研修の仕事を半分受けるかたわら、顧客が「仕組みの欠如」という真の問題に気づくよう、仕向けていくのである。

経営コンサルタントは、問題解決のために雇われる。それも、パフォーマンス問題という、構造の見えにくい、やっかいな問題だ。そして人々は無意識に、期待する。コンサルは、新しい知識を持ってくる。そして問題を解決してくれる、と。問題が解決すれば、業績が向上して、企業が成長できると。

ところで、成長すると言う事は、変わると言うことだ。変わらなければ成長できない。

だが、自分自身や周囲を見回して、よく考えてみよう。人は、そう簡単に変わるだろうか。あなたは、誰かを変えることができただろうか。いや、説得してその人の意見を変えさせることさえ、滅多にできないのではないか。

人はある年代を過ぎると、生き延びることが先決になり、成長することは二の次にしてしまう。その時点で、人は他人の言うことをきかなくなる。その年代がいくつ位かは、その人のキャリアパスや働く環境によって異なるだろうが。とにかく、「変わらない人」になってしまう。

そういう人にとって、問題解決とは、自分以外の誰かを変えることである。問題のある部下とか後輩とかを変える、あるいは他の部署の融通のきかない同僚を変える、あるいは無能な上司を変えることが、解決である、と。そういう人から見た問題は、自分自身の変化は決して含まない、非常にゆがんだ問題設定になりがちだ。組織全体のパースペクティブから俯瞰した問題認識ではなく、他責的な問題になってしまう。

このような、偏った問題設定を排し、いろいろな業界を見てきた目から、客観的でよりベターな問題を設定できることが、外部の人を入れる価値なのだ。だから、コンサルの最も望ましい使い方は、こうだ:

3 外部コンサルタントは、より良い問題設定をする役に立つ


そして、当たり前だが、問題解決の行動をするのは、自分たちである。自分で汗をかかない限り、問題は解決できない。コンサルが解決するのではないのだ。ここが一番、誤解の多いところだろう。コンサルは道具の一種だ。道具を買っただけで解決できる問題は、少ない。ゴルフの腕前に悩む人間が、1本10万円のゴルフクラブさえ買えば、万事OKだろうか?

だからワインバーグのいう、コンサルタントの第3法則は、こうなっている。
「料金は時間に対して支払われるのであって、解答に対して支払われるのではない、ということを忘れてはならない。」

役に立つコンサルタントとは、カーナビのようなものである。あなたが行きたい目的地を明確に示せば、そこへの道を示してくれる。複数の可能な経路を示してくれるかもしれない。だが実際にアクセルを踏み、ハンドルを切り、障害物を避け、現実の走行規制に従って車を動かすのは、あなたの方の責任なのである。


<関連エントリ>
 →「生産マネジメント手法の系譜を考える(2) 日本型生産思想のあり方」 https://brevis.exblog.jp/27462519/ (2018-08-02)

 →「書評:『世界一やさしい問題解決の授業』 渡辺健介・著」 https://brevis.exblog.jp/23647609/ (2015-09-06)

 →「パフォーマンス問題へのシステムズ・アプローチ」 https://brevis.exblog.jp/24951754/ (2016-11-21)



by Tomoichi_Sato | 2018-09-05 22:24 | ビジネス | Comments(0)