<   2018年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

生産マネジメント手法の系譜を考える(1)

「佐藤さん、お忙しいところ、時間を取っていただき、ありがとうございます。突然お邪魔して恐縮です。」

--別にいいですよ。それより、何のお話しをすればいいんですか?

「ぼくら、生産管理について、少し勉強したいと思っています。ただ、どこから手をつけていいか、よく分からなくて。教科書もあるような、ないような、Amazonとかで探せば、山のように候補は出てくるんですが、どれが良いのか迷ってしまいます。また逆に、自分たちの社内にはあまりそういう資料はなくて。」

--なるほど、生産管理の勉強ですか。皆さんは受託開発のシステム・インテグレーターにお勤めですね。すると、製造業向けのシステム開発に取り組まれるんですか。生産の実務を知っているITエンジニアは少ないので、勉強されるのはいいことですね。

「いえ、少し違うんです、佐藤さん。たしかにぼく自身は今、製造業向けの仕事をしていますが、業務分野は会計システムですし、他のメンバーも、製造業はあまり経験がないんです。ぼくらの勉強会は、しばらくプロジェクト・マネジメントについて勉強してきました。ご存知でしょうが、ITプロジェクトはいろんな問題があって、ひどい赤字が出ることもあります。それで、議論しているうちに、ほんとは製造業の方がずっと上手なマネジメントをしているんじゃないか、って話になって。」
「あのお、たとえば、『トヨタ生産方式』とか、よく聞きますよね。ああいうのを導入したらいいんじゃないかと、私なんか思ったんです。それで、まず生産管理の基本的なところを勉強しよう、となりまして。だったら、佐藤さんがお詳しいらしいので、教えていただこう、と。」

--ははあ。そういう事ですか。ただ、どうかな。IT系のプロジェクト・マネジメントに改善余地があるのは同感だけれど、“製造業の方が管理は上”とか、“トヨタのやり方を導入すれば解決”、とかって意見は、必ずしも賛成できないなあ。

「そうなんですか?」

--うん。そう思い込む人は、よくいますけどね。マネジメントというのは、対象とする組織なり仕組みがどういうもので、何を主眼にして動かすのかによって、全然異なってきます。プロジェクトというのはそれぞれが個別の、一度きりのもので、チーム組織もその場限りの時限的なものですよね。そしてプロジェクト・マネジメントの主眼は、プロジェクトの価値をどう最大化するかにあります。

「はい。」

--ところが、生産マネジメントが対象とするのは、ふつう『工場』と呼ばれるパーマネントな仕組みで、その中を複数の案件・オーダーが動いています。いわば、多数のマルチ・プロジェクトが走っている状態です。おまけに働く人数や機械の数も制限がある。その多数のオーダー間を調整して、リードタイムや在庫や生産性や品質など、互いにトレードオフのある目標値をなんとか合わせようと苦心する訳です。おまけに次々に追加受注や変更が入ってくる、動的な環境です。つまり、動的な適応制御のようなものですね。
 たとえて言えば、プロジェクト・マネジメントは月ロケットの操縦で、方や生産マネジメントは混雑する空港の管制塔みたいなもの、といえるかな。ずいぶん違うでしょう?

「でも、トヨタさんはあれだけ利益を上げているじゃないですか。それにひきかえ、弊社では・・」

--いやいや、ちょっと待ってください。トヨタにはプリウスをはじめとするハイブリッド車などの、新製品開発もあります。製品開発は収益力の重要な柱です。ところがSIビジネスは基本、受注産業でしょう? 林檎とオレンジを比べて、林檎はオレンジに学ぶべきだ、といっても役には立たないですよ。

「じゃあ、どうしたらいいですか?」

--まず、オレンジはオレンジで、どんな種類があるのか、どう進化してきたのかを知りましょう。つまり、生産マネジメントの方法論には何があり、それらは製造業において、どう発展してきたのか。多少、遠回りに思えるかも知れないけど、その方が学ぶ価値があると思いますよ。

「生産管理の考え方って、そんなに種類があるんですか?」

--もちろん、あります。(わたしはホワイトボードに、簡単な表を書いた)ええと、ざっくりいって、7〜8種類くらいあるかな。まあ数え方にもよりますが。

e0058447_22525506.jpg
「最初がフォード・システムですか。」

--うん。そうです。ものづくりの歴史は何千年もあるけれど、非常に複雑な機械製品を大量に生産する必要が出てきたのは、20世紀の自動車工業からです。課題は同じものの大量生産。もう、ここからして皆さんのITプロジェクトと違うでしょ?

「・・そうですね」

--それを解決するために、ヘンリー・フォードという人は、組立中の自動車をコンベヤで一定速度で動かし、順番に部品を組み付ける方法を考えた。そのために、作業を徹底的に分業化し、またタクトタイムという概念で標準化しました。おかげで労働は単純化し、負担も増えたが、フォードは労働者の賃金を上げることで報いた事も、公平のために言っておきましょう。

「へえ、単にブラックだったわけじゃないんだ。」

--そのおかげで、都市近郊に、自動車を買える勤労所得層が生まれ、ますます自動車市場は拡大しました。そこまで考えていたんだと思いますよ。それまでの自動車は、特注の個別受注生産でした。今の業務系ITシステムみたいでしょ?

「ですね。すると、T型フォードはパッケージソフトか。」

--さて、時代は下って1960年代。この頃までに製造業は発展し、次第に製品が増え、多品種化していきます。ところでフォード以来、部品工場はロット生産でした。そもそも米国の製造業は、自社の決めた標準仕様品を大量生産することで、価格を下げる方針が強い。『1ダースなら安くなる』という評語の通りです。ところが多品種化が進むと、工場内のあちこちで、やたらと部品在庫が増えるようになった。需要を読み間違えると、みんな不良在庫化して除却損になります。そこで、必要なモノを、必要なタイミングで、適正量だけ作るような生産計画が求められたのです。

「あ、それが、有名なジャスト・イン・タイム生産ですねっ!」

--いや、そう急がないでください。必要なモノを必要な時に必要な量だけ作るなら、ジャスト・イン・タイムですが、『適正量』作ると申し上げたでしょう? 経済的ロットサイズという概念があって、ある程度の数をまとめて加工した方が安くなる、というのが米国式の考えです。そこで、構造型部品表というマスタ・データをつかって、製品の需要を工程別に展開し、標準リードタイム分だけ差し引いて着手タイミングを決める手法が考えられました。これがMRP (Material Requirement Planning)です。
 MRPは、史上初めてコンピュータを生産管理のために応用した手法です。開発の中心となったのはIBM。

「さすがはIBM、か。」

--ですね。ただ、MRPには弱点もいくつかありました。代表例は、計算時間がかかること。1回の計算が夜間バッチで一晩かかる、というケースは珍しくありませんでした。

「そりゃひどい。そんなに計算量が多いんですか」

--まあ60年代ですから。当時の汎用コンピュータの、能力の限界ですね。それに、計画立案はいいけれど、現実からのフィードバック・ループが弱いこと。つまり何らかのトラブルなどで計画通り現実が動かなくなったとき、リカバーがけっこう難しいのです。
 そして、製造機械の能力や労働者の人数の上限を、考慮できないこと。これを専門用語で『無限負荷計画』と呼びます。だから、実行できない計画もできてしまう。

「それじゃ、計画立案の手法として落第じゃないですか?」

--ただね、当時も今も、米国では工場を作るとき、将来の需要増を見越して、最初からかなり過剰投資気味に作ることが多いんですよ。だから、工場は生産能力が余っているのが普通でした。したがって、標準リードタイムを多少長めに設定すれば、実際には何とかなったのです。
 MRP登場以前は、その余っていた機械能力を使って、沢山の品種の部品を、大ロットでがんがん作るもんだから、あちこちに中間在庫の山ができていた。MRPは製造のタイミングを、真に必要な時からリードタイム分だけ前倒して、指示を出すわけですから、、少なくともその問題は解消されました。
 しかし、70年代に入ると、予想もつかぬ出来事が起きて、アメリカの製造業を大きく揺るがします。

「いったい何ですか?」

--’73年の、石油ショックですよ。

(この項続く)


by Tomoichi_Sato | 2018-07-23 22:56 | サプライチェーン | Comments(0)

どうどう巡りの議論を避けるために

1.「どうどう巡りの議論」、その症状と原因
前回は、ビジネス上の『議論』の価値について,少し考えてみた(「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/2018-07-04)。ところで、わたし達が仕事において行う議論は、しばしば、どうどう巡りに陥る傾向があるように思われる。これが、ビジネスにおける議論や会議を、「時間のムダだ」と感じる原因の一つなのだろう。具体的に、どんなことが起きやすいか、考えてみよう。

やっぱり、××なんじゃないの?」−−たとえば、これがよくある症状の一つである。あるテーマが議題にあがる。「○○という課題があるが、××かもしれないな」という風にはじまる。そして皆で、さんざん議論する。そのあげく、派生して出てきたいろいろな意見は結局、全部否定され、最初の××という意見へ回帰してしまう。じゃ、あの議論は何だったんだ? と大方の人間は感じる。

ここには、××という意見に対する、客観的な検証の働きがない。そもそも、たいていの意見は、予想や推定や憶測の部分を含み、『仮説』である。仮説である以上、検証が必要だ。だが、××がその組織で長年、共有されてきた指針に近ければ近いほど、検証しようとする働きがききにくくなってしまう。これが、どうどう巡りの議論を生む、よくあるパターンの一つだ。

それは認められないな」−−これもまた、よくある議論のデッドロックの一つである。複数の部門から人が集まって、議論をする。大方の参加者は、△△が良い結論だろう、と考える。ところが、ある参加者だけが、その結論を拒否する。△△という方策が、その参加者の属する部門の協力を必要とする場合、そこで話は全てとまってしまう。

このような症状は、参加者が自分の立場に固執するために起きる。その人自体が頑固者、というよりは、かれが部門の利益代表で、代案を持ち帰ると拒絶される恐れがあるから、ノーというのだ。冷戦時代の旧ソ連の国連代表は、「ミスター・ニェット」と陰で呼ばれていた(「ニェット」はロシア語でNoという意味らしい)。理事会にどんな提案をしても、彼の拒否権で否決されてしまう。だが彼は会議の場で少しでも妥協して帰ると、母体組織からつまはじきにされてしまう。このように、議論の参加者が皆、所属部門の利益代表としてふるまうようだと、議論は前に進まず、どうどう巡りにおちいりやすい。

また同じ議題ですか」−−これもよくある症状だろう。たしか似たような話を、2ヶ月前にも話し合ったはずじゃないか。そりゃあ、あのときは関西営業部の問題で、今度は東北工場のことかもしれない。でも、同じような問題が、あちらでもこちらでも繰り返される。毎回、対応策を議論して考える。そしてなんとか火を消し止める。だが少したつと、また煙がどこやらから立ち上りはじめる。

つまり、組織が過去の経験から学ばず、教訓(Lessons Learned = LL)が生かされないのである。少し真面目な組織なら、問題報告と始末書は一応、ドキュメント化されて、部長の判子もついて、どこかにファイルされているかもしれない。だが、それを他の部署の人は読まない。存在も知らない。同じ部署でさえ、探していなかったりする。あるいは沢山ありすぎて、読む気にならないのかも知れない。理由が何であれ、似たような問題を毎回議論していると、何のための議論だ、という気になってくる。

もう少し状況の変化を待とう」−−これは、あれこれ議論した後で、何も決めずに話を終えるパターンだ。じゃあ次回の会合で決めるのかというと、やはり「もう少し待とう」ということになる。決断の先延ばしである。

このように「待ち」の姿勢のまま、どうどう巡りする組織は、外部環境からの要請が無いと、自分からは変化できない、Event driven型の組織だと思える。江戸幕府末期もそうだったかもしれぬ。黒船が来て、はじめて慌てる。来なければ、そのままだった。いろいろと体制に問題が生じているのは自覚しているのだが、惰性が強いのだ。あるいは、自分が目指すべきビジョンとか、主体的な成長への意思が、欠けているというべきか。ただ守りと組織の維持だけが、自己目的化しているのである。

いい案が出ないなあ」−−議論におけるアイデアの枯渇症状である。何度時間をかけて議論しても、ぱっとしたアイデアが出ない。世の中には『デザイン思考』をはじめ、アイデア出しのための技法はいろいろある。そういうのを学べばいいじゃないかと、はたの人間は思ったりする。それも一理あろう。しかし、どんな技法を持ってきても、あまりブレイクスルーの生じない議題もある。

それは、問題設定の在り方自体が良くないために起きるのだ。アイデアをだしたければ、「良い問い」を立てる必要がある。これについては、エイミー・ウェブという未来予測の専門家が、面白いことを言っている。(以下、週刊ダイヤモンド『未来予測に欠かせない「社会の片隅にあるシグナル」の探し方』 http://diamond.jp/articles/-/151780?page=4より引用)

“大手自動車メーカーで仕事をしたときに、彼らは「今後20年を見据え、未来の車がどうなるのか」ということを知りたがっていました。
 ですが、私は言いました。「その問いはよくありません」と。なぜなら、自動車会社は「車社会が残っている」「車を作って売らないといけない」という前提に立っていたからです。ここで、もしシグナルを拾いたいのであれば、問いの立て方を考え直さなければなりません。
 つまり、「今後20年、人やものの運び方がどう変わるのか」について考えなければならない。シグナルを見つけるには、よりよい問いを立てることが重要なのです。
 先の航空会社の例も同じです。「未来の飛行機がどうなるのか」ではない。「今よりもはるかに早く人々が移動する未来」を考えなければなりません。そう考えれば、自動車や飛行機に限らず、社会の隅々にある情報に目が向くはずです。”

(引用終わり)

このような、どうどう巡りの議論が生じる根本原因は、その組織が持つ「思考と行動習慣の体系」(=OS)にバグがあるためだ。だが、この話は論じると長くなるため、別の機会に譲ることとし、話を先に進めよう。


2.議論というものの性質

これは何度か書いていることだが、議論をカラ回りさせないために大切なことは、事実と意見を一応、区別することである。事実は誰もが合意でき、共有できる。そして事実は検証可能だ。だから事実に関する議論は、ふつう水掛け論にはならない。

ところが意見はしばしば食い違う。これは意見というものが、事実を基にしつつ、価値観を加えて、推測や分析や評価を行った結果として現れるからだ。2018年のワールドカップで、日本は準決勝まで進めなかった。これは事実で、反論する者はいない。ただ、その事実からどんな評価や原因分析をするかは、人によって意見が分かれる。つまり、

 事実+価値観=意見

なのである。価値観は人により様々なので、それでも議論で合意に達するためには、それらの違いをカバーできる「共通価値観」をさぐる必要がある。たとえば、「何のかんの言っても、日本のサッカーが世界の上位の常連に」とか、「この会社自体がツブれたら俺たち皆、元も子もないじゃないか」といった地点まで遡るのである。

その上で、事実や意見の組み合わせから、意味のある共通仮説が議論によって生まれてくる。その仮説はさらに、事実で検証・補強されなければいけない。「今はこれこれだと決めよう。だが今後もあのデータを取って、検証を続けよう」・・こういう風に進むのが、望ましい議論のあり方だ。

そして、議論を続けていくと、ようやく結論が成熟していく。この成熟度カーブは、たいていの人は、1番目の図のような形だと、漠然と思っている。つまり、最初はあまり議論がかみ合わないが、途中から次第に進み始める。そのうち、議論が煮詰まって、あまり先に進まなくなる。全体としては、ローマ字のSカーブのようになる、と。

しかし、議論の過程をよく観察していると、じつは成熟度のカーブは一度平坦になっても、さらにジャンプして新しい水準にあがることを、断続的に繰り返す場合がある。これは、議論している中で、新しい論点の発見があることに対応している。上に引用したように、「未来の自動車とは」の議論から、「モビリティの未来像とは」という風に、新しい地平がひらけるのだと考えられる。2番目の図のパターンだ
e0058447_23132551.jpg

そして、こういう新しい論点の発見は、やはり時間をかけて議論するからこそ、生まれるのだろう。最初からその論点を思いつけば良かったじゃないか、と、後から批評することはできる。だが、実際にはいろんな角度から論点を話し合い、煮詰まりを参加者が感じたからこそ、新しい地平に移るアイデアが生きてくるのだ。(ただし、無論ここに書いていることは数値的な裏付けがない、わたしの仮説である。だから、何らかの形で観察事実を蓄積して検証する必要があると思っている)。


3.どうどう巡りを避ける知恵

では、具体的に、議論を身のあるものにするためには、どうしたら良いのか。現時点でわたしが思いつく処方箋を、いくつかあげておこう。これらすべてを、わたしがいつも実践できているとは限らない。だから自戒も込めて、ここに書くのだが。
(1) 議論の完了条件を明確に決める
これは、そもそも会議とかミーティング開催の基本的ルールである。招集したチェアパーソンは、冒頭に、打合せの議題と、どうなったらこの会議を完了できるかを宣言する。つまりタスクの完了条件である。何かを決定するとか、事実を報告し共有するとか、何らかの担当者を選ぶとか。これなしで会議をスタートしたら、ゴールも定めぬまま船出するようなものである。

(2) 議論の経過を記録(見える化)する
打合せの書記役を決め、議論で出てきた意見を、ホワイトボードでもパソコンでもいいから、途中経過を含めて筆記する。これは多少のスキルを必要とするが、とても大事なプラクティスだ。これをすることで、どこまで何を議論したのかが見えるようになり、議論の後戻りを防ぐことができる。人間の記憶力など、かなりあてにならない道案内役であって、人はしばしばさっきの議論を忘れて、また同じ話をしたりする。どうどう巡りである。地図に進んだ道を記録しておけば、人は同じ場所を何度もめぐる愚をさけられる。

(3) 議論のモード(発見/発明/評価)を区別する
前回の記事に書いたように、議論とは、人間の思考を外出しにした形態の一種である。そして思考のモードには、発見(パターン認識)的な思考、発明(論理展開)的な思考、評価(価値判断)的な思考がある。現在の論点が、どのようなモードを必要としているのか、参加者が意識した方がいい。

(4) 主観的な形容詞・副詞を避ける
ときおり、会議の結論に、「プロジェクトのリスク・マネジメントをしっかりやっていく」「コストダウンを徹底する」みたいなのを見かける。しかし結論の文章から「しっかりと」「徹底的に」といった主観的な形容詞・副詞を抜き取ってみると、「プロジェクトのリスク・マネジメントをやる」「コストダウンをする」みたいな、変哲もない当たり前の事柄になってしまう。では「しっかり」「徹底的」とは、具体的にどのようなことなのか、今までのやり方とどこが違うのか? これを明確にしないと、何も議論しなかったのと同じになってしまう。

(5) 多義的であいまいな言葉は意味を確認するわたしのこのサイトでも繰り返し問題にしているが、「品質」「進捗」「責任」「文化」「リスク」など、皆が意味を分かっているつもりで、じつはかなり理解に幅のある用語が、世の中には沢山ある。こうした言葉は、まず意味を言葉で説明してから、使う方が賢い。拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』で、大事なOS要素(S+3K)の一つに、「言葉を大切にしよう」というモットーを入れたのも、このような議論の空回りとすれ違いを防ぐためである。

4.議論に臨むときの基本的な態度

以上、議論におけるテクニック的なことをいくつか述べた。だが、本当は技巧をうんぬんする以前に、参加する人たちの態度・体勢を正す方が大切だ。すなわち、自分の正しさを証明するためでなく、合意を得るために議論する、という態度である。議論を勝ち負けの場にしてしまうと、創造性や柔軟性が失われてしまう。

その上で、議論をどこで打ち切るか、を決めていく必要がある。議論は大切だが、タイムリミットもおいた方が良い。ビジネス上の問題には、何らかのタイムリミットが通常、存在するからだ。全員が合意に至るのが理想である。だが、そうでない場合に、継続/打ち切りを決める基準が望ましいのだ。

参加者の中には、ふつう、打ち切りたがる人も、続けたがる人もいる。これは、その人自身の性格による部分もあろうが、むしろ、その人が議論の帰趨に対し、感情的に納得できているかにかかっている。そして、この「感情的な納得度」を、バカにしない方が良い。これが得られないまま議論を打ち切ると、同じ問題が繰り返される原因になる。つまり、最初に述べた「またその議題ですか」という状況になるのだ。

先ほど、議論の成熟度のカーブを模式的に描いたが、もしそこに感情的な納得度のカーブも描き加えるとすると、それは理屈の成熟よりも、ずっと遅れてくるパターンになっているだろう。これを強引に、早めの段階で打ち切ってしまうと、理屈ではわかった。でも、まだ感情的に納得できていない、という参加者を大勢生み出すことになる。

e0058447_23142884.jpg
そして人間は、理屈で分かっても、納得できていない事は、うまく実行できないのだ。たとえ形の上では結論にしたがって行動しても、無意識の中で、「この結論のおかげで失敗する事例が生まれないかな」と期待していたりする。そして、そういう時には、実際に失敗が起きやすいのだ。議論に時間が必要だというのは、このためでもある。

そして、最後に書き加えておこう。これまでずっと、人びとの間の議論について考えてきた。議論は、思考を外部化したものだ。だが、逆に表現すると、思考とは、ある意味、他者との議論を内部化したものである、とも言える。だから、考え事によって良い結論を生み出したければ、自己の中に、他者の視点をも取り入れる必要があるのだ。一面的に考えず、多角的に考える。そして、新しい論点の地平を見つけられる程度に、時間をかけて考える。深く考えるとは、そういう行為である。そのためには、良いコミュニティに属して、自己の中の他者の視点を深耕する必要があるのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)



by Tomoichi_Sato | 2018-07-14 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

議論の品質を問う

“It was a good discussion.”(「良い議論でした」)−−欧米人と打合せした後、たまに彼らがそう感想を述べることがある。”A good meeting”(良い会議)だった、と言うケースもあるが、どちらもほぼ同じ意味で、実りある話し合いができた、ということだ。交渉の場を、この一言で締めることもあるし、普通の打合せでも使う。彼らには、打合せの結論だけでなく、議論のプロセス自体に、良し悪しの尺度があるらしい。

しかし、日本人同士で話し合う場合、打合せの終わりに、こうした吟味や感想を述べあうことは、まず、ない。もちろん普段のミーティングだって、客観的に振り返ってみれば、実際には、良い打合せせもあれば、しょうもない会議もあるのだ。だが、わたし達の社会では、他社とであれ同じ社内であれ、『議論の品質』を問う習慣がない。

最近は、ホワイトカラーの生産性に関する論議が盛んだ。「働き方改革」のかけ声にも関係するのだろう。だとしたら、ホワイトカラーの労働時間の少なからぬ部分を占める、会議・ミーティング・打合せ、などの活動の品質を上げることも、必要である。もちろん、不要な会議やミーティング自体を減らすのは、大事だ。だが、他者との議論の時間はゼロにはならない。だとしたら、ミーティングで質の高い議論ができるためには、どのような条件がいるかを考えて損はない。

なお、ここで「議論」と呼んでいるのは、組織内や組織間で行う、ビジネス上の結論を求めて行う対話的協議のことである。居酒屋で世間の事件に感想を言いあうだけとか、恋人同士の口喧嘩だとか、敵対する集団に投げつけるヤジだとか、気に入らぬ記事に140字以内でぼろくそなコメントをつける、といった行為は「議論」の範疇には入らない。あくまで対面で、かつ、顔と名前が一致する範囲で行う、有意味な話し合いについて考えている。

ところで、議論の品質を考える前に、そもそも「品質」とは何かについて、問い直してみるのもムダではあるまい。というのも、通常の工場での製造品質や、現場での工事品質とは明らかに異なるからだ。統計的品質管理手法なども、そのまますぐ使えそうにはない。

以前も書いたように、品質とは、ユーザやステークホルダの無意識の期待に合致する程度のことである。「無意識の期待」とわざわざ書いたのは、理由がある。意識され明文化された期待とは、いいかえると「性能」「仕様」「要求」であって、品質評価の基準にはならないためだ。100W規格の電球が100Wで動作するのを見て、「品質が高い」という人はいない。もちろん、「100Wの電球は60Wの電球より品質が高い」などという人もいない。

ただし、製造工程の結果が、設計書で明文化された性能や仕様を満たすよう作ることは、誰もが当然のこととして(=無意識に)期待している。だから仕様通りでない製品は「品質が低い」訳だ。この種の品質基準を「後ろ向き品質」という。

これに対して、「前向き品質」とは、あまり明確で明文化された仕様が存在しない(=自由度の高い)状況で、結果が無意識の期待以上のパフォーマンスを示したとき、使われる言葉だ。設計、ことに製品の基本設計などは、前向き品質の対象で、「質の高い設計だ」という言葉が使われる。

議論の品質も、前向き品質の一種だ。それを吟味するためには、わたし達が「議論」のどこに、何を期待するのかを明らかにしなければならない。つまり、議論という行為自体の目的(わたし達はなぜ議論するのか)である。

これには、大別して三つの期待があると思われる。

(1) 何かを見いだす、明らかにするため(発見) =帰納的思考
(2) アイデアを創出したり、結果を予測するため(発明) =演繹的思考
(3) 価値を計り、優先度をつけるため(評価) =価値的思考
 (もちろん、この3種類を、別々に単独に話し合う場合も、組み合わせて議論する場合もある)

(1)は、いろいろな事実やデータを集め、その中から特性・つながり・関係性・相似などを見つけるタイプの議論だ。事象の全体像や内部構造を見いだしたり、問題の原因を分析したり、事例をパターン分類したりすることが議論の目的となる。たとえてみれば、警察の捜査会議のようなものだ。多数のバラバラな情報を圧縮し、少数の分かりやすい説明やモデルを導き出す働きである。

これに対し(2)は、問題の解決策を探したり、予想される結果を列挙したりするタイプの議論だ。限られた要素と、その組み合わせルールから、多数の可能な予測を導き出す。ゲームの作戦会議や囲碁将棋の検討会のようなものか。発散的に情報を生成していく働きである。

そして(3)は、物事や人に対して評価をするタイプの議論だ。評価には普通、複数の評価軸がある。それらを組み合わせ、あるいは軽重を考量して、評価を下し、優先順位をつける。たとえていえば入試の審査会議(出たことないが)だろう。ここには複数の定性的事実・定量的データから、最良の者を選んだり順位を導き出す働きがある。

そして、こうした3つの議論は、我々の思考の3つのフェーズに対応している。つまり、議論とは外に出した思考なのである。一人で考えるのではなく、複数者が参加して行う思考だ。

ここから、良い議論の特性がいくつか導かれる。
(1) 創造性があること: 参加者が最初は思っていなかった地点に到達する
(2) 再現性があること: 話の経過や理路があとからたどれる
(3) 納得性があること: つまり自分が参加していても同様の結論になっただろう、と後から他者でも思える

品質の高い議論とは、参加者が(無意識に)期待したよりも、高いレベルの思考結果=結論を得て、みなが納得・共有できた状態である。

それにしても、なぜ一人で考えるより、何人かで議論して考える方が、期待よりも高い成果がでるのか。つまり、個人の思考結果の単なる足し算や、いいとこ取りよりも、優れた結果が得られるのか? 参加者のうち、一番賢い誰かの結論に従うだけなら、こうした品質の高い議論にはならないのだ。なぜ、足し算よりも価値が出るのか。

それは、ひとつには、参加者が互いに断片的な情報を持ち寄って、全体像を多面的に考えられるようになるからである。たとえば、プロジェクト・マネジメントの計画段階で行う、リスクレビューの例を考えてみれば分かる。ああ、なるほど、そういう可能性もあるのか、そんな視点もあるのか、という気づきを、こうした話し合いは与えてくれる。組織内の個人個人の視野は、どうしても限られる。でも、たとえば製造担当者と、営業担当者と、物流担当者と、設計担当者がそれぞれ情報や経験を持ち寄る。すると、一面的なデータや情報だけに頼るよりも、たしかに質が高くなる。

限られた情報に基づく私たちの見解は、常に仮説に過ぎない。したがって事実・データなどのエビデンスによる検証とアップデートが必要である。事実に基づき、仮説(推測)を形成し、価値観に従い評価する。これが客観性を作り出す基本である。

また、互いに相手のアイデアに触発され、組み合わせの妙が生まれる場合もある。評価において、異なる視点から補い合うこともある。こうしたプロセスが、「三人寄ると文殊の知恵」という諺の意味なのであろう。

そして、参加者の合意によって結論にたどりつくことも、品質の高い議論となるためには大切である。それが納得性を保証する。

ただ、どうしても合意が得られない場合は、組織では「上役」・「調整役」が決めることになる。そのかわり、その人は、意思決定の結果に責任を負うのである。

あるいは、多数決で決める場合もあろう。このとき、多数決とは、議論をつくした後の、最後の手段である。時間制約のために、やむなくとる手段である。「多数決=民主主義」みたいに誤解している人もいるが、別にそうではない。本当に質の高い議論ができれば、皆が同じ意見に収斂するので、多数決(採決)なぞ不要になる。

このような、良い議論を生み出すためには、ある種の思考習慣や態度・行動の習慣が必要になる。わたしの言葉で言えば、『組織のOS』である。それは、次のようなことだろう:

- 皆、自分の意見に対してフレキシブルでいられる
- 事実の客観的な認識の共有が出発点だと考える
- 理路・理屈をきちんと尊重する態度がある
- 議論の参加者に、お互いに対するリスペクトがある

逆に言うと、議論の結果を、勝ち負けや、損得、好き嫌い、敵味方などを基準にして決めない、ということだ。とくに議論を、勝者と敗者を決めるゲームか勝負事のように捉える考え方は、質の高い議論の敵である。品質のわるい議論とは、勝ち負けで終わる議論だ。「俺はアイツとの議論に勝った」という結果だけを求めて議論するのは、まったく「自分の意見にフレキシブル」とは対極にある。ところが、人間には競争心があるから、すぐ、こういう無意識の動機のために、議論がねじ曲がりやすい。また、短慮で全体を見ずに断定するのも、質の低い議論である。

では、良い議論を生むために必要なことは、何だろうか? たぶん、以下のようなものだ:

(1) ブレーンストーミングからデザイン思考まで、各種の技法とツール類。
(2) 練習できる場。ただし、ディベートという勝ち負けを競うスポーツは、長所短所の両面がある。
(3) 安心して議論できる仲間からなる、コミュニティ。

とくに、3番目のコミュニティの存在が、一番大切だろう。衆知を集めるには、コミュニティが必要だ。互いに相手をリスペクトできる集団である。命令・統制型のタテ社会だけでは、議論は磨かれない。

ところで、議論は思考を外的に見える化し、衆知を集める方法だと述べたが、じつは短所が一つある。それは、議論は時間がかかることだ。

ビジネスはスピードだ。即断即決で行動しいかなければ、市場をリードしていけない。・・そう信じている人にとっては、誰かリーダー1人が、すべてのことを短時間に直観的に決めていくことが、理想に思える。あるいは、お前は英米流のリーダーシップ経営を否定して、古臭い日本流のコンセンサスと合意経営を推奨するのか、という批判もあり得よう。

それに対しては、こう答えよう:わたしは、「品質の低い議論」を否定しているだけだ。品質の低い議論で全員の『合意』に達しても、そんなのは尊重に値しない。もちろん、ビジネスにも有益ではないだろう。

スピード感の点で、たしかに議論という方法は、独断即決に比べて見劣りする。しかし、より客観的である方が、より論理的な思考の結果にたどりつける。そして、きちんと衆知を集める方が、中期的には、安全性が高いとわたしは思う。それは大型プロジェクトのビジネスに、長年従事してきた者の実感だ。

そういう意味で、議論に参加しているとき、自分が感情に流されていないかをチェックする習慣を、自分で確立しようと最近は心がけている。そして、これはけっこう、いや非常に、難しい。自分自身、勝ち負けにこだわりがちな性格だし、感情のキャパシティも小さいし、そもそも直感型であまり論理的でない。

だから、ときどき背筋をまっすぐに伸ばして、考え直すよう心がけているのである。背筋をまっすぐにし、肩の力を抜いてリラックスすると、感情モードから理性モードに戻りやすいのだと、心理学は教えている。わたし達の脳は、とても身体的なのだ。少なくともわたしの脳は、そうだ。限りある乏しい知的資源を活かしていくために、だから、わたしはなるべく他者と質の高い議論をしたいと願っているのだ。


<関連エントリ>
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」 https://brevis.exblog.jp/17805452/ (2012-04-18)





by Tomoichi_Sato | 2018-07-04 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)