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    <title>タイム・コンサルタントの日誌から:F1 思考とモデリングの技法</title>
    <category domain="http://brevis.exblog.jp/i8/">F1 思考とモデリングの技法</category>
    <link>http://brevis.exblog.jp</link>
    <description>タイム・マネジメントとSCM専門家のエッセー・批評・考察集</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
    <dc:rights>2025</dc:rights>
    <pubDate>Wed, 31 Dec 2025 11:08:20 +0900</pubDate>
    <dc:date>2025-12-31T11:08:20+09:00</dc:date>
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      <title>タイム・コンサルタントの日誌から</title>
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      <description>タイム・マネジメントとSCM専門家のエッセー・批評・考察集</description>
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    <item>
      <title>考える技法——ディスクリートな思考方法について</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33669785/</link>
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      <description><![CDATA[「考えること」について考えてみる<br />
<br />
<br />
「佐藤さんは何も考えずにぼんやりしてる事なんか、ないんでしょ？」と言われたことがある。そうかな？　確かに、そうかもしれない。いつも、何か考えている。まあ最近は、マインドフルネスないし座禅まがいのことをしているので、その間は何も考えない・・と言いたいところだが、実は「何も考えない」のは、やってみるととても難しい。わたし達の脳は、ちょっとしたきっかけで思考のドリフトが始まるように作られているらしい。<br />
<br />
<br />
ともあれ、わたしは、考え事が好きだ。趣味だと言ってもいい。何を考えているかって？　まあ、いろいろ。とても抽象的な問題から、今夜のおかずまで。ビジネスのことから、趣味のことまで。でも具体的で直近のことより、抽象的な問題のことが多い。その同じ問題を、繰返しくりかえし考え続けている。時々、ちょっとだけ気づきがあって、少し前進する。<br />
<br />
<br />
例えばこの、「考える技法とはどのようなものか」も、そうした問題の一つだ。抽象的だ。ちゃんと答えがあるんだかないんだか、分からない。でも考えると少しは、役に立つ。<br />
<br />
<br />
さて、経営企画部門に移って10年以上たつが、経営計画だの戦略だのといった名札のついたサブジェクトについて、社内外の人と意見交換するうちに、気がついたことがある。それは自分と、世間の人たちの考え方や問題意識が、ずいぶん違うことだ。「なぜ、世の中の人は、こんな考え方をするのだろう？」と、よく思った。<br />
<br />
<br />
しかし最近、問題の立て方が逆であることに気がついた。むしろ問うべきは、「自分はなぜ、世の中の人のように考えることができないのか？」なのだった。自分が世間の人のように考えられたら、コミュニケーションが通じて楽なのになあ。でも、もしかするとそれは、ディスクリートな思考方法をめぐる違いなのかもしれない、と。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
化学はディスクリート<br />
<br />
<br />
きっかけは、ある会合でご一緒した東大名誉教授の幸田清一郎先生が、とても興味深い発言をされるのを聞いたときだ。「化学はディスクリートだ」という言葉が、それだ。これは物理学と化学を対比した文脈の中での発言だったと記憶する。ちなみに幸田先生は化学反応速度論の研究で知られる専門家で、前回の 書評記事で書いた「西村肇さんを忍ぶ会」にも来られていた。 <br />
<br />
<br />
化学がディスクリートだとは、具体的にどういう意味か。例えば酸素という元素がある。原子番号は8、原子量16。その直前の原子番号7は窒素で、原子量14。わたし達が毎日呼吸している空気は、この酸素と窒素が大体1対4の割合で混ざっている。<br />
<br />
<br />
ところで、両者の性質は相当に違う。窒素は不活性で、あまり他の物質と常温では化合しない。ところが酸素は活性が高く、多数の物質と結びつき酸化してしまう働きを持ってる。原子量や原子番号がすぐ隣だからと言って、窒素の性質から酸素の性質を推測することができない。両者は極めて独立しているのだ。離散的と言っても良い。 これを幸田先生は『ディスクリート』と形容されたのだ。<br />
<br />
<br />
これを聞いてようやく、わたしはずっと化学が苦手だった理由が分かった。わたしは化学工学科の修士を出て、化学システム工学科というところで学位をとった。だが化学は大の苦手なのだ。大学の入試では理科から2科目を選択する必要があり、物理と化学を選択したが、化学は白紙答案だった（正確に言うと、「リービッヒ・コンデンサー」という器具の名前だけは知っていたので書けた）。他の問題は解こうとすらしなかった。全部の時間は物理にあてて、最後の1問を除きすべて正解だったと思っている。<br />
<br />
<br />
入学後もずっと化学は苦手だった。化学工学の修士課程の入試を受けるために、わたしは旺文社から出ていた高校生用の参考書をやむなく読んだくらいだ。なぜ苦手だったか。それは、推測がきかないからだ。<br />
<br />
<br />
物理の世界では、物事は連続している。手を離して落下する物体は、距離＝ 4.9 x (時間)^2　の式に従って、落ちていく。2秒後と2.5秒後と3秒後の位置は、互いに関係し合っており、3.5秒後の位置も、3秒の状態から推測可能だ。だが、化学はこうはいかない。幸田先生が指摘したように、事物はディスクリートであって、窒素から酸素を推測することができない。だから、全部、暗記して覚えるしかない。わたしは暗記が大嫌いなのだった。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ディスクリートな思考方法は、どこが違うのか？<br />
<br />
<br />
わたしの頭の中では、いろいろなものは、つながりあって存在している。そして互いに影響し合っている。また近隣との関係から、多少の推測ができる。比較的、相似している。しかし、ディスクリートな思考方法の頭の中では、そうではない。酸素は酸素、窒素は窒素。別の名札で、別の代物だ。英国は英国、フランスはフランス、言語も文化も全然違うね、ということになる。そりゃまあ、そうだ。<br />
<br />
<br />
ディスクリートな思考方法の人たちを見ていると、物事は個別に独立して存在している。だから独立に、弁別や対応や解決が可能だ。AならばB、CするにはD。活気あるオフィスを作りたい。じゃあフリーアドレス制を推進しよう。プロジェクトがなんだかギクシャクしている。それはコミュニケーションが良くないからだ。成果物の品質が今ひとつだ。では検査とレビューを徹底すべきだ。そういう論理になっている。<br />
<br />
<br />
スマート工場を実現する？　じゃあ、AI/IoTを現場に導入すればいい。・・こんな風に考えられたら、楽だろうなあ。少なくとも、セールスにはとっても有利だろう。わたしみたいに、スマート工場にはMESが必須だ、なんて言ってたら商売のハードルが高くて、たまらないからだ。<br />
<br />
<br />
納期遅れが生じている。それはスケジューリング・マネジメントができてないからだ。現場が余分なモノであふれかえっている。それはマテリアル・マネジメントが不足しているからだ・・・製造現場の2つの事象が、実は「リトルの法則」を通じてつながり合っている、などと言う事は気がつきないし、興味もない。ディスクリート思考の人たちにとって、品質QとコストCと納期Dとが、トリレンマ状態にあるなんて、当然理解の外にある。<br />
<br />
<br />
ディスクリートな思考方法の特徴は、クローズアップと分析指向である。物事を把握し理解するには、近づいて細部をよく見ることが大切だ。細部はそれぞれ独立している。だからディスクリートな思考方法では、物事は階層的な分類、ツリー構造になりやすい。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ディスクリート思考とマネジメント<br />
<br />
<br />
このようなディスクリートな思考方法には、利点がある。それは、素早く判断し、割り切りによって、余計な枝葉を切り捨てていくのに適している点だ。また、分解・分類指向だから、複雑な対象を、分担・分業化して行くのにも向いている。したがって、忙しいマネジメント職にある人間には、とても有用である。<br />
<br />
<br />
AならばB、ということは、ルール化しやすい事も意味している。これは単なる想像だが、法学部的思考とは、かなりディスクリートな思考方法なのではないか。法学的には、窒素を見て酸素を推測する必要は、さほどあるまい。<br />
<br />
<br />
逆に、この種の思考方法の弱点とは何だろうか？　それは、端的に言うと『シナジー』という現象が出てこないことである。だって、個物は互いに独立しているのだ。部分の総和が全体である。すべては分類・分業と足し算で出来上がっている。人や組織間に関係があるとしたら、経済的ないし法的関係に過ぎない。これこそ、多くのマネージャー達が陥りがちな、思考習慣に違いない。<br />
<br />
<br />
わたし達の社会ではペーパーテストが幅をきかせているが、それはディスクリートな思考方法が（その人の記憶力さえ良ければ）向いている。難関を突破した優秀な人たちが、マネージャー職についていく。そしてシナジー＝協力という無形の価値を、見ようとしない人たちが社会を引っ張っていく。<br />
<br />
<br />
では、ディスクリートではない思考方法とは、どのようなものか？　離散の反対概念は連続だから、「コンティニュアス思考」だろうか？　いや、なんだか違うような気もする。物事のつながり、関係性を主に見ていく思考方法だとしたら、「システム思考」と呼んでも良さそうだが、どうも使い古されて、しかも実体の乏しい用語に思える。<br />
<br />
<br />
では、どういう呼び方が良いだろうか。そして、そのような思考方法のコアの部分とは、どういうものだろうか？　――そう、まさにわたしはこういう問題を、いつも考え続けているのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「頭が良くなる方法は存在するか」 https://brevis.exblog.jp/29770031/ (2021-12-05)<br />
「知能は決断のためにある」 https://brevis.exblog.jp/33621835/ (2025-05-03)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 30 May 2025 20:52:13 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-05-30T20:52:13+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>知能は決断のためにある</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33621835/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/33621835/</guid>
      <description><![CDATA[日本社会の低迷の理由<br />
<br />
<br />
<br />
1997年のある日、わたしは出張先の中東の産油国・カタールで、衛星テレビを見ながら1人で夕食をとっていた。インド人のコックが作った日本食で、味噌汁はやたらと濃厚な、謎の味がした。見かけだけは日本風だが、断じて和食ではない。味噌汁を生活の中で味わったことのない人には、味噌汁の「イデア」＝本質はわからないのだろう。レシピをなぞり、外側を真似ることができるだけだ。<br />
<br />
<br />
テレビをつけて、日本語放送にチャンネルを変えると、背広姿の年配の男性の泣き顔が大写しになっていて、仰天した。山一証券社長の記者会見の様子だった。名門証券会社が何兆円もの負債を抱えて、経営破綻したのだ。日本のバブル崩壊を象徴する出来事だった。蒸し暑い中東ドーハの宿舎、謎のインド味噌汁、そしてテレビカメラの前で泣いている、日本人社長。この異様な組み合わせを、わたしは決して忘れない。それはピースがはまらなくなって、崩れ始めたジグソーパズルの絵を思わせた。<br />
<br />
<br />
日本のバブル期の馬鹿騒ぎを、わたしも少しは覚えている。拝金主義の時代だった。だが、もっと馬鹿げていたのは、人が努力して学んだり働いたりすることの価値よりも、運良く生まれつくことの方がずっと得になると、皆が思い始めたことだった。『東京家付き娘を探せ』という週刊誌の連載コーナーがそれを象徴していた。<br />
<br />
<br />
日本のバブル時代は1988年頃から始まり、92年頃にはピークを過ぎる。95年の阪神淡路大震災で崩れ、97年の大手金融機関倒産が決定的に終わりを告げた。絶頂期は短かったのに、その後の低迷期はひどく長い。30年経っても未だに抜け出せずにいる。<br />
<br />
<br />
長引く日本社会の低迷の理由は何か？　いろいろな説明が行われてきた。だが定説と言えるものはない。だから、わたしがここで自分流の説明を、もう一つ付け加えても、誰にも咎められはするまい。わたしの説明はこうだ。<br />
<br />
<br />
「日本社会の低迷の理由は、2つの能力の低下にある。それは、考える力と、決断する力だ」<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
決める力とは何か<br />
<br />
<br />
<br />
マネジメントという語のコアの意味は、人を動かすこと、人に働いてもらって結果を出すことだ。 その事は本サイトで繰り返し何度も書いてきた。そしてマネジメントを担う者の一番大切な仕事は判断、決めることである。<br />
<br />
<br />
『判断』はさらに、『判別』と『決断』に因数分解することができよう。 このうち判別とは、一種のパターン認識に基づく推論能力である。男性の顔と女性の顔を判別する、良品と不良品を見て識別する、求人の応募者に自社の求める能力があるかどうかを判定する。 これらはいずれもパターン認識に、多少の測定やルールを組み合わせて行われる仕事だ。<br />
<br />
<br />
パターン認識分野は10年ほど前から、深層学習を用いたAI技術によって、機械の能力が飛躍的に向上した。 今では人間のパターン認識能力をはるかに超える、人工知能の応用分野がたくさんある。これをもって、「マシンの知能は人間を超えた」と考える人たちも少なくない。判別と推論が知能の中核だったら、その主張は正しいだろう。<br />
<br />
<br />
これに加えて2年ほど前から、生成AIが時代の寵児として踊り出た。生成AIは自然言語の入出力インターフェースを備えて、ネットで手に入る言語情報・非言語データを膨大な知識ベースとして蓄え、パターンと確率に従って「自然な」(人間風の)出力をすることができる。 世の中に流通している言語的な知識を検索し判別し、集約・編集して、推論として出力してくれる。 だから、このような種類の仕事をしてきたホワイトカラーの人たちの仕事はかなりの程度、生成AIによって代替可能となった。<br />
<br />
<br />
ただし繰り返すが、AIが上手にできるのは「判別」の部分であって、「決断」ではない。決断のためには、別に必要となるものがあるからだ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
決断はなぜ重要か<br />
<br />
<br />
<br />
日本社会は高度に工業化した社会である。そこでは主に「会社」という集団が単位となって、生産や流通の仕事をになっている。 かつての素朴な農業社会の時代、働く人はせいぜい、自分の家族の生活維持を考えればよかった。何を作り育てるかは、土地と気候とでほとんど決まり、選ぶ余地は少なかった。<br />
<br />
<br />
しかし工業化社会は違う。何を作るか、いつ作るか、 どこでどれだけ作るか。技術のおかげで、選択肢は非常に広がった。そして、どの選択肢を選ぶかによって影響を受ける人の数も、桁違いに大きい。決断の重要性は、飛躍的に高まったのだ。<br />
<br />
<br />
仕事における問題解決も同じである。何事も全て予想通り、何の問題も生じないビジネスなど存在しない。マネージャーの仕事の半分は問題解決にある。問題に直面した時、私たちはどうするか？　このまま進むか、止まるか。 Aの手段を用いるか、Bの対策に頼るか。右に行くか、左に行くか。いろいろと考えて頭を絞って出てきた複数の選択肢の中で、最善と思われるものを選び出して、それで人を動かす。これが決断だ。<br />
<br />
<br />
前例があり、ルールにのっとった行為なら、決めるのは難しくない。 新しいチャレンジ、先の見えない問題解決こそ、決める力がいる。決めたことに従い、実行して、うまくいけば新しい経験や能力を身に付けることができる。うまくいかなかったら、そこから学びを得る。だから決断しない人間や組織は、学びも成長もない。<br />
<br />
<br />
考える力がなければ、進歩も成長もない事は自明だろう。しかし、たとえ頭が良くて、知識も豊富で判別能力や推理能力が高くても、決める力がなければ、どうなるか。新しいことに踏み出す決断ができなければ、人も組織も社会も、同じところを堂々巡りし、低迷を繰り返すのみになる。あの証券会社だって、もっと早く簿外債務の対策を決断していたら、廃業に追い込まれずにすんだかもしれない。低迷から抜け出したかったら、わたし達の「考える力」と「決める力」を高めなければならない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
決断力に必要な二つの事<br />
<br />
<br />
<br />
そこで改めて、読者諸賢に問おう。 皆さんはご自分の「決断力」を、5点満点で採点したら何点だと思われるか？　そういう角度から、自分や他者の能力を評価しようとしたことが、あったろうか？<br />
<br />
<br />
わたしの自己評価は、正直に言って、残念ながら相当に低い。だが低いままで、社会人を終わりたくはないと思う。では、どうしたら「決める力」を高めることができるのか？<br />
<br />
<br />
そりゃあ、わたしだって人並みに、決断には直面してきた。仕事上のことも、進学も、住む場所を決めるのだって、そうだ。もちろん勤務先を選ぶのだって、結婚だって、決断だ。そうした決断に直面して、決められずに迷うシチュエーションを思い返してみると、二つ大事な要件があったように思えてきた。<br />
<br />
<br />
その一つは、価値観である。迷いは、トレードオフ関係が生じるときに、おきやすい。お金か、時間か。評判か実質か。利便性か快適性か。成長性か安定性か。あちらを立てればこちらが立たず、トレードオフ関係があると、決めるのに悩む。そうした迷いの糸の「結ぼれ」を断ち切るのが、価値観である。<br />
<br />
<br />
何が自分にとって一番大切なのか。何が家族にとって、社会にとって、大切なのか。そのつながり、まとまりを、価値観と呼ぶ。決断力には、価値観が必要なのだ。<br />
<br />
<br />
そしてもう一つ。決めるには、『勇気』が必要なのだ。勇気というのは、理性の回路からだけでは、決して出てこない。頭が良くても臆病で気の弱い人間は、いくらでもいる。勇気は一種の感情的能力だ。<br />
<br />
<br />
ただし、後先構わずに何でも決めてしまうのは、「蛮勇」と呼ぶ。蛮勇と勇気は違う。勇気をもつ人には、自己に対する信念と、他者への信頼がある。だから、リスクある決断を下すことができるのだ。<br />
<br />
<br />
『知能』とは、過去の知識や自己の経験から学んで、自分のできること＝能力を拡大し、自分の属する家族や社会集団の生存確率と価値を上げるためにある。つまり、知能とはより良い決断のためにある。犬や猫を見て、知能が高いと感じるのは、彼らがより賢い判断と行動をしたときだ。決断の役に立たなかったら、どんなに判別や推論が上手でも、どんなに見かけ上は自然な文章を作れても、ムダに知能が高いだけとしか思われないだろう。<br />
<br />
<br />
無論、誰でも決断を間違うこともある。間違ったら、次は賢くなろうと努力すれば良い。人工知能は自分が間違ったことを言っても、恥ずかしいとも、自分は無能だとも考えない（そういう意味で、AIはある種の人間に似ている。頭の良い、自己中な人たちだ）。それでも問題構造がシンプルで評価も単純な問題なら、AIに決めてもらうのもありだろう。だが、複雑で重要な問題には、向かない。いかに人間の知能の外見を真似ることができても、自らの生存の中で決断が磨かれなかったら、「知能」のイデア＝本質に近寄ることはできないからだ。決断力は現実世界に生きる人が、自ら獲得すべき領域なのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「決める力、決めない力​​」  (2012-11-09)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 03 May 2025 22:03:48 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-05-03T22:03:48+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>考える技法——解決策を議論する前に、まず問題を見よう</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33125520/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/33125520/</guid>
      <description><![CDATA[ビジネスアナリシスは、「ニーズ」を考える仕事<br />
<br />
<br />
久しぶりに、「わたしのプロフィル」 を変更した。前回の更新から、気がつくと数年経っていた。もともと、「マネジメントのテクノロジーを考える」という、一種のアーカイブサイトをWordPressで作ろうとしたのだが、いろいろな経緯からしばらく放置していた。「わたしのプロフィル」は、その中に置いていたので、 ずっと手を入れるのを忘れていたのだ。<br />
<br />
<br />
ちなみに、わたしの今の肩書は、「 チーフエンジニア（ビジネス・アナリスト）」と名刺に書いてある。もちろん名刺の肩書きなど、しょっちゅう変わるのだが、とりあえず職場では、ビジネスアナリシスを専門に見る立場、と言うことになっている。<br />
<br />
<br />
ビジネスアナリシスとは、どんな仕事か。それは、「コンテキストを考慮しながら、ニーズを定義し、ステークホルダーに価値を提供するソリューションを推奨することにより、エンタープライズにチェンジを引き起こすことを可能にする専門活動である」と、BABOK (A Guide to the Business Analysis Body of Knowledge) Ver. 3は定義している。<br />
<br />
<br />
（・・ずいぶん、カタカナが多い説明文だ。「エンタープライズ」とか「チェンジ」とかは、「企業」や「変化」ではだめなのか？　でも、この方がかっこいいと、訳した人たちは思ったのだろう）<br />
<br />
<br />
ビジネスアナリシスとは、通常、IT分野の人たちが、いわゆる「上流工程」で行う仕事に分類される。ただし、わたしの勤務先はエンジニアリング会社なので、提供するソリューションは、工場のハードなども含む。もちろん、ソフトだけの場合もあり得る。顧客のニーズに応じて、より良いソリューションが決まる。そういうことを考えるのが、わたしの仕事だ。<br />
<br />
<br />
でも、『ニーズ』とは何か。クライアントのニーズを引き出して定義するとは、どんな仕事なのか。 顧客が「あれが欲しい」「これがしたい」と口にしたことが、ニーズなのか。<br />
<br />
<br />
こういう仕事を続けていくうちに、最近ずっと悩みの種になっている問題に突き当たった。人はなぜ、わたしと同じように考えないのか。いや、むしろこう言い直そう。わたしはなぜ、人と同じように考えられないのか？<br />
<br />
<br />
MES『標準11機能』の謎<br />
<br />
<br />
たとえば、その1つの例が、MESの『標準11機能』である。ご存じの読者の方も多いと思うが、MESとは製造実行システム（Manufacturing execution system）の略で、工場の製造オペレーションをマネージする、スタッフ層の人たちの業務を、支える仕組みである。 90年代頃から登場し、一部の先進的業界では早くから導入されたが、日本ではようやく最近になって、広く注目されるようになった。<br />
<br />
<br />
昔は各社がMESを手作りしていたが、 欧米を中心にパッケージソフト化が進み、現在では複数のソリューションを比較検討して導入することが普通になってきた。そこで導入を考えるユーザ企業は、RFP（Request for Proposal）を作成して、MESパッケージベンダーに配り、提案を依頼する事になる。<br />
問題は、そのRFPの中身なのだ。RFPの中核部分は、ユーザがしたいこと、「ニーズ」が書かれている。そのシステムを使って、どのような業務を実現したいのか、現在の業務をどのように変えたいのか。システムにどのような機能を期待するのか。こうしたニーズが明確でないと、RFPを受け取ったベンダー側は、何を提案したらいいかわからなくなる。<br />
<br />
<br />
ところがMESのRFPの中核部分に、『MESの標準11機能』のリストがついてくるケースを、しばしば見かけるようになったと、大手ベンダーの人たちは口々に語る。標準11機能とは、米国のMESA Internationalという団体が90年代に策定した、リストに基づいている。念のため具体的に書くと、こんな感じだ：<br />
<br />
<br />
生産資源の配分と監視 Resource Allocation &amp; Status作業のスケジューリング Operations/Detailed Scheduling差立て・製造指示 Dispatching Production Units仕様・文書管理 Document Controlデータ収集 Data Collection Acquisition作業者管理 Labor Management製品品質管理 Quality Managementプロセス管理（工程品質管理） Process Management設備の保守・保全管理 Maintenance Management製品の追跡と製品体系の管理 Product Tracking &amp; Genealogy実績分析 Performance Analysis<br />
<br />
<br />
昔、最初に見たときもそうだったが、あらためて今読み直しても、わたしにはこのリストがさっぱり理解できない。個別の項目は一応、分かる。だが全体として、なぜ機能がこの体系なのか、どういう切り口なのかが、見えないのだ。特に、日本の製造現場での業務をイメージした場合、どこがどう対応するのかピンとこない。<br />
<br />
<br />
だから、このリストをRFPでもらって、「貴社のMES製品の機能に○×をつけろ」と言われたベンダーの人たちが絶句するのも、無理ないと思う。ユーザ側がやりたいこと、ニーズが理解できないのだ。RFPを出すユーザ企業は、なぜ、このリストを使うのか、よく分からない。多分、ネットでMESを調べるとこの11機能が出てくるので、海外の標準ならば、と使うのかもしれない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
わからないことは分からないと言おう<br />
<br />
<br />
こういう状況だったので、わたしが幹事を務める「次世代スマート工場」の研究会では、有志を募って、MES/MOMに関する『MES/MOM導入のためのRFP作成用標準テンプレート』を一緒に策定することにしたのである。（その使い方の詳細については、10月22日に開催する「第4回 ENAAスマート工場シンポジウム」  で無料のワークショップを開くので、興味ある方はご参加いただきたい。なお前回の記事でもこのシンポジウムを案内したが、リンク先が誤っていたので訂正させていただいた）<br />
<br />
<br />
でも、話を元に戻そう。わたしが不思議なのは、海外製の標準リストだからといって、あまり疑わずに自分の要求資料に引用する人たちの、ものの考え方である。「知らない」というとバカにされるとでも思ったのか？　だが理解できない用語を並べるより、自分の言葉で伝える方が良いではないか。<br />
<br />
<br />
言葉を知っているという事と、理解して使えるのとは別だ。だから、自分がピンとこない・分からない事を、ニーズとして人には要求しないし、すべきではない。だって実感として分からない事は、自分では実現できないのだから。<br />
<br />
<br />
もちろん、わたしの理解力が低いから、よく分からないのだ、という見方もあるだろう。わたしが物事を納得し理解するのに、人一倍、時間がかかる。別にそれは否定しない。だがわたしは、世の中の人の頭の良さ、頭の回転の速さが、かえって奇妙に感じられることが多い。<br />
<br />
<br />
もう一つ、例を挙げる。7月に、同じ次世代スマート工場の研究会で、人材育成のためのセミナーをやった。そのプログラムでは、研究会仲間である渡辺薫さんが演習を担当された。その一つ目の問題は、工場における納期問題がテーマだった。、<br />
<br />
<br />
当該工場での生産は、半数とはいわないが、1/3以上は納期に遅れていると思われる。製品（10種類）によって状況が異なるようだ。少数だが、大幅な納期遅れになるものがある・・こんな状況下で、納期問題の「正確な現状把握と目標設定に向けた『見える化』の方法を検討」せよ、という出題である。なかなか良い演習だと思う。<br />
<br />
<br />
ところで、このテーマを出題した後、渡辺薫さんが参加者に注意を呼びかけた。「考えてほしいことは、納期問題の解決方法ではありません。原因の究明でもありません。現状把握のためには、どんな『見える化』をすべきか、検討してほしいんです」と。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
解決策を議論する前に、まず問題を見よう<br />
<br />
<br />
この注意は、とても印象的だった。というのも、わたし自身の職場における議論でも、よくこういう傾向が見られるからだ。プロジェクトのスケジュールに遅れが出る。じゃあ、どうするか。あの手を打つべきだ、いやそれよりこの方策が良い・・<br />
<br />
<br />
みんな、頭が良すぎるのだ。だから、現状把握も、原因分析もすっ飛ばして、解決策の議論をしたがる。だがそれでは、建物の土台も1階もすっ飛ばして、2階から建築しようとするのに似ていないか。それで本当に、有用な議論になるのか。<br />
<br />
<br />
問題が起きたら、まず問題のあり方を注意深く、客観的に、できれば定量的に見る。事実の正確な認識から、議論をスタートする。これがわたしには、基本に思える。定性的で曖昧な問題認識から出発すると、雰囲気や思い込みや、感情に支配されやすい。そうなると自由で闊達な発想が出てこない。<br />
<br />
<br />
議論するときには、お互いに了解できる、誤解の余地のない、客観的事実から出発するべきである。そうしないと、出発点からかみ合わないからだ。<br />
<br />
<br />
こうしたことは、議論をする上での基本中の基本だと思うのだが、どうやらわたし達は、これを学校で習うのを忘れてしまったらしい。そもそも、日本の学校というのは、議論の仕方を習う場所ではない。学校では、正解は天から降ってくる。議論して作り上げるものではないとの論理で、動いている。<br />
<br />
<br />
だからわたし達は、本当の意味で問題解決を、そのための議論と衆知の集め方を、学んでいない。これでは、日本社会が様々な問題状況から、上手に脱出できる訳がないではないか。頭の良い人は大勢いるのに、社会がうまく機能しないのは、じつは皆、頭が良すぎるためなのである。<br />
<br />
<br />
「ソリューション」とは解決策であり、「ニーズ」とは期待である。《ニーズを定義し、ソリューションを推奨することで変革を可能にする活動》が、ビジネスアナリシスだと主張する人たちは、その定義の中に『事実（ファクト）に基づき』の一語を、入れておいてほしかった。<br />
<br />
<br />
上流工程を担えるビジネス･アナリストへの、ニーズは今も高い。だが、この社会に「チェンジ」を引き起こすには、できあいの「ソリューション」に飛びつくだけではダメなのである。まずは問題事実を客観的に、多面的に理解する。その上で、一人だけの狭い視点では気づかない、すぐれた発想を得るために、衆知を集める。それが必要な手順なのだ。<br />
<br />
<br />
わたし達が議論という営為を実りあるものにしたかったら、頭が良すぎることの弱点に、もっと気がつくべきなのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか」 https://brevis.exblog.jp/21816699/ (2014-03-14)<br />
<br />
<br />
「IoT時代のMESをもう一度考え直す 〜 (2) MESの機能と階層を理解する」https://brevis.exblog.jp/26007261/ (2017-08-27)<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 28 Sep 2024 08:14:31 +0900</pubDate>
      <dc:date>2024-09-28T08:14:31+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title> 考える技法——人間は言葉で考えるか</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30375115/</link>
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      <description><![CDATA[単身で海外に出て1〜2週間たち、日本語をほとんど使わない日々が続くと、英語で夢を見ることがある。夢の登場人物たちと英語で話し、夢の状況について英語で自問自答する。目が覚めると我に返ったような、ちょっと不思議な気分になる。だが、日中も同じようにしているから、そんな夢をみるようになるのだろう。<br />
<br />
<br />
昭和の頃、ある有名な英語学校が「英語で考える」を教育スローガンにしていた。その広告を見るたびに、なんだか奇妙な感じがした。言いたいことはもちろん、わかる。英語で文章を作るときは、日本語の発想とは全く異なる仕方で、最初から英語的に組み立てないと、まともな英文にならない。自分の頭の中で日本語を介在させても、時間と思考力のムダになるだけだ。<br />
<br />
<br />
だが、それを「英語で考える」と呼ぶべきなのか。わたし達は本当に、「言葉で考えて」いるのだろうか？<br />
<br />
<br />
わたしが昨年、出版の取りまとめと編集をお手伝いした恩師の著作「 気品あるアタマと冒険ある実践」（西村肇・著）の中に、「人間と言葉　〜人は言葉で考えるか　科学者とコトバ〜」と言う文章が収められている。もともとこれは’90年代に、ある大手メディアが100万円の賞金をかけて21世紀論文賞を募集したときに、応募した論文であった。そして審査委員会でいったん受賞が決まりかけたのだが、一部の委員（特に名をあげると故・星野芳郎氏）が強く反対して、結局、受賞者なしとなってしまったという、いわくつきの文章だ。<br />
<br />
<br />
この論文の最初の方に、著者がそれ以前にある雑誌に「人が何かモノを作り出そうと考えている時、コトバで考えるのだろうか」との疑問を書いたら、共感と批判の両方が寄せられた、というエピソードが紹介されている。技術者からは賛同が多く、文化系の人たちからは厳しい意見が多かったと言う。ことに、ある芸術大学の教授からは、「人は言葉で考える」のである、に始まる明確な反論が寄せられた、と書かれている。<br />
<br />
<br />
ある種の文化系的な、あるいは西洋型教養を身に付けた人にとって、「人間は言葉で考える」は、自明の真理らしい。上に述べた星野芳郎氏の審査意見にも「本質をついていない」と言う言葉があったという。星野氏はどうやら、人間の思考の本質を、自分自身はご存じだと信じていたようだ。だが、人間の考えるという行為は、それほど自明なものだろうか。<br />
<br />
<br />
ちょっと調べてみるとわかるが、「人間は言葉で考える」という見解は、『言語思考仮説』（linguistic relativity hypothesis）と呼ばれている。カッコ内に英語があること、その英語が日本語とは微妙に違うことから、このような考え方は西洋で育ってきたものだと推測できる。<br />
<br />
<br />
言語思考仮説の提唱者は、20世紀初頭に活躍した言語学者のエドワード・サピア（Edward Sapir）と、彼の弟子筋にあたるベンジャミン・リー・ウォーフ（Benjamin Lee Whorf）と言われており、彼らの名前を合わせて「サピア＝ウォーフの仮説」とも呼ばれる。<br />
<br />
<br />
サピアは人類学者でもあり、「使用する言語によって人間の思考が枠付されている」という言語観を打ち立てる。のちにウォーフがそれを発展させ、「言語の構造が、その人の世界の認識のしかたに影響を与える」との説を立てた。いずれも言葉（Word）や言語（Language）が、人間の思考に重要な役割を果たしている、との主張だ。<br />
<br />
<br />
彼らはまず、言葉（Word、語彙）と概念の関連に着目する。各言語にはそれぞれ特有の語彙が存在し、異なる単語や表現がある。英語におけるsnowのバリエーションは限られているのに対して、日本語の雪を表す言葉、粉雪とかぼたん雪とか細雪などは幅広い。さらにアイヌ語の雪に関する語彙は、もっと豊富らしい。<br />
<br />
<br />
あるいは、わたしがよく引き合いに出す例だが、英語のManagement、 control、 administrationの区別に比べて、日本語は「管理」の一語で全部済ませてしまう。そこでマネジメントという行為の内容を、より詳細に分析する思考が止まってしまいがちだ。つまり言語が提供する語彙の範囲が、思考をも制限してしまう可能性がある訳だ。<br />
<br />
<br />
そしてもちろん、英語の文法や、その元になっている、時制、単数複数の区別、仮定法・接続法、冠詞の存在なども、思考の枠組みや展開に影響を与えているはずだ。若い頃、フランスからの留学生に、「日本語は単数と複数を区別しないが、それでどうやって論理的に考えることができるのか」と問われて、うまく答えられなかった記憶もある。<br />
<br />
<br />
単複の区別は別になくても不便に感じないが、しかし仕事で後輩が、過去形と現在形をごっちゃにして話しているのを聞くと、「もっと区別してくれないと相手に誤解を与えるのに」とイライラすることはある。日本語には時制の概念が薄く、「確定してしまった事態」であるかどうかの判別が重要になる。このように事象の認識に、言語のあり方が作用するのは、たしかに事実だろう。<br />
<br />
<br />
だが、サピア＝ウォーフの立論が、『仮説』と呼ばれている点にも注意してほしい。まだ実証はされていないのだ。なのに、西洋の論説が海を渡ってわたし達の国に来ると、いつの間にか真理や本質になってしまいがちなものらしい。<br />
<br />
<br />
それとサピアやウォーフは、いずれも20世紀の米国の人であり、これらの主張が意外と新しいこともわかる。19世紀までの西洋社会では、西洋文化の考え方が絶対的に正しいもので、それ以外は未開だと考えられてきた。サピア＝ウォーフの仮説は「言語相対性仮説」とも呼ばれるが、アメリカ先住民の言語研究などを通して、非西洋人も、非西洋人なりに「考える」のだ、という（我々から見れば当たり前の）ことを、明らかにした訳である。<br />
<br />
<br />
しかしまあ一般に、欧米文化は言葉を重んじる文化だと言うことはできる。「始めに言葉ありき」というヨハネ福音書の冒頭の聖句を信じてきたから、という見方もあるだろうが、むしろ言葉を重視してきたからこそ、いかにもギリシャ的なヨハネの神学を受け入れやすかった、ということかもしれぬ。<br />
<br />
<br />
いや、西洋だけではない。わたしの経験では、インド、イラン、アラビアなど「中洋」の人々も、我々東アジアや東南アジアの人間に比べて、ずっと理屈っぽい。彼らが「人間は言葉で思考する」と深く信じていても、不思議ではない。<br />
<br />
<br />
先の西村肇氏の本の中では、環境科学者における発見的思考の現場を、対話で再現した部分もあり、そうした例をベースに「言語による思考」だけが思考ではない、と主張している。ところで、彼の文章に真っ向から反対した人が、芸術大学の先生だったというのは、今ひとつ解せない気もする。アーティストこそ、絵画であれ音楽であれ、自分の創作において、何を作りどう完成させていくかを考える際、言語では表現しきれない領域で働いているはずだからである。<br />
<br />
<br />
似たことは、数学、とくに幾何学などの問題を考える際にも適用しうる。数式は、広い意味で記号的体系であり、言語表現の展開型だと、いえば言える。しかし幾何学の補助線を考えているとき、はたして頭の中で記号を論理的に展開しているのだろうか？<br />
<br />
<br />
わたし自身の経験をふりかえると、いちばん大切なアイデアを思いつく瞬間は、頭の中はシーンとしていて、非言語的な静寂の世界にいる（これ自体はもちろん客観的には実証不可能だが）。そして、発見したアイデアを、はっきり定着させ、全体の文脈の中で位置づけるために、言葉や数式や図形などにしてみるのだ。<br />
<br />
<br />
この段階は、思考の内容を伝達するための行為、と言っても良い。誰に伝達するのか？　他人の場合もあるが、まずは「自分自身に対して」ちゃんと言語化・定式化するためである。そして、これも「考える」という作業の重要なステップの一つである。ただ、これはアイデア生成というエンジンの、ポストプロセッサだと言えるだろう。<br />
<br />
<br />
同様に、わたし達が問題を捉えて考える際、ふつうは現実界からの何らかのインプットがトリガーになる。ただ現実世界の情報というのは、時系列的にも空間的にも数珠つながりに広がっている。そこから、何らかの要素・概念を分節化して取り出す作業が必要だ。こちらはプリプロセッサと言っても良い。<br />
<br />
<br />
そして、これらプリプロセッサとポストプロセッサは、いずれも言語（語彙と文法的構造）に大きく頼っている。図にすると、こんな感じだ。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202307/11/47/e0058447_09324811.png" alt="_e0058447_09324811.png" class="IMAGE_MID" height="270" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
一番下に、物理的世界がある。ここは非構造的な、未分節の情報の海だ。ここから、言語・記号などの助けを借りて、パターンを見出し、分節化していく。言葉や記号は、概念に一対一で対応している。概念と概念のネットワークが、いわばわたし達が「思考」を表現する形式だ。ここまでは言語の世界である。英語で夢を見ているときは、ここが「英語モード」的に働いているらしい。<br />
<br />
<br />
しかし、いちばん大切なアイデアを創出する段階は、一種の無音の世界で行われるのではないか。以前紹介した、W・ヤングの「アイデアの作り方」に関する記事にも、『孵化段階』＝問題を意識の外に移す、という段階がある。これに相当するのだろう。<br />
<br />
<br />
その後は、階梯を逆に降りていく。新しいネットワークを概念空間で構成し、それを記号・言語化することで、定着化を図る。最後は、声にしたり文字に書いたりして、出力していくのである。アートの世界では、言語記号を経ずに、いきなり色彩や和声などの要素に行き着くこともあるだろう。しかしアーティストではない、わたし達大多数がビジネス界で繰り広げる思考の営為は、ほぼこのようなプロセスを辿っているのではないかと、わたしは想像する。<br />
<br />
<br />
ということで、言語・記号はとても大切なのだが、いちばん重要なのは非言語的な、無音の世界にたどり着くことにあるはずだ。どうしたら、上手にそこに到達できるようになるのか。それについては、稿を改めてまた考えてみたい。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　「素早く考える能力、じっくり考える能力」 https://brevis.exblog.jp/29429476/ (2021-03-01)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 11 Jul 2023 09:34:35 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-07-11T09:34:35+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>考える技法——どう考えるかより、いつ考えるかの方が大事である</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30305850/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30305850/</guid>
      <description><![CDATA[やり方より、潮時<br />
<br />
<br />
考える技法、思考のノウハウについては、世の中に数多くの本やコンテンツがある。しかし、いつ考えるべきかという問題については、あまり論じたものを見たことがない。今回はこれについて考えてみよう。<br />
<br />
<br />
Systems Thinkingの方法論などで知られるジェラルド・M・ワインバーグの名言に、「やり方(Know-how)よりも大事なのは、しおどき(Know-when)だ」と言う言葉がある。良い結果を得るためには、どのようにやるかの方法を知ることも必要だが、いつどんな時にその方法を用いるべきかを知ることの方が大切だ、と言う意味である。<br />
<br />
<br />
考えるという行為も、同様だ。「どう」考えるかだけでなく、「いつ」考えるべきかを、理解しておく必要がある。<br />
<br />
<br />
ここで言っている「いつ」とは、もちろん朝昼晩などの時間帯のことも含む。だが、それは人によっていろいろだろう。朝型の人も、夜型の人もいる。自分がいつ集中できるかは、それなりにわかって習慣化しているものだ。<br />
<br />
<br />
むしろ、ここで問題にしたいのは、「自分がどういう状態のときに」考えるべきであり、逆にどういうときには考えるべきではないのか、と言う問いだ。<br />
<br />
<br />
思考と感情と欲求のシステム・モデル<br />
<br />
<br />
その問いに答えるためには、わたし達の心の中にある、「思考と感情と欲求からなるシステム」の性質を理解しておく必要がある。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202304/25/47/e0058447_19505530.png" alt="_e0058447_19505530.png" class="IMAGE_MID" height="362" width="500" /></center><br />
 <br />
<br />
<br />
図を見て欲しい。システムズ・エンジニアリングの世界ではよく、IPOモデルの形でシステムを表現する。IPOとは、Input-Process-Outputの略だ。左側にインプットとしての「知覚」がある。わたし達が視覚、聴覚、触覚などを通じて、外界や自分自身の体内から、脳にインプットされる情報である。<br />
<br />
<br />
真ん中にはプロセスがあるが、これは思考と感情と欲求の3層構造になっている。そして右側には、アウトプットとしての「行動」がある。アウトプット行動には、言語や記号を書いたり話したりするほかに、顔や表情・口調などが伴うし、さらに身体の様々な反射的あるいは意識的な動きが付随する。<br />
<br />
<br />
真ん中のプロセスの最上位層にあるのは、「思考」であり、今、わたし達が問題にしている行為だ。思考がコンピュータのように、単純な演算処理なら、インプットの記号列があり、記憶や計算処理を経て、アウトプットとしてまた記号列が生成されるだけだ。しかし生き物としての人間には、その下に「感情」の層がある。<br />
<br />
<br />
感情は思考をドライブする<br />
<br />
<br />
思考のエンジンそれ自体は、外界からの様々な情報をトリガーとして、起動する。わたし達が何かを考え始めるきっかけとなるのは、外界からの些細な情報の場合が多い。例えば、いつもの電車が時間通りに来ない、といった状況への気づきが、「何が起きたんだろう？」という思考のトリガーになる。<br />
<br />
<br />
他方、感情は、思考のエンジンにいわば燃料を与え、その方向付けをして駆動する。「まずい。このままじゃ遅刻だ。朝1番に大事な会議があるし…」という訳で、あなたの思考は、電車が来ない理由を推測するだけでなく、代替ルートについても頭の中で探索を始める。<br />
<br />
<br />
ところで問題なのはここからだ。代替ルートを探すだけなら、すでに頭の中にあるかもしれないし、今どきならスマホを取り出して、乗換案内などを検索すれば済む。後は、まだこのまましばらく待ってみるか、今すぐ代替ルートに切り替えるかを決断するだけだ。本当だったら、それは理知的に決断すべき問題だ。<br />
<br />
<br />
ところが、ここに「感情」が登場すると、「思考」の回り方が影響受ける。あなたは怒っているかもしれない。「ここの鉄道ときたらしょっちゅうこれだ。何とか金を取り返したり、クレームしてダメージを与えたりする方法は無いものか」と言う方向に思考が転換していく。<br />
<br />
<br />
あるいは、あなたは、恐れているかもしれない。「顧客を前にした大事なプレゼンテーションだと言うのに、どうしていつもこんな巡り合わせなんだ。また上司に怒鳴られるに違いない。今期の査定に響いたらどうしよう。別の職を探すべきだろうか」と思考は転じていく。<br />
<br />
<br />
思考のどうどう巡りはこうして生まれる<br />
<br />
<br />
鉄道会社にダメージを与えたり、もっと良い職を探したりする問題に、すぐ答えは出ない。なので、あなたの思考は堂々巡りになる。と言うよりも、これらの問題は、あなたが多分これまで既に何回も、いろんな角度から、ぼんやり考えてきた問題なのだ。<br />
<br />
<br />
感情は思考に対し、新しい問題よりも、手慣れたいつもの問題を考えるように、しばしば誘導する。だが、答えは出ない。そしてあなたは、考えるための脳のリソースを浪費して、極めて非効率的な思考の時間を費やしてしまう。<br />
<br />
<br />
厄介なことに、思考の機能の中には、「想像力」がある。将来の具体的なシチュエーションを想像したり、過去にあった状況を目の前に再現するような機能である。感情によってドライブされた思考は、しばしば、このような想像の情景をアウトプットとして差し出す。この想像は、さらに自分の感情をかきたてることになるだろう。「憂い」とか「悩み」といった感情は、こうした自分の想像から再体験され、再生される種類の感情である。<br />
<br />
<br />
言いかえると、わたし達が感情の強い影響下にあるときは、考えるべき時ではない。考えても、思考の生産性が著しく低くなるからだ。また新しいことも、なかなか思いつかなくなる。<br />
<br />
<br />
欲求の構造を理解する<br />
<br />
<br />
じゃあ、感情をコントロールすればいいだろう、と思うかもしれない。いつも沈着冷静、クールに居れば良いのだ。こういうセルフイメージが持てるとかっこいいし。<br />
<br />
<br />
ところが実はこれは簡単ではない。なぜなら、図に示すように、感情の下には、もう一つ「欲求」のレイヤーが存在して、感情を左右しているからだ。<br />
<br />
<br />
わたし達の抱える欲求には、様々な要素がある。もちろん1番下には生き物としての生理的欲求がある。食べたいとか眠りたいとか。その上には、もう少し人間として分化した欲求がある。人間は社会的動物なので、多くは人との関係に関わった欲求である。<br />
<br />
<br />
たとえば「承認欲求」とは、人からよく思われたい、尊敬されたい、あるいは得をしたいといった欲求である。「支配欲求」とは、文字通り、他人を自分の支配下に置いてコントロールしたいと言う欲求だ。（ここらへん、わかりやすさを優先し、あまり心理学や脳科学の正統な学術用語には従っていないことをお断りしておく）<br />
<br />
<br />
「共感欲求」と言うのは、あまり聞かない言葉かもしれないが、他人と感情を共有したいと言う欲求だ。人間とは不思議なもので、悲しみとか怒りといったネガティブな感情でさえ、それを他者と共有できると、心のどこかで満足感を得られるのである。しかし、それとは、逆に、周囲の人から独立したい、違いを示してアイデンティティを得たいという「分離欲求」を持つことも多い。<br />
<br />
<br />
こうした欲求は、体感や快不快といったインプットを蓄えつつ、喜び、悲しみ、恐れ、怒りなどの感情を励起する。あなたが鉄道会社に怒りを感じているのは、その下に支配欲求を抱えているからかもしれない。ボーナスの査定を恐れるのは、もちろん承認欲求に根ざしている。<br />
<br />
<br />
思考の生産性低下を避けるために<br />
<br />
<br />
欲求は満足することによって、ひとまずは沈静化する。生理的欲求ならば、感覚や体感で直接満足させられるだろう。社会的欲求ならば多くは、ネガティブな感情が消えて、ポジティブな感情に転化したことで、満足される。<br />
<br />
<br />
難しいのは、こうした自分の抱える欲求が、なかなか自分自身に意識されないことだ。意識のアテンションは、一種の舞台上のサーチライトのようなもので、照らし出されてはじめて、観客（意識）が認知できる。サーチライトは多くの場合、思考の舞台上を動き回る物体を照らし出すが、ストーリーや音楽といった感情のモードは、ぼんやり感じさせるだけだ。まして、舞台装置や小屋全体の構造は、よほど注意深い観客でないと理解できないようになっている。<br />
<br />
<br />
そのような訳で、わたし達はしばしば、いとも簡単に「感情」に「思考」を乗っ取られる。そういう時にものを考えてはいけない。問題解決のために、深く考えるような行為には適さないのだ。感情の波が通り過ぎ、自分の中の欲求が沈静化するのを待ってからでないと、良い考えは浮かばない。<br />
<br />
<br />
少なくとも何かを真剣に考えようとするときは、その前に、自分は今どういう感情のモードの中にいるかを自己点検するべきだ。自分が、怒りや恐れや不安の波の中にいないことを確かめた上で、問題に取り組んだ方が良い。<br />
<br />
<br />
もう一つ。必要ならば、自分が「考えない」「感じない」でいるための方法を身に付けるのが良い。茶道を嗜む、ある友人はかつて、夫婦で何となくイライラしているときは、お茶を立てていただくことにしていると言っていた。それによって、心が落ち着くのだと言う。感情のサイクルはせいぜい、20-30分である。30分ほどかけて波が通り過ぎれば、冷静な思考モードに入るチャンスが得られる。<br />
<br />
<br />
わたしのように、音楽を聴いている間は、思考できない人間にとって、音楽もまた1つの道具だてだ。もちろん音楽は感情を同調させ、ドライブする装置だが、感情の波をあえて後押しし、通り過ぎさせる役には立つ。<br />
<br />
<br />
わたしがこのところずっと、感情というものについて調べたり考えたりしているのは、こうした理由による。「プロジェクト&amp;プログラム・アナリシス研究部会」で、折に触れて感情をテーマとした講演者を招いてきたのも、こうした問題を共に考えたかったからだ。<br />
<br />
<br />
わたし達は自分で思っているよりも、はるかに感情的な動物だ。感情的に考え、感情的に行動している。それにもかかわらず、自分は合理的だ、知性的だと信じている。自分の感情的な、あるいは欲求に動かされた行動や決断を、後づけで理屈付けて、合理化するのに長けている。自分を合理化することに、貴重な思考のリソースを使っている。考えるべきでない時に、考えるべきでない方向に思考をドライブしたからだ。<br />
<br />
<br />
考えるべき時に、考える。考えるべきでないときには、考えるのをやめる。それだけで、思考の生産性は上がる。ただ必要なのは、自分が感情と欲求に動かされやすい人間だとの、自己認識なのである。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「感情のマネジメントとは、どういう事を指すのか」 https://brevis.exblog.jp/28237710/ (2019-04-26)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 25 Apr 2023 20:02:48 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-04-25T20:02:48+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>考える技法――思考の3つのモードを使い分ける</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30298980/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30298980/</guid>
      <description><![CDATA[なぜ考えるのか<br />
<br />
<br />
考え事をするのが、趣味である。あなたの趣味はなんですかと、もし聞かれたら、読書とか音楽とか、当たり障りのない答えをするかもしれない。でも、本当の趣味は何かと自問したら、きっと「考える」ことなのだろう。暇さえあれば、考え事をしている。趣味とは自由な時間ができたとき、真っ先にすることだとしたら、「思考」がわたしの趣味なのだ。<br />
<br />
<br />
何を考えるのかって？　いろいろなことをだ。仕事に関わることを考えることもあるが、職場を離れたら、それ以外のことを考えることの方が多い。それも具体的な問題より、抽象的な問題を考えることを好む。じつは最近、ずっと休眠していたTwitterのアカウント（tomoichi_sato ）を復活させ、毎日思いついた思考のエレメントというか、フラグメントを少しずつ流している。ご興味があったら参照されたい。<br />
<br />
<br />
ちなみに、このところしばらくは、SCMに関わる「システム＝仕組み」というものの性質や、評価について考えることが多い。現在、世の中にいうシステム工学なるものは、残念ながらはっきり言って、非力であまり役に立たない。というか、バラバラな手法論の寄せ集めで、理論的な枠組みも、具体的な仕組みの設計に役立つ内容も、あまりない。<br />
<br />
<br />
そもそもシステム工学の基礎たるべきシステムの科学も、頼りになるものがない。いまだに「創発的性質」などを論じている有様だ。なので、システムの分類や階層化、性質や評価等について、ゼロから考え直す必要があると思っている。わたしは、自分の天職をシステム・モデラーだと信じているので、基礎をきちんと打ち立てなければと考えている次第だ。でもこの話題には、今回は深入りしない。<br />
<br />
<br />
そもそも、わたし達が何かを考えるのは、問題解決と意思決定のためである。問題がなければ、ふつう人は、わざわざ考えたりしない。昼食に何を食べようか考えるのは、食べないと午後をちゃんと過ごせないからだ。満腹のときに、何を食べようか考える人はいない。問題があるから、考える。そして何をするか、決めることになる。決めたら、行動に移す（話すとか書くことも含まれる）。<br />
<br />
<br />
ところでわたしの場合、考えることが趣味だから、四六時中、考え事をしている。「あまり何も考えず、ボーっとしていることなんか滅多にないでしょう？」と言われたこともある。確かにそうかもしれない。ということは、年中問題を抱えている、困った人格なのかもしれぬ。もちろん、食事をしたり、音楽を聴いたり、家族とおしゃべりしたりしているときには、深い考え事はしないし、できないが。<br />
<br />
<br />
思考には三つのモードがある<br />
<br />
<br />
じつは「考える」と言う行為には、3つのモードがある。(1)読み書きしたり話したりしながらリアルタイムに考える、(2)集中して深く考える、そして(3)何か他のことをしながらぼんやり考える、である。そして、その得意不得意と、場面に応じた使い分けを講じるのが、大事なのだ。<br />
<br />
<br />
思考のモード１：リアルタイムに考えるというのは、個人的には、それほど得意ではない。頭の回転がそれほど早くないのである。営業職やプロジェクト・マネジメント職に就いている人には、これが得意な人が結構いる。情報のインプットとアウトプットをさばきながら、頭の中で考える。リアルタイムに考えながら、言葉をつないでいく。うらやましい限りである。会話好きな女性にも、結構多いのかもしれない。<br />
<br />
<br />
ここでいうリアルタイムとは、まあ数秒とか数分、といった時間の長さを指している。しいていれば、上司との面談で、上司の部屋を出るまでの20分、といったところか。その時間内に、何らかの答えを出すのが、リアルタイムの思考だ。それによって、次の局面が開ける。<br />
思考とは情報処理そのものだから、情報のインプットやアウトプットをしながら、なおかつ、脳内のワーキングエリアを駆使して要素をつなぎ合わせ分析したり、組み立てたりする。これは、なかなかの技である。<br />
<br />
<br />
ただし、リアルタイムでコンカレントな処理をしていると、どうしても、同時に扱える情報の広さや深さには、限りが出てくる。何か重要で、大きな問題に取り組むためには、「深く考える」＝思考のモード２が必要になる。面談や交渉などで、「すみません、持ち帰って考えさせてください」というのは、こういうシチュエーションだ。<br />
<br />
<br />
深く考えるために<br />
<br />
<br />
さて、持ち帰った問題を深く考えるには、そのための時間と場所を確保する必要がある。余計な外部からのかく乱や、情報のインプットが入らないようにすること。具体的には、静かであること。人にもよるだろうが、わたしはBGMがかかっていたりすると、集中してものを考えることができない。受験生時代に、数学の問題を解きながら気づいた。もちろん式の計算ぐらいはできる。しかし厄介な文章題などは、解けないのだった。<br />
<br />
<br />
という訳で、職場で深く考えようとすると、どこか静かな場所を探さなければならない。自分の席にいると、話しかけられたり、メールが飛び込んだりしてきて、集中が中断されるからだ。周りの話し声も気になる。最近は幸いにも、テレワークのためのブースがいくつか設置されたので、そこに逃げ込んだりしている。<br />
<br />
<br />
それもかなわない時は、仕方なく、自分の席で、ウンウンうなって考えることになる。この時はまず、メーラーは閉じる。気が散るからだ。モデリングは、図形を使ってビジュアルに考えるのに適しているから、机に白い紙を1枚広げて、ペンを握ったりしている。<br />
<br />
<br />
でも、図を書き始めるのは、思考のトンネルの向こうに光が見えて、出口に近づいている時なのだ。思考の一番大事な、構築・組立ての部分は、真っ暗なトンネルの中にある。だから、白い紙を前に腕を組んだり、ペンを握りながら、頭を抱え目をつぶって、何もしていないように見える。わたしが一番働いているのは、端から見ると何も働いていないように見える時なのだ。<br />
<br />
<br />
しかし、こういう時間があまりに多いと、ボーナスの査定にも影響する（笑）ので、自分の机では、なるべく情報のインプットやアウトプットなどの作業をするようにしている。考えるのは、主に、佐藤がふらりと席を立って、社内のどこか静かな場所に逃げ込んだ時だ。あるいは出勤との行き帰りを歩いている時だったりする。自宅から職場まで、歩いて40分ちょっとだ。この時間はしばしば、貴重な考えるための時間帯になる。<br />
<br />
<br />
ちなみに、わたしは、深く考えるときに、歩きたくなる癖がある。人間には、いろいろな体癖（体の動かし方の癖）がある。首を伸ばして、天井をじっと見ながら考えるのを好む人もいる。自分にとって、考えるのに適した姿勢や動きを、見つけるのが良い。<br />
<br />
<br />
バックグラウンドで考える<br />
<br />
<br />
ところで、「考える」とは、意識的な行為だろうか？　――妙なことを言うな、当たり前じゃないか、とのコメントが聞こえるような気もする。だが、本当にそう言い切れるのか。<br />
<br />
<br />
わたし達の身体の動きには、意識的（随意的）なもの、無意識的（不随意的）なもの、その両方にまたがるもの、の3種類がある。ドアを開けたり、字を書いたりする動きは、筋肉的動作で、意識的に行う。一方、心臓が脈打ったり、胃腸が蠕動するのは、自分の意識ではコントロールしないし、できない不随意的な動きだ。そして、息をするという動作は、両方にまたがっている。意識して吸い込むこともできるが、ふだんは意識せずに呼吸を続けている。<br />
<br />
<br />
こうした動作の類別は、神経系のハードウェアで決まっているようにも見えるが、必ずしもそうとはいえない。歩くという行動を、わたし達は結構、無意識的にやっている。キーボードで文字を入力するのに、わたしはローマ字入力を使っているが、どのキーを押すかまでは毎回意識してはいない。車の運転もそうだ。ハンドルやブレーキは、話したり音楽を聞いたりしながら、ほぼ反射的に操作している。楽器の演奏などもそうだろう。<br />
<br />
<br />
つまり、人間というのは、ある種の動作パターンを繰り返し習熟すると、意識のアテンションをそこに当てずとも、無意識的に行えるようになるのだ。コンピュータに例えると、同じソフトウェアのルーチンを繰り返し使っていると、勝手にコンパイルされていく感じか。それだけ、意識のアテンションというのは、脳にとってコストが高いのだろう。<br />
<br />
<br />
そして思考という動作も、似たようなところがあるのでは、というのが、わたしの仮説だ。思考とは、いろいろなネットワークの探索とバックトラックを繰り返す面がある。そして脳では、さまざまな複数のモジュールが、同時に走っていることも分かっている。だから思考のプロセスも、バックグラウンドで走らせることが可能なのだろう。<br />
<br />
<br />
思考のモード３＝「何か他のことをしながら考える」とは、そういう行為なのだと思う。思考とは、息をしたり歩いたりするように、半分意識的、半分は無意識的な行為なのだ。だから無意識に考え続けることが可能なのである。持ち帰った問題を、しばらく時間を取って深く考えてみたのだが、まだ答えが出ない。そこで別の動作に移るのだが、思考のプロセスは、バックグラウンドに移って、走り続ける。<br />
<br />
<br />
思考のモードを使い分ける<br />
<br />
<br />
ただし、そうなるためには、いったんは深く考えなければならない。少なくとも、バックグラウンドで走らせるトリガーを、自分で見つけなければならない。<br />
<br />
<br />
昔から、「馬上、枕上、厠上」という言葉がある。考えるのに適した三つの場所をいい、まとめて「三上」と称することもある。馬上とは、馬に乗っている時だ（現代なら車上か）。枕上は床の中で寝ようとしているとき、そして厠上はトイレの中だ。どれも、一人でいて、周りから話しかけられることもあまりなく、しかもなんだかぼんやりしている時である。こういうところで、良いアイデアをしばしば思いつく。<br />
<br />
<br />
以前紹介した、ジェームズ・W・ヤングの名著『アイデアのつくり方』の、5段階のステップでも、(3)「いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう」という手順がある。ここで突然、(4)「真に価値のあるアイデアが生まれる」となっている。これがまさに、バックグラウンドに移して三上でぼんやりすることに相当する。<br />
<br />
<br />
もちろん、別の何かをしながら、ということもあろう。個人的な体験で一番良く覚えているのは、浜松駅のホームで新幹線に乗り込もうと足をかけた時だった。2004年のことである。その時、後に自分の学位論文の中核となる「失敗のリスク確率」という概念に思い当たったのだ。さらに後に、子供のアイスホッケーを観戦しながら、それを加法性のある形で計算できることに気がついた。<br />
<br />
<br />
リスク確率なんて概念の、どこが新しいんだ、と思われるだろう。そのとおりだ。アイディアとは、思いついてしまえば、まるで世界の初めから、そこにあったかのように、自明なものである。ただ、自分が無明の中にいたから、気がつかなかっただけなのだ。<br />
<br />
<br />
他にも、夕食後に茶碗を洗いながらとか、帰り道を歩いていて電柱をよけながらとか、だいたい思いもよらぬときに、答えはやってくる。天から降ってくるようなものだ。だがそれは、自分の無意識下に動いているプロセスが答えを生み出してくれたのである。<br />
<br />
<br />
そしてそれは、仕込まなければ、生まれない。投資しなければ、リターンはないのだ。投資とは、ある程度材料をインプットして、深く考える時間を費やすことだ。すなわち思考のモード１とモード２を経て、はじめてモード３が活きてくる。<br />
 <center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202304/17/47/e0058447_21201145.png" alt="_e0058447_21201145.png" class="IMAGE_MID" height="238" width="453" /></center><br />
<br />
<br />
問題解決のためには、考えなくてはならない。そして、より良く考えたかったら、自分の思考のモードを意識する方がいい。どれが得意で、どれがやりやすいか。現代人はみな、忙しい。世の中とは、わたし達から考える時間を奪いつづけていく、『時間泥棒』に思える。その中で賢く生き延びるためには、三つのモードを使いわけ、自分の思考のフォームを作るべきだと思うのだ。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「『考える技法』を学ぶ上で大切なこと」(2023-02-21)<br />
「アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ」 (2021-02-24)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 17 Apr 2023 21:29:19 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-04-17T21:29:19+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『考える技法』を学ぶ上で大切なこと</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30253369/</link>
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      <description><![CDATA[考える方法を教わったことはあるか？<br />
<br />
<br />
思考とモデリングの技術に関する解説を、当サイトでとりあげるべく、構成と切り口について考え続けている。そもそも、思考とはどういう営為なのか。その技術を学ぶには、どういうやり方がベストなのか。第一、わたし達は本当の意味で、「考える方法」を教わったことがあるのか。<br />
<br />
<br />
わたし達は学びの姿勢を、自分が受けた教育の中で身に付けてきた。思考とモデリングのスキルを学ぶ際にも、それが無意識に影響する。そして、わたし達の社会における教育のあり方は、今ひとつ、考える力を育てる方向に向いていない。学ぶ側も、思考の方法を身に着けたいとは思っていないらしい。そのことを、この１年で何度か痛感することがあった。<br />
<br />
<br />
というのも、どういうめぐり合わせか、昨年は人材教育カリキュラムの開発に、複数の場面で携わることになったからだ。相手は社会人で、テーマは主に「スマート工場」ないし「製造のデジタル化」であった。今、日本の製造業では『デジタル人材』が不足しており、その育成が急務になっている。そう、おカミも世の中も認識しているらしい。<br />
<br />
<br />
デジタル人材がいかなる種類の人を指すのか、という疑問はさておき、とりあえず世の要請に応える形で、わたしが関わっている（財）エンジニアリング協会「次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」でも、育成カリキュラム作りを担うことになった。ところが、その途上でしばしば、「教育」に関する世の通念と、わたしの考え方の違いに直面したのだった。<br />
<br />
<br />
デジタル人材と言ったって、製造とデジタルにかかわる局面に限っても、カバーすべき知識範囲は非常に広い。だから、その全体を教えることなど不可能に近い。ただし幸いにも、日本の製造業に携わる人達は、今も概ね、優秀だ。そういう人たちにとって大事なのは、方法を学ぶことで、個別の知識を覚えることではない。<br />
<br />
<br />
そこで全体の見取り図だけを示して、あとは受講者が自分の頭で考え、必要な知識の水源には、自分の力で到達できるようにすべきだと思った。だが、日本の教育の文脈の中で、こんなふうに考える人間は、どうやら少数派らしい。<br />
<br />
<br />
授業あるいは教育に対する考え方の違い<br />
<br />
<br />
では、多数派の人は、「学び」や「教え」を、どう捉えているのか。それは、大学の教養課程での授業を思い出してみれば分かる。学生は大教室に集められ、先生方の講義を聞かされる。とても一方的な、知識伝達である。<br />
<br />
<br />
先生は最後に試験をして、理解度を評価する。そして採点し、成績簿で通知する。そしてこれが「教育」の姿だと思われている。<br />
<br />
<br />
大学で語学や一般教養を教える教師は、教壇の上に立つ。学生と同じ平面の上にはいない。教師は生徒の顔も名前も、覚えない。つまり相手は人間ではなく、単に知識を吸い取るだけのロボットと見ていることになる。<br />
<br />
<br />
知識と言うのはある意味、結果である。考えると言う探求行為がたどり着いた結果である。大学の講義が一方的な知識の伝達に終始している事は、一番肝心な考えるというプロセスについては、教える気がないことを意味している。<br />
<br />
<br />
それどころかもしかすると、大学の先生たちは、考えるというプロセスを言語化し、あるいはモデル化して、意識に全景化することをすら、怠ってきたのかもしれない。自分たちは教えられずとも、無意識に、上手にできている。それは自分達に素質があるからだ。だから教育とは、素質のある学生を、試験を通じて拾い出すことに他ならない、と。<br />
<br />
<br />
他方、試験を受ける側は、伝えられた知識を丸暗記して答えるのが、一番効率的である。知識を獲得したプロセスも目的意識も抜きで、結果だけを一時的に、頭に詰め込む。だからこそ「一夜漬け」などといった言葉が平気で試験と並んで語られる。翌日になると忘れてもOKという意味だ。<br />
<br />
<br />
だとしたら、わたし達の社会の「考える能力」が低下するのも当然ではないか。<br />
<br />
<br />
インプット学習とアウトプット学習<br />
<br />
<br />
大学でこのような「教育」をしばらく受けた後、専門課程に進み、研究室に配属されるようになったときの、安堵感を、わたしはよく覚えている。少なくとも先生や先輩たちは、お互いの顔と名前を知っている。そこは教える側と学ぶ側が、個人対個人で接する場だった。<br />
<br />
<br />
ただし、大学の専門課程の研究室は、決して理想の教育システムとは言えなかった。そこは一種の徒弟制である。徒弟制度とは、要するに、「俺の背中を見て学べ」と言っているに過ぎない。そこには体系化された方法論などない。先生たちもそうやって教えられてきた。だから、自分たちもそれを受け継いでいる。それがおかしいとか、非効率だとかとは考えないらしい。<br />
<br />
<br />
それでも、大学の4年間のカリキュラムを全体としてみると、1つだけ良い点がある。それは、前半がインプット学習、後半、特に最後の1年がアウトプット学習になっている点だ。<br />
<br />
<br />
インプット学習とは、知識情報の取得である。これに対して、アウトプット学習とは、自分が得た知識、情報材料にして、自分の頭で考え、自分で論理を組み立て、自分で言語化することを練習する過程だ。学生は、最後に、卒業制作なり、卒業論文なりを作ることを求められる。そこには特段の正解は無い。これがアウトプット学習である。<br />
<br />
<br />
ちなみに、論文式の試験がアウトプット学習だと思っている人がいるが、それは出題者の意図による。日本の多くの試験では、論文の中で、カバーすべきキーワードやその順序等が、事前に規定されていて、回答がその通りに書かれているかどうかで、採点することが結構多い。つまり、正解があるわけだ。そうなると、この正解を丸暗記した人間が効率よく試験をパスできる。これはアウトプット学習とは呼べない。<br />
<br />
<br />
アウトプット学習には、自分の頭で考え、他者と議論すると言うプロセスが不可欠だ。それによって初めて、取得した知識、情報を、多少なりとも、自分の血肉にする事ができるのである。教育には、あるいは人財の育成には、インプット学習とアウトプット学習の組み合わせが必須である。そして順番は、この順序でしかできない。<br />
<br />
<br />
思考とモデリングについて大学院で学んだこと<br />
<br />
<br />
ところで、わたし自身が本当の意味で、思考とモデリングについて学びを得たのは、修士課程の2年間だった。わたしの大学での専攻は化学工学（Chemical Engineering）で、プロセスシステム工学の研究室に入った。そして修士論文のテーマは、いろいろと迷った後、湖沼生態系のシミュレーションによる環境問題の解決を選んだ。<br />
（ちなみに、生態系でどのような要素間のループが生じると、貧酸素などの環境問題につながるかについては、「システムが崩壊するとき」を参照のこと）<br />
<br />
<br />
この化学工学と生態学という2分野を、たまたま選んだのは幸運だった。というのも、この2分野の学問は、いずれも非常に複雑な系を対象としているため、上手なモデリングをしないと一歩も先に進めない。ここでは化学工学や数理生態学がどんな学問かの説明は割愛するが、結果として、両分野はモデルの宝庫となったのだ。<br />
<br />
<br />
モデリングという仕事は、自分の手元に、いろいろなモデルのひな形をある程度たくさん持っていて、すぐに思い出して再利用可能にすることが望ましい。その点で、これはとても重要な基礎トレーニングだった。<br />
<br />
<br />
同時に、研究室では恩師から、重要な2つの態度について学んだ。それは、<br />
「問題を出されたら、答えを見る前に、必ず自分の頭で考えてみること」「データ分析をする者は、必ず自分でもそのデータを取ってみること」<br />
の2点だった。<br />
<br />
<br />
答えを見る前に、自分で考える。そして考えた結果が答えと合っていれば、もちろんそれでよしとする。仮に違う答えだったとしたら、どこで、なぜ違うのかを検討してみる。とくに正解が一つとは限らない種類の問題に対しては、自分を正解に合わせるよりも、自分の違いを伸ばすことを考えること。これが第一のポイントだ。<br />
<br />
<br />
そして二番目のポイントは、データは自分の手で取ってみなければならない、そのデータが、どのようなプロセスと手順を経て、そこにある数値になったのかを、体験して知らなければならない、ということだ。そうしないと、データの精度やクセや特性を、読み違えるからだ。<br />
<br />
<br />
たとえば、生態系の水質データに溶存酸素濃度（DO）という量がある。サンプル採取した水1リットル中に、何mgの酸素O2が溶け込んでいるかを示す。濃度はppmオーダーで、微量である。これを直接測定できる測定器もあるが、多くの場合は（たとえば深層水などは）器械が届かないので、水を汲み上げて、分析容器に移し替え、試薬滴定で測る。<br />
<br />
<br />
ところが、外気の中は酸素だらけなのだ。だから採取した水を小さな容器に移し替える際に、外気に触れず泡も立てないようにするには、どういう注意が必要なのか、それを怠ると結果の数値にどんな影響がでるのか、自分でやってみないと想像がつかない。やってみてはじめて、そのデータの信頼できる精度はどの程度なのか、その1点のデータを得るのにどれくらいの時間と労力とコストがかかるのか、分かるようになる。これが分からないと、適切なデータ収集計画が立てられない。そしてデータとは、分析を最初から意図して、収集方法を設計すべきなのである。<br />
<br />
<br />
考えるとは身体的行為である<br />
<br />
<br />
データ収集とは体感的な行為である。そしてデータに基づく分析もモデル化も思考も、身体的行為だ。知能だけの抽象的な行為ではない（だから人工知能が簡単に人を凌駕できる分野でもない）。そのことを若いうちに知ったのは、とても大切な経験だったと今でも思っている。<br />
<br />
<br />
実際、脳は臓器の一つだ。体調が低下したり、睡眠不足が続いたりしたら、脳はきちんと働かなくなる。だから思考とモデリングを職業とする人は、きちんと睡眠を取り、ちゃんと運動をしなければならない。これも、学んだ教訓だった。そして、そのどちらも、なかなか社会人になって実行するのは難しいのだが。<br />
<br />
<br />
わたし達の社会の教育制度は、古代中国に生まれた科挙という試験と、近代の富国強兵策による軍隊教育に、大きく影響されている。あいにくどちらも、思考の創造性を開発するには向いていない。わたし達が考える技法を学びたかったら、まず学びの態度から変える必要があるのである。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「思考とモデリングの方法に向けて」 (2023-01-10)<br />
「システムが崩壊するとき」 (2009-12-15)<br />
<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 21 Feb 2023 16:23:41 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-02-21T16:23:41+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>アートと科学、その配合の妙</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30225464/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30225464/</guid>
      <description><![CDATA[あなたの思考は論理的か<br />
<br />
<br />
エンジニアとは、考える仕事である。わたし達にとって、思考は仕事の中心プロセスであり、一番大事な商売道具である。である以上、自分の思考は有用で、正確で、かつ効率的であることが望ましい。知識労働者たるべきエンジニアが、肉体労働だとか、果ては感情労働（上司や顧客や仲間との感情的なフォロー等）について忙殺されているとしたら、嘆かわしいことだ。<br />
<br />
<br />
とはいえ、わたし達が仕事で、とくに設計で行う思考は、ちゃんとすべて論理的だろうか。<br />
<br />
<br />
この問いに答えるには、当然ながら「論理的」とは何かが、明確になっていなければならない。論理的とは、数式の展開計算のように、あるいは記号論理の真理値表のように、確実に正しい方法論に従う手続きを進める事だろうか？<br />
<br />
<br />
思考には、一般に二つのモードがあると言われている。演繹(deduction)と帰納(induction)である。演繹とは、前提から結果を導き出す事で、帰納とは気づき・発見のことである。「人は全て死す、故にソクラテスもプラトンも死す」と推測するのが演繹で、「ソクラテスもプラトンも死んだから、人は皆死ぬのだ」と推論するのが帰納である。<br />
<br />
<br />
この二つの単語の語源は、どちらも「ducere（導く）」から来ている。接頭辞のin-は入る方向、de-は離れる方向を示す。つまりinduction とは知識を導き入れる事、deductionとは知識を導き出す事を意味する。<br />
<br />
<br />
もっとも、中山元の「思考の用語辞典」 によると、帰納の方が演繹よりも弱い推論だ、という。たとえば、ウィトゲンシュタイン（元はエンジニアだった）はこう言う。「太陽が明日昇るだろうと言うのは仮説である。太陽が昇るか昇らないかを、われわれは知らないからである」(「論理哲学論考」  6.36311節）。まあ厳密にはそうかもしれないが、でも十分なエビデンスがあれば、推論は普通、それなりの説得力をもつ。<br />
<br />
<br />
いずれにせよ、論理性とは真であること、整合性（無矛盾であること）を重んじる。つまり真を重要な価値とする。では、このような真理を追求する方法と知識を専門的に磨いているのは誰か？　答えは科学者たちである。科学者は真理に仕える。彼らは確実で、正しいことを言うことが求められる。科学研究の論文で、根拠レスなあやふやな主張を自信満々述べることは許されない。<br />
<br />
<br />
したがって科学的知識・能力は、思考の正しさを保証する、ということになる。科学が技術の基礎であるとは、そういう意味でもあるのだ。<br />
<br />
<br />
エンジニアの頼るべき基礎は科学だけか？<br />
<br />
<br />
ところで、本当にエンジニアが思考能力を磨くためには、科学を勉強していればいいのか。わたしが受けた工学部の教育は、そういう考えで出来上がっていたように思う。と言う事は、科学こそが技術とイノベーションの母である、と言えるのだろうか？<br />
<br />
<br />
ついでにいうと、政策立案の分野では、科学と技術はよく、「科学技術」と一緒に表現される。この表現にも、わたしは、かねてから違和感があった。科学と技術は、相当に別物ではないか。<br />
<br />
<br />
国の政策立案の中心部にいる人たちは、「科学技術」の振興が成長をうながすと考えているらしい。より具体的にいうと、研究開発に公的予算を投じれば（それも有望な最新分野と有能な研究者達に集中的に投じれば）、必ずやイノベーションを通じて、経済成長に貢献するはず、という信憑があるようだ。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラムなどは、その代表例であろう。<br />
<br />
<br />
だが、繰り返しになるが、エンジニアとしての実感から言うと、科学と技術は別ものである。技術では、科学的に真であること以上に、役に立つこと＝有用性が求められる。科学的に証明されていなくても、経験的に裏付けられていれば、それを使うのがエンジニアだ<br />
<br />
<br />
例えばアスピリンと言う薬がある。19世紀末にバイエル社によって発見され、鎮痛解熱作用があるので広く使われてきた。しかしこの薬がなぜ効くのか、その作用機序については、70年近く謎だった。科学的には謎でも、医師たちは処方してきた。臨床を預かる医師たちには、エンジニア同様、真であるよりも、有用性の方が大事なのだ。<br />
<br />
<br />
良い設計＝デザインは、アートと科学の配合である<br />
<br />
<br />
話を少し戻すが、エンジニアの一番大事な仕事は設計である。では、良い設計をするためには、論理的な思考、科学的な訓練だけで充分だろうか。<br />
<br />
<br />
よく、優れた設計能力を持つ同僚などを表して、「あの人はセンスが良い」などと表現する。ここで言うセンスとは、何なのか。あなただったら、「論理的で正確だ」と言われるのと、「センスが良い」と褒められるのと、どっちが嬉しいだろうか。<br />
<br />
<br />
設計がどんな行為であるかについては、すでに以前、「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか？」で論じた。設計とは、『機能を形状・構造に落としこむ』作業である。 設計対象に可動部分があったり、対象が入力を出力に変換する仕組み（システム）である場合は、その構造に、制御機構を与える作業が続く。<br />
<br />
<br />
そして設計は、逆問題でもある。普通の問題（順問題）は、与えられた構造から、その性質や振る舞いを予測する。しかし、仕様で与えられた性質や振る舞いを示す構造とはどんなものかを考えるのが、逆問題である。<br />
<br />
<br />
ジェームズ・ワットの蒸気機関は、その良い例だろう。それ以前に使われていた、ニューコメンの蒸気機関は、温めたり冷やしたりを繰り返すために、間欠的な動作しかしできなかった。ワットは連続して効率よく動く蒸気エンジンを作りたかった。そのために蒸気を温める部分と冷やす部分を分離し、かつ、遊星歯車や遠心調節器の機構を開発した。<br />
<br />
<br />
彼のこのような発明は、演繹や帰納といった、論理的思考の結果だろうか？　どこか、試行錯誤で発見的・探索的ではないだろうか？　<br />
<br />
<br />
もう一つ、設計の事例を見よう。ワットの発明から80年近く後、19世紀半ばの「ロイヤル・アルバート橋」だ（写真はWikipedia英語版からの引用による）。340mの川幅に、30m以上の空頭高を確保するため、鋼鉄製の二重レンズ型トラスを考えて、作った。良い設計＝デザインも、一種の発明と言える。設計者は、天才的技師ブルーネル。彼については、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」  で書いたので、ここでは繰り返さない。<br />
 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201608/28/47/e0058447_18141342.jpg" alt="_e0058447_18141342.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
こうした本当にレベルの高い設計物を見た人間は、「美しい」という。センスが良い、とは、美しい設計を生み出す能力を指している。これは、論理性とは別の能力だ。<br />
<br />
<br />
美を生み出す人、美を大切なものとして美に仕える人を、アーティストという。彼らの仕事はアートだ。ただし、英語のArtの翻訳は、日本語の「芸術」ではない。もっと幅広い、個人的なスキルも含めた、「技芸」に近い。<br />
<br />
<br />
よく、「経営にはサイエンスとアートの部分がある」と言われる。ビジョンを作り人を動かす経営の仕事は、科学的論理だけでは足りない、という意味だ。でも、それなら、エンジニアの設計も、科学とアートの部分がある。優れた設計の仕事には、アートと科学の、配合の妙を感じるではないか。<br />
<br />
<br />
さらにいうとモデリングも、科学の部分とアートの部分がある。モデルは現実を再現し、予測・シミュレートできないと役に立たない。予測には確実に科学知識や論理性が必要だ（演繹の作業だから）。だが、対象系の複雑なふるまいを見事に再現・予測できるモデルが、とてもシンプルで明晰な構造になっていると、わたし達は「美しい」と感じる。あるいは、抽象度の高い少数のパラメータから、現実的で豊穣なインスタンス群を生成できると、「美しい」と感じる。<br />
<br />
<br />
わたし達の仕事には、アートが足りない<br />
<br />
<br />
論理性とアートは、ふつう相反するもののように思われている。でも、それは少し近視眼的だ。なぜなら、論理性の権化である数学の世界で、一番の褒め言葉は「美しい」なのだから。<br />
<br />
<br />
論理について言うと、帰納も演繹も、AIのおかげで、機械でかなりできるようになった。猫の写真を見分けられるようになって10年が経つ。いまやGTP3など、よくまあと思えるような、まことしやかな記事や論文を、自然言語で生成してくれる。しかし発明とアートの部分は、まだまだだ。というか、機械に「センス」を植え付けるようになるまでには、ずいぶん跳躍が必要そうに思える。<br />
<br />
<br />
わたし達は、論理的で素早く思考できる人を、「頭が良い人」とよんで、感心する。だが正確で効率的であるだけでなく、美しい成果物を生み出せる人は、「賢い人」と呼ばれ、感動を呼び起こす。できるならわたし達は、賢い人を目指したいと思う。<br />
<br />
<br />
そのためには、アート（センス）の部分を、もっと評価して伸ばしていく必要がある。あいにく、今の世の中は、アートだの芸術だのは「不要不急」だとされ、コロナ禍でもまっさきに切り落とされる領域だった。なぜ不要不急かというと、すぐお金儲けにつながらないから、という社会常識があるからだ。それが結局、わたし達の産業と製品サービスを、貧困なものにしてきたのではないか。<br />
<br />
<br />
ただ、アートをもっと重視すると言っても、必要なのは専門家としてのアーティストと、各人の中に育てるべきアートの、両方の部分がある。アートの専門教育の場は世の中に、すでにたくさんある。だが、エンジニアに必要な素養としてのアート、技能としてのアートを育てる場は、極めて少ない。センス的な部分はすべて徒弟制度、というのがこの国の実態だ。<br />
<br />
<br />
この状況もまた、「サーキュラーな問題」になっていて、すぐにマクロに解決できる処方はあまり思いつかない。ただ、そもそも、センスというのは個性につながっていて、ミクロなものではないだろうか。だとしたら、まず出発点とすべきなのは、わたし達一人ひとりが、もう少しだけ「アートと科学の配合の妙」に、より感覚を磨くことにあるはずだ。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか？」 https://brevis.exblog.jp/28975247/ (2020-05-07) <br />
「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 17 Jan 2023 17:04:18 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-01-17T17:04:18+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>思考とモデリングの方法に向けて</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30219584/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30219584/</guid>
      <description><![CDATA[今年の正月は、5日と6日も休んで、比較的長く休暇をとった。昨年、比較的多忙だったので、少しは休養を取りたいと思ったからだ。しかし残念ながら、やるべき宿題を抱えていて、あまり十分に休めなかった。いや、もっと正直に言おう。わたしはじっくり考える時間を取りたかったのだ。だが年末年始の間も、やるべきことに追われて、あまり考える時間を取れなかった。<br />
<br />
<br />
<br />
忙しさに追われて、考える時間がない。これはわたし達の社会の、共通の病気かもしれない。忙しいから、深く考える暇がない。深く考えないから、その場しのぎの仕事が増えていく。結果としてあまり大きな成果が上がらず、瑣末な問題ばかりが増えて、その解決に時間が取られる。おかげで深く考えることができないから…<br />
<br />
<br />
ここでは問題状況が、因果関係のループを形作っていることがわかる。わかりやすく言うと、卵と鶏の関係である。では、このような問題は、どう解決すべきか。<br />
<br />
<br />
ここで1つ、逆手を思いついた。本サイトにおいて、しばらく、思考とモデリングの技術についてテーマに取り上げ、考えを整理していこうと思うのだ。というのも、本サイトの文章を書くことも、わたしにとって、取り組まねばならない宿題の一種だからだ。<br />
<br />
<br />
高名な国際的経営コンサルタントだった故・今北純一氏との対話について、ちょっと前に書いた。20年以上前、日本を遠く離れた異国の地で、日本の不況に関し、わたしは率直な自分の意見を答えたのだが、あの問答には、じつは続きがある。今北さんは、なぜ日本がそんな状況に陥ってしまったかについて、わたしの見解を尋ねられたのだ。<br />
<br />
<br />
その時、わたしは答えた。「考える力の低下が、不況の根本の原因だと思います。」この考えは、今も変わっていない。<br />
<br />
<br />
考える力の喪失、とくに深く考える力が弱まっている。そのことが、わたし達の社会における、組織や個人の行動の有効性をかなり損なっている。日本人が働かないから、怠惰だから、不況になったのではない。皆、必死に働いているのだ。それなのに成果が上がらない。エネルギーが、どこかで無駄に浪費されている。そして皆、頑張ることに疲れ果てている。<br />
<br />
<br />
長い不況を脱し、自信と希望を強めるためには、深く考える力を再興する必要がある。その事は明らかだ。<br />
<br />
<br />
ところでこう書くと、「ではなぜ、考える力は低下したのだ？」との質問が出てくるだろう。そして教育制度だとか、国民性だとか、多忙のせいだとか、いろいろな原因説明が行われる。<br />
<br />
<br />
でも多忙については、すでに書いたように、原因と結果の関係が卵とニワトリのようにループになっている。他の原因説明についても、やってみれば分かるが、似たような結果になる。それら複数のループが、「思考力の低下」と言う点で交錯しているのだ。<br />
<br />
<br />
わたし達が考えるのは、問題解決のためである。だったら、思考能力を高めるためには、問題解決技法を学べば良いではないか？<br />
<br />
<br />
調べてみたらすぐにわかるが、問題解決技法については、すでに書籍や方法や、セミナーコースの広告やらが、うずたかく積み上がっている。あまりたくさんありすぎて、どれを選んだらいいかが、むしろ問題だ。で、この問題を解くにはどうしたら良いかというと…<br />
<br />
<br />
でもここで1冊、とても良い本を紹介しよう。「問題解決大全」。著者の名は、読書猿。ペンネームで、正体は謎のブロガーだ。でもこの人は図書館の中に住んでいるんじゃないかと思うほど、非常に浩瀚な読書歴を誇っており、その守備範囲も広い。<br />
<br />
<br />
本書のサブタイトルは「ビジネスや人生のハードルを乗り越える37のツール」である。そして37種類の技法が詳細にわかりやすく解説されている。<br />
<br />
<br />
ただしこの本が真にユニークなのは、全体が、第一部「リニアな問題解決」と第二部「サーキュラーな問題解決」に分かれていることである。<br />
<br />
<br />
著者は世の中の問題解決技法を、その問題認識に従って2種類に分類する。1つ目は、リニアな問題意識、すなわち、「原因→結果」がリニア(直線的)につながっているという立場である。2番目は、原因と結果が、ループのように円環を描いている、と考える立場だ。問題解決技法をこのように分類する視点を、わたしは他に知らない。<br />
<br />
<br />
問題とは「目指すべき目標と現状のギャップである」、としたハーバート・サイモン（ノーベル賞受賞の経営学者）の定義は、よく知られている。サイモンの認識に従えば、ギャップとなる障壁を解決するための道具や手法を用いて、進めば良いことになる。<br />
<br />
<br />
この問題認識の延長線上には、「ロジックツリー」や「特性要因図」といった分析技法が出てくる。とてもアメリカの経営学的な、論理的でわかりやすい、かつトップダウンな方法論にフィットした考え方である。<br />
<br />
<br />
これで解決できる問題はもちろん多いので、身に付けておくべき基本だとも言える。ただしこのサイモンの定義は、リニアな問題認識である。「なぜ」を5回繰り返す「なぜなぜ分析」も、リニアな手法の1つだ。<br />
<br />
<br />
だがリニアな問題解決技法は、原因と結果がループを描いている種類の複雑な問題には、なかなかうまく適用できない。ここに、「サーキュラーな問題解決」と言うカテゴリーを持ち込んだ点こそ、著者の独創性があると思う。<br />
 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/10/47/e0058447_11204026.png" alt="_e0058447_11204026.png" class="IMAGE_MID" height="340" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
ただし本書には37の技法が開設されているが、サーキュラーな解決技法は全体の3割しかない。やはりリニアな技法のほうがずっと多いのだ。しかもサーキュラーの問題解決技法の多くは、問題の定義や理解、そして情報収集に比較的集中していて、解決策を見いだす部分がやや弱いと言える。<br />
<br />
<br />
一例を挙げると、TOC理論で有名なゴールドラットの「現状分析ツリー」（Current Realty Tree=CRT）がある。これ自体は図解を使ったわかりやすい技法で、例えばわたしが講師を今年度から手伝い始めた、社会人のための「ストラテジックSCMコース」（日本ロジスティクスシステム協会）でも長年、問題分析にこの方法を教えてきている。しかし実際に人にこれを描いてもらうと、リニアな因果関係図を作って満足してしまう事が多い。<br />
<br />
<br />
とは言え、かなり幅広い分野の問題解決技法を概観できる点で、この「問題解決大全」はとても有用な本だ。いや、むしろこの本の1番価値のある部分は、著者による前書きではないかと思う。<br />
<br />
<br />
この前書きの中で著者は、なぜリニアとサーキュラーと言う2つの区分を設けたかについて解説している。さらに、有限の問題解決技法が、無限に出てくる問題を解決できるためには、それ自身が「方法を生み出す方法」でなければならない、と指摘している。<br />
<br />
<br />
加えて、問題解決者はその結果についての責任を、「運不運」の影響も含めて負わなければならない、だから問題解決には意志の力が必要であるという。「問題解決を学ぶ事は意思の力を学ぶことである」(p.11)との主張は、奇しくも、先にふれた故・今北氏の考えにも通じている。本書は、この比較的長い前書きを読むためだけでも買う価値がある。<br />
<br />
<br />
ついでに言うと、深く考える能力を育てるためには、ある程度込み入った知識・文章を理解することが必要になる。だが忙しすぎる人、考える能力が低下している人は、長い話を呑み込む能力が、あまり無い。なので、ごく手軽な方法に飛びついたり、手近な成功例をそのまま真似たり、しがちである。ここにも因果のループが生じているのがわかるだろう。このように問題事象のあちこちに因果のループがあると、こじれてほどけぬ結び目のように、変革がとても困難になる。<br />
<br />
<br />
要素と要素の間の、インプットとアウトプットの関係が、環状のループを形成している仕組みを、「システム」と呼ぶ。システムをどのように作り、どのように動かしていくか。これがシステム工学の課題である。だからこそ、思考とモデリングの技法を考える事は、すなわち、真に役立つシステム工学を考えていくことに他ならないのである。<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
→「問題解決への出発点とは」 https://brevis.exblog.jp/30196826/ (2022-12-14)<br />
→「意思を持つために――未来はわたし達の意思がつくる」https://brevis.exblog.jp/30153969/  (2022-10-25)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 10 Jan 2023 11:26:06 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-01-10T11:26:06+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>おじさん的議論に負けないために</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30189360/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30189360/</guid>
      <description><![CDATA[「奈良旅行に行ってきましてね。お土産です、一ついかがですか。」<br />
<br />
<br />
<br />
——ほほう、お煎餅ですか。じゃあ、いただきます。（ぱりっ）ふむ、歯ごたえがありますが、美味しいですな。・・うっ・・むむっ、こ、こりゃ辛い！<br />
<br />
<br />
「ちょっと辛口なんです。」<br />
<br />
<br />
——よく見ると、この裏側の赤い色、唐辛子の粉じゃないですか。こりゃ辛いはずだ。奈良の人って、こんな辛い物好きなんですか？<br />
<br />
<br />
「（キッパリと）そうなんです。行ってみて分かったんですが、奈良の人たちは、あれは渡来人系ですな。だから辛いものにも強い。」<br />
<br />
<br />
——それはまた初耳です。どうしてそう思われるんですか？<br />
<br />
<br />
「奈良の町を歩いていますとね、女性が案外、美人が多い。それも鼻筋が通って、目鼻立ちがキリッとしている。あれは日本人の顔じゃない。渡来系です。」<br />
<br />
<br />
——・・・。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
わたし達は日々、議論を繰り返している。多くはさほど、大層な議論ではない。会話の中での、ちょっとした意見交換だ。相づちを打つ代わりに、軽く反論してみる。すると相手も言い返してきて、ちょっとの間、キャッチボールになる。だが特段、新たな気づきや結論もないまま、過ぎていってしまう。普段の対話でも、ネットでも、それを繰り返している。<br />
<br />
<br />
ただ、仕事における議論は、それだけではまずい。会議をしたが結論も出ないまま散会、という訳にはいくまい。何かを共通認識し、何らかのアクションを決めるために、わたし達は議論をする。仕事の場での議論の多くは、問題解決を目的としているからだ。<br />
<br />
<br />
とはいえ仕事の場で散見されるのが、冒頭にあげたような、ひどく雑な議論である。かりにこれを、「おじさん的議論」と呼ぶことにしよう。その特徴は、定性的かつ経験（実感）ベースなことである。さらに断定的で、一足飛びに判断を下す。しかも頑固で、意見を変えたり引っ込めたりするのは「負け」だと思っている。<br />
<br />
<br />
「おじさん的」と書いたが、無論、中年男性だけがやっている訳ではない。若くても女性でも、この種の議論を得意とする人は少なくない。おそらく学歴や教育、理系文系にかかわらないのではないか。<br />
<br />
<br />
おじさん的議論の対極にあるのは、「プロフェッショナルな議論」の態度だ。医師や弁護士なら、仕事では実証的で丁寧なロジックを積み上げる。技術者だって、自分の専門領域については、より論理的で慎重なはずだ。ただ、いったん専門分野を外れると、急におじさん的議論を始める人は、少なくない。<br />
<br />
<br />
もちろん冒頭の問答くらい乱暴なロジックだと、さすがに同意してついていく人は少ない。でも、わたし達が目にするのは、もう少しだけ丁寧な、あるいは「巧言令色」的な物言いによる主張だろう。たとえば、こんなのはどうだろうか：<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
「世の中は不確実性の高い、VUCAの時代に入っています。こんな中、御社が取られるDX戦略には、二つのポイントが必要です。」<br />
<br />
<br />
——ほお、と言うと？<br />
<br />
<br />
「一つ目はアジリティ、すなわち俊敏性です。市場とユーザの変化に、敏感に追随できるシステムが必要でしょう。そのためには、アジャイル開発の手法の導入が必須です。」<br />
<br />
<br />
——それは、今までのやり方と、何が違うんです？<br />
<br />
<br />
「これは2週〜1ヶ月程度の短いサイクルで設計と開発を回し、ユーザからのフィードバックを得て改善し、機能追加をしていくやり方です。顧客のインボルブには、UXすなわちユーザ・エクスペリエンスが最重要なのです。それにアジャイル開発ならば、失敗してもすぐに軌道修正できます。イノベーションでは失敗を怖れぬフェイル・ファーストの態度が大事ですから。」<br />
<br />
<br />
——なるほど。で、もう一つのポイントとは？<br />
<br />
<br />
「製品アーキテクチャのモジュール化です。これがデジタル化によるイノベーションの鍵だと、我々は信じます。」<br />
<br />
<br />
——モジュール化した設計、ですか。<br />
<br />
<br />
「はい。これまで御社の製品は、顧客の要望に沿って、ゼロから『すり合わせ型』で設計されてきました。個別設計ですから、たしかに最適化はされているでしょう。しかしその分、設計も購買も納期が長くなります。<br />
<br />
<br />
——たしかに。<br />
<br />
<br />
「しかも数値制御など、いくつかの機能部分は、技術革新の速い分野です。ですが、一部機能だけを入れ替えるのは、設計的には至難の業だったはずです。しかしモジュール化したアーキテクチャなら、他の部分とのI/Fさえ互換性を担保すれば、入れ替えによる進化が圧倒的に速くなります。」<br />
<br />
<br />
——理屈は確かにそうだが・・<br />
<br />
<br />
「実例もあります。半導体製造装置の業界をご存じですか。かつてステッパーと呼ばれる露光装置は、日本のキヤノンとニコンの独壇場でした。しかしオランダのASMLという会社は、モジュール型のアーキテクチャをひっさげて登場し、市場をさらってしまったのです。レンズやステージなどのモジュールは専門企業に外注し、自社はプラットフォームとソフトウェアに特化する戦略で、オープンイノベーションの見事な成功例と言っていいでしょう。御社もぜひDXで、この戦略を見習うべきです。」<br />
<br />
<br />
——なるほど。そうかもしれないな・・<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
どうだろう。こちらはなんとなく、説得力がありそうな気がする。少なくとも、「奈良＝渡来人説」に比べ、専門用語に満ちていて実例もついているではないか。<br />
<br />
<br />
だが、落ち着いて考えてみると、いろいろと腑に落ちない点が出てくる。顧客のインボルブ（巻き込み）にはUXが最重要、というが、それは消費者向けのB2Cビジネスならば、そして無償提供のアプリ等ならば正しいだろう。だがB2Bや企業内システムでは、機能や信頼性など、別のファクターがきいてくる。また複雑で深い業務プロセスや、多数のDBの連携など、アジャイル開発向きでない要件を持つシステムも存在する。<br />
<br />
<br />
製品アーキテクチャの議論も同様だ。ステッパー市場に当てはまる事が、すべての市場に当てはまるのだろうか。また比較的構造が単純な製品では、モジュール部分に分けることが困難なものも多い（あなたの会社の製品がアルミ缶だったら、どうモジュール化するだろうか？）。<br />
<br />
<br />
もちろん、わたしがここで論じたいのは、アジャイル開発やモジュール化設計全般の是非ではない。どちらも必要な場所に適切なタイミングで正しく適用すれば、優れた効果を上げることは分かっている。方法論とは、そういうものだ。<br />
<br />
<br />
ここで注意を向けてほしい点は、結論に向かうスピードの速さ、議論での前提条件や論証のすっ飛ばし方である。「おじさん的議論」の特徴の一つは、定性的なくせに、結論にいやに自信があることだ。わたし達は不確実性の時代を生きている、で始まるのに、結論だけは不思議と断定的である。なぜなら、相手を説き伏せて、その方向に動かすことが、議論の目的になっているからだ。<br />
<br />
<br />
さまざまな外来語や最新のキーワードがちりばめられているのも、この種の議論の特色だ。世の中のものごとに、キーワードをぺたぺたとラベルのように貼って、分類・思考したがる、一種のキーワード依存症である。さらに、相手が知らないことを自分が知っていると、「自分の方が頭がいい → だから自分の議論の方が優位だ」、という風につながっていくらしい。知識偏重教育の弊害だろうか。<br />
<br />
<br />
その一方で、エビデンス＝検証の少なさも、特徴の一つだ。製品アーキテクチャであれ何であれ、重要なテーマの甲乙を論じるなら、少なくとも双方３つぐらいずつ例証をあげるのが、客観的な態度というものだろう。だから実は、すごく主観的かつ定性的な議論の進め方になっている。<br />
<br />
<br />
ちなみに上の対話は架空のものだが、わたしが2年前、当サイトで4回にわたって連載した、製造業のDXをめぐる対話劇を補足するものだ。あの対話劇では、その場に登場しない「専務」と「戦略系コンサルタント」が、当事者であるDXチームの悩みは全部すっ飛ばした形で、急に方向性を決めてくる。その専務とコンサルが、オフラインで交わしていた会話を、再現してみたものだ。<br />
<br />
<br />
といっても内容的には、この数年来、勤務先のIT戦略立案を担当していたわたし自身に対し、来訪したコンサル企業や大手ITベンダーが、入れ替わり立ち替わり提案してきた事柄を、煎じ詰めて書いている。皆がみな、あきれるほど同じ話をするのだ。一種の世界宗教であるに違いない。<br />
<br />
<br />
くりかえすが、議論というのは、共同で問題解決にあたるために、するものである。なので、良い結論が出るか、少なくとも、より明確な共通認識に立てれば、議論は成功と言える。最終結論を誰が出したかとか、反対者を折伏できたかとかは、関係のない話だ。議論はバトルではない。だから、そもそも議論を「勝ち負け」で考えること自体が、おじさん的なのである。<br />
<br />
<br />
おじさん達にとって、議論は勝つためにあるらしい。そこで「理屈の通るフィールド」では知識で優位を示し、「理屈のないフィールド」では、自分の実感を、権威によって押し通してくる。<br />
<br />
<br />
わたし達は、そんな相手と議論で「勝つ」ことを、目指すべきではない。単に「負けない」ようにすること。すなわち、より多くの客観的な事実やデータを用意しようと提案すること、最新知識やキーワードには敬意を示しつつも鵜呑みにはしないこと、実際の現場をよく見る（見せる）こと、などが肝要だ。<br />
<br />
<br />
ちなみに、わたしがここに書いている主張自体、かなり定性的だし、統計的なエビデンスなどは示せていない（ビジネスにおける議論についての調査統計が沢山あるかどうかは、脇におくとして）。そしてわたしが年齢・性別的に「おじさん」であることは、ゆるぎない事実だ。だから読者諸賢がどう評価するかは、お任せするしかない。<br />
<br />
<br />
とはいえ、別に読者に勝とうと思ってこれを書いている訳ではない。単に『議論の仕方』というものに、光を当てたかったのである。議論の仕方こそが、わたし達の思考や発想を導いていく。それがあまりに、個人や組織間の優位性競争に陥りがちな現状を、少しは打開してみたいのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
→「そうか、製造業のデジタル化って、そういう意味なのか」  (2020-11-15)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 05 Dec 2022 14:42:30 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-12-05T14:42:30+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>わたし達には安心して議論できる場が必要だから（＋オンライン・セッションのご案内）</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30159299/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30159299/</guid>
      <description><![CDATA[わたし達には安心して議論できる場が必要だから（＋オンライン・セッションのご案内）<br />
<br />
<br />
AIに関する、ある対話（の不成立）<br />
<br />
<br />
一昨年のことだが、ある方のご紹介で、東京・本郷にあるT大学（特に名は秘す）発のAI系ベンチャー企業数社の方々と、Webで面談した。先方から保有技術や事例の紹介を、まず受けた。当方がプラント系企業だからか、異常予兆やロボット系の事例が中心だった。異常予兆は自社内にも開発実績があるし、実はそれほど注目していなかった。こちらとしては、エンジ会社として設計問題の自動化（先月書いた開発プロジェクトの件）についてアイデアを求めたのだが、議論はすれ違いだった。<br />
<br />
<br />
相手はみな、AI=深層学習こそ万能の道具と信じていて、実績データを分析すれば答えが見つかるからやらせてくれ、という。機械学習なんてパターン認識に過ぎないんだから、科学法則の支配する設計問題には向かない、と説明したが理解できない風だった。探索的な強化学習なら可能性があるので水を向けてみたが、それは制御問題のツールだろう、という理解しかなかった。本当は離散的組合せ問題への強化学習などの可能性を議論したかったのだが、まったくかみ合わない。<br />
<br />
<br />
全員とも、「AI=機械学習」「プラントへの適用＝故障予兆保全問題」「強化学習＝制御向け」という、問題設定の枠組み（思い込み）が強くて、その外の観点から問題をとらえる気が無いらしかった。まあいかにも、試験問題を解いて優秀大学に入った人達らしいな、と思いつつ、Web会議を終えた。<br />
<br />
<br />
長い不況の根本原因　〜　考える力の低下<br />
<br />
<br />
頭の良い人たちは、世の中にたくさん居る。頭の良さには色々な種類があるが、ともかくこの国には考える能力の高い人が大勢いる。それなのに、いつまでたっても経済は低迷状態から抜け出すことができずにいる。なぜなのか。自分たちを重用しないからだ、と頭の良い人達は言うかも知れないが、わたしの考えは少し違う。<br />
<br />
<br />
前回の記事で、コンサルタントの故・今北純一氏と日本の長い不況について話した時のことを書いた。では、不況の根本原因は何だと佐藤さんは思われますか、とたずねられた。わたしの答えは、考える力が落ちている事です、とお答えしたと思う。考える力が落ちている、あるいは時代にそぐわなくなっている。それがわたしの認識だ。<br />
<br />
<br />
頭が良いと言っても、世を見渡すと、多くは与えられた問題を解決する『問題解決型』の人ばかりで、自分から課題を設定する『課題設定型』の人が少ない。別の言い方をすると、解決へのアプローチには、問題事象に近寄ってクローズアップし細かく分析して解決する方法と、カメラを引いていって最初の枠組みよりも大きなフレームで考えるやり方の、二種類がある。どちらも必要なのだが、どうも前者を得意とする人ばかりが多いようだ（統計的エビデンスまでは示せないが）。<br />
<br />
<br />
問題解決型の思考は分析や手順化が中心であるのに対し、課題設定型は構築的ないし発散的な思考が必要だ。だが、多くの人は、与えられた問題の枠組みの中で考えることは上手でも、枠組みを広げ、あるいは枠組みを疑って、もっと高い観点から問題を捉え直すことが下手だ。<br />
<br />
<br />
高度成長期までは、問題の枠組みが決まっていた。戦後復興から、先進国に追いつけ追い越せで社会は動いていた。だから目前にある（せいぜい1〜3年の）課題解決を考えればよかった。<br />
<br />
<br />
しかしバブル崩壊後は、新しい産業社会の姿を探さねばならなくなった。だが、各社各人は自分の生き残りに必死だった。そうなると直近・目の前の問題視か見なくなる。そのためには、内外に適切な「ベスト・プラクティス」を探して、真似れば良い。与えられた試験問題を解いて、正解を答えれば報奨される教育制度が、このような思考習慣を強化したのだろう。<br />
<br />
<br />
日本の教育制度の問題<br />
<br />
<br />
日本の教育制度は、富国強兵時代にできあがった仕組みで、主に『競争と選別の論理』でできている。問題を与えて解かせ、ペーパーテストの成績で進路を決める。旧来の企業では、ながらく大卒と高卒でキャリアが隔絶していた。だから大学入試合格が教育の最終目的になった。<br />
<br />
<br />
大学教授達の意識の中では、大学は主に学問研究の場であって、教育の場ではなかった。大学教育とは、大講義室での一方的な知識の伝達か、「学問する教授の背中を見せる」式の徒弟制度しかなかった。<br />
<br />
<br />
しかも産学間で人材の行き来が乏しいため、学問研究と実務分野とが乖離していった。そのため企業は大学の教育機能を信頼せず、新卒採用してから社内教育を行ってきた。そのうち不況が続くと企業の体力も衰え、社内教育ができなくなって、「即戦力」を求めるようになった。<br />
<br />
<br />
といっても企業側でも業務プロセスを業界内で標準化する、といった努力を怠ってきた（というか、そういう方向に頭を使わなかった）。このため、たとえ同一職種でも業界内で用語・手順がバラバラで、共通の育成カリキュラムなど組みようがない。「即戦力」がどういう意味で、社会でどう育てるべきかを、産業界は真剣に考えてこなかった。教育界に丸投げした形である。<br />
<br />
<br />
その結果、就活生向けの、社会人としての基礎的トレーニングは、民間教育産業（＝受験産業）の格好の草刈場になった。念のために書いておくが、「社会人基礎力」なる概念は、2006年に経済産業省がご親切にも提唱した言葉であり、「『前に踏み出す力』、『考え抜く力』、『チームで働く力』の3つの能力（12の能力要素）から構成」されているのだそうだ（https://www.meti.go.jp/policy/kisoryoku/参照のこと）。「なんだか自分は会社の中で評価されていないなあ」と感じている方は、ぜひこの「社会人基礎力」を学び直されると良い。ちゃんと検定試験制度まである。きっと社内で出世できること請け合いである・・んじゃないかと、思う。<br />
<br />
<br />
考え抜くためには、他者との議論が必要である<br />
<br />
<br />
この経産省・産業人材政策室の「社会人基礎力」には、素晴らしいことに『考え抜く力』が含まれている。資料によると、その要素として以下の3つがあげられている。<br />
<br />
<br />
課題発見力：現状を分析し目的や課題を明らかにする力計画力：課題の解決に向けたプロセスを明らかにし準備する力創造力：新しい価値を生み出す力<br />
<br />
<br />
最初に課題発見力がきて、それは現状から出発し、分析し目的や課題を明らかにする力だ、と書いてある。ものすごく問題解決型・分析型の思考方法であることがお分かりいただけるだろう。自分の意思を持って目的や目標を設定し、そこから行動を導き出す、といった課題設定型の思考習慣は、あまり求められていない。<br />
<br />
<br />
（なお、以前このサイトで書いたように、わたしは「問題」と「課題」という言葉は、区別して使っている。しかし世間ではそうではないため、ここではそのまま引用した）<br />
<br />
<br />
わたしにとって「考え抜く」とは、カメラを引いたり寄ったりしながら、ある一つの問題を3日でも1週間でも1ヶ月でも、考え続けることだ。ブレークスルーが見つかるまで、仕事をしているときもメシを食っているときも、歯を磨いているときも寝ているときでさえ、意識か無意識かを問わず考え続けることだ。<br />
<br />
<br />
それをやるにはまず、体力がいる。睡眠不足が続いたら、できない。感情的な負荷が高すぎても、できない。何もせずにじっと考え続けている（＝はたから見ると「何の仕事もせずぼおっとしている」）時間を取れる職場環境が必要だ。<br />
<br />
<br />
そして何より、他者との対話を通じた思考の活性化が必須なのだ。答えは自分が見つけるかも知れないが、それでも他者の存在と、知的・感情的な両面での刺激やサポートが大事になる。<br />
<br />
<br />
なぜ議論（対論）が必要か、なぜ難しいのか<br />
<br />
<br />
囲碁に「岡目八目」という言葉がある。傍で見ている人間の方が、よりすぐれた手を思いつきやすい、との意味だが、至言だと思う。なぜなら、戦っている当事者はしばしば、これまでの自分の思考の経緯にしばられ、枠組みに しばられるからだ。<br />
<br />
<br />
したがって、本当に思考を活性化したかったら、他人と議論することが必要なのだ。ただし、そのためには、互いに自由に考え発言できる、「心理的安全性」が必要だ。だが、これがむずかしい。<br />
<br />
<br />
というのも、議論は優劣を競う競争の場になりやすいからだ。知識の多さ、口のうまさ、頭の良さの比べっこに陥りやすい。問題解決と創発が目的なのに、勝ち負けに目的がすり替わってしまうのである。さもなければ、居酒屋談義の無責任にもなりがちだ。<br />
<br />
<br />
対等な立場での創発的な議論を、ここではあえて「対論」と呼ぶことにしよう。優劣に基づかない、優劣を決することが目的ではない議論＝対論が、わたし達には必要なのだ。<br />
<br />
<br />
そして、会社の中では議論（対論）が難しい。タテ社会においては、「対等な関係」で話し合うことが困難だからだ。どうしても職位が上の、あるいは発言力の強い方が、議論を仕切っていってしまう。だとしたら、わたしたちは、自社のサイロの外に、対論の場をもとめていかなければならない。<br />
<br />
<br />
対論の場を作る試み<br />
<br />
<br />
わたしが5年ほど前から、（財）エンジニアリング協会で「次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」を始めたのも、一つには、そのような場を作りたかったからだ。それが成功しているかどうかは、分からない。だがとりあえず、いろいろと議論して、少しは何かを生み出してきたことはたしかだ。<br />
<br />
<br />
研究会を始めて3年目に、コロナ問題による都市封鎖の時代がやってきた。今それは終わりつつあるが、顔を合わせた自由闊達な議論を、オンラインによるやりとりに、置き換えるしかなかった。オンラインには良い点もいろいろとあるが、時間差による発言のタイミングの取りづらさ、相手の表情の分かりにくさなど、制約も多い。<br />
<br />
<br />
とはいえ昨年10月と今年9月には、MES/MOM（製造実行システム）に関する大規模なオンラインシンポジウムも企画し、数百人もの方にご参加いただいた。ただ、今年はほぼ丸1日の時間を取ったが、やや盛りだくさんすぎて、肝心のQ&amp;Aに十分な時間を取れなかったとの反省がある。<br />
<br />
<br />
そこで当日も案内したことだが、フォローアップのためのオンライン・セッションを別に企画することにした。具体的には、以下の日時に開催する予定である。<br />
<br />
<br />
11月10日（木）17:00-18:30　Zoom形式<br />
（申込みはhttps://forms.office.com/r/X74w9i6C2uよりお願いします）<br />
<br />
<br />
本当は、シンポジウムの講演者の皆様をお呼びできれば理想的だったが、それはなかなか難しい。そこで研究会の主要メンバー（何人もおられるが、ここでは野村総研の藤野直明氏・藤浪啓氏、平田機工の神田橋嗣充氏、エンジ協会の川村武也氏のお名前をあげさせていただこう）が中心になり、皆さんからのご質問やご意見に応対する、という形にする。<br />
<br />
<br />
なお、当日に多数のご質問を受けると対応が難しいため、できれば上記申込フォームに、質問や意見を事前に書いていただく形にした。ただし、内容を当日ご紹介する際には、お名前やご所属は出さないようにする。なので、「こんな質問をすると自社の実情がライバル会社にわかってしまうのではないか」「ベンダーの売り込みが来るのではないか」などのご心配は無用だ。まあ、社外コミュニティのための心理的安全性の試み（笑）である。多くの方のご来聴をお待ちしている。<br />
<br />
<br />
（注：ちなみに今回は、9月のMESシンポジウムに申込みをされた方を原則対象とするが、都合で申込みできなかった方は、個別にご相談ください）<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「意思を持つために――未来はわたし達の意思がつくる」 https://brevis.exblog.jp/30153969/ (2022-10-25)<br />
「超入門・問題解決力　－　問題とは何か、課題とはどう違うか」 https://brevis.exblog.jp/12188859/ (2010-02-21)<br />
「Auto Plot PATHFINDER ～ 多目的最適化エンジンを用いたプラント・レイアウトの自動設計 (1)」 https://brevis.exblog.jp/30133387/ (2022-09-26)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 31 Oct 2022 09:32:39 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-10-31T09:32:39+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>システムの科学理論は、はたして確立できたのか</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29844619/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29844619/</guid>
      <description><![CDATA[3年ほど前のことだ。MITのシステムズ・エンジニアリング分野を率いるCameron, Crawley &amp; Selvaによる大著「Systems Architecture」(2016)を取り寄せて、期待を持って読み始めた。この分野の最新の進歩が学べると思ったのだ。<br />
<br />
<br />
ところが、表紙をめくって1ページ目で、がっかりした。そこには重要な原則一覧が並んでいるのだが、冒頭に『創発』Emergenceの原則があげられていて、こんなことが書いてあったのだ。<br />
<br />
<br />
「創発の原則：システムのエンティティーが合わさると、それらの相互作用が機能、ふるまい、パフォーマンス、およびその他の特性を創発させる」<br />
<br />
<br />
（ちなみに同書は現在、東大の稗方和夫准教授による邦訳も出ており、上の文はそちらから引用させていただいた）<br />
<br />
<br />
うーん、創発かあ。システムには創発的特性emergent propertiesがある、というのは、よく言われる主張だ。だが、本書をめぐっても、創発がどのようなメカニズムで起き、どう予測できるかについての法則性は見つからなかった。<br />
<br />
<br />
なお、ここでいう「エンティティ」entityとは、システムの構成要素のことだ。ちなみに、彼らのシステムの定義は、（原文では）こうなっている：<br />
<br />
<br />
A system is a set of entities and their relationships, whose functionality is greater than the sum of the individual entities.<br />
<br />
<br />
システムの機能は、その構成要素の機能の単なる合計よりも大きい。まぁ言いたい事はわからないでもない。だが、機能って足し算できるものなのか？　頭の中に疑問符が飛び交った。そして彼らのこの主張は、2千年以上前に、ギリシャの哲学者アリストテレスが主張したテーゼを思い出させる。<br />
<br />
<br />
「全体は部分の寄せ集め以上の存在である」（アリストテレス）<br />
<br />
<br />
2千年間、言うことが変わらない西洋人たちもすごいが、ではこの2千年間の進歩とは一体何だったのか。MITのキャメロンらは工学の研究者で、彼らのテーマは設計方法にある。だが工学の基礎にあるのは、対象物に関する科学である。システムの科学理論は、どう発展してきたのか。現状、どうなっているのか。振り返ってみるのも、無価値ではあるまい。<br />
<br />
<br />
近代科学が急速に発達した18世紀から20世紀前半まで、科学は「還元主義」の強い影響下にあった。還元主義とは、物事の性質やふるまいを、その構成要素に帰することで説明しようとする態度だ。物質の性質は、それを構成する分子によって説明し、分子の性質は、構成する原子から説明し、原子の性質は、電子や中性子といった素粒子で説明する。<br />
<br />
<br />
このように深く細かく分け入って対象を分析すれば、全体を説明できるようになるはずだ、というのが還元主義の態度である。<br />
<br />
<br />
20世紀前半は、このような近代科学を生み出した欧州の貴族社会と文化が、二度の世界大戦を経て、崩壊していく時代だった。同時に、行き着くところまで行った論理主義が、見直される時代でもあった。<br />
<br />
<br />
こうした流れの中で出てきたのが、オーストリアの生物学者ベルタランフィ L. von Bertalanffyによる「一般システム理論」 (1968)である。ウィーン学派に属する彼は、40年代ごろから構想を発表し始め、54年には数学者ラボボートや経済学者ケネス・ボールディングらと、一般システム理論協会を設立する。<br />
<br />
<br />
ベルタランフィは、「全体は部分の寄せ集め以上である」というアリストテレスの観点を支持しながらも、アリストテレスが理由としてあげた「生気論」を、神秘的として棄却し、「有機体のシステム論」を提唱する。生物の特徴は、ホメオスタシス（恒常性）があることだ。生物的システムを、環境と相互作用しながら定常状態（動的平衡）を維持する解放系ととらえ、かつ階層性の視点も取り入れた点で、現在のシステム理論に大きな影響与えた。<br />
<br />
<br />
科学的還元主義への疑問が、物理学ではなく生物学から出てきたのは、興味深い。生き物はやっぱり不思議だからだ。その不思議さに感動しなければ、生物学者にはならない。<br />
<br />
<br />
生物学の系譜を見ると、1950年代に、米国のオダム E. P. Odumらが、物質循環を基礎とした生態学を確立する。主著は「生態学 Ecology」(1963) 。いわゆる生態系＝エコシステム論である。これは後に、ローマクラブの「成長の限界」などの議論と合流し、いわゆるエコロジー運動、すなわち環境保護主義にも結びついていく。<br />
<br />
<br />
オダムの理論に欠けていた空間的な視点を、エコシステム研究に持ち込んだのが、理論生態学者のレヴィン S. Levin（米）である。わたしはたまたま、この人と縁あって知り合いなのだが、京都賞を受賞する頃に出した一般向けの「持続不可能性 Fragile dominion」 (1999)はなかなか読みやすい。この中で彼は、最近の「複雑系」の研究成果も引きながら、自己組織化臨界の概念を用いつつ、生態系の進化を考えている。<br />
<br />
<br />
生態学は生物集団の学問だが、生物それ自体の機能研究からも、「オートポイエーシス」なる概念が出てくる。チリの 生物学者マトゥラーナ H. R. Maturanaらが、1970年代に提唱した。「知恵の樹 El arbol del conocimiento」 (1973)などで、彼らは生命システムは、自己の構成要素を自ら生成する、自己言及的なネットワークとして規定する。これは、機械論的なシステムとは異なる性質である。自動車は複数要素からなるシステムかも知れないが、部品を自分で生み出したりはしない。こうしたシステムは「アロポイエーシス」と呼ばれる。<br />
<br />
<br />
ところで生物学と並んで、物理的な還元主義と折り合いが悪いのが、人間集団を研究する社会科学であった。<br />
<br />
<br />
1950年代に、米国の社会学者パーソンズ T. Parsonsは、大著「社会体系論 Social Systems」(1951)を書く。彼は人間社会の行動を功利的に説明する、それ以前の社会学を批判し、社会システム論を考える。そして社会システムの各部分に関して、その「機能と構造」で分析する研究アプローチを提唱した。生態学者オダムも、生態系の機能と構造を明らかにするのが生態学の目的だといっているが、この時代の問題意識をよく表している。<br />
<br />
<br />
ただし、当時の日本の学会では、Social systemの訳語を「社会体制」とすべきか「社会体系」とすべきか、といった議論がなされていたという。いかに「システム」概念が日本のアカデミック世界に乏しかったかが想像される。<br />
<br />
<br />
パーソンズは後に、サイバネティックスの理論を取り入れた。彼の弟子筋に当たる、ドイツの社会学者ルーマン N. Luhmanは、「Soziale Systeme」(1984)などで、 オートポイエーシス論を取り入れる。<br />
<br />
<br />
この系譜に入れるべきかは分からないが、「世界システム論」というのも70年代に出てくる。歴史社会学者ウォーラステイン E. Wallersteinの「近代世界システム The Modern World-System」(1974)である。彼は、大航海時代以後の世界全体が、政治・経済・社会的に機能する一つの資本主義的システムとなった、というパースペクティブを提唱する。<br />
<br />
<br />
人間集団としては、企業組織も重要である。経営学の分野では、早くも1930年代に、米国のバーナード C. I. Barnardが、有名な古典的名著「経営者の役割 The functions of the executive」 (1938)を書く。バーナードは通信会社の経営者で、学者ではなかったが、すぐれて抽象度の高い「協働システム」としての組織論を展開する。彼はある意味で、今日の組織論研究の先駆けだと言ってもいい。<br />
<br />
<br />
ある意味で、彼の系譜を継ぐのが、経営学者として初めてノーベル経済学賞を受賞したサイモン H. A. Simonである。彼の主著「システムの科学 The Sciences of the Artificial」 (1969)などで、階層的システムの意思決定論を、情報の限定性などの観点から作り上げていく。<br />
<br />
<br />
<br />
さて、生物学・社会科学と見てきたが、科学的還元主義の中心にいた、肝心の物理学・数学においてはどうなのか。<br />
<br />
<br />
実はこの分野においても、第二次大戦直後に、大きな変化が現れる。それは情報と制御に関する新しい研究の進展だ。その牽引役となったのが、ウィーナーとシャノン、そしてフォン・ノイマンだった。<br />
<br />
<br />
米国の数学者ウィーナー N. Wienerが「サイバネティクス Cybernetics, or Control and Communication in the Animal and the Machine」(1948)を出したのと、通信工学者シャノン C. E. Shannon（米）が「通信の数学的理論 A Mathematical Theory of Communication」(1948) を出したのが同じ年だ、というのが興味深い。<br />
<br />
<br />
ウィーナーはフィードバック制御機構を伴うシステムとして、機械と生物に共通性を見いだし、共通の研究方法論としてサイバネティックスを提唱する。今日、サイバネティックスを標榜する大学の学科は存在しないが、この概念は社会的に広範な影響を及ぼした。サイバー空間などの言葉は、ここから来ている。シャノンの通信理論は、後に情報理論に衣替えし、計算機科学の1つの基礎となる。<br />
<br />
<br />
ただし、現代の計算機科学の中核を作ったのは、数学者であり物理学者でもあったノイマン J.von Neumann（ハンガリー/米）である。彼はプログラム自体をデータとして扱う、ノイマン型コンピュータを開発する(1945-52)。電子計算機はコンピュータ・システムと呼ばれ、結局のところ「システム」といえばコンピュータのことだ、と思う現代の偏った社会的理解を生むもとになった。<br />
<br />
<br />
この系譜の発展系に入れてもいいのだろうが、数学的なシステム研究も60年代頃から盛んになる。たとえば、ワイモア A.W.Wymore（米）の状態機械論である。彼は後に、システムズ・エンジニアリングの国際団体であるINCOSEの初代Fellowにもなった。あるいは、クリア G.J.Klir（チェコ/米）のシステム分類論、メサロビチ M.D.Mesarovic（セルビア/米MIT）の数学的階層システム論などだ。ここら辺の研究者の名前はわたしはあまり馴染みがなく、「 世界大百科事典」の 市川惇信（東工大名誉教授・国立環境研究所長）の記事によっている。<br />
<br />
<br />
最後に、ある種そこから派生したと言っていいのが、システム・ダイナミクスの研究であろう。システム・ダイナミクスの生みの親は、電気工学者で後に経営学者になった、フォレスター J. Forester（米）である。彼のこの分野の最初の著書は「Industrial dynamics」(1961)だ。<br />
<br />
<br />
フォレスターはさらに社会問題のモデル化にも手を広げ、ローマクラブと出会う。ローマクラブはイタリア人実業家ペチェフィが設立したシンクタンクだ。彼らは1972年に「成長の限界」 を発表する。この中で、システム・ダイナミクスにもとづく地球規模の人口・経済・資源・環境のシミュレーションを行い、このままでいけば人類の成長は100年以内に限界に達する、と予測した。<br />
<br />
<br />
このショッキングな報告書は世界でベストセラーになり、社会に衝撃を与えた。シミュレーションを手伝ったメドウズ夫妻は、後に「世界はシステムで動く」 などの啓蒙書を出して、半定性的なシステム・ダイナミクスの見方の普及につとめる。その系譜につながるのが、経営学者センゲの有名な「学習する組織――システム思考で未来を創造する」 であろう。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202202/19/47/e0058447_14584903.png" alt="_e0058447_14584903.png" class="IMAGE_MID" height="362" width="500" /></center><br />
以上、大きく生物学系、社会科学系、そして数学・物理学系のアプローチによる、システムの科学構築の努力を見てきた。ここに挙げた人たちの名前だけが全てだ、と言うつもりはない。ただ、彼らの多くに共通する問題意識は、システムが持つ特性やふるまいを、その構成要素のレベルとは異なる次元で、予測し説明したいと言うことにある。<br />
<br />
<br />
その狙いは成功したのだろうか。科学的還元主義は死んだのだろうか。難しい点である。<br />
<br />
<br />
冒頭に挙げた創発の議論は、この点に関係している。創発という現象に関連して、私が読んだ中で1番驚いたのは、「塩素とナトリウムから、食塩ができあがるが、その塩味と言う性質は、元の塩素にもナトリウムにもないから、創発である」との説明だった。出典は今、覚えていないが、確か欧州かどこかのサイトだったと思う。<br />
<br />
<br />
分子が「システム」と呼べるかどうかは、さておこう。塩化ナトリウムの性質は、完全に予測し説明できるものだ。通常の科学が予測できる現象は、「創発」と呼べるだろうか。<br />
<br />
<br />
この論者は、塩味の元素をまぜて化合したら、塩味の物質が生まれるはずだ、逆に言えば、塩味の物質は、その構成要素も塩味のはずだ。なのにそうなっていないのは不思議だ、と主張しているに過ぎない。これは論者の単純な「足し算の思考」、つまり思考の線型性を示している。<br />
<br />
<br />
創発という現象は、対象としてのシステムに生じるのではない。実は、観測し予測する人間の側の、思考の線型性に、直感的に反するような結果が生じたときに、「創発」と感じられるだけなのだ。<br />
<br />
<br />
現代のシステム論は、もうそろそろ創発論を離れた方が良いと、わたしは思う。還元主義が全てではないのは、その通りだ。足し算思考に限界があるのも、確かだ。だが、工場やプラントというシステムの性能を上げるのには、構成要素の機械の性能を良くする以外にも、その組合せや流し方を改善する、つまりシステム・レベルでできることがいろいろある。<br />
<br />
<br />
システムのレベルにおいて、固有の原理や法則性、技術があることは、明らかだ。だがそれに、創発などという、頭の良さそうな説明書きは、要らない。むしろ逆である。わたし達自身の思考に内在する線型性という、わたし達の頭の悪さを意識してとりはらう努力こそが必要なのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　→「システムズ・エンジニアリングとは何か」 https://brevis.exblog.jp/25682507/ (2017-04-09)<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 19 Feb 2022 15:10:13 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-02-19T15:10:13+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>頭が良くなる方法は存在するか</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29770031/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29770031/</guid>
      <description><![CDATA[過日、母のお墓参りのために鎌倉に行った。その時たまたま連れ合いが、今年は林達夫の生誕125周年に当たると、教えてくれた。ある出版社が、Twitterにそう書いていたらしい。<br />
<br />
<br />
林達夫は長年、鵠沼に住んでいた。だとしたらお墓もこの辺にあるに違いない。そう思ってスマホでネットを調べてみると、果たせるかな、葬られている場所の名前が出てきた。じゃあちょっと足を伸ばして、林達夫のお墓参りにも行ってみるか、と決めた。<br />
<br />
<br />
林達夫は私の最も敬愛する著作家の1人である。この人ほど頭の良い人は、滅多にいない。知的であるだけでなく、価値観も生活態度も高潔清廉で、かつ実際的であった。<br />
<br />
<br />
林達夫の最もよく知られた仕事は、平凡社の「世界大百科事典」の編集長だったことだろう。昭和33年に8年がかりで完成したこの百科事典は、ある意味、戦後の知的世界の海図、ないし灯台の役割を果たした。林は戦後日本の知識人達の、水先案内人であった。<br />
<br />
<br />
百科事典の編纂がどのようなプロジェクトで、そのプロジェクトマネージャーたる編集長が、いかなる能力を持たねばならないのか、今のわたし達には分かりにくくなっている。世の中を理系文系で分けて平然としている、わたし達の鈍感な知的風土にあって、林はどのトピックを拾い、どれを捨て、誰にどの原稿を依頼し、どういう注文をつけるべきかについて、最終的な責任を負った。<br />
<br />
<br />
平凡社の世界大百科事典の記事は全て、著者の名前が最後に括弧書きで付いている。実名主義である。著者は記事の内容について、その正確さと公平さを含めて、保証しなければならない。だが最終責任はやはり、編集長にある。百科事典は高額な商品でもあり、それだけの信頼性が必要であった。これは無料だが匿名・無保証で提供されるネットの辞典に、すっかり飼い慣らされてしまった現代の我々とは、ずいぶん異なる態度である。<br />
<br />
<br />
（ちなみに現在の世界大百科事典は、「ジャパンナレッジ」と言うサービスのもとで、ネットからサブスク・モデルで提供されている。その中には「林達夫」の項目もあり、ほとんどベタほめの内容だが、書いているのは、次の編集長となった加藤周一である）<br />
<br />
<br />
林達夫は、わたしにとって若い頃から、一種のロールモデルであった。林は大学のアカデミズムにこもることもせず、出版ジャーナリズムの実業界で栄達も求めず、常に研究と実務のバランスをとりながら生きていた。<br />
<br />
<br />
若い頃の林は一時、コミュニズムに傾き、戦闘的無神論者であった。後に共産主義からは離れるが、無神論者である事は変わらなかった。念のために書いておくが、西洋で『無神論者』とは、単に神の存在をあまり信じない者ではなく、キリスト教会に積極的に反対する人間、と言う意味である。<br />
<br />
<br />
（もしもあなたが、「自分は神とか仏とか、あまり真面目に信じられないなぁ」と感じていても、西洋で「自分は無神論者だ」などと口走ってはいけない。その時あなたは、周囲にいるキリスト教徒を敵に回すと宣言するのと同じである。<br />
<br />
<br />
単に特定の神仏を信じてないなら、「自分は非宗教的だ」と言えばいい。そういう言い方をする西洋人も、実際、非常に多い。さもなければ、自分はBuddhist（仏教徒）だ、とでも言っておくのが無難である。日本人は宗教に無頓着で、そのため海外でうっかり地雷を踏む人がいるので、あえて述べておく）<br />
<br />
<br />
林達夫が1951年に発表した「共産主義的人間」は、彼のメルクマール的な文章だ。この中で彼は、スターリンとその共産主義を、徹頭徹尾、事実と証拠を挙げて批判している。フルシチョフによるスターリン批判の5年も前のことだ。その当時、スターリンはクレムリン宮殿の中の、いわば無謬の教皇であって、全世界の共産主義者は彼の前にひれ伏すことを専らとしていた。<br />
<br />
<br />
もしも林達夫を知るために、著書を一冊選んで欲しい、と言われたら、私は中公文庫の「共産主義的人間」をお勧めする。薄い本で、戦後5年間に書いた、10余りのエッセイや論文が載っている。古代思想史、宗教、大学、戦争と現代政治に至るまで、その慧眼と予見力は、執筆時期を考えあわせると、驚嘆の一語である。<br />
<br />
<br />
スターリンへの批判を始め、現代世界のおかしさに対し、彼が急角度で切り込むことができたのは、彼が誰かの翻訳や又聞きではなく、源情報に直接あたることを怠らなかったからだろう。<br />
<br />
<br />
もっとも、自分が好きな一冊をと言われれば、哲学者の久野収との対談を収めた「思想のドラマトゥルギー」を挙げるだろう。自分のことをめったに語らない林が、晩年のこの本の中では、自己の知的遍歴を含めて、学び考えるとはどういうことかを、自由闊達に話している。西洋人の書いた本を、ありがたがって読むことが、知識人のシンボルであった時代に、自分の頭で考えるとはどういうことかを、林は身をもって示してきた。<br />
<br />
<br />
真に頭のいい人とは、こういう人のことを言うのだ。<br />
<br />
<br />
頭が良いとは、どういう意味だろうか。このサイトでも、時々考えてきた。わたし達は、頭が良くなれるだろうか。良くなるためには、どんな方法があるだろうか。<br />
<br />
<br />
以前も書いたように、考えることの主たる目的は、問題解決にある。問題といっても、試験問題のように、誰かから与えられるものではない。自分の直面する現実を、より良いものにしようとして、直面するのが問題だ。望ましいのはこうだ、ところで今の状態は、この点が問題である、と。<br />
<br />
<br />
であるから、もしも自分が、もっと頭が良くなりたい、と思うなら、とりあえず「自分は頭が悪い」と認めることから、始まなくてはならない。いいですか？　思った？？<br />
<br />
<br />
では、頭が良いとはどういうことなのか。<br />
<br />
<br />
何か問題を考えるときは、まず、<br />
「この問題は、世界で初めて、自分が気づいて取り組んでいるのか？　それとも、すでにこの問題について、考えてきた人たちがいるだろうか？」<br />
を検討するのがよろしい（ちなみにこのチェックリスト的な設問は、次世代スマート工場の研究会仲間で、とても頭の良い人である渡辺薫氏の、教育資料に依っている）。<br />
<br />
<br />
そこですぐ思い出すのが、知能テストである。知能指数、いわゆるIQを調べるテストだ。知能指数が高ければ、頭が良い。ふむ、なるほど。そこですぐ、調べてみることにする。もちろん世界大百科事典を、だ(笑)<br />
<br />
<br />
すると、こういうことが書いてある。知能はおおむね3種類に大別できる。適応力、抽象的思考力、そして学習能力である。それらは相互に関係がある。そして「一般には，知能とは知能テストで測定される能力であるという操作的定義（測定操作による定義）が，採用されている」とある。ただしこの記事の著者・滝沢武久は発達心理学者なので、どちらかというと青少年の知能について書いていると見るべきだろう。<br />
<br />
<br />
ちなみに知能指数自体は、小学校2年生以後はあまり大きく変化しないという。また知能には遺伝的要因があることも、多くの証拠が示している。だとすると、アタマの良し悪しはほとんど生まれつき、ないし子どものうちに決まってしまい、大人になってからジタバタしても良くはならない、という事になりそうだ。<br />
<br />
<br />
しかし、そうなのだろうか。そこで、知能検査の主流であるウェクスラー式についてネットで調べると、「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」という4つの指標と、それらを合わせた総合的な指標（全検査 IQ）で個人の特性を評価します、という記事が見つかる（https://www.kaien-lab.com/faq/2-faq-diagnosis/wais-iv/）。<br />
<br />
<br />
言語能力、空間知覚と推理能力、短期記憶、そして頭の回転の速さ。これがIQ、すなわち世でいう頭の良さである、と。もちろんこれらは大切に違いない。しかし私たちが、「あの人は頭が良い」と言う時に、これで全部カバーされているのだろうか?<br />
<br />
<br />
例えば、「物知り」である事は、頭が良いと言われる大事な条件ではないだろうか。いろいろなことを知っている、知識量。それから、優れたアイディアを思いつくのも、頭の良さの1つではないか。そうした事は知能テストで測れるのだろうか。<br />
<br />
<br />
あるいは、一見バラバラな出来事を結びつけたり、パターンに「気付く」能力も、頭の良さの一部だ。どうやら知能テストと、我々が求める頭の良さの間には、ギャップがあるらしい。<br />
<br />
<br />
そもそも頭が良くなりたい理由は、問題解決をしたいからだ。そして問題解決については、前回の記事で5つのステップからなっていると書いた。検知、予測、決断、伝達、行動、の5つである。最後の「行動」は、頭の良さに関係ないので外すとしても、残る4つをどう高めるかが問題だ。<br />
<br />
<br />
ちなみに「決断」の中には、解決策（選択肢）を思いつくことと、評価して決めることが含まれる。すなわち、気づく力、見通す力、思いつく力、決める力、伝える力、の５つだ。パターン認識、推論、創造、比較考量、言語化、と言いかえてもいい。これらの能力を、どうしたら高めることができるのか。<br />
<br />
<br />
どういう方法があるかを考える前に、まず、そういう方法が存在するかどうかを検討してみよう。人間の能力は生まれつきだ、遺伝的なものだ、と考えるならば、アタマを良くする方法など存在しないと言うことになる。<br />
<br />
<br />
しかし、上記の５つの能力をより生かすのに必要な基盤（資源）として、十分な知識量がいる。さらに、諸能力をバランス良く使いこなす、メタ能力（センス）が大事となるはずだ。こうした事は学んだり、訓練したりすることができる。<br />
<br />
<br />
およそどのような能力であれ、身に付けるためには3つのことが必要だ。第一に、良い先生を見つけること。先生が見つけられない場合は、良いロールモデルを見つけること。2番目に、基本的な原理・方法を一応学ぶこと。そして3番目に、繰り返し練習すること。<br />
<br />
<br />
特に最後の、自分で繰り返し練習する事は、重要だ。これなしに優れた能力が身に付く事は、絶対にない。すなわち自分で問題を立てて、考えることである。人から与えられた問題を解くだけでは不十分で、自分で問題を立てて解くことが必要だ。たとえ人から命じられ要求された問題でも、自分でその枠組み・フレームワークを捉え直して、問題を再設定する取り組みから始めた方が良い。<br />
<br />
<br />
またある程度の思考体力をつけるためには、比較的長めの論理的な文章を読むことが大切だ。たくさんのステートメントを、つながりを頭に置きつつ、繰り返し追いかける事は、推論や創造、そして言語能力を高めることに役立つ。<br />
<br />
<br />
2番目の、考えるための原理・方法はどうだろうか。思考の技法（テクニック）的な事柄については、世の中にたくさんの本が出回っている。だが、その根幹になる原理（プリンシプル）となると、やや心もとない。それでも例えば、哲学は多少の役に立つ。哲学（論理学を含む）は、真理探求の方法論だからだ。<br />
<br />
<br />
では、先生は。あるいはロールモデルは？<br />
<br />
<br />
そう。わたしにとって、若い頃からのロールモデルの1人が、林達夫だった。<br />
<br />
<br />
彼が生きたのは、2つの世界大戦をまたぐ、困難な時代だった。彼の考え方は、大勢の主流派とも異なり、かつ、反体制の主流派だった共産主義とも異なっていた。彼を守ってくれる会社も党も組織もなかった。それでも彼は、自由に思考する人だった。考えれば、必ず、活路は開ける、と信じていたに違いない。<br />
<br />
<br />
考える能力は、たいていの人に与えられている。しかし、考えることが妨げられている思考停止領域があると、ちゃんと考えられないものだ。思考停止領域は、ドグマや、イデオロギーが、自らの影として生み出す。ちょうどスターリン批判が許されなかった、共産主義社会のように。軍部の批判が許されなかった、戦時中の日本のように。<br />
<br />
<br />
その日本が負けたとき、しかし彼は「文字通り滂沱として涙を止めなかった」と書いている（「新しき幕明き」）。こういうことを書く知識人は、実は本当に珍しい。でも彼は歴史家として、戦争に敗れると言うことの暗い恐ろしさを、よくよく知っていたのだ。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202112/06/47/e0058447_00055635.jpg" alt="_e0058447_00055635.jpg" class="IMAGE_MID" height="375" width="500" /></center><br />
その日は、夕方から霧雨になった。林達夫の墓標は、変哲もない市民墓地の片隅にあった。いかにも生涯、無神論者であった林にふさわしい。小さな、明るめの色合いの、横長の墓石に「林」と書いてあるだけで、墓碑銘は何もなかった。<br />
<br />
<br />
建立されたのはご家族の方らしい。だが、そのために墓碑銘がなかったのではあるまい。おそらくご本人が、そういうものを一切望まれなかったのだ。その点も、とても林達夫らしいと感じた。知的な高潔さとは、こういうものなのだ。<br />
<br />
<br />
プライドとは、国中に自分の銅像を造らせることではない。Prideという英語を、あるとき連れ合いは日本語に訳そうとして、自負とか自尊心とかいった、誤解され手垢のついた言葉を避け、「気高い心」という言葉を選んだ。それは他人に自分を尊敬させたいという、いやしい欲望とは無縁の言葉だ。誰にも屈せず、誰にも属さず、自由に考えること。わたしが何より林達夫に見習うべきなのは、その点だったのではないだろうか？<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　→「アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ」     (2021-02-14)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 06 Dec 2021 00:11:23 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-12-06T00:11:23+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>再び、モノサシを疑え</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29751082/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29751082/</guid>
      <description><![CDATA[「モノサシを疑え」という記事を書いたのは、2004年春のことだった。4月なので、世の新入社員向けに訴える形にした。世の中が勝手に押し付けてくるモノサシ、つまり評価尺度を鵜呑みにして、それに自分を合わせようとしない方が良いよ、という趣旨だ。 <br />
<br />
<br />
<br />
わたしが自分の書いたすべての記事の中で、1本だけ選べ、といわれたら、この「モノサシを疑え」をとるだろう。アクセス数の面では、とくにヒットした訳でもない。比較的短い記事で、図表もない。だが、思考のアプローチ、価値観の持ち方、製造業を例に取ったシステムに内在するトレードオフ、そして文章のリズム感など、わたしのこだわる要素が、こもっている。 <br />
<br />
<br />
ちなみに当時わたしは、「革新的生産スケジューリング入門」というサイトをメインに運営していて、まだExciteのブログである「タイム・コンサルタントの日誌から」は始めていなかった。この記事をブログに転載したのは、2010年になってからのことである。当時のメインのサイトは、元々、2000年の4月に、同名の拙著『革新的生産スケジューリング入門』の正誤表を含む、一種のアフターサービス・ページとして出発した。スタティックなHTMLで、文章もタグも全部自分で書いていた。 <br />
<br />
<br />
何年か後に、ブログという便利な仕組みが登場したので、併用することにした。それがExciteの「タイム・コンサルタントの日誌から」である。でも結構長い間、旧サイトとを並行運用した。ブログは複数の記事を構造化し、順番をつけて読者に提示するには不便だからだ。旧サイトは2017年に、プロバイダーのサービス停止をきっかけに、WordPressを使った別サイトに移行した。しかし、どうもWordPressが肌に合わず、結局そちらは更新を止めて、アーカイブ的な位置づけになっている。 <br />
<br />
<br />
ともあれ、わたしのこのサイトは、かれこれ20年以上も続いている訳だ。週1回ペースを心がけようとしてきたが、実際には平均8〜9日おきに1本、書いている。書き続けるネタがよく尽きなかったとも思うが、何よりも、読んでくださる読者の皆様のおかげと感謝している。 <br />
<br />
<br />
これまでを振り返ってみて、「モノサシを疑え」を書いた頃は、ちょうど自分にとって転機となる時期だったと感じる。その前までは、自分はテクノロジーの進展と世の進歩を、世間並みに信じていたように思う。2000年に生産スケジューラAPSの本を書き、同時期に共著で製造実行システムMESの本も出した。その前はERPやSCMの本も、共著で書かせてもらった。情報処理技術者試験のプロマネの参考書も、出していた。 <br />
<br />
<br />
ビジネスという競争社会の中で、本も書いて名も売ったし、テクノロジーに明るい専門家として、時流に乗って先端を行けるものと、楽観的に信じていたようだ。そして新技術を適用すれば、多くの企業の問題も不況も解決できるはずだ、と。だがこの記事を書いた頃から、だんだんとわたしは、そうした楽観論に懐疑的になってきた。 <br />
<br />
<br />
問題はテクノロジーではなく、むしろ、わたし達の考え方、思考習慣の方にあるのではないか。世の中の多くの人を導く、Guiding Principle＝指導原理が間違っている。それは、おかしな価値評価尺度と、競争原理とが組み合わさった形で、わたし達を方向付けようとしてくる。そこに気づかないと、問題を解決するどころか、問題を深めてしまう。そういう風に、次第に思うようになった。 <br />
<br />
<br />
一つ例を挙げよう。成長率である。「経済成長」という言葉を世間が使うとき、それはGDP（国内総生産）の成長率を意味している。この数字が上がるかどうかで、政治家も財界もメディアも一喜一憂する。 <br />
<br />
<br />
だが、GDPとは何か。これは一定期間内に、国内で新たに生み出したモノやサービスの付加価値の総計である。「国内で」だから、日本企業が海外で生み出した付加価値は含まれない。トヨタやソニーがいかに海外で活躍しようが、それはGDPには算定されない。 <br />
<br />
<br />
そして、GDPは「売上」の合計でもなければ「利益額」の合計でもない。貴方の会社が今年10億円の売上増加を達成しても、その結果2億円の経常利益を上乗せしても、それ自体は経済成長＝GDP成長率にはカウントされない。GDPとは「付加価値」の合計だからである。 <br />
<br />
<br />
じゃあ、付加価値とは何か。 <br />
<br />
<br />
「付加価値の高い製品を、消費者に提供しなければ」とか、「高付加価値なサービスは、お客様を満足させられる」とかいう言い方を、よくきく。だが、残念ながら、このような言葉の使い方は、完全に間違っている。付加価値とは消費者に渡したり、顧客が感じたりできるものではない。少なくとも、経済学的な付加価値とは、そういう種類のものではない。 <br />
<br />
<br />
国内総生産GDPが付加価値の総計だ、という場合、その「付加価値」とは、売上から外部コストを差し引いた金額を指す（より厳密には「粗付加価値額」とよぶ）。あなたの会社が、外部から100円のモノを買ってきて、自社内で見事に加工して、1,000円の製品として売ることができれば、それは1,000 - 100 = 900円の付加価値を生んだのだ。社内の労務費・人件費とか、機械設備の減価償却とかは、計算に入れない。外に出て行く原材料コストだけを、問題にする。 <br />
<br />
<br />
また、もしも加工作業を、3Kでめんどくさいし、ウチは「高コスト体質」だからと、外注に出したらどうなるか。もし外注費が250円かかったら、あなたの会社の付加価値は、1,000 - 100 - 250 = 650円で、前よりも減ってしまうのだ（ただし、外注加工を受託する会社は、売上増250円の何割分か、付加価値を増やすだろうが）。 <br />
<br />
<br />
こうしてみると、「消費者は付加価値の高い製品を選ぶ」などというのは、間違いだと分かる。だって消費者にとって、そのメーカーの外部コストなど知りようもないし、選ぶ際に考慮もしないからだ。「高付加価値なサービスなのでお客様が満足する」も、同様に嘘だ。だって、サービスの元ネタを業者がいくらで買ったかなど、分からないではないか。あなたは帝国ホテルがどんな出費をしているか、知っているだろうか。それでも、東京のゴージャスな宿泊先を選ぶのには、関係ないではないか。 <br />
<br />
<br />
つまり、上記の「高付加価値な製品・サービス」という文言は、じつは「価値の高い」製品・サービスと表現すべきなのである。消費者が買う製品やサービスの価値は、買ってみれば分かる。そして、あなたの会社が、いかにゴージャスで価値の高い製品を増やそうと、それだけでは経済成長には結びつかない。ゴージャスな製品で売上は増えたが、もし原材料の外部コストも同額だけ増えたら、付加価値は変わらないのだから。 <br />
<br />
<br />
ちなみに、日本のGDP（名目）は、年間540兆円程度である。日本の勤労人口は6,000万人強だから、一人あたりの付加価値額は、約900万円ということになる。 <br />
<br />
<br />
そして企業は、この付加価値から、社員の人件費や減価償却費や税金などを支払うのだ。付加価値の内、何%を人件費にあてるかを、「労働分配率」とよぶ。日本の労働分配率は全産業平均で、65〜70%程度ということになっている。 <br />
<br />
<br />
労働分配率と成長率は、直接は関係がない。分配率は付加価値の内訳に関する数字で、成長率は付加価値全体の伸びを示す。船にたとえてみれば、積み荷の前後のバランスと、航行速度みたいに、独立したものだ。だから、「成長なくして分配なし」とか、「成長が先か分配が先か」といった議論は、あまり意味がないことが分かる。もちろん国民経済という全体システムの中では、いろいろな媒介項をへて関係し合っているから、まったく無意味とは言わないが、あまり筋のよい問題の立て方とは言えまい。 <br />
<br />
<br />
話を戻そう。30年近い不況の間、わたし達の社会は、経済成長率を主要な「モノサシ」として、政策や景気を論じてきた。モノサシの計算結果だけ、第2四半期はマイナス0.3%だったとかいう風に、天下り的に公表される。 <br />
<br />
<br />
そしてたいていの人が（政治家や経営者も含めて）、そのモノサシが具体的にはどういう意味かを疑わずに、受け入れてきた。その事は、上に書いた外注化の損得や、分配率の議論の混乱を見ればよく分かる。 <br />
<br />
<br />
数字で測られ、目標値を与えられたら、あとはその理由は問わずに、馬車馬みたいに働く。なぜ、そのモノサシなのか、なぜ、その目標なのか。そこは考えない。そういうメンタリティが、この社会ではよしとされるらしい。受験競争など、その典型だろう。「良い学歴」という謎のモノサシを、疑わずに受け入れる青少年だけが、入試のための勉強という意味不明な苦行を乗りこえて、栄冠を勝ち得ることになっている。 <br />
<br />
<br />
良い学歴を得た人は、社会に出て大企業だの官公庁だのの主要ポジションを得る。そしてまた、売上やら営業利益やら経済成長率などのモノサシを、疑わずに受け入れて、しゃにむに頑張るのである。そのモノサシは、たいていの場合、ずっと以前に設定されたまま、受け継がれているだけだ。誰がいつ設定したのか、現在の状況ではどのような意義があるのか、といった事は検討されずに棚上げになっている。 <br />
<br />
<br />
誤解しないで欲しいのだが、わたしはGDPや経済成長率といった指標をやめるべきだ、と主張しているのではない。その意味と意義を再検討しよう、と言っているだけだ。そして、もしそのモノサシだけでは偏りが生じる心配があるなら、もう少し別の指標も併用を検討したら良いと思う。 <br />
<br />
<br />
たとえば（分配に関連する議論を続けるなら）、多くの企業の経営ビジョンやら経営計画を見ても、「社員の給料をもっとずっと上げる」ことをうたったものは、ほとんどない。経済団体もそんな事は言わない。むしろ、いかに「人件費を抑制するか」に、頭をひねっている感じだ。 <br />
<br />
<br />
しかし、もし真に優秀な人材を集めたいなら、そしてすぐ転職退社されたくないのなら、高い給料を払うべきというのが、市場経済の原則ではないか。事実、すでに管理職の給与水準は、韓国やシンガポールなどに追い抜かれている。現地ではもう、本社より高いお金を払わないと、有能なマネージャーを雇えなくなった。 <br />
<br />
<br />
言うまでもないが、この日本という小さな島国には、人財しか資源がないのだ。だとしたら、人財に投じる投資＝報酬を高くするにはどうしたら良いか、それでも競争力を維持するには、どんな戦略を講じるかを、必至に考えるべきだろう。言いたくはないけれど、インダストリー4.0を提唱したドイツは、そういう問題意識で考えていたよ。 <br />
<br />
<br />
わたしは「モノサシを疑え」の記事の中で、入社式で訓示する経営者を皮肉った。だが別に、会社がお金儲けをする事自体は、悪い訳ではない（当たり前だ）。ただし、お金儲けだけをずっと追求し続けると、副作用を組織の内外にもたらすことが多い。だからステークホルダー資本主義とか、インパクト加重会計といった考え方が表れてきたのだ。これは建前とか美辞麗句の話ではない。企業が生き残るためには、お金儲けというモノサシ以外にも、別のモノサシが必要なのである。 <br />
<br />
<br />
もう少しシステム工学的な言い方をするならば、たった一つの指標だけでシステムを運営するのは良くない。システムには、トレードオフが内在する。だから一つの指標だけを追いかけると、必ず歪みが生じてくる。 <br />
<br />
<br />
内部に人間系を含むシステムの場合、人びとはその指標に合わせて行動するようになり、さらに事実認識や思考方法も、次第にその指標に都合の良い風にバイアスがかかるようになっていく。正しい情報が伝わらなくなったシステムは、適応性や永続性を失う。 <br />
<br />
<br />
そうしたことを、昔の人はすでに良く知っていて、「人は神とお金という二人の主人に、同時に仕えることはできない」というような事を言ったのだろう。単純な、単線的な価値観でなく、複雑で多層的な世界との共存。それがおそらく、成熟ということなのだ。 <br />
<br />
<br />
成長だけを追い求めるのは、成長期の青少年のすることである。モノサシを疑う人は、おそらく成長から成熟へと、曲がり角を曲がろうとしているのだ。わたし達にとって成熟とは何かを、本サイトでは引き続き考えていきたい。 <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 17 Nov 2021 23:56:33 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-11-17T23:56:33+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>素早く考える能力、じっくり考える能力</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29429476/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29429476/</guid>
      <description><![CDATA[今でもよく覚えているが、浜松駅の新幹線のホームでのことだった。東京行きの列車に乗ろうと、ステップに足をかけた瞬間、突然わたしは、プロジェクトにおける「失敗のリスク確率」という概念に思い当たったのだった。新製品開発プロジェクトにおける仕事の難易度を、確率の概念で表せれば、貢献度は期待値の計算に帰着できる。このアイディアは、それまで2週間あまりの間、自分を悩ませてきた問題への、解決の突破口となった。 <br />
<br />
<br />
その問題とは、当時、巨額の賠償金判決が出て話題になっていた、『青色ダイオード』開発プロジェクトをめぐる貢献度の訴訟だった。発明者の貢献は、事業化した会社の得た利益額の半分以上ある、というのが一審の判決だった。だが、この問題は、「半分以上」といった定性的な判断ではなく、きちんとした定量的な計算が可能なのではないかと、わたしは考えた。 <br />
<br />
<br />
それは、プロジェクトを構成するアクティビティが、プロジェクト全体に対して、どれだけの貢献価値を持つのか、という問題だった。そして、浜松駅のホームでの着想と、その後の数日間の展開で、きちんと数式で解けることが明らかになった。そればかりか、このアイディアを中心テーマに、数年後には自分が博士論文（「リスク確率に基づくプロジェクト・マネジメントの研究」）を書くことになるほど、重要な思いつきだった。 <br />
<br />
<br />
でも、その思いつきは、わたしが机の前でウンウンうなっている時に、生み出したのではない。出張先の、ふとした瞬間に、とつぜん訪れたものだ。それと似たような経験は、何度もある。夕食後に皿を洗っているとき、会社への道すがら電柱をふと迂回したとき、あるいはスポーツクラブで風呂に入って汗を流した瞬間。大事な発見が、天からふったように、突然おりてきたのだ。 <br />
<br />
<br />
ただし。自分のことだからよく知っているが、アイディアが「天から」下りてくる前に、わたしは解きたい問題について、かなり長い時間、考え続けていたのである。考え続けて、疲れて、ぼんやりしながら別のことをしている時に、急に解決策を見いだすのだ。その前にずっと考えていなければ、アイデアは降ってこない。先に考え続けることは、投資のようなものだ。投資しなければ、リターンは来ない。ただ、ぼおっとして新幹線のホームに立ち続けたって、何も思いつくはずはないのだ。 <br />
<br />
<br />
わたし達は毎日、「考える」という行為を続けている。このサイトの読者は、知的労働に従事している方がほとんどだろうから、毎日、考えることが仕事の中心にあるはずだ。 <br />
<br />
<br />
もちろん、知識労働者でなくったって、誰もが毎日、何かを考えながら暮らしている。今夜の晩ご飯は何にしましょうかとか、進学先はどの学校にしようかとか、もっと楽して簡単に儲ける方法はないのか、とか、あの人にどうやって思いを伝えようか、とか。 <br />
<br />
<br />
ただ、その「考える」には、2種類のモードがあると思う。それは、「素早く考える」のと、「じっくり考える」との２つである。 <br />
<br />
<br />
素早く（速く）考える、とは、なるべく短時間に結論を出すような、考え方のモードである。比較的、時間に期限のあるようなタイプの問題や、納期に追われる種類の仕事などでは、必然的に、このモードが求められる。「ファースト型思考」と言ってもいい。 <br />
<br />
<br />
ファースト型の思考では、問題が、自分の知っている解決パターンのどれに合致するかを、瞬時に判断することが求められる。そのためには、ある程度たくさん、解決方法を覚えておいて、すぐに記憶から取り出せる能力が必要だ。その一番の典型は、入試問題である。 <br />
<br />
<br />
ファースト型の思考が得意な人は、「割り切り」も上手な傾向がある。たとえば、XはAなのかBなのかを問う判別型の問題とか、式の計算のような論理展開型の問題も、ある程度まで考えて、結論らしき点に到達したら、あとはすぱっと割り切ってしまう。いいかえると、比較的、シンプルで単純化された論理を好む。 <br />
<br />
<br />
これに対して、じっくり考えるモードは、探索型のアイデア創発や、デザイン型の問題、切り口の見えにくい複雑で悪構造な問題を解く際に、必要となる。こちらを「スロー型思考」とよぼうか。わたしが浜松の駅で抱えていたのは、スロー型でとりくむ種類の問題だった。スロー型は、文字通り、考える時間を必要とする。 <br />
<br />
<br />
（なお、本記事での、ファースト思考・スロー思考という呼び名は、D・カーネマン著「ファースト＆スロー」にヒントを得たものだが、必ずしもカーネマンの言うシステム１・システム２に対応しているものではない。むしろ、仕事におけるファースト型思考は、それなりに論理的な手数を要するので、脳におけるシステム１と２の両方の領域にまたがった作業であろう） <br />
<br />
<br />
この２種類の思考モードは、誰もがいろいろな局面で求められる。どちらか片方だけですむ訳ではない。だから皆、｢両利き」であることが求められる。ただ、人によって、得意・不得意はあるだろう。 <br />
<br />
<br />
わたし自身はスロー型思考の人間である。つまりまあ、じっくり考えるタイプで、それが好きだ。もちろん、ファースト型思考が得意な、即断即決タイプの人もいる。組織には、両者が必要なのだ。あえて分類すれば、ファースト思考は演繹や決断が上手であり、スロー思考は帰納（気づき）・発想が得意だと見ることもできる。 <br />
<br />
<br />
このうち、ファースト型の思考の方は、わたし達の住むような学歴社会では、誰もが試験勉強で鍛えられることになる。そして、記憶術や、暗算・推理や、決断などの技法については、それなりに参考書もたくさんある。 <br />
<br />
<br />
それに対して、スロー型の思考については、あまり学ぶ機会が多くない。しいて言えば、日本生まれのKJ法などは、ある種の情報整理と発見のための技法になっているが、アイディアを生み出す部分が、やや弱い。 <br />
<br />
<br />
わたしが知る中で、アイディアを生み出すスロー型思考のプロセスを、一番丁寧に解説しているのは、ジェームズ・W・ヤング著『アイデアの作り方』である。薄い本だが、帯カバーの文句にあるとおり、 <br />
<br />
<br />
　「60分で読めるけれど、一生あなたを離さない本」 <br />
<br />
<br />
だと言える。著者のヤングは米国の広告業界で長く活躍した人で、アイデアを核とした広告の第一人者だった。ヤングは最初の方でこう書く： <br />
<br />
<br />
「アイデアの作成はフォード社の製造と同じように一定の明確な過程である。（中略）その作成に当たって私たちのの心理は、習得したり制御したりできる操作技術によってはたらくものである。そして、なんであれ道具を効果的に使う場合と同じように、この技術を修練することが、これを有効に使いこなす秘訣である」（P.18） <br />
<br />
<br />
つまり、じっくり考えるモードによって、新しいアイディアを得るプロセスは、コントロール可能な技術であって、練習によって身につけられる、という。また、彼はこうも書く。 <br />
<br />
<br />
「どんな技術を習得する場合にも、学ぶべき大切なことはまず第一に原理であり、第二に方法である。これはアイデアを作り出す技術についても同じことである」（P.25） <br />
<br />
<br />
では、その具体的な方法とは何か。それは、5つのステップからなっている。 <br />
<br />
<br />
(1) 資料集め： <br />
<br />
<br />
　課題のための「特殊資料」（製品や顧客などについての資料）と、世のあらゆる興味深い事物に関する｢一般的資料」を、広範に集める。 <br />
<br />
<br />
(2) 資料の消化・組合せの探求： <br />
<br />
<br />
　集めた資料に目を通しながら、様々な要素の組合せについて、探求する。新しいアイデアというのは、既存の要素の組合せから生じるからだ。これを、飽きるまで徹底的に行う。 <br />
<br />
<br />
(3) 孵化段階： <br />
<br />
<br />
　探求をいったん放棄し、問題を意識の外に移す。ちょうどシャーロック・ホームズが急に音楽会に行くように、想像力や感情を刺激するものに心を移す。 <br />
<br />
<br />
(4) アイデア誕生： <br />
<br />
<br />
　その結果、思いもよらない時に、突然アイデアが訪れてくる。真夜中に目覚めたとき、ひげを剃っているとき、風呂に入っているとき、など。 <br />
<br />
<br />
(5) 具体化・展開： <br />
<br />
<br />
　生まれたアイデアを、現実の過酷な条件に適合させるために、忍耐強くたくさん手を加えて育てる。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/01/47/e0058447_23341237.jpg" alt="_e0058447_23341237.jpg" class="IMAGE_MID" height="452" width="500" /></center><br />
上記が創造までの5ステップである。言うまでもないが、最初の2つの段階は、かなり時間を要する。しかし、ここを大急ぎで通り過ぎても、よい結果は生まれない。つまり、「じっくり考える時間」が必須なのである。 <br />
<br />
<br />
なお、上記のプロセスはごく単純化し、はしょって説明している。できれば同書の、いきいきとした実例を見て、もっと具体的にはどんなツールを使い、どんな風に頭の中を動かすのか学んでほしい。そうすることで、わたし達は自分の『思考体力』を、向上させることができる。 <br />
<br />
<br />
思考体力とは、考え続けるための、一種のスタミナである。じっくり考えるべき問題を、十分に取り組まずに途中で諦めて、手近な解決に取りすがる例を、わたし達はしばしば見かける。それはとても、もったいない。本当は、上記のような思考の技術を、高校や大学などで教えて、皆が身につけるべきなのだ。あるいはせめて、「スローに考える」モードの大切さを、世の中が広く認知すべきだと思う。 <br />
<br />
<br />
わたし達が、途中で諦めずに、十分じっくりと考えられるようになるためには、いくつか必要な条件がある。 <br />
<br />
<br />
・自分には考える能力が（人並みかそれ以上に）ある、と信じること <br />
・考えれば、必ず、道は開ける、と信じること <br />
・考える時間を作り、あきらめずに、考え続ける習慣・態度を身につけること <br />
・考えるという行為それ自体を、好きになること <br />
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教育という仕組みの本来の目的は、こうしたことを身につけることにあるのではないだろうか。 <br />
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もちろん、ファースト型とスロー型には、適性があるから、自分の適性を知ることも大切だ。また、あなたがマネージャー職にある人なら、適性にあった仕事の配分をする工夫も、重要だ。 <br />
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知的労働が中心となる職場では、ファーストとスローの使い分けも考えるべきだろう。たとえば、中心部分のアイデアはスロー思考で作り上げ、その展開と実現化はファースト思考で進める、といった具合である。職場では、リーダーは即断即決・割り切りタイプの人が、任せられることが多い。だが、全体を統括する立場にあるリーダーは、スロー思考も大切にしてほしい（自分が不得意な場合は誰かにやらせるのでも良い）。手足となって働くメンバーは、逆にファースト思考を訓練する、なども必要だろう。 <br />
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「両利き」が理想だといっても、皆が多忙なわたし達の社会では、どうしてもファースト型思考の方が中心になりがちだ。そしてもちろん、ファースト思考の利点は多い。だが、ファースト型思考の最大の問題点は、「システム」をうまく扱えないことだ。 <br />
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現実の、ある程度以上の規模のシステムは、複雑な要素間の依存関係や、多重のフィードバック・ループを持つ。たとえば、「工場という名のシステム」を考えてみれば分かる。ファースト思考は分解と割り切りが得意なので、システムを縦割りにして、各部分に目標やKPIを配って、あとは足し算で成果が出る、と信じがちだ。だが、単純な足し算だけで結果を予想できないのが、システムというものの特性である。 <br />
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わたし達の社会が、ある程度以上の規模のシステムを作り上げる仕事になると、急にパフォーマンスが落ちる現象を、あちこちで見かける。最近の、コロナウィルス・ワクチン接種の仕組みをめぐるゴタゴタ騒ぎなどは、遺憾ながらその実例に思われる。 <br />
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優秀なエリートの集まる中央省庁がリードしていながら、なぜ、そうなるのか。それは、ファースト型の思考に慣れた人たちが、時間に追われながら仕事をしているためかもしれない。だが、あいにく、大規模なシステムの基本設計段階を、大急ぎで走り抜けたら、たいていは後から面倒なツケが回ってくるのだ。少数でもいいから、組織にスロー型思考の人材を配員して、マクロな視点からじっくり考えることも必要である。諺にも言うではないか、「急がば回れ」と。 <br />
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＜関連エントリ＞　 <br />
　  (2021-02-22) <br />
　 (2021-02-14)<br />
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      <dc:subject>F1 思考とモデリングの技法</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 01 Mar 2021 23:41:20 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-03-01T23:41:20+09:00</dc:date>
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