人気ブログランキング |

カテゴリ:考えるヒント( 102 )

センスのある人と、「カッコいい」で動く人

  • 美意識ということ

このとろこしばらく、ガラにもなく「美意識」ということについて考えていた。

きっかけは、システム・モデリングである。モデリングという仕事には、サイエンスの部分とアートの部分がある。対象を分析し、その性質や挙動を定量的に推測する部分には、明らかにサイエンスが必要だ。と同時に、良いモデリングの仕事では、モデルのできばえ=「美しさ」が大切になる。

美しいモデルを発想する部分は、一種のアートである。ちなみに、英語の”Art"は、日本語のアートよりも広い意味を持つ。Artとは、熟練した感覚を要する「技芸」「方法」といった語感である。だから、芸術を意味するときは、あえて"Fine art"という風に限定する。

ともあれ、アートの基本には美意識があるのは間違いない。発達した美意識は大切だ。だが、発達していない美意識というものもあって、それは危険だ——今回は、そんな話になる予定である。

  • 真善美と価値基準

真・善・美」は、人間にとっての最大の価値だ、というギリシャ的観念が、西洋には伝統的にある。あえてこの三つを同格に並べる、というところが、とてもギリシャ的だ。少なくともインドや中東など、他の古典文明では見られないのではないか。

西洋の学問の基礎は、この三つに対応して、
 真理を探究する方法: 哲学
 善を実践する方法: 倫理学
 美を追究する方法: 美学
という風になっていると考えられる。この三つの学問はは、知性・実践・感性という、人間の精神が持つ三つの側面に対応する、ということになっている。
(注: ただし上記の枠組みが確立したのは、近世以降のドイツ観念哲学から、という説明もある)

もちろん真・善・美の三つが、いつでも重なるとは限らない。というか、しばしば重ならないのだ。たとえば、「真実」はつねに美しいとは限らない。また、真実がつねに善であるとも限らない。人はむしろ、真・善・美のうち、どれを取るか、というジレンマに直面しがちだ。

では、人間の決断や行動を決める価値基準は、上記三つが主なものだろうか?

そんなことはない。まず、「損・得」がある。また、「勝ち・負け」もある。この二つも、しばしば両立しがたい。だから、勝ちを譲ってでも、得を取る人がいる。逆に、損をしてでも、勝ちたい人もいる。つまり、この二つの価値軸は独立である(数学的にいえば軸が直交している)。

そしてもちろん、「好き・嫌い」もある。愛憎は紙一重だ(損得や勝敗だって紙一重ではあるが)。好きな相手なら、負けてやってもいい、あるいは損をしてもいい、という判断は、大いにあり得る。こういう人達は、損得より勝ち負けより、『好き』が大事なのだろう。だから、この価値軸も独立している訳だ。

  • ビジネスにおける価値基準の優先順位

では、上にあげた6種類の価値軸の中で、どれが一番強いのか? 一番上位に来る価値基準はどれか? もちろん、一貫性などなく、そのときどきなのかもしれない。だが、ある種の傾向を人は持っているものだ。

そりゃあ一番は損得だ、という人も多いだろう。ビジネス界では、それがトップに来るに違いない。何といっても、利益追求が企業のビジネスの最大の目的だ。

ついで、勝ち負けだろう。勝たなければ、利益は得られない。そういう信念を、皆が持っている。Win-winなどという、美しい言葉もあるが、たいていはゼロサムゲームである、と。

そして、経済合理性を追究するのがビジネスである以上、次は知的であること。つまり知性(=真)が重要である。頭が良いことは、素晴らしいことだ、と。まあ一応、最近はコンプライアンス(=善)とか環境SDGsとかあるし、実際にはこんな風になっているかも知れない。

 得>勝>真>・・・善>・・美その他

だが、わたしはこうした通念に、最近疑問を持つようになった。じつは、多くの人は、美意識を第一にして動いているのではないか? 美意識に従う人の特徴を考えると、そう思えてきたのである。

  • 美とセンスと『カッコ良さ」

美を体験すると、人は視覚・聴覚など五感による感覚への集中が起きる。脳のリソースは、感覚と思考の両方に同時には向けられない。だから、美は一時的な思考停止を導く。美意識を価値観の中心に置く人は、あまり深く考えなくなる。直感で、ぱっと決める。「迷わない」ことは、カッコよさの一つの条件でもある。

では、スティーブ・ジョブズは「考えない人」だったのか?

そうではあるまい。彼は確かに、製品の「美」にこだわる人だった。直感的に行動した人のようにも思える。だが、彼には少なくとも明確な「センスの良さ」があった。

「センス」とは持って生まれるしかないものなのか。いや、センスは磨くこともできるものである。そのために、アーティストは修業時代を過ごすのだ。

クリエーティブな仕事をする人は、磨き抜かれたセンスと、深く考え続ける能力の両方を持っている。ジョブズ自身はデザイナーでもエンジニアでもなかったが、製品のプロデューサーとしてすぐれて創造的だった。

美のクリエーター達が、美意識を行動基準の中心においているのは間違いない。ところで、クリエーションはしないけれど、美を重視するタイプの人もいる。生産者ではなく、いわば消費者として、美を求める人達だ。この人達が大事にする言葉、たよりにする美の形式=それが「カッコいい」だ。

カッコ良さは、真でも善でもなく、勝ちでも得でもない。あきらかに美の一形式である。ただ、それは消費形式の一種なのだ。

少なからぬ人びとは、自分にセンスがなくても、誰かや何かを「カッコいい!」と感動して、それにひきつけられる。そして「カッコ良さ」を求めて、いろいろな消費行動を起こす。だから企業は商品をカッコ良くしようとするし、消費者がカッコ良さを求めるよう誘導する。「カッコいい」は、美を、思考ではなく欲望に直結させる働きを持つ。

  • カッコいい職場、カッコいい職種

先日、ある若者と就職について話していたら、彼は、「誰だってトップで超一流の会社に就職したいと思うはずです」という。そして、トップとは「外資系経営コンサルティング会社だ」、と断定するので驚いた。

別に彼にたいして根拠があるわけではない(それほど社会を知ってはいない)。単にそれが「カッコいい」と思って(周囲に影響されて思い込んで)いるらしい。そりゃあ、何もわたしは、自分の勤務先の方が超一流だとかトップだとかいうつもりはない。だが、どうして外資系なのか。

「受験生なら誰もが東大をめざすのと同じだ」、とも彼はいう。この点でもわたしは異論があった。東大が問答無用に一番だ、という見解にわたしは組みしない。だが、かくも単純な価値観の相手と、それ以上議論してもらちがあかないと思い、会話をやめてしまった。

今の世の中では、「外資系」「MBA」「エリート」がカッコいいらしい。たしかに、メディアでももてはやされるのは、その種の人達であることが多い。「マッキンゼー出身」と書いてあると、それだけで発言にオーラがかかるようだ。

企業なら、経営企画部門で、M&Aに携わったりするのがカッコいいらしい。「M&Aアーキテクト」だとか、「シャーク」だとか「毒薬条項」だとか、使う用語もカッコいいではないか。それから「経営戦略」について語るのもカッコいい。強くて、クールなイメージがある。

  • カッコいい技術、カッコいい道具

AIエンジニアとか、データ・サイエンティストというのも、ちょっとカッコいい。「ウチの会社も、AIを使っています」と語れるとカッコいい、と思っている経営者も案外いるのではないだろうか。だって、データを蓄積して、そこから意味を汲み取らねば、という問題意識を持っている経営者だったら、AIが華々しく登場する以前から、そういうことに取り組んできたはずだと思うからだ。

「最新の」ITツールが好きな人も多い。こういう人達を見分けるのは難しくない。データを読み解くことに関心があるか、それともITツールを使うことが好きか、という点を見れば良い。前者は頭を使うし、地味だし、カッコ良くない。後者はトレンディだ。

そもそも「トレンド」は、カッコいいのである。人と同じ価値観を目指し、少しだけ先を行く、というのがトレンドである。カッコよさは、だから、人を束ねて動かすのにとても便利だ(余談だが、その一番の例が、ファシスト党とナチ党だったように思う)。

企業としては、消費者がみな「カッコいい」で動く人になってもらいたい。皆が似たような価値観だと、ヒット商品が生まれやすくなる。その方が大量生産ですむので、楽である。

  • スター的経営者

スターという存在は、大衆社会と共に誕生した。「カッコいい」人に、自分を重ね合わせ、自己を投影する。これが大衆のあり方の一面だ。

最近は、スター経営者という存在もある。カッコいい経営者にあこがれる人達は、その人の会社で働く。あるいはそれよりも、起業して、その人みたいな経営者になることを目指す。既存組織の経営陣だって、カッコいい経営者に無意識に影響されているかも知れない。スター企業の、スター経営者のやり方を、無意識に真似るのである。

現在の所、そうしたスターは主に米国が輩出している。経営学者達も、その経営手腕を並んで賞賛する。かくして、米国式の経営手法が蔓延する結果に相成る。その手法とは、M&Aで業容を拡大し、生産は途上国に外部委託し、従業員や自前のR&D投資は切り捨てて利益を出し、自社株買いで株価を維持する、という奴だ。

この路線の先には、大企業とスタートアップだけで、技術に特化した中堅企業が存在しない、という二極分化した社会産業構造ができあがる。流通もサービス業も、ナショナル・チェーン店だけ、という社会である。米国のどこの都市に行っても、ショッピングモールには似たような店舗しか並んでいない。

市井の普通の人が、パン屋や花屋やクリーニング屋さんとして自営で暮らすことができない社会。フランチャイズ店の店長として、実質的には雇われ人になるしかない社会。そういう方向に、わたし達も進みつつある。どうしてこうなったかというと、皆が自分自身の個性を見つけて、それに会った生き方を探る代わりに、「カッコいい」生き方を真似るようになった結果なのだ。

  • センスのある人と、「カッコいい」で動く人

では、どうしたらここから抜け出せるのか?

じつは、人が美意識で動くからいけない、のではない。むしろ、美意識(センス)が足りないのだ。それが最近のわたしの仮説である。

センスを磨くには、良い教師や先輩による訓練と、ある種の経験の蓄積がいる。センスを磨くことは、落ち着いてよく考えること、繰り返し試行錯誤することの上に育つ。脊髄反射的に「カッコいい」で動くだけでは、センスは伸びない。

センスがある人は個性的である。発達した美意識は、むしろ個性があり、千差万別だ。美というものは、多様性と自由を認める文化的土壌に育つ。

もっとも、集団的に統一された美というのも存在する。どこかの国のマスゲームのように。それはたった一人の美意識の主宰者のために、千人・万人が従属する社会だ。そこから豊穣な美が育つかどうか、わたし達は良く知っている。

ただし、人びとが消費者レベルで個性的でも、それだけでは十分ではない。ビジネスやマネジメントの局面で、同じようにセンスを持ちうるか、という方が重要だ。いくら身につけるファッションが個性的でも、意思決定や部下への指示が無個性では、豊かな結果は生まれまい。

マネジメントという仕事もまた、人間を相手にしているだけに、サイエンス+アートの両面をもつ。このサイトの主テーマである『マネジメント・テクノロジー』とは、サイエンスの部分を技術化したものだ。

では、マネジメントのセンスを基礎づける美意識とは何だろうか? そんなものは存在するのだろうか?

  • ある美しい国の話

こう考えるうちに、わたしは、美意識が重要で、「カッコいい」が公的に市場価値をもつ国を思い出した。昔、そういう国で、1年近くの間、働いていたのだ。

そこは「見る」「見せる」文化で成り立っている。美しい物が好きで、美術品と美食が有名で、たしかに街もそれなりに美しい。

ただ、その国のビジネス界は、じつは米国流経営法をそうとう真似ているように感じられた。ビジネスに従事する人びとも、「エリート」と「庶民」に完全に二分されている。その国には、スタートアップ企業と大企業しかなく、中堅企業があまり存在しない。そして、ライバルの隣国に比べ、長年不景気に苦しんでいる。

つい先日、その国の首都に立ち寄った。街の中心に、その都市の精神を象徴する大きな聖母教会がある。わたしは、そこに詣でて、ある偉人の絵の前にロウソクを捧げるのが、いつも旅の習慣だった。その偉人の名は、聖トマス・アクィナス。南部イタリア出身のこの人は、まことに「深く考える人」だった。彼は言語による「世界というシステムのモデリング」という問題に挑戦した哲学(神学)者だが、その仕事には明確な美意識があったはずだ。

だが、あいにくその教会に、今回は入れなかった。火災が起きて、尖塔と屋根の大部分が焼失したのだ。痛ましい姿に頭を垂れ、この国の人達の心にぽっかり空いた、空洞を思った。教会自体は多くの人の寄付を得て、再建を急いでいる。だが本当に再建が望まれるのは、人を動かし人を使うことに対する、良きセンスの方ではないのか。

そしてそれは、地球の反対側にある島国においても、同様だと思うのである。


by Tomoichi_Sato | 2019-06-29 19:27 | 考えるヒント | Comments(1)

感情のマネジメントとは、どういう事を指すのか

夜中に目が覚めて、しばらく眠れなくなった。仕事の多忙で、身体は疲れているはずだ。なのに、うまく眠れないまま、いつの間にか、ある問題状況について考え始めていた。最近起きた、ひどくイライラするトラブルだ。おかげで頭がさえて、さらに眠りから遠ざかってしまう。「夜中にそんな事を考えても、仕方がない」−−そう自分に言い聞かせてみたが、心はまたその悩みに戻って行く。そして堂々巡りの思考の中で、休息すべき時間が失われてしまう・・

こういう経験をしたことがない人は、うらやましい。働いていて悩みが全くない人は、滅多にいないだろうが、悩みに煩わされる程度は、人によって違うようにも思える。夜中に目がさえるような時は、起きている間も、いつの間にかその問題を考え続けている。ただ、考えるといっても、たいていは同じ場所を巡っているだけで、出口の見つからないことが多い。つまり、脳の中のある部分がずっとループしたまま回り続けていて、メモリやリソースを占有してしまっている感じだ。

とはいえ、わたし達の脳がコンピュータと違うのは、そこに『感情』というモードが伴うことだ。怒りだとか、不安だとか、恐れだとか。もちろん幸福という感情だってたまにはあるが、夜中に幸せすぎて目が冴えたという体験は、まだない。大抵は不快な、ネガティブな感情が伴っている。いや、逆かもしれない。感情的な問題がまずあって、それを解決したくて、知的な回路がぐるぐる回っている、という事なのだろう。

感情とは、なんだろうか。それは、マネージすることができるのだろうか?

自分は感情というものに対して、決定的に鈍感なのではないか。そう、疑い始めたのは、中年になってからだった。ずっと技術職だったから、理屈を通すことで仕事を回してきた。若いうちは、それで仕事を回せると思ってきた。

だが、プロジェクトというのは、複数の人間が協力し合って、共通の目的を達成する仕事である。人と協力するには、人の役割分担や能力も大切だが、人のモチベーション、その気分や感情も大切だ。信頼関係のないところに、良い仕事は生まれない。

自分はちゃんとチームを動かしているつもりなのに、「〇〇さん、あとで怒ってましたよ」「××君、ひどく疲れてがっかりしていたね」といった指摘を、人から受けることもたびたびあった。そして家族からも、他人の感情について鈍感だ、と思い知らされるに至って、これは何とかしなければ、という問題意識が生まれてきた。

先日、わたしが主催する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」で、『感情のマネジメント』という珍しいテーマを選んで講演してもらうことにしたのも、その問題意識からだった。アイシンク(株)の丸山奈緒子様に講師をお願いした。ところで驚いたことに、この回は過去最高の参加希望者があり、しかも初参加の方が多かった。このテーマに関心を持つ人が自分だけでないことに、あらためて印象付けられた。

以下、わたしが学んだことを、研究部会における丸山さんの講演資料「プロジェクトマネジャーが高めたい『感情マネジメント』スキル」をベースに、多少引用させていただくが、もちろん文責は筆者にある。

まず、感情とは何か、である。

当たり前だが、わたし達が抱える感情には、多種多様な種類がある。では、何種類に分けられるのか? じつは感情というものは、基本的な分類基準さえ、世間的には確立していないのだ。自家用車にはどんな種類があるか、金融投資にはどんな種類があるのか、わたし達は大まかな分類の軸をあげることができる。だが、感情はそれができない。それくらい、近代的なわたし達の生活において暗黒大陸、ないし未開の沃野なのだ。

それでも、とりあえず感情にはポジティブとネガティブがありそうだ、というくらいは分かる。ネガティブ感情にしばしば悩まされると、上にも書いた。では、ネガティブな感情は、さらにどう区分できるのか?

わたし達は赤ん坊の時から、感情をもっている。知性や自我の前から、あるのだ。ただ最初は、未分化な状態にある。自分が成長していく過程で、少しずつ、「あんたは怒ってるの?」「うれしそうね」「ぼくはそれ悲しい」「さびしいな」などと、言葉で表現するようになる。名付けることによって、感情は対象化され、また自分でも気付きやすくなるものらしい。感情の分類と、感情の発達・分化は関係しているのだ。
e0058447_19332857.jpg

そこで講演では、参加者に、自分が感じている感情を、言葉と数字を使って、表の形で書いて見るワークが出題された。直近の一週間を振り返って、自分はどんな時、どの感情を感じていたか。その強さは0-100%であらわすと、何%か?

単純なワークだが、これをやっていると、自分が毎日、いろんな気持ちを抱きながら過ごしている事に、あらためて気づく。それもプライベートだけではない。職場などの公的な時間でも、いろんな感情とともにいるのだ。

丸山さんによると、感情には、二つの重要な機能がある。一つ目は、自分自身への「信号」として、である。感情は、自分にとって重要な何かが起きていることを、知らせる。それによって、直接的具体的な行動を促す働きがある、という。たとえば、怒りは「戦え!」「相手を排斥しろ」という信号だし、恐れは「走れ、危険が迫っている!」 と自分に知らせてくれる。

もう一つは、他者との「コミュニケーション」を活性化する機能だ。感情は、他者に自分に関する副次的情報を伝えることで、他者とのコミュニケーション活性化のきっかけとなる。たとえば、悲しみは「助けて!」「わたしは傷ついています」と他人に訴えかける力がある。喜びは、「協力しよう」「再現しよう」 という気持ちを伝えてくれる。

ポジティブ感情には、「心身を回復する」ないし「注意と行動の範囲を広げる」働きがある。そして、ポジティブな感情は、その大きさ・深さよりも「頻度」が大切だという主張にも感心した。小さくても、頻繁に、自分に対してポジティブな感情のストロークを蓄積する。それがストレスを軽減するのだろう。

講演はさらに、ネガティブ感情を受け入れる、というテーマに進む。ネガティブな感情も、適度であれば、自分にメリットをもたらす。不安は、慎重さや準備、予防策のきっかけになるのだ。しかし、不安感情が過剰だと、デメリットが目立つようになる。パニックになる、他のことが手につかない、などの状態に陥るからだ。

そして、自分のネガティブ感情に「応対戦略」を考えるワークを、皆で行った。二人一組になって、それぞれ、自分がしょっちゅう悩まされるネガティブ感情をとりあげ、それに「あだ名」をつけるのだ。このとき、ちょっとコミカルなキャラづけになるような名前を考えるのがいい、という。

自分の場合は『怒り』だな、とわたしは思った。じつは気が短いので、つまらぬことでもすぐ怒ってしまう。とくに馬鹿げた、筋道の通らない話をされると、ついカッとなり、それが攻撃的な口調となって出てしまう。これで何度、損をして痛い目にあったことか。では、なんてあだ名をつけようか。

よし、「イカール大帝」にしよう、と決めた。ご存知の通り西洋史には、カール大帝という、英雄だが戦争好きな君主が出てくる。それのもじりだ。イカール大帝が登場すると、しょっちゅう、あちこちでケンカをやらかして、まずい事態を引き起こす。自分の中にいるのだから、そんなに偉大な存在ではないけれど、暴君なのだ。では、どんな時に現れてくるのか。この人と、どう付き合ったらいいか。それを考えて、相方に説明し、一緒に相談する。

これはなかなか興味深い体験だった。何より、自分が前からとらわれている感情を対象化し、しかもコミカルに擬人化するところがいい。そうすると自分にとって、何とか応対可能な相手だという感じがする。あだ名をつけるというアイデアが、卓抜だ。さすが専門家はだてに専門家ではないな、と思った。

それと同時に、こうした研修講演にはワークが必須なのだ、と気づいた。聴いて、知った気になるだけでは、自分の行動に結びつかない。身に着けるには、練習が必要なのだ。ただ、実りあるワークのためには、ある程度、自分の感情を人に晒せるような、相互に信頼感のある場づくりが必須である。

今回は、本来1日かかる研修コースの内容を、丸山さんを拝み倒して、わずか1時間半に凝集してもらった。ただ、明らかにこれだけで十分ではない。だから、自分自身で感情に気づくエクササイズを、日常で繰り返す方がいい。そのためにも、日誌による「ふりかえり」の習慣は有益だろうと思う。

ところで、以下は個人的な感想ないし疑問だが、はたして感情とは「マネージ」「コントロール」するべき対象なのだろうか?

感情のマネジメントという考え方が広まった背景には、EQという概念の普及も関係しているらしい。EQは、80年代後半に米国のメイヤーとサドベイが提唱したもので、IQ(知能指数)にヒントを得た用語であある。彼らは、「感情をうまく管理し、利用することは、知能である」と主張する。

優秀なリーダーは、自分の感情を把握・コントロールする能力と、他者の感情を知覚する能力が優れている、という研究があり、彼らの主張はこれに基づいている。つまり、ビジネスの成功には、知的なIQと、感情のEQが必要だ、という主張である。まあ、ある意味、いかにも「ビジネスの成功=社会的理想」とする米国的な考え方ではある。

ところで、日本語には「知情意」という言葉がある。知性、意思、感情という、心の働きの主要な3つを表した言葉だ。この三つについて、上記のEQのような考え方では、意思に基づいて知性を働かせ、その知性によって感情をマネージする、という風にとらえられる。つまり、

 意思>知性>感情

という優越関係にあるようだ。ただ、本当に感情とは、自分(自我の持つ意思・目的)が利用すべき資源にすぎないのか。暴れん坊だからコントロールすべき、家畜のような存在なのだろうか?

感情は、じつは自分の一部ではないのか。知性や意思と対等な、自分自身を作り上げる構成要素ではないか。そういう風にも、わたしには思える。感情の働きは、じつは自分の生に意味や価値を与えるのではないか。

人間は、なぜかしらないが、感情を共有したがる生き物である。丸山さんはこのことを、感情には「伝染性」がある、と表現された。そしてまた、感情には「流れ」があり、それはお金の流れと同様に重要だ、という経営者もいる。興味深い考えだ。

そして、感情は身体とかなり直接、結びついている。負の感情が肉体的な不調を呼び起こすことも、よくある。身体だって、自分の一部であって、単に「自分の所有物」ではあるまい。所有物みたいに思って暮らしていると、そのうち、身体の反乱によって痛い目にあう日が来る。同じように、感情をただ「マネジメント」の対象として、上から目線で考えるのは、いささか一方的だと感じるのだ。

「プロマネの仕事は技術をリードすることだ、だから優秀な技術者がやればいい、と信じている組織が世間ではほとんどです。だが本当は、感情とリスクのマネジメントがその8割以上なのではないかと、参加した皆さんもきっと思われるようになるはずです。」--研究部会の案内文に、わたしはそう書いた。

夜、目覚めて眠れず困る時間をすごす代わりに、自分の中の感情に気づき、自分を支える一部として認め共存することが必要なのではないか。そして、他者の感情をも、同じように尊重することが大切なのではないか。これが、理詰めで世の中を渡ろうとしてきたわたし自身の、最近の本心である。


by Tomoichi_Sato | 2019-04-26 21:36 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ: 序列でも競争でもなく

Merry Christmas!


大学を出て随分経つのに、入学式のことを、不思議と今でも覚えている。当時は、学内にあった講堂が事情で使えず、学外の大きな会場を借りて行っていた。わたしたち新入生が神妙な顔で並んでいる前を、まず学部長達が入ってきて、ステージ上に並んだ椅子に順に腰掛けていった。そして最後に、学長が入ってきて、「新入生諸君!」といった感じで、訓示が始まる。

わたしの入った大学はマンモス校というか総合大学で、学部は全部で10あった。ところで、司会者が学部長を端から紹介したのだが、その順番が奇妙だった。まず法学部、次に医学部、さらに工学部、そして文学部・・といった風なのだ。文系・理系の区別でもないし、もちろん入試枠の順番でもない。何なんだ、この順番は? と不思議だった。

その順番の意味が分かったのは、入学式からずっと後のことだった。そこの大学では、学部の偉さの順位というものが、なぜか決まっているのだ。一番偉いのが法学部で、次が医学部、三番目が工学部・・ということで、学部長はその序列にしたがって、式典に並ぶしきたりになっている。だが、なぜ法学部がトップなのか、理由はよく分からなかった。一番新しくできた教育学部とか薬学部が最も下位らしいので、できた順番か、とも思ったが、必ずしもそうでもないらしい。

わたしはそれまで、学問なんてみな対等で、別段、学部に上下などないのだと信じ切っていた。だが、その大学では、違っているらしかった。少なくとも、下位の学部からは、学長を出せないのだそうだ。学長は選挙で決まるはずだ。だが、選挙に立てないし、もし立っても当選できないのだと聞いた。

まあ、これは昭和時代のことだ。今では事情は、まったく変わっているのだろう。変わっているだろうと思いたい。でも、つい今しがた、念のため大学のHPをのぞいたら、学部紹介の順番は相変わらず法医工文理・・という順番だった。ま、何というか、伝統に忠実な(あるいは因習に固陋する)立派な組織ではある。

ついでにいうと、その大学では学長を「総長」と呼んでいた。私立のマンモス校ではおなじみの呼称である。ところが、公立・国立では、学長ではなく総長と呼べるのは、たった2校のみと決まっているらしかった。さらにいうと、国公立大学で、法学部を持てるのは旧帝大のみ、ということも知った。なぜあちこちの都道府県に、法律を学ぶ場所を設置しないのか、わたしは理系だったが、不思議に思った。

しかし、大学間には、そうした「」というものが、厳然と存在するのだ。そして、大学内にも、学部間で、やはり「格」だとか偉さの順番という序列が、見えない形で生きている。

社会に出てからも、この国には、目に見えない序列と規制の網の目が張り巡らされていることを、次第に実感するようになった。やっかいなことに、こうした序列や規制は明文化されていないか、されていても目立たぬところに書かれているらしい。何も知らぬ新人は、壁にぶち当たって痛い目に遭わないと学べない。いや、この歳になってからも、まだわたしはいろいろな序列の存在に驚かされている。

たとえば経団連の会長には、製造業の社長でないと、なれないのだそうだ。なぜ金融や通信や不動産ではいけないのか、わたしは知らない。いや、これだけ激変の時代なのだから、どんな業種だろうと、ビジョンと力量のある企業が会長になってリードすればいいじゃないかと考えるのだが、財界はそう考えないらしい。

あるいは、最近、小説を読んでいたら、「東京地検特捜部は、検察の中のエリート集団だ。だから彼らがいったん狙いをつけた案件は、必ず有罪に持ち込む」という記述があって、驚いた。別に最近の某有名外国人経営者の逮捕事件を連想して驚いたのではない。わたしは愚かにも、東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、地域である以上は、対等だろうと思っていたのだ。でも、たぶん作家の方が正しい。最も優秀な「エリート」は、なぜか東京に配属されるのだ。

きっと似たような事情は、全国の地域をまたがる組織群には、陰に陽に存在しているにちがいない。電力会社も、鉄道会社も、たぶんガス会社も、みんな東京が序列の一番トップにいるのだろう。言われてみれば、そういう兆候をなんとなく見聞きしたように思う。東京の組織で功成り名を遂げた人は、地方の組織に天下ったりする。だいたい、東京以外をまとめて「地方」と呼ぶのはなぜなんだ。

わたし自身は東京の郊外の生まれだが、東京が全国で一番偉いという感覚はない。北海道だろうが四国だろうが、地域はみんな対等だと思っていた。今は横浜市民だが、もちろん横浜は東京と対等と思っている。でも、わたし達の社会では、東京がデフォルトで偉さの序列のトップにくるらしい。わたしは自分の間抜けさを思い知らされた気がした。

もう一つ言おうか。自分が中小企業診断士のはしくれだから感じるのかも知れないが、わたし達の社会では、「大企業」と「中小・零細」では、単なる実力の差以上に、ハンディキャップがのしかかっている。銀行の金利であれ、機械の保守費であれ、中小零細は大手の倍以上の負担を迫られる。販売ルートの確保にいたっては、言うまでもない。大手はいつまでも大手で、中小企業はいつまでも中小、というのが社会のデフォルトの想定なのだ。

それにしても、この、目に見えない位階というか序列というものは、何なのだろうか? なぜ、このような不合理なしきたりが、平成も終わろうとしている21世紀のわたし達の社会に生きているのだろうか。

それで急に思いだしたことがある。何年も前のことだ。勤務先のある優秀な中堅の人に、「なぜ出身のX県ではなく、ウチのような横浜の会社に就職したの?」とたずねたことがあった。懇親会の席上で、軽い話題のつもりだった。彼の出身地・X県は、豊かで立派な産業があり、気候も温和な、良いところだ。だが、彼の答えは意表を突くものだった。「X県は、いまだに江戸時代なんです。だから、どうしても県外で就職したかった。」というのだ。

江戸時代? どういうこと!? そうたずねると、彼は答えた。ーーX県では、江戸時代の士農工商みたいに、あらゆる会社の順位が決まっているんです。X県で他を圧倒する大企業の○○社があり、それの系列会社や販売代理店やさまざまな周辺企業が、順にランクづけされています。町内会や地域行事も、いろんな会社がランクごとに援助しています。それだけではなく、お父さんの勤務先や職位によって、奥さんや子ども達さえも、微妙にランク付けされるんです。

○○社を頂点とした序列が、社会生活の隅々まで覆っているのがX県だ。彼はその息苦しさに耐えられなかったと言う。

わたしは噂に漏れ聞いた○○社の内情を思い出した。定年退職した工場の技能者は、その人の生涯の成績が最上位だと、会社から家まで、高級車で送ってもらえる。次のランクの人は、車で最寄りの駅まで送ってくれる。さらにその下のランクは・・定年退職で工場の門を出るときまで、処遇の差が見える化されているのだ。そして同じ企業内でも、激しい工場間・部門間の競争があり、社内競争でボーナスも決まる。

それがどうした。競争社会とはそういうものじゃないか。そんな声もきこえそうだ。たしかにそうかもしれない。だが、それと、X県の(あるいは○○社の系列の)会社間に、まるでどこぞの大学の学部のように、見えない序列があることと、どう両立するのか。どの職位の管理職が、どこの会社に天下りするかみたいなことが、格付けで決まっているのも奇妙ではないか。企業というのは、努力して伸びたら業界の上に行けるものではないのか? わたし達の社会の競争原理というのは、どこかで何かが歪んでいないか。

競争こそ、世の中を進歩させる原動力だ、という信念は強い。たしかに、人に勝ちたい、負けたくないという気持ちは、たいていの人の心の中にある。そして、とりあえず競争に勝ってきた人間は、競争の意味を疑わない。学歴競争や実力競争で勝ち残ってきた人ほど、その擁護者になる。だからメディアでも学識経験者でも、競争礼賛的な言論が流通しやすい。

だが、わたし達の社会の競争原理には、どこか寸足らずのところがある。大きな枠組みでは、すでにエレベーターのように、高層階行き、中層階行きと出発時点で決まっていて、ひっくり返せない。そしてエレベーターの箱の中で、どんぐりの背比べみたいに、互いに競争している。

このような社会では、小勝負に長けた人は出ても、大勝負に挑む人びとは出にくい。大きな勝負は、すでに枠組みで序列が決まっているからだ。

小勝負の方は、土俵もルールも勝敗の評価基準も、上から与えられている。こうした仕組みは、与えられた目標、命じられた事だけを必死に実行する人間だけが勝ち残りやすい。つまり兵卒や下士官だけを、輩出する事になる。一方、エリート層はエリート層で、彼らの小さな箱の中で競争させられ、勝った負けたといって、大多数が挫折感だの劣等感だのを抱き続ける。くだらぬことである。

そして、何よりもっともまずい事は、協力のためのコミュニティが育ちにくい点だ。

著名な経営学者ミンツバーグが来日したとき、講演で彼は、アメリカの経営学はリーダーシップを強調しすぎてきた、今大切なのは、職場における「コミュニティシップ」だ、と提起していた(Community-shipというのは彼の造語で、通常の英語辞書にはない)。コミュニティがないと、共通の知恵を蓄積することができない。本当の創造的アイデアも、品質の高い議論のスキルも、育ちにくい。もちろん個人個人の自律性も。

工場間の競争でボーナスが左右される上記の会社を、思い出してほしい。たぶん優れた技術的工夫は、改善大会で表彰され共有されていくのだろう。だが、その時までは共有されない。それどころか、マクロな業務プロセスは、工場ごとにバラバラだったりする(これは納入するSIerから聞いた)。業務プロセスにこそ、共通した管理技術が活きるのだが、部門が互いに競争していたら、標準化・共通知化など進む訳がない。

わたし達が生きているのは、苛烈な競争のみが支配するアメリカ社会とも違う。序列意識のスキマに競争原理が導入された、珍妙な社会である。序列の中でのみ、競争が行われる。

そうした序列は、しかし、いつまでも永続的なものではない。海外との競争にさらされると、いきなり危機を迎えるのだ。江戸時代にずっと続いた、「親藩>譜代>外様」の序列は、黒船の到来でいきなり崩壊した。外敵への対応能力は、序列と関係ない事が明らかになったからだ。

大学の序列も、似ている。国内で最高だと自負していた大学も、世界でのランキングでは10位にも入らないので、どぎまぎしている。(そんな海外のランキングなどくだらないことだ、自分たちは我が道を進む、と主張するなら見所もあるが、外部から競争尺度を与えられると、それを無視できないのが彼らの常だ)

こうした価値の転換に備えるには、横のつながりによるコミュニティに優るものはないと思う。異なる視点と経験を持った者同士が、対等に議論できる場。コミュニティという場は、原則として、お互いが対等な仲間が集って作り上げるものである。対等とは、互いに権利を主張し合えることだ。

アメリカとバヌアツは、国際社会では対等である。対等に、権利を主張し合える。むろん、対等であることと、結果として平等であることとは違う。この世は残念ながら、なにかと不平等にできている。いうまでもなく、アメリカは比較にならぬほど、強大なパワーを持っている。

ただし、不平等社会でパワーを持つ者は、そのために重い義務も背負っている。権利と義務は秤で釣り合っている、というのが対等の原理だからだ。逆に、労苦は下の階層の者が背負うべき、というのが序列の原理である。それが江戸時代の、士農工商の論理だった。序列社会に競争原理を持ち込んだ、木に竹を接いだような社会に、どうして活力が生まれるだろうか? みんながレミングのように同じ価値観と方向性で進んでいくのは、滅びに至る道である。

滅びに至る門は広く、そこから入るものは多い」と、かつて2千年前の賢者は言った。彼の生まれた中東の地では、都市は城壁で囲まれ、そこには大きな門があって、その脇に小さな通用門のような入口がついていたらしい。大きな門は、王侯や軍隊が入城するときの門である。下級市民は、小さな門を入った。

だが彼は、あえて、命を得たければ狭い門から入れ、と説いた。天の下で、あらゆる人間は対等だと、彼は信じていたからだ。

また彼は、去る前に、心を一つにした人が「二人あるいは三人集まるところには、わたしのその中にいる」という意味の言葉を残していった。彼は共同体というものに、信頼を置いていたのだ。

与えられた序列と尺度で走るだけ、与えられたことを実行するだけの生き方は、もう卒業すべきだ。小さな勝負はできるけど、大きな勝負はできない人では、小さな改善はできるが、大きな刷新は難しい。わたし達の社会はそろそろ、そういう刷新の時期なのだ。世の中がひと時、戦火を閉じて平穏になるこの季節、本当に何をなすべきかを、既成の秩序は忘れて、静かに想いをめぐらすときが来ている。


そして、どうか読者の皆さんの上にも、平和なクリスマスがありますように。



by Tomoichi_Sato | 2018-12-24 17:30 | 考えるヒント | Comments(0)

ひとはなぜ、同じ話を繰り返すのか

10代の頃読んだスタインベックの短編に、同じ話を孫たちに何度も繰り返すお爺さんの物語があった。西部開拓時代の生き残りであるこの老人は、駅馬車がインデアンの攻撃にあった時、どう防ぐかという持論を、たまに会う息子や孫に、繰り返しするのだった。

年寄りはなぜ、誰に何を話したかを、覚えていないのだろう? 10代の頃は、そう思った。さて、それから長い月日がたって、自分が《若い衆》に何か話す側になると、なんだか同じ話を何回もしているような気がする。

とくに、大学で授業を持つようになってからは、その印象が強くなっている。まあ、いたし方ない面もあるが、「この話、前にもしたな」と感じる。それがいやなので、講義内容は毎年少しずつバージョンアップするようにしているが、それでも部分的である。

それにしても、人はなぜ、同じ話を繰り返すのか? 一番単純な理由は、「誰にどの話をしたか」を覚えきれないからである。そんな単純なことを、なぜ覚えきれないのか。答えは、「そんな簡単」なことではないからだろう。

例えば、自分に5人の友達がいるとしよう。そして、皆に伝えたい話題を、4つ持っていたとする。すると、誰に何を話したかは、5行4列の、簡単な表で表すことができる。縦に並ぶ行は、それぞれの友達だ。横には、話題を表す列が並ぶ。友達2に話題3を話したら、2行3列目に、チェックマークを入れる。

さて、この表というかマトリクスは、全部で何パターン、あるだろうか?

答えは簡単だ。表の各マス目は、空欄かチェック済みかの2つの状態を持つ。マス目は全部で20個あり、お互い独立に変化しうる。ということは、このマトリクスは、

2の(5×4)乗 = 2の20乗 ≒ 100万個

のバリエーションがあるわけだ。自分はこの100万個の中から、一つの状態を覚えておかなければならない。

では、自分が少し成長して、友達は6人、話題を5つ、持っているとしよう。すると今度はが、5かける6で30個のマス目を持つマトリクスが必要になる。このマトリクスがあり得るパターンは、

2の(5×6)乗 = 2の30乗 ≒ 10億個(!)

になる。あなたはこの中の一つを、覚えておかなければならない。これは、思ったほどたやすい仕事ではないことが、分かるだろう。実際には、マトリクスは連続的に成長していく(友達は入れ替わるし話題も賞味期限がある)から、パターン数は絞られるけれども、なかなかややこしい。

e0058447_11113736.jpg
であるからして、大人になると、誰に何を話したかなんて、「いちいち覚えちゃあ、いられないんだぞ、小僧!」ということに、あいなる。年長の大人が何回も同じ話をして、なおかつ威張っているのは、このためなのである。少なくとも、半分は。


半分は、と書いたのは、残り半分には、別の理由があるからだ。大人は、分かっていて、同じ話を繰り返すことがある。

例えばわたしは、大学の授業の中で、「マネジメントとは、人を動かすこと」「人に働いてもらって、共通の目的を達成することである」という話を、日を変え場面を変えて、5、6回は繰り返してしゃべる。東大の大学院生など、一回聞けば忘れずに覚えるタイプの人が多いけど、それでも、「マネジメントは多義語だが、その中核にある意味は『人を動かす』という事です」としつこく語り続ける。

なぜなら、しつこくなければ全員に伝わらない、からである。授業というのは、基本的なことは全員に理解してもらわないといけない。プロジェクト・マネジメントの授業では試験はしないが、仮に試験をしたとしたら、基本部分は全員が満点を取れるようにするのが、教育である。試験結果で差がつくのは、教育の本義ではない。品質検査をしたら全品が良品である、というのが製造の目標であるように、全員に理解させるのが教育であろう。

実際のプロジェクトでも、大事なことは繰り返し、皆に伝えないと徹底されない。

目的や方針や指示を、末端まで徹底すること。そのために、メンバーに繰り返し伝えること。それが数人の小規模プロジェクトでも、数百人の大規模プロジェクトでも、本質的な部分は変わらない。

ただ組織が大きくなるほど、難しくなるのは道理だ。だから、たとえばプロマネは部下のリーダークラスに指示を出したら、さらに一階層下のメンバーにちゃんと伝わっているか、自分で確認したりする。たとえ部下たちが「前にも聞いた」「耳タコだ」などと感じても、伝えなければならない。マネジメントが「人に働いてもらう」ことである以上、指示を徹底することはプロジェクト・マネジメントの生命線だからだ。

これはたとえば、噂に聞くトヨタのしつこさ、にも通じる。自動車生産の系列は巨大だから、その末端まで思想を浸透させようとすると、たしかに同じ話を何度も繰り返すことになる。以前紹介した、フランス人作家パレの小説「ザ・ジャストインタイム」の中に、それを物語るジョークがあった。トヨタ生産方式では、在庫量を湖の水位にたとえ、水位を減らせば隠れていた岩(問題)が見えてくる、という話をよくする。ところが、あまりにもこのたとえ話を何度も聞かされるので、

「ペルーでフランス人と日本人とアメリカ人が工場を建てようようとしていた。だがゲリラに捕まって人質にされ、資本主義の手先だから銃殺すると言われた。ゲリラは3人に、最後の言葉を残すことを許した。フランス人は『フランス万歳!』と叫んで撃たれた。次は日本人の番で、『では湖と岩について話したいと』言った。その途端にアメリカ人が飛び出してきて、銃口の前でシャツの胸をはだけて叫んだ。『湖と岩の話をもう一度聞かされるくらいなら、先に撃ってくれ!』」(p.264)

という訳である。

トヨタ生産方式なら、一応そこに理屈があるわけだが、理屈抜きにそれを繰り返し聞かされるとなると、もはや宗教の領域であろう。それこそ同じ祝詞やら念仏を、1千回、いや百万遍くりかえす、というのは、マントラを深層心理に植え付ける効果があるに違いない。

ただしまあ、ずっと何度も繰り返すだけというのは、伝達の手段としては芸のない話だ。人に何かを理解してもらいたいのなら、むしろ、その内容を他の人に伝えさせる、という方がずっと有効である。人に教えには、自分が理解していないとならない。だから人に教えさせるのが、一番勉強になる。つまり間接教育である。

それにしても、同じ話を何度しても、相手に全く伝わらない場合も、けっこうある。つまり、相手に「聞く耳がない」という事態である。とくに相手が、思い込みの強い人だったり、「信念の人」だったり、あるいは年配者だったりする場合である。こういう人達は、ひとのいうことをあまり聞かない。むしろ逆に、自分たちは同じ話(彼らの持論)を、何度もしたがる。こういう人達も社会には一定数いるので、つき合い方を考えなければならない。

そして、こういう人に出会うたびに、なんとなくわたしは「コミュニケーション伝導度」の測定器が発明されればいいのに、と思ったりする。コミュニケーション伝導度とは、熱伝導率と電気伝導度などと類似の概念で、

[相手の理解の増加量] = [コミュニケーション伝導度] × [自分の理解度 — 相手の理解度]

によって定義される量だ。コミュニケーションとは基本的に、ある事実や思考について、理解のギャップを埋める行為である。自分と相手の理解度の差が、いわば差圧というか、Driving forceになる。そして、相手のコミュニケーション伝導度が高ければ、こちらの話す情報が、相手にすっと入っていく。伝導度が低いと、何度話しても伝わらない。

なので、相手の伝導度が0.3だと分かれば、(うーむ、この相手には3回以上、同じ話を繰り返さないと伝わらないな)といった判断ができるようになる。0.5なら、2回ですむ。もちろん、理想的な聞き手の伝導度は1である。一度いえば、なんでも100%すっと理解してくれる。伝導度ゼロの人は、何を言っても決して受け付けてくれない。話すだけ時間のムダである。

これを測定するスマホアプリができたら便利だろうな。誰か発明してくれないものか。

ただ、言うまでもないが、こうした伝導度というのは、相手だけでなく、話題の種類に依存する。誰だって、自分が聞きたい話に対しては、伝導度が高くなり、聞きたくない情報に対しては低くなる。そして、こちらの話し方にも依存する。だからこそ、「伝え方のテクニック」というものが存在するのだ。

拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』にも書いたとおり、わたしは、「発信者責任の原則」が、世界のビジネス上のコミュニケーションにおけるデフォルト標準だと考えている。情報を伝えるのは、発信者の責任である。だから話し手は、相手が理解したかどうかを確認し、伝わるまで繰り返し話すべきだし、あるいは伝え方を工夫していくべきだ、と考えている。

あいにくわたし達の社会におけるデフォルトは、「受信者責任の原則」である。教師が教壇から何かしゃべったら、生徒はそれを聞き漏らしてはならない。理解できないのは、生徒の側に責任があり、だから試験で罰せられるべきだ、となる。分からないのは、分からない奴がバカだ、という論理である。講演をしても、質問の時間に皆、あまり手を上げない。質問するのは理解できなかったことを意味し、それは頭の悪い証拠だ、となるからだろう。

わたし達はそろそろ、こうした上意下達型の論理から卒業すべき時が来ている。むしろ、現場の側から、マネジメントに対して、いろいろな不便や問題点を伝える必要のある時代なのだ。そうした話は、管理者の側にはたいてい都合の悪い話題なので、伝導度が低く、そう簡単には伝わらない。だが、正しい情報が上がってきてこそ、マネジメントは適切な判断ができるのだ。である以上、わたし達は、繰り返し伝える勇気も持たなければならないことになる。


<関連エントリ>
 →「書評:『ザ・ジャストインタイム』 フレディ・パレ&マイケル・パレ 著」 https://brevis.exblog.jp/22515622/ (2014-10-26)
 →「プロジェクト・コミュニケーションのベーシック 〜 情報のトレーサビリティを確立する」 https://brevis.exblog.jp/24679751/ (2016-09-25)



by Tomoichi_Sato | 2018-12-17 22:15 | 考えるヒント | Comments(0)

マネジメント的な認知症を防ぐ

何年か前、まだ肌寒い季節の夕方のことだったと記憶している。車で隣町を移動していると、ふと、助手席にいた連れ合いが、道端を指さして、「あの女の人、さっきもあのあたりを歩いていなかった?」といった。見ると、高齢の女性がぼんやりした様子で立っていたが、パジャマのような衣類の上に、薄いカーディガンを羽織っているだけで、足元はスリッパだった。

わたし達は車を止めて、その女性に声をかけてみることにした。すると、こちらが何か言う前に、女性の方から「あの、○○さんの車じゃありません?」と問いかけられた。
「いえ、○○さんという方は知りませんが、どなたかお待ちなんですか」とわたしは答えた。
「日曜日の朝は、弟が車で迎えに来てくれる筈なんですが、その車かと思いまして」と老婦人は答える。

もちろん、今は日曜の朝ではない。連れ合いと顔を見合わせて、ともあれ、その女性を車に乗せることにした。いわゆる徘徊老人なのかも知れないと思ったからだ。

「寒いでしょうからお宅までお送りしますよ。どちらにお住まいですか?」とたずねた。すると、丘を一つ越えたあたりの住所らしきものを答える。「ご親切にどうもすみません」と、その老婦人は品良くこたえる。そして、この辺りにはもう20年も住んでいる、という。車内でおしゃべりをしながら、その住所の近くに来たら、「ここでいいからおろして下さい。後は歩けますから」という。なんとも心配だったが、言い張るので結局、その女性をおろしてあげた。

帰り道、連れ合いとわたしは、その女性との対話について語り合った。言葉遣いは丁寧で、よどみなくすらすらと受け答えし、ちゃんとした会話になっていたように聞こえる。だが、よく考えてみると、住んでいる年数をはじめ、つじつまが合わない。何より、衣服などから見て、どこか施設から飛び出してさ迷っていたようにも思える。たとえ嫌がったとしても、警察に送り届けるべきだったかもしれない。

それから数日後、わたし達は、一人暮らしをしていた母のもとをたずねた。母はすでに高齢だったが、亡くなるまでずっと、頭はちゃんとしていた。その母が、何かTV番組を見たらしく、こんなことを言い出した。

「認知症になると、ものごとの全体をつなげて考えられなくなるみたいね。たとえば冷蔵庫の中にある材料を使って、今夜の献立を一揃い考える、とかができなくなるらしいわ。つまり、マネジメントができなくなるの。」

老いた母から『マネジメント』という言葉が出たので、わたしはびっくりした。母はずっと職業婦人で、記録映画や映像展示プロデュースに関わる分野において、プロジェクトに従事していた人だ。だからマネジメントとはどういう仕事か、もちろん良く知っている。でも実務の世界から引退して何年もたっていたし、ビジネスの話はあまり自分からは出さなかったので、驚いたのだ。

いま手元にある資源(=食材)を活かして、なんとか価値のある結果(=料理)を生み出すこと。それがマネジメントのだと、母はいっている。まったくその通りだ。そして、部分と部分をつなげて、全体を構想するのがマネジメントの仕事だ、とも。

わたしは、隣町で出会った認知症らしき老婦人のことを思い出した。その人の会話の特徴は、部分部分はちゃんとまともに聞こえるのに、全体としてつじつまが合っていないことだった。また、どこに向かって進んでいこうとしているかも、よく分からなかった。ただ何となく、自分が元いた(らしき)場所に戻ろうと、さ迷っているのだ。

認知症について、わたしはさほど知っているわけではない。身内にそうした人を抱えて苦労した経験も、今のところ、ない。ただ、なんとなく、認知症というのは、カメラのピントがぼやけていくように、その人の世界の認知が少しずつぼやけていくのかと想像していた。

しかしどうやら、そうした先入観は間違っているらしい。細部のピントがぼけはじめるのではない。むしろ、個々のピントは合っているのに、全体の構図が崩れはじめる、という表現の方が合っているようだ。認知症の人は、初期段階ならば、日常生活はさほど支障なくすごせるという。日々の生活でするべき、細々とした動作を、とりあえずちゃんとできるからだろう。一種の条件反射のようなものだ。歯を磨く、顔を洗う、水を飲む、食事をする。こうしたことは、すべて滞りなくできる。

話もできる。話も、一応ちゃんと筋がある(ローカルに見れば)。だが、見当識、つまり自分が誰だとか、今が何月何日だとか、ここがどこかとかいった事が、正確に言えない。事実が客観的に、認識できないのだ。自分の主観の中で再構成された、自分になじみのいい関係性だけが、事実の解釈を乗っ取ってしまう(「弟の迎えの車かと思いましたの」)。

わたしは家に戻り、書棚から、10年以上前に読んだ阿保順子・著「痴呆老人が創造する世界」を取り出して読み直して見た(この本は「認知症」という言葉が普及する前に出版されたが、現在は「認知症の人々が創造する世界」と改題され岩波現代文庫に収録されている)。本書は、看護職だった著者が、文化人類学的な手法で認知症入院患者を調査し記述した、独創的な本だ。

そして、著者の阿保氏によると、施設に入居して介護を受けつつ暮らしている老人たちは、ある意味、驚くほど「豊かな」社会生活を送っている。単に砂時計の砂が流れ落ちるように、崩壊への時を過ごしているわけではなく、架空の地理感覚や家族観念の中で、役割を演じて生きている。つまり彼らは、世界を我流に再構成しているわけだ。

とくに、コミュニケーション、つまり他者との手短かなやり取りは、本人たちの言語機能が壊れているのに、いつまでも残る。内容や意味は他者と通じていないのに、「言葉をかわす行為」自体は非常に良く保たれているのである。彼らにSNSがあったら、タイムラインは意味なきおしゃべりに満ち溢れているだろう。

医学的な認知症は、「エピソード記憶」「分割注意機能」「計画力」の機能不全として現れる。認知症は、単に物忘れがひどい、とは違う。最近の体験的記憶を保持できないのだ。自分の経験から学ばない、とも言える。ただし過去に身についた習慣や、過去の感情の記憶だけは残っている。分割注意機能の障害とは、つまり複数のことに同時に注意を向けることができないという意味だ。認知症の初期の人は、たった一つのことだけに集中しすぎる。そして「計画力」の欠如とは、上に述べたとおりだ。

ミクロには機能している。だが、マクロには方向性もつじつまも合わない。それが「マネジメントができなくなる」という事だと、母は言った。そう言われて、わたしは急に、気になることに思い当たった。

当時、わたしはひどいプロジェクトに関わっていた。ここで詳しくは書けない。だが、それこそ、「ローカルには機能しているのに、グローバルには方向性がなくバラバラ」というプロジェクトだった。個別の設計作業は、それぞれ一応は動いている。だが、全体のスケジュールやコストを守るための戦略が見えぬまま、混沌ともつれた状態のまま進んでいた。

それはたしかに、プロジェクト・マネジメントの問題だった。いや、むしろ力量不足のプロマネをちゃんと支援できない、プログラム・マネジメントのレベルの問題といっても良かった。

さらに、世の中に目を転じてみると、似たようなことはいろいろと見つかる。営業が無茶な条件で取ってきた案件を、プロマネがヒイヒイ言いながら苦心惨憺、遂行するという例は数知れぬ。営業は営業で、受注高の成績を上げなければいけない。だから厳しい競争でも取ってくる。

だが、厳しい条件でスタートするプロジェクト案件ばかりが増えたら、どうなるか。プロマネはなんとか有能な人員を囲い込んで、自分の仕事だけは守ろうとするだろう。個々には合理的に見えるふるまいだが、組織全体では筋が通らぬ。

あるいは、技術的なことについては、論理的に考えるのに、仕事全体の認識となると、とつぜん非科学的になってしまう管理職も、よく見かける。個別の設計では「これだけ負荷がかかるのに、こんなヤワな構造で設計して、持つ訳ないだろ!」と論じていた人が、沢山の仕事を受注できそうなあかつきには、人の配員の問題について「気合いと根性で乗り切れ」みたいなことを言い始める。ミクロには合理的だがマクロには不合理。まことに不思議である。

いや、ことはビジネス界だけではなさそうだ。行政の分野でも、教育の分野でも、メディアや政治の世界でも、なんだかミクロには機能しているのに、マクロにはビジョンが不在、という例を多く見かける。わたし達の社会は、そんなマネジメント的な認知症がはびこりはじめているらしい。どうしたらいいのだろうか?

医学的認知症の人は、知性は壊れているが、習慣的行動と、快不快の感情に駆動された短期的行動はとれる。マネジメント的な認知症も、これに似ている。以前からの習慣と、売上目標だとか原価低減といった目先の判断基準だけで、直近の行動が決まっていく。

加えて、医学的認知症の患者は、自分で勝手に自分の周囲に物語を、それも事実とは似て非なる物語をつくり上げる。マネジメント的な認知症も、似た傾向がある。事実を勝手に自分流に解釈し、脊髄反射的に対応する。これが症状である。

認知症は、自分では病識がない。だから、まず「これは(マネジメント的な)認知症だ」と判断することが、問題解決の出発点だ。

防ぐには、他者と交流しろ(孤独を避けよう)、運動をしろ、脳を刺激しろ、良い食事をしろ。医学的な認知症の予防には、そんなことが言われている。だが、マネジメント的な認知症には効くまい。

マネジメント的な認知症の一番の原因は、上で述べたように、自分の認知を離れて、「客観的に」「他者の視点で」事実を検証しようとする働きがないことにある。問題が起きたら、まず事実を客観的に把握する。その上で、適切な対策を計画する。こうした、あたりまえのことができるようになる必要がある。

そのためには結局、意味のある議論、品質の高い議論を、くりかえしするべきだし、できるような場を組織の中に用意すべきだ、というのが現時点でのわたしの仮説だ。すれちがいの対話やコメントの応酬ではなく、あるいは勝ち負けのある勝負事としての言い合いではなく、お互いの認識と考えを変えるための議論。それを可能とする、コミュニティの存在。縦社会の会社組織の中で作るのはむずかしいが、これを避けていると、自分たちもいつかマネジメントの立場に立ったとき、認知症に陥る危険性がある。

マネジメントは、逆境のときにこそ、重要になる。順調なときは、環境がそろえば、あまり深く考えずとも組織は成長できる。それは昭和の高度成長時代が示したとおりだ。してみるとわたし達の社会は、本当は、ずっと以前から、マネジメント的な認知症の気(け)があったのかもしれない。社会が老成してきた今こそ、わたし達は他者との議論を大切にしていくべきなのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)
 →「どうどう巡りの議論を避けるために」https://brevis.exblog.jp/27411722/ (2018-07-14)




by Tomoichi_Sato | 2018-11-27 12:24 | 考えるヒント | Comments(0)

ミニレビュー:ジャパンナレッジ

しばらく前から、『ジャパンナレッジhttps://japanknowledge.com/ を使っている。小学館系の(株)ネットアドバンスが提供する有償サービスだ。iPhoneでは、専用のアイコンをホーム画面において、すぐアクセスできるようにしている。

一番使う用途は、英和辞典としての利用かな。ランダムハウス英和大辞典やプログレッシブ英和中辞典、理化学英和辞典、Cambridge English Dicstionaryなどの複数の辞書が、まとめて一括で検索できる。これは楽だ。

つぎによく使うのは、百科事典としての利用だ。平凡社の世界大百科事典、日本大百科全書(ニッポニカ)が同時に検索でき、電子辞典だから当然ながら、他の記事や他の時点とも相互にリンクされている。

さらに、会社四季報も検索できる。加えて、Imidasや現代用語の基礎知識などの情報源も使える。上記の検索が、すべて一括で行えるから、ある企業の沿革を百科事典で見てから、経営状態と株価推移を確かめる、といった複合的な調査を、一発で行える点がとても便利だ。

それにしても、世の中にはGoogle・Yahoo!など、有力な検索エンジンがいろいろある。そして、知識についてもWikipediaという便利なものがあるのに、なぜ、わざわざ有料のサービスを使っているのか。

それは、自分の検索を、ネットの有力企業に勝手に調べられたくないからだ。GoogleやYahoo!でなにかを検索すると、彼らはわたしの検索履歴を、ちゃんと記憶している。そして、ちょっと何かを調べると、すぐに関連する広告が閲覧中のWebページに表示されたりする。読者諸賢は、自分が買いたいわけではないモノを調べただけなのに、すぐ広告欄に「おすすめです」みたいに表示された経験を、お持ちではないだろうか? わたしには、なんとも気分が良くない。余計なお世話だし、こうやって自分のプライベートな情報が全部、誰かの筒抜けになっているのはやりきれない。

Wikipediaも、最近あまり利用したいと思わなくなった。無償なのは素晴らしい。記事のエントリー数もすごい。内容はまあ、はっきり言って玉石混交だが、もちろんよく書けている記事もある。記事内容の正確性は、市販の百科事典に比べて遜色がない、という話を、何年も前に聞いた。

だが、わたしは執筆者も仮名、組織の代表者も不明、という形で提供されるコンテンツを、本心から信頼できない。ウィキペディア日本語版のリーダー、日本代表者は誰なのだろうか? いや、そもそも日本には、ウィキメディア財団のLocal Chapterすら、いまだに設立されていない。なぜなのだろう? 不思議である。

ウィキペディアの記事は、誰でも執筆・編集できるわけだが、記事に[要出典]等の、さまざまな批判的ラベルを貼って、印象を操作しようと思えば、できないわけではない。公正さを要請するためにあるはずのラベルだが、じつは印象操作にも使えるのだ。Wikipedia日本語版の編集に、某大手広告代理店が関わっているという噂は、もちろん根も葉もないものだと信じたい。しかし、なんだか変だなと思うことも、たびたびある。

わたしは、原則として公開するコンテンツは著者名を明らかにするべきだ。と考えている。なぜなら、著者が明らかならば、どんなにバイアスのかかった記事であっても、「ああ、またこの人が書いているのだな」と受け取れば済むからだ。バイアスのない人はいない。間違いのない人もいない。偏りも不正確さも含めて、文章を書くという行為の責任の一部だと思う。だから、わたしのこのサイトだって(会社員なのに)実名で書いている。Wikipedia日本語版のように、著者も編集者も運営者も、すべてが匿名可能なメディアには不信を感じるのだ。

もともとジャパンナレッジにたどりついたのは、平凡社の世界大百科事典が使えるからだ。かつて、この事典の編集長だった林達夫氏を、わたしは日本最高の知性の一人として、尊敬している。以前はCD-ROMで販売されていた時期もあったが、最近は聞かなくなった。そこで調べたら、ジャパンナレッジに含まれているということが分かったのだ。

おまけに、iPhoneで気軽に使える、しかも信頼性の高い英和辞書もほしかった。ながらく英辞郎を買って使っていたが、いくつかの点で使いにくくなった。ジャパンナレッジなら、辞書と事典が一緒にひける。これは本当に便利だと思う。

おまけに、ジャパンナレッジが素晴らしいのは、辞書事典以外にも、「本棚」として、平凡社の『東洋文庫』(692冊)と、小学館の『新編 日本古典文学全集』(88巻)が、ネットでいつでも読めることだ。

東洋文庫の奥深さは、まことに驚異である。アラビアのロレンス「知恵の七つの柱」がある。ギリシャとインドの哲学対話を描いた「ミリンダ王の問い」がある。西洋人による戦国時代の日本の貴重な記録である、フロイス「日本史」がある。もちろん、「アラビアン・ナイト」全巻もある。「白居易詩鈔」も「聊斎志異」もある。おお、なんと素晴らしい!

日本古典文学全集だって負けてはいない。古事記も日本書紀も、新古今和歌集も、能の謡曲も、ふりがなつき注釈付きで、全部読める。

そして、「週刊エコノミスト」も、直近号まで読める。テキストでもPDFイメージでも表示可能だ。

知識情報は、いかに厳選するかが大切な時代になっている。今や、売りたい側の企業や組織が、資金の力で有無を言わせず、無償の情報をプッシュしてくる時代だ。わたしたちは、かなり防戦一方になってきている。ジャパンナレッジは、そんな現代において、信頼に足る情報源として、また古典的な書籍の無料の電子図書館として、とても有用だ。料金は年契約で、月額1,350円。安価だとはいわない。でも、十分価値があるとわたしは信じて、毎日使っている。


by Tomoichi_Sato | 2018-09-12 12:07 | 考えるヒント | Comments(0)

どうどう巡りの議論を避けるために

1.「どうどう巡りの議論」、その症状と原因
前回は、ビジネス上の『議論』の価値について,少し考えてみた(「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/2018-07-04)。ところで、わたし達が仕事において行う議論は、しばしば、どうどう巡りに陥る傾向があるように思われる。これが、ビジネスにおける議論や会議を、「時間のムダだ」と感じる原因の一つなのだろう。具体的に、どんなことが起きやすいか、考えてみよう。

やっぱり、××なんじゃないの?」−−たとえば、これがよくある症状の一つである。あるテーマが議題にあがる。「○○という課題があるが、××かもしれないな」という風にはじまる。そして皆で、さんざん議論する。そのあげく、派生して出てきたいろいろな意見は結局、全部否定され、最初の××という意見へ回帰してしまう。じゃ、あの議論は何だったんだ? と大方の人間は感じる。

ここには、××という意見に対する、客観的な検証の働きがない。そもそも、たいていの意見は、予想や推定や憶測の部分を含み、『仮説』である。仮説である以上、検証が必要だ。だが、××がその組織で長年、共有されてきた指針に近ければ近いほど、検証しようとする働きがききにくくなってしまう。これが、どうどう巡りの議論を生む、よくあるパターンの一つだ。

それは認められないな」−−これもまた、よくある議論のデッドロックの一つである。複数の部門から人が集まって、議論をする。大方の参加者は、△△が良い結論だろう、と考える。ところが、ある参加者だけが、その結論を拒否する。△△という方策が、その参加者の属する部門の協力を必要とする場合、そこで話は全てとまってしまう。

このような症状は、参加者が自分の立場に固執するために起きる。その人自体が頑固者、というよりは、かれが部門の利益代表で、代案を持ち帰ると拒絶される恐れがあるから、ノーというのだ。冷戦時代の旧ソ連の国連代表は、「ミスター・ニェット」と陰で呼ばれていた(「ニェット」はロシア語でNoという意味らしい)。理事会にどんな提案をしても、彼の拒否権で否決されてしまう。だが彼は会議の場で少しでも妥協して帰ると、母体組織からつまはじきにされてしまう。このように、議論の参加者が皆、所属部門の利益代表としてふるまうようだと、議論は前に進まず、どうどう巡りにおちいりやすい。

また同じ議題ですか」−−これもよくある症状だろう。たしか似たような話を、2ヶ月前にも話し合ったはずじゃないか。そりゃあ、あのときは関西営業部の問題で、今度は東北工場のことかもしれない。でも、同じような問題が、あちらでもこちらでも繰り返される。毎回、対応策を議論して考える。そしてなんとか火を消し止める。だが少したつと、また煙がどこやらから立ち上りはじめる。

つまり、組織が過去の経験から学ばず、教訓(Lessons Learned = LL)が生かされないのである。少し真面目な組織なら、問題報告と始末書は一応、ドキュメント化されて、部長の判子もついて、どこかにファイルされているかもしれない。だが、それを他の部署の人は読まない。存在も知らない。同じ部署でさえ、探していなかったりする。あるいは沢山ありすぎて、読む気にならないのかも知れない。理由が何であれ、似たような問題を毎回議論していると、何のための議論だ、という気になってくる。

もう少し状況の変化を待とう」−−これは、あれこれ議論した後で、何も決めずに話を終えるパターンだ。じゃあ次回の会合で決めるのかというと、やはり「もう少し待とう」ということになる。決断の先延ばしである。

このように「待ち」の姿勢のまま、どうどう巡りする組織は、外部環境からの要請が無いと、自分からは変化できない、Event driven型の組織だと思える。江戸幕府末期もそうだったかもしれぬ。黒船が来て、はじめて慌てる。来なければ、そのままだった。いろいろと体制に問題が生じているのは自覚しているのだが、惰性が強いのだ。あるいは、自分が目指すべきビジョンとか、主体的な成長への意思が、欠けているというべきか。ただ守りと組織の維持だけが、自己目的化しているのである。

いい案が出ないなあ」−−議論におけるアイデアの枯渇症状である。何度時間をかけて議論しても、ぱっとしたアイデアが出ない。世の中には『デザイン思考』をはじめ、アイデア出しのための技法はいろいろある。そういうのを学べばいいじゃないかと、はたの人間は思ったりする。それも一理あろう。しかし、どんな技法を持ってきても、あまりブレイクスルーの生じない議題もある。

それは、問題設定の在り方自体が良くないために起きるのだ。アイデアをだしたければ、「良い問い」を立てる必要がある。これについては、エイミー・ウェブという未来予測の専門家が、面白いことを言っている。(以下、週刊ダイヤモンド『未来予測に欠かせない「社会の片隅にあるシグナル」の探し方』 http://diamond.jp/articles/-/151780?page=4より引用)

“大手自動車メーカーで仕事をしたときに、彼らは「今後20年を見据え、未来の車がどうなるのか」ということを知りたがっていました。
 ですが、私は言いました。「その問いはよくありません」と。なぜなら、自動車会社は「車社会が残っている」「車を作って売らないといけない」という前提に立っていたからです。ここで、もしシグナルを拾いたいのであれば、問いの立て方を考え直さなければなりません。
 つまり、「今後20年、人やものの運び方がどう変わるのか」について考えなければならない。シグナルを見つけるには、よりよい問いを立てることが重要なのです。
 先の航空会社の例も同じです。「未来の飛行機がどうなるのか」ではない。「今よりもはるかに早く人々が移動する未来」を考えなければなりません。そう考えれば、自動車や飛行機に限らず、社会の隅々にある情報に目が向くはずです。”

(引用終わり)

このような、どうどう巡りの議論が生じる根本原因は、その組織が持つ「思考と行動習慣の体系」(=OS)にバグがあるためだ。だが、この話は論じると長くなるため、別の機会に譲ることとし、話を先に進めよう。


2.議論というものの性質

これは何度か書いていることだが、議論をカラ回りさせないために大切なことは、事実と意見を一応、区別することである。事実は誰もが合意でき、共有できる。そして事実は検証可能だ。だから事実に関する議論は、ふつう水掛け論にはならない。

ところが意見はしばしば食い違う。これは意見というものが、事実を基にしつつ、価値観を加えて、推測や分析や評価を行った結果として現れるからだ。2018年のワールドカップで、日本は準決勝まで進めなかった。これは事実で、反論する者はいない。ただ、その事実からどんな評価や原因分析をするかは、人によって意見が分かれる。つまり、

 事実+価値観=意見

なのである。価値観は人により様々なので、それでも議論で合意に達するためには、それらの違いをカバーできる「共通価値観」をさぐる必要がある。たとえば、「何のかんの言っても、日本のサッカーが世界の上位の常連に」とか、「この会社自体がツブれたら俺たち皆、元も子もないじゃないか」といった地点まで遡るのである。

その上で、事実や意見の組み合わせから、意味のある共通仮説が議論によって生まれてくる。その仮説はさらに、事実で検証・補強されなければいけない。「今はこれこれだと決めよう。だが今後もあのデータを取って、検証を続けよう」・・こういう風に進むのが、望ましい議論のあり方だ。

そして、議論を続けていくと、ようやく結論が成熟していく。この成熟度カーブは、たいていの人は、1番目の図のような形だと、漠然と思っている。つまり、最初はあまり議論がかみ合わないが、途中から次第に進み始める。そのうち、議論が煮詰まって、あまり先に進まなくなる。全体としては、ローマ字のSカーブのようになる、と。

しかし、議論の過程をよく観察していると、じつは成熟度のカーブは一度平坦になっても、さらにジャンプして新しい水準にあがることを、断続的に繰り返す場合がある。これは、議論している中で、新しい論点の発見があることに対応している。上に引用したように、「未来の自動車とは」の議論から、「モビリティの未来像とは」という風に、新しい地平がひらけるのだと考えられる。2番目の図のパターンだ
e0058447_23132551.jpg

そして、こういう新しい論点の発見は、やはり時間をかけて議論するからこそ、生まれるのだろう。最初からその論点を思いつけば良かったじゃないか、と、後から批評することはできる。だが、実際にはいろんな角度から論点を話し合い、煮詰まりを参加者が感じたからこそ、新しい地平に移るアイデアが生きてくるのだ。(ただし、無論ここに書いていることは数値的な裏付けがない、わたしの仮説である。だから、何らかの形で観察事実を蓄積して検証する必要があると思っている)。


3.どうどう巡りを避ける知恵

では、具体的に、議論を身のあるものにするためには、どうしたら良いのか。現時点でわたしが思いつく処方箋を、いくつかあげておこう。これらすべてを、わたしがいつも実践できているとは限らない。だから自戒も込めて、ここに書くのだが。
(1) 議論の完了条件を明確に決める
これは、そもそも会議とかミーティング開催の基本的ルールである。招集したチェアパーソンは、冒頭に、打合せの議題と、どうなったらこの会議を完了できるかを宣言する。つまりタスクの完了条件である。何かを決定するとか、事実を報告し共有するとか、何らかの担当者を選ぶとか。これなしで会議をスタートしたら、ゴールも定めぬまま船出するようなものである。

(2) 議論の経過を記録(見える化)する
打合せの書記役を決め、議論で出てきた意見を、ホワイトボードでもパソコンでもいいから、途中経過を含めて筆記する。これは多少のスキルを必要とするが、とても大事なプラクティスだ。これをすることで、どこまで何を議論したのかが見えるようになり、議論の後戻りを防ぐことができる。人間の記憶力など、かなりあてにならない道案内役であって、人はしばしばさっきの議論を忘れて、また同じ話をしたりする。どうどう巡りである。地図に進んだ道を記録しておけば、人は同じ場所を何度もめぐる愚をさけられる。

(3) 議論のモード(発見/発明/評価)を区別する
前回の記事に書いたように、議論とは、人間の思考を外出しにした形態の一種である。そして思考のモードには、発見(パターン認識)的な思考、発明(論理展開)的な思考、評価(価値判断)的な思考がある。現在の論点が、どのようなモードを必要としているのか、参加者が意識した方がいい。

(4) 主観的な形容詞・副詞を避ける
ときおり、会議の結論に、「プロジェクトのリスク・マネジメントをしっかりやっていく」「コストダウンを徹底する」みたいなのを見かける。しかし結論の文章から「しっかりと」「徹底的に」といった主観的な形容詞・副詞を抜き取ってみると、「プロジェクトのリスク・マネジメントをやる」「コストダウンをする」みたいな、変哲もない当たり前の事柄になってしまう。では「しっかり」「徹底的」とは、具体的にどのようなことなのか、今までのやり方とどこが違うのか? これを明確にしないと、何も議論しなかったのと同じになってしまう。

(5) 多義的であいまいな言葉は意味を確認するわたしのこのサイトでも繰り返し問題にしているが、「品質」「進捗」「責任」「文化」「リスク」など、皆が意味を分かっているつもりで、じつはかなり理解に幅のある用語が、世の中には沢山ある。こうした言葉は、まず意味を言葉で説明してから、使う方が賢い。拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』で、大事なOS要素(S+3K)の一つに、「言葉を大切にしよう」というモットーを入れたのも、このような議論の空回りとすれ違いを防ぐためである。

4.議論に臨むときの基本的な態度

以上、議論におけるテクニック的なことをいくつか述べた。だが、本当は技巧をうんぬんする以前に、参加する人たちの態度・体勢を正す方が大切だ。すなわち、自分の正しさを証明するためでなく、合意を得るために議論する、という態度である。議論を勝ち負けの場にしてしまうと、創造性や柔軟性が失われてしまう。

その上で、議論をどこで打ち切るか、を決めていく必要がある。議論は大切だが、タイムリミットもおいた方が良い。ビジネス上の問題には、何らかのタイムリミットが通常、存在するからだ。全員が合意に至るのが理想である。だが、そうでない場合に、継続/打ち切りを決める基準が望ましいのだ。

参加者の中には、ふつう、打ち切りたがる人も、続けたがる人もいる。これは、その人自身の性格による部分もあろうが、むしろ、その人が議論の帰趨に対し、感情的に納得できているかにかかっている。そして、この「感情的な納得度」を、バカにしない方が良い。これが得られないまま議論を打ち切ると、同じ問題が繰り返される原因になる。つまり、最初に述べた「またその議題ですか」という状況になるのだ。

先ほど、議論の成熟度のカーブを模式的に描いたが、もしそこに感情的な納得度のカーブも描き加えるとすると、それは理屈の成熟よりも、ずっと遅れてくるパターンになっているだろう。これを強引に、早めの段階で打ち切ってしまうと、理屈ではわかった。でも、まだ感情的に納得できていない、という参加者を大勢生み出すことになる。

e0058447_23142884.jpg
そして人間は、理屈で分かっても、納得できていない事は、うまく実行できないのだ。たとえ形の上では結論にしたがって行動しても、無意識の中で、「この結論のおかげで失敗する事例が生まれないかな」と期待していたりする。そして、そういう時には、実際に失敗が起きやすいのだ。議論に時間が必要だというのは、このためでもある。

そして、最後に書き加えておこう。これまでずっと、人びとの間の議論について考えてきた。議論は、思考を外部化したものだ。だが、逆に表現すると、思考とは、ある意味、他者との議論を内部化したものである、とも言える。だから、考え事によって良い結論を生み出したければ、自己の中に、他者の視点をも取り入れる必要があるのだ。一面的に考えず、多角的に考える。そして、新しい論点の地平を見つけられる程度に、時間をかけて考える。深く考えるとは、そういう行為である。そのためには、良いコミュニティに属して、自己の中の他者の視点を深耕する必要があるのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)



by Tomoichi_Sato | 2018-07-14 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

議論の品質を問う

“It was a good discussion.”(「良い議論でした」)−−欧米人と打合せした後、たまに彼らがそう感想を述べることがある。”A good meeting”(良い会議)だった、と言うケースもあるが、どちらもほぼ同じ意味で、実りある話し合いができた、ということだ。交渉の場を、この一言で締めることもあるし、普通の打合せでも使う。彼らには、打合せの結論だけでなく、議論のプロセス自体に、良し悪しの尺度があるらしい。

しかし、日本人同士で話し合う場合、打合せの終わりに、こうした吟味や感想を述べあうことは、まず、ない。もちろん普段のミーティングだって、客観的に振り返ってみれば、実際には、良い打合せせもあれば、しょうもない会議もあるのだ。だが、わたし達の社会では、他社とであれ同じ社内であれ、『議論の品質』を問う習慣がない。

最近は、ホワイトカラーの生産性に関する論議が盛んだ。「働き方改革」のかけ声にも関係するのだろう。だとしたら、ホワイトカラーの労働時間の少なからぬ部分を占める、会議・ミーティング・打合せ、などの活動の品質を上げることも、必要である。もちろん、不要な会議やミーティング自体を減らすのは、大事だ。だが、他者との議論の時間はゼロにはならない。だとしたら、ミーティングで質の高い議論ができるためには、どのような条件がいるかを考えて損はない。

なお、ここで「議論」と呼んでいるのは、組織内や組織間で行う、ビジネス上の結論を求めて行う対話的協議のことである。居酒屋で世間の事件に感想を言いあうだけとか、恋人同士の口喧嘩だとか、敵対する集団に投げつけるヤジだとか、気に入らぬ記事に140字以内でぼろくそなコメントをつける、といった行為は「議論」の範疇には入らない。あくまで対面で、かつ、顔と名前が一致する範囲で行う、有意味な話し合いについて考えている。

ところで、議論の品質を考える前に、そもそも「品質」とは何かについて、問い直してみるのもムダではあるまい。というのも、通常の工場での製造品質や、現場での工事品質とは明らかに異なるからだ。統計的品質管理手法なども、そのまますぐ使えそうにはない。

以前も書いたように、品質とは、ユーザやステークホルダの無意識の期待に合致する程度のことである。「無意識の期待」とわざわざ書いたのは、理由がある。意識され明文化された期待とは、いいかえると「性能」「仕様」「要求」であって、品質評価の基準にはならないためだ。100W規格の電球が100Wで動作するのを見て、「品質が高い」という人はいない。もちろん、「100Wの電球は60Wの電球より品質が高い」などという人もいない。

ただし、製造工程の結果が、設計書で明文化された性能や仕様を満たすよう作ることは、誰もが当然のこととして(=無意識に)期待している。だから仕様通りでない製品は「品質が低い」訳だ。この種の品質基準を「後ろ向き品質」という。

これに対して、「前向き品質」とは、あまり明確で明文化された仕様が存在しない(=自由度の高い)状況で、結果が無意識の期待以上のパフォーマンスを示したとき、使われる言葉だ。設計、ことに製品の基本設計などは、前向き品質の対象で、「質の高い設計だ」という言葉が使われる。

議論の品質も、前向き品質の一種だ。それを吟味するためには、わたし達が「議論」のどこに、何を期待するのかを明らかにしなければならない。つまり、議論という行為自体の目的(わたし達はなぜ議論するのか)である。

これには、大別して三つの期待があると思われる。

(1) 何かを見いだす、明らかにするため(発見) =帰納的思考
(2) アイデアを創出したり、結果を予測するため(発明) =演繹的思考
(3) 価値を計り、優先度をつけるため(評価) =価値的思考
 (もちろん、この3種類を、別々に単独に話し合う場合も、組み合わせて議論する場合もある)

(1)は、いろいろな事実やデータを集め、その中から特性・つながり・関係性・相似などを見つけるタイプの議論だ。事象の全体像や内部構造を見いだしたり、問題の原因を分析したり、事例をパターン分類したりすることが議論の目的となる。たとえてみれば、警察の捜査会議のようなものだ。多数のバラバラな情報を圧縮し、少数の分かりやすい説明やモデルを導き出す働きである。

これに対し(2)は、問題の解決策を探したり、予想される結果を列挙したりするタイプの議論だ。限られた要素と、その組み合わせルールから、多数の可能な予測を導き出す。ゲームの作戦会議や囲碁将棋の検討会のようなものか。発散的に情報を生成していく働きである。

そして(3)は、物事や人に対して評価をするタイプの議論だ。評価には普通、複数の評価軸がある。それらを組み合わせ、あるいは軽重を考量して、評価を下し、優先順位をつける。たとえていえば入試の審査会議(出たことないが)だろう。ここには複数の定性的事実・定量的データから、最良の者を選んだり順位を導き出す働きがある。

そして、こうした3つの議論は、我々の思考の3つのフェーズに対応している。つまり、議論とは外に出した思考なのである。一人で考えるのではなく、複数者が参加して行う思考だ。

ここから、良い議論の特性がいくつか導かれる。
(1) 創造性があること: 参加者が最初は思っていなかった地点に到達する
(2) 再現性があること: 話の経過や理路があとからたどれる
(3) 納得性があること: つまり自分が参加していても同様の結論になっただろう、と後から他者でも思える

品質の高い議論とは、参加者が(無意識に)期待したよりも、高いレベルの思考結果=結論を得て、みなが納得・共有できた状態である。

それにしても、なぜ一人で考えるより、何人かで議論して考える方が、期待よりも高い成果がでるのか。つまり、個人の思考結果の単なる足し算や、いいとこ取りよりも、優れた結果が得られるのか? 参加者のうち、一番賢い誰かの結論に従うだけなら、こうした品質の高い議論にはならないのだ。なぜ、足し算よりも価値が出るのか。

それは、ひとつには、参加者が互いに断片的な情報を持ち寄って、全体像を多面的に考えられるようになるからである。たとえば、プロジェクト・マネジメントの計画段階で行う、リスクレビューの例を考えてみれば分かる。ああ、なるほど、そういう可能性もあるのか、そんな視点もあるのか、という気づきを、こうした話し合いは与えてくれる。組織内の個人個人の視野は、どうしても限られる。でも、たとえば製造担当者と、営業担当者と、物流担当者と、設計担当者がそれぞれ情報や経験を持ち寄る。すると、一面的なデータや情報だけに頼るよりも、たしかに質が高くなる。

限られた情報に基づく私たちの見解は、常に仮説に過ぎない。したがって事実・データなどのエビデンスによる検証とアップデートが必要である。事実に基づき、仮説(推測)を形成し、価値観に従い評価する。これが客観性を作り出す基本である。

また、互いに相手のアイデアに触発され、組み合わせの妙が生まれる場合もある。評価において、異なる視点から補い合うこともある。こうしたプロセスが、「三人寄ると文殊の知恵」という諺の意味なのであろう。

そして、参加者の合意によって結論にたどりつくことも、品質の高い議論となるためには大切である。それが納得性を保証する。

ただ、どうしても合意が得られない場合は、組織では「上役」・「調整役」が決めることになる。そのかわり、その人は、意思決定の結果に責任を負うのである。

あるいは、多数決で決める場合もあろう。このとき、多数決とは、議論をつくした後の、最後の手段である。時間制約のために、やむなくとる手段である。「多数決=民主主義」みたいに誤解している人もいるが、別にそうではない。本当に質の高い議論ができれば、皆が同じ意見に収斂するので、多数決(採決)なぞ不要になる。

このような、良い議論を生み出すためには、ある種の思考習慣や態度・行動の習慣が必要になる。わたしの言葉で言えば、『組織のOS』である。それは、次のようなことだろう:

- 皆、自分の意見に対してフレキシブルでいられる
- 事実の客観的な認識の共有が出発点だと考える
- 理路・理屈をきちんと尊重する態度がある
- 議論の参加者に、お互いに対するリスペクトがある

逆に言うと、議論の結果を、勝ち負けや、損得、好き嫌い、敵味方などを基準にして決めない、ということだ。とくに議論を、勝者と敗者を決めるゲームか勝負事のように捉える考え方は、質の高い議論の敵である。品質のわるい議論とは、勝ち負けで終わる議論だ。「俺はアイツとの議論に勝った」という結果だけを求めて議論するのは、まったく「自分の意見にフレキシブル」とは対極にある。ところが、人間には競争心があるから、すぐ、こういう無意識の動機のために、議論がねじ曲がりやすい。また、短慮で全体を見ずに断定するのも、質の低い議論である。

では、良い議論を生むために必要なことは、何だろうか? たぶん、以下のようなものだ:

(1) ブレーンストーミングからデザイン思考まで、各種の技法とツール類。
(2) 練習できる場。ただし、ディベートという勝ち負けを競うスポーツは、長所短所の両面がある。
(3) 安心して議論できる仲間からなる、コミュニティ。

とくに、3番目のコミュニティの存在が、一番大切だろう。衆知を集めるには、コミュニティが必要だ。互いに相手をリスペクトできる集団である。命令・統制型のタテ社会だけでは、議論は磨かれない。

ところで、議論は思考を外的に見える化し、衆知を集める方法だと述べたが、じつは短所が一つある。それは、議論は時間がかかることだ。

ビジネスはスピードだ。即断即決で行動しいかなければ、市場をリードしていけない。・・そう信じている人にとっては、誰かリーダー1人が、すべてのことを短時間に直観的に決めていくことが、理想に思える。あるいは、お前は英米流のリーダーシップ経営を否定して、古臭い日本流のコンセンサスと合意経営を推奨するのか、という批判もあり得よう。

それに対しては、こう答えよう:わたしは、「品質の低い議論」を否定しているだけだ。品質の低い議論で全員の『合意』に達しても、そんなのは尊重に値しない。もちろん、ビジネスにも有益ではないだろう。

スピード感の点で、たしかに議論という方法は、独断即決に比べて見劣りする。しかし、より客観的である方が、より論理的な思考の結果にたどりつける。そして、きちんと衆知を集める方が、中期的には、安全性が高いとわたしは思う。それは大型プロジェクトのビジネスに、長年従事してきた者の実感だ。

そういう意味で、議論に参加しているとき、自分が感情に流されていないかをチェックする習慣を、自分で確立しようと最近は心がけている。そして、これはけっこう、いや非常に、難しい。自分自身、勝ち負けにこだわりがちな性格だし、感情のキャパシティも小さいし、そもそも直感型であまり論理的でない。

だから、ときどき背筋をまっすぐに伸ばして、考え直すよう心がけているのである。背筋をまっすぐにし、肩の力を抜いてリラックスすると、感情モードから理性モードに戻りやすいのだと、心理学は教えている。わたし達の脳は、とても身体的なのだ。少なくともわたしの脳は、そうだ。限りある乏しい知的資源を活かしていくために、だから、わたしはなるべく他者と質の高い議論をしたいと願っているのだ。


<関連エントリ>
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」 https://brevis.exblog.jp/17805452/ (2012-04-18)





by Tomoichi_Sato | 2018-07-04 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)

考え、気づく場としての空間を設計する


目を閉じ、頭を下げて腕組みをする。あるいは、逆に椅子の背にもたれかかって、足を組む。そして、しばらくじっとしている。ほとんど、居眠りをしているのではないかと、疑われるポーズだ。どうみても、働いている姿勢ではない。少なくとも、何かをしてるようには見えない。・・こういうことが、勤務先でのわたしには、ときどきある。

だが、こうした、傍目からは何もしていない(居眠りしている)ように見えるときが、じつは一番働いている瞬間なのだと、わたし自身は思っている。いや、別にクビにならないための言い訳をしているのではない(笑)。それは、自分が集中して考えているときの姿勢だからだ。

逆に言うと、自分がパソコンに向かって忙しくキーボードをたたいているときは、もうアウトプットの段階にいるのだ。あるいは、材料の整理の段階かもしれない。考えるときは、インプットの材料の整理が必要だ。そして、考えた結果は、アウトプットしなければ使えない。ただ、考えるプロセスそれ自体は、頭の中のできごとで、外からは見えない。

もちろん、人が考えるときの姿勢ややり方は、様々だ。部屋の中を歩き回らないと考えられない人もいる。背筋を伸ばし、首を伸ばして宙をにら人もいる。ただ、どういう姿勢でいるときが、自分にとって一番頭が回るか、自覚している方が良い。皆さんは、ご自分にとってベストな「考える姿勢」をお持ちだろうか?

ソフトウェア工学の大家トム・デマルコが、昔の友人のエピソードを、たしか『ゆとりの法則』に書いていたと記憶する。その友人は、ベル研究所の自分のデスクで、ある問題について、考えていた。アメリカ人の若い学者がよくやるように、足を机の上に投げ出し、椅子にそっくりかえって、込み入った数式の解決法を考えていたのだろう。すると彼の部屋にマネージャーが来て、「何をしてるのかね?」とたずねる。「え? 考え事をしているんです」と彼が答えると、その管理職は、

「考え事! そんなことは、家でしたまえ」

と叱りつけて、行ってしまったというのだ。その友人はあっけにとられたが、後年、研究職を離れて、会社を作り、かなり成功したという。まあ、研究所なのに、考えるのは家でやれと命じられたら、そういう気持ちになるのも無理はない。

この話を紹介しつつ、デマルコは、「時間的プレッシャーをかけても、人間は早く考えることはできない」という『リスターの法則』を紹介する。これは現代の、スピードと効率性重視の経営に対する批判でもある。人が考えるためには、集中できる時間が、ある程度持続して必要なのだ。集中して考える時間が与えられなければ、創造的なアイデアは生まれない。

ただし、アイデアを思いつくのは、机の前とは限らない。昔から、「馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)」という言葉がある。これらをまとめて「三上(さんじょう)」とよぶのだが、考え事をするのに適した場所、アイデアを思いつくのは、馬に乗っているとき(現代なら車の中か)、ベッドの中、そして厠(かわや=すなわちトイレ)の中だ、というのである。アルキメデスのように、風呂に入っているときひらめく、というのもあるだろう。わたし自身、かなり重要なアイデアを、出張先の新幹線のホームとか、台所で皿を洗っているときに、思いついた経験がある。

そういう意味では、考え事なら外でやれ、というデマルコの元・上司の発言も、完全に間違いとはいいきれない。ただし、事前の「仕込みの時間」がなければ、外を歩いただけでは思いつかないのも事実だ。

米国の広告業界で有名なクリエーターだった、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』 は、薄いけれども非常に中身のある本だ。ヤングは、アイデアの作成技術は5つの段階がある、という。5段階とは、
(1) 資料を収集する(ヤングは、カードやスクラップブックの使用を推奨している)
(2) 資料を咀嚼し、断片的な思いつきを蓄積する
(3) いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう
(4) →ここで突然、真に価値のあるアイデアが生まれる
(5) 生まれたばかりの新しいアイデアを現実に適合させるために、吟味し展開する

ヤングはこの発想法のプロセスを、とても生き生きとしたエピソードで描いてみせる。有用なアイデアは第4段階で生まれるのだが、ここにいたるまでに、(1)〜(3)の準備段階を、丁寧に、かつ周到に行う必要がある。それぞれ、どういう注意が必要かは、同書をぜひお読みいただきたい。ただ、インプットと準備がないまま、漠然と腕組みして待っていたって、どんなインスピレーションも訪れないのは確かだ。

また、このようなプロセスを、組織がきちんと理解して『OS』化する方が、当然、企業の知的生産性は上がるだろう(組織のOSとは、体系化され習慣化された思考と行動規範のことを指す)。そもそも、知的生産性という事に関して、組織が関心を持ち注意を払って、施策をほどこしているかどうか。ただし、そうした施策はしばしば、人間のモチベーション研修や報奨制度など、ソフト面からのアプローチに偏りがちだ。でも、もっと別のアプローチもあるのだ。

随分前のことになるが、わたしの勤務先の大先輩から、ある顧客企業の話を聞いた。その企業は、東京近郊と、地方の学園都市に、二つ研究所を持っていた。東京近郊の研究所は、建物も小さく設備も古い。他方、学園都市の研究所の方は、もっと後から作られたのだが、広大な敷地に豊かな近代的設備を持っている。組織もでかく、若くて優秀な人も多い。

ところが、その企業の重要な新製品は、古くて狭い東京の研究所ばかりから、なぜか生まれるというのである。その先輩は、二つの研究所を実際に訪問し、何が違うのかを調べた。途中の詳細は省くが、彼がみつけた仮説は驚くべきものだった。それは、知的生産性の差は、建物のハードウェアにかなり依存しているというのだ。

古い研究所の建物は、実験設備と研究室がごっちゃに混在しているタイプのレイアウトだった。職員はその中を互いに行き交う。他方、新しい研究所の方は、近代的なアクセス・セキュリティの観点から、研究室は個室化され、また職員が自分の領域外に勝手に出入りできないよう、扉のロックがきめ細かく制御されていたらしい。もちろん、居室と実験室の動線もきれいに分離されている。

その結果、何が起きたか。古い研究所の方では、互いに異なる研究テーマを抱えた研究者達が、おもわぬところでばったりと行き会い、そこで議論や雑談が生まれる。他方、新しい研究所では、まるで団地のように、通路はあれどすべて個室はドアで閉ざされていて、思わぬ出会いのうまれる余地がない。このことが、新製品開発の知的生産性を、左右しているのだろう、というのだ。

その先輩は、論拠として、MITのトマス・アレンの研究成果を引用していた。トマス・アレンはMITのビジネススクールの教授で、製品開発プロセスについて長年研究した人である。彼は元々、航空機会社のリサーチ・エンジニアだったが、ビジネススクールに通って、どうしたら開発の生産性を上げられるかを学ぼうとした。ところが当時の経営学には、そうした問題への答えがないことを知って、みずから研究に取り組んだのである。

トマス・アレンが注目したのは、人と人とのコミュニケーションであった。アイデアは、異質なものの組み合わせで生まれる。このことは、以前から知られていたし、上記のヤングの本も指摘している。である以上、研究開発におけるアイデアの創出には、人と人のコミュニケーション量がかかわっているだろう、とアレンは推測した。彼は実際に、数多くの企業において、コミュニケーションの頻度調査を行った。

その結果、アレンが見いだしたのは、「30m理論」とよばれる法則性だった。簡単に言うと、組織内でのコミュニケーションは、人と人が実際に物理的にどれだけ離れているかに、かなり依存するのだ。頻度はちょうど惑星の引力のように距離とともに減少していき、30mを越えると、かなり無くなってしまう。

それは昔の研究だろう、今は電子メールがあるから違うはずだ、と思われる方もいるかもしれない。アレンはちゃんと、その問題もフォローしている。そして、「対面のコミュニケーションが少ない相手とは、電話や電子メールのやりとりも少ない」という統計的法則を見いだしている。不思議なことに、人間は、物理的に近くにいる人と、しゃべりたがるのだ。オフィシャルな用件の多い少ないにかかわらず。

そこから導かれる方案とは何か。それは、人の知的生産性を活性化したかったら、人と人が出会うように、組織と空間のあり方を工夫すべきだ、ということである。組織をへたに分断すると、一種のみえない壁をつくってしまうことは、よく知られている。しかし建物の中にある、物理的な壁も、けっこう人と人とを分断するのだ。経営学はこの点を見落としていた。

では、一切の壁を取り払って、全部大部屋にすれば良いのか。話はそう単純ではない。建物の構造や空調、そして実験室など部屋の機能に応じて、どうしても壁は作らざるを得ない。と同時に、人には考え事に集中できるための、雑音から切り離された空間も必要である。

集中できることと、人との出会いの機会を、どう両立させるか? ここに建築設計の知恵が登場するのである。トマス・アレンがドイツの建築家グンター・ヘンと共同で執筆した『知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する』には、そうした建築上の工夫がさまざまに紹介されている。

たとえば欧米はどうしても個室志向が強く、下っ端の内は大部屋でも、リーダークラスになると2人部屋、管理職には個室、という慣習をよく見かける。しかし、個室の前面に広いガラスを用いて、静寂だがオープンな雰囲気を作ることはできる。そもそも大部屋でも小部屋でも、見渡した時「あそこに誰某君がいるな」と視認できることが、コミュニケーションを活性化する上で、大切なのである。また、人と人とが出会って立ち話ができる、導線のコーナーのような場所を作ることも大事だ。

グンター・ヘンはBMW社のために、新製品開発センターである「プロジェクトハウス」も設計している。この建物は、通常のオフィスの居室が各フロアの周囲にあり、中心部分に向かう通路がスポークのように通じている。その中心部分のスペースには、現在開発中の新車種のモデルなどが置かれており、それを見ながら皆がディスカッションしたり雑談できるようになっている。こうした建物は、従来のただ真四角の箱のような研究所とは、違った活性を持つように思える。

彼は工場にも同様に、人が他の部署の人やモノにふれあえるレイアウトを作っている。チェコのシュコダ社の自動車工場は、2本並行して走る組み立てラインの中央に、技術部門や管理部門のオフィスが並んでいて、つねに工場の製造現場を見ながら仕事できるようなレイアウトだ。こうした発想は、「現地現物主義」を標榜する日本の自動車会社にも、見かけないように思える。
e0058447_23252620.jpg
スコダ社のチェコ自動車組立工場
(T・アレン、G・ヘン「知的創造の現場」ダイヤモンド社 (2008)より引用)

「生産性革命」という掛け声が、世の中を駆けめぐっている。生産性にはいろいろな切り口があるが、創造的なアイデアの創出は、大事な尺度である。そして、その中の、意外に大きな部分を、執務空間のあり方が決めていることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。アイデアとか、イノベーションといったことは、まだ誰も知らないことを生み出す行為だ。だからそれは計画できないし、知的創造性は一切のマネジメントを拒絶する、と信じている人も、時折見かける。しかし、それは組織や建築空間の工夫によって、ちゃんと向上させることができる。

といっても、何もわたしは、知的生産性を上げるために、建物をつくりかえろと主張しているのではない。机と人の配置やパーティションの選び方でも、改善できる部分はたくさんあるのだ。ただ、一人ひとりが自分に会った熟考の姿勢を体得すると共に、組織も知的生産性を意識して、ちゃんとOS化することが大切だと申し上げているのである。












by Tomoichi_Sato | 2018-01-15 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:サンタは存在するか?

Merry Christmas !!

白髪。白い頬髭。男性。年齢は70歳以上かと思われる。白色人種だが、赤ら顔。真っ赤なウールの外套と帽子をかぶっていることが、目立った特徴である。職業、住所は不詳。ただしフィンランド国ロヴァニエミ市宛てに、郵便を出すことは可能らしい。トナカイの引く雪橇という、北国風の珍しい移動手段を使う。それで空を飛ぶという噂もあるが、目撃者は皆無だ。

家の屋根におりて、煙突伝いに暖炉から侵入するらしい。ただし暖炉のない家にも訪れるという。侵入経路は不詳である。そして、眠っている子ども達に、おもちゃなどのプレゼントを贈る。それもなぜだか、靴下に入れておくらしい・・

子ども達が、「サンタさんなんていない」と思い始めるのは5歳から小学校の低中学年の頃である。幼稚園や小学校の年上の子から、「あれって、両親がこっそりプレゼントを寝てる間におくんだよ」という『真相』を教えることが多いらしい。それでも、小さい子は半信半疑だろう。小学生になると、「両親の手前、信じたふりをしておく」くらいの演技もすることがある。

サンタさんを信じなくなる頃は、『幼児』が『子ども』に変わるときだ。荒唐無稽から、理性の時代に入るわけだ。

かくして、みんな大人になる。

それなのに、いまだにサンタさんの話が街に溢れているのはなぜだろうか? だって、大人は、そして多くの青少年だって、サンタは存在しないことを知っているのだ。だとしたら、なぜ、一代限りで『サンタ伝説』はしぼんでしまわなかったのか?

そりゃあ、小さな子ども達の夢を奪わないためさ、というのは寸足らずの説明でしかない。だって、夢を保つなら、もっと信憑性のある別のやり方だって考え得るではないか。空から雪橇でやってきて暖炉から忍び込む、というストーリーは、あまりにも反証がたやすすぎる。それならせめて、「夢の国からやってきて」という方が、まだしも「寝ないで起きて確かめる」を防止できる。

「売らんかな」のコマーシャリズムがサンタ像を利用しているんだ、というのも一理ありそうでいて、必然性のない理由付けだ。だって元々、クリスマスはプレゼントの季節である。クリスマス商戦を盛り上げたいなら、ツリーやらイルミネーションなど、道具立てはいくらでもある。今の、赤い服着たサンタ像は、たしかに20世紀前半にアメリカのコマーシャリズムが補強したものだ。幼児向けのマーケティングだったのかも知れない。だが、なぜそれが世界中に広まり受け入れられているのかが、分からない。

ただ、子どもを育てていて、分かったことが一つだけある。それは、人間が育っていくためには、「物語」が必要だと言うことだ。それも、神話的な物語である方が、「物語力」が高い。

理性の発達しない小さな頃は、それこそ夢と現実の混ざり合った中で育つ。でも、多少は分別のつきはじめる歳になっても、まだ自分を支えるには「物語」を必要としている。自分が成長した先を準(なぞら)えるために、モデルやエピソードとして参照するのだ。そのためには、時代を経た、神話的な色を帯びた物語が良い。豊富なキャラやエピソードの供給源となってくれる。

そして、現代ではTVなどメディア産業が、新しい物語の配給に余念がない。たとえば勇壮な音楽とか、光る武器とかが飛び交う物語などだ。ただ、わたしはそうした消費型商品としての物語が、なぜか奇妙に痩せて平板になっていることが気にかかっている。それは、子ども達にどのような影響を与えているだろうか。

大学でプロジェクト・マネジメントを教えるようになって、もう9年目になる。この間、いささか気になる微妙な変化を感じてきた。教えにくくなってきているのだ。学生たちの学力、とくに書き言葉を含む知的能力自体は、とくに低下していないと思う。低下しているのは、学ぶ力=学びに対する態度である。

わずか一週間前、全員で手を動かして理解したはずの事を、翌週たずねると、もう忘れている学生が、少しずつだが増えている。授業は単位の取得が第一の目的だ。だが、せっかく受けるなら、何かを蓄積し、自分のできる事を増やそうと、望んでいるか。そこが奇妙に希薄になってきた。目の前、その一瞬の課題だけを、頑張ってやり過ごせば良い。一部の学生は、そう考えているらしい。

授業で、「あなたは卒業後5年後に何をしていたいか?」という質問を出すことがある。プロジェクトとは、個人と組織が成長するための最良の手段だと思うからだ。そこまず、自分の近未来の成長の姿をイメージしてもらう。だが近頃は、「会社で命じられる仕事をこなして、あとはプライベートな生活を守りたい」という回答がいくつも出てくる。わたしは複数箇所で教えているが、いずれも有名大学・一流校といわれるところだ。それなのに、日本で最高峰と言われる学校の大学院でさえ、そうした傾向が散見されるのだ。

彼ら学生にとってどうやら、勉学・仕事とは報酬を得るために与えられる苦役である、らしい。世界は次々と、自分たちに課題や苦役を与えてくる。それを、いかにしのいで、自分らしさを守るかが、二十歳そこそこでテーマになっているようだ。だから、就活に向かう学生たちは、ブラック企業かどうかを問題にする。

もちろん、労働搾取的な経営は重大な社会問題だ。そこに議論の余地はない。だが、ジョブズの下でMacintoshを開発していたチーム、Bill Joyと一緒に寝食を忘れてSUNを開発していた創始者達。あれは長時間労働の、ブラック企業だったのか? 彼らは、自分たちが世界を変えられると信じて、働いていたのだ。

ブラックとは、労働時間だけで計れるものではない。「自分たちが世界を変えられる」と信じる度合いと、投入する労働時間の比率で、ブラックかどうかは決まる。自分たち自分たち自身の主人であるかどうかが大事なのだ。希望なき奴隷制度の下で働く人達の下では、たとえ1日6時間労働でもブラックに違いない。

わたしが最近の学生の傾向について心配を述べると、それは「ゆとり教育世代だから」という解説がかえってくることがある。だが、ゆとり教育とは何だったのか。わたし自身の子どもが、まさにゆとり世代だったから、その実相については多少知っている。

ゆとり教育』と呼ばれた制度は、2002年から2011年までの期間、続いた。ゆとり教育が本当に学力低下をもたらしたかどうか、という事実についてはまだ、論争に決着がついていない。だが、学校の授業時間が減らされるときいて、真っ先に浮き足だったのは親達だった。このままでは「良い学校」の受験に通らないと焦った都市圏の父母は、子どもを学習塾に通わせるようになった。

数値的データは示せないが、この10年くらいに目立って増えたのは、小学生の夜の塾通いだ。夜8時、9時に電車に乗っている子ども達の姿を見かけるようになった。あの子達は、いつ、誰と夕食をとっているのだろうか。すでに勤め人の父親は、平日は家で夜、家族と食事をとれなくなっている。それで子どもも夕食を外でとるのだとしたら、家族はバラバラではないか。そして受験教育と、繰り返される模擬試験。そのように育って得られた世界観とは、子ども達にとってどのようなものだったのか?

それはいわば、会社用語に翻訳すると、KPIと査定の繰り返しとしての人生であろう。あるいは、≪自動販売機としての世界≫といってもいいかもしれぬ。そこでは、労力というコインを投入すると、投入額に比例して、お目当ての商品が出てくる。投入しない者には、与えられない。そこから生まれるのは、何も持たぬ者、貧しい者は、「投入しなかったのだ」という結論である。努力を投入しなかった奴がいけない、という自己責任論。それが≪自動販売機的な世界観≫の、脅迫的な帰結である。

もう一つ、付け加えたいことがある。それは『談合』の存在だ。今、メディアでは巨大な公共的工事をめぐって、談合が行なわれていたというニュースが流れている。だが、わたしの知るところでは、問題の某業界のみならず、〇〇業界でも××業界でも、受注調整の相談がこっそり行なわれている。公共事業だけでなく、私的取引の分野でも、だ。わたし達の社会はそのようにして、目に見えない既得権と参入障壁の網の目が、がんじがらめに取り囲んでいる。新参者がイノベーションを持ち込めないようにできている。

公式にはダメなはずの談合が行なわれ続けているのは、受発注の双方に、それなりの社会的なメリットがあるからだ、という議論も非公式には存在する。だが、そういう主張に仮に三分の理を認めたとしても、談合社会には一つ明らかな弊害がある。それは、若い人から参入と成長の希望を奪うということだ。すでに頑丈に出来上がった社会、先行者の既得権に穴をうがち入り込む隙もない社会に、どうやって希望を持てるというのか?

どんなに経済的に立派であろうと、若い人が希望を持てない社会は最悪だと、わたしは思う。自動販売機としての世界とは、投入とその結果が、すべて予見可能な世界である。何か驚くような、思いもかけぬ、しかし良いことなんか起こりようのない人生。それは、サンタクロースが表象する世界観とは正反対だ。サンタが教えているのは、この世には、何か予見できない、しかし驚嘆すべき、うれしいことが起こりうるという感覚である。それは自動販売機ではない世界だ。

学生達に教えていると、それを、多少感じることはある。「将来は結婚して、家庭生活を守ります」などと言っていた学生に、ていねいに教えていると、「プロジェクトで人と何か作り上げていく体験は、面白いと感じました」などと、最後に感想を述べてくれることもある。ほんのちょっとでも、人が変わりうるということ、成長しうると言うのは、ありがたい(有り難い)ことだ。

そうした成長への意欲は、とくに女子に多く感じられるのも、最近の傾向である。今の世の中は、なぜか男の子が育ちにくいのだと思う。男はどうしても社会的動物としての性格が強い。だから社会の目が詰まっていて息苦しいと、希望を持ちにくいのかも知れぬ。彼らはまさに、オトナ達が作り上げてきた「教育という名の管理」の犠牲者である。

ただ、犠牲者と言っても、まだ若い。だから、本当は復元力がまだある。そのきっかけになるのは、『信じること』である。この世には何か良いことがありうると、信じること。それと同時に、逆に教えたり管理したりする側のオトナたちも、彼らを「信じる」ことが必要なのだ。信じないから、取り締まり的な「管理」をしたくなる。だが、人を育てたかったら、「信じて」「待つ」ことが一番大切なのだ。すぐに相手を査定し選別・排除しないで、じっと可能性を待つこと。それはずいぶん忍耐心のいる仕事だ。だが、それをあきらめたら、結果として「人が育たない」「人手不足」という形でツケが回ってくるのは自明だ。

今から2千年前、完成し煮詰まってしまったようなローマ帝国の片隅で、変わらぬ支配下にあえぐ下層民の間に、「この世はもっと良くなりうる」という、不思議なメッセージを携えた人が生まれた。クリスマスとは、その人の生誕、この世への来訪を記念する行事としてはじまった。「あなた方の中で一番小さい者、弱い者に対してすることは、すなわちわたしに対してすることだ」と、その人は最後に言い残した。サンタクロースは、後年、その人にならって、現在のトルコで貧しい子ども達のために活躍した、聖ニコラオという人がモデルになっている。この世を少しでも住みよくしたければ、消費財としての夢物語を売るだけでなく、人の成長という不思議な物語を『信じる』ことから、はじめなければならない。


<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:幸せな人」 http://brevis.exblog.jp/22671239/ (2014-12-23)



by Tomoichi_Sato | 2017-12-25 07:56 | 考えるヒント | Comments(0)