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どうどう巡りの議論を避けるために

1.「どうどう巡りの議論」、その症状と原因
前回は、ビジネス上の『議論』の価値について,少し考えてみた(「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/2018-07-04)。ところで、わたし達が仕事において行う議論は、しばしば、どうどう巡りに陥る傾向があるように思われる。これが、ビジネスにおける議論や会議を、「時間のムダだ」と感じる原因の一つなのだろう。具体的に、どんなことが起きやすいか、考えてみよう。

やっぱり、××なんじゃないの?」−−たとえば、これがよくある症状の一つである。あるテーマが議題にあがる。「○○という課題があるが、××かもしれないな」という風にはじまる。そして皆で、さんざん議論する。そのあげく、派生して出てきたいろいろな意見は結局、全部否定され、最初の××という意見へ回帰してしまう。じゃ、あの議論は何だったんだ? と大方の人間は感じる。

ここには、××という意見に対する、客観的な検証の働きがない。そもそも、たいていの意見は、予想や推定や憶測の部分を含み、『仮説』である。仮説である以上、検証が必要だ。だが、××がその組織で長年、共有されてきた指針に近ければ近いほど、検証しようとする働きがききにくくなってしまう。これが、どうどう巡りの議論を生む、よくあるパターンの一つだ。

それは認められないな」−−これもまた、よくある議論のデッドロックの一つである。複数の部門から人が集まって、議論をする。大方の参加者は、△△が良い結論だろう、と考える。ところが、ある参加者だけが、その結論を拒否する。△△という方策が、その参加者の属する部門の協力を必要とする場合、そこで話は全てとまってしまう。

このような症状は、参加者が自分の立場に固執するために起きる。その人自体が頑固者、というよりは、かれが部門の利益代表で、代案を持ち帰ると拒絶される恐れがあるから、ノーというのだ。冷戦時代の旧ソ連の国連代表は、「ミスター・ニェット」と陰で呼ばれていた(「ニェット」はロシア語でNoという意味らしい)。理事会にどんな提案をしても、彼の拒否権で否決されてしまう。だが彼は会議の場で少しでも妥協して帰ると、母体組織からつまはじきにされてしまう。このように、議論の参加者が皆、所属部門の利益代表としてふるまうようだと、議論は前に進まず、どうどう巡りにおちいりやすい。

また同じ議題ですか」−−これもよくある症状だろう。たしか似たような話を、2ヶ月前にも話し合ったはずじゃないか。そりゃあ、あのときは関西営業部の問題で、今度は東北工場のことかもしれない。でも、同じような問題が、あちらでもこちらでも繰り返される。毎回、対応策を議論して考える。そしてなんとか火を消し止める。だが少したつと、また煙がどこやらから立ち上りはじめる。

つまり、組織が過去の経験から学ばず、教訓(Lessons Learned = LL)が生かされないのである。少し真面目な組織なら、問題報告と始末書は一応、ドキュメント化されて、部長の判子もついて、どこかにファイルされているかもしれない。だが、それを他の部署の人は読まない。存在も知らない。同じ部署でさえ、探していなかったりする。あるいは沢山ありすぎて、読む気にならないのかも知れない。理由が何であれ、似たような問題を毎回議論していると、何のための議論だ、という気になってくる。

もう少し状況の変化を待とう」−−これは、あれこれ議論した後で、何も決めずに話を終えるパターンだ。じゃあ次回の会合で決めるのかというと、やはり「もう少し待とう」ということになる。決断の先延ばしである。

このように「待ち」の姿勢のまま、どうどう巡りする組織は、外部環境からの要請が無いと、自分からは変化できない、Event driven型の組織だと思える。江戸幕府末期もそうだったかもしれぬ。黒船が来て、はじめて慌てる。来なければ、そのままだった。いろいろと体制に問題が生じているのは自覚しているのだが、惰性が強いのだ。あるいは、自分が目指すべきビジョンとか、主体的な成長への意思が、欠けているというべきか。ただ守りと組織の維持だけが、自己目的化しているのである。

いい案が出ないなあ」−−議論におけるアイデアの枯渇症状である。何度時間をかけて議論しても、ぱっとしたアイデアが出ない。世の中には『デザイン思考』をはじめ、アイデア出しのための技法はいろいろある。そういうのを学べばいいじゃないかと、はたの人間は思ったりする。それも一理あろう。しかし、どんな技法を持ってきても、あまりブレイクスルーの生じない議題もある。

それは、問題設定の在り方自体が良くないために起きるのだ。アイデアをだしたければ、「良い問い」を立てる必要がある。これについては、エイミー・ウェブという未来予測の専門家が、面白いことを言っている。(以下、週刊ダイヤモンド『未来予測に欠かせない「社会の片隅にあるシグナル」の探し方』 http://diamond.jp/articles/-/151780?page=4より引用)

“大手自動車メーカーで仕事をしたときに、彼らは「今後20年を見据え、未来の車がどうなるのか」ということを知りたがっていました。
 ですが、私は言いました。「その問いはよくありません」と。なぜなら、自動車会社は「車社会が残っている」「車を作って売らないといけない」という前提に立っていたからです。ここで、もしシグナルを拾いたいのであれば、問いの立て方を考え直さなければなりません。
 つまり、「今後20年、人やものの運び方がどう変わるのか」について考えなければならない。シグナルを見つけるには、よりよい問いを立てることが重要なのです。
 先の航空会社の例も同じです。「未来の飛行機がどうなるのか」ではない。「今よりもはるかに早く人々が移動する未来」を考えなければなりません。そう考えれば、自動車や飛行機に限らず、社会の隅々にある情報に目が向くはずです。”

(引用終わり)

このような、どうどう巡りの議論が生じる根本原因は、その組織が持つ「思考と行動習慣の体系」(=OS)にバグがあるためだ。だが、この話は論じると長くなるため、別の機会に譲ることとし、話を先に進めよう。


2.議論というものの性質

これは何度か書いていることだが、議論をカラ回りさせないために大切なことは、事実と意見を一応、区別することである。事実は誰もが合意でき、共有できる。そして事実は検証可能だ。だから事実に関する議論は、ふつう水掛け論にはならない。

ところが意見はしばしば食い違う。これは意見というものが、事実を基にしつつ、価値観を加えて、推測や分析や評価を行った結果として現れるからだ。2018年のワールドカップで、日本は準決勝まで進めなかった。これは事実で、反論する者はいない。ただ、その事実からどんな評価や原因分析をするかは、人によって意見が分かれる。つまり、

 事実+価値観=意見

なのである。価値観は人により様々なので、それでも議論で合意に達するためには、それらの違いをカバーできる「共通価値観」をさぐる必要がある。たとえば、「何のかんの言っても、日本のサッカーが世界の上位の常連に」とか、「この会社自体がツブれたら俺たち皆、元も子もないじゃないか」といった地点まで遡るのである。

その上で、事実や意見の組み合わせから、意味のある共通仮説が議論によって生まれてくる。その仮説はさらに、事実で検証・補強されなければいけない。「今はこれこれだと決めよう。だが今後もあのデータを取って、検証を続けよう」・・こういう風に進むのが、望ましい議論のあり方だ。

そして、議論を続けていくと、ようやく結論が成熟していく。この成熟度カーブは、たいていの人は、1番目の図のような形だと、漠然と思っている。つまり、最初はあまり議論がかみ合わないが、途中から次第に進み始める。そのうち、議論が煮詰まって、あまり先に進まなくなる。全体としては、ローマ字のSカーブのようになる、と。

しかし、議論の過程をよく観察していると、じつは成熟度のカーブは一度平坦になっても、さらにジャンプして新しい水準にあがることを、断続的に繰り返す場合がある。これは、議論している中で、新しい論点の発見があることに対応している。上に引用したように、「未来の自動車とは」の議論から、「モビリティの未来像とは」という風に、新しい地平がひらけるのだと考えられる。2番目の図のパターンだ
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そして、こういう新しい論点の発見は、やはり時間をかけて議論するからこそ、生まれるのだろう。最初からその論点を思いつけば良かったじゃないか、と、後から批評することはできる。だが、実際にはいろんな角度から論点を話し合い、煮詰まりを参加者が感じたからこそ、新しい地平に移るアイデアが生きてくるのだ。(ただし、無論ここに書いていることは数値的な裏付けがない、わたしの仮説である。だから、何らかの形で観察事実を蓄積して検証する必要があると思っている)。


3.どうどう巡りを避ける知恵

では、具体的に、議論を身のあるものにするためには、どうしたら良いのか。現時点でわたしが思いつく処方箋を、いくつかあげておこう。これらすべてを、わたしがいつも実践できているとは限らない。だから自戒も込めて、ここに書くのだが。
(1) 議論の完了条件を明確に決める
これは、そもそも会議とかミーティング開催の基本的ルールである。招集したチェアパーソンは、冒頭に、打合せの議題と、どうなったらこの会議を完了できるかを宣言する。つまりタスクの完了条件である。何かを決定するとか、事実を報告し共有するとか、何らかの担当者を選ぶとか。これなしで会議をスタートしたら、ゴールも定めぬまま船出するようなものである。

(2) 議論の経過を記録(見える化)する
打合せの書記役を決め、議論で出てきた意見を、ホワイトボードでもパソコンでもいいから、途中経過を含めて筆記する。これは多少のスキルを必要とするが、とても大事なプラクティスだ。これをすることで、どこまで何を議論したのかが見えるようになり、議論の後戻りを防ぐことができる。人間の記憶力など、かなりあてにならない道案内役であって、人はしばしばさっきの議論を忘れて、また同じ話をしたりする。どうどう巡りである。地図に進んだ道を記録しておけば、人は同じ場所を何度もめぐる愚をさけられる。

(3) 議論のモード(発見/発明/評価)を区別する
前回の記事に書いたように、議論とは、人間の思考を外出しにした形態の一種である。そして思考のモードには、発見(パターン認識)的な思考、発明(論理展開)的な思考、評価(価値判断)的な思考がある。現在の論点が、どのようなモードを必要としているのか、参加者が意識した方がいい。

(4) 主観的な形容詞・副詞を避ける
ときおり、会議の結論に、「プロジェクトのリスク・マネジメントをしっかりやっていく」「コストダウンを徹底する」みたいなのを見かける。しかし結論の文章から「しっかりと」「徹底的に」といった主観的な形容詞・副詞を抜き取ってみると、「プロジェクトのリスク・マネジメントをやる」「コストダウンをする」みたいな、変哲もない当たり前の事柄になってしまう。では「しっかり」「徹底的」とは、具体的にどのようなことなのか、今までのやり方とどこが違うのか? これを明確にしないと、何も議論しなかったのと同じになってしまう。

(5) 多義的であいまいな言葉は意味を確認するわたしのこのサイトでも繰り返し問題にしているが、「品質」「進捗」「責任」「文化」「リスク」など、皆が意味を分かっているつもりで、じつはかなり理解に幅のある用語が、世の中には沢山ある。こうした言葉は、まず意味を言葉で説明してから、使う方が賢い。拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』で、大事なOS要素(S+3K)の一つに、「言葉を大切にしよう」というモットーを入れたのも、このような議論の空回りとすれ違いを防ぐためである。

4.議論に臨むときの基本的な態度

以上、議論におけるテクニック的なことをいくつか述べた。だが、本当は技巧をうんぬんする以前に、参加する人たちの態度・体勢を正す方が大切だ。すなわち、自分の正しさを証明するためでなく、合意を得るために議論する、という態度である。議論を勝ち負けの場にしてしまうと、創造性や柔軟性が失われてしまう。

その上で、議論をどこで打ち切るか、を決めていく必要がある。議論は大切だが、タイムリミットもおいた方が良い。ビジネス上の問題には、何らかのタイムリミットが通常、存在するからだ。全員が合意に至るのが理想である。だが、そうでない場合に、継続/打ち切りを決める基準が望ましいのだ。

参加者の中には、ふつう、打ち切りたがる人も、続けたがる人もいる。これは、その人自身の性格による部分もあろうが、むしろ、その人が議論の帰趨に対し、感情的に納得できているかにかかっている。そして、この「感情的な納得度」を、バカにしない方が良い。これが得られないまま議論を打ち切ると、同じ問題が繰り返される原因になる。つまり、最初に述べた「またその議題ですか」という状況になるのだ。

先ほど、議論の成熟度のカーブを模式的に描いたが、もしそこに感情的な納得度のカーブも描き加えるとすると、それは理屈の成熟よりも、ずっと遅れてくるパターンになっているだろう。これを強引に、早めの段階で打ち切ってしまうと、理屈ではわかった。でも、まだ感情的に納得できていない、という参加者を大勢生み出すことになる。

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そして人間は、理屈で分かっても、納得できていない事は、うまく実行できないのだ。たとえ形の上では結論にしたがって行動しても、無意識の中で、「この結論のおかげで失敗する事例が生まれないかな」と期待していたりする。そして、そういう時には、実際に失敗が起きやすいのだ。議論に時間が必要だというのは、このためでもある。

そして、最後に書き加えておこう。これまでずっと、人びとの間の議論について考えてきた。議論は、思考を外部化したものだ。だが、逆に表現すると、思考とは、ある意味、他者との議論を内部化したものである、とも言える。だから、考え事によって良い結論を生み出したければ、自己の中に、他者の視点をも取り入れる必要があるのだ。一面的に考えず、多角的に考える。そして、新しい論点の地平を見つけられる程度に、時間をかけて考える。深く考えるとは、そういう行為である。そのためには、良いコミュニティに属して、自己の中の他者の視点を深耕する必要があるのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)



by Tomoichi_Sato | 2018-07-14 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

議論の品質を問う

“It was a good discussion.”(「良い議論でした」)−−欧米人と打合せした後、たまに彼らがそう感想を述べることがある。”A good meeting”(良い会議)だった、と言うケースもあるが、どちらもほぼ同じ意味で、実りある話し合いができた、ということだ。交渉の場を、この一言で締めることもあるし、普通の打合せでも使う。彼らには、打合せの結論だけでなく、議論のプロセス自体に、良し悪しの尺度があるらしい。

しかし、日本人同士で話し合う場合、打合せの終わりに、こうした吟味や感想を述べあうことは、まず、ない。もちろん普段のミーティングだって、客観的に振り返ってみれば、実際には、良い打合せせもあれば、しょうもない会議もあるのだ。だが、わたし達の社会では、他社とであれ同じ社内であれ、『議論の品質』を問う習慣がない。

最近は、ホワイトカラーの生産性に関する論議が盛んだ。「働き方改革」のかけ声にも関係するのだろう。だとしたら、ホワイトカラーの労働時間の少なからぬ部分を占める、会議・ミーティング・打合せ、などの活動の品質を上げることも、必要である。もちろん、不要な会議やミーティング自体を減らすのは、大事だ。だが、他者との議論の時間はゼロにはならない。だとしたら、ミーティングで質の高い議論ができるためには、どのような条件がいるかを考えて損はない。

なお、ここで「議論」と呼んでいるのは、組織内や組織間で行う、ビジネス上の結論を求めて行う対話的協議のことである。居酒屋で世間の事件に感想を言いあうだけとか、恋人同士の口喧嘩だとか、敵対する集団に投げつけるヤジだとか、気に入らぬ記事に140字以内でぼろくそなコメントをつける、といった行為は「議論」の範疇には入らない。あくまで対面で、かつ、顔と名前が一致する範囲で行う、有意味な話し合いについて考えている。

ところで、議論の品質を考える前に、そもそも「品質」とは何かについて、問い直してみるのもムダではあるまい。というのも、通常の工場での製造品質や、現場での工事品質とは明らかに異なるからだ。統計的品質管理手法なども、そのまますぐ使えそうにはない。

以前も書いたように、品質とは、ユーザやステークホルダの無意識の期待に合致する程度のことである。「無意識の期待」とわざわざ書いたのは、理由がある。意識され明文化された期待とは、いいかえると「性能」「仕様」「要求」であって、品質評価の基準にはならないためだ。100W規格の電球が100Wで動作するのを見て、「品質が高い」という人はいない。もちろん、「100Wの電球は60Wの電球より品質が高い」などという人もいない。

ただし、製造工程の結果が、設計書で明文化された性能や仕様を満たすよう作ることは、誰もが当然のこととして(=無意識に)期待している。だから仕様通りでない製品は「品質が低い」訳だ。この種の品質基準を「後ろ向き品質」という。

これに対して、「前向き品質」とは、あまり明確で明文化された仕様が存在しない(=自由度の高い)状況で、結果が無意識の期待以上のパフォーマンスを示したとき、使われる言葉だ。設計、ことに製品の基本設計などは、前向き品質の対象で、「質の高い設計だ」という言葉が使われる。

議論の品質も、前向き品質の一種だ。それを吟味するためには、わたし達が「議論」のどこに、何を期待するのかを明らかにしなければならない。つまり、議論という行為自体の目的(わたし達はなぜ議論するのか)である。

これには、大別して三つの期待があると思われる。

(1) 何かを見いだす、明らかにするため(発見) =帰納的思考
(2) アイデアを創出したり、結果を予測するため(発明) =演繹的思考
(3) 価値を計り、優先度をつけるため(評価) =価値的思考
 (もちろん、この3種類を、別々に単独に話し合う場合も、組み合わせて議論する場合もある)

(1)は、いろいろな事実やデータを集め、その中から特性・つながり・関係性・相似などを見つけるタイプの議論だ。事象の全体像や内部構造を見いだしたり、問題の原因を分析したり、事例をパターン分類したりすることが議論の目的となる。たとえてみれば、警察の捜査会議のようなものだ。多数のバラバラな情報を圧縮し、少数の分かりやすい説明やモデルを導き出す働きである。

これに対し(2)は、問題の解決策を探したり、予想される結果を列挙したりするタイプの議論だ。限られた要素と、その組み合わせルールから、多数の可能な予測を導き出す。ゲームの作戦会議や囲碁将棋の検討会のようなものか。発散的に情報を生成していく働きである。

そして(3)は、物事や人に対して評価をするタイプの議論だ。評価には普通、複数の評価軸がある。それらを組み合わせ、あるいは軽重を考量して、評価を下し、優先順位をつける。たとえていえば入試の審査会議(出たことないが)だろう。ここには複数の定性的事実・定量的データから、最良の者を選んだり順位を導き出す働きがある。

そして、こうした3つの議論は、我々の思考の3つのフェーズに対応している。つまり、議論とは外に出した思考なのである。一人で考えるのではなく、複数者が参加して行う思考だ。

ここから、良い議論の特性がいくつか導かれる。
(1) 創造性があること: 参加者が最初は思っていなかった地点に到達する
(2) 再現性があること: 話の経過や理路があとからたどれる
(3) 納得性があること: つまり自分が参加していても同様の結論になっただろう、と後から他者でも思える

品質の高い議論とは、参加者が(無意識に)期待したよりも、高いレベルの思考結果=結論を得て、みなが納得・共有できた状態である。

それにしても、なぜ一人で考えるより、何人かで議論して考える方が、期待よりも高い成果がでるのか。つまり、個人の思考結果の単なる足し算や、いいとこ取りよりも、優れた結果が得られるのか? 参加者のうち、一番賢い誰かの結論に従うだけなら、こうした品質の高い議論にはならないのだ。なぜ、足し算よりも価値が出るのか。

それは、ひとつには、参加者が互いに断片的な情報を持ち寄って、全体像を多面的に考えられるようになるからである。たとえば、プロジェクト・マネジメントの計画段階で行う、リスクレビューの例を考えてみれば分かる。ああ、なるほど、そういう可能性もあるのか、そんな視点もあるのか、という気づきを、こうした話し合いは与えてくれる。組織内の個人個人の視野は、どうしても限られる。でも、たとえば製造担当者と、営業担当者と、物流担当者と、設計担当者がそれぞれ情報や経験を持ち寄る。すると、一面的なデータや情報だけに頼るよりも、たしかに質が高くなる。

限られた情報に基づく私たちの見解は、常に仮説に過ぎない。したがって事実・データなどのエビデンスによる検証とアップデートが必要である。事実に基づき、仮説(推測)を形成し、価値観に従い評価する。これが客観性を作り出す基本である。

また、互いに相手のアイデアに触発され、組み合わせの妙が生まれる場合もある。評価において、異なる視点から補い合うこともある。こうしたプロセスが、「三人寄ると文殊の知恵」という諺の意味なのであろう。

そして、参加者の合意によって結論にたどりつくことも、品質の高い議論となるためには大切である。それが納得性を保証する。

ただ、どうしても合意が得られない場合は、組織では「上役」・「調整役」が決めることになる。そのかわり、その人は、意思決定の結果に責任を負うのである。

あるいは、多数決で決める場合もあろう。このとき、多数決とは、議論をつくした後の、最後の手段である。時間制約のために、やむなくとる手段である。「多数決=民主主義」みたいに誤解している人もいるが、別にそうではない。本当に質の高い議論ができれば、皆が同じ意見に収斂するので、多数決(採決)なぞ不要になる。

このような、良い議論を生み出すためには、ある種の思考習慣や態度・行動の習慣が必要になる。わたしの言葉で言えば、『組織のOS』である。それは、次のようなことだろう:

- 皆、自分の意見に対してフレキシブルでいられる
- 事実の客観的な認識の共有が出発点だと考える
- 理路・理屈をきちんと尊重する態度がある
- 議論の参加者に、お互いに対するリスペクトがある

逆に言うと、議論の結果を、勝ち負けや、損得、好き嫌い、敵味方などを基準にして決めない、ということだ。とくに議論を、勝者と敗者を決めるゲームか勝負事のように捉える考え方は、質の高い議論の敵である。品質のわるい議論とは、勝ち負けで終わる議論だ。「俺はアイツとの議論に勝った」という結果だけを求めて議論するのは、まったく「自分の意見にフレキシブル」とは対極にある。ところが、人間には競争心があるから、すぐ、こういう無意識の動機のために、議論がねじ曲がりやすい。また、短慮で全体を見ずに断定するのも、質の低い議論である。

では、良い議論を生むために必要なことは、何だろうか? たぶん、以下のようなものだ:

(1) ブレーンストーミングからデザイン思考まで、各種の技法とツール類。
(2) 練習できる場。ただし、ディベートという勝ち負けを競うスポーツは、長所短所の両面がある。
(3) 安心して議論できる仲間からなる、コミュニティ。

とくに、3番目のコミュニティの存在が、一番大切だろう。衆知を集めるには、コミュニティが必要だ。互いに相手をリスペクトできる集団である。命令・統制型のタテ社会だけでは、議論は磨かれない。

ところで、議論は思考を外的に見える化し、衆知を集める方法だと述べたが、じつは短所が一つある。それは、議論は時間がかかることだ。

ビジネスはスピードだ。即断即決で行動しいかなければ、市場をリードしていけない。・・そう信じている人にとっては、誰かリーダー1人が、すべてのことを短時間に直観的に決めていくことが、理想に思える。あるいは、お前は英米流のリーダーシップ経営を否定して、古臭い日本流のコンセンサスと合意経営を推奨するのか、という批判もあり得よう。

それに対しては、こう答えよう:わたしは、「品質の低い議論」を否定しているだけだ。品質の低い議論で全員の『合意』に達しても、そんなのは尊重に値しない。もちろん、ビジネスにも有益ではないだろう。

スピード感の点で、たしかに議論という方法は、独断即決に比べて見劣りする。しかし、より客観的である方が、より論理的な思考の結果にたどりつける。そして、きちんと衆知を集める方が、中期的には、安全性が高いとわたしは思う。それは大型プロジェクトのビジネスに、長年従事してきた者の実感だ。

そういう意味で、議論に参加しているとき、自分が感情に流されていないかをチェックする習慣を、自分で確立しようと最近は心がけている。そして、これはけっこう、いや非常に、難しい。自分自身、勝ち負けにこだわりがちな性格だし、感情のキャパシティも小さいし、そもそも直感型であまり論理的でない。

だから、ときどき背筋をまっすぐに伸ばして、考え直すよう心がけているのである。背筋をまっすぐにし、肩の力を抜いてリラックスすると、感情モードから理性モードに戻りやすいのだと、心理学は教えている。わたし達の脳は、とても身体的なのだ。少なくともわたしの脳は、そうだ。限りある乏しい知的資源を活かしていくために、だから、わたしはなるべく他者と質の高い議論をしたいと願っているのだ。


<関連エントリ>
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」 https://brevis.exblog.jp/17805452/ (2012-04-18)





by Tomoichi_Sato | 2018-07-04 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)

考え、気づく場としての空間を設計する


目を閉じ、頭を下げて腕組みをする。あるいは、逆に椅子の背にもたれかかって、足を組む。そして、しばらくじっとしている。ほとんど、居眠りをしているのではないかと、疑われるポーズだ。どうみても、働いている姿勢ではない。少なくとも、何かをしてるようには見えない。・・こういうことが、勤務先でのわたしには、ときどきある。

だが、こうした、傍目からは何もしていない(居眠りしている)ように見えるときが、じつは一番働いている瞬間なのだと、わたし自身は思っている。いや、別にクビにならないための言い訳をしているのではない(笑)。それは、自分が集中して考えているときの姿勢だからだ。

逆に言うと、自分がパソコンに向かって忙しくキーボードをたたいているときは、もうアウトプットの段階にいるのだ。あるいは、材料の整理の段階かもしれない。考えるときは、インプットの材料の整理が必要だ。そして、考えた結果は、アウトプットしなければ使えない。ただ、考えるプロセスそれ自体は、頭の中のできごとで、外からは見えない。

もちろん、人が考えるときの姿勢ややり方は、様々だ。部屋の中を歩き回らないと考えられない人もいる。背筋を伸ばし、首を伸ばして宙をにら人もいる。ただ、どういう姿勢でいるときが、自分にとって一番頭が回るか、自覚している方が良い。皆さんは、ご自分にとってベストな「考える姿勢」をお持ちだろうか?

ソフトウェア工学の大家トム・デマルコが、昔の友人のエピソードを、たしか『ゆとりの法則』に書いていたと記憶する。その友人は、ベル研究所の自分のデスクで、ある問題について、考えていた。アメリカ人の若い学者がよくやるように、足を机の上に投げ出し、椅子にそっくりかえって、込み入った数式の解決法を考えていたのだろう。すると彼の部屋にマネージャーが来て、「何をしてるのかね?」とたずねる。「え? 考え事をしているんです」と彼が答えると、その管理職は、

「考え事! そんなことは、家でしたまえ」

と叱りつけて、行ってしまったというのだ。その友人はあっけにとられたが、後年、研究職を離れて、会社を作り、かなり成功したという。まあ、研究所なのに、考えるのは家でやれと命じられたら、そういう気持ちになるのも無理はない。

この話を紹介しつつ、デマルコは、「時間的プレッシャーをかけても、人間は早く考えることはできない」という『リスターの法則』を紹介する。これは現代の、スピードと効率性重視の経営に対する批判でもある。人が考えるためには、集中できる時間が、ある程度持続して必要なのだ。集中して考える時間が与えられなければ、創造的なアイデアは生まれない。

ただし、アイデアを思いつくのは、机の前とは限らない。昔から、「馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)」という言葉がある。これらをまとめて「三上(さんじょう)」とよぶのだが、考え事をするのに適した場所、アイデアを思いつくのは、馬に乗っているとき(現代なら車の中か)、ベッドの中、そして厠(かわや=すなわちトイレ)の中だ、というのである。アルキメデスのように、風呂に入っているときひらめく、というのもあるだろう。わたし自身、かなり重要なアイデアを、出張先の新幹線のホームとか、台所で皿を洗っているときに、思いついた経験がある。

そういう意味では、考え事なら外でやれ、というデマルコの元・上司の発言も、完全に間違いとはいいきれない。ただし、事前の「仕込みの時間」がなければ、外を歩いただけでは思いつかないのも事実だ。

米国の広告業界で有名なクリエーターだった、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』 は、薄いけれども非常に中身のある本だ。ヤングは、アイデアの作成技術は5つの段階がある、という。5段階とは、
(1) 資料を収集する(ヤングは、カードやスクラップブックの使用を推奨している)
(2) 資料を咀嚼し、断片的な思いつきを蓄積する
(3) いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう
(4) →ここで突然、真に価値のあるアイデアが生まれる
(5) 生まれたばかりの新しいアイデアを現実に適合させるために、吟味し展開する

ヤングはこの発想法のプロセスを、とても生き生きとしたエピソードで描いてみせる。有用なアイデアは第4段階で生まれるのだが、ここにいたるまでに、(1)〜(3)の準備段階を、丁寧に、かつ周到に行う必要がある。それぞれ、どういう注意が必要かは、同書をぜひお読みいただきたい。ただ、インプットと準備がないまま、漠然と腕組みして待っていたって、どんなインスピレーションも訪れないのは確かだ。

また、このようなプロセスを、組織がきちんと理解して『OS』化する方が、当然、企業の知的生産性は上がるだろう(組織のOSとは、体系化され習慣化された思考と行動規範のことを指す)。そもそも、知的生産性という事に関して、組織が関心を持ち注意を払って、施策をほどこしているかどうか。ただし、そうした施策はしばしば、人間のモチベーション研修や報奨制度など、ソフト面からのアプローチに偏りがちだ。でも、もっと別のアプローチもあるのだ。

随分前のことになるが、わたしの勤務先の大先輩から、ある顧客企業の話を聞いた。その企業は、東京近郊と、地方の学園都市に、二つ研究所を持っていた。東京近郊の研究所は、建物も小さく設備も古い。他方、学園都市の研究所の方は、もっと後から作られたのだが、広大な敷地に豊かな近代的設備を持っている。組織もでかく、若くて優秀な人も多い。

ところが、その企業の重要な新製品は、古くて狭い東京の研究所ばかりから、なぜか生まれるというのである。その先輩は、二つの研究所を実際に訪問し、何が違うのかを調べた。途中の詳細は省くが、彼がみつけた仮説は驚くべきものだった。それは、知的生産性の差は、建物のハードウェアにかなり依存しているというのだ。

古い研究所の建物は、実験設備と研究室がごっちゃに混在しているタイプのレイアウトだった。職員はその中を互いに行き交う。他方、新しい研究所の方は、近代的なアクセス・セキュリティの観点から、研究室は個室化され、また職員が自分の領域外に勝手に出入りできないよう、扉のロックがきめ細かく制御されていたらしい。もちろん、居室と実験室の動線もきれいに分離されている。

その結果、何が起きたか。古い研究所の方では、互いに異なる研究テーマを抱えた研究者達が、おもわぬところでばったりと行き会い、そこで議論や雑談が生まれる。他方、新しい研究所では、まるで団地のように、通路はあれどすべて個室はドアで閉ざされていて、思わぬ出会いのうまれる余地がない。このことが、新製品開発の知的生産性を、左右しているのだろう、というのだ。

その先輩は、論拠として、MITのトマス・アレンの研究成果を引用していた。トマス・アレンはMITのビジネススクールの教授で、製品開発プロセスについて長年研究した人である。彼は元々、航空機会社のリサーチ・エンジニアだったが、ビジネススクールに通って、どうしたら開発の生産性を上げられるかを学ぼうとした。ところが当時の経営学には、そうした問題への答えがないことを知って、みずから研究に取り組んだのである。

トマス・アレンが注目したのは、人と人とのコミュニケーションであった。アイデアは、異質なものの組み合わせで生まれる。このことは、以前から知られていたし、上記のヤングの本も指摘している。である以上、研究開発におけるアイデアの創出には、人と人のコミュニケーション量がかかわっているだろう、とアレンは推測した。彼は実際に、数多くの企業において、コミュニケーションの頻度調査を行った。

その結果、アレンが見いだしたのは、「30m理論」とよばれる法則性だった。簡単に言うと、組織内でのコミュニケーションは、人と人が実際に物理的にどれだけ離れているかに、かなり依存するのだ。頻度はちょうど惑星の引力のように距離とともに減少していき、30mを越えると、かなり無くなってしまう。

それは昔の研究だろう、今は電子メールがあるから違うはずだ、と思われる方もいるかもしれない。アレンはちゃんと、その問題もフォローしている。そして、「対面のコミュニケーションが少ない相手とは、電話や電子メールのやりとりも少ない」という統計的法則を見いだしている。不思議なことに、人間は、物理的に近くにいる人と、しゃべりたがるのだ。オフィシャルな用件の多い少ないにかかわらず。

そこから導かれる方案とは何か。それは、人の知的生産性を活性化したかったら、人と人が出会うように、組織と空間のあり方を工夫すべきだ、ということである。組織をへたに分断すると、一種のみえない壁をつくってしまうことは、よく知られている。しかし建物の中にある、物理的な壁も、けっこう人と人とを分断するのだ。経営学はこの点を見落としていた。

では、一切の壁を取り払って、全部大部屋にすれば良いのか。話はそう単純ではない。建物の構造や空調、そして実験室など部屋の機能に応じて、どうしても壁は作らざるを得ない。と同時に、人には考え事に集中できるための、雑音から切り離された空間も必要である。

集中できることと、人との出会いの機会を、どう両立させるか? ここに建築設計の知恵が登場するのである。トマス・アレンがドイツの建築家グンター・ヘンと共同で執筆した『知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する』には、そうした建築上の工夫がさまざまに紹介されている。

たとえば欧米はどうしても個室志向が強く、下っ端の内は大部屋でも、リーダークラスになると2人部屋、管理職には個室、という慣習をよく見かける。しかし、個室の前面に広いガラスを用いて、静寂だがオープンな雰囲気を作ることはできる。そもそも大部屋でも小部屋でも、見渡した時「あそこに誰某君がいるな」と視認できることが、コミュニケーションを活性化する上で、大切なのである。また、人と人とが出会って立ち話ができる、導線のコーナーのような場所を作ることも大事だ。

グンター・ヘンはBMW社のために、新製品開発センターである「プロジェクトハウス」も設計している。この建物は、通常のオフィスの居室が各フロアの周囲にあり、中心部分に向かう通路がスポークのように通じている。その中心部分のスペースには、現在開発中の新車種のモデルなどが置かれており、それを見ながら皆がディスカッションしたり雑談できるようになっている。こうした建物は、従来のただ真四角の箱のような研究所とは、違った活性を持つように思える。

彼は工場にも同様に、人が他の部署の人やモノにふれあえるレイアウトを作っている。チェコのシュコダ社の自動車工場は、2本並行して走る組み立てラインの中央に、技術部門や管理部門のオフィスが並んでいて、つねに工場の製造現場を見ながら仕事できるようなレイアウトだ。こうした発想は、「現地現物主義」を標榜する日本の自動車会社にも、見かけないように思える。
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スコダ社のチェコ自動車組立工場
(T・アレン、G・ヘン「知的創造の現場」ダイヤモンド社 (2008)より引用)

「生産性革命」という掛け声が、世の中を駆けめぐっている。生産性にはいろいろな切り口があるが、創造的なアイデアの創出は、大事な尺度である。そして、その中の、意外に大きな部分を、執務空間のあり方が決めていることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。アイデアとか、イノベーションといったことは、まだ誰も知らないことを生み出す行為だ。だからそれは計画できないし、知的創造性は一切のマネジメントを拒絶する、と信じている人も、時折見かける。しかし、それは組織や建築空間の工夫によって、ちゃんと向上させることができる。

といっても、何もわたしは、知的生産性を上げるために、建物をつくりかえろと主張しているのではない。机と人の配置やパーティションの選び方でも、改善できる部分はたくさんあるのだ。ただ、一人ひとりが自分に会った熟考の姿勢を体得すると共に、組織も知的生産性を意識して、ちゃんとOS化することが大切だと申し上げているのである。












by Tomoichi_Sato | 2018-01-15 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:サンタは存在するか?

Merry Christmas !!

白髪。白い頬髭。男性。年齢は70歳以上かと思われる。白色人種だが、赤ら顔。真っ赤なウールの外套と帽子をかぶっていることが、目立った特徴である。職業、住所は不詳。ただしフィンランド国ロヴァニエミ市宛てに、郵便を出すことは可能らしい。トナカイの引く雪橇という、北国風の珍しい移動手段を使う。それで空を飛ぶという噂もあるが、目撃者は皆無だ。

家の屋根におりて、煙突伝いに暖炉から侵入するらしい。ただし暖炉のない家にも訪れるという。侵入経路は不詳である。そして、眠っている子ども達に、おもちゃなどのプレゼントを贈る。それもなぜだか、靴下に入れておくらしい・・

子ども達が、「サンタさんなんていない」と思い始めるのは5歳から小学校の低中学年の頃である。幼稚園や小学校の年上の子から、「あれって、両親がこっそりプレゼントを寝てる間におくんだよ」という『真相』を教えることが多いらしい。それでも、小さい子は半信半疑だろう。小学生になると、「両親の手前、信じたふりをしておく」くらいの演技もすることがある。

サンタさんを信じなくなる頃は、『幼児』が『子ども』に変わるときだ。荒唐無稽から、理性の時代に入るわけだ。

かくして、みんな大人になる。

それなのに、いまだにサンタさんの話が街に溢れているのはなぜだろうか? だって、大人は、そして多くの青少年だって、サンタは存在しないことを知っているのだ。だとしたら、なぜ、一代限りで『サンタ伝説』はしぼんでしまわなかったのか?

そりゃあ、小さな子ども達の夢を奪わないためさ、というのは寸足らずの説明でしかない。だって、夢を保つなら、もっと信憑性のある別のやり方だって考え得るではないか。空から雪橇でやってきて暖炉から忍び込む、というストーリーは、あまりにも反証がたやすすぎる。それならせめて、「夢の国からやってきて」という方が、まだしも「寝ないで起きて確かめる」を防止できる。

「売らんかな」のコマーシャリズムがサンタ像を利用しているんだ、というのも一理ありそうでいて、必然性のない理由付けだ。だって元々、クリスマスはプレゼントの季節である。クリスマス商戦を盛り上げたいなら、ツリーやらイルミネーションなど、道具立てはいくらでもある。今の、赤い服着たサンタ像は、たしかに20世紀前半にアメリカのコマーシャリズムが補強したものだ。幼児向けのマーケティングだったのかも知れない。だが、なぜそれが世界中に広まり受け入れられているのかが、分からない。

ただ、子どもを育てていて、分かったことが一つだけある。それは、人間が育っていくためには、「物語」が必要だと言うことだ。それも、神話的な物語である方が、「物語力」が高い。

理性の発達しない小さな頃は、それこそ夢と現実の混ざり合った中で育つ。でも、多少は分別のつきはじめる歳になっても、まだ自分を支えるには「物語」を必要としている。自分が成長した先を準(なぞら)えるために、モデルやエピソードとして参照するのだ。そのためには、時代を経た、神話的な色を帯びた物語が良い。豊富なキャラやエピソードの供給源となってくれる。

そして、現代ではTVなどメディア産業が、新しい物語の配給に余念がない。たとえば勇壮な音楽とか、光る武器とかが飛び交う物語などだ。ただ、わたしはそうした消費型商品としての物語が、なぜか奇妙に痩せて平板になっていることが気にかかっている。それは、子ども達にどのような影響を与えているだろうか。

大学でプロジェクト・マネジメントを教えるようになって、もう9年目になる。この間、いささか気になる微妙な変化を感じてきた。教えにくくなってきているのだ。学生たちの学力、とくに書き言葉を含む知的能力自体は、とくに低下していないと思う。低下しているのは、学ぶ力=学びに対する態度である。

わずか一週間前、全員で手を動かして理解したはずの事を、翌週たずねると、もう忘れている学生が、少しずつだが増えている。授業は単位の取得が第一の目的だ。だが、せっかく受けるなら、何かを蓄積し、自分のできる事を増やそうと、望んでいるか。そこが奇妙に希薄になってきた。目の前、その一瞬の課題だけを、頑張ってやり過ごせば良い。一部の学生は、そう考えているらしい。

授業で、「あなたは卒業後5年後に何をしていたいか?」という質問を出すことがある。プロジェクトとは、個人と組織が成長するための最良の手段だと思うからだ。そこまず、自分の近未来の成長の姿をイメージしてもらう。だが近頃は、「会社で命じられる仕事をこなして、あとはプライベートな生活を守りたい」という回答がいくつも出てくる。わたしは複数箇所で教えているが、いずれも有名大学・一流校といわれるところだ。それなのに、日本で最高峰と言われる学校の大学院でさえ、そうした傾向が散見されるのだ。

彼ら学生にとってどうやら、勉学・仕事とは報酬を得るために与えられる苦役である、らしい。世界は次々と、自分たちに課題や苦役を与えてくる。それを、いかにしのいで、自分らしさを守るかが、二十歳そこそこでテーマになっているようだ。だから、就活に向かう学生たちは、ブラック企業かどうかを問題にする。

もちろん、労働搾取的な経営は重大な社会問題だ。そこに議論の余地はない。だが、ジョブズの下でMacintoshを開発していたチーム、Bill Joyと一緒に寝食を忘れてSUNを開発していた創始者達。あれは長時間労働の、ブラック企業だったのか? 彼らは、自分たちが世界を変えられると信じて、働いていたのだ。

ブラックとは、労働時間だけで計れるものではない。「自分たちが世界を変えられる」と信じる度合いと、投入する労働時間の比率で、ブラックかどうかは決まる。自分たち自分たち自身の主人であるかどうかが大事なのだ。希望なき奴隷制度の下で働く人達の下では、たとえ1日6時間労働でもブラックに違いない。

わたしが最近の学生の傾向について心配を述べると、それは「ゆとり教育世代だから」という解説がかえってくることがある。だが、ゆとり教育とは何だったのか。わたし自身の子どもが、まさにゆとり世代だったから、その実相については多少知っている。

ゆとり教育』と呼ばれた制度は、2002年から2011年までの期間、続いた。ゆとり教育が本当に学力低下をもたらしたかどうか、という事実についてはまだ、論争に決着がついていない。だが、学校の授業時間が減らされるときいて、真っ先に浮き足だったのは親達だった。このままでは「良い学校」の受験に通らないと焦った都市圏の父母は、子どもを学習塾に通わせるようになった。

数値的データは示せないが、この10年くらいに目立って増えたのは、小学生の夜の塾通いだ。夜8時、9時に電車に乗っている子ども達の姿を見かけるようになった。あの子達は、いつ、誰と夕食をとっているのだろうか。すでに勤め人の父親は、平日は家で夜、家族と食事をとれなくなっている。それで子どもも夕食を外でとるのだとしたら、家族はバラバラではないか。そして受験教育と、繰り返される模擬試験。そのように育って得られた世界観とは、子ども達にとってどのようなものだったのか?

それはいわば、会社用語に翻訳すると、KPIと査定の繰り返しとしての人生であろう。あるいは、≪自動販売機としての世界≫といってもいいかもしれぬ。そこでは、労力というコインを投入すると、投入額に比例して、お目当ての商品が出てくる。投入しない者には、与えられない。そこから生まれるのは、何も持たぬ者、貧しい者は、「投入しなかったのだ」という結論である。努力を投入しなかった奴がいけない、という自己責任論。それが≪自動販売機的な世界観≫の、脅迫的な帰結である。

もう一つ、付け加えたいことがある。それは『談合』の存在だ。今、メディアでは巨大な公共的工事をめぐって、談合が行なわれていたというニュースが流れている。だが、わたしの知るところでは、問題の某業界のみならず、〇〇業界でも××業界でも、受注調整の相談がこっそり行なわれている。公共事業だけでなく、私的取引の分野でも、だ。わたし達の社会はそのようにして、目に見えない既得権と参入障壁の網の目が、がんじがらめに取り囲んでいる。新参者がイノベーションを持ち込めないようにできている。

公式にはダメなはずの談合が行なわれ続けているのは、受発注の双方に、それなりの社会的なメリットがあるからだ、という議論も非公式には存在する。だが、そういう主張に仮に三分の理を認めたとしても、談合社会には一つ明らかな弊害がある。それは、若い人から参入と成長の希望を奪うということだ。すでに頑丈に出来上がった社会、先行者の既得権に穴をうがち入り込む隙もない社会に、どうやって希望を持てるというのか?

どんなに経済的に立派であろうと、若い人が希望を持てない社会は最悪だと、わたしは思う。自動販売機としての世界とは、投入とその結果が、すべて予見可能な世界である。何か驚くような、思いもかけぬ、しかし良いことなんか起こりようのない人生。それは、サンタクロースが表象する世界観とは正反対だ。サンタが教えているのは、この世には、何か予見できない、しかし驚嘆すべき、うれしいことが起こりうるという感覚である。それは自動販売機ではない世界だ。

学生達に教えていると、それを、多少感じることはある。「将来は結婚して、家庭生活を守ります」などと言っていた学生に、ていねいに教えていると、「プロジェクトで人と何か作り上げていく体験は、面白いと感じました」などと、最後に感想を述べてくれることもある。ほんのちょっとでも、人が変わりうるということ、成長しうると言うのは、ありがたい(有り難い)ことだ。

そうした成長への意欲は、とくに女子に多く感じられるのも、最近の傾向である。今の世の中は、なぜか男の子が育ちにくいのだと思う。男はどうしても社会的動物としての性格が強い。だから社会の目が詰まっていて息苦しいと、希望を持ちにくいのかも知れぬ。彼らはまさに、オトナ達が作り上げてきた「教育という名の管理」の犠牲者である。

ただ、犠牲者と言っても、まだ若い。だから、本当は復元力がまだある。そのきっかけになるのは、『信じること』である。この世には何か良いことがありうると、信じること。それと同時に、逆に教えたり管理したりする側のオトナたちも、彼らを「信じる」ことが必要なのだ。信じないから、取り締まり的な「管理」をしたくなる。だが、人を育てたかったら、「信じて」「待つ」ことが一番大切なのだ。すぐに相手を査定し選別・排除しないで、じっと可能性を待つこと。それはずいぶん忍耐心のいる仕事だ。だが、それをあきらめたら、結果として「人が育たない」「人手不足」という形でツケが回ってくるのは自明だ。

今から2千年前、完成し煮詰まってしまったようなローマ帝国の片隅で、変わらぬ支配下にあえぐ下層民の間に、「この世はもっと良くなりうる」という、不思議なメッセージを携えた人が生まれた。クリスマスとは、その人の生誕、この世への来訪を記念する行事としてはじまった。「あなた方の中で一番小さい者、弱い者に対してすることは、すなわちわたしに対してすることだ」と、その人は最後に言い残した。サンタクロースは、後年、その人にならって、現在のトルコで貧しい子ども達のために活躍した、聖ニコラオという人がモデルになっている。この世を少しでも住みよくしたければ、消費財としての夢物語を売るだけでなく、人の成長という不思議な物語を『信じる』ことから、はじめなければならない。


<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:幸せな人」 http://brevis.exblog.jp/22671239/ (2014-12-23)



by Tomoichi_Sato | 2017-12-25 07:56 | 考えるヒント | Comments(0)

納得する、ということ

親戚の娘さんが大学受験の年を迎えた。高校からは、ある女子大に推薦をしてくれると言う。でもその娘さんは推薦入学できる大学に不満を感じた。自分はもう少し上をねらいたい。そこで推薦を断って、あえてもっと上のレベルの大学の受験をチャレンジした。

しかし残念ながら、その年の受験は不本意な結果に終わった。彼女は浪人してもう1年間勉強のチャンスをくれるよう、両親を説得した。ずいぶん前の話で、女子が浪人する事に対し、今よりも抵抗があった頃の事だ。

そして予備校に通って、1年後、今度はかなりの数の大学を受験する。でも、結果として彼女は1校を除き、全て落ちてしまった。唯一受かったのは、なんと彼女が1年前に高校の推薦を断った大学だった。結局、その女子大に入学することを決めた。

親戚の叔母が久しぶりに彼女に会って、その顛末を聞いたとき、こう尋ねたそうだ。「それで、〇〇ちゃんは納得しましたか?」

--納得しました。

「そう。それならよかった。納得できるということは、とても大切ね。入学おめでとう。」

この話を後に聞いて、感銘が深かった。というのも、その叔母さんこそ、もっと古い世代の女性で、戦後初めて共学化された国立大学に入り、その後も職業婦人として、自分でずっと道を切り開いて生きてきた人だったからだ。男尊女卑の弊風の強い特殊な技術社会に入り、偏見と闘いながら、孤軍奮闘してきた。公正なチャンスを与えられていたかどうか、わからない。だが彼女こそ、自分が納得できるように生きてきたのだった。

納得とはなんだろうか。納得は単なる理解とは違う。身をもって知る、腹落ちする、に近い。人がいちど納得した事は、二度と忘れない。教室で聞いた知識は、片端から抜け落ちていくものだ。だが納得した事は、行動に移せる。応用できるようになる。

相手が納得しなければ、説得とは言えない」という言葉もある。交渉の場、たとえばエンドユーザに何かの機能は不要だと説得する場面は、よくある。このとき、理路を尽くして相手に説明し、相手が一応了承したとしても、相手が「納得」していないと、いつかまた蒸し返してきたり、あるいは別の場面で逆襲してきたりする。

理解とはアタマで分かることであり、納得とは感情をともなって分かることだ、という人もいる。そうかもしれないが、純粋に知的なことでも、納得する経験はある。たとえば、数学みたいな分野でも。

相関係数という概念がある。

二つの量について、いくつかの測定値があったとしよう。たとえば日ごとの気温とビールの消費量でもいい。数式風に表現するなら、(x1, y1), (x2, y2), (x3, y3)...という風に表記できる。下の散布図には、7つの点がプロットしてある。このペアになった二つの変数の間に関係はあるのか、ないのか。それを相関係数Rであらわせる。相関係数Rを計算し、それが0だったら、両者の間は無相関、つまり関係がない。相関係数が1だったら、xyは完全に依存関係がある。また逆に-1だったら、逆相関、つまりxが増えるとyが必ず減る、という関係にある。相関係数Rはマイナス1からプラス1までの間の値をとる。

・・とまあ、こういう説明が統計学の教科書にあり、さらにxの標準偏差Sxyの標準偏差Sy、そしてxyの共分散Sxyという量を使って、R = Sxy / (Sx Sy) という計算式が定義してある。だが、数学が今ひとつ苦手なわたしは、この式を読んでも、ピンとこなかった。なぜ、それが-1から1の範囲に入るのか。無相関が0になるのは、なぜなのか。手順に従い、計算自体はできる。計算ソフトだって、Excelをはじめ、いくらだってある。結果を解釈することもできる。事実、卒論ではそうした。だが、腑に落ちなかった。

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ところで、その後、ある本を読んでいて、全然別の説明を見つけた。散布図は2次元に7つの点を打っている。だが、このデータを、(x1, x2, … x7), (y1, y2, … y7)という風に、7次元の二つのベクトル、と考えてみる(正確には、平均値からの偏差ベクトルをとる)。右図のように、7次元空間の中でこの2本のベクトルの角度をθとすると、両者の内積は公式から、
X・Y = |x| |y| cos θ になる。

相関係数Rとは、この式のcos θのことだ、というのがその本の説明だった。相関係数とは、二つの変量を表すベクトル同士の角度のコサインを表す。コサインだから、-1から1の範囲の値をとる。二つのベクトルの向きが全く一致しているときは、θ = 0だから、相関係数cos θは1になる。二つのベクトルが正反対の方向のときは、角度θは180度だから、相関係数cos θ = -1だ。そして両者の角度θが直角、つまり互いに全く度理屈だと、相関係数cos θ = 0になる。

こう説明されて、ようやくわたしには相関係数が納得できた。だとすると、相関係数が0.7ということは、二つのベクトルの角度は約45度、相関係数が0.5だと60度ということで、かなりバラバラの向きを向いている。なるほど。それどころか、こうした関係が分かると、多変数の因子分析だって、つまりは変数間の共分散構造を調べているのだ、という風にとらえることができる。直感型のわたしには、空間のイメージが理解の鍵だったのだ。

わたしはものごとを理解するのが遅いたちだが、それは、こうして一歩一歩納得しないと、なかなか前に進めないからだ。そのかわり知識や概念の場合、いったん自分が納得できると、他のことの理解に応用できるようになる。知識を応用するためには、納得が必要なのだ。

それと同時に、わたしはときどき、世間の頭のいい人達って不思議だ、と感じることがある。教科書に書かれたこと、先進国でいわれていること、メディアで流通している知識や解釈などを、割とスムーズに受け入れて、覚えていく。わたしが納得できずにまごまごしている間にも、そうした最新知識やらを人に語ったり使ったりしていける。すごい能力である。

わたし自身は、「コストセンター」だとか「品質」 だとか「進捗」だとか、世間で常識と思われている概念を一つひとつ確かめずにはいられないし、それをここに書いている。だが、こうした行為はある意味、皆が受け入れている知的通貨を、自分一人が疑っている訳で、かなり生意気な態度だと思われているかもしれない。うーむ。実は不器用なだけだが。

ところで、納得という言葉は、知識だけではなく、自分の決断の結果に対しても使う。

最初の娘さんの事例を思い出してほしい。彼女は、自分の意思で、浪人して勉強した。そしてその結果に納得したのだ。

ただ、誤解して欲しくないのだが、それは大学受験における学力のレベル判定がどこも極めて正確で、それが高校の判断に一致していたのだ、と言う意味ではない。逆である。入試の当落線上においては、むしろかなり運・不運が左右する。試験の内容、その日の体調、ライバルたちの存在など。第二志望に落ちて、第一志望に受かると言うことも、ときどきあることだ。だからその娘さんが納得したのは、自分の偏差値レベルについてではない。

そうではなく、彼女はできる限りの努力をしたので、その結果を受け入れられるようになった、ということなのだ。もし彼女が、高校の勧めるまま推薦入学で最初の大学に入っていたら、どうなっただろうか? たぶん、「自分ならもっと上の大学に行けたはずだ」「無理してでも試験を受ければよかった」、などとさんざん悩んだことだろう。あるいは、回りの同級生をみて、(自分はこの人たちとはホントは違うのだ)と、内心思ったかもしれない。それは、成長において決して良い結果ばかりをもたらさなかったろう。

何かを「しなかった」ことの後悔は、いつまでも心を酸のようにむしばんでいく。だが何かを自分の意思で選んだ場合は、結果としてかりに痛い思いをしても、いつかは乗りこえることができる。

彼女は自分が決めて選んだことに対して、一所懸命に努力したのだろう。合格・不合格はある意味、結果でしかない。だが、必死にチャレンジしたならば、どんな結果になろうとも、それを後悔することはあるまい。人事を尽くして天命を待つ、と言う心境に近い。そうすれば、結果に納得することができる。運不運を含めて、結果を受け入れられるようになる。

知っていることと納得することは違う。

納得感とは、自分の得た知識が、自分の世界観の欠けたピースにぴったりとハマったり、あるいは、自分の決断が価値観を補強してくれた、という感覚を得ることだ。だから行動にうつせるようになるのだ。誰も自分で納得したことでなければ、実行できない。人を動かしたかったら、納得してもらう必要がある。自分で自分を動かしたかったら、自分が納得できるようするしかないのだ。

ところで、「納得」(なっとく)という変わった音読みをするところをみると、これは仏教用語ではないかと思って調べてみると、どうやらそうらしい。仏教では出家して仏名をもらい、剃髪して僧侶になることを「得度」と呼ぶ。納得とは、この得度式を納めた、という意味らしいのである。出家するとは、自分の人生は無限ではなく、限りがあることを認めて、覚悟することである。つまり、納得とは覚悟を決めて生きようとすることなのだ。

わたしも今年、新しいチャレンジを仲間と広げようとしているところだ。それは現代のビジネス社会の中で、ともすれば過大なプレッシャーをかけられ、消耗しがちな技術者たちを応援するための取り組みだ。やるからには、せめて自分で納得がいくように努力したいと思っている。


<関連エントリ>
 →「コストセンターとは何か」(2013-03-11) http://brevis.exblog.jp/19929083/
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」(2012-04-18) http://brevis.exblog.jp/17805452/
 →「進捗を把握する3つの方法」(2010-06-13) http://brevis.exblog.jp/12797525/



by Tomoichi_Sato | 2017-08-11 23:45 | 考えるヒント | Comments(2)

物語の力と、その危険性

「ニネヴェの街に行くには、この道でいいだろうか?」

靴職人のヨナが目を上げると、見知らぬ旅人が立っていた。旅人の服は奇妙なことに、上から下まで縫い目が一つもない。ヨナがこの道だと答えると、旅人は謝礼を手渡し、消えるように去る。見ると銀貨十枚だった。思いがけぬ臨時収入を得たヨナは、仕事を切り上げ、滅多にいけぬ上等な酒場に行くが、汚れた仕事着のままの彼は、すぐ店を叩き出されてしまう。

ヨナは仕方なく古着屋に入り、仕事着の代わりを探す。すると古着屋が出してきたのは、たった今旅人から買ったという、縫い目のない衣だった。ただならぬ予感を感じながらその衣をまとい、酒場で泥酔したあと道にへたりこむヨナに、真っ暗な闇の中で神の声が幻聴のように聞こえてくる。

「立って、かの大いなる街ニネヴェに行き、よばわりてこれを責めよ。40日にしてニネヴェは亡ぶと・・」

−−『エホバの顔を避けて』(丸谷才一・著)の物語は、こんな風にはじまる。元になっているのは、旧約聖書にある「ヨナ書」である。この預言書は短いが、珍しくも神と預言者の相克を描いて、古来多くの作家の想像力を刺激してきた。

預言者とは「神の言葉を預かった者」の意味で、占いの予言者とは違う。ヨナ(英語読みはジョナ)は、堕落した大都市ニネヴェ(現在のイラク、モースルの近く)に厳しい審判を告げる言葉を託されるが、「そんな大役は荷が重すぎる」といって神から逃げ回る。そのあげく海で大魚に飲まれ、三日三晩その腹の中にいて吐き出され、ようやくあきらめてニネヴェに赴く。破滅の予告をのべ伝える者が、歓迎される訳はないと覚悟しつつ・・

預言という仕事は、変哲もない普通の人間が突然、神に呼ばれて、託される。預かるのはしばしば糾弾、世の人びとが聞きたくもない正義の糾弾である。かくて預言者は、世と対立することになる。ヨナが怖れたのはこれだ。英雄的でも何でもない普通の個人が突然、大いなる意思によって劇的な運命に巻き込まれ、日常から引き離されて、重すぎる任務を負って生きなければならない。ヨナ書が浮き彫りにしたのは、このようなストーリーの祖型であった。

良くできた物語は、人の想像力を強くかきたてる。わたしはこれを「強い物語」と呼んでいる。西洋人にとってはヨナ書の他に、モーゼのエジプト脱出だとか、キリストの受難などがある。シェークスピアの書いたハムレットも、強い物語なのだろう。我々なら、義経の逃亡や信長の戦記、あるいは忠臣蔵といったところか。こうした物語は、個性の強いキャラの配置と、カラフルなエピソードが連なり、随所にテーゼや教訓がはさまれている。

強い物語からは、多くの二次創作物が生まれる。上の小説もその一つで、縫い目のない衣を着た旅人云々は、丸谷才一の創作である。物語は人間の感情に訴えかける力を持っている。

さて、子どもを育てて分かったことが、一つある。それは、人が育つには物語の力が必要、ということだ。子どもやティーンエイジャーのころ、まだ定まらずに危うい自分を支えるには、自分を物語の登場人物に擬することが必要になる。男の子がスーパーヒーローもののTV番組を好みのはそのためだ。また女の子が、普通の主人公が光り輝くロマンス物語を好む(じっさいに育てた事がないので想像だが)のも、そのためではないか。

これは、社会に出てからも同じである。いや、むしろ、人が育つ時間は大人になってからの方が長い、ともいえる。厳しい世の荒波の中で、自分を支え、自分を励ますために、物語の力を援用する。それはなかなかすぐれた方法だろう。そのためには、多くのすぐれた物語を自分の中にストックするべきだ、との意見も聞いたことがある。なるほど。それなら、頭に映像まで浮かぶような物語の方がいいだろうとも思う。

物語は人間の心の栄養である。だから人を引きつける。そして、本当に奥深い真実は、神話的な物語を通じてでなければ、他人の魂に伝わらないことがある。

良い物語は「多層的」であり、象徴的である。たとえば主人公の多くは、複数の使命の葛藤の中に投げ込まれる。ハムレットも、ヨナの物語もそうだ。また物語は、それ自体がファンタジーであることを示すことがある。父王の亡霊や、ヨナに下る神の声のように、異界との結びつきが一瞬現れるのである。そして、 無関係な偶然と思われたエピソードの点と点が、最後につながって必然を示したりする。

それと同時に、物語は、自分が出会うできごとを理解するための、型紙(パターン)であもる。引きこもって部屋から出てこなくなった高校生の一人娘のために、日が消えてしまったように暗い家庭の話を聞いて、それは「天岩戸の物語」だなあ、と思うようなものだ。娘さんは家族の太陽だったのに、急に隠れてしまったのだ。彼女にショックを与えたのはどこの素戔嗚尊なのか。彼女が出てくるためには、どんなアメノウズメが必要なのか。物語による「見立て」は、すぐにはのみ込みにくい事柄を、あてはめて理解するための補助線なのである。

ところで、物語にはこのような力があるのだが、逆に危険性もある。それは、出会ったできごとを何でも、手近な物語の型紙、貧弱なテーマにあてはめて、理解しようとする傾向である。こうした傾向は、メディアの報道でも、ネットの解説でも横行している。

ある人が、会社で新しい取組みをはじめた。うまく回り始めたので、メディアの記者の取材に応じた。ところができてきた記事を見ると、180度違うとまでは言わないものの、45度くらい方向性の違う話になっている。メディアは広報機関ではないのだから、必ずしも自分たちの意向に沿った話にならないのは、その人も承知している。だが、なぜ言ったはずもない別の要素が(この場合はAI系技術の応用だったらしいが)付け加わっているのか? 記者が、相手の話を聞く際に、「AI技術で生産性アップ」といった、自分の中で慣れ親しんだ物語に当てはめて、解釈してしまったのではないか。

ものごとを、手垢のついた物語のテーゼにあてはめる。そうすれば、頭の節約になる。かくして、こういう話は際限なく増えていく。手近な物語の原型とは、たとえば:
- やる気さえあれば何だって可能である
- 魔法の道具を手に入れたら問題は解決する(→AIなんかはこのバリエーションだ)
- 組織のパフォーマンスはリーダーが決める
- 人は競争させれば良い結果を出す
といった信憑である。

別の例を挙げよう。これは最近ネットで読んだ記事の冒頭である。特定の記者を批判するのが目的ではないから、メディアの名前は伏せる。

「日本の産業界を暗雲のごとく覆ったバブル崩壊後の「失われた20年」において異彩を放つ進撃を続け、A業界で世界最大手に飛躍したX社。長く辣腕を振るってきたY社長が率いる経営陣は過去最高益を連続更新しても気を緩めることはない。米国でグローバル生産を加速する巨大なモデル工場を稼働させ、得意の買収でZ事業を強化するなど攻勢を仕掛ける。・・」

これで中立的報道なのだろうか。自分の目には、スポーツ新聞の出だしのように見える。スポーツ紙は(はっきりいって)報道よりも、ファンに対する読み物、物語の提供を重んじる。企業欄の読者は本当に、散文的で退屈な事実の報告よりも、感情的で血湧き肉躍る物語を求めているのだろうか。まあ、解説記事はしょせん読み物だ、客観性よりも面白さだ、というポリシーならそれはそれで良い。ただ、それを手がかりにして、投資を計画したら危うい。

こうした傾向が広まると、客観的な趨勢や、統計分析可能な傾向も、すべて「人格のドラマ」「戦(いくさ)の物語」だけで解釈される危険性がある。以前、ある商業系コンサルタントに、外食産業に関係する情報源となる参考書をたずねた。しかし、その人が教えてくれたのは、経済作家の書いた小説だった。わたしは客観的な「データ」をたずねたのに、この人は「物語」を答えたのだ。リーダーたちの物語で、チェーン店の店長たちならば鼓舞できるかもしれない。だが、それを手がかりにして、セントラルキッチンを設計できるだろうか。

自分が出会うできごとに対して、手元にあるテーゼや物語で解釈することを続けたとき、その結果として何が生まれるだろうか。「ああすればこうなる」という分かりやすい物語から、何か学びを得るだろうか? 自分がすでに「知っている」信憑が強められるだけではないか。自分に励ましや慰めは得るが、できごとを見て、はっと我に返ることがなくなる。そういう単層的な情報をいくら得ても、学びにはつながるまい。

ヨナの物語は、「ああすればこうなります」という単純なテーゼを示しているだろうか? たとえば、善行をすれば幸せになれます、という話だったろうか。神様をそんな、善行をインプットすれば恩寵を出してくれる、自動販売機のようなものに描いているだろうか。そういう単層なテーゼの行き着く先は、「俺は偉い」という単純な物語ばかりで敷き詰められた人生だ。そんな物語にとって、他者は(つまりあなたやわたしは)、使い捨てのザコキャラになってしまうだろう。

問題の根源は、現代のわたし達の想像力が痩せてしまっていることにある。それが、単純な物語性に頼る知的衰弱を生んでいる。想像力は世界観を立体的にする鍵である。わたし達はもっと、多層的で、単純でない出来事に直面する勇気を、もたなければならないんじゃないだろうか。単純な物語に還元せずに、丁寧に点と点を追うこと。仮説を得たら一つひとつ検証してみること。そうして、少しずつ想像力を磨き上げること。これはなかなか手間のかかる、面倒くさい作業である。

だが、そうしないと、本当に豊かな「良い物語」には近づけないのだ。良い物語がなかったら、誰が自分の天命を知ることができるだろうか。

天命を知るとは、自分の物語を生きることなのだから。



by Tomoichi_Sato | 2017-07-30 23:50 | 考えるヒント | Comments(0)

怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと

近所の通りを歩いていたら、信号が黄色から赤に変わりはじめたのに、交差点に突っ込んできた乗用車があった。強引に右折して進んでいく。歩道近くの歩行者たちは、あわてて身をひき、皆がひやりとした。車のドライバーは、年配の男性だった。みたところ団塊の世代くらいか。車種はそれなりの中型車だった。

何を怒っているのだろう。わたしは思った。あきらかに、何かに腹を立てているかのような、乱暴な運転だった。別に渋滞でもなく、忙しい通勤の時間帯でもない。だから別のことに腹を立てているのだ。

それにしても、彼は何に怒っているのか。立派な車も持ち、たぶんきちんと家庭もあり、年齢から見て、日本の高度成長の栄光と共に生きてきたはずだ。年金だって、それなりにもらっているだろう。多くの若い人から見れば、うらやむべき境遇ではないか。

もちろん、日常生活には腹の立つ場面はたくさんある。出がけに夫婦げんかでもしたのか、あるいは、好きなチームが夕べ大敗したのか。それとも愛する日本が国際競争力ランキングで先進国中、最下位になったニュースでも見たのか? だが怒りの原因が何であれ、いったん人前に出たら、それに飲まれない分別を身につけているはずの年配ではないか。別のところで腹いせするなど恥ずかしい——それが大人だろうに。

別の経験もある。会社帰りにある店に入ってカウンターに座り、好きなギネスの黒ビールを頼んで、本を読んでいた。すると突然、近くにいた男性(彼もたまたま団塊の世代のようだった)が、「貴方は明るい方ですか、暗い方ですか?」とわたしに問いかけてきた。わたしは一瞬、訳が分からず目をぱちくりしていたと思う。冗談めかしていたが、難詰する口調だ。すぐに、“こんな洒落た店なのに一人で暗く本なんか読みやがって”、と相手が思っているらしいことが見て取れた。余計なお世話ではないか。するとマスターが(その店のマスターが英国人だった)割り込んできて、「この人はこうして静かに飲むのが好きなんでしょう」と取りなしてくれた。

この男性も、わたしに腹を立てたらしい。だが、なぜ? 飲み屋で一人、本を読むのは彼の美学には適わないかもしれないが、迷惑をかけた訳でもない。彼は本当は何か別のことに怒っているのに、はけ口を、たまたまわたしに向けたのだ。

話を、ちょっとだけビジネス方向に向けよう。以下に紹介するのは、ITエンジニアが好む話題=『生産性』をめぐる問答だ。好むといっても、わたしの体験では、多くのITエンジニアは生産性というモノサシを信じていない。かわりに、「できる奴はできない奴の10倍、生産性が高い」「いや、30倍だ」「100倍だよ」「できない奴はゼロなんだから、無限大さ!」と言う風に、モノサシの客観性を無力化する会話を好む。仕事に費やす時間と成果は無関係、天才画家が一瞬のひらめきで創作するようなものだ、という逸話がいいらしい。

——生産性が人によって10倍違うというお話ですけれど、では、参考までに具体的に測った個人別の数字かグラフを見せていただけませんか?
「そんなものは別にありませんよ。こういうのは感覚論ですから。」
——そうですか。でも感覚論だけでは、こまる事もありませんか?
「ま、人の評価というか査定はね、やはり主観で決めるしかないと思いますよ。でも特に不都合はありません。」
——査定はそうでしょう。ですが、顧客が画面を10枚追加しろと急に追加要求してきたとき、生産性の基準が無かったら、どれくらい余計に時間がかかるのか、現有人数で足りるのか、答えられますか?
「そういうのもケースバイケースですね。経験の問題です。」
——ははあ。でも以前から、FP(ファンクション・ポイント)法とかCOCOMOとか、定量的見積手法が提案されていると聞いていますが
「そんなの実務には使えませんよ。ブレが大きすぎてね。」
——うーん・・では、どうやってプロジェクト全体の期間や工数の見積をされるんですか。
「教えてあげましょうか。それはね、ウチの場合、営業マンが上の者と一緒に、表を作るんです。横軸に月数をとって、基本設計や実装といったフェーズごとに、毎月何人くらい動員するか、サブチーム単位で人数を記入して、掛け算すれば工数が出ますから。」
——ああ、マンニング(配員)の表ですね。しかし、その表を作るにしても、システム規模から見て基本設計は3ヶ月でいいとか、設計SEは10人で足りるだろうとか、何か推算はされているはずです。その基準は何ですか?
「(とつぜん怒り出して)そんなの知りませんよ! 営業が勝手に見越して決めてくるんだ! こっちがどんなに苦労しているか知りもしないで、競争に勝てないからって無理に値引きまでして。いい加減にしてくれってんだ!」

日頃から我慢にガマンを重ねて不合理に耐えつつ、そのことを口に出せずに過ごしている人は、あるきっかけで急に怒り出すことがある。怒るなら、本当はその理不尽な上司だか営業だかに向かって訴えればいい。だが組織人ゆえに、感情を押し殺している。自分の気持ちを、見て見ぬふりをしている。そうすると、憤懣の感情が圧縮されたガスのように溜まっていて、直接関係ない方向、本来の理路を指摘した第三者に向けて、突然吹き出すのだ。

エンジニアの生産性を測定するのが難しいのは、事実である。そして多くの知的作業従事者は、自分の生産性を他者に規定されたくないし、ましてや、測って給与を査定してもらいたいとも、思うまい。

しかし、だから生産性は定義できないのだとか、測定しなくていいと考えるのは、プロジェクト・マネジメントの観点からは、全く別である。作業対象の規模のスケールと、生産性の基準が無ければ、工数の見積ができない。見積れなければ、マネーを稼ぐことができず、安定したビジネスが成り立たない。ビジネスが成り立たなければ、エンジニアが落ち着いて技術に打ち込む仕事ができないのも、道理ではないか。もし営業部門がバカでなかったとしたら、見積のブレは逆に、技術屋の側にふりかかってくるのだ。

だが、どこかで、そういった「不都合な論理」は自分の心からシャットアウトして、考えないようにしてきたのだろう。自分の中でひそかに『思考停止線』を引いている人びとは、しかし、いつのまにか次第に、この世は理不尽だ、自分は不当に扱われている、と思い始めていく。

あるとき聞いた精神科医の講演によると、怒りには実は三種類あるらしい。3つのモード(様相)があるのだ、という。それは、一過性の普通の怒りと、蓄積された抑鬱性の怒りと、冷えた軽蔑の怒り、である。

最初のタイプの怒りは、イライラやムカッとした感情で、放っておくといつかは発散し沈静化する。これは普通の感情で、誰にでもあるし、生きものとして正常な防御反応であるとも言える。何か問題が生じていることを、自分や周囲に気づかせるのだ。

二番目の怒りは、とくに朝、顕著に生じるものらしい。ああ! また一日がはじまるのか。なんでこの世はこんなにしんどいんだ! 起きるとそう感じて、うめき声を上げる。継続的な恨みや怒りが原因となる抑鬱、暗さである。これは普通、怒りとは意識されない。また、起きて活動するのが非常に億劫である。だいたい鬱の傾向のある人は、朝が辛い。朝は調子いいのに、毎日午後から暗くなっていく人は、まず、いないのだそうだ。

三番目は、やたらと他人をバカにする軽蔑である。日常的・習慣的な軽蔑の態度が、薄められた怒りの一種であることは、はじめて知った。軽蔑は誰にもありうる感情だが、これは心の体温を下げていく性質がある。怒っているのに、自分が怒っていることに気づかせない、いつわりの感情らしい。そして心の病態としては、要注意なのだという。

こうした病態を持つ、怒りやすい人びとには、病識がない。つまり、自分の怒りがこじれてしまっていることに、自覚がない。この人達の心の中には、おそらく、自分は社会から正当に扱われていない、という怒りが伏流しているように思われる。(もっとも、「自分は社会から十分すぎるほど正当に評価されている」と感じる人など、世の中にほとんどいないと思うが、そこは程度の問題だ)

そして、少しずつ他者への攻撃性が高まっていく。普段の日常では栓をして押さえ込んでいるが、何かの機会で噴出する。聞いた話だが、ある種の不祥事を起こした企業がいると、そこの代表番号めがけて、直接被害を受けた訳でもない人びとから、大量の抗議の電話がかかってくるものらしい。とくにTVワイドショーなどで取り上げられると、クレーム電話は一層エスカレートする。なんであれ、他者に「不正義」があり、非難してもいい理屈がつくと、群がる人達がいるのだ。道徳や正義の顔をした、一種のいじめである。

それで、どうしたらいいのか。わたし達が怒りをこじらせないためには、何か手立てはあるのか。

わたしは専門家ではないし、人それぞれに状況は違うと思う。そこで、これから書くのは、わたし個人の考えであることをお断りしておく。

まず、自分の感情に注意を向けることが、第一歩だろう。あ、自分は腹を立ているな、と気づくことだ。これは、言うほど簡単ではない。強い感情の波は、たいてい自分自身を巻き込んでしまい、客観的な味方を難しくするからだ。それでも、練習すれば、少しずつは気づけるようになるのではないか。

また、そのためには、他人の感情にもよく気づくよう、練習するのも一法ではないだろうか。他人の感情に気づきやすくなれば、自分の感情に対する感度も上がるに違いない。

なお心理学者によると、女性の方が男性より感情的に見えるが、案外、自分の感情を見ているもう一人の自分が、心の中にいたりするらしい(わたしは女性の心理は全く不案内なので、受け売りである)。

そして、「感情は育てるものである」という認識を持つことが、第二歩ではないか。こういうことを、わたしは子どもの頃に教わったことがない。だが知的能力が育てるべきものであるのと同じように、感情も大切な心の働きであり、やはり育てるべきものなのだ。情操教育という不思議な言葉があるが、大人になっても、自分の情操を豊かにすることは、必要なのである。

そして三歩目。それは「感情をコントロールする能力」を身につける・・ではない。ここが、一番のキモなのだ。わたし達の文化では、感情は押し殺すものだ、と繰り返し(無言で)教え込まれる。義理や社会の掟に従うために、腸が煮えくりかえりそうでも、それを表に出さずに堪え忍ぶのが立派である、と。そういうドラマを、歌舞伎の「寺子屋」から東映ヤクザ映画まで、いろんなバリエーションで繰り返し提供される。

おまけに、西洋、とくにアメリカ流の近代市民社会の倫理が、「感情より理性」「感情的になってはいけない」と教えている。これをわたし達は近代に、直輸入してしまった。先生方はいまでも、学校でこの建前を教えている。さらに最近の米国流「ポジティブ・シンキング」は、怒りというネガティブな感情を忌避する傾向に、輪をかけている。

だが、わたし達は、あまりにこうした教えに従順すぎたのではないだろうか。押さえ込み、無視した感情は、心の深層に潜り込み、いつか爆発する時を待っているのではないか。わたし達は上手に感情をコントロールできるほど、まだ大人ではないのではないか。それを、素直に自覚すべきではないか。

怒るべきときには、怒るべき相手に、ちゃんと怒る方がいい。それがわたしの考えである。直接相手にぶつけるのが社会的に無理なら、そのあと一人になった時でも、あるいはその日、寝る前でもいい。心の中で、いったん止めてしまった感情を追体験する。正しい対象に対して、ちゃんと感情を解き放つ方が、人間らしい。そうすれば感情は一過性の波として、心の中を去っていく。変に感情を抑えようとすると、むしろろくな事にならない。

それでも気持ちがざわつくときは、ときに短い瞑想をすると効果的だ。心を落ち着かせ、短くても静かな時を過ごすことは、わたし達に心のレジリエンシーを回復させてくれると感じる。

わたしがこんな事を書くのは、わたし自身が、短気で怒りやすい人間だからである。とくにわたしは、利口なふりをして底の浅い会話、論理的なふりをして理屈の通らない説明が、大嫌いである。そういう場面にあたると、つい、強い尋問口調の問いかけをしてしまう。つまり怒ってしまうのだ。だが、自分が怒っていることを自覚できない。自分は正当なことを言っているつもりでいる。

でも、論理的なつもりで、じつは感情的になっている人間ほど、はたから扱いにくい者はない。こうして無用に、人間関係を傷つけてしまう。これで人生、どれだけ損をしたことか。まったく頭を抱えたくなるほどだ。

こうした感情的欠点に気づくようになったのは、本当につい最近のことだ。もっと前に理解していれば、もう少し尊敬される人間、いや、せめてもう少し親しみやすい人間になっただろうに。だから怒りについて、自戒を込めて書いているのである。

成長に価値を見いだせる人は怒りにくい、という。そうだろうな。怒ること自体は、わるいことではない。だが、上手な怒り方と、間違った怒り方があるのだ。目の前のことに怒るのではなく、自分の本当の問題原因に対して怒る方がいい。わたし達は情緒的な文化を持っているのだから、もっと感情という資源を大切にすべきだ。そしていつわりのそして感情に自分が振り回されるのは、避けた方がいい。だからわたし達は、感情に関する小さなスキルを身につけるべきなのである。自分の感情を、ひどくこじらせてしまう前に。


by Tomoichi_Sato | 2017-06-17 09:24 | 考えるヒント | Comments(0)

「理屈を言うな」という理屈

15歳の時の4月。高校の入学式を終えたわたし達・新入生は、各クラスでの挨拶と簡単な自己紹介のあと、体育館に集められた。「オリエンテーション」という行事があると言うことだった。どういう行事かの説明はなかった。

新入生ばかり400人あまりが集められた後、体育館の扉が閉められたが、中には先生達の姿はなかった。壇上には学ランを着た屈強な上級生達が十何人か立って、両手を後ろに組み、胸を反らして立って、わたし達新入生をにらみつけた。どうやら『応援団』という存在らしかった。その中の団長格とおぼしき人が壇上の中央に立って、上半身を腰から前にかがめ、わたし達に向かって、かすれた声で

「ウース」

という声を発した。いや、正確には文字化が難しいのだが、とにかく強引に文字にすると、そういう音声だ。何事か、と驚いてきょとんとしているわたし達に向かって、壇上の、そして左右通路の応援団員達が、わたし達に口々に「返事はどうした!」「声が出てない!!」と大声で怒鳴りつけはじめた。どうやら壇上の人は「押忍(オス)!」とわたし達に呼びかけているのであり、わたし達はそれに対し、同じく「オス!」と大声で答えなければいけないのだ、という理屈が飲み込めるまで、たぶん10分くらい混乱の時間があった。

わたし達がようやく「オス」と声を揃えて返事することができるようになると、今度は校歌斉唱を命じられた。何人か固まって座っているブロックが指名され、校歌の一節ずつを歌え、というのだ。伴奏は応援団の大太鼓だけ。校歌と言っても、わたし達には簡単な歌詞のプリントが、入学手続きのときに、手続き書類の束と一緒に、渡されていただけだった。当然誰も歌えないし、覚えてもいない。無体な要求である。

だが立たされたものの口もきけずに黙っている新入生達に対し、応援団員は怒鳴った。「オリエンテーションまでに覚えろと書いてあったはずだ!」 たしかに配られたその紙をもう一度よく見ると、「オリエンテーションで校歌斉唱の練習をするので、その時までに覚えてくるよう、諸君と約束しておく」と書いてある。だが志望校合格に浮かれている新入生で、そんなものをまともに受け取った者はほとんどいなかった。

応援団員は恩着せがましく、では、一節ずつ我々が歌って示すから、お前たちはそれを復唱して繰り返せ、と指示した。かくて順繰りに新入生達は立たせられ、数節ずつ歌わされた。声が小さかったり、歌詞を間違えたりすると大声で叱られ、良しとされるまで、何度も何度も繰り返させられた。その間、回りの生徒がよそ見をしたり上の空だったりすると、すぐに通路の団員がとんでくる。体育館の扉は閉められ、出口にも守りを固めるように団員が立っている。実際に暴力がふるわれた訳ではないが、ほとんど脅迫的な雰囲気である。このような拷問に近い時間を、あとどれくらい過ごさなければいけないのだろうと、わたし達は思った。

ところで、あるブロックにさしかかって、うまく歌えないといって叱られた中の一人が、勇敢にも壇上の応援団員に向かって、必死の声を上げた。「たしかにプリントには『諸君と約束しておく』と書いてありますけれど、僕たちはとくに約束した訳ではありません。」 こうした火に油を注ぐような口答えに、応援団はどう反応するだろうかと固唾をのんだ。はたして、壇上にいる団長格の人は怒って、

理屈を言うな!

と一喝した。全員がしんとなる。そのとき、横に立っていた、もっと小柄で温和そうな人が彼を手で制して、言った(後で知ったが、実はこの人が団長なのだった)。

「たしかに理屈だ。だが、入学したら校歌を覚えるのは当然ではないか。君たちには春休みの長い期間があったはずだ。そんなに大変なことを、君たちに要求した覚えはないし、君たちから『約束できません』と言われた覚えもない。」

こう言われると、誰も反論できない。結局、オリエンテーションは2時間ほど続き、わたし達は校歌の1番はなんとか全員で歌えるようになった。だが校歌は全部で3番まである。明日もまた放課後にオリエンテーションの続きがあるのだ。わたし達はくたくたの心と体を抱えて、家路についた。

それにしても、理屈を言うな、という世界があるのか・・。帰り道、わたしは思った。本サイトの読者はお分かりと思うが、わたしは理屈っぽい人間である。だがわたしの高校は男子校だった。進学校ではあるが、古い高校で、バンカラの気質も残っていた。男社会で、しかも上級生下級生のタテ型序列の強い世界では、理屈を言うな、というセリフが通ってしまうんだ。理が通っても、力でねじ曲げられてしまう場所があるのだ。15歳のわたしは、このとき大きな教訓を得たと思う。

前回、「設計の『なぜ』を考える」で、わたし達は「なぜ」を問いかけたり答えたりするのがヘタだ、と書いた。だが、そもそもわたし達は、議論という行為自体が下手だ。そして、それは文化に多少根ざしたものだと、わたしは思う。理屈を言うな、は普通のノーマルな日本語である。賛成するにせよしないにせよ、意味するとことは誰にも通じる。だが、このセリフを外国語で言えるだろうか? とても難しいと思う。英語なら、”Don’t tell me your reasoning."といった感じだろうか。だが、あまりしっくりこない。イタリア語やロシア語で、これに類する言い方は可能なのか。アラビア語で、あるいはヒンディー語ならどうか。もしかしたら中国語や韓国語なら、似た言い方はあるのかもしれないが。

もちろん、どこの国に行っても、無体な要求、非道な連中は存在する。ただ西洋や中洋のように文化の根底が理屈っぽい社会では、そういう連中でも、自分たちが道理を蹂躙している、という自意識はあるのではないか。意識してやるのと、無意識にやるのでは、大きな違いがある。

理屈を言うな、というセリフは、どんなときに発せられるのか。それは、自分たちが共有している意思や熱情や気分に、水を差すな、という時ではないかと、わたしは考える。場を壊すな、といいかえてもいい。というのは、理屈というのは、自分と対象とを引き離すはたらきがあるからだ。『客観化』と呼んでもいい。自分と対象、自分と相手がほとんど一体化しているときには、理屈は無用で、入り込むスキマはない。たとえば恋愛に理屈はない。あるいはスポーツや勝負事で皆が一丸となっているとき、その行為の中に理屈を持ち出すのはヤボだ。そしてもちろん、上下関係の中にも。

理屈、つまり道理というのは、誰に対しても通用する。つまり公平である。万人に公平に与えられているのが、論理だ。こういうものは、上下関係の中の対話には、いささか邪魔なのだ。たとえば男子校の運動部のような場所では。あるいは一般に、タテ社会の中では。わたし達の社会における運動部(体育会)というのは、ある種、軍隊の中の人間関係を再現、ないし予習するための場所である。そこでは論理より熱情が優先される。

そして身分や立場の上下がある間柄には、議論はふつう成立しない。議論は一応、「対等」な間で行うものだからだ。

では、そもそも「議論」とはどのようなものだろうか。わたし達エンジニアが仕事の上で議論するとき、それはどのようなプロセスをとっているか、考えたことがあるだろうか? わたしの理解では、(少なくとも西洋社会では)議論は以下のようなプロセスを経る:

(1) まず参加者の共通の前提や目的を確認する。
(2) 議論の対象となる事実について、客観的・多面的に検討する。
(3) 問題となっていることや対策に関し、相互の意見を出し合う。
(4) 互いの視点や意見を組み合わせて発展させる。
 (ここで揉めたら、(1)や(2)に立ち戻って考え直す)
(5) 合意点を見つける。

つまり議論というのは一種の共同作業であり、一緒になにか建物を建てるような仕事なのである。まず(1)で共通の地盤を固める(ここが無いとそもそも議論にならない)。ついで(2)で、議論という建物の土台をつくる。事実というのはたいてい多面的で、見る人の視点によって見え方が異なる。だからここの部分は念入りに進める必要がある。そして、どちら側も「この上に建てて大丈夫」という風な認識を得るべく、客観的にものごとを記述することをつとめる。そして、このステップには自分の熱情や思い込みを持ち込めない。この『客観化』こそが、対象と自分を切りはなすような、“水くさい”部分なのだ。

その先も一応、順番に意見を応酬し合う、一種の共同作業である。互いにブロックを積み上げ合うような行為だ。そして互いに合意できる結論にたどり着く。それは建物の最上階に見晴台を築くのに似ている。これが議論のプロセス、あり方である。

だから、こうした議論では、基本的に「勝ち負け」がない。対等な立場同士の、共同作業だからだ。また通常の個人間の議論のみならず、学問上の論証も、ビジネスの交渉も、いや刑事裁判でさえ、こうした枠組みの中の『議論』の一種である、というのが西洋風のとらえ方だ。

まあ、議論に勝った負けたはないと言っても、もちろん人間だから、それぞれ途中や結果に対して不満もあり得よう。優位に立った方が、勝ち誇るような態度をとることもある。だが、原則として、議論は勝負ではない(和解に至らぬ民事訴訟やディベートという一種のスポーツは別として)。そしてもちろん、議論とは、どちらが頭がいいかの優劣を決める場でもなければ、言葉による喧嘩や暴力(口げんか)でもない。

こういう認識が文化(OS)の中で共有されていないと、意味のある議論ができなくなる。とくに、議論は口げんかではない、ということは早くから子ども達に教える必要がある。また、自分の意見に意固地にこだわらず、議論を通じて、オープンに変えていけるような態度を身につけさせなければいけない。

そして、議論とは広い意味で「学び」の一部である。なぜなら、「学び」とは考え方や知識や意見の変更をもたらすものであり、議論とはまさにそうした結果を生むためにするものだからだ。議論がきちんとできない組織では、認識も深まらないし、学びも行われない。そうした組織では、きっと同じような思い込みが受け継がれ、同じようなミスが繰り返されるだろう。

人間集団はいろいろな形で、不可避的に「上下関係」「優劣の順位」を作りたがる。それは一種、本能の一部なのだろうし、組織に一定の規律や効率をもたらすといってもいい。ただ、上の意見が下に対して絶対で、「理屈を言うな」という言葉で上下間での対等な議論を抑制してしまうと、組織は硬直化していく。理屈を含む議論はその解毒剤なのだ。少なくともわたしは、そう信じている。

私の高校が今でもあんなオリエンテーションという行事をやっているのかは知らない。たぶん、あんな野蛮なやり方は、今の時勢に合わないだろう。だが、15歳の記憶力はたしかに絶大だった。同窓会で集まると、いい歳したおっさん達が声を揃えて、今でも「こーしゃの、いーしずえ、動きなき〜」と校歌を歌うことができる。それと同時に、わたしはあの「理屈を言うな」という一言を忘れていない。あの一言はわたしに、偉大な教訓を与えてくれた。それは逆説的な仕方でわたしに、道理というものが弱い立場の者をまもる武器にもなりうるのだと、教えてくれたのだ。


<関連エントリ>
 →「設計の『なぜ』を考える」http://brevis.exblog.jp/25540003/ (2017-03-07)


by Tomoichi_Sato | 2017-03-13 22:16 | 考えるヒント | Comments(3)

設計の「なぜ」を考える

まだ駆け出しだった頃、工場改善コンサルタントの話を聞いたことがある。それなりに面白い話がいろいろあったが、1番よく覚えているのはヘアドライヤーの話だった。このコンサルタントは、製造業、とくに電気系メーカーの設計部門を訪れた際は、必ずヘアドライヤーの冷風スイッチについて、尋ねることにしていると言っていた。

「ヘアドライヤーには、温風のスイッチのほかに、必ず冷風のスイッチがありますよね。御社の製品にも、ついていると思います。ではこの冷風のスイッチは、何のためにあるんですか?」

皆を集めてこう質問すると、たいてい誰も答えない。日本の会社は、皆そうだ。でも繰り返して尋ねると、中には元気のいい若手社員が手を上げて、こう答えたりする。

「はい。それは、あの、夏なんかの暑いときは、冷風で頭を乾かしたほうが気持ちいいからです。」

するとコンサルタント氏は続けて聞き返すのだそうだ。「それは本当ですか? じゃぁ、夏に冷風で頭を乾かしている人、手を上げてください。」実際には、手をあげる人はほとんどいない。そこで彼はとどめの一言を放つ。

「アメリカのメーカーに行ったら、こういう答えが返ってくるんです。『髪の毛は熱風を当てると柔らかくなるが、冷やすと硬くなる性質があるので、スタイリングをするときには最初は温風を当て形を作り、最後に冷風スイッチを使って固めるのです。』・・ところが皆さんはそれを作っているのに、なぜそれがあるかを知らない。」

アメリカの技術や製品を日本に持ってきたときに、何も考えずに形だけ真似するから、こういうことになる。何のためにあるんだか理解しないまま、機能をつけてしまう。そのためムダに設計も検査もコストが上がる。・・コンサルタント氏は私たちに、そう教訓を述べた。

もう一つ彼は例をあげた。「どこの工場に行ってもスパナって言う工具がある。知ってるでしょう? ところでこのスパナって、なんだか妙に握りが太くて持ちにくいじゃないですか。だから職場によっては工夫して、わざわざ細い棒を持ち手側に縛り付けて、持ちやすくしている」(彼は黒板に図を描いた)。「でも、なんでこんなことしなくちゃいけないんです?」——無論、わたし達は答えられない。

「それはね、最初にスパナをアメリカから持ち込んできた人間が、そのままのサイズで複製したんですよ。だからアメリカ人のデカい手に合わせた握りになってる。考えないでただ真似したんじゃ、工夫にならない。」

このコンサルタントの言うことがどこまで正確なのか、私はよく知らない。でもその時の私の頭には、『直輸入技術』の弱さ、脆さが刻み込まれた。それは「技術導入は麻薬のようなものだ」といっていた大先輩の言葉を思い起こさせた。外国からの技術導入は、最初は楽だが、次第に自分で考え、開発する力をなくしてしまう。

わたしはエンジニアである。最近はもう自分で設計する事はほとんどなくなってしまったが、それでもエンジニアだと思っている。なにか設計したら、結果は図面や仕様書に落とし込む。その結果が下流側部門のインプットとなって、関連する設計や調達や製造に使われる。それがエンジニアの仕事だ。

だが、エンジニアとして先輩の仕事に学び、自分の成長の糧とするときには、それだけでは足りない。設計の結果だけではなく、考えと仮説を学ぶ必要がある。先のコンサルタント氏による、冷風スイッチのエピソードは、そのことを示している。「技術を伝える」とは、結果としての形だけを教えるのでは不十分なのだ。「なぜ」そうなのかが大切だ。ノウハウ(Know How)より、ノウホワイ(Know Why)が大事だと、わたしの勤務先のトップマネジメントも、よく口にしている。

だから設計をするときには、設計の理由を記した設計ノートやメモやコメントを、なるべく作って残すようにしましょう。

・・というだけでは、実は話はまだ終わらないのだ。

なぜなら、わたし達は「なぜ」を問うたり、「なぜ」と問われたりするのに、文化的に不慣れだからだ。そうでなければ、どうして、誰かが大勢に理由の問いかけをしたとき、皆、遠慮したかのように答えないのか。間違っていても、推理を述べればいいではないか。間違いだったら、そこで学べばいい。別に命を取られる訳でもない。それなのに、「間違った答えをいうと恥ずかしい」という気持ちが先に働くから、誰も人前では答えなくなる。あとで廊下で講師をつかまえて、小声で確かめたりする。それで知識を共有できるだろうか。知らないことの方がもっと恥ずかしいはずなのに、皆が知らなければ、怖くないのだ。

「なぜ」の問答に不慣れなわたし達が陥りやすい「なぜの罠」は、何種類か考えられる。

説明1 「そういう慣習だから、昔からそうだから」
 よくある答え方である。上の冷風スイッチと同じだ。これでは理由を説明していることにはならない。

説明2 「目的はこうだから、機能はこうだから」
 なぜ冷風スイッチがあるのですか? それは、冷風を送れるようにするためです・・これは、質問のたんなる言いかえに過ぎない。その機能の目的が、使用者にとってどんな時どのような意義や利便を提供するか、の答えになっていない。答えのはるか手前で止まっているのに、なんだか答えたような気になっているだけである。

説明3 「それはこういう仕組みなんです」「こういう経緯でそうしました」
 ここのボタンを押すと裏で自動的にこのモーターが作動して・・とか、その機能はもともと別の形で実装する予定だったんですが経緯があって・・とか、詳しい説明が続く。だが、それは単に詳細化して説明するだけで、WhyではなくWhat, Howを述べているだけだったりする。こういう答えもありがちである。

説明4 「顧客が(誰かが)決めたから」
 いやあ、お客さんが(あるいは先輩が、他部署が)そうしろと言ったんですよ・・こういう答え方は、WhyではなくWhoを述べている訳だ。言われたことは忠実にやる。しかし言われないと自分では意見やスタンスがない。これは、受注型ビジネスにたずさわるエンジニアに広く見られる傾向ではないか。すなわち、設計へのオーナーシップの喪失である。本当は、これがけっこう深刻な問題だという気がする。

説明5 「自分のセンスで決めました」
 この自信に満ちた答え方は、言い方を変えると「なんとなく決めました」と同じである。設計者のセンスはもちろん、大事だ。設計という仕事は一種のアート(技芸)としての側面があり、設計者の感性を磨くことは訓練の一部と言っていい。センスがあまりにもない人は、ちょっとその仕事に向いていないな、と判断される場合もある。
 だが、感性に頼りすぎる仕事ぶりは、他者にうまく説明できないし、理解もしてもらえない。エンジニアは感性と理性のバランスが大切なのだ。そして、スティーブ・ジョブズ級の感性の持ち主ならともかく、普通クラスの会社員に「俺の感性を信じろ」と言われても、当惑するだけだろう。
結局、こうした罠に陥りやすいのは、設計という仕事において、「なぜ」をあまり問わず、考えない習慣にあると言えないだろうか。

いや! そんなことはない。我々は「設計レビュー」を要所要所で実施していて、そこできちんとチェックしているのだ、とおっしゃる論者もあろう。なるほど。それは素晴らしい。きっとそうした組織では、設計レビューの基準が(それもレビューの方法・手順や体制ではなく、基準が)明確なのだろう。

だが、設計レビューという行為は、しばしば設計書の記述ルールや整合性チェックにとどまる場合が多くないだろうか? つまり、IT分野の例を出せば、設計の「なぜ」を問う代わりに、以下のような項目の確認に時間を費やすのである。
・ネーミングルール
・エンティティ(要素)の洗い出し
・要素間のリレーション
・記述法とフォーマット
・図面間の整合性
・入出力の検証可能性
これはこれで、結構だ。だがこうしたレビューをいくら重ねたって、「いらない機能」「非効率な構造」をあぶり出すのに役に立つだろうか?

かくして、『機能しないレビュー会議』という問題が生じるわけだ(その証拠に、ネットで検索するといろんな関連記事が出てくる)。設計レビューを本当に機能させたければ、きちんと「なぜ」を問いかけ、まともに「なぜ」を答える習慣づけの必要がある。

そもそも、設計のアウトプットが、単なる工学計算の結果ならば、わざわざ誰も「なぜ」を問うことはしない。「この熱交換器の伝熱面積はどう計算したの?」「HTRIの推算式を使いました」「あっそう。」それだけの話だ。そこにはHowはあるがWhyはない。Whyが登場するのは、「この流体は一部が熱で気化して混相になるはずなのに、なぜ液相の伝熱計算式を使ったの?」というような、『判断』が登場する場合だ。

そして、設計業務の一番の肝は、判断(design decision)にある。設計のdecisionとは、本質的にトレードオフ間の決断である。われわれがなにかの設計時に直面するのは、
・安定性と俊敏性
・冗長性と効率性(燃費)
・頑健性と軽量性
・複雑性と保守性
・オマケ機能と製作工数
・品質とコスト・・
といった、「あちらを立てるとこちらが立たず」風の状況下において、どのようなバランスをとるかという決断なのである。そして、決めるためには、なんらかの仮説や推測が要る。「なぜ」の問いは、まさに、設計者の仮説を言語化するためにあるのだ。

設計という行為の中核がこのようなトレードオフの判断である以上、わたしは人工知能(AI)が将来、自動設計をしてくれてエンジニアの職をどんどん駆逐する、などという想像には組みし得ない。AIどんなに発達しても、機械だけでは決して設計問題を自動的には決められないだろう。

なぜなら、それは仮説設定と価値判断だからである。

設計の結論だけでなく、思考のプロセスと判断基準を示すこと。それがエンジニアの仕事であり誇りであってほしいと、わたしは思う。このことは、以前紹介したように、人に説明するとき「なぜ」からはじめるべき(Start with Why)という金言とも一致している。だから、「なぜ」にもっと真剣に向き合おう。

<関連エントリ>
 →「『なぜ』からはじめよう - 仕事の目的を設定する」 http://brevis.exblog.jp/24334345/ (2016-04-18)

by Tomoichi_Sato | 2017-03-07 22:01 | 考えるヒント | Comments(0)

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事

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この図形をいつ、どこで見つけたのか、正直いって思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただし、この図は眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、それでもこの図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、
「それは自分が好きな事か?」
「自分が上手にできる事か?」
「稼げる事か?」
「世の役に立つ事か?」
を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

そして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

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わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、
・上手にできる事か(=自分たちの強みを生かしているか)
・したい事か(=モチベーションを高めるような仕事か)
・世の役に立つ事か(=市場性、コンプライアンス性は満たしているか)
をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。これは、よく考えてみると、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。

わたし達は「生きがい」には、なかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、4つの軸のバランスをはかりながら、少しずつでも進んでいくべきなのである。


<関連エントリ>
 →「時間の中に生きる」http://brevis.exblog.jp/11897591/ (2010-01-03)
 →「今年の抱負はこう作ろう」 http://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)

by Tomoichi_Sato | 2017-01-12 23:04 | 考えるヒント | Comments(0)