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『佐藤、お前は傲慢だ』 〜 あるいは、経験から学ぶことの困難ついて

「佐藤。お前は傲慢だ。」

−−随分昔、上司のSさんに言われた。言われたが、自分がなぜそんな事を言われるのか、よく分からなかった。

たしかその時、わたしは顧客の要求事項について、Sさんに説明していた。客先は、こことここを、こうしてほしい、と言ってきています。でもそれって、元の設計の方針とは少し、ずれてきています。客先の意図と背景を推測すると、実はこれこれこういう要望事項が、隠れているんじゃないでしょうか。だとしたら、顧客の真のニーズに合わせた開発をするべきでしょう。

「顧客が『欲しい』と口で言うことを、ただ実現するよりも、顧客が自分でも気づかない真のニーズを満足させることが、設計者の使命だと思います。」

という意味のことを言ったら、Sさんに

「佐藤。お前は傲慢だ。」

と叱られたのだ。上司に言われたので引き下がったが、内心わたしは納得していなかった。顧客が欲しがる解決手段(How)としての「ウォンツ」ではなく、顧客が何故それを必要とするのか(Why)を示す「ニーズ」にフォーカスすべきだ、と、今でも思っている。

しかし、その時、Sさんがわたしに諭した「お前は傲慢だ」という指摘は、それでも正しかったのだ。ただ、それが分かるまでには20年以上の時間が必要だった・・


この文章を書いている今日は、8月15日、いわゆるお盆の日だ。終戦記念日でもあり、西洋キリスト教社会では、聖母被昇天の祝日(≒聖母マリアの命日)でもある。先祖を追悼し、昔のことを想う日だ。なので、ここにいささか恥ずかしい、自分の反省の記録を書いておく。

2週間前の日曜日である8月2日、本来わたしは演奏会のステージに立って、合唱を歌っているはずだった。曲目はJ・S・バッハ『マタイ受難曲』。指揮は佐々木正利(声楽家・岩手大学教授)、演奏は「佐々木バッハセミナー合奏団および合奏団」。だが、周知の通り、現下の状況では、とても合唱演奏会を開ける状況にない。わたし達は涙をのんで、演奏会の中止・延期を決めた。

この合唱団の母体となったのは、毎年夏に、池袋・目白にある「自由学園明日館」で4日間に開催される、「佐々木バッハセミナー in 明日館」 というセミナーの参加者だ。このセミナーは後援団体のない自主セミナーで、中心となるTさん・Kさん・Tさんらが、佐々木先生をお迎えし、2002年から毎年手作りで開催してきた。曲目は、佐々木先生のご専門であるバッハの声楽曲がほとんど。わたしも一応、運営スタッフの末席にいるが、大したことはしていない。
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自由学園明日館(本館)

このサイトの読者諸賢は、合唱、ことにバロック時代の合唱曲など、興味のない方がほとんどだろう。だからくだくだしい説明は省略するが、多作家だったバッハの作品の中でも、「マタイ受難曲」は最高峰とされている。長大で(演奏すると全部で3時間半くらいかかる)、編成も大きく(二重合唱でオーケストラも二手に分かれる)、名曲のほまれも高いが、演奏技術面でも難曲かつ大編成なので、簡単には演奏できない(費用が相当にかかるからだ)。

だが、バッハの音楽を好む人にとっては、「一生に一度はチャレンジしてみたい」大曲でもある。それは「バッハセミナー in 明日館」の面々も同じだ。とはいえ、わずか3日半のセミナーで、全部を仕上げるのは不可能だ。そこで、段階的なアプローチをとった。まず2017年夏は、マタイの第1部。翌2018年夏に、第2部を、それぞれセミナーで勉強する。その上で、2019年から希望者を募り合唱団組織を作って、月2回の練習を続け、2020年夏に、全曲演奏会を行う、というプロジェクトである。

ところでその第一歩、2017年の夏のセミナーで、わたしはとんでもない経験をした。ゲネプロの舞台の上で、自分のソロの箇所で、立ち往生したのだ。

ゲネプロというのは本番直前の総練習をさす。セミナー最終日の、事実上の仕上げ段階だ。それなのに、自分が歌うべき箇所を、わたしは歌えなかった。それも、長い曲ではない。全部でわずか、7小節である。でも、歌えなかったのだ。緊張であがって歌えなかった、のではない(そんな可愛らしい年齢ではないよね)。拍の長さを、数え間違えたのだ。

わたしは合唱が趣味だが、別に歌がうまいわけでもないし、声量があるわけでもない。この明日館の夏のセミナーで、ソリストとして舞台に立つのは、たぶん7年ぶり、2度めだったと思う。ちなみにセミナーでは、器楽演奏家はプロの方をお願いするが、歌のソリストは毎回、参加者の中から希望を募り、オーディションで決めることになっていた。希望者が多い場合は、1曲を分割し、リレーして歌い継ぐ。ただ参加者は上手な歌い手が多く、それでも競争は厳しい。わたしはあえて、ソロは希望してこなかった。

でも3年前、セミナーの始まる初日に、家を出る前、連れ合いに「今年はテナーのオーディションを受けようと思う」と告げた。第1部には20番という、比較的短いテナーソロ(合唱のオブリガードつき)があり、そこなら歌えそうに思ったのだ。すると連れ合いは、「度胸だけじゃなく、ちゃんと猛練習しなきゃ恥ずかしいわよ。このごろ、仕事は度胸だけで乗り切っているでしょ」と言い返してきた。図星なところがあってドキリとした。

2017年度のセミナー参加者は、過去最高の103人。自由学園明日館の講堂は、F・L・ライトの流れをくむ名建築で文化財だが、このときばかりは狭く見えた。これじゃソリストへの競争は厳しいな。だが不思議なことに、20番のソロの希望者はわたしを含む2名のみで、佐々木先生は「時間がもったいないから」オーディションは省いて、当選ということになってしまった。

セミナー3日目に、器楽とソリストの合わせ練習が始まる。わたしが分担する箇所は7小節。歌詞なんかワンセンテンスで、「わがイエスのそばで、わたしは目覚めています」だけだ。だが、なぜか、わたしは間違えてしまい、恥ずかしい思いをした。第25小節目(楽譜の印のある箇所)で、シの♭(ドイツ音名でB)を、八分音符で6個半分の長さ、伸ばさなくてはいけない。それを、短く切り上げてしまったのだ。
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その日の午後には、器楽演奏者が全員揃い、舞台配置で再度練習があった。伴奏してくれるのは、チェロ・田崎瑞博氏、オルガン・能登伊都子氏、といった当代一流の演奏家たちである。それなのに、また切れ目を間違えてしまい、2回やり直してもダメ、3度目の正直で、ようやくなんとか通った。家に帰ってピアノで曲をさらい直した。気づきはもちろんあったが、音型自体は単純なのだ。なのに、なぜ間違えるのか?

そして最終日。午前10時からのゲネプロでも、自分のソロの部分を見事に間違えてしまった。今度は逆に、1拍遅れた(伸ばしすぎた)のだ。その後のダメ出しで、お願いしてもう一度やらせていただき、ようやく成功。しかし単なるまぐれで、薄氷だったことは、自分でわかっていた。

本番前のお昼休みの時間に、講堂の裏でもう一度、一人で練習をしなおした。昨日のリハの録音を聞きかえしているうちに、自分のどこが間違えていたのか、ようやく少しずつ分かってきた。練習の時、肝心の25小節に入ると、なぜか器楽が妙に遅くなったように、いつも感じていた。だが、もちろんプロがそんな事をするわけがない。実はその前の23〜24小節の、メリスマ(早い動きの箇所)で、焦ってしまい、自然に自分の側のテンポが早くなっていたのだ。だから音を伸ばす25小節目に入ると、オケが遅くなったように感じたのだった。

ようやく原因がわかった。だとしたら23〜24小節を、ちゃんと正しいテンポで歌えるようにするしかない。昼休みの残りの時間、たぶん20回以上、その箇所を録音とともに繰り返して歌った。

本番の修了演奏会では、幸いなことにソロの部分も、指揮する佐々木先生の顔だけを見ながらテンポをおっていたおかげで、ちゃんと歌い通すことができた。本当にラッキーだった。天の助けだと思った。

あの日の修了演奏会の後の打ち上げパーティのことは、はっきり覚えている。明るい盛夏の午後だった。明日館本館の、ライト自身が設計した食堂に皆が集まって、おいしい食事と飲み物を取りながら、互いに感想を述べるのだ。そして何人もの人に、「ちゃんと歌えて良かったですね」「アルトは皆、数を数えて応援していましたよ」などと声をかけられ、ありがたく感じるとともに、顔から火が出そうな気がしたのだった。

さて、興奮がぬけた翌朝、もう一度、冷静に考え直してみた。Q1:なぜ、わたしはあの簡単な箇所で伸ばし間違えたのか?

答えは、A1:その直前の小節で歌い急ぎすぎたからだ。

ではなぜ、Q2:前の小節で歌い急いだのか? 答えは、A2: 指揮のテンポや器楽の音に注意が向かなかったからだ。

では、Q3: なぜ、指揮や器楽に注意が向かなかったのか? そんなの、音楽演奏の基本じゃないか、とわたしの中の声がいう。もちろん、そうなのだ。でも、A3: あそこは細かい動きの続くメリスマの箇所だった。

なるほど。だが、Q4: なぜ、メリスマで急いだのか。そのメリスマの箇所はそんなに難しかったのか? −−そう言われると、やや答えに窮するのだ。だって、バッハはメリスマの作曲家と言っても過言ではない。彼のカンタータや受難曲は、長大で困難なメリスマが山のように詰まっている。その中で、この20番など、平均的なものでしかない。

だとしたら、答えははっきりしている。A4: 練習が足りないからだ。

普通なら、ここで自問自答は終わる。だがわたしは、もう一歩だけ先の扉を押した。

Q5: だったら、なぜ練習が足りないのに、お前はソロのオーディションにエントリーしたのか?

A5: 自分が傲慢だからだ。

ここで初めて、わたしは本当の答えを得たように思った。あの歌がちゃんと歌えなかった根本原因は、自分が傲慢だったからなのだ。

曲のオーディションに受かるかどうかなど、結果に過ぎない。大事なのは、自分が納得できるまで練習したかどうかなのだ。それをせずに、ノリで受けるだけだとしたら、それは、誠実に準備してきた他の人達を侮辱することになる。わたしがしたのは、そういうことだった。「佐藤。お前は傲慢だ。」という元上司のSさんの声が、そのとき耳に蘇った。

わたしはその月、すぐに尊敬する声楽家の門を叩いて弟子入りし、歌の勉強を一からやり直すことに決めた。今までも、発声指導の先生についたことはあった。だが長い間、合唱が趣味だと言いながら、ちゃんと歌を習ったことがなかった。それがそもそも、怠惰なのだ。

翌2018年夏のバッハセミナーで、わたしは再び、「マタイ受難曲」第2部の34番、短いテナーのソロに応募した。わずか10小節のレチタティーヴォだ。2人で分け合うことになり、わたしの割当は前半6小節だった。本番当日は風邪気味で、十分な出来ではなかったが、少なくとも今度は間違えずにちゃんと歌えた。その1ヶ月半くらい前から、家でずっと繰り返し練習してきたからだ。家族は(またその曲か、いい加減にしてほしい)という顔をしていたが、我慢してもらった。

それに、歌の先生についたことで、少しは進歩もあったようだ。自分では何が変わったのかよく分からないのだが、佐々木先生からは練習時に、「知一さん、例年に比べて声が出るようになったな。」といわれた。それが一年前のつぐないに思えた。

これでわたしの、短い思い出語りは終わりだ。まことに無様な失態から、ようやくひとつの学びを得たということだ。

それにしても、「お前は傲慢だ」と上司に言われてから、20年近くたって、やっとその意味が分かるとは。これは、「学び」の深さと、難しさを示している。わたしのような自惚れの強い人間が、何かを学ぶには、痛い思いをしなければ、きっかけを得られないらしい。

おまけに、学ぶためには、乗り越えなければならない障害、ないし敵がある。

学びの第一の敵は、傲慢なのだ。傲慢だったら、何も学ぶ必要はないと、うぬぼれる。それでも、たまたま運が良ければ、あまりひどい失態を経験せずにすむ。あるいは、自分の失敗を見ないふりして、生き続けることも、できるだろう。

ただ、それでは、周りが迷惑だ。わたし達の社会は、互いに支え合いながら、できあがっている。どこかに傲慢な人間や組織があると、その負荷を周囲が担っていくことになる。傲慢な人間たちは学ばないから、同じような失敗を何度でも繰り返す。繰り返しつつ、糊塗していく。そのツケは、結局、社会の周囲に回されていく。

わたし達の社会は、わたし達の父祖が苦労して築いてきたものだ。傲慢さは、それを蝕む。もし、わたし達が先人たちの魂に何か感謝を示したいのなら、まず、謙虚になって、「わたし達は経験から学びます」と誓うべき事であるはずなのだ。


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by Tomoichi_Sato | 2020-08-15 15:18 | 考えるヒント | Comments(0)

AIで設計は自動化できるか(3) 〜機械にできる仕事、人間が果たすべき仕事

「佐藤さん。AIを使って、設計を自動化することができると思われますか?」

――おやおや。何かご相談があるという話でしたが、いきなり難しい質問ですね。どうしてそんなことを考えておられるのですか。

「自分はこのところずっと技術部門で、いわゆるPLMと呼ばれるような設計用のITツールに関わる仕事をしています。ただ、単に設計図面や部品表を共有するだけではなく、もっと画期的に設計の生産性を向上するには、AIの力が必要だろうと思って調べはじめたんです。そうしたら佐藤さんの会社の、『ITグランドプラン2030』構想が検索に引っかかりました。その中に『AI設計』という活動があって、興味を持ったんです。」
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日揮ホールディングスHPより引用(https://www.jgc.com/jp/news/assets/pdf/20181218_1.pdf

――なるほど。ただ、我々のようなプラント・エンジニアリング会社と御社では、設計業務も随分違うと思います。御社では、なぜAIに自動設計させたいのですか? 狙いはなんでしょう。

「それは…ですから、設計生産性の画期的な向上です。」

――と言うと? 御社では設計の生産性がこまるほど低いのですか?

「いえ、そう言うと語弊がありますが…ただ設計のミスとかは、案外多いですね。出図の後の、変更のフォローも悩みの種です。」

――つまり、省力化と正確性の向上を図りたいから、AIに設計をやらせたいと。そういうことですか?

「佐藤さんの会社では、違う狙いがあるんですか?」

――正確性の向上も、目的の1つにはありますよ。でもそれは部分に過ぎません。他に、例えば大量で単調な設計作業を肩代わりさせたいから、ということもあります。プラントの世界では、追いかけなければならない設計対象品目の数が、半端なく多いですからね。でも、一番最終的な狙いは、これまでの人間では発想できなかった設計を得たいから、です。

「そこなんです! 自分が言いたかったことも。今まで思いつかなかったような形状の製品を設計する。これができれば凄いじゃないですか。佐藤さんの会社が発表されているロードマップを見ると、『革新的なプロセス機器の自動設計』が最終ゴールに描かれています。これがそういう意味ですよね?」


――その通りです。非常にクリティカルな操作条件の反応器や熱交換器などを、まったく新しい形状で設計できるようになることを、目指してます。でもそのためには、3D Printerや新素材の開発も同時に必要でしょうがね。それも同じロードマップに入っています。

「なるほど。ただ、そこに至る道筋とステップが、よく分かりません。なんだか一本道ではなくて2つの線が合流した形になってますよね。これはどういう意味ですか?」

――それを説明するには、まずこのロードマップ図の見方を説明しなければなりません。ロードマップの横軸は、図中のそれぞれのテーマの狙いを示しています。図の左側に位置するのは、短期的な狙いです。ここではキャパシティーアップと書いていますが、これは私たちの組織の生産性を上げると言う意味です。」

「生産性。まさに私たちの課題と同じです。」

――図の真ん中へんに位置するのは、品質向上・リスク低減です。すなわちプロジェクトをより可視化して、突然問題が吹き出すことを防ぐのが目的です。そして1番右側にするのは、新しいデザインや価値を、顧客に提供することです。つまり左側にあるのは短期的な課題、真ん中が中期的で、一番右はより長期的な狙いになります。

「AI設計は、比較的左側に寄っていますね。」

――その通りです。そして縦軸は、それぞれの取り組みの難易度を表しています。上に行けば行くほど、難しい。ですから、このロードマップの全体配置で言うと、左下のほうにある取り組みは、短期的な狙いで、かつ、難易度も低いですから、すぐ着手べき、となります。逆に右上のほうにあるテーマは、長期的な狙いで、難しいですから、当然将来の取り組みになります。ですから、全体としては、左下から右上に向かって、我々のいわば「デジタルジャーニー」の道筋があるわけです。

「なるほど、図の構造はよくわかりました。」

――それで、AI設計に話を戻します。出発点になるのが1番左下の、単純作業の自動化です。先程言ったように、私たちの設計業務には、多量で単調な作業がかなり含まれています。チェック作業とか、ツールや図面間の転記作業とか。そこでRPAなどを使って自動化し、エンジニアをつまらない作業から解放する。

「RPAはAIとは言えないですが。」

――もちろんです。ただ、こうやって設計作業を棚卸しし、最初に整理しておく必要があります。その上でAIの応用を考えねばならない。ところで、AIのエンジンと言うのは、買ってくれば、そのままポンと使える道具ではありません。そこには設計の知識やルールの埋め込みが必要になります。そのためには、ベテランのエンジニアが持っている暗黙知を、形式知化して、AIのエンジンが理解できる形に埋め込んでやらなければいけません。

「それが左上にある、『シニア技術の形式知化・ルール化』なんですね。ただ、どうしてこれは、こんな外れた場所にあるんでしょうか?」

――われわれはこのテーマに、昔から何度も取り組んできたんです。ところが、なかなかうまくいきませんでした。難易度が高いので、図の左上にあるのです。

「実は、うちの会社でも、同じような問題に突き当たっています。なぜこれって難しいのでしょうね?」

――理由はいくつかあると思います。単純に、シニアが忙しすぎて、時間を捻出できない、から始まって、センスや感覚論で説明してしまう傾向があるとか、いろいろです。でも1つの問題は、設計プロセスを形式化するための、方法論なり技術が、曖昧だったことにあります。そこで我々は、DSMという手法を導入して取り組むことにしました。

「DSMって、なんですか?」

――Design Structure Matrixの略で、米国のD. V. Stewardが1981年に、設計プロセスのモデル化のために提案した技法です。設計変数(設計諸元)をマトリクスの縦横に取って、設計における依存関係を表現します。Bという設計変数を導出するのに、設計変数Aが必要だったら、マトリクスのB行のA列に1を記入します。記法は単純ですが、複雑な設計プロセスを形式知化し、設計上の問題を抽出することができます。
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「というと?」

――通常の順次導出関係は、対角線よりも左下にある”1"で示されます。逆に、対角線よりも右上に1があったら、それは設計の後工程から前工程へのフィードバック(つまり手戻り)を示すのです。そこで設計変数の順序入れ替えやグルーピングを行って、マトリクスを整理し、プロセスを改善するのです。もちろん、1のマス目で表される、それぞれの設計変数間の導出関係の後ろには、計算ロジックがある訳です。

「なるほど」

――わたし達は、シニア技術の形式知化から、メインのAI設計の流れに合流する点を、「AIローディング・ポイント」とよんでいます。これをちゃんとやらないと、設計へのAIの活用は成り立ちません。

「その次にある『プロットプラン自動設計』というのは何ですか?」

――プロットプランとはプラントの配置計画のことで、空間設計の基礎になるものです。化学プラントの設計では、最初にプロセスシステム、つまり全体の機能的な設計をします。電気工学で言う回路設計だと思ってください。それから、システムを構成する個々の要素、つまり機器や配管などの空間的な配置を決めます。これがプロットプランです。プロットプランは全体コストに大きな影響を及ぼすので、エンジニアリング会社の競争力の源泉ですが、考慮すべき要素も多く、現在はベテランにかなりを頼っています。

「そこでAIの登場ですね」

――うーん、そうなんですが、話はそう単純じゃありません。プロットプランはコストを左右する、といいましたが、じゃあ単に、敷地面積や配管の物量だけを最小化すればいいかというと、そうではないんです。施工性であるとか、地下埋設物の存在とか、操業時のアクセス性とか、かなりいろいろな要素が関わります。つまり、評価尺度が複数あって、しかもあちらを立てればこちらが立たず、というトレードオフ関係が生じやすいのです。

「そうなると、最適化問題という訳ですか」

――そうです。それも多目的最適化問題になります。多目的最適化ではパレート・フロンティアとか、いろんな概念とテクニックが登場しますが、要するに答えは一つとは限らないのです。しかも、配管長とかケーブル長とか敷地面積などは、明示的に計算できますから、最適化エンジンの中に組み込めますが、施工性とか操作性は、ある意味とても定量化しにくいものです。だから、エンジンには組み込めない。

「じゃあ、どうするんですか?」

――出てきた答えを、人間が評価するしか無いのですよ。多目的最適化エンジンに、制約条件と目標値を与えて、複数のケースを計算させてみる。その結果を、エンジニアが評価して、部分的には修正して、またエンジンを動かす。こういった、一種のマン・マシン・ループの生じる仕事になります。

「それは、あまりうれしくないですね」

――そうでしょうか。でも、現在はすべてのプロットプラン設計作業を、ベテラン技術者がやっていますから、限られた納期の中では1ケースのプランを作るのが精一杯です。それが、複数ケースを比較評価して、ベターなものを選べるのだったら、十分うれしいと思います。

「なるほど、省力化は図れるのですね」

――いや、省力化よりも大事なことがあります。それは、技術者が『評価』という、価値ある仕事に集中できることです。さまざまな観点・尺度から、設計成果物を評価し、必要に応じて改善する。この部分は、AIにはできません。計算機には価値観も思想もありませんからね。人間の大事な仕事なんです。従来は設計のバルキーな計算や作図作業にほとんどの時間を取られ、せいぜい設計結果のチェック&レビューくらいしかできませんでした。評価尺度についても、十分意識化してこなかった。そこは大きな前進になります。

「ふーん。そうなると、AIの出番はどうなるのですか?」

――まあGartner社などは、最適化もAIの領域内に含めていますが、技術的には以前からあったものです。それで、現在、世の中でAIと呼ばれているものは、ほぼ機械学習、それも深層学習です。その中心機能は、パターン認識、つまり類似性の判別と判定にあります。具体的には、画像認識による個人の顔の特定や、音声認識などのアプリケーションですね。もちろん、故障の予知保全なんかも応用分野の一つです。

「そこは弊社でも注目しているところです」

――そうですか。ところで、パターン認識技術って、設計に応用できると思いますか?

「できるんじゃないでしょうか。過去の設計事例から類似パターンを引っ張り出して、サジェスチョンしてくれるとか、でるといいなと思っています。」

――たしかに、サジェスト機能くらいなら、ありえるでしょう。保証はないけど、おおよその答えを言うだけですから。でもね、いやしくも科学法則に縛られた理工学領域の設計では、ベストの類似パターンを探し出してきたって、その計算結果が制約条件を満たさなければ、アウトですよ。設計の世界では、yesかnoかは白黒はっきりしています。耐荷重が100kgの条件なのに、出てきた答えが98kgしかなかったら、アウトプットには使えないのです。そこは、SFじゃないけど「冷たい方程式」が支配する領域なんです。

「だったら、シミュレーション機能と統合して、条件を満たす順に類似結果を表示したらどうですか。PLMの中に過去の設計図面をすべて登録し、PLM得意のシミュレーションI/Fを使って計算すればいいでしょう。そこから人間が、いいものを選ぶ」

――はい。だから、機械学習は、わたしのいう「選択的設計問題」だったら使いやすいと思うのです。もちろん、過去の設計成果物が、きちんとデジタル化され、かつ、設計変数や制約条件などのメタデータも、標準形式化され登録されている前提ですが。

「まあ、そこはちょっとハードルが高いですけれど、頑張れば可能ですね」

――ですね。で、そのとき課題になるが、設計ルールや、設計変数間の関係、つまり設計知識の扱いなんです。過去の図面は、頑張ればデジタル化できるでしょう。ただ、メタデータやルールや知識を、扱いやすい形式にする部分がポイントです。今の深層学習系AIソフトと、一世代前のルール型AIや知識ベースの両方が、じつは設計の自動化には必要なのです。

「ふーむ。でもIBM Watsonなんかは、何でも知っているという話ですが」

――クイズ番組に出るような知識ならね(笑)。ただ、御社の設計作業に関する知識は、知らないんじゃないですか。それをインプットするのは、御社の仕事のはずです。

「たしかに。」

――しかも、今のAIが活用できるのは、選択型問題や、演繹的決定による設計問題に限られます。先ほど説明したプロットプランのような最適化問題は、パターン認識ではアプローチできません。ましてや、形状や構造を設計する、システム合成問題は、なお難しいでしょう。

「じゃあ、AIでの設計は不可能、と思われるのですか?」

――そうは言いません。今の深層学習とパターン認識によるアプローチの最大の問題は、過去の設計データの蓄積に依存している点です。深層学習は、万の単位の教師データを必要とします。しかし、設計という行為は、つねに一回限りです。製造では全く同じ製品を繰返し作ります。だからパターン認識による欠陥検出や故障予知などがきくのです。他方、設計は、全く同じ図面を再生産することはしません。毎回、必ず何かが違うのです。エンジニアリングには「個別性の罠」があるのです。

「ますます、不可能に思えてきましたが」

――それは、過去の設計結果に頼ろうとするからです。そうではなくて、計算機が、自分で設計結果を生み出していけば良いのです。少しずつ、設計パラメータを変えて、結果を計算する。そして、評価関数を与えてやって、良いものを選んでいく。計算機は飽くことなく、いくらでもランダムな組合せで設計をジェネレートします。そこから、よりベターなパラメータ群を選んでいく。

「それって、強化学習ですね」

――そうです。AIで設計を自動化したかったら、強化学習しかないのですよ。このように、計算機が自分でベターな設計を生成していく手法を、Generative Designといいますが、その代表例が、「トポロジー最適化」の技術です。これは、機械部品などの形状について、人間がある初期値を与えてやり、そこから自動的に肉付けを変えていって、もっとも重量が少なく強度の高い結果を求めていくような手法です。すでに商用のソフトウェアも存在します。

「やっと、トンネルの向こうに光が見えてきたような気がします」

――そうですか。ただね、強化学習では、設計をジェネレートするたびに、その評価をしなければならないのです。単純な構造部品なら、重量と強度の計算程度ですみます。しかし、たとえば熱交換器程度でも、ちゃんと評価しようとすると、毎回、熱伝導計算と計算機流体力学の両方を解かなければなりません。かなりマシンパワーを食う計算です。

「でも、マシンパワーはクラウドと並列化技術のおかげで指数関数的に進化し続けています。そういう意味では、強化学習による設計も、楽観視して良さそうですね。」

――まあ、そうだといいですね。ただ、ちょっと気になる点もあります。現在のAIコミュニティを見ていると、強化学習の分野は倒立振子問題から始まって、ロボットアームの制御みたいな、連続変数の制御問題の枠組みばかりを注視しているように感じられます。トポロジー最適化のような、形状の連続的変形の問題は、それでもいい。連続変数の最適化制御問題は、非線形性が強くても、最後は偏微分方程式を力づくで解く方向に進めます。

「はあ。」

――ところが、形状の設計ではなくシステム構造の設計となると、問題は離散的な設計変数の組になります。離散系の最適化問題は、連続系とは全く異なる難しさがあるんです。詳しい話は省きますが、NP完全になりやすいので、経験的なヒューリスティックが必要になる。そのことを、ORの分野の人はよく知っていますが、まだAI系の人は無頓着に思えます。

「というと、結局、AIは設計をどこまで自動化できるんでしょうか?」

――将来に渡って、設計エンジニアは不要にはならない、ということです。要求を分析し問題構造を理解する、設計の知識ベースを入力・更新する、複数の目的関数を設定する、でてきた結果を評価する、必要に応じてそれを修正する、そして設計のツール自体を進化させる。こうした仕事は、相変わらず人間に残ります。もしAIが将来、設計技術者を不要にすると思うなら、それは無用な心配です。むしろ今のAIは、設計に活用しようとすると、ずいぶん寸法が足りない。一寸法師のようなものです。
 一寸法師だって、大勢を上手に使えば、エンジニアの退屈な仕事はそれなりに手助けしてくれます。ただ、それを上手に進化させられるかは、わたし達にかかっているのです。


<関連エントリ>
 (2020-05-07)
  (2020-05-15)



by Tomoichi_Sato | 2020-05-24 23:12 | 考えるヒント | Comments(1)

AIで設計を自動化できるか? (2) 〜「良い設計」の条件を考える

前回の記事「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?」 でも書いたとおり、設計とは『機能を形状・構造に落としこむ』(そして必要な場合は制御機構も与える)行為である。だから、設計は典型的な逆問題になる。逆問題とは、アウトプット(結果)から、インプットやプロセス(入力・過程)を逆算する問題だ。一般的には、一意に解けない。だからこそ、設計者のスキルやセンスの活躍する領域がでてくる。

設計者に、スキルの高低とかセンスの良しあしがあることを、否定するエンジニアは少ないだろう。毎回、画一的な答えを出すだけなら、ロボットでも代替できる。だが、設計者はロボットではないはずだ。では、設計者という人間のスキルやセンスとは、何を指すのか。

当たり前だが、それは、「良い設計」を作れる能力を意味している。誰が見ても、「うーむ、良い設計だ」と感心する出来栄えのアウトプットを、ある程度コンスタントに生み出せる能力。そういう人は、スキルが高い、センスが良い、と言えよう。

では、「良い設計」とは、何なのか? 

良しあしを言うからには、そこに、何らかの評価尺度と基準があるはずである。前回の記事では、機能・構造・制御の3要素に関連して、3つの評価項目を取り上げた。

(1) 有用性:有用でないモノは、作るに値しない。有用性とは「機能」が生み出すもので、設計対象の性質やふるまいのうち、使用者の期待に合致する(あるいは他の機能を助ける)部分を指す。若干ニュアンスはかわるが、「機能性」と呼んでも良い。

(2) 存続性:ちゃんと存続しないモノ(作っても瞬時に壊れるような物)は、使えない。存続性は、「構造・形状」(と材質)が、保証する。力学的安定性ともいう。ただしソフトウェアのような無体物は、構造的単純性(スパゲッティ状態でないこと)で置き換えて、解釈すべきだろう。

(3) 操作性:使用者の意思に沿って動かないモノは、使えない。操作性は、「制御」の機構が実現するもので、制御性といっても良い。普通はそのために、ユーザ・インタフェースが必要になる。

言いかえると、ユーザの期待を上回るような機能・性能があり、形状や構造は単純ながら堅牢安定で、かつユーザの意のままに動かせるようなモノを作れたら、良い設計だという事になる。

しかし、評価基準はこれだけか? そんなことはない。

まず、真っ先に設計者の脳裏に浮かぶのは、『コスト』であろう。コストが優先、コストは安いほうが良い。これは多くのエンジニアに刻み込まれた価値観だ(とくに日本では)。もちろん、正確に言うと、「同じ性能や品質が実現できるならば、コストは安いほうが良い」である。コストダウンで性能や品質が犠牲になっては、本末転倒だ(だが、しばしば設計者が、「コストダウン優先」という『転倒』を、要求されたりするのが見受けられるが)。

その「コスト」はさらに、設計作業それ自体の人件費、材料部品の購入費、そして製造や検査の労務費、機械設備の減価償却費や光熱費、などから構成される。このうち、最後の製造間接費は普通、企業の製造部門が固定費として担うので、設計部門の責任範囲外だ。しかし設計人件費・材料費・労務費のどこまでが、設計部門の「コスト」の対象になるかは、その企業の組織ポリシー次第でかわる。

だから、ある者は、たとえ材料費が少し増えても、製造の手間が下がれば、全体コストが下がるから「良い設計」と思い、別の者は、材料費さえ下がれば、製造が面倒になっても「良い設計」だと考える(労務費は設計者の責任範囲外の場合)、といった現象がおきる。もちろん、設計作業の人件費しか見ない者もあるだろう(製造を外部企業に委託している場合など)。このように、何が良い設計なのかは、その会社の経営のモノサシにかなり依存するのだ。

さて、同じ性能や品質が実現できるなら、コストは安いほうが良い、と上に書いたが、では「性能」や「品質」は、どんな評価尺度なのか? とくに設計が実現すべき『品質』とは何なのか。まさか、製造品質のことではあるまい(さすがに普通それは製造部門の責任だ)。では、設計図や仕様書に誤りがないこと? 誤字や転記ミスがなければ、「良い設計」になるのか? それって最低限、守るべきことではないか。

設計における品質の問題とは、ユーザの要件や無意識的期待への合致、で測られるべきであることを思い出そう。そこで、よくITの分野で行うように、「機能要件」と「非機能要件」という角度からとらえなおすほうが、分かりやすい。

 性能=機能要件に属する特性
 品質=非機能要件で決まる特性

たとえば自動車でいえば、『移動』という主要な機能目的に直接付随する特性、つまり走行距離、最高速度、可載重量、馬力、加速性、燃費、回転半径などが、性能の範囲だ。逆に、高速安定性だとか剛性だとか衝突安全性、そして空間の広さや居住性、運転のしやすさといった非機能要件が、品質と関係する。良い設計というのは、機能要求を満たしつつ、非機能要件も適度に満足させるバランス感にある。

つまり、設計とは、与えられた制約条件の中で、複数の評価尺度を、なるべく最大化するような設計変数の組を見つける作業である、ととらえることができる。ORの分野の用語でいいかえると、設計とは多目的最適化問題なのである。

そして、複数の評価尺度の間には、しばしば、「あちらを立てればこちらが立たず」というトレードオフの関係が生じる。自動車の例を続けると、走行距離を伸ばすには燃料タンクを大きくすることになる。だが、そうすると車体重量がまして、燃費や加速性が犠牲になる。加速性を上げるためにエンジンの馬力を上げると、今度は燃費が下がる、じゃあ車体を軽量化しようとすると、高速安定性が損なわれるし材料コストが上がる、といった具合だ。

AI(機械学習)の分野には、「ノー・フリー・ランチ定理」と呼ばれる定理がある。すべての最適化問題に対して、最強の性能となるようなアルゴリズムは存在しない、という定理だ。魔法の「銀の弾丸」はない、といってもいい。設計で突き当たるトレードオフの問題は、この定理を思い出させる。どこかを強めると、どこかが弱くなるのだ。

そこで、評価尺度の間にトレードオフが生じるとき、どの項目を優先して、どこは犠牲にすべきかを決める、より高いレベルの指針が必要になる。これを『設計思想』Design phylosophyと呼ぶ。良い設計とは、すなわち設計思想の明確な仕事である。ジョブズの生みだしたiPhoneは、たしかに設計思想の明確な製品だった。逆に設計思想の薄弱な、八方美人的な製品は、個性が薄く人を引きつける力が弱くなる。

もっとも、自動車や携帯電話のような複雑なシステム製品の設計となると、それ自体が設計変数の多い大規模な問題で(部品点数だけでも相当になる)、評価尺度の項目も多く、非常に難しい。これに比べて、前回取り上げた、椅子の設計だったら、形状も構造もずっと単純だ。設計変数も、ずっと少ない。座面の高さや耐荷重量、脚の本数などの主要な設計パラメータは、たぶん所与で決まっているだろう。

そのような場合、主に問題となるのは、形状と材質を与えたとき、所定の力学的強度を満たすかどうか、のチェックであろう。これなら単純なシミュレーション計算(場合によっては手計算)で確認することができる。さらにキャスターなどの制御機構を考え、総重量を求め、部品表とコストを計算し・・という具合に、設計作業は順次、進んでいく。こういう仕事ならば、手順書を作って、スキルの低い設計者や外部に委託することも可能になる。

いや、もっと単純な設計作業だって、無いわけではない。それは、あらかじめ決まっている選択肢の中から、要求仕様に基づいて、条件に合致する物を選ぶような作業である。わたしの職場では、よくこうした仕事を「カタログ・エンジニア」とよんだりする。分厚いカタログの中から、適切な製品や部品を選んで、その特性を仕様書に転記するだけの作業だからだ。

このように考えると、設計という仕事には、カタログから選ぶだけの単純な作業から、複雑なシステム製品の内部構造と制御機構を実現する仕事まで、大きく4つくらいのレベルがあることが分かる。それは、考えるべき設計変数の数と、評価尺度の複雑性に応じて、図のようにマッピングすることができよう。
AIで設計を自動化できるか? (2) 〜「良い設計」の条件を考える_e0058447_08224645.jpg
つまり、設計行為には4つのレベルがあると考えられる

1. 選択的決定:いわゆるカタログ・エンジニア
2. 演繹的決定:設計計算で主要な設計変数を逐次導出する
3. 最適化決定:評価関数を最大化する設計変数の組を探索する
4. システム合成:多軸的な評価関数をバランスよく満たすような構造と制御機構を合成する

当然ながら、この順番で設計は難しくなる。ただ、4の「システム合成」の高度な大仕事も、その中のプロセスを細かく分解してみると、部分的機能モジュールの最適化決定や演繹的決定、あるいは単純な部品の選択的決定、などが含まれているのが分かるだろう。そして設計チームの中で、スキルに応じて、そうした作業が振り分けられていくはずである。

このように考えると、AIで設計を自動化できるか、という問いに、さらに一歩近づいた訳である。その答えについては、次回の記事で考えてみよう。


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(2019-09-22)



by Tomoichi_Sato | 2020-05-15 12:18 | 考えるヒント | Comments(0)

設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?

2月の中旬、まだ大勢の人の集まる会合が可能だった頃(なんだか遠い昔のようだが)、「日本学術振興会 プロセスシステム工学第143委員会」(通称「PSE143委員会」)という場に招かれ、講演をさせていただいた。会合全体のテーマは「新しい設計手法・視点」で、わたしは『システム設計は果たして工学たりうるか?』と題するお話をした。

設計とは何か、という問題について、最近あれこれの角度から考えてみている。わたし自身はエンジニアリング会社でずっと働いており、とくに駆け出しの頃は、設計部門でキャリアを積んだ。今は設計の現場から離れてしまったが、今でも設計の良し悪しこそ、その後の仕事の質や利益を、大きく左右すると信じている。そして、プロジェクト・マネジメントの分野に設計論が欠けていることが問題だ、とは以前も書いたとおりだ。

では、ひるがえって、設計とはどういう行為なのか、設計の質とは何が決めるのか、そして昨今皆が注目しているAI(人工知能)という道具は、設計において役立つのかどうか。こうした議論は、あまり十分されていないように感じる。そこで、上記の講演の内容を一部再録する形で、読者諸賢の検討の俎上に差し出そうという次第である。

ちなみに委員会の名称にある「プロセスシステム工学」とは、簡単に言うと化学プラントの全体設計及び制御に関する工学、というほどの意味である。プラントというのは、外観を見た方はご存知の通り、装置や機器を多数の配管が網の目のように縦横無尽につないだ形をしている。あれ自体が、非常に複雑なハードウェア・システムなのである(もちろん制御ソフトウェアもその上で動く)。だから、わたしの講演タイトルにある『システム設計』は、ITソフトウェアの設計というよりも、もっと広い意味でとらえていただきたい。

さて。そもそも、設計とはどういう行為なのか。設計という仕事を、真っ向から研究対象としてとらえた学問は存在するのか。すなわち、『設計論』の系譜とは、どうなっているのか?

不思議なことに、ここがまず、出発点として曖昧なのである。読者の中には理工学系の教育を受けた方も少なくないと思う。では、一般的に設計とはなにか、どういう原理で考え、どう進めるものなのか、教わった方は多いだろうか? わたし自身の記憶は、あいまいだ。工学部では、それぞれの専門領域の手法論は細かに教わる。だが、分野を横断した、一般的な設計論というのを、あまり聞いた覚えがない。

じつは早くも1960年代に、この点を問題視した人がいた。後に東大総長となる故・向坊隆である。彼は応用化学系の研究者だったが、戦後日本における工学教育の見直しの必要を説き、エンジニアが共通に学ぶべき『基礎工学』の21の科目を提案した。その第10科目が「設計論」で、第21科目は「システム工学」だった。

設計論を担当した渡辺茂は、後に著書「設計論」(岩波書店、1975)をまとめる。彼の「設計の定義」は、こうだ:

「設計とは思いついた“あるもの”に具体的な形を与え、その着想の正しさを確認することであって、次の三つの行動からなりたっている。
1. “あるもの”を作りたいときめる
2. それに形を与え、使用する素材をきめる  
3. その作り方をきめる」
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・・感心しましたか?

率直に言うと、「何それ?」というのが、読んだ時のわたしの感想だ。渡辺茂は機械工学の人だった。だから形と素材に、主要な関心がある。しかし、電子回路の設計や、プラントの制御方式に悩んでいる設計者にとって、<形を与え、素材を決める>と言われて、心に響くとは、とても思えない。ソフトウェア設計者には、いうに及ばずだろう。

もう少し時代が下って、1979年。東大の精密機械工学科の吉川弘之は、設計についての公理的理論として『一般設計学』を提案する。一般設計学では、基本的な概念として「実体」,「実体概念」,「属性概念」が定義され、位相空間論の方法が用いられる。たとえば、「公理1(認識公理):実体は属性(あるいは機能,形態などの抽象概念)によって認識あるいは記述することが可能である」、といった具合だ。

わたしはここで、その内容を詳しく解説するつもりはない。あまりに抽象的で難解だからだ。もしご興味があれば、たとえば、下記の講義録などを参照されたい。

また、後に角田譲は、位相空間論ではなく「チャンネル理論」の数学的枠組みを用いて、「抽象設計論」を提案する(2001年)。その内容については、以下の文献も参考になる。
菊地誠(2003): 一般設計学と抽象設計論に関する考察. 京都大学数理解析研究所講究録 1318, 136-148,

ただ、エンジニアとして正直に言うと、上記のような公理論的な枠組みをいただいても、実際の設計の仕事にどう活かしたらいいか、さっぱり分かりません、との感想になってしまう。

という訳で、いつものことながら、自分で納得できる答えを自分で考えるしかない、という事になった。
設計とは、どういう行為か? わたしの答えは、こうである。

設計とは、『機能を形状・構造に落としこむ』作業である。
設計対象に可動部分があったり、対象が入力を出力に変換する仕組み(システム)である場合は、その構造に、制御機構を与える作業が続く。

これだと分かりにくいだろうから、具体的な例をあげてみよう。たとえば、椅子を設計することを考える。

椅子は、人がその上に一時的に腰掛けるためのものだ。すなわち、一定の高さに座面を提供することが、その機能である。そこで、座面の高さ、かかる体重(外力)などが、主要な設計パラメータになる。設計パラメータというのは、問題固有の特徴的な設計変数のことだ。
設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?_e0058447_19565226.jpg
野良の切り株だって、座る役には立つ。だから、考えている椅子が、もし「切り株」のように、単一の材料からなる場合、形と材質だけを決めれば、事足りる(構造の概念は不要だ)。

だが、もちろん異なる形状と材質からなる、座面と、それを支持する脚部からなる「構造」を考えてもよい。そして普通の椅子は、そうなっている。この場合、座面の広さ・材質、座面を支える脚の形状と本数、地面との接し方、などの設計変数を決める。

その上で、手で持ち上げられる重さにおさめたい、とか、耐荷重は最大100kgとか、回転できるようにしたいとか、背もたれも必要だとか、さまざまな要求仕様や、製造上の制約条件を加味して、考えを進める必要がある。

最終的には、製造する人にとって必要な、製作図面と、部品表(BOM)と、製造仕様書とを設計のアウトプットとして出さなければならない。もし売り物にするならば、さらに「使用説明書」(ユーザマニュアル)もいるだろう。

ところで、椅子の設計において、形状や構造はたしかに分かる。だが、椅子の「制御」とは何だろうか? そんなものは必要なのか? どこかにマイコンをつけて、モータをサーボ制御するのか?

そう思うのは、制御ということを、現代制御理論の枠組みで捉えすぎるからである。制御の原義とは、「設計対象のふるまい方を、ユーザの意思や動きに合致させる仕組み」なのだ。それはユーザとの入出力操作により、性能(有用性)や安定性を変えるメカニズムである。

椅子の場合はどうか? たとえば、キャスターつきの脚部は、ある意味、椅子の位置を「制御」しやすくするための仕組みだ。また、そのキャスターにストッパーがついていたら、それは移動性のみならず、安定度を確保するための制御の仕組みでもある。また、座面の高さや、背もたれの角度の調節メカニズムだって、立派な制御機構である。

ちなみに、上に述べた「機能」と「構造」の概念についても、きちんと記しておいたほうがいいだろう。

機能とは、設計対象のふるまいや、対象がもたらす変化のうち、ユーザの期待に合致して(あるいは他の機能とつながって)有用なところを意味する。すなわち、製品の生み出すアウトプット(物・運動・情報)や、あるいは働きを「機能」と呼ぶのだ。椅子ならば、座面を提供して人の体重を支えることが、主たる機能である。ちなみに、アウトプットや変化を生むだけでなく、自然な変化を防ぐ事も、「働き」の一種である。だから、塗装は鉄のサビを防ぐ「機能」を持っている、という。

構造とは、モノとして存続性(安定性)があり、そのふるまいにおいて機能(有用性)がもたらされるような、要素の形と材質の組合せをいう。なお、これは設計対象が、物理的な実体を持つような場合の話である。ソフトウェアとか、あるいは「企業組織を設計する」際のように、実体がない設計対象の場合は、「構造」とは、要素的な機能のかたまり(モジュール)と、その連携関係のことを示す。

余談だが、宮崎駿の映画「風立ちぬ」で、主人公の堀越二郎が、食堂で出てきた魚の骨をつまみあげて、「なんて見事な形なんだ」と賛嘆するシーンがあった。堀越は航空機工学のエンジニアだから、部品の形状に、非常に興味がある。

機械・土木・建築など、物理的な形状に近い設計の分野では、『形状』は機能と、構造(力学的構造)を橋渡しする、重要な要素である。だから最初の定義に、『機能を形状・構造に落としこむ』と書いたのだ。ちなみに電子回路の設計や、化学プラントのプロセスシステム設計(=プラントの回路設計)では、機能的な要素の結合関係が重要であって、物理的な距離は、まあ副次的な役割にとどまる。そして無体物の設計では、形状は問題にならない。

少し長くなってきたので、これまでのところを簡単にまとめよう。

1.設計とは、『機能を形状・構造に落としこむ』作業である。必要な場合は、さらに制御機構を与える作業が続く。

2.機能とは、設計対象のふるまいや変化のうち、ユーザの期待に合致する(あるいは他の機能とつながる)ところを意味する。つまり「有用性」が評価基準となる(無用なものは設計する価値がない)

3.構造とは、設計対象を構成する要素の形と、つながり・組合せを意味する。機能として期待するふるまいをし、かつモノとしての「存続性」(力学的安定性)が評価基準となる

4.制御とは、設計対象のふるまい方を、ユーザの意思や動きに合致させる仕組みであり、ユーザとの入出力操作により、性能や方向性・安定性を変える。つまり「操作性」が評価基準となる

さて、わたし達が工学部で習うような実験手法とか、あるいは利用可能な計算ソフトなどがやってくれる仕事は、基本的に「形状・構造が与えられたときに、その性能・ふるまいを計測・予測する」道具である。有限要素法による構造力学計算も、空洞実験やCFDの流体力学計算も、電子回路シミュレータも、分子軌道法による計算化学も、そうした手法論である。

だが、設計という仕事において必要とされるのは、ちょうどその逆の動きだ。つまり、
「形状・構造 → 機能・性質」
ではななく、
「機能・性質 → 形状・構造」
を考えなければならない。

形状・構造から出発して、機能や性質を導出するプロセスは、手順は複雑かもしれないが、答えは一意に決まる。しかし機能から、それを実現する構造・形状を求める作業は、一意に決まるとは限らない。おそらく非常に広い可能性の領域から、適切な形状や組み合わせを求める必要がある。

つまり、設計とは典型的な逆問題なのである。『逆問題』とは、アウトプットからインプットを推測する(あるいはインプットの変換プロセスを推定する)タイプの問題だ。そして、逆問題の答は、一意に決まらない場合が多い。でも、設計においては、何か答えを出さなくてはならない。だから、ここに設計者の経験値や「センス」が介在する余地が生まれるのだ。

設計という仕事には、サイエンスだけでなく、アートの部分がある。「良い設計」と「ダメな設計」が分かれるのは、このためだ。答えが一つしかないなら、設計に良し悪しなど生じるはずがない。だが、現実には設計者のスキルが、重要な役割を果たすのだ。

こう考えてくると、「AIで設計を自動化できるか?」という問題も、アプローチの方向が見てくる。長くなってきたので、この続きは項を改めて、また書こう。


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by Tomoichi_Sato | 2020-05-07 20:07 | 考えるヒント | Comments(0)

「不安」の季節を生きのびて

大学の1年生を、じつは2回やった。理由は、成績不良である。理系の学部に入学したが、教養課程の理系の授業で落ちこぼれたのだ。成績表には、「不可」がいくつも並んだ。

前期後期を平均すると、かろうじて進級できない点数ではなかった。だが、わたしの入った大学では入学後も成績競争があって、良い点数を取らないと希望する学科に進学できない。「不可」のついた科目は再履修が可能で、そこで挽回すれば、平均点を上げることができる。

わたしは点数を計算し、1年生を2回やって再履修科目の試験に成功すれば、なんとか第一志望の学科に進めると踏んだ。そして、まだ4月の最初だったと思うが、教務課にいって留年の手続きを出した。自宅生で親のスネカジリで暮らしていたくせに、親に相談もしなかった。今考えると、ずいぶん身勝手な若者である。

18歳で大学に入ったのだが、だから20歳の誕生日を迎えたときも、まだ二度目の大学1年生だったことになる。その晩秋の成人の誕生日を過ぎて、少ししてから、わたしは次第にひどい精神的なスランプ状態に陥ることになった。ときおり、強い不安感情に発作的に襲われるのである。その不安とは、

「自分は精神病になるのではないか」

という恐れの感情だった。

精神の病にはいろいろな種類があるが、たとえば統合失調症(当時は精神分裂病とよばれていた)は、人口の1%近くがかかる、かなり発現率の高い病気である。そして、10代から20代の若い時期に、発病することが多い。論理的・抽象的な思考力のある知的な人も、なりうる。いったん発病すると、治りにくい。

わたしは心理学や精神医学の本をいろいろ読んで、自分はそのリスクが、かなり高いと感じた。今は正常に見えても、いつ発病するか分からない。発病すれば、最後は人格崩壊に至る。それは非常な恐怖だった。

自分はもともと、人から「多少変わっている」と思われてきたらしい。「らしい」と書いたが、まあ、事実そうであることは認めよう。ただ病的なほど変わっているかどうかは、自分ではわからない。そもそも、精神病というのは病識がない(自分が病気であることが自覚できない)点に特徴がある、といわれている。

だったら、医者に行って診察してもらえばいいじゃないか、という意見もあるだろう。だが、それはなかなかできなかった。一つには、断定的な診断が難しい、という問題がある。血液検査か何かで、「あなたは分裂病ですね」と分かるような簡単なテストは存在しない。また、現時点では正常でも、将来は発病しない保証にはならない。

それに、医者に行って白黒はっきりさせる、というのは、それ自体が不安であった。なにせ根が臆病なのである。そもそも、心配性で、怖がりな性格なのだ。もっと豪胆な性質に生まれついていたら良かったのに、と思うことも多々あった。

心理学や精神医学の本を読み漁ることは、かえってその不安をかきたてる事になっていた。だが、不安なので、やめられない。まるきり悪循環である。いったん不安の発作がはじまると、しばらくは何も手がつけられず、じっとうずくまるような状態になる。年が明けて春くらいまでの間、孤独で、非常に不安定だった。留年したのでクラスに友達もほとんどいない。親にも相談できなかった。若いうちは、妙な見栄があるのか、重大なことはかえって親に相談できないのだった。

そうした時期は、自分には、いつ果てるもなく続くと思われた。少なくとも、かれこれ4ヶ月は続いたろうか。ただ、ある時期、わたしは森田療法の本に出会い、それを読んで、少しだけ楽になったような気がした。

森田療法』というのは、慈恵医科大学の森田正馬教授が、いまから100年前の1919年に編み出した方法である。不安神経症のような、不安の強い状態に苦しむ患者たちを助ける手法で、東洋思想的な、日本独自の療法とも言える。古い療法だが、今も用いられている。

森田療法では、不安をとりのぞこうという、「はからい」をやめよ、と説く。そして、不安な気持ちを「あるがまま」として、生きることを目指す。人間の心は、ある事柄に注意を向けようとすると、それを増強する働きがある。だから、不安は不安として「気にしておく」態度をとる。不安があることを前提として、毎日の生活を生きようと言うのである。

また、人間が不安を感じる根底には、その人がより良く生きたいという、「生の欲望」がある、とポジティブに捉える。より良く生きたいと願う限り、人は不安をまったく捨てることはできない。だから、不安を邪魔者として「コントロール」しようとする代わりに、共存し、ただ自分にマイナスの害を及ぼさないようにすべきだ、といった思想がベースになっている。

わたしは専門家ではないので、あるいは正確ではないかもしれないが、森田療法では行動を通じた働きかけを重んじる。本で読んだ例では、あるとき、森田教授のもとに、重症のノイローゼに陥った青年がやってくる。その重い症状の辛さを縷々と語り、勉強も何も手につかないと訴える青年に、森田教授はまず、「来週に予定されている入学試験を受けてこい」と命ずる。青年は、言われてやむなく、試験を受けに行く。すると、なぜか幸運にも合格してしまう。

晴れて大学生になった彼は、あらためて森田博士のもとに来て感謝し、弟子入りして、やがて高弟になっていくのだが、彼の症状の基にあったのは、進学ないし将来への不安だったのだろう。だが森田博士は彼に、じっとしてその不安を直視する代わりに、具体的な行動を命ずる。それが、彼の注意を、自分の感情ではなく、具体的な外部の物事に向けたのだ。

他に、たとえば「自分の部屋を掃除する」といったことも、森田療法ではよく指導するらしい。掃除という具体的な行動と、その結果として生まれる、少し整頓されきれいになった生活環境が、不安の症状を緩和する。不安はなくなりはしない。だが、不安を感じながらも、自分に必要な行動をとることができる。そういう経験を作り出すのだ。

森田療法については、森田博士の著書をはじめ、丁寧な解説書がいくつも出ているので、素人のわたしがここで、これ以上解説することは控えよう。ただ、わたしが自分流に理解したのは、こういうことだ:表面的な不安の背景には、もっと根源的な問題への不安がある。それは生への不安である。その感情ないし心的エネルギーが、はけ口を求めて、わかりやすい対象に固着する。

自分の場合は、それが、「精神病への恐怖」だった。とはいえ、その根底にあったのは、明らかに留年して空回りしている、自分の生き方への焦りだった。学業も、サークルも、すべてがうまくいっていなかった。なのに、意識ではそれを認めようとしなかった。その心的エネルギーが選んだ出口が、病への不安発作だった。そして不安を打ち消そうともがくことで、ますます蟻地獄のような砂の深みにはまり込んだのだ。

別の心理学者は、こんなたとえを出している。新幹線の車両と車両の間には、自動ドアがついていて、ドアの前後のステップに体重を乗せると、開くようになっている。そして通り過ぎると、自動的に閉まる。だが、ときおり、ドアを開けて入ったあと、後ろを向いて、わざわざドアを閉めようと努力する人がいる。でも自分がステップの上に立っているので、自動ドアは決して閉まらない。

後ろを振り向かずに、さっさと行ってしまえば、ドアは自動的にしまる。だが、わざわざ自分で閉めようとすると、閉まらなくなる。感情のメカニズムも、これと同じだというのだ。

感情というものは、一旦生じて高まっても、自然な流れに任せておくと、弧を描くように数分から数十分の間に静まっていく。しかし、それを無理に避けようと注意を向けたり、押さえつけようとすると、かえって強まってしまう。ちょうど、意識して眠ろうとすると、かえって眠れなくなるのと同じだ。

わたし達の不安や悩みの多くは、自分がコントロールできない事を、何とかしようと、必死にもがくために生じる。人間関係とかの悩みは多いが、他人はなかなかコントロールできない。当然だろう。親でさえ、自分の子をコントロールなどできないのだ(自分と親の関係を思い出せばわかる)。まして赤の他人を、自分の望むように動かせるだろうか。

自分の感情もまた、実はうまくコントロールできないものの例だろう。不安感情は、思考によって注意を向けると、かえって思考との間に一種のハウリング現象を起こして、増幅されがちだ。

ふつう、人間は、思考→行動→感情→思考、というサイクルの中にいる。考えた結果が行いになり、行いの結果生じる事態に感情を抱く。そして感情は思考を方向づける。だから何か恐れを抱くような物事があっても、「気にしておく」だけにして、行動を変えることが、遠回りに見えても必要なのだ。
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わたしの場合、最終的に4月になり、2年生の新しい課業のサイクルがはじまって、次第に不安の発作に囚われることが少なくなった。サークルにも後輩たちが入ってくるようになった。そうなると忙しくなる。次第に自分の中で空回りしている暇がなくなった。

ちょうどその時期だったと思うが、年に数回通う、かかりつけの内科(内分泌科)の医師のところに、受診に行った。診察の後、思い切って、自分はこれこれの不安にとらわれて、数ヶ月間つらい思いをしてきた、と相談してみた。すると、その医師(日比先生という方だった)は、わたしの目をじっと見てから、優しくこうおっしゃった。

「佐藤さん。本当に精神病の患者の人は、もっと迫力が違いますよ。」

こう言われたことが自分にどれほど救いだったか、多分、はたの人には分からないだろう。別に、何かを保証してくれたわけではない。それでも、専門家の言葉や見立てには、裏付けのある重みが感じられるのだ。かくしてわたしは、実験に忙しい理系の学生の日常に戻っていった。


さて、わたしのささやかな(しかも、いささか恥ずかしい)体験をふりかえり、何か教訓をまとめてみよう。漠然とした不安を感じたり、特定の事態(病など)を恐れたりして、それで自分の平常な生活がおびやかされる時は、三つのことを守る方がいいように思う。

1.不安にかられて情報を集めすぎない

自分が集めて入手する情報は、実は自分の好みや感情のバイアスがすでにかかっている。おまけに世の中には、不安感情をあおって他人を動かそうと、たくらむ人たちが一定数いる。広告宣伝なども、一部にはそういう傾向がある。だから、情報を集めても、安心を得ることはなかなかできず、かえって飢餓感のような焦燥が増すばかりになりがちだ。

それでも、もし何かを調べたいならば、情報ではなくデータを集めるほうが、まだ良い。ナラティブ(文章的)な、定性的な意味を伝える「情報」ではなくて、具体的な数字をベースにした「データ」を集めるべきだ。その方がバイアスがかかりにくくニュートラルだし、データの読みと解釈には理性が必要なので、感情にリソースをさける余地が少なくなる。(まあ、データを読み解くには、それなりのリテラシーがいるので、誰にもおすすめできることではないが)

2.少しずつでも、具体的で現実的な行動をとる

部屋の掃除から着手するのでも構わない。とにかく何か、具体的な結果を得られるような行動を取る。あるいは、日常のルーチン的な行動のリズムを守る。じっと動かずに、自分の内面を見つめるのは、あまりおすすめできない。逆に、あまり極端でとっぴな行動も、果実を得にくいので、やめたほうがいい。

なぜなら、ネガティブな感情や悩みの根底には、自分の生き方それ自体への不安が横たわっているからだ(わたしの留年のように)。その生き方の問題自体は、急には解決できないが、何か行動を取れば、わずかなりとも状況が改善する可能性がある。少しでも成果が出れば(たとえそれが部屋の片付けでも)、自分のポジティブな感情につながっていく。

その行動を取る際に、森田療法が説くように、不安は「気にしておく」態度をとる。不安感情は、すぐには無くならない。だが、それに邪魔されつつも、自分のペースを守って行動できるようになることを目指すのがいい。

3.専門家(あるいは安定した根を持つ人)の意見を聞く

専門家というのは、やはりプロである。豊富な経験から、ノーマルと異常の範囲を、直感的に見分けるし、対処方法もよく知っている。もちろん、専門家であればあるほど、ある意味、慎重でもある。ただ、それは最初の直感を、事実とデータで裏付けるまでに時間をかける、ということでもある。

わたし達の社会では、なぜか専門家という存在をリスペクトしないで、素人が自分でいろいろ手を出したがるきらいがある。だが素人が生半可な判断をどれだけ重ねても、専門家には遠く及ばない事を知っておくべきだ。

もし、適切な専門家が近くにいないとしたら、そのかわりに、安定した根を持つ人の、側に行くのがいい。「安定した根」とは分かりにくい表現だろうが、その人の中にしっかりとしたアイデンティティを持っていて、近くにいると、なんとなく安心できる人である。こういう人は、相談しにいったはずなのに、何も大したことはしゃべらないまま、ほっとして帰ってきたりする。別にそれでいいのだ。あるいは、その人の書いたものを読む。そうして、その人の像を、自分の心の中にも育てていくのである。

それでも、そういう人さえ見つからないなら、(これはある精神科医が勧めていた方法だが)どこか公園に行き、大樹に抱きついて、もたれかかるのでもいい。とにかく、自分の外に、揺るぎのない存在があって、そこだけは健康と正気を保っている、という事を実感するべきだ。


春は希望の季節である、と以前も書いた。だが、春は不安の季節でもある。誰もが、ゆらぎある心を抱えて生きている時期だ。だから「木の芽時」などという言葉もある。不安を抱いたり、悩んだりするのは、ある意味、成長しようとしている証とも言える。ただ、自分がよくコントロール出来ないことを、あるいは不安であることを、さらに悩むのは、余計なのだ。

・・それにしても、わたしが留年した元々のねらいは、つまり点数を上げて志望の学科に進むという目的は、どうなったのか? 2年生の秋、成績の集計が終わり、キャンパスに貼り出された進学先のリストを見て、わたしは呆然となった。たしかに点数は計算通り、目標値まで上がった。だが、いかなる運命の偶然か、わたしは100点満点で、0.2点ほど、志望ラインに足りなかったのだ。進学先として「カコウ」(化工)と印字されていた、ラインプリンターの用紙を、今でも忘れない。

それでも、人生というのはまことに不思議なものだ。わたしが不承不承、選ぶことになった「化学工学=Chemical Engineering」という科目は、なぜかわたしによく合っていた。わたしはそのまま大学院まで進んで、そして、その専門職となる道を選んで就職した。ずっと後には、同じ出身学科から博士号まで取得した。今はもう化工設計の現場から遠く離れてしまったが、それでも「あなたの専門は?」と聞かれたら、ためらわず誇りをもって「化工屋です」と答えるだろう。

では、あの回り道だった2回目の1年間は、まるきり無駄だったのか? わたしはそうは思っていない。自分には辛い体験だったが、学ぶこともあった。回り道のおかげで、新しい後輩・友人たちとも巡り会う機会を得た。何よりもわたしは、身をもって知ったのだ。自分が一人だけで空回りしていのは、良くない。人間が一人でできることには限りがある。自分の根本問題は、一緒に何かを目指す仲間を得ることが最終的な解決になるのだ、と。

だからわたしは、プロジェクトという道を選ぶことになったのである。


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 →(2011-03-05)


by Tomoichi_Sato | 2020-03-03 23:56 | 考えるヒント | Comments(1)

クリスマス・メッセージ:名前を持つ存在として

Merry Christmas!

少し前のことだが、ある打合せで、システム利用者のマスタをどう設計するか、の議論になった。個人を特定するために、まず各人にユニークなキーとなるIDを振る。それから主要な属性を定義していく訳だ。当然最初に来るのは、『氏名』だろう。

ところで、氏名という属性を格納するために、最初出てきた案は、たしか「名字」と「名前」の2つのフィールドを用意し、それぞれに読み仮名のフィールドを付け加える、というものだった。まあ、普通の日本人が考えると、こうなるだろう。

しかし、ユーザの中には結構な数の外国人もいた。そこで、「ミドルネーム」のフィールドもいるんじゃないか、というコメントが出た。加えて、結婚したけれど旧姓表記のまま仕事を続けている女性もいるから、そうした人はミドルネームに旧姓を入れれば便利だろう。そうなると、ミドルネームにも、読み仮名のフィールドが別に必要かもしれない・・

議論がそういう流れになっていったので、わたしは反対した。

「ミドルネームのフィールドなんか、いらない。姓と名を分けるのもやめて、『個人名』だけでたった一つのフィールドにすべきだ。その中に、その人の好きな表記を書いてもらう方が良い。」

妙なことを言うやつだ、という顔をしたメンバーがいたので、わたしは説明した。

「外国人の中には、苗字と名前というセットではなくて、名前しか持っていない人たちが、それなりにいるはずだ。また、自分の氏名のどこまでが名字で、どこからが名前なのか、分からない人だっている。人の名前ってのは、世界では案外多様なので、海外までユーザの枠を広げる前提で考えるなら、日本的な苗字+名前の枠組みにこだわらないほうが、最終的には安くつく。」

知っての通り、日本人が全員、苗字を持つようになったのは、明治維新後だ。それまでは、士農工商の中で苗字を持てたのは、原則として支配階級である武士だけだった。人口の9割を占める農民町民のたぐいは、皆、「権兵衛」「お富」といった名前しか持っていなかった。

わたしの父は、生前、「佐藤家なんて、3代さかのぼれば新潟の水呑み百姓さ」といっていた。新潟は糸魚川のあたりにいたわたし達の先祖が、「佐藤」という姓を、どこから拾ってきた、いや失礼、貰い受けてきたかは不明だが、ともかく維新後に「佐藤さん」になったのは、ほぼ確実である。

自分の姓を持てることになって、皆が嬉しかったかどうか、そこはよく分からない。ともあれ以来、日本人は誰もが姓と名を持つ、という常識がしっかりと根を下ろした。

ところが、海外に目を向けてみると、実はまだ「名前だけ」という国々が、案外広く残っている。アジアでは例えば、モンゴルがそうだ。またインドネシアもそうだ。独立後の初代大統領スカルノは、「スカルノ」がフルネームである。

それと、ミャンマーもそうだ。アジア人で発の国連事務総長になった「ウ・タント」という人がいたが、「ウ」というのは男性につける尊称(「ミスター」みたいなもの)で、また最後の「t」は発音しないため、「タン」さんが正式名である。また「アウン・サン・スー・チー」という女性政治家もいるが、ほんとは分かち書きをするわけではなく、「アウンサンスーチー」が名前だ。彼女は、ビルマ建国の父・アウンサン将軍の娘だが、別にアウンサンという名字がある訳ではない。

もう少し西に、目を転じようか。アラブ世界にも基本的に、名字に当たるものがない。預言者の名前を戴いたムハンマドさんは、ポピュラーな名前なので、どこにも大勢いる。そこで、区別したいときには、後ろに父親の名前をつけて、ムハンマド・アリーといった風に呼ぶ。それでも区別がつきにくいときは、さらにその後ろに祖父の名前をつける。おかげで電話帳には、「ムハンマド・ムハンマド・ムハンマド」氏が何人も並ぶという(「やわらかなアラブ学」田中四郎・著、P.186)

そんなバカな、こないだ会ったアラブ人はちゃんと姓名があったぞ、とお思いの方もおられるかもしれない。たしかにビジネス上で名刺をやり取りするような階層の人は、そういう氏名表記をしている。でも、それは彼らが西洋流儀に合わせているらしいのだ。たとえば、苗字と名前の間にビンbinがはさまる時があるが、これは父親ないし一族の名前を示している。後ろに出身地を持ってくる場合もあるらしい。

ちなみに、かつてのイラクの独裁者は、「サダム・フセイン」といい、日本の新聞は彼を「フセイン大統領」と呼んだ。しかし彼の本当の名前は「サダム」一語であり、「フセイン」は区別のためにつけた父親の名前であった。だから本来ならば「サダム大統領」というべきだったのだ。実際、湾岸戦争の時、ブッシュ大統領(父)は演説で彼を、「サダーム」と名指しで繰り返し呼んだが、それは正しかったのだ(ブッシュ家は石油業界と深いつながりがあり、アラブ圏ともかなり交流があった)。

トルコも昔は名字がなくて、建国の父ムスタファ・ケマル・アタチュルクも、本来はただのムスタファさんだった。ケマルは士官学校時代につき、アタチュルク(=「トルコの父」)は後に議会から贈られた称号である・・

いや、もういいだろう。とにかく、わたし達が単純に、「人の氏名=名字+名前」だと思っている方程式は、海をひとまたぎ超えると、もう通用しにくくなるのである。

そんな苗字のない状態で、どうやって一族の結束を保てるのか? そう思う人もいるかもしれない。だが、それはまさに、わたし達の3〜4代前の父祖にたずねてみるべきだろう。その時代の人達よりも、今のほうが、祖先を大切にしていると言い切る自信は、わたしにはない。

ついでにいうと、中村日吉丸から木下藤吉郎を経て、豊臣秀吉になった人の例を見れば分かる通り、昔の日本人は生涯に何度も姓名を変える例が、少なくなかった。それでも、この小柄な武将は、自分のアイデンティティを失うことはなかったはずだ。

自分の名前は確かに自分の大事な一部だが、すべてではない。愛着のある人も多いだろうから、他人が変えることを強制するのはどうかと思う。だが、出世魚のように社会的な場面を切り開くごとに、自分でつけ直せたら面白いんじゃないかと感じることもある。実際、SNSなどの匿名コミュニティごとに、違ったIDを使い、違った自分を演出する人だって多いではないか。そこまでいかずとも、筆名・雅号などは昔からあったことだ。

わたし自身は、匿名のネット・コミュニティというのはあまり好きではない。だから、会社員であるにもかかわらず、本サイトは自分の実名で運営しているし、コメント欄にも、原則として実名かそれに準ずる名前で書き込んだ人にしか、答えないことにしている。何か議論する場合は、本当はフェース・ツー・フェースで話し合うべきであり、せめて文字だけでやり合う場合も、自分の社会的アイデンティティを表に出して、自分の発言の結果を引き受けるのが礼儀ではないかと思うからだ。

名前とは、社会的なアイデンティティに対するトレーサビリティの標識のようなものである。「イチロー」のようにたった一語でもいいし、「柳生但馬守宗矩」のように職名(=変数名)がはさまってもいいが、その人の具体的な身体や所属や係累、来歴が立体的にとらえられることが、人と人がつながるためには大事なのだ。匿名コミュニティが好きになれないのは、そうした「つながり」の価値を軽視しているように感じるからだ。スパイ組織ではあるまいし、コードネームだけでどうやって、相手を信頼できるというのか。

そういえば、「イエス・キリスト」も、イエスが名前でキリストが苗字だ、と思っている人をたまに見かける。言うまでもなく、『キリスト』は救世主という意味のギリシャ語であって、要するに「救世主イエス」という称号である。もちろん、本人がそう名乗っていた訳でもない。あとからついた呼称である。

今から2千年ほど前に生まれたこの人は、イェシューという名前を持っているだけだった(イェシューは「ヨシュア」という名前のガリラヤ地方風の発音)。他の人と区別するために、出身地をつけて「ナザレのイェシュー」とも呼ばれた。ちなみにナザレの地元の村では、「マリアの息子のイェシュー」と呼ばれていたようだが、普通は父親の名前をつけて呼ぶべきところだから、もしかすると父親のヨゼフ氏は、彼が社会的に活躍するずっと前に亡くなっていたのかもしれない。

彼が生まれた当時、ユダヤは全体としてローマ帝国の辺境に位置する属国であり、間接的な植民地支配下に置かれていた。一応、王もおり、大祭司もいて、民族宗教の最高の象徴であるエルサレム神殿もある。だが、ほんとうの意味の主権はユダヤ人にはなかった。軍事も司法も納税も、ローマ帝国におさえられていたのだ。そうした時代が長く続き、抑圧された民衆は次第に、救世主の到来を強く待ち望むようになる。

ただしこの人は平民の出身だった。当時の観念では、高貴な血筋の出身や大金持ちなど恵まれた境遇の人ほど、神に近いはずだった。それなのに、「貧しい人々は幸いだ、神の国は彼らのものだ」などと物騒なことを説教して回る。「仲間の中で最も小さい者に対して、あなたがすることは、このわたしに対してするのと同じことだ」ともいった。

この人の中心的なメッセージの一つは、「人とのつながりを大切にすること」、すなわち、通常は『隣人愛』などと訳されている行いである。それは、抽象概念としては美しいが、実際に実行するのはとても大変な業である。だって知っての通り、わたし達はみな、凸凹のある、長所もあるが欠点も多い存在だからだ。

それでも、人と人とが対等につながることを、そして支え合うことを、とても大事だと教えた。些末な律法を全部暗記して、従うよりもずっと重要だ、とも(こういうことを主張するので、結局この人は地上の権力からも宗教界からも迫害されることになる)。

つながりというのは、信頼がなくては保てない。信頼というのはつまり、お互いを裏切らないこと、不確かな未来への期待に応えられること、を意味する。それは対等な間柄で、自由意志によって結ぶものであろう。

もちろん、家族や、仕事上の職位の序列だって、人のつながりの一種ではある。ただ、それは短期的に、自分の意志で選んだり変えたりすることはできないものだ。そしてしばしば上下関係を伴う。植民地支配下に置かれ、支配者と貧しい民衆に二極化した当時のユダヤ社会では、そうした息苦しい関係性の網目がくまなく覆っていたに違いない。

そんな社会を蘇生させ、より良い希望の便りをもたらすのは、人と人との間の自由で対等なつながりである、という意味のことを彼は説いた。少なくとも、彼はそれを短い生涯の中で実践してみせた。

クリスマスChristmasという言葉は、キリストのミサ(Christ + Mass)から来ている。今はキリスト教徒でなくても、キリスト教国でなくても、日本をはじめ多くの国で、人々はクリスマスを祝っている。もちろん商業主義の後押しもあるだろうが、それでも冬至の、陽の光が一番短い時期に、なにか新しい誕生が予感できるのは喜ばしいからだろう。その誕生劇は、厩の中で、いちばん貧しい階層から生まれるのだ。

そして何より、そのお祝いは、名前も顔も持つリアルな人と人の間で共有される。祝祭は何より身体的で、感情的なものだからだ。わたし達が、社会の中の単なる記号やIDから、アイデンティティを持つ生身の人間に戻る時、そこにようやく祝典のつながりが生まれるのだ。


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by Tomoichi_Sato | 2019-12-22 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

エンジニアにとって全体最適とは何か?

中学校の修学旅行は、京都・奈良だった。清水寺では、その舞台の高さに驚き、「清水の舞台から飛び降りる」の意味を改めて知った。ところで清水寺の参道には、旅人が喉をうるおす3つの湧水の滝口があった。引率のガイドさんによると、3種類の水はそれぞれ、飲むと「恋愛」「長寿」「賢さ」の願いを成就できるのだと言う。わたし達は喜んで、3つの口からそれぞれ水を飲んで、参道を登った。

ところが帰り道、ガイドさんが思いもかけぬことを言い始めた。「あら私、大切なこと言い忘れたかしら。お水を飲むなら2種類までなの。欲張って3種類を全部飲むと、効き目がなくなっちゃうのよ。」 これを聞いた私たちは、そんな大切なことなら、なぜはじめに言ってくれなかったんだ、と、いたく憤慨した。

もっともそれを聞いて、中学生のわたしは思った。恋愛と長寿と賢さと、どれが2つを選ぶとしたら、どれになるだろうか? 難しい問いだ。それはある意味で、どれか一つを犠牲にしなくてはならないことを、意味している。頭が良くて女の子にモテても、短命ではなんにもならない。かといって健康でハンサムでも、頭が悪くては人生台無しだ。じゃぁ頭が良くて健康でも、異性が誰も寄り付かない人生に、どんな意味があるだろう?

このエピソードを久しぶりに思い出したのは、最近ある方から、アメリカにおけるオペレーションズ・マネジメント(OM)や生産管理の教育の充実ぶりについて、聞いたときだった。日本では、生産管理を専門的に勉強する大学院レベルのコースはほとんどないし、実務家のための勉強の機会も限られている。しかし米国では、ジョージア工科大学を始め、この種の研究と教育のメッカと言うべき大学が複数存在するし、米国生産在庫管理協会(APICS)という、実務家のための大きな組織もある。アメリカの製造業はもう廃れた、と思い込んでいる人が多いが、こうした科目を学ぶならば、日本よりもアメリカの方がずっと進んでいるのだ。

その人は、アメリカでの生産管理教育のメッセージをわかりやすく伝える、1枚のチラシを見たと言う。それは宅配ピザのチラシを、模している。

「あなたのお好みのピザを届けます。
 ただし、以下の3つのオプションから、2つまでを選びください」
 そしてチェックボックス付きで、Q:品質、C:コスト、D:納期、の3つのオプションが並んでいる。

安いピザを早く持ってきてもらいたかったら、品質(おいしさ)は多少犠牲になる。おいしいピザを早く持ってきてもらいたかったら、それなりの値段を払わなければならない。そして、おいしいピザを安く届けてもらいたかったら、(そのためには同じ種類のピザをある程度のロット数量まとめて焼く必要があるのだから)納期が遅くなるのは、覚悟しなければならない。

製造業においては、顧客好みにカスタマイズされた商品を、QCD全て満たした形で生産するのは、ほぼ不可能である。なぜならばこの3つの尺度の間には、あちらを立てればこちらが立たず、1つを完璧にしようとすると、他の2つのいずれかが犠牲になる、『トレードオフ』の関係が成り立つからだ。それは、生産システムというものが持つ、基本的な性質である。このチラシは、それをごくわかりやすい簡潔な形で、教えている。

いったい全体最適とは、何だろうか? 品質・コスト・納期の、3つの尺度を全て最大化することだとしたら、それは本当に可能なのだろうか? 全体最適と言う言葉は、しばしば縦割り組織で、いろいろな行動がサイロ化されているとき、「それは局所最適だ」という批判とともに、用いられる。つまり局所最適の反対概念として、『全体最適』と言う言葉が使われる。

しかし、少しでも最適化理論やオペレーションズ・リサーチ(OR)をかじったことがある人は、最適と言う言葉を、もう少し正確に、ないし慎重に使う。それは何らかの評価関数(尺度)を、最大化することを意味する。では製造業における評価関数とは、何なのだろうか。評価尺度が複数あるときは、どうしたら「全体最適」が達成できるのだろうか?

別の言い方をしてみよう。今、工場で生産に問題が生じているとする。そこで工場長は、品質の徹底的に向上するため品質管理マネージャーを任命し、コスト削減のためにコスト管理マネージャーを任命。さらに納期短縮のために、スケジュール管理マネージャーを置いた。この3人が、それぞれ自分の持ち場で最大限努力すれば、QCDの全てが最大化されるだろうか? この3人はそれぞれ、他の2人と相談せずに、独立に活躍できるのだろうか。

これは制度設計の問いである。つまり一種のデザイン問題なのだ。そこでエンジニアにわかりやすいように、製品設計の例に置き換えて考えてみよう。

あなたの会社は今、これから新しい電気自動車を開発しようとしている。あなたはそのプロジェクトの、主任技師に選ばれた。あなたに与えられたミッションは、「世界最高の電気自動車を設計すること」である。

世界最高の電気自動車とは、どういう意味か。それは、どんな尺度を持ってきても、他のライバルに勝っていると言うことである。では、電気自動車を評価する性能尺度には、一体どのようなものがあるか。

自動車はまず第一に、移動手段だ。A地点からB地点に、乗っている人が移動することができる。これが一番主要な機能である。見るからに精悍でかっこいいが、1kmも走れない電気自動車に、金を出す人はいるまい。である以上、最大航続距離が、第一の性能尺度になりそうだ。

それと並んで、最高速度も大事な性能だ。最高時速20キロで、高速道路にも乗れないような自動車では、役に立つまい。

加速性能は? それも大事な尺度だ。では、回転性能についてはどうか。思う方向に向かってキビキビと進路を変えられることも、車にとって大事な性能だ。加速と逆に、減速も重要である。回生制動であれメカニカル・ブレーキであれ、必要な時にきちんと止まれることも、とても大切だ。そして移動手段である以上、かりにセダンのタイプとしても、可載重量も使い手は気になるだろう。

それだけで良いだろうか? いや、車の走行には、安定性や安全性も求められる。例えば高速走行時の安定性。路面のゴツゴツした凹凸に、いちいち進路がぶれるのではたまったものではない。そして衝突時の安全性。これも非常に大切だ。そして、製品の寿命が長く、壊れにくいことも、ユーザの視点からは、大きなポイントになる。それに隣接して、自動車の場合、スペース的な余裕、つまり居住性も考慮がいる。

こうしてみると、移動という基本的な機能の性能のほかに、まだ様々な評価尺度があることがわかる。ITエンジニアだったら、航続距離や最高速度を「機能要求」と呼び、回転性能や高速安定性や衝突安全性等は、「非機能要求」と呼びたくなるかもしれない。

それで、これだけで十分だろうか? いや、まだ大切なことを忘れていた。それは効率性である。「コスト・パフォーマンス」と言い換えてもいいかもしれない。例えば、移動性能に対しては、どれだけ燃費がかかるかが、効率性の尺度になる。これも自動車を選ぶ際には、とても重要な物差しであろう。

また製品の寿命に対しては、保守維持費の安さも大事だ。そして何よりも、製造コスト。販売価格は、製造コストに依存する。自動車全体のコスト・パフォーマンスとは、何よりその販売価格で測られるものだ。
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さて、あなたの手元には、すでに1ダースもの評価尺度が集まった。図を見てほしい。ここでは、12個の評価尺度を、あえて抽象化した表現で表してある。これらすべてを、どんなライバルも追いつけないほど、最大化(ものによっては最小化)することが、主任技術者たるあなたに与えられた使命=ミッションである。

このミッションは、本当に実現可能なのだろうか。CAD画面に向かって設計図を描き始める前に、あなたは落ち着いて考えてみるべきだろう。

さて、先ほどの図をじっくり眺めていくうちに、あなたは、これらの尺度が大きく、4つに分類できるのではないかと気がついた。

まず、図の上辺にある、主性能Effectiveness (最高速度)と、使用価値Usefulness(航続距離)。これらはシステムとしての電気自動車の有用性に関わっている。つまり、ユーザの主たる期待への合致である。

円の左側に位置する、俊敏性Agility(加速性能)、柔軟性Flexibility(回転半径)、許容性Capacity(可載重量)などは、広い意味での御しやすさ=制御性 Controlabilityに属している。逆に右側にある、安定性Stability(高速安定)、頑健性Robustness(衝突剛性)、居住性Comfortability(スペース余裕)、耐久性Durability(機械寿命)などは、広い意味での持続性 Sustainabilityの範疇と考えられる。

最後に、円の下部に位置する、製造コストInitial cost、保守コストMaintenance costは燃費と共に、コスト・パフォーマンスの分母側=負荷尺度に相当する。分子に相当するのが他の3カテゴリー、つまり有用性・制御性・持続性である。だから分母を小さく、3つの分子を大きくしていけば良い。

だが、個別に考え始めてみると、あなたは次第に思考のループにとらわれているような気がしてきた。例えば頑健性を高めるために、剛性の高い車体を使うとする。すると車の重量が重くなって、俊敏性や最高速度が損なわれる。重くしないためには、軽くて強い特殊素材が必要だ。そうすると製造コストが高くなってしまう。

回転性能を高めることと、高速安定性を両立させることも、決して容易ではない。安定性を素材の重量や形状など、メカニカルな方法で確保しにくい場合、何らかの制御システムで担保するしかない。かつ、安全性を考えると、制御システムは冗長化・多重化が必要だ。そうなると仕組みが複雑になって、保守コストが上がるだろう。

こうして、あちらを立てるとこちらが立たず、トレードオフの網の目にトラップされたような気になってくる。

それも当然なのだ。よく考えてみて欲しい。制御しやすさ=「制御性」とは、一体何か。それは、使い手の意図した変化への追随性である。他方、持続性とは何か。それは使い手の意図せざる変化への耐性である。片方は変化に追随し、片方は変化にあらがう。その境目は、ユーザの意図にある。だが、電気自動車と言う機械システムの側から見て、どれがユーザの意図で、どれが意図せざるものなのか、判別できるだろうか?
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ハンドルやアクセルやブレーキ、フロントパネルなど、ユーザインターフェースからの入力が、意図した変化であって、それ以外の外界からの入力が、意図せざる入力である。そう考える方法もあるかもしれない。

だがユーザは人間なのだ。そして人間だから、思わぬ行動をとることがあり、間違えることさえある。くしゃみをして握ったハンドルがブレたら、それは意図した入力なのだろうか。車庫入れでブレーキを踏むべき時にアクセルを踏んだら、それは意図した行動なのか。

電気自動車は、機械・電気・制御が統合されたメカニカルなシステムである。だが、それを設計するときには、電気自動車+ユーザ(人間)という、複雑な系を対象として考えなければいけない。

法政大学の西岡教授は以前、機械学会の報告の中で、「自動車や携帯電話など、人がその外側にいるシステムを第一種のシステムと呼び、人がシステムの内部にいて、その構成要素となっているものを第二種のシステムと呼ぶことにしましょう。」と提案された。これはとても良い分類だと思う。

しかし、わたし達が何らかの道具を設計する場合、必ず、その道具と、使う人間との組み合わせを考慮する必要がある。つまり設計においては、常に第二種のシステムが相手となるのだ。

そして第二種のシステムでは、意図した変化への追随性と、意図せざる変化への耐性は、常にトレードオフの関係になる。言い換えるならば、すべての評価尺度を同時に最適化することができないのである。

もちろん実際には、相反する2つを両立する工夫も、しばしば可能である。例えば車のハンドルのブレを例にとると、周知の通り、ハンドルにはわずかな遊びがある。これによって、手元が多少増えても、車の方向が急に大きく変化したりしないようにできている。

しかしこれは部分的な問題解決であって、第二種のシステムに内在する本質的なトレードオフが全部解消できるわけではない。

では、どうしたら良いのか。答えははっきりしている。清水寺の前に立った中学生のように、重要な尺度と、そうでない尺度を選り分けるのだ。どういうときには、誰とどの尺度が重要になるのか。その際、どれを犠牲にせざるをえないのか。上に述べたのは電気自動車の例だが、これが自社工場という生産システムだったら、どういう評価尺度群になるか、一度考えて見てほしい。

このような判断基準の体系を、「設計思想」と呼ぶ。何かをデザインする際には、それが電気自動車であれ生産システムであれ、必ず設計思想が必要である。できればそれは、明文化されていることが望ましい。

設計思想のはっきりした製品には、たいてい明確な個性がある。それはいわば、作り手の価値観の表明だからである。

もちろん価値観は多様だから、どうしても製品への好き嫌いが生じるだろう。嫌われるのがいやなら、あらゆる物差しをまんべんなく適度に満たした、八方美人的な製品を作ることになる。私たちはそうした、無個性な工業製品に囲まれて暮らしている。無思想な設計に囲まれて、と言い直しても良い。

それもこれもわたし達が、システムに内在するトレードオフを理解せずに生きているからなのだ。そしてあらゆる尺度を満たす、全体最適を無自覚に求めすぎる。恋愛と長寿と賢さを同時に求めた中学生たちのように。それは人間の欲深い業であると、お寺の僧侶たちなら言うかもしれない。

だが、わたしなら別の言い方をする。それはシステムというものへの、基本的な無自覚から来るのである。


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by Tomoichi_Sato | 2019-09-22 17:12 | 考えるヒント | Comments(0)

センスのある人と、「カッコいい」で動く人

  • 美意識ということ

このとろこしばらく、ガラにもなく「美意識」ということについて考えていた。

きっかけは、システム・モデリングである。モデリングという仕事には、サイエンスの部分とアートの部分がある。対象を分析し、その性質や挙動を定量的に推測する部分には、明らかにサイエンスが必要だ。と同時に、良いモデリングの仕事では、モデルのできばえ=「美しさ」が大切になる。

美しいモデルを発想する部分は、一種のアートである。ちなみに、英語の”Art"は、日本語のアートよりも広い意味を持つ。Artとは、熟練した感覚を要する「技芸」「方法」といった語感である。だから、芸術を意味するときは、あえて"Fine art"という風に限定する。

ともあれ、アートの基本には美意識があるのは間違いない。発達した美意識は大切だ。だが、発達していない美意識というものもあって、それは危険だ——今回は、そんな話になる予定である。

  • 真善美と価値基準

真・善・美」は、人間にとっての最大の価値だ、というギリシャ的観念が、西洋には伝統的にある。あえてこの三つを同格に並べる、というところが、とてもギリシャ的だ。少なくともインドや中東など、他の古典文明では見られないのではないか。

西洋の学問の基礎は、この三つに対応して、
 真理を探究する方法: 哲学
 善を実践する方法: 倫理学
 美を追究する方法: 美学
という風になっていると考えられる。この三つの学問はは、知性・実践・感性という、人間の精神が持つ三つの側面に対応する、ということになっている。
(注: ただし上記の枠組みが確立したのは、近世以降のドイツ観念哲学から、という説明もある)

もちろん真・善・美の三つが、いつでも重なるとは限らない。というか、しばしば重ならないのだ。たとえば、「真実」はつねに美しいとは限らない。また、真実がつねに善であるとも限らない。人はむしろ、真・善・美のうち、どれを取るか、というジレンマに直面しがちだ。

では、人間の決断や行動を決める価値基準は、上記三つが主なものだろうか?

そんなことはない。まず、「損・得」がある。また、「勝ち・負け」もある。この二つも、しばしば両立しがたい。だから、勝ちを譲ってでも、得を取る人がいる。逆に、損をしてでも、勝ちたい人もいる。つまり、この二つの価値軸は独立である(数学的にいえば軸が直交している)。

そしてもちろん、「好き・嫌い」もある。愛憎は紙一重だ(損得や勝敗だって紙一重ではあるが)。好きな相手なら、負けてやってもいい、あるいは損をしてもいい、という判断は、大いにあり得る。こういう人達は、損得より勝ち負けより、『好き』が大事なのだろう。だから、この価値軸も独立している訳だ。

  • ビジネスにおける価値基準の優先順位

では、上にあげた6種類の価値軸の中で、どれが一番強いのか? 一番上位に来る価値基準はどれか? もちろん、一貫性などなく、そのときどきなのかもしれない。だが、ある種の傾向を人は持っているものだ。

そりゃあ一番は損得だ、という人も多いだろう。ビジネス界では、それがトップに来るに違いない。何といっても、利益追求が企業のビジネスの最大の目的だ。

ついで、勝ち負けだろう。勝たなければ、利益は得られない。そういう信念を、皆が持っている。Win-winなどという、美しい言葉もあるが、たいていはゼロサムゲームである、と。

そして、経済合理性を追究するのがビジネスである以上、次は知的であること。つまり知性(=真)が重要である。頭が良いことは、素晴らしいことだ、と。まあ一応、最近はコンプライアンス(=善)とか環境SDGsとかあるし、実際にはこんな風になっているかも知れない。

 得>勝>真>・・・善>・・美その他

だが、わたしはこうした通念に、最近疑問を持つようになった。じつは、多くの人は、美意識を第一にして動いているのではないか? 美意識に従う人の特徴を考えると、そう思えてきたのである。

  • 美とセンスと『カッコ良さ」

美を体験すると、人は視覚・聴覚など五感による感覚への集中が起きる。脳のリソースは、感覚と思考の両方に同時には向けられない。だから、美は一時的な思考停止を導く。美意識を価値観の中心に置く人は、あまり深く考えなくなる。直感で、ぱっと決める。「迷わない」ことは、カッコよさの一つの条件でもある。

では、スティーブ・ジョブズは「考えない人」だったのか?

そうではあるまい。彼は確かに、製品の「美」にこだわる人だった。直感的に行動した人のようにも思える。だが、彼には少なくとも明確な「センスの良さ」があった。

「センス」とは持って生まれるしかないものなのか。いや、センスは磨くこともできるものである。そのために、アーティストは修業時代を過ごすのだ。

クリエーティブな仕事をする人は、磨き抜かれたセンスと、深く考え続ける能力の両方を持っている。ジョブズ自身はデザイナーでもエンジニアでもなかったが、製品のプロデューサーとしてすぐれて創造的だった。

美のクリエーター達が、美意識を行動基準の中心においているのは間違いない。ところで、クリエーションはしないけれど、美を重視するタイプの人もいる。生産者ではなく、いわば消費者として、美を求める人達だ。この人達が大事にする言葉、たよりにする美の形式=それが「カッコいい」だ。

カッコ良さは、真でも善でもなく、勝ちでも得でもない。あきらかに美の一形式である。ただ、それは消費形式の一種なのだ。

少なからぬ人びとは、自分にセンスがなくても、誰かや何かを「カッコいい!」と感動して、それにひきつけられる。そして「カッコ良さ」を求めて、いろいろな消費行動を起こす。だから企業は商品をカッコ良くしようとするし、消費者がカッコ良さを求めるよう誘導する。「カッコいい」は、美を、思考ではなく欲望に直結させる働きを持つ。

  • カッコいい職場、カッコいい職種

先日、ある若者と就職について話していたら、彼は、「誰だってトップで超一流の会社に就職したいと思うはずです」という。そして、トップとは「外資系経営コンサルティング会社だ」、と断定するので驚いた。

別に彼にたいして根拠があるわけではない(それほど社会を知ってはいない)。単にそれが「カッコいい」と思って(周囲に影響されて思い込んで)いるらしい。そりゃあ、何もわたしは、自分の勤務先の方が超一流だとかトップだとかいうつもりはない。だが、どうして外資系なのか。

「受験生なら誰もが東大をめざすのと同じだ」、とも彼はいう。この点でもわたしは異論があった。東大が問答無用に一番だ、という見解にわたしは組みしない。だが、かくも単純な価値観の相手と、それ以上議論してもらちがあかないと思い、会話をやめてしまった。

今の世の中では、「外資系」「MBA」「エリート」がカッコいいらしい。たしかに、メディアでももてはやされるのは、その種の人達であることが多い。「マッキンゼー出身」と書いてあると、それだけで発言にオーラがかかるようだ。

企業なら、経営企画部門で、M&Aに携わったりするのがカッコいいらしい。「M&Aアーキテクト」だとか、「シャーク」だとか「毒薬条項」だとか、使う用語もカッコいいではないか。それから「経営戦略」について語るのもカッコいい。強くて、クールなイメージがある。

  • カッコいい技術、カッコいい道具

AIエンジニアとか、データ・サイエンティストというのも、ちょっとカッコいい。「ウチの会社も、AIを使っています」と語れるとカッコいい、と思っている経営者も案外いるのではないだろうか。だって、データを蓄積して、そこから意味を汲み取らねば、という問題意識を持っている経営者だったら、AIが華々しく登場する以前から、そういうことに取り組んできたはずだと思うからだ。

「最新の」ITツールが好きな人も多い。こういう人達を見分けるのは難しくない。データを読み解くことに関心があるか、それともITツールを使うことが好きか、という点を見れば良い。前者は頭を使うし、地味だし、カッコ良くない。後者はトレンディだ。

そもそも「トレンド」は、カッコいいのである。人と同じ価値観を目指し、少しだけ先を行く、というのがトレンドである。カッコよさは、だから、人を束ねて動かすのにとても便利だ(余談だが、その一番の例が、ファシスト党とナチ党だったように思う)。

企業としては、消費者がみな「カッコいい」で動く人になってもらいたい。皆が似たような価値観だと、ヒット商品が生まれやすくなる。その方が大量生産ですむので、楽である。

  • スター的経営者

スターという存在は、大衆社会と共に誕生した。「カッコいい」人に、自分を重ね合わせ、自己を投影する。これが大衆のあり方の一面だ。

最近は、スター経営者という存在もある。カッコいい経営者にあこがれる人達は、その人の会社で働く。あるいはそれよりも、起業して、その人みたいな経営者になることを目指す。既存組織の経営陣だって、カッコいい経営者に無意識に影響されているかも知れない。スター企業の、スター経営者のやり方を、無意識に真似るのである。

現在の所、そうしたスターは主に米国が輩出している。経営学者達も、その経営手腕を並んで賞賛する。かくして、米国式の経営手法が蔓延する結果に相成る。その手法とは、M&Aで業容を拡大し、生産は途上国に外部委託し、従業員や自前のR&D投資は切り捨てて利益を出し、自社株買いで株価を維持する、という奴だ。

この路線の先には、大企業とスタートアップだけで、技術に特化した中堅企業が存在しない、という二極分化した社会産業構造ができあがる。流通もサービス業も、ナショナル・チェーン店だけ、という社会である。米国のどこの都市に行っても、ショッピングモールには似たような店舗しか並んでいない。

市井の普通の人が、パン屋や花屋やクリーニング屋さんとして自営で暮らすことができない社会。フランチャイズ店の店長として、実質的には雇われ人になるしかない社会。そういう方向に、わたし達も進みつつある。どうしてこうなったかというと、皆が自分自身の個性を見つけて、それに会った生き方を探る代わりに、「カッコいい」生き方を真似るようになった結果なのだ。

  • センスのある人と、「カッコいい」で動く人

では、どうしたらここから抜け出せるのか?

じつは、人が美意識で動くからいけない、のではない。むしろ、美意識(センス)が足りないのだ。それが最近のわたしの仮説である。

センスを磨くには、良い教師や先輩による訓練と、ある種の経験の蓄積がいる。センスを磨くことは、落ち着いてよく考えること、繰り返し試行錯誤することの上に育つ。脊髄反射的に「カッコいい」で動くだけでは、センスは伸びない。

センスがある人は個性的である。発達した美意識は、むしろ個性があり、千差万別だ。美というものは、多様性と自由を認める文化的土壌に育つ。

もっとも、集団的に統一された美というのも存在する。どこかの国のマスゲームのように。それはたった一人の美意識の主宰者のために、千人・万人が従属する社会だ。そこから豊穣な美が育つかどうか、わたし達は良く知っている。

ただし、人びとが消費者レベルで個性的でも、それだけでは十分ではない。ビジネスやマネジメントの局面で、同じようにセンスを持ちうるか、という方が重要だ。いくら身につけるファッションが個性的でも、意思決定や部下への指示が無個性では、豊かな結果は生まれまい。

マネジメントという仕事もまた、人間を相手にしているだけに、サイエンス+アートの両面をもつ。このサイトの主テーマである『マネジメント・テクノロジー』とは、サイエンスの部分を技術化したものだ。

では、マネジメントのセンスを基礎づける美意識とは何だろうか? そんなものは存在するのだろうか?

  • ある美しい国の話

こう考えるうちに、わたしは、美意識が重要で、「カッコいい」が公的に市場価値をもつ国を思い出した。昔、そういう国で、1年近くの間、働いていたのだ。

そこは「見る」「見せる」文化で成り立っている。美しい物が好きで、美術品と美食が有名で、たしかに街もそれなりに美しい。

ただ、その国のビジネス界は、じつは米国流経営法をそうとう真似ているように感じられた。ビジネスに従事する人びとも、「エリート」と「庶民」に完全に二分されている。その国には、スタートアップ企業と大企業しかなく、中堅企業があまり存在しない。そして、ライバルの隣国に比べ、長年不景気に苦しんでいる。

つい先日、その国の首都に立ち寄った。街の中心に、その都市の精神を象徴する大きな聖母教会がある。わたしは、そこに詣でて、ある偉人の絵の前にロウソクを捧げるのが、いつも旅の習慣だった。その偉人の名は、聖トマス・アクィナス。南部イタリア出身のこの人は、まことに「深く考える人」だった。彼は言語による「世界というシステムのモデリング」という問題に挑戦した哲学(神学)者だが、その仕事には明確な美意識があったはずだ。

だが、あいにくその教会に、今回は入れなかった。火災が起きて、尖塔と屋根の大部分が焼失したのだ。痛ましい姿に頭を垂れ、この国の人達の心にぽっかり空いた、空洞を思った。教会自体は多くの人の寄付を得て、再建を急いでいる。だが本当に再建が望まれるのは、人を動かし人を使うことに対する、良きセンスの方ではないのか。

そしてそれは、地球の反対側にある島国においても、同様だと思うのである。


by Tomoichi_Sato | 2019-06-29 19:27 | 考えるヒント | Comments(1)

感情のマネジメントとは、どういう事を指すのか

夜中に目が覚めて、しばらく眠れなくなった。仕事の多忙で、身体は疲れているはずだ。なのに、うまく眠れないまま、いつの間にか、ある問題状況について考え始めていた。最近起きた、ひどくイライラするトラブルだ。おかげで頭がさえて、さらに眠りから遠ざかってしまう。「夜中にそんな事を考えても、仕方がない」−−そう自分に言い聞かせてみたが、心はまたその悩みに戻って行く。そして堂々巡りの思考の中で、休息すべき時間が失われてしまう・・

こういう経験をしたことがない人は、うらやましい。働いていて悩みが全くない人は、滅多にいないだろうが、悩みに煩わされる程度は、人によって違うようにも思える。夜中に目がさえるような時は、起きている間も、いつの間にかその問題を考え続けている。ただ、考えるといっても、たいていは同じ場所を巡っているだけで、出口の見つからないことが多い。つまり、脳の中のある部分がずっとループしたまま回り続けていて、メモリやリソースを占有してしまっている感じだ。

とはいえ、わたし達の脳がコンピュータと違うのは、そこに『感情』というモードが伴うことだ。怒りだとか、不安だとか、恐れだとか。もちろん幸福という感情だってたまにはあるが、夜中に幸せすぎて目が冴えたという体験は、まだない。大抵は不快な、ネガティブな感情が伴っている。いや、逆かもしれない。感情的な問題がまずあって、それを解決したくて、知的な回路がぐるぐる回っている、という事なのだろう。

感情とは、なんだろうか。それは、マネージすることができるのだろうか?

自分は感情というものに対して、決定的に鈍感なのではないか。そう、疑い始めたのは、中年になってからだった。ずっと技術職だったから、理屈を通すことで仕事を回してきた。若いうちは、それで仕事を回せると思ってきた。

だが、プロジェクトというのは、複数の人間が協力し合って、共通の目的を達成する仕事である。人と協力するには、人の役割分担や能力も大切だが、人のモチベーション、その気分や感情も大切だ。信頼関係のないところに、良い仕事は生まれない。

自分はちゃんとチームを動かしているつもりなのに、「〇〇さん、あとで怒ってましたよ」「××君、ひどく疲れてがっかりしていたね」といった指摘を、人から受けることもたびたびあった。そして家族からも、他人の感情について鈍感だ、と思い知らされるに至って、これは何とかしなければ、という問題意識が生まれてきた。

先日、わたしが主催する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」で、『感情のマネジメント』という珍しいテーマを選んで講演してもらうことにしたのも、その問題意識からだった。アイシンク(株)の丸山奈緒子様に講師をお願いした。ところで驚いたことに、この回は過去最高の参加希望者があり、しかも初参加の方が多かった。このテーマに関心を持つ人が自分だけでないことに、あらためて印象付けられた。

以下、わたしが学んだことを、研究部会における丸山さんの講演資料「プロジェクトマネジャーが高めたい『感情マネジメント』スキル」をベースに、多少引用させていただくが、もちろん文責は筆者にある。

まず、感情とは何か、である。

当たり前だが、わたし達が抱える感情には、多種多様な種類がある。では、何種類に分けられるのか? じつは感情というものは、基本的な分類基準さえ、世間的には確立していないのだ。自家用車にはどんな種類があるか、金融投資にはどんな種類があるのか、わたし達は大まかな分類の軸をあげることができる。だが、感情はそれができない。それくらい、近代的なわたし達の生活において暗黒大陸、ないし未開の沃野なのだ。

それでも、とりあえず感情にはポジティブとネガティブがありそうだ、というくらいは分かる。ネガティブ感情にしばしば悩まされると、上にも書いた。では、ネガティブな感情は、さらにどう区分できるのか?

わたし達は赤ん坊の時から、感情をもっている。知性や自我の前から、あるのだ。ただ最初は、未分化な状態にある。自分が成長していく過程で、少しずつ、「あんたは怒ってるの?」「うれしそうね」「ぼくはそれ悲しい」「さびしいな」などと、言葉で表現するようになる。名付けることによって、感情は対象化され、また自分でも気付きやすくなるものらしい。感情の分類と、感情の発達・分化は関係しているのだ。
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そこで講演では、参加者に、自分が感じている感情を、言葉と数字を使って、表の形で書いて見るワークが出題された。直近の一週間を振り返って、自分はどんな時、どの感情を感じていたか。その強さは0-100%であらわすと、何%か?

単純なワークだが、これをやっていると、自分が毎日、いろんな気持ちを抱きながら過ごしている事に、あらためて気づく。それもプライベートだけではない。職場などの公的な時間でも、いろんな感情とともにいるのだ。

丸山さんによると、感情には、二つの重要な機能がある。一つ目は、自分自身への「信号」として、である。感情は、自分にとって重要な何かが起きていることを、知らせる。それによって、直接的具体的な行動を促す働きがある、という。たとえば、怒りは「戦え!」「相手を排斥しろ」という信号だし、恐れは「走れ、危険が迫っている!」 と自分に知らせてくれる。

もう一つは、他者との「コミュニケーション」を活性化する機能だ。感情は、他者に自分に関する副次的情報を伝えることで、他者とのコミュニケーション活性化のきっかけとなる。たとえば、悲しみは「助けて!」「わたしは傷ついています」と他人に訴えかける力がある。喜びは、「協力しよう」「再現しよう」 という気持ちを伝えてくれる。

ポジティブ感情には、「心身を回復する」ないし「注意と行動の範囲を広げる」働きがある。そして、ポジティブな感情は、その大きさ・深さよりも「頻度」が大切だという主張にも感心した。小さくても、頻繁に、自分に対してポジティブな感情のストロークを蓄積する。それがストレスを軽減するのだろう。

講演はさらに、ネガティブ感情を受け入れる、というテーマに進む。ネガティブな感情も、適度であれば、自分にメリットをもたらす。不安は、慎重さや準備、予防策のきっかけになるのだ。しかし、不安感情が過剰だと、デメリットが目立つようになる。パニックになる、他のことが手につかない、などの状態に陥るからだ。

そして、自分のネガティブ感情に「応対戦略」を考えるワークを、皆で行った。二人一組になって、それぞれ、自分がしょっちゅう悩まされるネガティブ感情をとりあげ、それに「あだ名」をつけるのだ。このとき、ちょっとコミカルなキャラづけになるような名前を考えるのがいい、という。

自分の場合は『怒り』だな、とわたしは思った。じつは気が短いので、つまらぬことでもすぐ怒ってしまう。とくに馬鹿げた、筋道の通らない話をされると、ついカッとなり、それが攻撃的な口調となって出てしまう。これで何度、損をして痛い目にあったことか。では、なんてあだ名をつけようか。

よし、「イカール大帝」にしよう、と決めた。ご存知の通り西洋史には、カール大帝という、英雄だが戦争好きな君主が出てくる。それのもじりだ。イカール大帝が登場すると、しょっちゅう、あちこちでケンカをやらかして、まずい事態を引き起こす。自分の中にいるのだから、そんなに偉大な存在ではないけれど、暴君なのだ。では、どんな時に現れてくるのか。この人と、どう付き合ったらいいか。それを考えて、相方に説明し、一緒に相談する。

これはなかなか興味深い体験だった。何より、自分が前からとらわれている感情を対象化し、しかもコミカルに擬人化するところがいい。そうすると自分にとって、何とか応対可能な相手だという感じがする。あだ名をつけるというアイデアが、卓抜だ。さすが専門家はだてに専門家ではないな、と思った。

それと同時に、こうした研修講演にはワークが必須なのだ、と気づいた。聴いて、知った気になるだけでは、自分の行動に結びつかない。身に着けるには、練習が必要なのだ。ただ、実りあるワークのためには、ある程度、自分の感情を人に晒せるような、相互に信頼感のある場づくりが必須である。

今回は、本来1日かかる研修コースの内容を、丸山さんを拝み倒して、わずか1時間半に凝集してもらった。ただ、明らかにこれだけで十分ではない。だから、自分自身で感情に気づくエクササイズを、日常で繰り返す方がいい。そのためにも、日誌による「ふりかえり」の習慣は有益だろうと思う。

ところで、以下は個人的な感想ないし疑問だが、はたして感情とは「マネージ」「コントロール」するべき対象なのだろうか?

感情のマネジメントという考え方が広まった背景には、EQという概念の普及も関係しているらしい。EQは、80年代後半に米国のメイヤーとサドベイが提唱したもので、IQ(知能指数)にヒントを得た用語であある。彼らは、「感情をうまく管理し、利用することは、知能である」と主張する。

優秀なリーダーは、自分の感情を把握・コントロールする能力と、他者の感情を知覚する能力が優れている、という研究があり、彼らの主張はこれに基づいている。つまり、ビジネスの成功には、知的なIQと、感情のEQが必要だ、という主張である。まあ、ある意味、いかにも「ビジネスの成功=社会的理想」とする米国的な考え方ではある。

ところで、日本語には「知情意」という言葉がある。知性、意思、感情という、心の働きの主要な3つを表した言葉だ。この三つについて、上記のEQのような考え方では、意思に基づいて知性を働かせ、その知性によって感情をマネージする、という風にとらえられる。つまり、

 意思>知性>感情

という優越関係にあるようだ。ただ、本当に感情とは、自分(自我の持つ意思・目的)が利用すべき資源にすぎないのか。暴れん坊だからコントロールすべき、家畜のような存在なのだろうか?

感情は、じつは自分の一部ではないのか。知性や意思と対等な、自分自身を作り上げる構成要素ではないか。そういう風にも、わたしには思える。感情の働きは、じつは自分の生に意味や価値を与えるのではないか。

人間は、なぜかしらないが、感情を共有したがる生き物である。丸山さんはこのことを、感情には「伝染性」がある、と表現された。そしてまた、感情には「流れ」があり、それはお金の流れと同様に重要だ、という経営者もいる。興味深い考えだ。

そして、感情は身体とかなり直接、結びついている。負の感情が肉体的な不調を呼び起こすことも、よくある。身体だって、自分の一部であって、単に「自分の所有物」ではあるまい。所有物みたいに思って暮らしていると、そのうち、身体の反乱によって痛い目にあう日が来る。同じように、感情をただ「マネジメント」の対象として、上から目線で考えるのは、いささか一方的だと感じるのだ。

「プロマネの仕事は技術をリードすることだ、だから優秀な技術者がやればいい、と信じている組織が世間ではほとんどです。だが本当は、感情とリスクのマネジメントがその8割以上なのではないかと、参加した皆さんもきっと思われるようになるはずです。」--研究部会の案内文に、わたしはそう書いた。

夜、目覚めて眠れず困る時間をすごす代わりに、自分の中の感情に気づき、自分を支える一部として認め共存することが必要なのではないか。そして、他者の感情をも、同じように尊重することが大切なのではないか。これが、理詰めで世の中を渡ろうとしてきたわたし自身の、最近の本心である。


by Tomoichi_Sato | 2019-04-26 21:36 | 考えるヒント | Comments(0)

クリスマス・メッセージ: 序列でも競争でもなく

Merry Christmas!


大学を出て随分経つのに、入学式のことを、不思議と今でも覚えている。当時は、学内にあった講堂が事情で使えず、学外の大きな会場を借りて行っていた。わたしたち新入生が神妙な顔で並んでいる前を、まず学部長達が入ってきて、ステージ上に並んだ椅子に順に腰掛けていった。そして最後に、学長が入ってきて、「新入生諸君!」といった感じで、訓示が始まる。

わたしの入った大学はマンモス校というか総合大学で、学部は全部で10あった。ところで、司会者が学部長を端から紹介したのだが、その順番が奇妙だった。まず法学部、次に医学部、さらに工学部、そして文学部・・といった風なのだ。文系・理系の区別でもないし、もちろん入試枠の順番でもない。何なんだ、この順番は? と不思議だった。

その順番の意味が分かったのは、入学式からずっと後のことだった。そこの大学では、学部の偉さの順位というものが、なぜか決まっているのだ。一番偉いのが法学部で、次が医学部、三番目が工学部・・ということで、学部長はその序列にしたがって、式典に並ぶしきたりになっている。だが、なぜ法学部がトップなのか、理由はよく分からなかった。一番新しくできた教育学部とか薬学部が最も下位らしいので、できた順番か、とも思ったが、必ずしもそうでもないらしい。

わたしはそれまで、学問なんてみな対等で、別段、学部に上下などないのだと信じ切っていた。だが、その大学では、違っているらしかった。少なくとも、下位の学部からは、学長を出せないのだそうだ。学長は選挙で決まるはずだ。だが、選挙に立てないし、もし立っても当選できないのだと聞いた。

まあ、これは昭和時代のことだ。今では事情は、まったく変わっているのだろう。変わっているだろうと思いたい。でも、つい今しがた、念のため大学のHPをのぞいたら、学部紹介の順番は相変わらず法医工文理・・という順番だった。ま、何というか、伝統に忠実な(あるいは因習に固陋する)立派な組織ではある。

ついでにいうと、その大学では学長を「総長」と呼んでいた。私立のマンモス校ではおなじみの呼称である。ところが、公立・国立では、学長ではなく総長と呼べるのは、たった2校のみと決まっているらしかった。さらにいうと、国公立大学で、法学部を持てるのは旧帝大のみ、ということも知った。なぜあちこちの都道府県に、法律を学ぶ場所を設置しないのか、わたしは理系だったが、不思議に思った。

しかし、大学間には、そうした「」というものが、厳然と存在するのだ。そして、大学内にも、学部間で、やはり「格」だとか偉さの順番という序列が、見えない形で生きている。

社会に出てからも、この国には、目に見えない序列と規制の網の目が張り巡らされていることを、次第に実感するようになった。やっかいなことに、こうした序列や規制は明文化されていないか、されていても目立たぬところに書かれているらしい。何も知らぬ新人は、壁にぶち当たって痛い目に遭わないと学べない。いや、この歳になってからも、まだわたしはいろいろな序列の存在に驚かされている。

たとえば経団連の会長には、製造業の社長でないと、なれないのだそうだ。なぜ金融や通信や不動産ではいけないのか、わたしは知らない。いや、これだけ激変の時代なのだから、どんな業種だろうと、ビジョンと力量のある企業が会長になってリードすればいいじゃないかと考えるのだが、財界はそう考えないらしい。

あるいは、最近、小説を読んでいたら、「東京地検特捜部は、検察の中のエリート集団だ。だから彼らがいったん狙いをつけた案件は、必ず有罪に持ち込む」という記述があって、驚いた。別に最近の某有名外国人経営者の逮捕事件を連想して驚いたのではない。わたしは愚かにも、東京だろうが大阪だろうが名古屋だろうが、地域である以上は、対等だろうと思っていたのだ。でも、たぶん作家の方が正しい。最も優秀な「エリート」は、なぜか東京に配属されるのだ。

きっと似たような事情は、全国の地域をまたがる組織群には、陰に陽に存在しているにちがいない。電力会社も、鉄道会社も、たぶんガス会社も、みんな東京が序列の一番トップにいるのだろう。言われてみれば、そういう兆候をなんとなく見聞きしたように思う。東京の組織で功成り名を遂げた人は、地方の組織に天下ったりする。だいたい、東京以外をまとめて「地方」と呼ぶのはなぜなんだ。

わたし自身は東京の郊外の生まれだが、東京が全国で一番偉いという感覚はない。北海道だろうが四国だろうが、地域はみんな対等だと思っていた。今は横浜市民だが、もちろん横浜は東京と対等と思っている。でも、わたし達の社会では、東京がデフォルトで偉さの序列のトップにくるらしい。わたしは自分の間抜けさを思い知らされた気がした。

もう一つ言おうか。自分が中小企業診断士のはしくれだから感じるのかも知れないが、わたし達の社会では、「大企業」と「中小・零細」では、単なる実力の差以上に、ハンディキャップがのしかかっている。銀行の金利であれ、機械の保守費であれ、中小零細は大手の倍以上の負担を迫られる。販売ルートの確保にいたっては、言うまでもない。大手はいつまでも大手で、中小企業はいつまでも中小、というのが社会のデフォルトの想定なのだ。

それにしても、この、目に見えない位階というか序列というものは、何なのだろうか? なぜ、このような不合理なしきたりが、平成も終わろうとしている21世紀のわたし達の社会に生きているのだろうか。

それで急に思いだしたことがある。何年も前のことだ。勤務先のある優秀な中堅の人に、「なぜ出身のX県ではなく、ウチのような横浜の会社に就職したの?」とたずねたことがあった。懇親会の席上で、軽い話題のつもりだった。彼の出身地・X県は、豊かで立派な産業があり、気候も温和な、良いところだ。だが、彼の答えは意表を突くものだった。「X県は、いまだに江戸時代なんです。だから、どうしても県外で就職したかった。」というのだ。

江戸時代? どういうこと!? そうたずねると、彼は答えた。ーーX県では、江戸時代の士農工商みたいに、あらゆる会社の順位が決まっているんです。X県で他を圧倒する大企業の○○社があり、それの系列会社や販売代理店やさまざまな周辺企業が、順にランクづけされています。町内会や地域行事も、いろんな会社がランクごとに援助しています。それだけではなく、お父さんの勤務先や職位によって、奥さんや子ども達さえも、微妙にランク付けされるんです。

○○社を頂点とした序列が、社会生活の隅々まで覆っているのがX県だ。彼はその息苦しさに耐えられなかったと言う。

わたしは噂に漏れ聞いた○○社の内情を思い出した。定年退職した工場の技能者は、その人の生涯の成績が最上位だと、会社から家まで、高級車で送ってもらえる。次のランクの人は、車で最寄りの駅まで送ってくれる。さらにその下のランクは・・定年退職で工場の門を出るときまで、処遇の差が見える化されているのだ。そして同じ企業内でも、激しい工場間・部門間の競争があり、社内競争でボーナスも決まる。

それがどうした。競争社会とはそういうものじゃないか。そんな声もきこえそうだ。たしかにそうかもしれない。だが、それと、X県の(あるいは○○社の系列の)会社間に、まるでどこぞの大学の学部のように、見えない序列があることと、どう両立するのか。どの職位の管理職が、どこの会社に天下りするかみたいなことが、格付けで決まっているのも奇妙ではないか。企業というのは、努力して伸びたら業界の上に行けるものではないのか? わたし達の社会の競争原理というのは、どこかで何かが歪んでいないか。

競争こそ、世の中を進歩させる原動力だ、という信念は強い。たしかに、人に勝ちたい、負けたくないという気持ちは、たいていの人の心の中にある。そして、とりあえず競争に勝ってきた人間は、競争の意味を疑わない。学歴競争や実力競争で勝ち残ってきた人ほど、その擁護者になる。だからメディアでも学識経験者でも、競争礼賛的な言論が流通しやすい。

だが、わたし達の社会の競争原理には、どこか寸足らずのところがある。大きな枠組みでは、すでにエレベーターのように、高層階行き、中層階行きと出発時点で決まっていて、ひっくり返せない。そしてエレベーターの箱の中で、どんぐりの背比べみたいに、互いに競争している。

このような社会では、小勝負に長けた人は出ても、大勝負に挑む人びとは出にくい。大きな勝負は、すでに枠組みで序列が決まっているからだ。

小勝負の方は、土俵もルールも勝敗の評価基準も、上から与えられている。こうした仕組みは、与えられた目標、命じられた事だけを必死に実行する人間だけが勝ち残りやすい。つまり兵卒や下士官だけを、輩出する事になる。一方、エリート層はエリート層で、彼らの小さな箱の中で競争させられ、勝った負けたといって、大多数が挫折感だの劣等感だのを抱き続ける。くだらぬことである。

そして、何よりもっともまずい事は、協力のためのコミュニティが育ちにくい点だ。

著名な経営学者ミンツバーグが来日したとき、講演で彼は、アメリカの経営学はリーダーシップを強調しすぎてきた、今大切なのは、職場における「コミュニティシップ」だ、と提起していた(Community-shipというのは彼の造語で、通常の英語辞書にはない)。コミュニティがないと、共通の知恵を蓄積することができない。本当の創造的アイデアも、品質の高い議論のスキルも、育ちにくい。もちろん個人個人の自律性も。

工場間の競争でボーナスが左右される上記の会社を、思い出してほしい。たぶん優れた技術的工夫は、改善大会で表彰され共有されていくのだろう。だが、その時までは共有されない。それどころか、マクロな業務プロセスは、工場ごとにバラバラだったりする(これは納入するSIerから聞いた)。業務プロセスにこそ、共通した管理技術が活きるのだが、部門が互いに競争していたら、標準化・共通知化など進む訳がない。

わたし達が生きているのは、苛烈な競争のみが支配するアメリカ社会とも違う。序列意識のスキマに競争原理が導入された、珍妙な社会である。序列の中でのみ、競争が行われる。

そうした序列は、しかし、いつまでも永続的なものではない。海外との競争にさらされると、いきなり危機を迎えるのだ。江戸時代にずっと続いた、「親藩>譜代>外様」の序列は、黒船の到来でいきなり崩壊した。外敵への対応能力は、序列と関係ない事が明らかになったからだ。

大学の序列も、似ている。国内で最高だと自負していた大学も、世界でのランキングでは10位にも入らないので、どぎまぎしている。(そんな海外のランキングなどくだらないことだ、自分たちは我が道を進む、と主張するなら見所もあるが、外部から競争尺度を与えられると、それを無視できないのが彼らの常だ)

こうした価値の転換に備えるには、横のつながりによるコミュニティに優るものはないと思う。異なる視点と経験を持った者同士が、対等に議論できる場。コミュニティという場は、原則として、お互いが対等な仲間が集って作り上げるものである。対等とは、互いに権利を主張し合えることだ。

アメリカとバヌアツは、国際社会では対等である。対等に、権利を主張し合える。むろん、対等であることと、結果として平等であることとは違う。この世は残念ながら、なにかと不平等にできている。いうまでもなく、アメリカは比較にならぬほど、強大なパワーを持っている。

ただし、不平等社会でパワーを持つ者は、そのために重い義務も背負っている。権利と義務は秤で釣り合っている、というのが対等の原理だからだ。逆に、労苦は下の階層の者が背負うべき、というのが序列の原理である。それが江戸時代の、士農工商の論理だった。序列社会に競争原理を持ち込んだ、木に竹を接いだような社会に、どうして活力が生まれるだろうか? みんながレミングのように同じ価値観と方向性で進んでいくのは、滅びに至る道である。

滅びに至る門は広く、そこから入るものは多い」と、かつて2千年前の賢者は言った。彼の生まれた中東の地では、都市は城壁で囲まれ、そこには大きな門があって、その脇に小さな通用門のような入口がついていたらしい。大きな門は、王侯や軍隊が入城するときの門である。下級市民は、小さな門を入った。

だが彼は、あえて、命を得たければ狭い門から入れ、と説いた。天の下で、あらゆる人間は対等だと、彼は信じていたからだ。

また彼は、去る前に、心を一つにした人が「二人あるいは三人集まるところには、わたしのその中にいる」という意味の言葉を残していった。彼は共同体というものに、信頼を置いていたのだ。

与えられた序列と尺度で走るだけ、与えられたことを実行するだけの生き方は、もう卒業すべきだ。小さな勝負はできるけど、大きな勝負はできない人では、小さな改善はできるが、大きな刷新は難しい。わたし達の社会はそろそろ、そういう刷新の時期なのだ。世の中がひと時、戦火を閉じて平穏になるこの季節、本当に何をなすべきかを、既成の秩序は忘れて、静かに想いをめぐらすときが来ている。


そして、どうか読者の皆さんの上にも、平和なクリスマスがありますように。



by Tomoichi_Sato | 2018-12-24 17:30 | 考えるヒント | Comments(0)