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エンジニアリングと技術とインテグレーションと

以前、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」https://brevis.exblog.jp/24622591/(2016-08-28)と題する記事で、イザムバード・ブルーネルのこと書いた。19世紀前半のイギリスで活躍した、傑出した技術者だ。たまたまロンドンに来る用事があったので、ブルーネルが作ったパディントン駅を見た。とても美しく、かつ機能的な、優れた建物である。改良の手は入れているだろうが、建築物としての骨格は、おそらく最初のままだと思われる。実物を見て、あらためてブルーネルという人の天才的なセンスを感じた。
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そのパディントン駅から多少歩いた公園・ハイドパークの南側に、「アルバート記念碑」が立っている。大英帝国の最盛期を作ったビクトリア女王が、亡き夫君のアルバート公を記念して建造を命じた、巨大なモニュメントだ。こちらはネオ・バロック様式で、すごく美的だと思うかどうかは、見る人の感受性による。

ただし、この記念碑は、あるはっきりした主張・テーゼを表現している。それは、大英帝国が支配する4大地域と、帝国の国力を支える4大産業で、それぞれがグレコローマン風の彫像群によって表現されている。帝国が支配し、あるいは強い影響を及ぼす4代地域とは、(1)ヨーロッパ大陸、(2)アジア大陸、(3)アフリカ大陸、(4)アメリカ大陸、である。ま、七つの海を支配する人たちの発想というのは、こういうスケールなのだろう。この彫像群は、記念碑の四隅の外陣を守っている。

ところで、帝国を支える産業として、19世紀中盤に彼らが選んだのは、以下の4つだ。これらが記念碑の内陣を支えている:
(1) 農業 Agriculture
(2) 商業 Commerce
(3) 製造業 Manufacture
(4) エンジニアリング Engineering
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今の日本なら、何を選ぶか。あるいは'90年頃の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自ら酔っていた頃なら、何を選んだか、ちょっと考えてほしい。製造業はまあ、入るだろう。農業は、微妙だ(今やGDPの数%しかない)。ただ、賭けたっていいが、4つの中に「エンジニアリング」が入る気づかいは、ない。皆無だ。

エンジニアリングとは何だろうか? アルバート記念碑についての観光案内を読むと、エンジニアリングではなく「工学」と書かれていることがほとんどだ。だが、工学は学問の一部であって、産業の呼び名ではない。だからここは、「エンジニアリング」との表記にこだわりたい。ほかに、適切な訳語が、日本語にはない。

いや、日本語だけではない。エンジニアリングに対応する欧州の言葉は、ドイツ語ならIngenieurwesen、仏語ならingénierieで、まあはっきり言うと、英語からの派生である。Engineeringという概念それ自体が、英国生まれ、英国の産物なのだ。

エンジニアリングとは何か。長年「専業エンジニアリング会社」に勤めてきたわたしでも、一言で言うのは、簡単でなない。でも強引に縮めて表現するなら、「科学の発見・発明を、具体的な形に構築し実現する仕事」だといえよう。出来上がった装置や機構、あるいは巨大なプラントなどは、利用者が使う。エンジニアリングの仕事は、それを作り上げるところまでである。

エンジニアリングの中心的な業務は設計だが、設計図だけでは仕事は終わらない。資機材や部品を調達し、組み上げ、設置しテストし運転が可能であると確認するところまで、全てを含む。

エンジニアリングは技術を中心とした仕事である。ただ、その「技術」という言葉がどこからどこまでを指すのか、またどこに価値の源泉があるのかは、案外理解されていないように思う。

たとえば、構築対象物の斬新な基本設計は、たしかに価値ある技術である。ブルーネルの革新的な広軌鉄道や蒸気船(復水器を取り入れて長期航路を可能にした)から、現代の電気自動車EVまで、そこには発想の飛躍ときらめき、創造性があり、誰にも分かりやすい。そして基本設計は、主に用途(IT風に言うと機能要件)と、性能値を目標として行われる。

これに対し、詳細設計はもっと地味な仕事だ。だが、技術は細部に宿る。鉄道を広軌にしたら、トンネルの掘削量は倍増する。長航路の船は巨大な構造を力学的に支えなければならない。ブルーネルはそうした工法・製造法(=実現法)の工夫も怠らない。もちろん、作業に当たる従事者と利用者の安全性確保も含む。こうした点は、科学法則と、運用上の経済的・社会的要請の両方を、複眼的にとらえる必要がある。そこをきちんとおさえないと、技術は社会で実用化できない。

あるはまた、わたしになじみの深い天然ガスの液化プラント(LNGプラント)を例にとろうか。基本的な原理は単純だ。天然ガスを冷やすと、液体になる。冷やすのには、冷蔵庫と同じ原理を使う。いたく単純である。だが、超低温・高気圧に耐える熱交換器や調節弁、大出力のガスタービン駆動圧縮機などを含むプラント一式を、安全にかつ安定して運転できるよう組み上げるためには、機械・電機・制御・化学・土木・建築など様々な分野での、詳細設計が必要だ。それらが、さながらオーケストラのように協調しあって、はじめてプラント・エンジニアリングという仕事が達成できる。少数の天才がいれば成り立つ仕事ではない。

そして、詳細設計や実装においては、安全性・安定性・信頼性・保守性・・といった、いわゆる「非機能要件」を満たすことが重視される。だから、「傑出した技術力」のためには、独創的な基本設計の能力だけでなく、実装の経験を、設計にフィードバックし、その改良ループを回して進化するような能力が必要とされる。

事実、ブルーネルの仕事はそうだった。かれは基本設計にも長けていた。他人の独創的な仕事を大胆に取り入れ、組み合わせることも上手だった。彼は大学を出ていなかったが、しかしきちんと科学計算の裏付けをとって設計した。そして、工事まですべて手掛けて、数々の偉業を実現したのだ。

ところで、ブルーネルが没してから150年がたった。では、現代の英国で、彼の偉業をついで、技術の進化をリードしているのは誰なのか? 英国はいまだに、世界のイノベーションの先陣を率いているのか? いや、もっと端的に言おう。あなたは、英国企業から、次の自動車でもいい、飛行機でもいい、あるいはパソコンでもいい、新製品を心待ちにしている物が何かあるだろうか?

もし、あまり見当たらないのだとしたら、この国はどこかで、技術におけるリーダー精神を失ってしまったのだ。だが、それはどこで間違ったのか?
(まあ、こんなことを書いたら、皮肉な英国人から「次のイノベーションが待ち遠しい日本のIT企業は、どこかな?」と逆襲されるかもしれないが・・)

わたしは、英国人のお得意な『専門化と細分化』が、彼らの技術開発力を奪ったのではないか、と疑っている。当地の知人によると、ロンドンには本当にありとあらゆる種類の、細部化された領域を得意とする専門家やコンサルタント達がいて、顧客のどんなニーズにも対応できるという。それはエンジニアリングの分野でもそうだし、金融や法律といった分野もそうらしい。

そのような専門分化において、彼らはさらに、一種の規制や障壁を立てる。土木建築分野における、「設計・施工分離原則」がその一つである。設計・施工分離の原則とは、設計者が建設工事をも請け負ってはいけない、という規制だ。したがって、設計は設計事務所が行い、建設(実装)は工事業者が行う、という風に分業している。見積積算は、さらに第三者のQSと呼ばれる人たちが行う。

このような原則は、19世紀後半に、英国で都市が急拡大し、建築ブームが起きた際に、あちこちで手抜き工事が発生した反省によるものだと、聞いたことがある。それまでは(つまりブルーネルの時代には)、設計者と施工者は一緒で構わなかった。しかし、手抜きや見積での嘘を防ぐため、設計→見積→工事という仕事を、異なる企業間に分断して、互いにcheck & balanceが働くような仕組みにしたのである。まことに英国的な発想ではないか(憲法だの三権分立などの社会統制原則も、かなりが彼らの発明だ)。

ちなみに日本では、官庁工事などがこの原則に従っている(日本は明治時代に、建築技術を英国からならった)。だが、民間工事では設計施工一貫の例も多く、事実、日本のゼネコンはかなり高度な設計能力を持っている。ところが、英米の工事業者は基本的に、設計機能を社内に抱えていない。

しかし、このように設計と施工を分離した結果、何が起きるか。建設工事の現場で、設計に起因した施工の難しさが生じたとき、その教訓が設計側にあまりフィードバックされにくい、ということだ。なぜなら別会社だからだ。さらに、新しい施工方法を開発して、そこからさかのぼって設計法を生み出す、という動きも働きにくい。

設計・施工分離原則は建築業界のことだが、他でも類似したことが起きているのではないか。たとえば石油ガスのプラント・エンジニアリング業界では、'80年代以降、基本設計と、詳細以降が別フェーズに分割することが普通になった(ただし同一エンジ企業が請け負うケースもありうる)。そして、かつては英国にも優れたエンジ企業が存在していた。だが、今やその多くが買収されたり解体されたりして、米国企業などの傘下に入っている。今でも英国の企業は、まあプラントの基本設計はうまいが、詳細設計・調達・建設工事を含めたプロジェクト全体をまとめる「技術のオーケストラ」機能が弱い。

こうした、いわゆる『分業病』の弊害については、英国人も気が付いているのだろう。だからこそ、マネジメントの必要性の認識が強いのだと思う。それも、専門性のないゼネラリストをマネージャー職に就けるのではなく、マネジメントのスペシャリストを育成する方向に進んでいる。まあ、優秀なオケの指揮者を育てようという訳だ。そして英国人は、マネジメントの体系化・システム化にたけている。PM分野でいえば、PRINCE2とか、Managing Successful Programme(MSP)といった英国の作成した標準は、米国PMIの同等のものより、実用的でレベルが高いと感じる。 

彼らは仕事をシステム化し、手順とアウトプットとメトリクスで動くように仕向ける。つまりプロセス(手順)を整備し、プロセス中心にする。すると、仕事から属人性がなくなる。誰でも60-75点を取れるようにすることが、システム化の目的だからだ。同時に、システムかは仕事をオーディット(監査)可能にする。冷静な第三者的オーディットこそ、英国人の得意科目なのだ。

このようなマネジメントのシステム化のメリットは大きく三つある。リピータビリティ(再現性)、ポータビリティ(可搬性)、スケーラビリティ(拡張性)だ。仕事が属人的でなくなれば、再現性が上がる(標準化できるともいう)。また、他の場所、他の国にも仕事を移しやすくなる。さらに、仕事のキャパシティを拡張しやすくなる。仕事が属人的だと、キャパを増強するにはキーマンを増やすしかなく、キーマンの育成にはひどく時間がかかるからだ。

そしてマネジメント・システムの上に、優秀なマネージャーを配置できれば、90点代の仕事もできるようになる。はずだ。

では、仕事をシステム化して、超優秀なマネージャーと、百の専門家たちで仕事を回すのがエンジニアリングの「インテグレーション」なのだろうか? 非常に大規模な仕事では、それしか方法がないかもしれない。部門間の自主的すりあわせと、「現場力」と、ブラックな労働環境のがんばりだけでは、仕事がいつ終わるのか、まったく読めないからだ。それよりは、ずっと良い。

ただ、このような発想に欠けているものが、ある。この英国式発想は、非常にプロセス中心の考えだ。インプットを、プロセスして、アウトプットする。頭文字をとって、IPOモデルともいう。仕事の効率化には、非常に役に立つ。英語風に言えば、"Do things right"だ。

問題は、プロセス志向の発想に、何をインプットしても、独創性が出てこないことだ。つまり"Do right things"が見えなくなる。そして、このことが、英国のエンジニアリング産業の限界を生んでいるのではないか。危険予測ばかりが目立つリスクマネジメント・システムの中で、冒険的な発想をためすことは困難だ。

独創性、そして進化のループは、分業化された組織の中に確保できるのか? たとえ技術のオーケストレーションが上手になっても、作曲家(基本設計者)と演奏者(実装者)が、分業したままでいいのか? 聴衆の本当のニーズを肌でつかんでいるのは、聴衆の前で演じる演奏家の方ではないか? 作曲のモチーフと、聴衆のニーズを、うまくマッチングしないと、本当にイノベーティブなものは出てこないのではないか?

そう。英国企業で、次の製品が待ち遠しい企業、わくわくして驚くような製品や技術を出してくるメーカーとして、唯一名前があがりそうなのは ダイソンくらいだろう。基本的には家電メーカーだが、ダイソンは確かに、誰も思いつかない、真にイノベーティブな製品を、出してくる。

創業者のジェームズ・ダイソン氏は、そういう意味で、現在ブルーネルの後継者の地位に一番近い人だろう。ダイソン氏は経営者ではなく、会社のCTOであり「チーフ・エンジニア」である。会社経営のマネジメントは、人に任せている。彼の作る掃除機、扇風機、ヘアドライヤーなど、いずれもまことに独創的で、かつ、美しい。

ダイソンは製造にもこだわっている。第一、精密で高性能なため、かなり自動化した製造ラインが必要だ。あの空洞型ヘアドライヤーは、毎分11万回転のモーターが中心になっている。この自動化製造ラインを作ったのは、前回の記事で紹介した、日本の平田機工である。よくありがちな英米企業のように、製造を安い受託製造業に安易に外部委託することもしない。かわりに、ダイソンは製品を高い価格で売る。高くても売れる製品を作る。

そのダイソンは今、電気自動車EVを準備しているらしい。布石に、蓄電池メーカーを買収したとも聞いている。どんな製品を出してくるのか、聞くだけでワクワクするではないか。これこそ、エンジニアリング技術の魅力でなくて何なのか。それが可能なのは、ダイソンが、単にマネジメント・システムと分業化思考だけでなく、基本設計から製造・販売まで、全部をインテグレーションする企業だからだ。

もちろん、ダイソン氏は傑出した技術リーダーだ。そうした、ビジョンを持ち、際立った力量を持つ人には、技術仕事の属人性を残し、インテグレーションの焦点になってもらった方がいい。実装まで任せて、細部にまでこだわってもらうべきなのだ。故スティーブ・ジョブズなんかも、実はそうだったのだろう。そして、普通の人、ないし、まあまあ優秀程度の人は、システムの中に組み込むべきなのだ。

一番ダメなのは、分業型組織のバケツリレーの中で仕事を回すことだ。全体ビジョンもなく、システムをマネージする人もいない。変化と進化のループも弱い(PDCAのAが、自分の分業の壁の中だけに留まる)。
結果として、その場しのぎだけが横行する。これが、ボトムの在り方だ。もしこんな組織に働いているなら、それを変えるか、脱出する努力を考えるべきだ。

英国は、エンジニアリング産業の父である。英国の技術の歴史は、欧州大陸や米国と比べても、独特である。英国の技術は、科学の単なる付属物でもなかった。金儲けの単なる道具でもなかった。科学に立脚し、お金も生み出すが、実用的でかつ、ユニークだった。それがだんだんと衰退していく姿を、わたしは見たくない。できればもっと、いい意味で驚かせてほしい。英国に学ぶべきこと。それは、「エンジニアリングとは技術のインテグレーションである」ということではないだろうか。


<関連エントリ>
 →「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


by Tomoichi_Sato | 2018-06-19 05:24 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:二日酔いの防止サプリ「よいとき」


お酒に弱いたちである。お酒を飲みながら人と談笑するのは、けっこう好きなのだが、あいにくわずかな量のお酒でも顔が真っ赤になってしまう。経験的に、自分の許容量は生ビールをジョッキに1杯と、あと焼酎等の蒸留酒を1杯程度だと思う。

ところが、いったんお酒を飲み始めてしまうと、自制心が緩む(苦笑)。そしてつい、自分の許容量超えて飲み過ぎてしまう。翌朝は二日酔いの頭を抱えて、自分の愚かさを反省することになる。そして、お酒に強い人はいいなぁ、と内心羨んだりする。

キューピーの研究開発部門の方から、同社が開発した製品「よいとき」のことを聞いたのは数ヶ月前だ。この製品は、酢酸菌から抽出したアルコール分解酵素と、アルデヒド分解酵素が主成分になっている。

知っての通りアルコールは体内で、アセトアルデヒドを経て、酢酸に分解される。このアセトアルデヒドが曲者で、二日酔いの主原因になる。「よいとき」という製品は、このアルデヒドとアルコールを分解する作用を持っている。錠剤型のサプリになっていて、一袋2錠がワンセット、1回分である。

「よいとき」を服用するのは、お酒を飲む前でも、飲んだ後でもいい。ただ、あまり遅くなったり、翌朝になったら、手遅れだ。二日酔いを防止するのであって、「治す薬」ではないからだ。「飲み忘れないように、最初の乾杯のときに服用するといい」というアドバイスもあった。また、これを服用しても、お酒に酔わなくなる訳ではない。飲んだ翌朝が楽になる、というのが主効果である。

ともあれ、最近はつき合いで宴席に呼ばれたら、必ず服用するようにしている。そして、自分の主観的な評価だが、たしかに夜中の眠りが深くなり、翌朝が楽になったように感じる。「ウコンの力」などの他のサプリの多くは、肝臓を活性化する働きのものだから、一緒に服用することもできる。大手のコンビニでも売っている。

同じようにお酒に弱い人には、おすすめできる商品だ。


by Tomoichi_Sato | 2018-05-31 21:12 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:Lenovo Bluetooth Touch Mouse N700

Lenovo Dual Mode WL Bluetooth Touch Mouse N700 (Amazon.com)

(追記:ある方から、この並行輸入品のマウスは2.4GHz無線に関して、日本国内で「技術基準適合証明」を取得していないので違法ではないか、という指摘がありました。確かにその疑いが濃厚ですので、この記事は近いうちに削除します。Lenovo社には、早く日本国内でも正式販売してもらいたいと希望します。と同時に、旅行者は携帯使用が許されるのに、国内販売には独自の証明手続きが必要だ、という制度にも、素人ながら多少の疑問を感じる次第です)
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わたしの勤務先では、LenovoのNote PCが標準機だ。今年、軽量なタイプに変わったのを機に、マウスもコード型から、持ち運びやすい無線タイプにしたいと思い、個人で買ったのがこの製品だ。かってから1ヶ月ほど使ってみたので、レビューで紹介したい。

Bluetoothのマウスは、世の中にものすごく沢山、種類がある。値段もまあ、2千円程から1万円くらいまで、幅がある。その中から、あえてこれを選んだのは、いくつかユニークな特徴があるからだ。

(1) カッコいい
 まあ、じつに単純でミーハーな理由である(笑)。でも、よく持ち歩くモノは、やはりデザインが大切だ。PCと同じLenovoの製品で、色もスタイルもぴったり合っている。そして、マウス自体が、とてもスマートな形状である。真っ直ぐな状態のままだと、マウスには思えない。シガレットケースか何かのようだ。しかし、途中の部分をねじって回転すると、中央部分が三角形に持ち上がる。これもまだマウスには見えないが、つかんで動かしてみると、なかなか手になじむ作りだ。このデザイン性が、なかなか良い。

(2) 案外持ちやすい
 マウスとしては、ここが一番大事だ。軽いけれども、必要なだけの重さもあって、妙にぶれたりしにくい。それに、まっすぐな形状に戻すと、ポケットにも入れやすいから、持ち歩きに便利だ。これまで何年も、Note PCと一緒に有線式のマウスと、マウスパッドまで持ち歩いていて、つくづく面倒だった。今は、とてもすっきりしている。もちろん、カバンに入れても邪魔にならない。

(3) レーザーポインターにもなる
 このマウスはまっすぐな状態では、レーザーポインターとして機能する。マウスボタンは左右にあり、その真ん中には幅1cm足らずのスイッチがあって、マウスとして使っている場合は、ここが一種のスライダー機能を持つ。しかしまっすぐな形のときは、ポインターのスイッチに変わる。もちろんその際でも、左右のボタンは機能し、PowerPointのスライドの前後めくりに使える。わざわざマウスとポインターを別に持つ必要が無く、非常に便利である。

(4) Bluetoothと2.4GHz無線の2つの方式をサポートしている
 このマウスは、Bluetoothの他に、2.4GHzにも対応しており、そのために使う小型のドングル(PCのUSBポートに差す受信機)も付属している。わたし自身は普段Bluetoothを使っているのだが、他のBT未対応のPCとも接続して使える。そして、そのドングルは、このマウスの電池ホルダーの横のスペースに格納できるのである。こういう細かい配慮の行き届いている点が、デザインとして優れている。

(5) 電池はまあ持つ
 単4電池2本を内蔵するのだが、とりあえず1ヶ月は問題なく使えている。

(6) クリック音も低い
 クリック音はあまり気にならない方だと思う。クリックアクションも軽いが確実だ。すごく静音だというほどでもないが、あまりカチカチやかましいタイプではない。

(7) スライダー機能はやや動かしづらい
 あえて一つ欠点をあげると、ホイールに相当する中央部のスライダー機能の感度がやや低く、スクロールがやりにくいことだろうか。まあ、AppleのMagicマウスみたいに、やたら感度が高すぎるのも、使いにくくて不便だとは思うのだが。

中央の回転部分が、機械的にどこまで耐久性があるか、そこが購入した時点で一番心配なことだった。無論、まだ1ヶ月程度では分からないが、そんなに頻繁に回す訳でもないし、と思っている。値段はまあまあするが、とりあえず現時点では、買ってとても満足している製品である。ただ、わたしはこの製品、Amazon.comから並行輸入品を注文するしかなかった。なぜ日本国内で一般販売していないのだろうか? けっこう売れると思うのだが。


by Tomoichi_Sato | 2018-05-15 23:15 | ビジネス | Comments(1)

人間主義のプラスとマイナス

「よくこんな非効率で危険な現場運営を、A社は許しているな。」

思わずわたしは、つぶやいた。もう10年近く前、ある中東の大国で、科学技術施設の建設現場を訪れたときのことだ。顧客との打合せが目的で、現場視察のために行ったのではない。だが、どうしても仕事柄、現場のことが目に入ってしまう。建設工事を請け負っているのは、中東エリアで名の知れた大手建設会社2社。巨大な建設現場で、大勢の労働者が投入されていた。

その施設の建設は国の威信をかけたプロジェクトだったのに、例によって納期に遅れつつあった。そこで、国営石油会社であるA社が政府の依頼で、発注側に立ってテコ入れをしているときいていた。A社は国際的に準オイルメジャー級の企業であり、その国で本当に巨大なプロジェクトのマネジメント能力を持つのは、A社くらいしかない。畑違いだが、やむを得ない対策と思われた。

ところで、国際メジャー級の企業は、建設現場におけるHSEの要求も厳しい。HSEとはHealth, Safety & Environmentの略で、つまり労働安全衛生と環境保護の要請だ。以前も書いたことがあるが、メジャーの建設現場では、安全教育を受けずに現場入りしてはいけないし、ヘルメット・防護グラス・安全帯などの装備を身につけることが必須である。ちょっとでも高所作業をする際には、ハーネスをかけて落下予防をする、といった基本動作が事細かく求められる。

ところがその現場は違った。2階以上の高さでも安全帯をかけずに作業をやっているし、地面を掘った穴には十分な安全柵が立てられていない。とにかく及第点以下なのだ。それどころか現場に、図面も持たず材料・工具も持たぬ労働者が大勢うろうろしている。

当たり前だが、直接作業に従事する者は工具や材料がなければ仕事ができないし、監督者(スーパーバイザー)は施工図面を持たなければ仕事にならない。だとするとあの大勢の手ぶらの連中は何のためにいるのか。何の生産性にも貢献していないことになる。いくら突貫工事で大勢を追加動員したといっても、これでは効率が上がらぬ。そればかりか、万が一大きな労働災害事故が発生したら、現場周辺は作業を一切とめて対応せざるをえない。ますます仕事が遅れるのだ。大手顧客がHSEをやかましく言うのも、無事故が作業の生産性に直接つながるからでもある。

ところで同じ時期に、わたしの勤務先は、中東エリアの別の場所で、建設現場における全く新しい取組をおこなっていた。"Incident and Injury Free"の頭文字をとって『IIF活動』とよばれるこの取組は、建設現場の安全性とパフォーマンス向上に画期的な成果を生み出しつつあった。もっとも、これはわたし自身が直接関わった活動ではないし、その詳細について開示する自由を持たないので、具体的には以下のUrlなどを参照いただきたい。

日揮のIIF活動
JGCIIF活動(英語だがより詳しく書いてある

その活動のエッセンスだけを紹介すると、以下のようになる(もちろん、これはわたしの勤務先のことなので、宣伝半分じゃないかと疑う読者諸賢もおられよう。その場合は、バイアスを割り引いて読んでほしい):

IIF活動とは、現場のHSE向上を目的として、安全文化の構築と啓蒙を中心とする活動である。プラントの建設現場というのは、基本的に、誰もが出稼ぎのために故郷を離れて働きにやってくる。そこで、「建設工事に携わる誰もが、無事故で元気で家に帰る」ことが、皆に共通する一番の願いとなる。そのために、「お互いをケアする」(Respect & Care)ような安全文化を、組織(集団) 全体に構築していく。

具体的には、現場で働く作業員の気持ちを掴み、個々のモチベー ションを高めるための活動をする。たとえば現場責任者が、率先して毎朝欠かさず建設現場内を歩き、現場作業員たちに「おはよう。元気ですか」などと声をかけ、握手るなどスキンシップをとり、人間関係の壁を取り除く訳である。

また、互いの出自の紹介をして、名前を持つ人間同士として関係をつくることに取り組む。つまり、お互いに名前を覚えるのだ。大きな建設現場となると、数十の工事業者が関わり、労働者は5千人とか1万人以上になる。そこを、分け隔て無く実践するのである。

あるいは、分かりやすい図面パネルを制作して現場に持って行き、作業員達に、彼らが今、作っている装置の役割の説明をする。プラントは複雑で、見ただけでは何をする装置か分からないし、そもそも建設労働者達にそんな説明をする習慣はなかった。だが、そうした意義の説明を通じて、誇りとやりがいが生まれるし、全員が同じ目標に向かって作業している「仲間」である意識ができてくる。

こうなると、お互いが安全に向けて声をかけ合い、注意し合うカルチャーが醸成されてくる。現場作業には思わぬ危険が潜んでいるし、人間には必ず不注意やミスもある。それを、近くにいる他人(他の会社の人間かも知れない)が、声をかけて防げるようになってくる。

一般に労働安全活動は、「警察取締り型」と、「相互扶助型」のタイプがある。ふつうは、前者だ。危険を見つけたら注意し、繰り返しても改善されなければ、現場退去を命じる。しかし、警察型の活動は、いろいろな事故防止のテクニカルな対策を併用しても、事故発生率の低下に、ある壁があった。IIF活動は相互扶助型によって、その壁をブレークスルーすることを目指している。

結果として、たとえばUAEで遂行したIGD Habshan 5プロジェクトでは1億時間以上にわたり、LTI(Lost Time Incident=休業災害)ゼロを実現したし、カタールでのBarzanプロジェクト建設現場では、なんと1 3,000 万時間超の休業無災害を記録した。1億時間といってもピンとこないだろうが、中東の建設現場は1日10時間・週休1日で月260時間勤務が通常なので、つまり約40万人月以上の無災害である。たとえば2万人の労働者が、丸20ヶ月、一人のケガによる休業も出さなかった、という規模がこの数字である。

しかし、生み出した成果はそれだけではない。相互扶助型のIIF活動は、結果として、工事における品質向上と生産性アップの効果を生み出した。それは、皆が自分の仕事の意義を理解し、また周囲と協力しやすくなったことから生まれた結果だろう。

IIF活動は、人を人として遇することの大切さを、わたし達に教えた。目の前の労働者を、無名の、いつでも取り替えのきく存在として見るのではなく、名前もあり家族もある一人の人格=対等な仲間として遇すること。中東の現場を終えて数年ぶりに帰国した幹部が、「あの活動に取り組んで良かった。この歳になっても、まだ学ぶことがあるんだと分かった」といっていたのが印象的だった。

こうした、異国の途上国の労働者を「対等な人として遇する」点は、日本企業の方が、欧米系よりも自然にできるかも知れない。日本人に差別意識が薄いなどと言うつもりはないが、 社長も平社員も同じ食堂で食べる日本企業の文化(少なくともわたしの勤務先は、社員食堂がある時代はそうだった)に、現れているのではないか。1950年代のアメリカ映画「アパートの鍵、貸します」には、「役員専用のトイレ」の鍵というものが、象徴的に出てくる。役員専用のトイレなどない企業の方が、現場労働者を人として扱う『人間主義』に近いのではないか。
だが、物事にはつねに、両面がある。日本企業の人間主義には、マイナスの面もある。

最近、聞いた話だが、現場改善や経営指導に長い伝統のある某団体が、企業向けに各種研修セミナーを行っている。ところで、その頂点に当たる経営者用コースの内容というのが、たとえば「禅の心」とか「先達の型の伝承」といったテーマであり、人心掌握が中心であるという。そういう話が、企業経営者には人気があるらしい。つまり、経営とは人だ、という認識が広くあると言うことだ。

経営は人なり。なるほど、確かにそうなのだろう。だが、それをもう少し延長すると、どのような認識を生み出すか?

いうまでもない。仕事で良い結果が出たのは、人が優秀だったおかげ、結果が出なかったのは、人がダメだったため、という説明が生まれてくる。仕事のパフォーマンスを決める要因には本来、外部環境もあるし、技術も仕組み(システム)もツールもあるはずだ。組織のルールもまた、制約条件の一種であろう。だが、そうした他の要因は捨象され、すべては、個人の人格だか人徳だかで説明されてしまう。これもまた、ある種の「人間主義」である。

経営は人なり、という認識からは、当然ながら「経営者の使命は、すぐれた人物を見いだして育てること」という方針が出てくる。そこには、組織を安定して進めていく仕事の『仕組み』(システム)をつくること、という課題意識が抜けている。

また、その経営セミナーの話は、かつて書評した、日経文庫の「はじめてのプロジェクトマネジメント」(近藤哲生・著)をも想起させる。本を読んで驚いたのだが、そこにはWBSもなければクリティカル・パスの説明もなく、EVMSも見積手法論もない。いわゆる近代的PMの技術論は一切無くて、いきなりプロマネの心構え論になってしまう。そしてひたすら説明されるのは、部下のモチベーションと掌握と問題解決への心構え、といった話だった。でも何より驚いたのは、その著者が日立の情報通信部門のベテランだったという事実だ。うーむ。そういう人間主義の会社だったんだ、と感心(?)した記憶がある。

上記の経営セミナーの話をわたしにしてくれた人によると、英国と日本では、歴史教育に大きな差があるらしい。英国の歴史教育では、たとえば「産業革命」という事象を取り上げて、何がそれを可能とする条件なのか、なぜイギリスは世界に先駆けて産業革命を経験することになったのか、それによって及ぼした社会への影響は何か、といった構造的な説明がなされる。そして、その説明にはあまり固有名詞が出てこないのだそうだ。

ところが、日本の歴史のテスト問題というのは、年号と人名の暗記問題である。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明、ついでスティーブンソンが蒸気機関車を開発、といった事は覚える。だが、産業革命一般とはどのような事象であるのか、どの国・どの社会で早く発生し、遅れたのはどのような地域だったか、といった、大きな歴史構造はよく分からぬままの場合が多い。大きな社会変化が起きるにはそれなりの条件が必要だ。だが、まるでワットとスティーブンソンという有能な個人たちの出現が、それを可能にしたかのような歴史像しか頭に残らない。それは明治維新などをめぐっても似たような認識になる。西郷隆盛やら勝海舟やらの大人物が織りなす、点と線としての物語。

人と人とのドラマが、世界を動かしている。経営とは人である。仕事の成果を左右するのは、個人の能力である・・このような人間主義の世界観で、何がまずいか。それは、仕事の能力の「移転ができない」ことである。

知識・技術というものは、基本的に移転可能だ。文字にして伝えることができるし、ツールを作って渡すこともできる。だが、個人に内面化された技能を他者が継承するには、長い時間をかけるしかない。そのために、徒弟制度風のOJTを重視する組織は多い。それでも、昭和世代と平成世代の間のギャップ問題は、どこでも悩みの種となっている。

また、移転に時間がかかるということは、異なる製品やプロジェクトの間での、教訓(L&L)の学びが効きにくいことを意味する。もちろん、海外工場をつくっても、すぐに仕事を移転できない。つまり、組織としてスケーラビリティがないということだ。

そして、現代の世界市場規模での競争において、スケーラビリティがないことは、企業にとってほとんど致命的である。少なくともわたしの見る限り、欧米系ではどうやって仕事をシステム化し、展開可能とするかに、かなり注力している。だが、こうした危機意識が、わたし達の社会には非常に希薄だ。個人の能力(技能)を、科学の力を借りて客観化し、それを技術として移転する、という基本的な発想が、エンジニア達にも欠けているとしか思えない。そうした例は、ゲーム開発の分野からスポーツまで、あちこちに転がっているというのに。

労働者一人ひとりを、人間として遇すること。そのことが、仕事へのオーナー意識を生み、「やらされ感」で働かされるよりは、ずっと高いパフォーマンスを示す。これが人間主義のポジティブな面だ。だが、それをずっと延長していくと、「経営は人だ」「すべては人間の技能と気持ち次第だ」という認識が出てくる。かくして、技術やシステムの軽視、スケーラビリティの喪失が起きる。これが人間主義のネガティブな面だ。しまいには、竹槍でB29戦闘機と戦おうとする、奇妙な精神主義にまで至るかもしれない。

わたしは二つの違うものを、無理やり一つに並べているのだろうか? もし、どこかに断絶点があるなら、教えてほしい。だが、もしそうでないなら、わたし達の社会の人間主義には、両面があることを、意識すべきなのだ。



by Tomoichi_Sato | 2018-02-14 23:48 | ビジネス | Comments(0)

サービス業の生産性と、プロ意識との関係について


久しぶりに首都圏に大雪が積もったので、いつもより朝早く起きだして、家の前の雪かきを、ささやかながら行った。既に空は晴れ上がって、少し働くと汗が出る。「雪の明日は裸で洗濯」と言う諺を思い出した。東京の下町、荒川生まれの人に教えてもらった言葉だ。関東では主に2月や3月に雪が降るが、降った翌日は良い天気になることが多い。

雪かきという仕事は相互的だ。お互いに、ちょっとずつ汗をかく。そうすると通り道ができる。隣の家がやらないんだから、うちもやらない、などと言っていた日には、街の中はちっとも歩けなくなる。家の前は公道なんだから、雪かきは行政がやるべきだ、なんて批評して待っていても、問題は解決しない。

まだ公共交通機関もうまく動いていないのに、積もった雪の轍を急ぎ足に出かけていく勤め人の人達も多い。どうしても時間通りに職場に着かなくてはならない立場なのだろう。サービス業的な職種の人達かな、とふと思った。とくに9時-17時といった時間枠を決めてサービスを提供する部門なのかもしれない。私の勤務先だってエンジニアリング会社だからサービス業だが、設計的な仕事はもう少し時間の融通が利く。

ユーティリティー的なサービス業の辛さについては、3·11の直後に「休めない人々」http://brevis.exblog.jp/14417945/ と言う記事で書いたことがある。ユーティリティーとは、電気・水・通信・交通など、常に供給されているのが前提となる、都市のインフラサービスである。

もともとサービス業の定義とは、リソースを提供する仕事である。『リソース』とは、仕事において必要とされ、その活動の間は占有されるが、活動が終わると解放されて、他の用途にまた再利用できるもののことを言う。金型・ツール・作業場所とはリソースである。コンピュータもリソースだ。また働く人も会社にとってのリソースである(Human resourceと英語では呼ぶ)。日本語では経営資源と呼ばれることもある。

例えばホテルは部屋と言うリソースを宿泊客に提供する。交通機関は移動手段を提供する。通信会社は回線を提供する。これらは皆、サービス業だ。また床屋や、マッサージ屋は人による作業を提供する。サービス業は大きく、物的リソースを提供するものと、人的リソースを提供するものに分かれる。

電力や水は、実際には消費されるが、常に供給され続けていつでも利用可能だと言う点で、こうしたリソースに準ずる。ユーティリティーがサービス業の一種なのも、この所以である。

こうしたユーティリティ的サービス業のつらさは、それがいつも提供可能であると利用者が信じているところにある。だから供給が途絶すると、ひどく怒られる。提供している間は、皆が当然だと思って誰も何も言わない。怒られはするが、感謝されない。そういう仕事だ。

特に最近は、消費者の立場になった途端、突然居丈高になる人も多い。お金と引き換えに、他人を気楽に批評し、一方的に要求する立場を、手に入れたと思っている。モンスター・クレイマーと呼ばれる人たちも増えている。それはわたし達の社会において、プロフェッショナル精神が衰弱していることの表れだと思う。売り手ではなく、買い手側のプロ意識が、である。

世の中には、単にその仕事で給料をもらっているから、「俺はプロだ」と思う人が沢山いる。だが、英語のProfessionalはもう少し条件が厳しい。通常、それは知的な仕事であって、それなりの教育と収入を伴う。たとえば医師とか弁護士とか、牧師とか、建築家とかだ。何より、高い職業意識を持つことが資格である。

でも、わたしはプロフェッショナルという言葉を、何も高収入の職業だけに限定するつもりはない。技術者だってお菓子職人だって、きちんとした職業訓練と能力をもち、プロ意識を持って行動する人が、プロフェッショナルだと考えている。

年末、都内でタクシーを拾って四谷駅に向かった。四谷駅は交差点にあるが、JRと地下鉄で入口が確か違っていたように記憶していた。そこで「丸ノ内線の四谷駅に行ってください」と頼んだら、運転手は「地下鉄に乗ったことがないので、駅が分かりません」などという。そしてJRの駅前におろされたのだが、そこから交差点を渡って回り道をしなければならなかった。

だが、そんな妙な言い訳があるだろうか。客の望むところに連れて行くのが、プロフェッショナルの仕事ではないのか。自分に小さな子どもがいなかったら、「○○小学校へ」と頼む客に、「分かりません」というのだろうか? 待ち合わせた連れ合いに、遅れた詫びを言い、タクシー運転手について文句を言ったら、「近頃はプロ意識がない人が多いの。ただ会社に使われるだけで、ちっとも将来に良いことがないから」という。思わずうなってしまった。

プロフェッショナルは、自分の職業的能力をつねに磨こうという意識をもつ。プロフェッショナルは単なるワーカーではない。ワーカーとは、言われた通りのものを作る人、言われたことしかしない人たちのことだ。またプロフェッショナルは、アーティストでもない。芸術家は自分が作りたいものを作る。プロフェッショナルは依頼に基づき、作るべきものを作る。ただし依頼に対して、自分の考え・意見を持ち、それを提案する。「言われたことだけやる人」の反対である。「やるべき事をやる人」といってもいい。

プロフェッショナルは、基本的にサービス業である。能力を売る人だから、当然だろう。特定のモノや成果物を売るのではない。医師は患者の回復を保証する訳ではないし、弁護士は顧客の勝訴を売る訳ではない。ただ、リソースとして、彼らの信頼するに足る能力を売っているのだ。どんな場合でも、つねに80点以上の仕事をする、というのがプロフェッショナルである。そこは、できばえにムラのある天才と違う。安定性と信頼を売っているのだ。

プロフェッショナルになるには、かなりの勉強と継続的学習が必要である。大学出であることが多いが、必須ではない。むしろ、社会に出てからの学びの方が大切だ。

そして、プロフェッショナルは、他の分野のプロフェッショナルを尊重する。なぜなら、専門知識というものの幅や深さを知っているし、一人前の職業能力を得るのがいかに大変か、熟知しているからだ。それを知らない人、プロ意識のない人ほど、他人の仕事に口を出したがる。わたし達の社会で、サービス業へのクレームが多くなる理由が、ここにある。

なお、元々、西洋の概念におけるプロフェッショナルは自営が基本だ。医師・弁護士・建築家など、皆そうだった。英米ではエンジニアという職種もプロフェッションの一種であり、実際カナダでは技術者は労働組合に入れない。ワーカーではないからだ。

だが現代では、専門性を持つプロフェッショナルの多くは、組織人である。たとえばエンジニアという職種は一人だけで仕事を完結できず、多の人たちとの協力連携が必要だ。まあオーケストラの音楽家のようなものだ。だが、このことが、いろいろな混乱の元となっていると、わたしは思う。たとえば、仕事はプロフェッショナルの流儀に従うのか、会社の慣習に従うのか。プロ意識が優先すべきなのか、それとも会社員の帰属意識が優先するのか?

プロフェッショナルの概念と行動規範(倫理)について、最初に議論したのはギリシャ人だったろう。それ以降、いろいろな要件があげられた。たとえば、次のようなことだ:

(1) 真実を尊ぶ(顧客に嘘はつかない。信頼が資本だから)
(2) 自分の美学を持つ
(3) 持論を持つ(思想とまではいかないにせよ)

こうした行動規範に従う代償として、社会的な尊敬を得るのである。そしてプロフェッショナルは自分の職能集団の、社会的な信用を守るのだ (自社を守る、ではなく)。

しかし、現代の企業には、経営思想にもよるが、「一部のスーパーリーダーが決めた仕組みに従って、ただ言われた通りのことだけやる人」を求める傾向がある。一方、プロフェッショナルは自分でやり方を工夫改良し、人にも教える。マニュアル通りにうごき、消耗したら部品のように交換可能な人、ではない。

単なるワーカーはプロフェッショナルではない、と書いたが、もう一つ、プロフェッショナルに程遠いのは、「お役人」である。ここで言う「お役人」とは、公務員と言う意味ではなくて、官僚主義者のことだ。常に権力や規則を振りかざして、人を従わせたがり、また序列の上に上がることばかりを考える。そういう官僚主義者は、民間企業にも多い。

彼らは2、3年ごとにポジションを変わって、ジェネラリストとして管理職に上がると言うキャリアパスを生きる。ふつう1つの職業的能力を得るのに、少なくとも10年はかかるはずだが、彼らはそうした成長への労力を、1つの専門分野につぎ込んだ経験がない。だから他人の能力に対する尊敬心も薄い。彼らが頼りにするのは、自分の能力ではなく、組織の中の自分の職位である。名刺の肩書きで仕事をしたがる。

「ワーカーになれ」というトップダウン式の淘汰圧力と、「上に行きたければジェネラリストになれ」という組織の論理にはさまれて、プロフェッショナルの領域は狭まってきている。プロフェッショナルを目指すとは、実は「業界で通用する人間になる」=「転職できるように自分の価値を上げる」だから、日本企業にとってはそもそも、両刃の剣なのだ。あまり皆に、プロ意識など持ってもらいたくないという気持ちが働く。

それでも、プロ意識を持ちつづけて仕事をする人たちだって立派にいる。彼らが、他のサービス業者に対して臨む態度は、平凡なワーカーやお役人達と、どこが違うのだろうか?

それは、「サービスとは相互的なものだ」との理解を持っている点である。サービスは、人的なものであれ物的なものであれ、信頼の上に成り立っている。その信頼は、じつはサービス提供者だけが責任を負うものではなく、相互信頼に基づくものだ。

サービスの利用者は、自分が何を望んでいるか、きちんと理解して、伝えなければならない。そうでないと、相手は適切に動けない。そして利用者は、自分の要求と、自分のやる行動とが、ちゃんと整合性・一貫性をもたなければならない。相手が口で言うことと、相手の手が求めていることが異なっていたら、何を提供すべきかわからないではないか。プロ意識のある買い手は、この点をきちんと心得ている。

そのような意味で、サービスとは協業なのである。売り手はプロフェッショナルとして、最良のサービスを提供する。買い手は、売り手の能力を最善に引き出せるよう、自分の過度な要望を制する。そして相手のやり方を尊重する。とくにサービスが不定型なものになればなるほど、相互性の度合いも増す。

サービスを買う側と提供する側は、対等である。この「対等」という概念も、現代ではとても誤解されやすい。対等とは、単なる「平等」のことではない。必要に応じて、フェアに、応分の義務を負うという意味だ。高速道路を利用するドライバーは、高速の運転ルールに従う。医師が指示したら、患者はそれに従う。金を払ったのだから、後は何をしても勝手だ、とドライバーや患者が考えるのは賢い態度ではない。もちろん、提供者は報酬をもらう以上、適切な品質の道路や治療を提供する義務がある。

道路や医師のたとえならば誰にも分かりやすいのに、設計や開発やユーティリティ提供などのサービスになると、すぐ忘れられてしまうのはどうした訳か。命じれば何でも出てくる、と思う人が増えると、サービス業全体の生産性が損なわれてしまう。それが、わたし達の社会の問題なのだろう。

サービスとは、いわば「雪かき」のようなものである。誰もが応分に、少しずつ汗をかいて歩み寄る。そうすることで、通じる道ができる。そのような形で、わたし達の社会のプロ意識を再興する希望を、持てるだろうか? 通勤に急ぐ人たちの残した足跡を見ながら、わたしは魯迅の言葉を思い出していた。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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<関連エントリ>
 →「休めない人々」 http://brevis.exblog.jp/14417945/ (2011-03-12)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-24 23:54 | ビジネス | Comments(0)

シンプル化のすすめ

最近、勤務先のPCの環境を移行・再構築せざるを得ない機会があった。まあ、一種のお引越である。面倒な作業だが、このチャンスに、少しファイルやアプリの整理をはかろうと思った。PCを数年間も使っていると、いつのまにか、ローカル環境にも、不要なもの、使わなくなったものが溜まってくる。引越は、ゴミ捨ての良い機会でもある。よし、デスクトップもクリーンにしよう。自分の環境は、できる限りシンプルにしよう。そう、考えている。

いろいろな事を、シンプル化したい。最近はそういう気持ちが強くなった。その方がすっきりして、精神衛生にも良いし、集中できるからだ。

わたしは元々、整理整頓・お片付けがそれほど得意ではない。机の上は、ほっとくとすぐ乱雑になってしまう。読んだりファイルしたりしなければならぬ書類が、どんどん積み上がっていく。そのあげく、書類探しで余計な時間を費やすことになる。忙しいから書類整理の時間がとれない、と自分では思っているのだが、その結果、生産性が下がって、さらに自分を忙しくしているのだ。こういうことを何年間も繰り返し、さすがに「このダウン・サイクルから抜け出すべきだ」と思った。

一つのきっかけは、ある方からのEメールだった。

わたしは経営企画部門の仕事をしているため、回ってくるメールの情報量が多い。わたしでこれなら、本物の経営トップの所には、さらに大量のメールが入ってくるに違いない。

ところで、昨年、ある日本でも指折りの大企業のトップに、直接メールする機会があった。そうしたら、数時間以内に当人から短い返信が返ってきて、度肝をぬかれた。当然、秘書経由で2〜3日後に返事があるんだろう、と想像していたからだ。

その後、ご本人に実際にお目にかかる機会があったが、その頭の回転の速さ、視点の戦略的なことに、また印象づけられた。だからこの会社は、低迷する同業他社を尻目に、業績を伸ばしているのだろう。それにしても、本当に仕事ができる人は、ボールをすぐ相手に打ち返して、自分のコートに止めておかないのだだな、と思った。それなのに、はるか格下のわたしが、何日も遅れて返事するのは、まことに恥ずかしいと肝に銘じた。

そこで、最近わたしが取り組んでいるシンプル化のやり方を簡単に記しておこう。けっして偉そうなことは言えないが、多少なりとも読者諸賢の参考になるかも知れない。

まず、モノのシンプル化である。

自分の持ち物は、自分なりに、ずいぶんと減らした。自分が好きで、大事なものだけを手元に残すように心がけるようになった。たとえばワードローブには、自分が気に入った服だけが並んでいる。引き出しには、いつも使う気に入りの文房具だけが入っている。こういう状態が、理想だ。

ベストセラーになった近藤麻理恵・著「人生がときめく片づけの魔法」には、不要なものを捨てる際のテクニックが、いろいろ書いてる。この著者によると、片付けの際は、自分が持っている服を、全部、床の上に並べろ、という。つまり在庫を一望できる状態に「見える化」するのだ。服全部だと多すぎる場合は、カテゴリー単位に、たとえばシャツなり上着なりを、全部棚から出してきて並べる。その上で、一つひとつ手にとって、「ときめく」かどうかを感じろ、という。ときめかなくなったものは、感謝した上で、捨てろというのだ。いかにも感性が女性的だが、とても面白い。

自分もそれにならって、いくつかのカテゴリーについて思い切った整理を行った。さて、モノが減って少なくなると、なんにもしてないのに、自然と部屋の中が整った形になってくる。これは思いもよらぬ効果だった。

実際、いろんな沢山のモノに囲まれている生活よりも、大切な少数のものを長く使う方がカッコいい。学生の頃、聞いた話がある。ヨーロッパの人は、たとえば毛皮のコートなど、仕立て直して長く着続ける。ときには、親から子に引き継ぐのだという。その後、西欧の街で短いながら暮らす機会があったが、周りを見ていると、たしかにそんな感じがあった。

本当に良いものは、長く使える。値段が多少高くても、引き合う。だから質素な暮らしぶりの人達でも、仕立ての良い服を着ている。環境派の人はリサイクルなどを盛んに言うが、それよりも、長く使える良いものを買う方が地球に優しい。すごく安いけど、買ってすぐダメになってしまう衣類を手に、出張先でため息をついた。

ただし、シンプル化の目的は、整理整頓ではない。見た目が整うことは、むしろ副次的な結果だ。けっして、美意識のためにやっているのではない。また、通常思われているように、シンプル化できるかどうかは個人の性格の問題でもない。片付けられない奴はダメな奴だ、という風には、わたしは思わない。台所はゴチャゴチャだけど、ため息が出るほど美味しい料理を出す人だっている。美観の問題ではなく、その人の大切なモノがちゃんとすぐ出てくるようにすることが、目的なのだ。つまり、シンプル化は生産性向上の問題である。

まとめよう。
(1) モノを整理するときは、カテゴリー単位に在庫の全貌を見てから取捨選択する
(2) 気に入った良いものだけに囲まれて暮らす
(3) モノが少なくなれば、必然的に部屋は整う

モノの次は、タスクのシンプル化だ。昨年わたしはシカゴに行ったときに、有名なLeo Babuta氏のサイト"ZEN habits"を読み、あらためて作業をシングルタスク化して、単純化することの大事さに感銘を受けた。("Creating the Elegance of Simplicity & Focus in Your Work Day” https://zenhabits.net/elegance/
Leo Babutaの教えは、単純だ。
・一度に一つのタスクだけに集中する。できれば10〜15分間は中断せずに。
・PCでもスマホでも、一つのアプリだけを立ち上げる。気が散らないようにするためだ。
・ブラウザのタブも、一つを残して閉じる。もし必要ならば、ブックマークしておく。
・メーラーも、メールの読み書き以外をしているときは、閉じる。

メーラーについては、わたしもかつて「メーラーを閉じろ」(2008-10-18)なる記事を書いたことがあるので、同感だった。だが、Leo Babutaの徹底ぶりは、はるかに上をいっていた。ブログには、彼のiPhone画面がのっているが、その何もないシンプルさには驚嘆した。

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彼の場合、アプリは全部、一つのフォルダの中にしまってある(それは別の頁においてあるので、画面には見えない)。ではアプリの起動はどうするかというと、検索画面から起動するのである。iPhoneでは、フロントページから1スワイプで検索窓が出てくるし、最近使ったアプリのアイコンがその下に並ぶ。だから実際やってみると、複数の画面をめくっていくより、ずっと簡単で早い。

比較のために、普通のiPhoneのホーム画面をのせよう。誰のiPhoneかは、ご想像にお任せする(笑)。残念ながら、なんとゴチャゴチャしていることか! この手のアイコン・タイルが、さらに数画面も続くのだ。
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つづいて、Eメール処理のシンプル化にも取り組もう。モノのシンプル化に比べ、メールや書類は情報だから、取り組みがやっかいだ。

まず、毎日送りつけられてくる大量のダイレクトメールは、極力、すべて購読を止める。毎日、いちいち仕分けして捨てる手間とイライラを考えれば、元から絶つ方が得だ。

つぎに、メールはタイトルやプレビュー画面をざっと見て、以下の3種類に仕分ける:
A. アクションや返信が必須のもの
B. アクションはいらないが、仕事上、必読の情報を含むもの
C. 参考的な情報

BとCは、それぞれ「必読」と「後で読む」のフォルダに移す。インボックスに残るのは、Aランクのものだけだ。一つひとつ開けて、すぐにアクションをとる。開けたメールは、しかるべきフォルダに移す。こうして、インボックスは、極力、きれいな状態にしておく。

すぐ返信できないような内容のメールは、いついつまでに回答します、とまず返信しておいて、自分のToDoリストに期限付きでタスク化する。この方が、何も言わずに数日たってからアクション結果を返信するより、ずっとシンプルだし、相手にも感じが良い。

ここでのポイントは、ToDoリストの利用だ。メールボックスというのは、実は一種のタスクリスト(=ToDoリスト)である。そこには読むべき未読メールと、返信すべき既読メールが、着信時間順に並んでいる。だが、自分にとっての優先度順には並んでいない。ここが不便なのだ。

ところで、拙著『時間管理術 (日経文庫)』にも書いたとおり、ToDoリストをきちんと回す最大の秘訣は、一つのリストに集約することである。いくつものタスクが、複数の異なるリストに入っていたら、自分がやるべきタスクの全貌が見えない。だから仕事上であれプライベートであれ、すべてのToDoを一つのリストに集約する。自分には、1日に24時間しかないのだから、当然である。

ここでも、「持っているタスクの全貌を見えるようにする」が秘訣だ。タスクを全部、ToDoリストの形で、見渡す。それを優先度順に並べ替える。そして最重要なタスクから、一度に一つずつ、取り組んでいく。ToDoリストに転記する手間が面倒に思えるが、得られる効果の方がずっと大きい。

なお、Bランクのフォルダに移した未読メールも、それを読むタスクを定期的にToDoリストに入れておく。時間は30分から、1時間程度にとどめる。Cランクのフォルダは、気が向いたときに読めば良い。

まとめよう。
(1) 一度に一つのタスクに、集中する。最低でも10〜15分間は。
(2) 集中できる環境を作るため、余計なアプリは閉じる。メーラーの通知機能もオフにする。
(3) メールはToDoリストを併用して優先度をコントロールし、読んだら極力その場で返信する。

くどいけれど、シンプル化の目的は、美学でも整理整頓でもない。知的生産性を向上させることにある。なぜ、知的生産性を上げたいのか。それは、「落ち着いて考える時間」を手に入れるためである。


<関連エントリ>
 →「メーラーを閉じろ」http://brevis.exblog.jp/8779827/(2008-10-18)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-08 21:00 | ビジネス | Comments(0)

メーリングリストの登録受付を開始します

読者各位:

以前、本サイトの新着記事を配信するメーリングリストの予告をいたしましたが、ようやく設置の準備が整いました。

メールアドレスの登録フォームは、姉妹サイトである
 「マネジメントのテクノロジーを考えるhttp://mgt-technology.info
のトップページ左側サブメニューにある、「ニュースレター登録フォーム」をクリックすると開きます。
そこから、メールアドレス、氏名、所属を登録してみてください。
登録確認メールが発信されるはずです。

このメーリスは、Benchmark Emailというサービスを利用しています。今後、新しい記事はまず、こちらから発信していくつもりです。

なお、メーリングリストに登録いただいた方から、先着20名様に、わたしがこのサイトの記事から選んだ、

 『モノサシを疑え 〜 マイ・ベスト・セレクション

の電子ブック(ePub形式)を、お名前入りでさし上げます。
大勢の皆様の積極的なご登録を、お待ちしております。


佐藤知一

(追記:おかげさまで、先着20名の枠は1日を待たずに一杯になりました。
 早くお申し込みくださった方々には電子書籍を順次お送りさせていただきます。
 記事のメール配信自体は、いつ登録されても有効です。
 また、メールのみでの情報発信やご案内も考えておりますので、ぜひよろしくご登録ください。)


by Tomoichi_Sato | 2017-11-28 22:56 | ビジネス | Comments(0)

マネジメント・テクノロジーを考える場にようこそ

このほど、新しく「マネジメントのテクノロジーを考える」というサイトを立ち上げた。

新サイトの目的は、マネジメント・テクノロジーのための情報源とすることである。そのために、2000年4月からずっと開設運営してきたわたしのサイト「革新的生産スケジューリング入門」のコンテンツを、全面的に移行した。SCM・BOM・PM・ITなどに関わる数百の記事がある。これに加えて、個人的に書いてきた「気まぐれ批評集」なども移してある。

このサイトは、近いうちに、マネジメント・テクノロジーを学ぶコミュニティのためのプラットフォームとして、拡張していきたい。現在、わたしが主宰している『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』の「PM教育分科会」では、世に類例のない新しいタイプのPMトレーニングを開発中である。これに関連するフォーラムや、e-Learningなどを今後、立ち上げたいと考えている。とはいえ、こちらはまだ構想段階なので、現時点ではわたしの個人コンテンツ集の体裁になっている。

新サイト開設に伴い、さらに二つほどやろうと思っていることがある。

第1に、本サイト(brevis.exblog.jp)の最新の記事を届けるために、メーリング・リストをはじめるつもりだ。これにより、いちいち見に来なくても、新しい記事がお手元に届くことになる。

もう一つ。過去に書いた数百の記事の中から、マイ・ベスト・セレクションを選んで、電子書籍化することを考えている。もちろん、メーリング・リストに登録してくださった方々には、先着順で無料進呈するつもりである。詳しい案内は、また後日させていただこう。

ところで、タイトルに使った『マネジメント・テクノロジー』という言葉は、一般用語ではない。世の中には「固有技術」「管理技術」の区分があるが、後者のカタカナ版というつもりで使っている。管理技術のままでも良いのだが、「管理」という日本語は英語のManagementよりも曖昧性が高い上に、その高圧的なニュアンスを嫌う人も少なくない。そこで、英語風に言いかえたのである。

元々この言葉は、わたしの勤務先の同僚・秋山聡氏が使い始めたもので、わたしもお借りして使わせていただいている。だから、Googleなどで"Management technology”と検索しても、そのものズバリのサイトは、なかなか出てこない。○○マネジメント技術、たとえばdata management technologyといったものはヒットする。また、Management of technology(MOT=技術経営)関連のサイトは、いくらでもある。だが、わたしの意図するマネジメント・テクノロジーは、技術の経営とは全く異なる概念だ。

マネジメントという言葉は多義語だが、その中核には「人を動かす」という意味がある。人に働いてもらって、あるいは、人と一緒に動いて、共通の目的を達する。このための技術を、マネジメント・テクノロジーと呼ぶ。

人が働く場合は、通常、それにともなって情報や物のやりとりがある。したがって、物の数量、品質、置き方、動かし方、などにかかわる技術も必要だ。情報やデータのインプット、伝達、蓄積、処理などの技術も大切になる。

そしてもちろん、お金に関わることがら、つまり見積や予測、集計にも技術がある。また、時間に関わること、所要期間の見積、集計、納期の予測も技術の対象だ。なによりも、人の集団としての組織を、どうデザインし、統率し、成長させるかという大きな難しい課題もある。

こうした事柄に関する技術は、分野・業種にかかわらず共通性が高い。たとえば在庫理論はマネジメント・テクノロジーの一種だが、在庫しておく対象が、石炭だろうがPCだろうが、共通に使える。最近流行の言葉に、<競争領域>と<協調領域>という用語があるが、共通性の高いマネジメント・テクノロジーは、後者に属するといえるだろう。

ただし、こうしたマネジメントに関する知恵は、従来バラバラに存在していた。在庫理論、会計学、品質工学、情報システム、人材開発・・という風に。

大事なことは、そこに「システムズ・アプローチ」という心棒を通すことだと、わたしは考えている。時間・品質・在庫・コストなどの項目は、バラバラに存在し、バラバラに管理できるものではない。製造業のQCDをみれば分かるとおり、品質とコストと納期は、互いに関係している。品質を上げようとするとコストがかかり、低コストでやろうとすると納期が延び、と言う風に。互いに制約し合っていると言ってもいい。

その一番わかりやすい例が、プロジェクト・マネジメントだ。現代のPM理論は、1950年代に米国で生まれた。プロジェクトを、単位作業(Activity)のネットワークで構成される「システム」だ、と考えたときにモダンPMの理論と手法が誕生した。だから、上に述べたわたし達のPMトレーニング・カリキュラムでは、プロジェクトを「システム」だと実感することに重きを置いている。

そもそも、マネジメントの能力は、生まれつきの才能でもないし、「気合い」だけで増大する物でもない。技術(テクノロジー)によって増大する、という思想が、わたし達のよりどころである。ただし、人が持つ能力は、かなり移転可能な部分と、どうしても属人的な部分に分かれる。これを、ハード・スキルとソフト・スキルと呼ぶ。

ハード・スキルとは、技術と理論を中心とした、座学で習得しやすい能力である。これに対し、ソフト・スキルとは、問題解決や交渉力といった、繰り返し練習によって身につく能力である。

そして、この両者を支える思考と行動習慣の体系を、OSとよんでいる。2年前に上梓した拙著『世界を動かすプロジェクト・マネジメントの教科書』では、この考え方に立って、以下のような「S+3K」がOSとして大切だ、と表現した。

 S: システムズ・アプローチ
 第1のK: 言葉を大切にする(言語化)
 第2のK: 契約と責任を重んじる(契約責任制)
 第3のK: かならず計画を立てる(計画重視)

ちなみに第2・第3のKは、とくに海外プロジェクトで重要になる要素だ。しかし、PMの観点だけでなく、より一般的に、システムズ・アプローチを内部から支える要素をあげると、以下の3点を大切にする態度になるのではないか:

  • 言葉
  • ロジック(論理・法則性)
  • 記憶(経験・歴史)

これはたとえば、あなたが上司や顧客としていだきたくない人物像を考えると分かる。まず、言葉をぞんざいに扱う人たちは、正直、あまりありがたくない。言っている意味が通じない人、意味内容がすぐ変わる人、逆に、狡猾に言葉をすり替える人などなど。

二番目にこまるのは、ロジックを無視する人だろう。1+1を、3とか5にしろと主張する人。仕事のパターンや傾向、法則性を無視する人。そして何でも「気合いと根性」だけで押し切る人たちだ。つまり、論理を「面倒くせぇ」で片付ける人である。顧客として上司として、あまりお相手をしたくないタイプである。貴方の周囲でも、見かけることはないだろうか。

そして敬遠したい三番目のタイプは、記憶しない人たちである。つまり、過去の過ちをすぐに忘れる(忘れたふりをする)人、約束や主張をしょっちゅうクルクル変える人、記録を軽視し、なんでも記憶と印象だけに頼る人。こういう人達は、できればリーダーに戴きたくない。

さて、前述のPMトレーニングについては、すでに6月と9月の2回にわたり、研究部会の内部でボランティア受講者を募り、改良を加えてきた。順調にいけば来年初頭あたりから、お披露目できるだろう。そして、これはわたし達が考える、「マネジメント・テクノロジーとしてのPM」の最初のカリキュラムになる予定である。

このコースは、プロジェクト・マネジメントの「初級者を対象とする」というつもりで設計し、参加者を募った。ところで、最近気がついたのだが、この「初級」「中級」という概念自体、もう少しきちんと定義すべきだったようだ。たとえば世間のPM資格試験では、プロジェクト実務経験年数や時間数などに準拠しているが、はたしてそれは妥当なのか?

分科会の中で議論するうち、わたし達はもっと別の定義の方が、ふさわしいと気がついた。それは、以下のような簡単なものである。

マネジメント・テクノロジーにおける初級者とは、自分でなんとか実行することができる人を指す。言われたことをそのとおり実行する場合も、自分で考えてやってみる場合もあるだろう(もちろん、言われてもできない人は、入門以前である)。

これに対し、中級者とは、他人に教えることができる人を指す。すなわち、自分の関わるマネジメントの手順・技術について、言語化でき、また元となる理論や定石を理解しており、それを実例と共に伝えられる人である。

そして上級者とは、新しいやり方を開発できる人である。
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このように定義してみると、いろいろなことがすっきりする。たとえば、何年間、いや何十年間も、実務経験を積んでいても、人を教えることをせず、ただ「俺の背中を見て育て」という人は、まだ初級者なのである。その人の中で、やり方が言語化・定式化されていないからだ。その人自身は、マネージャーとして高い能力を、あるいは持っているかも知れない。だが、その技能が個人に属するだけなら、組織はその人のレベルを超えることはなくなる。

つまり、個人のテクニックは、いくら積み上げても、移転・共有可能な「テクノロジー」にはならないのだ。シニア世代の引退を控え、あちこちの職場で若手への「技術移転」が課題となっている。しかし、そもそも移転可能な形になっていないままでは、誰が受け取れるだろうか?

教えることは、じつは自分も学ぶことだ。教えるのが一番、勉強になる。それは多くの人が経験したことだと思う。もしかするとわたし達の社会は、年を経た、ベテランの、しかし初級者ばかりでできているのかもしれない。

せめてわたし達は、はやく中級者になろう。


by Tomoichi_Sato | 2017-10-20 08:21 | ビジネス | Comments(2)

能力評価のレベル0からレベル2まで 〜 組織を作る概念のシステムとは何か

生まれて初めて乗った飛行機は、アエロフロートだった。大学院の修士課程をでる前の3月、わたしは一人で卒業旅行にでかけた。まだ旧ソ連の時代だ。旅行の行き先はドイツとスペイン、そして英国。モスクワ経由でフランクフルトに向かい、ドイツ中部の家々の屋根の色を見下ろしたときの印象は、今でも鮮明だ。ドイツでは父の元・部下で、当時フランクフルト近郊の現地法人で働いていたNさんに、いろいろとお世話になった。スペインでは、マドリードにあった父の会社の取引先の方が一緒に夜、食事をしてくださった。今考えると、いくら取引先のキーマンの息子だとは言っても、取るに足りぬ生意気な若造のお相手をしてくれた訳だ。まことに頭が下がる。

行く先々で聞かれた質問が一つあった。「なぜ、お父さんの会社に行かないのですか?」という質問だ。ドイツでもスペインでも現地の人に聞かれた。わたしにはむしろ、「へえー、ヨーロッパ人って、そういう考え方をするんだ」と新鮮な驚きを感じた。家業ならいざ知らず、父は会社の役員だったが社長でも創業者でもない。親と同じ会社に入るなんて、むしろ古くさい、前近代的な考えだと思っていた。だから合理的近代人である西欧の人達が、そんな風に思うことが意外だったのだ。

前回、「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ で、“生まれつきリーダーは決まっている”、という観念でできている組織(たとえば同族会社など)は、レベル0だと書いた。だが、誤解しないでほしい。わたしは同族企業をすべて批判しているのではない。すぐれた業績を上げている同族企業を、わたしはたくさん知っている。とくに英明で優れたリーダーが社長職を継いでいるところは、大胆な決断もスピード感を持って下せるし、従業員からも尊敬されていて、立派な組織が多い。

レベル0という位置づけは、ポテンシャルの基底状態、つまり一番自然に発生し、そこから出てもまたその位置に戻りやすい状態を指している。「リーダーとなるべき人は生まれつき決まっている」という観念は、組織づくりの設計思想としては、レベル0=出発点だ、ということを申し上げているにすぎない。事実、歴史を見ると、古代にはこうした考えでいろいろな制度が設計されていた。そして、それなりに機能していた。

ただし、当たり前だが、レベル0のままでは組織の維持に差し支えるような事態も、起こりうる。オーナー社長の残した一人息子が暗愚で、かわりになる子どもが親族にいないとか、いても嫁に行った娘だった、といった話はいくらでもある。こうなると、お定まりのお家騒動だ。すぐれた同族企業が沢山あるのは事実だが、すべての同族企業が素晴らしい訳ではない。

逆に、レベル2の組織では「基準とルールを作って組織を動かす」と、『マネジメントのレベル0からレベル2まで』 http://brevis.exblog.jp/26064558/ では書いた。しかし、こうした組織が全て素晴らしい訳でもない。基準とルールを定めて人を動かすのは結構だが、ルール本来の目的が忘れられ、単に維持することが自己目的化することもある。そうした組織ではしばしば、官僚主義と大企業病が跋扈するようになる。すると、大きな環境変化への適応不全が起き、「ヒーロー待望論」と共に、レベル0の組織まで一気に縮退することさえある。

だからこそ、ルールというものは、それ自体に定期的見直しと改良がビルトインされなければいけない訳だし、マネジメント・システムを組み上げるポジションには、マネジメント能力の高いものを配置しなければならない。レベル2のマネジメントには、レベル2の人材配置が必須なのである。だが、そもそもマネジメントの能力とはどのような性質のものなのか。いや、ことはマネージャー職にとどまらない。いやしくも適材適所を実現するためには、いろんな種類の能力が、うまくアセスメントし評価できなければならないのだ。

ここで、「能力評価」に対する、3つのレベル分けを定義しよう。

レベル0: 能力は生まれつきでほぼ決まる
レベル1: 能力は素質に加えて、「やる気」が大切である
レベル2: 能力は素質・意欲に加えて、知識・技術・不断の訓練で成長する

能力は生まれつきの素質やセンスで決まる、という見方は、素朴な出発点=レベル0である。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という言い方は、世間でもネットでもよく見かける。こういう風に発言すると、 クールでカッコよく聞こえるのも確かだ。部下の能力を即座に峻別し、ダメな奴からカットする上司。「お前はクビだ」というセリフで有名になったお金持ち。ただしこうした人びとは、部下(=人的資源)とは自分の所有物ではなく、組織や社会からの借りものだ、という事を忘れている。でも、その話は脇に置いておこう。

レベル0の能力観において重要になるのは、持って生まれた素質の選別である。これに対し、レベル1では、本人の意欲・やる気を重視する。多くの人が好むスポーツや競技もののストーリー、とくに昭和時代に隆盛した「スポ根」ものは、こういう能力観をベースにした説話である。最近読み直した’90年代の人気マンガ「ヒカルの碁」(原作・ほったゆみ)の第1巻では、主人公のライバル・塔矢アキラがまだ幼少の時、父である塔矢名人と会話する。

「お父さん、ボク、囲碁の才能あるかなあ」
「ハハハ。それがおまえにあるかどうか、わたしにはわからんが・・
 そんな才能なくっても、おまえはもっとすごい才能をふたつ持っている。
 ひとつは、誰よりも努力を惜しまない才能。
 もうひとつは、限りなく囲碁を愛する才能だ。」(p.150)

競技を愛して努力を惜しまなければ、必ず強くなる。これが少年マンガの中心テーゼだ。このテーゼは、人を努力に誘い、打ちのめされた人を再び奮起させる点で、たしかにレベル0よりも上である(もっとも「ヒカルの碁」の塔矢アキラは、誰が見たって生まれつき卓越した素質の持ち主だが)。レベル0の考え方では、基本的に人には、あまり努力による伸びしろがない訳だから、誰を選抜するかが評価の中心になる。

日本の教育制度(と称しているもの)は、じつは選抜のシステムである。教科書的知識を教え、それを選抜の基準とする。だから記憶力が良くて、出題者の意図を読むのが達者な人間ばかりが、引き上げられる。そして若いときに一度選抜されれば、パスポートは一生有効だ。そういう制度を持つわたし達の社会は、ほぼレベル0の論理で動いていると言っていい。予備校は、「意欲重視」のレベル1を、(集客と宣伝のために)あえて掲げているかもしれないが。

では、レベル2は? それは、成長を加速するための装置として、知識や技術があり、さらに繰り返し練習することによって、能力は深まる、という考え方だ。素質ややる気が不要だ、と言っているのではない。とくに訓練の努力には、熱意が不可欠だ。素質のある者は、訓練のスタート地点がかなり進んでいる。でも、それだけでは不十分だし、効率がわるい。人の能力には、伸ばせる余地が非常に大きい。これがレベル2の能力観である。

さて、3回にわたって「マネジメントのあり方」「人材配置・昇進のやり方」「能力評価の考え方」について、3つのレベルを定義してきた。ところで、これらの3レベルは、互いに関係し合っている。

たとえば、「生まれつき」で配置・昇進を決める、人材のレベル0からはじめようか。その極端が、貴族主義であることは、前にも述べた。そこまでいかずとも、あまたいる候補人材の中から、傑出した者を少数、見いだして、多少の試練で延ばしてやれば、リーダーの後継者になる。こういう論理はよく見かける。ビジネススクールの教授陣でさえ、こんな考え方が多いと思う。

真に傑出した人間は、滅多にいない。まことに稀少である。そのことはわたしも認めよう。ただし、それが生まれつきの資質やセンスによるものかどうかは、異論がある。

でも、ごく少数の生まれつき優秀な人間と、圧倒的多数の魯鈍な愚民−−こういう対立図式で世の中をとららえる人は、案外多い。この種の人達は「帝王学」という言葉も、けっこう好む。すぐれた血筋の子弟を、幼少の頃からリーダーたるべく教育する方法、を指しているらしい。ただしその学的内容は不詳で、どこかに「帝王学会」なるものが存在する訳でもないようだ。学問と言うより、一種のロマンであろう。生まれつき優秀な種なら、水をやって日を当てればほぼ自動的に育って、花が咲くものと信じているのだろう。

ともあれ、優秀なリーダーはごく少数だから、後の者たちに対しては、全てを指示し決めてやらなければならない、と考えるのも道理である。つまり、

・リーダーは生まれつきで決まるものである
 (なぜなら)
・リーダーたる能力は生まれつきの資質である
 (ゆえに)
・リーダーは自分が全てを決める

という風に、概念が円環を描いて互いを支え合う構造になっている。
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似たような構造は、レベル1同士の間でも成立する。人はやる気と意欲で伸びるのだ、というのが能力評価のレベル1だ。やる気を引き出すには、互いに競争させるのが一番だ。だから組織をエリアや職能別に縦割りにして、リーダー候補たちをそこに割り当てて任せ、「結果を出せ」といって競わせる。これがマネジメントのレベル1。そうして、成果・業績でリーダーを昇進させる。人材配置・昇進のレベル1。とてもつじつまが合っている。

・能力ははやる気と意欲で伸びる
 (そこで)
・人に任せて、「結果を出せ」という
 (そして)
・業績で人を昇進させる

たとえば、組織を地域や職能で縦割りにして、たがいに損益やKPIを定めて競わせる、といった仕組みをとる企業は非常に多い。工場間も競わせ、その成績・順位に応じてボーナスまで決めるという噂の某自動車会社など、その典型かもしれない。競争原理こそ人を動かす、との信念なのだろう。
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レベル2ではどうか。能力は、マネジメント能力を含めて、知識・技術と練習によって伸びる。そこで、人材教育と実地訓練の仕組みを組織にビルトインしなければならない。実地訓練の途上では、個人の業績が不安定になることもあるだろう。だから、配置・昇進では、短期の業績ではなく、能力評価を基準にしたルールにしなければならない。

・マネジメント能力で人の配置・昇進を決める
 (しかるに)
・能力は知識・技術・不断の訓練で成長する
 (よって)
・組織は基準とルールを作って動かす
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このように、マネジメント・ポジション・能力の3種類の概念は、それぞれのレベルにおいて、互いを支え合っている。要素が互いに支え合ってできあがる仕組みを「システム」とよぶ。システムは、要素が変わらない限り、ある意味安定である。

人間集団が持つ、体系化され組織化された、思考と行動の習慣を、わたしは『OS』とよんでいる。Operating Systemであるから、システムだ。概念の世界にも、システムが存在することに注意してほしい。そしてこのシステムこそ、見えないけれど、いろいろな制度とふるまいをしばっている。

厄介なのは、レベル0はレベル0なりに、レベル1はレベル1なりに、安定であることだ。レベルを全体として1ランク上げるためには、概念、つまり人びとの考え方を、同時にあげないといけないことだ。無理に異なるレベルの要素を接ぎ木しても、システムは不安定になる。一要素でも劣化すると、全体がおそらく下のレベルに縮退しやすくなる。

たとえば、基準とルールでできあがった組織でも、リーダーの配置・昇進が生まれつきで決まりがちだと、人材教育が機能しなくなり、人びとのモチベーションと能力が下がって、機能不全に陥るだろう。あるいは、いくら能力に応じて人を配しても、そして教育の場をつくっても、リーダーが全て自分で決めるような組織では、部下の能力が活かされず生産性が下がるであろう。基準・ルールがあり、業績で人を昇進させても、技術開発と教育が軽視されたら、みるみる競争力を失うであろう。

わたしが(そして研究部会の仲間を含めたわたし達が)、マネジメントにはテクノロジー(技術)が存在し、それを学び練習する場が必要だ、と主張してきたのは、能力観が全体の中で一番弱い環だと思うからである。ルールも能力主義も、皆、良く知っている。だが、マネジメント能力が独立した能力であり、そこに技術も訓練もあるのだ、ということは、まだ常識化していない。そこを少しでも、強めたいのである。

卒業旅行で初めて訪れたドイツでは、Nさんにつれられてノイ・シュヴァンシュタイン城を見物に行った。「狂王」とよばれたバイエルン国王ルートヴィヒ2世が、19世紀末に建てた美しい城である。孤独なロマンティストで、中世伝説のマニアだった彼は、最終的に臣下に幽閉され40歳で死んだ。近代化を迫られるバイエルン国に、中世風の気まぐれな王様は、もはや足かせだった。「なぜ親と同じ会社に入らないのですか?」とたずねてきたドイツ人たちは、しかし、貴族による世襲だけではうまく行かないことも、良く知っていたのだ。少なくとも、国王を英明に育てる「帝王学」までは、持ち合わせていなかったのである。


<関連エントリ>
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」 http://brevis.exblog.jp/20592802/ (2013-06-02)
 →「人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26081033/ (2017-09-30)
 →「マネジメントののレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-10-07 23:37 | ビジネス | Comments(0)

人材配置・昇進のレベル0からレベル2まで

わたしが主宰する『プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会』では先日、「プロジェクト・マネジメントの1日研修トライアル」という催しを開いた。これは、わたし達の研究部会の中にある「PM教育分科会」というグループが、オリジナルに開発中の研修プログラムについて、希望者を募って“βテスト”を実施したものである。参加者がいるか心配だったが、幸いにも10数名の方が申し込まれ、休日を丸一日つかってわたし達の研修プログラムを体験し、有用性を検証していただいた。

その内容はまだ開発中のため、ここで詳しくは述べないが、社会人向けの、初中級者レベルのコースとして設計したものだ。もちろん世の中には、すでに多数のPM研修がある。だが、その多くはPMBOK Guideなどの知識を座学で学ぶ、資格試験対策である。あるいは逆に、ケーススタディの討議中心で、しばしばプロジェクトの火消しなどの題材を扱っている。だが、そもそも良きプロジェクト・マネジメントとは、火の手を起こさぬようにするためのものではないか。

わたし達は、知識・技法などのハード・スキルと、コミュニケーションや問題解決などソフト・スキルの、バランスの取れた研修プログラムの開発を目指している。とくに、プロジェクト全体の構造を俯瞰して理解する「システムズ・アプローチ」習得に、重きを置いて設計した。ありがたいことに、参加された方々のフィードバックは、こうした意図に沿った形で、前向きなものが多かった。

ところで、この一日トライアル研修の最後に、講師側のふりかえりを述べる機会があり、わたしはほとんど即興で次のようにお話しした。

「皆さんにとって、望ましいリーダー、ついて行きたいと感じるリーダー像とは、どのようなものでしょうか。わたしは、3つの条件があると感じています。

第一に、落ち着いていること、です。いつも落ち着いていて、何かトラブルが起きても、すぐ感情的になったり逆上したりしない人。わたしが職場で知っている、真に優秀なプロジェクト・マネージャーたちはだいたい、冷静で穏やかな人が多い。情緒的にupsetすると、正しく判断することができなくなるので、これが大事なのです。

二番目に、人の話を聞くこと、でしょう。ちゃんと下の者の話を最後まで聞いてくれる人。賛成してくれるかどうかはともかく、話をしやすい人。そういうリーダーの所には、良い情報もまずい情報も、上がっていきます。担当者による問題の抱え込みが起きにくい。そうすれば、プロジェクトに突然のサプライズもなくなります。

第三は、先が見通せること、ですかね。外部や環境の変化に反射的に対応して、右往左往するのではなく、ちゃんと先を見通せる人。こういう人にこそ、ついて行きたいですよね。

そして、こういった三つの事柄の前提として、一番大切な能力があります。それは、『事実を客観的・多面的に見ること』です。プロジェクトとは生き物で、しかも複雑な仕組みでもあります。それが今、どういう構造になっているのか、どういうインパクトがあると、どんな範囲に影響がありうるのか。そうした事実を、自分だけの希望や思い入れを離れて、客観的に、かつ多面的にとらえて理解すること。これがあるから、落ち着いていられるのだし、先を見通せるのです。そして、人の話をきかなければ、客観的・多面的に見ることもできません。

問題が起こったぞ! さあどうする、どうする・・といきなり騒ぐ前に、現実を見ること。それも複眼で見ること。そしてちゃんと数字の裏付けをもって見ること。そうした能力を身につける練習こそ、わたし達が目指していることです。」

ここに即興的にあげた3つの条件が、はたして適切なのか、他にもっと大事な条件はないのか、異論はあろう。そもそもプロマネ論とかリーダー論とか、世間では好んで論じられるテーマである。たとえば最初の「落ち着いている」にしても、普通だったら、「ものに動じない」「人間としての器が大きい」「大人物である」といった人物論になっていくだろう。

そして、「大人物とはいかなる者だろうか」「そう、たとえば西郷隆盛は・・」というような話につながっていきそうである。そういう会話も、もちろん結構だ。だが、人物論みたいなことをいくら論じられたって、それが貴方やわたしの、次のアクションにつながっていくだろうか? 人物の器量や性格は生まれつき、という事だったら、凡人で小心者に生まれたわたし(たち)は、どうしたらいいのか? ましてやプロマネに西郷さん級の大人物を要求されたって、それを各社何十人単位で用意できるものか。

ところで、少し前だが、「功ある者には禄を、徳ある者には地位を与えよ。」という言葉を、人事に関連して聞いたことがある。つまり仕事で功績を挙げた人間には、ボーナスなど報奨金で報い、上の地位に引き上げるのは、むしろ人徳ある者にしろ、という意味である。これはなかなか良い格言だと思った。

ちなみに、この言葉はまさに西郷隆盛の遺訓の中にあって、人に知られるようになったらしい。調べてみると、官は其の人を撰(えら)びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、云々という言葉があるという。ただしこれは元々、中国の古典である「書経」に、『徳懋(さかん)なるは官を懋にし、功懋なるは賞を懋にする。』からとられているようだ。

多くの組織では、人が昇進昇格するきっかけは、仕事で目立った業績を上げることである。営業マンなら大きな受注を、研究者なら画期的な発明を、技術者ならばすぐれた設計を認められて、組織の位階を上がっていく。そして人の上に立つ。

それと「目立つ」業績という点もミソで、たとえばプロジェクトが最初から最後まで平穏無事に進んだら、とても素晴らしいことなのだが、目立ちにくい。他方、大きな問題が生じて、それを大騒ぎして解決すると、とても目立つことになる。だからいつの間にか、「火消しこそプロマネの本領」みたいな通念が生まれていく。

ともあれ、2000年頃から、多くの企業で「成果主義」人事制度が導入され、業績と人事評価が直結するようになった。それはそれで、良い面も多かったのだと思う。年功とか性別とか学歴(大学入学歴)だけで、人が差をつけられるのはおかしいと、大勢が感じてきたからだ。ただ、その「成果」の定義をめぐって、いろんな議論や混乱も生じた。

おそらく一番よろしくなかった点は、人事査定において、人材の「配置・昇進」と「給料」の二つが、直列にリンクしていたことではなかったか。前回の記事にも書いたが、ほとんどの組織は、位階のシステム、つまりピラミッド型の形態をとっている。上の方にいくほど、人数は少ない。部下が多く、権限が大きくなる。そして収入が高くなる。

結果として、目立つ成果を上げた者は、より上位のポジションに配置され、大勢の部下をマネジメントするようになる。だが、本当に辣腕の営業マンは、優秀な営業マネージャーになるのか? 独創的な研究者は、すぐれた研究所長になるのか。緻密な設計のできるエンジニアは、卓抜したプロジェクト・マネージャーになるのか? 大きな疑問ではないか。

ボーナスの査定と昇進は、一緒のモノサシで測ってはいけない。給与と栄誉は区別しろ、と西郷南洲遺訓の「功ある者には禄を、徳ある者には地位を」は教えている。そう、業績と昇進を直結してはいけないのである。会社に利益をもたらした者には、金銭的に報いる。でも昇進は別に決める。

とはいえ、「」とは何だろうか。それを半期に一度の人事査定で、評価できるのだろうか。お前の部下の徳を5点満点で答えろ、といわれても、わたしは正しく評価できる自信はない。逆に「佐藤は有徳とは言えないな」と評価されるなら、まあ強くは反論できないけれども。

では、組織の位階の中で、人を上位のポジションにつけるには、何を基準にすべきか。それは当然、「マネジメントの能力」ということになる。

そして、「マネジメントは職域から独立した専門的能力である」という概念が確立していないから、わたし達の社会では人事に混乱が生じやすいのである。以前も書いたが、日本の官庁や多くの企業では、いろんな部署を経験させた「ジェネラリスト」をマネージャー職につける、という考え方が伝統的に強い。

だが、それはオーケストラにたとえれば、「最初はビオラを弾き、それからフルートに異動させ、第一バイオリンでコンサートマスターを経験させれば、指揮者になれるだろう」という考え方に近い。楽器の奏法(つまり専門職域の固有知識)を知っていることは指揮者に必要だろうが、十分条件ではない。指揮者は指揮者であって、指揮の専門の勉強と訓練が必要なのである。

ただ、かりに能力ある者を昇進させるという考えを認めたとしても、まだハードルがある。「マネジメントの専門能力」を測る方法を確立していないと、結局、その部署の全体の業績やらKPIで、マネージャーの能力評価を代用することになるのだ。そして業績というのは、短期的な環境条件によってブレやすい。だから結果として、運の良かった者を昇進させる、ということも生じやすい。

結局、人材配置・昇進のやり方には、3つのレベルがあることが分かる。

レベル0は、リーダーの地位を、「生まれつき」で決めるやり方である。たとえば家柄とか人種とかカーストとかで。「器量」「人物」で決める、という考え方も、これに近い(そういうのは生まれつき持っているものだ、というのが通念だから)。

これはまあ、たとえば古代の王様のように、古い考え方ではある。現代でも、同族会社などこのタイプかも知れない。ただし一定範囲なら、それなりに有効である。同族経営にも、すぐれた会社は沢山ある(トヨタ自動車だって、ある意味そうだ)。ただ、その有効性は、同族の中できちんとした評価・選抜が行われていることが条件になる。

レベル1は、功績を挙げた人間をリーダーの地位に就ける、というやり方だ。ただ、その危険性については、これまで述べたとおりだ。専門職域で有能だからといって、マネージャーとして有能とは限らない。名選手、かならずしも名監督ならず。むしろすぐれた専門家は、高い報奨で報いるべきである。その結果として、役員よりも年収の高い社員が出現したって、いいではないか。その逆にして、人を使えない専門家が上に立って組織を乱すよりは、ずっと良い。

そして人材配置・昇進のレベル2は、マネジメントの能力によって、ポジションを決めるというものである。いや、リーダーの地位だけではない。専門職域への配置だって、やはり専門能力と適性で決めるべきだ。そういうのを適材適所とよぶ訳ではないか。

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ただ、レベル2に達するには、マネジメント能力という概念がきちんと確立して、かつ、それを適正に測る方法が必要である。人事制度にそれだけの成熟度が求められる。とくにマネジメント能力は、短期的な成果だけで測ってはいけない。それは野球にたとえれば、一打席の出塁結果だけで、打者の技能を測るようなものだ。あるいは一試合の勝敗だけで、監督の能力を測るようなものだ。

人を評価するには、「待つ」時間が重要なのである。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 http://brevis.exblog.jp/24313514/ (2016-04-18)
 →「マネジメントのレベル0からレベル2まで」 http://brevis.exblog.jp/26064558/ (2017-09-22)


by Tomoichi_Sato | 2017-09-30 21:00 | ビジネス | Comments(0)