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講演(計装制御技術会議・11月1日)と論文記事執筆(経営システム誌)のお知らせ

(1) 講演のお知らせ

いつもながら直前のお知らせで恐縮ですが、来る11月1日に、日本能率協会主催の「計装制御技術会議 2018」で、日本の化学産業とプロセスプラントの変貌について、講演します。

これは3日間にわたる計装制御系の会議で、三日目の「スマート化で実現するプラントの未来像」の午後一番にお話しします。かなり専門的な技術分野の会議でもあり、また申込期限まで日数がありませんが、この話題に興味をお持ちの方はぜひご来聴下さい。

<記>

題目:「ディスクリート・ケミカル工場の設計論と 中央管制システムの姿

講師:佐藤 知一 (日揮株式会社 データインテリジェンス本部 DIプランニング部 部長)
日時:2018年11月1日(木) 13:00-13:40
場所:品川フロントビル (港南2丁目3-13, 東京都)

・参加申込み・会場アクセスは下記ホームページをご参照下さい。


(2) 論文記事執筆のお知らせ

日本経営工学会の「経営システム」誌・第28巻1号に、下記の論文記事を書きました。

佐藤知一:「生産システム,そのパラダイム・シフト
 経営システム, Vol. 28, No. 1, pp. 70-75 (2018) 

紙の学会誌は7月に発行されましたが、おそらく購読されている方は少ないと思います。同誌は一応、学会のWebでも公開されています(ただし閲覧には会員登録とパスワードが必要です)。

ただし、学会誌には「別刷り」という古き良き習慣があり、読みたい人には論文のコピーを配布することができます。わたしの手元にも多少の部数がありますので、講演を聴きに来ていただいた方には、希望があれば別刷りを進呈いたします。

ちなみに 元々この記事は、拙サイトに掲載した同名の記事である、
 『生産システム、そのパラダイム・シフト』 https://brevis.exblog.jp/27223637/ (2018-04-28)
を読まれた編集委員のリクエストで、論文記事の形式にしたものです。そして下の図も、載せています。学会誌ですから内容はもっと敷衍していますが、主旨は同じですので、興味がある方は上記のエントリもご覧下さい。

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(1)と(2)のいずれも、近年わたしがずっと主張している、「工場とは生産のための仕組み(システム)であり、その設計と操業には、システム工学の視点が重要である」という事柄を論じた点では共通しています。今年の経産省『ものづくり白書』でも触れられていましたが、「システム思考」の弱さが、今日の日本の製造業の苦境をもたらした原因の一つであると、わたしは考えています。それを脱却するにはどうしたらいいかが、目下のわたしの主要なテーマです。



by Tomoichi_Sato | 2018-10-23 22:32 | ビジネス | Comments(0)

従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について

その国には、住所というものがなかった。住所表記の仕組みがないので、場所を伝える時は、X市場の前とか、XXホテルの東隣3軒目というしかない。誰かに郵便を出すには、市の名前を書いて、あとは私書箱(PO Box)の番号をつける。だから誰もが、郵便を自分で取りに行くことになる。

その国の名前を、サウジアラビアという。初めて行った時には、ずいぶん奇妙に思えた。だが、毎日の生活は、普通に行われている。最近は、いくつかの市では通りの名前と番号による、欧米式の表記もされているようだ。だが、全国的ではない。カーナビがどうなっているのか、わたしは知らない。

そんなのはごく特殊で例外的な事例だ、と思われるかもしれない。のんびりしたアラブの途上国の、それも国土の大半が砂漠である国の特殊事情だろう、と。多くの日本人は、そんな風に思うかもしれない(現実のサウジはG20のメンバーで大国だが)。

さて。

その会社には従業員番号がなかった。すべては氏名でリスト化していた。

給与台帳も姓名の五十音順だった。部署の配属も昇進も、人事管理はすべて名前ベースで管理していた。PCのログインも自分の名前だ。

こんな運営している会社は、同姓同名がいたらどうするのか、結婚して苗字が変わったらどうするのか、と、はたで余計な心配をしたくなるだろう。

そんな企業はないって? 零細企業以外はありえない? では、先に進もう。

その会社には、製品番号がなかった。製品はつねに、製品の名前と仕様(の略号)でよばれた。注文書も、製品名ベースで営業部から製造に渡された。出荷伝票も請求書も同様。半期に一度の製販予算会議には、製品名がズラリと表に並んだ。

製品カタログはないのか? あっても、顧客はどう注文を入れるのか。また、仕様を少しだけ変更したくなったらどうするのか。よく注意書きにある「予告なく仕様を変更」の類いである。あるいは製品名を変えたくなったら? そうでなくても、長い名前だったら、入力だって不便だし、間違えやすいはずだ。
だからたいていの(まともな)企業なら、製品に管理番号をつけて、「製品マスタ」を作成する。製品に関する情報の台帳である。その台帳を見れば、重要な情報は、全て分かる。それは皆が共有していて、何か変更があったら、全員が共有できる。各人が勝手にメモを持って歩いているのではない。

製品番号がない企業なんて存在しないって? 今どき、よほどの零細企業でなければ、そうか。でも、もう少し先に進もう。

その会社には、取引先リストがなかった。つまり、顧客のリストだ。取引先は、企業であれ、個人であれ、すべて名前で区別していた。同じ名前の時は、住所を参考にして区別した。

これが不便なのは、いうまでもないだろう。

会社は勝手に合併したり、分社化したり、移転したりする。大きな企業だと、事業所ごとに別々に取引が発生する。さらに厄介なのは、代理店の存在だ。実際の納入先と、金銭の支払者が異なったりする。物流と商流のズレという現象である。取引先とは与信管理もしなければならない。あまり貸し売りをしすぎて、貸し倒れになったりするリスクを避けたいからだ。

取引先にどんなコードをつけて整理したらいいかは、悩ましい問題だ。でも、お金の取りっぱぐれがあってはこまるから、やはり普通はなんらかの会社コードをふって、リスト化する。していなかったら、奇妙だ。そう、思われるだろう。

でも、そうだろうか。まあいい、もう一歩だけ、先に進ませていただく。

その会社には、資材に品目番号(部品番号)がなかった。

設計部門は、製品組立図を作り、部品図に展開し数量を拾って、仕様とリストを資材に渡す。資材購買部門は、そのリストと図面を見比べながら、「30φの真鍮の丸棒」「シールXY123相当品」といった調子の、業界内なら常識的に通じそうな記述で、注文を出していた。受け入れた資材は、担当者が、どこの場所に置いたか記憶する。

こういう会社は、実は案外多い。結構な大手でさえ、見かけたことがある。

こんなやり方が非効率なことは、考えれば明らかだ。資材台帳がないから、何を合計いくつ買ったか、よく分からない。保管場所も、各人の記憶に頼っている。つまり、まともな在庫管理ができないということだ。

それでも通用する工場があるのは、そうした品目がすべて都度手配品で、あまり在庫が残らないような生産形態の時だ。いいかえると、個別受注生産では、これでも、かろうじて回っていく。ただ、とても属人的だから、担当者が辞めたら何がどうなっているのか、訳が分からなくなる。

まあ、ここまで極端でなくても、品目コードのかわりに、部品の図面番号(図番)で代用する会社は案外、多い。これができるためには、各部品に一品一葉の図面を起こしていることが、条件になる。一品一葉の図面は、良い習慣だ。だが、工場の製造工程を考えると、図番だけでは不便であることに気づく。同型だが材質違いの部品はどうするのか。あるいは、加工段階を追って、表面処理や熱処理が進んでいく部品はどうするのか。

いや、ウチの工場は、ちゃんと加工段階を区別できるように、品目コードをつけている、という企業もあるだろう。だが、たとえば、設計部門と工場が、同じモノを別のコードで呼んでいる場合は、けっこうある。設計部品表(E-BOM)と、製造部品表(M-BOM)が、乖離しているようなケースだ。この悩みは、あちこちで聞く。

中には、E-BOMとM-BOMの品目コードの対照表をつくって、ITシステムで読み替え処理をしているところもある。その対照表は、いつ、誰がメンテするのか。その表の品質は、誰がどうやって担保するのか。まことにご苦労様である。

マテリアル(品目)にコードをとり、台帳を作るのは、正確な情報を共有するためだ。個人の記憶のかわりに台帳があれば、仕事の品質も生産性も上がるのは、明らかだろう。だが、異なる部署で違うコードを使っていたら、それは情報を共有することになるのだろうか。

マテリアルには全社共通のコードはないが、取引先コードはある。そういう会社もあるかもしれない。だが、よくよく調べると、案外問題があったりする。たとえば、顧客コードと、業者コードと、振込先コードが、別々の体系になっているケースはないだろうか? 同一の企業が顧客でもあり仕入れ先でもあるケースは、ときどき生じる。だが、受注業務と、発注業務と、支払い業務とで、別々のコード体系を使い、同一の事業所を別々のコードで呼んでいる。おかしくないだろうか?

それでも製品コードはさすがに、普通の会社はもっている。だが、国内用と輸出用で、仕様が違うのに、同じ製品コードがつけられたりしている。部品表は、どう作って維持しているのだろう。社内の部署間では共通、業務でも共通、だが国が違うと別物、という訳だ。同じコードで別物を差すというのは、言い方を変えると、コードに重複があるということだ。

そして、従業員番号である。授業員番号のない企業は、珍しい。どこでもたぶん、持っている。部門間でも、全業務でも、共通だろう。だが、その番号は、親会社・子会社を通じて、グループ内でユニーク(一意)だろうか? 

よくあるのは、新しく海外子会社を作った。そこの人事系の仕組みは、親会社のやり方をそっくり真似た。従業員番号の桁数やコード体系も、そのまま真似た。おかげで、親子間でコードが重複してしまう、という問題だ。当然、同一企業グループ内で、そこに属する従業員全体の台帳が存在しない(作れない)ことになる。系列内で、人が異動や転籍になったら、どうするのか。こういう発想の企業は、グループ全体の人材については、ケアしません、といっているのに等しいではないか。

ITエンジニアは良く知っていることだが、コードというのは、たとえ1万件のデータの中にたった一つでも重複があれば、それは識別キーとして使えないのだ。つまり、それを頼りに、マスタは構築できない。だからこそ、コード体系をどうとるのかが、データの収集と同じくらい、大切な技術になるのだ。

コード体系の設計が技術であるという認識が、そもそもわたし達の社会では、とても薄い。これが、ITリテラシーの低さ、情弱社会を象徴している。ITリテラシーというのは、何もパソコンソフトを上手に使えるというような事ではない。そんな陳腐化しやすいスキルを学校で教えて、何が得られるのかと、わたしは思う。

それより、コード化の大事さ、コード設計の基本、データの体系化と分析の重要性を教える方が、ずっと社会のためになる。ここが、わたし達の社会のアキレス腱だからだ。

何かをコントロールしたかったら、コードをつけて、整理する。そしてリスト化し、台帳を作って、皆で共有する。コードは部門にも、業務にも、国にも、資本関係にも依存せず、いつもユニークである。そうしたことは常識であり、生産性の基本だと思うのだ。

サウジアラビアに住居表示がないのは、理由がある。あの国には今でも、結構な人口のベドウィン(ラクダ遊牧民)がいるのだ。遊牧民には、固定した住所がない。テントを持って、土地から土地へと移動する。だから連絡を取りたかったら、どこか決まったオアシス(現代なら郵便局)に手紙を預けておくしかないのだ。そういう国では、私書箱の番号がアドレスのキーになるのは、当然だ。

わたし達の社会は、少し違う。わたし達は、いろんな事がいやに固定的なくせに、数字や番号やデータには無頓着な社会に、生きている。その生きにくさの一部、生産性の低さのある部分は、ちゃんと整理番号をとって情報を共有できていないことから、生じている。わたし達はもっと、コード化に関するリテラシー、データに対するインテリジェンスの高い社会に、なるべきなのだ。


<関連エントリ>
 →「意味無しコードのすすめ」 https://brevis.exblog.jp/2615881/ (2006-01-29)

by Tomoichi_Sato | 2018-10-19 00:24 | ビジネス | Comments(0)

コンサルタントは何かの役に立つのか?

 ある日、白雪姫が森の中を歩いていると、5人のこびと達が座って、シクシク泣いていました。
——まあ! どうして、みんな泣いているの? それに、あと2人は、どこにいるの?
 すると、5人のこびとは答えました。
「コンサルタントのA. T. ○ーニーが来て、7人も要らないからって、2人リストラされちゃったの。」

・・いつだったか聞いた、アメリカのジョークである。ちなみに、特定の会社を批判するのが目的ではないので社名は伏せ字にしたが、A社は大手経営コンサルティング会社である。とくに、コスト削減のアドバイスで有名な企業だというあたり、皮肉がきいている。

経営コンサルタントという業種は、20世紀初頭から存在するが、以前の記事にも書いたとおり、米国で大きく伸びたのは1970年代からと言われる。なぜ伸びたかというと、少なからぬ大企業が、事業の再編成を強いられる状況になったからである。

「再編成」(Restructuring)は、日本では「リストラ」というカタカナ言葉に略され、首切り人減らしの意味で使われている。米国では全く違っていて、組織を再設計することであり・・といいたいところだが、結果としては、大量の人減らしを伴うのが普通だ。働いている人にとっての心配の種であることは、かわりがない。むしろ、米国では人のクビを切るのも割と簡単だから、よりシリアスだ。

そして経営コンサルタントの利用価値の一つは、この「組織の再編成」を、経営者のかわりに立案してくれる点にあった。基本構想を作り、組織案を練り、職種と人数を定め、どんなクオリフィケーション基準で残る者を決めるかを、きれいなレポートの形で提案してくれる。あとは取締役会で通すだけ。リストラの首謀者は、自分の手を汚さずに、人減らしを遂行できる。’70年代は、アメリカの製造業の曲がり角の時代だった。だから経営コンサルタントが繁盛するようになったのだ。

経営コンサルは首切りのために雇われる、というのは別にわたしの勝手な私見ではない。たとえば著名な経営学者C. N. パーキンソンは、「パーキンソンの成功法則」の中で、早くも'60年代に、こう書いている。

「ビジネス・コンサルタントの戸口に現れるお客は、次の二つのうち、どちらかの動機を持っていることがわかった。ひとつは、かれらがすでに決意している組織の再編成(=リストラ)遂行の身代わりを求めるためだし、もうひとつは、こういう再編成の生ずるのを防ごうとするためだ。」(P. 63)

「デトロイトのホースレス・キャリジ社の重役連中は、その幹部の半分をクビにし、残り半分に何か仕事らしい仕事をさせようと決定した。(中略)そして、自分たちの提起した再編成案を外部のコンサルタントに委ねることに同意した。(中略)コンサルタントが用いられるのは、コンサルタントにはその場でまごまごしている必要がないという利点があるためだ。かれはジェット機のドアに片足をかけながら、報告書を提出し、誰かが第一節(そこには協力者への謝意しか記していない)を読み終えぬうちに、2万フィートの高さまで逃げ出すことができる。」(P. 64)

パーキンソンらしい、皮肉に満ちた書き方だが、米英でコンサルタントがどう利用されたかを、見事に描き出している。もちろん、首切りだけではなく、本当に事業の再展開や、内部の遂行の合理化などを、まじめにアドバイスしたコンサルタント達も、大勢いたとは思う。彼らはとくに、新事業のマーケティングや、財務問題をうまく整理してくれただろう(その一端は、たとえば『世界一やさしい問題解決の授業』渡辺健介・著などに見て取れる)。

だが、英米の経営者にとって一番主要な機能は、こういうことだ:

1 外部コンサルタントは、首切りと社内政治に役に立つ


世の中に存在するのは、個別で特殊な会社ばかりだと、前回の記事https://brevis.exblog.jp/27520991/ でわたしは書いた。しかし、組織再編成の計画づくりは、その会社の業種や技術の特殊性にあまり依存しない。どんな会社にも人事部や営業部が存在し、部長社長といった職位が存在する。それを再設計するのは、分野を超えた共通性の高い仕事なのだ。だから、経営コンサルタントたちは、個別性の泥沼に足を取られずにビジネスができるのである。

ところで、日本の経営事情は、英米などとはだいぶん違う。まず、人のクビを簡単に大量には切れない(少なくとも、以前は切ることに抵抗が大きかった)。新規事業に人を採用するといっても、人材市場の流動性は少なく、大勢を短期間で採用することは難しい。

じゃあ、日本の経営コンサルタントは、どうやって仕事を確保してきたのか。その答えは、人材研修・社員教育ではないかと、わたしは見ている。残念ながら根拠となる統計調査データは示せないが、それなりに大手から独立個人まで、いろいろな経営コンサルタントと付き合ってきた中で得た感触である。おおざっぱにいって、中小規模のコンサル会社の仕事の半分以上は、じつは教育研修ではないか、とにらんでいる。

理由は簡単だ。日本企業のかなり多くが、人材育成で悩んでいるからだ。たしかに、社内に立派な教育の仕組みをつくっている超大手企業も存在するが、それはむしろ例外で、たいていの会社は、教育にまでは手が回らない。人を育てるとしてもOJT(実地教育)しかなく、つまり「俺の背中を見て育て」方式である。会社は教育機関ではないのだから、「即戦力」だけを採用しよう、と考えるところもある。だが昨今の人手不足では、それもままならぬ。

人材育成に共通する悩みとして、技術継承の問題と、ナレッジマネジメントもあげておこう。今後はシニア世代層の引退がつづく。しかし若年層は、そもそも人口が少ない。どうやって、先輩世代が蓄積した技術やノウハウを継承するのか。これもまた、広い意味の研修である。またナレッジマネジメントとは、経験したプロジェクトの失敗事例などから、教訓(Lessons & Learns)を、他の案件にも共有し、品質問題を避けることを目的としている。これも知識の移転だから、広義の研修に隣接した概念だろう。

そこで、経営コンサルタントが呼ばれる、という訳だ。

でも、なぜ、異なる企業をまたいで、研修ができるのか。業種分野が違えば、異なる知識が必要ではないのか? その答えは、人材研修に共通な課題があるからだ。一般の経営コンサルタントは、直接、技術や技能を教えたりしない。製品の設計の仕方や、旋盤の回し方をコーチはしない。そうしたことは、技術コンサルの仕事である。

経営コンサルタントが教えるのは、業種や分野をまたいだ共通性の高い知識、すなわち経営や管理にかかわる考え方である。わたしの言い方でいえば「マネジメント・テクノロジー」である。在庫管理の仕方は、それが日用雑貨であれ半導体であれ建材であれ、ほぼ共通だ。人事評価の方法論や、財務諸表の見方なども、会社の違いに関わらない。むしろ、積極的に他社と比較することが望まれる。そしてほとんどの会社員は、こうした事柄を、高校や大学で教わっていないのである。

ついでにいうと、日本のホワイトカラー層は教育程度が高い上に、自分の余暇時間にビジネス書などを読んで、勉強熱心な人も少なくない。こうした人たちは、他業界や外国の先進的な経営スタイルを見て、自分の会社でも取り入れてほしい、と願う。ところが、彼らの上司たる経営者たちは、なかなか、そうしてくれない。それは、経営者の知識が足りないからだ、あるいは意識が低いからだ、と思える。こうした人たちは、コンサルタントに、自分の会社の経営層をこそ、教えてやってほしいと期待する。

だから、日本における、経営コンサルの主要な機能は、こうだ:

2 外部コンサルタントは、社員を(または経営層を)教育するのに役に立つ


ところで、上では「技術継承の問題」という言葉を使ったが、多くの企業で問題となっているのは、本来は「技能継承」の問題、とよぶべきものである。え、技術と技能は、どう違うかって? 

技術と技能の違いは、いわば、<電卓とそろばんの違い>である。電卓は手にすれば、誰でも、計算にすぐ使える。そして素早く正確に計算できるようになる。後輩に電卓を渡せば、翌日から、素早く正確に計算ができるようにになる。電卓による計算の能力は、移転可能なのである。

しかし、そろばんによる計算は、そうはいかない。そろばんは、習練に長い時間がかかる。そろばんを後輩に手渡すことは簡単だ。だが、翌日から素早く計算できるようには、ならない。そろばんの計算能力は、属人的なスキルだからだ。こうした属人的スキルを、本来は『技能』とよぶ。

技術は元々、移転可能なものである。なんらかの能力を、移転可能な状態にすることを、技術化という。これに対して、技能は簡単に移転できない。訓練に長い時間がかかるのが、ふつうだ。もちろん、真に上達すれば、機械をしのぐ能力を発揮する人もいる。そろばんの上級者は、頭の中だけで、素早く正確に計算をこなす。だが、その能力は、すぐ移転可能ではない。

だから多くの企業が、移転継承になやんでるのは、技術ではなく技能の問題なのである。たとえ、見かけ上は工学的な設計上の能力に見えても、個人のセンスや経験に依存するのであれば、それは技能である。トヨタ系のように「技術員」と「技能員」を区別している会社もあるが、多くの企業では、そもそも技術と技能について、概念上の区別ができていない。

そして、日本企業の共通の悩みというのは、じつは「仕事の成果を個人の技能に頼っていて、技術化を怠っている」ことにあるのである。だから、経営コンサルは、業種分野が違っても、クライアント企業ですぐ仕事のタネを見つけられるのだ。わたしは大昔の2001年に書いた記事「特別な我が社」で、

「日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高い。それは、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということだ。」

と書いた。だからコンサルタントは、たとえ作っているモノが違っても、製造業相手に仕事ができるのだ、と。それと似たようなことが、人材育成についても言えるのだ。

前回引用した、ジェラルド・ワインバーグの『技術コンサルタントの秘密』には、コンサルタントの3つの法則が書かれていた。第1と第2は、次のようなものだ:

コンサルタントの第一法則
 依頼主がどういおうとも、問題は必ずある。
コンサルタントの第二法則
 一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。

人の問題を解決するのに、「人を入れ替えれば良い」というのが、英米式の考え方だった。だから彼らは、経営コンサルタントに、リストラの支援を依頼した。

日本企業は、「人を育てるしかない」と考える。そこで経営コンサルに、人材育成の支援を依頼する。それはいいけど、本当に経営コンサルタントは、この問題を、クラスルームの集合研修で、解決できるのか? マネジメント・テクノロジーそれ自体の教育は、たしかに役に立つ。しかし、企業が本当に継承したいと考えている仕事の能力が、属人的な技能なのだとしたら、そこにギャップが生じないか?

そうなのだ。もし、仕事のパフォーマンスに関する悩みが、「人の問題」ならば、解決法は二つあるはずだ。一つは、人を育成して、仕事の技能を身につけさせること。これは長い時間がかかる。バラツキも大きい(向かない人にはソロバンはできない)。

もう一つの解決法は、「仕事から属人性をなくすこと」である。誰が仕事をやっても、一定のレベルの成果が出るような、仕組み(システム)を作っていくこと。たとえば人材教育なら、OJT以外の教育の仕組みをつくること。たとえば在庫管理なら、在庫レベルをコントロールする方法論とシステムを導入すること。こうすれば、人によるバラツキの悩みは小さくなる。

そして、本当に有能な、役に立つコンサルタントは、社員研修の仕事を半分受けるかたわら、顧客が「仕組みの欠如」という真の問題に気づくよう、仕向けていくのである。

経営コンサルタントは、問題解決のために雇われる。それも、パフォーマンス問題という、構造の見えにくい、やっかいな問題だ。そして人々は無意識に、期待する。コンサルは、新しい知識を持ってくる。そして問題を解決してくれる、と。問題が解決すれば、業績が向上して、企業が成長できると。

ところで、成長すると言う事は、変わると言うことだ。変わらなければ成長できない。

だが、自分自身や周囲を見回して、よく考えてみよう。人は、そう簡単に変わるだろうか。あなたは、誰かを変えることができただろうか。いや、説得してその人の意見を変えさせることさえ、滅多にできないのではないか。

人はある年代を過ぎると、生き延びることが先決になり、成長することは二の次にしてしまう。その時点で、人は他人の言うことをきかなくなる。その年代がいくつ位かは、その人のキャリアパスや働く環境によって異なるだろうが。とにかく、「変わらない人」になってしまう。

そういう人にとって、問題解決とは、自分以外の誰かを変えることである。問題のある部下とか後輩とかを変える、あるいは他の部署の融通のきかない同僚を変える、あるいは無能な上司を変えることが、解決である、と。そういう人から見た問題は、自分自身の変化は決して含まない、非常にゆがんだ問題設定になりがちだ。組織全体のパースペクティブから俯瞰した問題認識ではなく、他責的な問題になってしまう。

このような、偏った問題設定を排し、いろいろな業界を見てきた目から、客観的でよりベターな問題を設定できることが、外部の人を入れる価値なのだ。だから、コンサルの最も望ましい使い方は、こうだ:

3 外部コンサルタントは、より良い問題設定をする役に立つ


そして、当たり前だが、問題解決の行動をするのは、自分たちである。自分で汗をかかない限り、問題は解決できない。コンサルが解決するのではないのだ。ここが一番、誤解の多いところだろう。コンサルは道具の一種だ。道具を買っただけで解決できる問題は、少ない。ゴルフの腕前に悩む人間が、1本10万円のゴルフクラブさえ買えば、万事OKだろうか?

だからワインバーグのいう、コンサルタントの第3法則は、こうなっている。
「料金は時間に対して支払われるのであって、解答に対して支払われるのではない、ということを忘れてはならない。」

役に立つコンサルタントとは、カーナビのようなものである。あなたが行きたい目的地を明確に示せば、そこへの道を示してくれる。複数の可能な経路を示してくれるかもしれない。だが実際にアクセルを踏み、ハンドルを切り、障害物を避け、現実の走行規制に従って車を動かすのは、あなたの方の責任なのである。


<関連エントリ>
 →「生産マネジメント手法の系譜を考える(2) 日本型生産思想のあり方」 https://brevis.exblog.jp/27462519/ (2018-08-02)

 →「書評:『世界一やさしい問題解決の授業』 渡辺健介・著」 https://brevis.exblog.jp/23647609/ (2015-09-06)

 →「パフォーマンス問題へのシステムズ・アプローチ」 https://brevis.exblog.jp/24951754/ (2016-11-21)



by Tomoichi_Sato | 2018-09-05 22:24 | ビジネス | Comments(0)

コンサルタント嫌い、について

ジェラルド・M・ワインバーグが今月初めに亡くなった。享年84歳。’97年にコンピュータ殿堂入りを果たした彼は、物理学博士で元IBMの技術者だが、むしろコンサルタント兼エッセイストとして知られる。機知に富んだ、ひねりのある文章と、システムに関するユニークな視点にあふれる彼の著書は、けっこう好きで、何冊も読んだ。

最初に出会ったのは、『一般システム思考入門』だったと思う。まだ学生だった頃のことだ。この中で彼が提起した「中数の法則」とは、システム工学における問題の難しさの所在を論じるものだ。たいていのシステムは、個別に要素を分析・予測するには数が多すぎるが、大数の法則による統計をあてはめるには要素が少なすぎる、と彼は喝破する。また、システムの状態空間をグラフに描いてみて、その軌跡が交差するときは、次元が足りない(隠れたパラメータが存在している)、という見方は、今でも良く覚えている。

70年代に書いた『一般システム思考入門』と『プログラミングの心理学』とが、彼の出世作で、今ではどちらも、コンピュータ科学書の古典とみなされている。しかし、その後、より一般向けでわかりやすい著作を何冊も出し、それが彼の名望を高めたといえるだろう。『ライト、ついてますか―問題発見の人間学』は薄いけれど楽しい読み物だったし、とくに『スーパーエンジニアへの道―技術リーダーシップの人間学』と『コンサルタントの秘密―技術アドバイスの人間学』は、後年の彼が得意とした「××の法則」の連発で、読み手の思考を刺激してくれた。

『コンサルタントの秘密』は、最初、こういうテーゼから始まる。

秘密第一番
コンサルタント業は、ちょっと見たほど楽じゃない。

そして、読者を「コンサルタント業に関する三つの法則」に誘う。その最初の二つは、こういうものだ:

コンサルタントの第一法則
 依頼主がどういおうとも、問題は必ずある。
コンサルタントの第二法則
 一見どう見えようとも、それはつねに人の問題である。

この二つの法則を、わたしはいつも胸に刻みつけている。どんな組織にも必ず問題はあって、それは常に人間の問題なのだ。これは、すべてのマネージャーが、理解しておくべきテーゼだと思う。

ちなみに、このサイト(Blog)は「タイム・コンサルタントの日誌から」と題しているが、現在のわたしは社内の企画部門におり、コンサル業で身を立てている訳ではない。このサイトを立ち上げた時には、ソリューションの事業部にいたので、こういう名前をつけ、それ以来、たまたま変えていないだけだ。ただまあ、一応、中小企業診断士だし、昔SAP認定コンサルタントの資格なんかもとったりしたので、コンサル・ビジネスについて、多少は論じられると信じている。

さて、ついでながら、社会人としてのわたしが、はじめてコンサルタントなる人種に接した時の体験をお話ししておこう。まだほんの駆け出しの頃のある日、役員の命令で、みんなが大会議室に集められた。壇上には、トヨタ系だかの現場改善コンサルタントがいて、自分があちこちの工場で、いかに指導し納期短縮やコストダウンを行ったか、という話をした。

その話自体は、面白かったと思う。とくにある大手重工メーカーで、各セクションの管理職が口を揃えて、この製品の製造納期はどうしても3ヶ月以上かかる、と主張するのに、彼が手順を変えて、半分以下にしてしまったエピソードは印象的だった。工程間を、ロット単位で輸送していたのを、彼はもっと小さな部品単位で運ばせたのだ。当然、ロット待ちによるリードタイムの浪費は激減する。

しかし、その後がいけなかった。役員はそのコンサルの助言をいれて、エンジニアリング会社の設計業務の劇的なムダ取り・削減を目指した。「その作業はやめられないか」が、合言葉になった。だが、工場のような剛構造の業務と、エンジ業務のような柔構造な仕事に、同じアプローチを取るのは無謀に近かった。

結果として、たいした改善効果は出なかったと記憶する。しかし、実力派の役員が言い出したことだ。皆の意識改革が進んで、活動は成功ということになった。この活動に積極的に協力した部長は翌年、昇進した。

こういう経験があったせいかどうか知らないが、その後、わたしの勤務先では、外部のコンサルタントを呼んで、社内の業務改革をする、という動きはずっと少なくなった。コンサル嫌いになったのだ。

だが、後にソリューション事業部の一員として、顧客にいろいろ接するうち、この「コンサル嫌い」は、かなり広く見られる傾向だと知るようになった。全ての会社が、コンサル相手にむなしい経験をした訳ではあるまい。むしろ、コンサルは一度も入れたことがない所が、過半数だった。だが、多くがコンサルタントという商売に、強い疑念を持っている。

ただし、中には全く逆に、「コンサル好き」というべき会社もあった。あちこちの部署で、次々にコンサルを入れるのだ。ただ比率的には、20社に1社もないとは思う。

コンサルタントは、なぜ嫌われるのか。それが今回のテーマだ(ああ、いつも話の前置きが長い)。

嫌われる理由は簡単だ。コンサルは高い。そして偉そうだ。何も知らないのに、ひとの会社に来て勝手な指導をする。いらぬ仕事を増やす。そのくせ、何も役に立たない。現場がそれでも頑張って、何か成果を出すと、コンサルの手柄にしてしまう。だが上の人間が連れてきたので、簡単に追い出せない。上の人間のメンツがかかっているので、失敗でも成功ということになる。何より癪なのは、自分が馬鹿みたいに見られる事だ。

そのくせ、世の中には不思議な事実がある。かくもコンサルは不人気なのに、メディアや書店では、「元マッキンゼー」みたいな肩書きの人間の文章が、もてはやされることだ。就職・転職先としても人気が高い。それだけ不人気なら、なぜ市場を闊歩し、高い給料をもらえるのか?

事実、帝国データバンクの2014年の調査『急成長する経営コンサルタント業』 http://www.tdb.co.jp/report/specia/pdf/140101.pdf によると、こんな調査結果が得られている:

過去5 年間で経営コンサルタントを営む企業数はで約 1.9 倍、 経営コンサルタント利用者数は約 3.7 倍に増加した。

経営コンサルタント利用数が多い産業大分類の上位 3 業種は、サービス業、製造業、卸売・小売業・飲食店

経営コンサルタント利用企業の割合は、サービス業が1.6%、製造業が0.8%、卸・小売業・飲食店が0.6%


という訳で、日本では全企業の1%内外が、経営コンサルタントを利用している事がわかる。もちろん、まだ小さな数字だが、かなり伸びているのも事実だろう。

マッキンゼーについては、知人が皮肉なことを言っていた。世の経営者たちがマッキンゼーを好んで使うのは、彼らが大したレポートを出せないからなのだ。だから、一度使ってみて、「やっぱりマッキンゼーも大したことはないよ。」と重役が偉そうに発言できるようになるために、使うのだそうだ。

でも、本当かなあ、とも思う。というのも、その知人自身がコンサルタントだからだ。彼は、コンサルという職業自体は、否定しない。ただ、世の中には支払う値段に見合うコンサルばかりでは、ないと言いたいのだろう。あるいは、良いコンサルとダメなコンサルがいるのだ、と。

そこで、コンサルタントの定義について、ふりかえってみるのも、無駄でははあるまい。上記のワインバーグは、コンサルタントの仕事をこう定義している。

人びとに、彼らの要請に基づいて影響を及ぼす術

過不足のない、良い定義だ。人びとの要請がなければ、コンサルは動かない。押し売りはしないし、できる商売でもない。また、「問題を解決する術」ではなく、影響を及ぼす術、としている点も、含蓄が深い。コンサルタントというのは、クライアントの要請に応じて、クライアントの変化を助けることが、仕事なのだ。

そして、経営コンサルと技術コンサルを区別しておくのも、大切だろう。技術コンサルタントというのは、通常、クライアントが抱えている、直接顧客と接する技術問題について、助けを出す。ここでの技術という言葉には、科学技術だけでなく、法律上の技術や税務上のそれも含まれる。そして、こういった技術コンサルを雇うことには、それほど強い抵抗はないと思われる。わたしの勤務先でも、セキュリティや契約交渉などで、コンサルタントを頼んでいるし、それは当然だと皆が考えている。

(なお、技術コンサルの亜種として、ERPコンサルと、ISO-QMSコンサル、とよばれる職種がある。複雑なERPソフトウェアの設定を助けたり、ISOの審査に通るよう、QMS文書作りを指導したりする。きわめて特化した形態だ。顧客に影響を及ぼす、とさえ言えるかどうか微妙で、経営コンサルタントの中には、「あんなのはコンサルという名前にふさわしくない」などという人もいる)。

では、経営コンサルタントを雇うときに、ターゲットとなるのは、どのような種類の問題なのか。それは、わたしが「パフォーマンス問題」とよぶ種類の問題である。つまり、具体的・個別的な製品や案件でのトラブルというよりも、なんだか全体として、会社の売上がふるわないとか、利益率が下がっているだとか、離職率が増えて品質が落ちているとかいった、組織の主要な業務に関する、マクロなパフォーマンスの問題なのだ。

こうした問題の解決のために、外部の経営コンサルタントを呼ぼう、とすると、しばしば社内から反対の声が上がる。問題解決は、ホワイトカラーの本来業務である、という信念が、たぶん、そこにはある。外部からプロの問題解決屋をよぶというのは、つまり、自分の「頭が悪い」と言われているのと、同様なのだ。

会社の主要な業務に、問題はあってはならない。売上や利益率やリードタイムといった、組織のパフォーマンスを示すKPIは、達成できるべく設定している。そしてホワイトカラーの仕事は、問題解決である。以上3点が、黄金則である。それでも、もし問題が生じるなら、それはもう、担当者の個人的無能の証明に他ならない。ゆえに、職場へのコンサル導入は、管理職に対し「無能」の烙印を意味する。

おまけに、コンサルなどは役に立たない。彼らは決して、解決策を持ってこない。持ってくるはずがない。なぜなら、自分の業務は特殊だからだ——これがまあ、決め手となる反対理由だ。

どこが特殊か? たとえば、わたしの勤務先なら、LNGプラントのような超低温・高圧の特殊な製品を扱っているし、そもそも専業エンジニアリング会社などという業態自体が日本には数少ないし、仕事の8割以上は海外だし、と、いくらでも特殊性の理由は続く。

でも、ここがホワイトカラーの智恵の見せ所らしく、どんな会社に行っても、そこの仕事が「特殊だ」「特別だ」、「他社とは違う」という理由説明が可能なのだ。読者諸賢も、ためしに自分の会社が特殊である点を、列挙してみられるといいと思う。自分の会社が平凡で普通だ、という説明よりも、ずっとたやすく、かつ心にもストンと落ちるはずだ。

かくて世の中は、個別で特殊な会社ばかりである。では、経営コンサルタントの人たちは、どうやって、そんなところで仕事をしているのか。そもそも、経営コンサルタントという業種が成り立った理由は何なのか?

(この項つづく)


<関連エントリ>
 →「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/2641571/ (2001-02-03)


by Tomoichi_Sato | 2018-08-27 23:48 | ビジネス | Comments(0)

エンジニアリングと技術とインテグレーションと

以前、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」https://brevis.exblog.jp/24622591/(2016-08-28)と題する記事で、イザムバード・ブルーネルのこと書いた。19世紀前半のイギリスで活躍した、傑出した技術者だ。たまたまロンドンに来る用事があったので、ブルーネルが作ったパディントン駅を見た。とても美しく、かつ機能的な、優れた建物である。改良の手は入れているだろうが、建築物としての骨格は、おそらく最初のままだと思われる。実物を見て、あらためてブルーネルという人の天才的なセンスを感じた。
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そのパディントン駅から多少歩いた公園・ハイドパークの南側に、「アルバート記念碑」が立っている。大英帝国の最盛期を作ったビクトリア女王が、亡き夫君のアルバート公を記念して建造を命じた、巨大なモニュメントだ。こちらはネオ・バロック様式で、すごく美的だと思うかどうかは、見る人の感受性による。

ただし、この記念碑は、あるはっきりした主張・テーゼを表現している。それは、大英帝国が支配する4大地域と、帝国の国力を支える4大産業で、それぞれがグレコローマン風の彫像群によって表現されている。帝国が支配し、あるいは強い影響を及ぼす4代地域とは、(1)ヨーロッパ大陸、(2)アジア大陸、(3)アフリカ大陸、(4)アメリカ大陸、である。ま、七つの海を支配する人たちの発想というのは、こういうスケールなのだろう。この彫像群は、記念碑の四隅の外陣を守っている。

ところで、帝国を支える産業として、19世紀中盤に彼らが選んだのは、以下の4つだ。これらが記念碑の内陣を支えている:
(1) 農業 Agriculture
(2) 商業 Commerce
(3) 製造業 Manufacture
(4) エンジニアリング Engineering
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今の日本なら、何を選ぶか。あるいは'90年頃の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自ら酔っていた頃なら、何を選んだか、ちょっと考えてほしい。製造業はまあ、入るだろう。農業は、微妙だ(今やGDPの数%しかない)。ただ、賭けたっていいが、4つの中に「エンジニアリング」が入る気づかいは、ない。皆無だ。

エンジニアリングとは何だろうか? アルバート記念碑についての観光案内を読むと、エンジニアリングではなく「工学」と書かれていることがほとんどだ。だが、工学は学問の一部であって、産業の呼び名ではない。だからここは、「エンジニアリング」との表記にこだわりたい。ほかに、適切な訳語が、日本語にはない。

いや、日本語だけではない。エンジニアリングに対応する欧州の言葉は、ドイツ語ならIngenieurwesen、仏語ならingénierieで、まあはっきり言うと、英語からの派生である。Engineeringという概念それ自体が、英国生まれ、英国の産物なのだ。

エンジニアリングとは何か。長年「専業エンジニアリング会社」に勤めてきたわたしでも、一言で言うのは、簡単でなない。でも強引に縮めて表現するなら、「科学の発見・発明を、具体的な形に構築し実現する仕事」だといえよう。出来上がった装置や機構、あるいは巨大なプラントなどは、利用者が使う。エンジニアリングの仕事は、それを作り上げるところまでである。

エンジニアリングの中心的な業務は設計だが、設計図だけでは仕事は終わらない。資機材や部品を調達し、組み上げ、設置しテストし運転が可能であると確認するところまで、全てを含む。

エンジニアリングは技術を中心とした仕事である。ただ、その「技術」という言葉がどこからどこまでを指すのか、またどこに価値の源泉があるのかは、案外理解されていないように思う。

たとえば、構築対象物の斬新な基本設計は、たしかに価値ある技術である。ブルーネルの革新的な広軌鉄道や蒸気船(復水器を取り入れて長期航路を可能にした)から、現代の電気自動車EVまで、そこには発想の飛躍ときらめき、創造性があり、誰にも分かりやすい。そして基本設計は、主に用途(IT風に言うと機能要件)と、性能値を目標として行われる。

これに対し、詳細設計はもっと地味な仕事だ。だが、技術は細部に宿る。鉄道を広軌にしたら、トンネルの掘削量は倍増する。長航路の船は巨大な構造を力学的に支えなければならない。ブルーネルはそうした工法・製造法(=実現法)の工夫も怠らない。もちろん、作業に当たる従事者と利用者の安全性確保も含む。こうした点は、科学法則と、運用上の経済的・社会的要請の両方を、複眼的にとらえる必要がある。そこをきちんとおさえないと、技術は社会で実用化できない。

あるはまた、わたしになじみの深い天然ガスの液化プラント(LNGプラント)を例にとろうか。基本的な原理は単純だ。天然ガスを冷やすと、液体になる。冷やすのには、冷蔵庫と同じ原理を使う。いたく単純である。だが、超低温・高気圧に耐える熱交換器や調節弁、大出力のガスタービン駆動圧縮機などを含むプラント一式を、安全にかつ安定して運転できるよう組み上げるためには、機械・電機・制御・化学・土木・建築など様々な分野での、詳細設計が必要だ。それらが、さながらオーケストラのように協調しあって、はじめてプラント・エンジニアリングという仕事が達成できる。少数の天才がいれば成り立つ仕事ではない。

そして、詳細設計や実装においては、安全性・安定性・信頼性・保守性・・といった、いわゆる「非機能要件」を満たすことが重視される。だから、「傑出した技術力」のためには、独創的な基本設計の能力だけでなく、実装の経験を、設計にフィードバックし、その改良ループを回して進化するような能力が必要とされる。

事実、ブルーネルの仕事はそうだった。かれは基本設計にも長けていた。他人の独創的な仕事を大胆に取り入れ、組み合わせることも上手だった。彼は大学を出ていなかったが、しかしきちんと科学計算の裏付けをとって設計した。そして、工事まですべて手掛けて、数々の偉業を実現したのだ。

ところで、ブルーネルが没してから150年がたった。では、現代の英国で、彼の偉業をついで、技術の進化をリードしているのは誰なのか? 英国はいまだに、世界のイノベーションの先陣を率いているのか? いや、もっと端的に言おう。あなたは、英国企業から、次の自動車でもいい、飛行機でもいい、あるいはパソコンでもいい、新製品を心待ちにしている物が何かあるだろうか?

もし、あまり見当たらないのだとしたら、この国はどこかで、技術におけるリーダー精神を失ってしまったのだ。だが、それはどこで間違ったのか?
(まあ、こんなことを書いたら、皮肉な英国人から「次のイノベーションが待ち遠しい日本のIT企業は、どこかな?」と逆襲されるかもしれないが・・)

わたしは、英国人のお得意な『専門化と細分化』が、彼らの技術開発力を奪ったのではないか、と疑っている。当地の知人によると、ロンドンには本当にありとあらゆる種類の、細部化された領域を得意とする専門家やコンサルタント達がいて、顧客のどんなニーズにも対応できるという。それはエンジニアリングの分野でもそうだし、金融や法律といった分野もそうらしい。

そのような専門分化において、彼らはさらに、一種の規制や障壁を立てる。土木建築分野における、「設計・施工分離原則」がその一つである。設計・施工分離の原則とは、設計者が建設工事をも請け負ってはいけない、という規制だ。したがって、設計は設計事務所が行い、建設(実装)は工事業者が行う、という風に分業している。見積積算は、さらに第三者のQSと呼ばれる人たちが行う。

このような原則は、19世紀後半に、英国で都市が急拡大し、建築ブームが起きた際に、あちこちで手抜き工事が発生した反省によるものだと、聞いたことがある。それまでは(つまりブルーネルの時代には)、設計者と施工者は一緒で構わなかった。しかし、手抜きや見積での嘘を防ぐため、設計→見積→工事という仕事を、異なる企業間に分断して、互いにcheck & balanceが働くような仕組みにしたのである。まことに英国的な発想ではないか(憲法だの三権分立などの社会統制原則も、かなりが彼らの発明だ)。

ちなみに日本では、官庁工事などがこの原則に従っている(日本は明治時代に、建築技術を英国からならった)。だが、民間工事では設計施工一貫の例も多く、事実、日本のゼネコンはかなり高度な設計能力を持っている。ところが、英米の工事業者は基本的に、設計機能を社内に抱えていない。

しかし、このように設計と施工を分離した結果、何が起きるか。建設工事の現場で、設計に起因した施工の難しさが生じたとき、その教訓が設計側にあまりフィードバックされにくい、ということだ。なぜなら別会社だからだ。さらに、新しい施工方法を開発して、そこからさかのぼって設計法を生み出す、という動きも働きにくい。

設計・施工分離原則は建築業界のことだが、他でも類似したことが起きているのではないか。たとえば石油ガスのプラント・エンジニアリング業界では、'80年代以降、基本設計と、詳細以降が別フェーズに分割することが普通になった(ただし同一エンジ企業が請け負うケースもありうる)。そして、かつては英国にも優れたエンジ企業が存在していた。だが、今やその多くが買収されたり解体されたりして、米国企業などの傘下に入っている。今でも英国の企業は、まあプラントの基本設計はうまいが、詳細設計・調達・建設工事を含めたプロジェクト全体をまとめる「技術のオーケストラ」機能が弱い。

こうした、いわゆる『分業病』の弊害については、英国人も気が付いているのだろう。だからこそ、マネジメントの必要性の認識が強いのだと思う。それも、専門性のないゼネラリストをマネージャー職に就けるのではなく、マネジメントのスペシャリストを育成する方向に進んでいる。まあ、優秀なオケの指揮者を育てようという訳だ。そして英国人は、マネジメントの体系化・システム化にたけている。PM分野でいえば、PRINCE2とか、Managing Successful Programme(MSP)といった英国の作成した標準は、米国PMIの同等のものより、実用的でレベルが高いと感じる。 

彼らは仕事をシステム化し、手順とアウトプットとメトリクスで動くように仕向ける。つまりプロセス(手順)を整備し、プロセス中心にする。すると、仕事から属人性がなくなる。誰でも60-75点を取れるようにすることが、システム化の目的だからだ。同時に、システムかは仕事をオーディット(監査)可能にする。冷静な第三者的オーディットこそ、英国人の得意科目なのだ。

このようなマネジメントのシステム化のメリットは大きく三つある。リピータビリティ(再現性)、ポータビリティ(可搬性)、スケーラビリティ(拡張性)だ。仕事が属人的でなくなれば、再現性が上がる(標準化できるともいう)。また、他の場所、他の国にも仕事を移しやすくなる。さらに、仕事のキャパシティを拡張しやすくなる。仕事が属人的だと、キャパを増強するにはキーマンを増やすしかなく、キーマンの育成にはひどく時間がかかるからだ。

そしてマネジメント・システムの上に、優秀なマネージャーを配置できれば、90点代の仕事もできるようになる。はずだ。

では、仕事をシステム化して、超優秀なマネージャーと、百の専門家たちで仕事を回すのがエンジニアリングの「インテグレーション」なのだろうか? 非常に大規模な仕事では、それしか方法がないかもしれない。部門間の自主的すりあわせと、「現場力」と、ブラックな労働環境のがんばりだけでは、仕事がいつ終わるのか、まったく読めないからだ。それよりは、ずっと良い。

ただ、このような発想に欠けているものが、ある。この英国式発想は、非常にプロセス中心の考えだ。インプットを、プロセスして、アウトプットする。頭文字をとって、IPOモデルともいう。仕事の効率化には、非常に役に立つ。英語風に言えば、"Do things right"だ。

問題は、プロセス志向の発想に、何をインプットしても、独創性が出てこないことだ。つまり"Do right things"が見えなくなる。そして、このことが、英国のエンジニアリング産業の限界を生んでいるのではないか。危険予測ばかりが目立つリスクマネジメント・システムの中で、冒険的な発想をためすことは困難だ。

独創性、そして進化のループは、分業化された組織の中に確保できるのか? たとえ技術のオーケストレーションが上手になっても、作曲家(基本設計者)と演奏者(実装者)が、分業したままでいいのか? 聴衆の本当のニーズを肌でつかんでいるのは、聴衆の前で演じる演奏家の方ではないか? 作曲のモチーフと、聴衆のニーズを、うまくマッチングしないと、本当にイノベーティブなものは出てこないのではないか?

そう。英国企業で、次の製品が待ち遠しい企業、わくわくして驚くような製品や技術を出してくるメーカーとして、唯一名前があがりそうなのは ダイソンくらいだろう。基本的には家電メーカーだが、ダイソンは確かに、誰も思いつかない、真にイノベーティブな製品を、出してくる。

創業者のジェームズ・ダイソン氏は、そういう意味で、現在ブルーネルの後継者の地位に一番近い人だろう。ダイソン氏は経営者ではなく、会社のCTOであり「チーフ・エンジニア」である。会社経営のマネジメントは、人に任せている。彼の作る掃除機、扇風機、ヘアドライヤーなど、いずれもまことに独創的で、かつ、美しい。

ダイソンは製造にもこだわっている。第一、精密で高性能なため、かなり自動化した製造ラインが必要だ。あの空洞型ヘアドライヤーは、毎分11万回転のモーターが中心になっている。この自動化製造ラインを作ったのは、前回の記事で紹介した、日本の平田機工である。よくありがちな英米企業のように、製造を安い受託製造業に安易に外部委託することもしない。かわりに、ダイソンは製品を高い価格で売る。高くても売れる製品を作る。

そのダイソンは今、電気自動車EVを準備しているらしい。布石に、蓄電池メーカーを買収したとも聞いている。どんな製品を出してくるのか、聞くだけでワクワクするではないか。これこそ、エンジニアリング技術の魅力でなくて何なのか。それが可能なのは、ダイソンが、単にマネジメント・システムと分業化思考だけでなく、基本設計から製造・販売まで、全部をインテグレーションする企業だからだ。

もちろん、ダイソン氏は傑出した技術リーダーだ。そうした、ビジョンを持ち、際立った力量を持つ人には、技術仕事の属人性を残し、インテグレーションの焦点になってもらった方がいい。実装まで任せて、細部にまでこだわってもらうべきなのだ。故スティーブ・ジョブズなんかも、実はそうだったのだろう。そして、普通の人、ないし、まあまあ優秀程度の人は、システムの中に組み込むべきなのだ。

一番ダメなのは、分業型組織のバケツリレーの中で仕事を回すことだ。全体ビジョンもなく、システムをマネージする人もいない。変化と進化のループも弱い(PDCAのAが、自分の分業の壁の中だけに留まる)。
結果として、その場しのぎだけが横行する。これが、ボトムの在り方だ。もしこんな組織に働いているなら、それを変えるか、脱出する努力を考えるべきだ。

英国は、エンジニアリング産業の父である。英国の技術の歴史は、欧州大陸や米国と比べても、独特である。英国の技術は、科学の単なる付属物でもなかった。金儲けの単なる道具でもなかった。科学に立脚し、お金も生み出すが、実用的でかつ、ユニークだった。それがだんだんと衰退していく姿を、わたしは見たくない。できればもっと、いい意味で驚かせてほしい。英国に学ぶべきこと。それは、「エンジニアリングとは技術のインテグレーションである」ということではないだろうか。


<関連エントリ>
 →「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


by Tomoichi_Sato | 2018-06-19 05:24 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:二日酔いの防止サプリ「よいとき」


お酒に弱いたちである。お酒を飲みながら人と談笑するのは、けっこう好きなのだが、あいにくわずかな量のお酒でも顔が真っ赤になってしまう。経験的に、自分の許容量は生ビールをジョッキに1杯と、あと焼酎等の蒸留酒を1杯程度だと思う。

ところが、いったんお酒を飲み始めてしまうと、自制心が緩む(苦笑)。そしてつい、自分の許容量超えて飲み過ぎてしまう。翌朝は二日酔いの頭を抱えて、自分の愚かさを反省することになる。そして、お酒に強い人はいいなぁ、と内心羨んだりする。

キューピーの研究開発部門の方から、同社が開発した製品「よいとき」のことを聞いたのは数ヶ月前だ。この製品は、酢酸菌から抽出したアルコール分解酵素と、アルデヒド分解酵素が主成分になっている。

知っての通りアルコールは体内で、アセトアルデヒドを経て、酢酸に分解される。このアセトアルデヒドが曲者で、二日酔いの主原因になる。「よいとき」という製品は、このアルデヒドとアルコールを分解する作用を持っている。錠剤型のサプリになっていて、一袋2錠がワンセット、1回分である。

「よいとき」を服用するのは、お酒を飲む前でも、飲んだ後でもいい。ただ、あまり遅くなったり、翌朝になったら、手遅れだ。二日酔いを防止するのであって、「治す薬」ではないからだ。「飲み忘れないように、最初の乾杯のときに服用するといい」というアドバイスもあった。また、これを服用しても、お酒に酔わなくなる訳ではない。飲んだ翌朝が楽になる、というのが主効果である。

ともあれ、最近はつき合いで宴席に呼ばれたら、必ず服用するようにしている。そして、自分の主観的な評価だが、たしかに夜中の眠りが深くなり、翌朝が楽になったように感じる。「ウコンの力」などの他のサプリの多くは、肝臓を活性化する働きのものだから、一緒に服用することもできる。大手のコンビニでも売っている。

同じようにお酒に弱い人には、おすすめできる商品だ。


by Tomoichi_Sato | 2018-05-31 21:12 | ビジネス | Comments(0)

ミニレビュー:Lenovo Bluetooth Touch Mouse N700

Lenovo Dual Mode WL Bluetooth Touch Mouse N700 (Amazon.com)

(追記:ある方から、この並行輸入品のマウスは2.4GHz無線に関して、日本国内で「技術基準適合証明」を取得していないので違法ではないか、という指摘がありました。確かにその疑いが濃厚ですので、この記事は近いうちに削除します。Lenovo社には、早く日本国内でも正式販売してもらいたいと希望します。と同時に、旅行者は携帯使用が許されるのに、国内販売には独自の証明手続きが必要だ、という制度にも、素人ながら多少の疑問を感じる次第です)
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わたしの勤務先では、LenovoのNote PCが標準機だ。今年、軽量なタイプに変わったのを機に、マウスもコード型から、持ち運びやすい無線タイプにしたいと思い、個人で買ったのがこの製品だ。かってから1ヶ月ほど使ってみたので、レビューで紹介したい。

Bluetoothのマウスは、世の中にものすごく沢山、種類がある。値段もまあ、2千円程から1万円くらいまで、幅がある。その中から、あえてこれを選んだのは、いくつかユニークな特徴があるからだ。

(1) カッコいい
 まあ、じつに単純でミーハーな理由である(笑)。でも、よく持ち歩くモノは、やはりデザインが大切だ。PCと同じLenovoの製品で、色もスタイルもぴったり合っている。そして、マウス自体が、とてもスマートな形状である。真っ直ぐな状態のままだと、マウスには思えない。シガレットケースか何かのようだ。しかし、途中の部分をねじって回転すると、中央部分が三角形に持ち上がる。これもまだマウスには見えないが、つかんで動かしてみると、なかなか手になじむ作りだ。このデザイン性が、なかなか良い。

(2) 案外持ちやすい
 マウスとしては、ここが一番大事だ。軽いけれども、必要なだけの重さもあって、妙にぶれたりしにくい。それに、まっすぐな形状に戻すと、ポケットにも入れやすいから、持ち歩きに便利だ。これまで何年も、Note PCと一緒に有線式のマウスと、マウスパッドまで持ち歩いていて、つくづく面倒だった。今は、とてもすっきりしている。もちろん、カバンに入れても邪魔にならない。

(3) レーザーポインターにもなる
 このマウスはまっすぐな状態では、レーザーポインターとして機能する。マウスボタンは左右にあり、その真ん中には幅1cm足らずのスイッチがあって、マウスとして使っている場合は、ここが一種のスライダー機能を持つ。しかしまっすぐな形のときは、ポインターのスイッチに変わる。もちろんその際でも、左右のボタンは機能し、PowerPointのスライドの前後めくりに使える。わざわざマウスとポインターを別に持つ必要が無く、非常に便利である。

(4) Bluetoothと2.4GHz無線の2つの方式をサポートしている
 このマウスは、Bluetoothの他に、2.4GHzにも対応しており、そのために使う小型のドングル(PCのUSBポートに差す受信機)も付属している。わたし自身は普段Bluetoothを使っているのだが、他のBT未対応のPCとも接続して使える。そして、そのドングルは、このマウスの電池ホルダーの横のスペースに格納できるのである。こういう細かい配慮の行き届いている点が、デザインとして優れている。

(5) 電池はまあ持つ
 単4電池2本を内蔵するのだが、とりあえず1ヶ月は問題なく使えている。

(6) クリック音も低い
 クリック音はあまり気にならない方だと思う。クリックアクションも軽いが確実だ。すごく静音だというほどでもないが、あまりカチカチやかましいタイプではない。

(7) スライダー機能はやや動かしづらい
 あえて一つ欠点をあげると、ホイールに相当する中央部のスライダー機能の感度がやや低く、スクロールがやりにくいことだろうか。まあ、AppleのMagicマウスみたいに、やたら感度が高すぎるのも、使いにくくて不便だとは思うのだが。

中央の回転部分が、機械的にどこまで耐久性があるか、そこが購入した時点で一番心配なことだった。無論、まだ1ヶ月程度では分からないが、そんなに頻繁に回す訳でもないし、と思っている。値段はまあまあするが、とりあえず現時点では、買ってとても満足している製品である。ただ、わたしはこの製品、Amazon.comから並行輸入品を注文するしかなかった。なぜ日本国内で一般販売していないのだろうか? けっこう売れると思うのだが。


by Tomoichi_Sato | 2018-05-15 23:15 | ビジネス | Comments(1)

人間主義のプラスとマイナス

「よくこんな非効率で危険な現場運営を、A社は許しているな。」

思わずわたしは、つぶやいた。もう10年近く前、ある中東の大国で、科学技術施設の建設現場を訪れたときのことだ。顧客との打合せが目的で、現場視察のために行ったのではない。だが、どうしても仕事柄、現場のことが目に入ってしまう。建設工事を請け負っているのは、中東エリアで名の知れた大手建設会社2社。巨大な建設現場で、大勢の労働者が投入されていた。

その施設の建設は国の威信をかけたプロジェクトだったのに、例によって納期に遅れつつあった。そこで、国営石油会社であるA社が政府の依頼で、発注側に立ってテコ入れをしているときいていた。A社は国際的に準オイルメジャー級の企業であり、その国で本当に巨大なプロジェクトのマネジメント能力を持つのは、A社くらいしかない。畑違いだが、やむを得ない対策と思われた。

ところで、国際メジャー級の企業は、建設現場におけるHSEの要求も厳しい。HSEとはHealth, Safety & Environmentの略で、つまり労働安全衛生と環境保護の要請だ。以前も書いたことがあるが、メジャーの建設現場では、安全教育を受けずに現場入りしてはいけないし、ヘルメット・防護グラス・安全帯などの装備を身につけることが必須である。ちょっとでも高所作業をする際には、ハーネスをかけて落下予防をする、といった基本動作が事細かく求められる。

ところがその現場は違った。2階以上の高さでも安全帯をかけずに作業をやっているし、地面を掘った穴には十分な安全柵が立てられていない。とにかく及第点以下なのだ。それどころか現場に、図面も持たず材料・工具も持たぬ労働者が大勢うろうろしている。

当たり前だが、直接作業に従事する者は工具や材料がなければ仕事ができないし、監督者(スーパーバイザー)は施工図面を持たなければ仕事にならない。だとするとあの大勢の手ぶらの連中は何のためにいるのか。何の生産性にも貢献していないことになる。いくら突貫工事で大勢を追加動員したといっても、これでは効率が上がらぬ。そればかりか、万が一大きな労働災害事故が発生したら、現場周辺は作業を一切とめて対応せざるをえない。ますます仕事が遅れるのだ。大手顧客がHSEをやかましく言うのも、無事故が作業の生産性に直接つながるからでもある。

ところで同じ時期に、わたしの勤務先は、中東エリアの別の場所で、建設現場における全く新しい取組をおこなっていた。"Incident and Injury Free"の頭文字をとって『IIF活動』とよばれるこの取組は、建設現場の安全性とパフォーマンス向上に画期的な成果を生み出しつつあった。もっとも、これはわたし自身が直接関わった活動ではないし、その詳細について開示する自由を持たないので、具体的には以下のUrlなどを参照いただきたい。

日揮のIIF活動
JGCIIF活動(英語だがより詳しく書いてある

その活動のエッセンスだけを紹介すると、以下のようになる(もちろん、これはわたしの勤務先のことなので、宣伝半分じゃないかと疑う読者諸賢もおられよう。その場合は、バイアスを割り引いて読んでほしい):

IIF活動とは、現場のHSE向上を目的として、安全文化の構築と啓蒙を中心とする活動である。プラントの建設現場というのは、基本的に、誰もが出稼ぎのために故郷を離れて働きにやってくる。そこで、「建設工事に携わる誰もが、無事故で元気で家に帰る」ことが、皆に共通する一番の願いとなる。そのために、「お互いをケアする」(Respect & Care)ような安全文化を、組織(集団) 全体に構築していく。

具体的には、現場で働く作業員の気持ちを掴み、個々のモチベー ションを高めるための活動をする。たとえば現場責任者が、率先して毎朝欠かさず建設現場内を歩き、現場作業員たちに「おはよう。元気ですか」などと声をかけ、握手るなどスキンシップをとり、人間関係の壁を取り除く訳である。

また、互いの出自の紹介をして、名前を持つ人間同士として関係をつくることに取り組む。つまり、お互いに名前を覚えるのだ。大きな建設現場となると、数十の工事業者が関わり、労働者は5千人とか1万人以上になる。そこを、分け隔て無く実践するのである。

あるいは、分かりやすい図面パネルを制作して現場に持って行き、作業員達に、彼らが今、作っている装置の役割の説明をする。プラントは複雑で、見ただけでは何をする装置か分からないし、そもそも建設労働者達にそんな説明をする習慣はなかった。だが、そうした意義の説明を通じて、誇りとやりがいが生まれるし、全員が同じ目標に向かって作業している「仲間」である意識ができてくる。

こうなると、お互いが安全に向けて声をかけ合い、注意し合うカルチャーが醸成されてくる。現場作業には思わぬ危険が潜んでいるし、人間には必ず不注意やミスもある。それを、近くにいる他人(他の会社の人間かも知れない)が、声をかけて防げるようになってくる。

一般に労働安全活動は、「警察取締り型」と、「相互扶助型」のタイプがある。ふつうは、前者だ。危険を見つけたら注意し、繰り返しても改善されなければ、現場退去を命じる。しかし、警察型の活動は、いろいろな事故防止のテクニカルな対策を併用しても、事故発生率の低下に、ある壁があった。IIF活動は相互扶助型によって、その壁をブレークスルーすることを目指している。

結果として、たとえばUAEで遂行したIGD Habshan 5プロジェクトでは1億時間以上にわたり、LTI(Lost Time Incident=休業災害)ゼロを実現したし、カタールでのBarzanプロジェクト建設現場では、なんと1 3,000 万時間超の休業無災害を記録した。1億時間といってもピンとこないだろうが、中東の建設現場は1日10時間・週休1日で月260時間勤務が通常なので、つまり約40万人月以上の無災害である。たとえば2万人の労働者が、丸20ヶ月、一人のケガによる休業も出さなかった、という規模がこの数字である。

しかし、生み出した成果はそれだけではない。相互扶助型のIIF活動は、結果として、工事における品質向上と生産性アップの効果を生み出した。それは、皆が自分の仕事の意義を理解し、また周囲と協力しやすくなったことから生まれた結果だろう。

IIF活動は、人を人として遇することの大切さを、わたし達に教えた。目の前の労働者を、無名の、いつでも取り替えのきく存在として見るのではなく、名前もあり家族もある一人の人格=対等な仲間として遇すること。中東の現場を終えて数年ぶりに帰国した幹部が、「あの活動に取り組んで良かった。この歳になっても、まだ学ぶことがあるんだと分かった」といっていたのが印象的だった。

こうした、異国の途上国の労働者を「対等な人として遇する」点は、日本企業の方が、欧米系よりも自然にできるかも知れない。日本人に差別意識が薄いなどと言うつもりはないが、 社長も平社員も同じ食堂で食べる日本企業の文化(少なくともわたしの勤務先は、社員食堂がある時代はそうだった)に、現れているのではないか。1950年代のアメリカ映画「アパートの鍵、貸します」には、「役員専用のトイレ」の鍵というものが、象徴的に出てくる。役員専用のトイレなどない企業の方が、現場労働者を人として扱う『人間主義』に近いのではないか。
だが、物事にはつねに、両面がある。日本企業の人間主義には、マイナスの面もある。

最近、聞いた話だが、現場改善や経営指導に長い伝統のある某団体が、企業向けに各種研修セミナーを行っている。ところで、その頂点に当たる経営者用コースの内容というのが、たとえば「禅の心」とか「先達の型の伝承」といったテーマであり、人心掌握が中心であるという。そういう話が、企業経営者には人気があるらしい。つまり、経営とは人だ、という認識が広くあると言うことだ。

経営は人なり。なるほど、確かにそうなのだろう。だが、それをもう少し延長すると、どのような認識を生み出すか?

いうまでもない。仕事で良い結果が出たのは、人が優秀だったおかげ、結果が出なかったのは、人がダメだったため、という説明が生まれてくる。仕事のパフォーマンスを決める要因には本来、外部環境もあるし、技術も仕組み(システム)もツールもあるはずだ。組織のルールもまた、制約条件の一種であろう。だが、そうした他の要因は捨象され、すべては、個人の人格だか人徳だかで説明されてしまう。これもまた、ある種の「人間主義」である。

経営は人なり、という認識からは、当然ながら「経営者の使命は、すぐれた人物を見いだして育てること」という方針が出てくる。そこには、組織を安定して進めていく仕事の『仕組み』(システム)をつくること、という課題意識が抜けている。

また、その経営セミナーの話は、かつて書評した、日経文庫の「はじめてのプロジェクトマネジメント」(近藤哲生・著)をも想起させる。本を読んで驚いたのだが、そこにはWBSもなければクリティカル・パスの説明もなく、EVMSも見積手法論もない。いわゆる近代的PMの技術論は一切無くて、いきなりプロマネの心構え論になってしまう。そしてひたすら説明されるのは、部下のモチベーションと掌握と問題解決への心構え、といった話だった。でも何より驚いたのは、その著者が日立の情報通信部門のベテランだったという事実だ。うーむ。そういう人間主義の会社だったんだ、と感心(?)した記憶がある。

上記の経営セミナーの話をわたしにしてくれた人によると、英国と日本では、歴史教育に大きな差があるらしい。英国の歴史教育では、たとえば「産業革命」という事象を取り上げて、何がそれを可能とする条件なのか、なぜイギリスは世界に先駆けて産業革命を経験することになったのか、それによって及ぼした社会への影響は何か、といった構造的な説明がなされる。そして、その説明にはあまり固有名詞が出てこないのだそうだ。

ところが、日本の歴史のテスト問題というのは、年号と人名の暗記問題である。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明、ついでスティーブンソンが蒸気機関車を開発、といった事は覚える。だが、産業革命一般とはどのような事象であるのか、どの国・どの社会で早く発生し、遅れたのはどのような地域だったか、といった、大きな歴史構造はよく分からぬままの場合が多い。大きな社会変化が起きるにはそれなりの条件が必要だ。だが、まるでワットとスティーブンソンという有能な個人たちの出現が、それを可能にしたかのような歴史像しか頭に残らない。それは明治維新などをめぐっても似たような認識になる。西郷隆盛やら勝海舟やらの大人物が織りなす、点と線としての物語。

人と人とのドラマが、世界を動かしている。経営とは人である。仕事の成果を左右するのは、個人の能力である・・このような人間主義の世界観で、何がまずいか。それは、仕事の能力の「移転ができない」ことである。

知識・技術というものは、基本的に移転可能だ。文字にして伝えることができるし、ツールを作って渡すこともできる。だが、個人に内面化された技能を他者が継承するには、長い時間をかけるしかない。そのために、徒弟制度風のOJTを重視する組織は多い。それでも、昭和世代と平成世代の間のギャップ問題は、どこでも悩みの種となっている。

また、移転に時間がかかるということは、異なる製品やプロジェクトの間での、教訓(L&L)の学びが効きにくいことを意味する。もちろん、海外工場をつくっても、すぐに仕事を移転できない。つまり、組織としてスケーラビリティがないということだ。

そして、現代の世界市場規模での競争において、スケーラビリティがないことは、企業にとってほとんど致命的である。少なくともわたしの見る限り、欧米系ではどうやって仕事をシステム化し、展開可能とするかに、かなり注力している。だが、こうした危機意識が、わたし達の社会には非常に希薄だ。個人の能力(技能)を、科学の力を借りて客観化し、それを技術として移転する、という基本的な発想が、エンジニア達にも欠けているとしか思えない。そうした例は、ゲーム開発の分野からスポーツまで、あちこちに転がっているというのに。

労働者一人ひとりを、人間として遇すること。そのことが、仕事へのオーナー意識を生み、「やらされ感」で働かされるよりは、ずっと高いパフォーマンスを示す。これが人間主義のポジティブな面だ。だが、それをずっと延長していくと、「経営は人だ」「すべては人間の技能と気持ち次第だ」という認識が出てくる。かくして、技術やシステムの軽視、スケーラビリティの喪失が起きる。これが人間主義のネガティブな面だ。しまいには、竹槍でB29戦闘機と戦おうとする、奇妙な精神主義にまで至るかもしれない。

わたしは二つの違うものを、無理やり一つに並べているのだろうか? もし、どこかに断絶点があるなら、教えてほしい。だが、もしそうでないなら、わたし達の社会の人間主義には、両面があることを、意識すべきなのだ。



by Tomoichi_Sato | 2018-02-14 23:48 | ビジネス | Comments(0)

サービス業の生産性と、プロ意識との関係について


久しぶりに首都圏に大雪が積もったので、いつもより朝早く起きだして、家の前の雪かきを、ささやかながら行った。既に空は晴れ上がって、少し働くと汗が出る。「雪の明日は裸で洗濯」と言う諺を思い出した。東京の下町、荒川生まれの人に教えてもらった言葉だ。関東では主に2月や3月に雪が降るが、降った翌日は良い天気になることが多い。

雪かきという仕事は相互的だ。お互いに、ちょっとずつ汗をかく。そうすると通り道ができる。隣の家がやらないんだから、うちもやらない、などと言っていた日には、街の中はちっとも歩けなくなる。家の前は公道なんだから、雪かきは行政がやるべきだ、なんて批評して待っていても、問題は解決しない。

まだ公共交通機関もうまく動いていないのに、積もった雪の轍を急ぎ足に出かけていく勤め人の人達も多い。どうしても時間通りに職場に着かなくてはならない立場なのだろう。サービス業的な職種の人達かな、とふと思った。とくに9時-17時といった時間枠を決めてサービスを提供する部門なのかもしれない。私の勤務先だってエンジニアリング会社だからサービス業だが、設計的な仕事はもう少し時間の融通が利く。

ユーティリティー的なサービス業の辛さについては、3·11の直後に「休めない人々」http://brevis.exblog.jp/14417945/ と言う記事で書いたことがある。ユーティリティーとは、電気・水・通信・交通など、常に供給されているのが前提となる、都市のインフラサービスである。

もともとサービス業の定義とは、リソースを提供する仕事である。『リソース』とは、仕事において必要とされ、その活動の間は占有されるが、活動が終わると解放されて、他の用途にまた再利用できるもののことを言う。金型・ツール・作業場所とはリソースである。コンピュータもリソースだ。また働く人も会社にとってのリソースである(Human resourceと英語では呼ぶ)。日本語では経営資源と呼ばれることもある。

例えばホテルは部屋と言うリソースを宿泊客に提供する。交通機関は移動手段を提供する。通信会社は回線を提供する。これらは皆、サービス業だ。また床屋や、マッサージ屋は人による作業を提供する。サービス業は大きく、物的リソースを提供するものと、人的リソースを提供するものに分かれる。

電力や水は、実際には消費されるが、常に供給され続けていつでも利用可能だと言う点で、こうしたリソースに準ずる。ユーティリティーがサービス業の一種なのも、この所以である。

こうしたユーティリティ的サービス業のつらさは、それがいつも提供可能であると利用者が信じているところにある。だから供給が途絶すると、ひどく怒られる。提供している間は、皆が当然だと思って誰も何も言わない。怒られはするが、感謝されない。そういう仕事だ。

特に最近は、消費者の立場になった途端、突然居丈高になる人も多い。お金と引き換えに、他人を気楽に批評し、一方的に要求する立場を、手に入れたと思っている。モンスター・クレイマーと呼ばれる人たちも増えている。それはわたし達の社会において、プロフェッショナル精神が衰弱していることの表れだと思う。売り手ではなく、買い手側のプロ意識が、である。

世の中には、単にその仕事で給料をもらっているから、「俺はプロだ」と思う人が沢山いる。だが、英語のProfessionalはもう少し条件が厳しい。通常、それは知的な仕事であって、それなりの教育と収入を伴う。たとえば医師とか弁護士とか、牧師とか、建築家とかだ。何より、高い職業意識を持つことが資格である。

でも、わたしはプロフェッショナルという言葉を、何も高収入の職業だけに限定するつもりはない。技術者だってお菓子職人だって、きちんとした職業訓練と能力をもち、プロ意識を持って行動する人が、プロフェッショナルだと考えている。

年末、都内でタクシーを拾って四谷駅に向かった。四谷駅は交差点にあるが、JRと地下鉄で入口が確か違っていたように記憶していた。そこで「丸ノ内線の四谷駅に行ってください」と頼んだら、運転手は「地下鉄に乗ったことがないので、駅が分かりません」などという。そしてJRの駅前におろされたのだが、そこから交差点を渡って回り道をしなければならなかった。

だが、そんな妙な言い訳があるだろうか。客の望むところに連れて行くのが、プロフェッショナルの仕事ではないのか。自分に小さな子どもがいなかったら、「○○小学校へ」と頼む客に、「分かりません」というのだろうか? 待ち合わせた連れ合いに、遅れた詫びを言い、タクシー運転手について文句を言ったら、「近頃はプロ意識がない人が多いの。ただ会社に使われるだけで、ちっとも将来に良いことがないから」という。思わずうなってしまった。

プロフェッショナルは、自分の職業的能力をつねに磨こうという意識をもつ。プロフェッショナルは単なるワーカーではない。ワーカーとは、言われた通りのものを作る人、言われたことしかしない人たちのことだ。またプロフェッショナルは、アーティストでもない。芸術家は自分が作りたいものを作る。プロフェッショナルは依頼に基づき、作るべきものを作る。ただし依頼に対して、自分の考え・意見を持ち、それを提案する。「言われたことだけやる人」の反対である。「やるべき事をやる人」といってもいい。

プロフェッショナルは、基本的にサービス業である。能力を売る人だから、当然だろう。特定のモノや成果物を売るのではない。医師は患者の回復を保証する訳ではないし、弁護士は顧客の勝訴を売る訳ではない。ただ、リソースとして、彼らの信頼するに足る能力を売っているのだ。どんな場合でも、つねに80点以上の仕事をする、というのがプロフェッショナルである。そこは、できばえにムラのある天才と違う。安定性と信頼を売っているのだ。

プロフェッショナルになるには、かなりの勉強と継続的学習が必要である。大学出であることが多いが、必須ではない。むしろ、社会に出てからの学びの方が大切だ。

そして、プロフェッショナルは、他の分野のプロフェッショナルを尊重する。なぜなら、専門知識というものの幅や深さを知っているし、一人前の職業能力を得るのがいかに大変か、熟知しているからだ。それを知らない人、プロ意識のない人ほど、他人の仕事に口を出したがる。わたし達の社会で、サービス業へのクレームが多くなる理由が、ここにある。

なお、元々、西洋の概念におけるプロフェッショナルは自営が基本だ。医師・弁護士・建築家など、皆そうだった。英米ではエンジニアという職種もプロフェッションの一種であり、実際カナダでは技術者は労働組合に入れない。ワーカーではないからだ。

だが現代では、専門性を持つプロフェッショナルの多くは、組織人である。たとえばエンジニアという職種は一人だけで仕事を完結できず、多の人たちとの協力連携が必要だ。まあオーケストラの音楽家のようなものだ。だが、このことが、いろいろな混乱の元となっていると、わたしは思う。たとえば、仕事はプロフェッショナルの流儀に従うのか、会社の慣習に従うのか。プロ意識が優先すべきなのか、それとも会社員の帰属意識が優先するのか?

プロフェッショナルの概念と行動規範(倫理)について、最初に議論したのはギリシャ人だったろう。それ以降、いろいろな要件があげられた。たとえば、次のようなことだ:

(1) 真実を尊ぶ(顧客に嘘はつかない。信頼が資本だから)
(2) 自分の美学を持つ
(3) 持論を持つ(思想とまではいかないにせよ)

こうした行動規範に従う代償として、社会的な尊敬を得るのである。そしてプロフェッショナルは自分の職能集団の、社会的な信用を守るのだ (自社を守る、ではなく)。

しかし、現代の企業には、経営思想にもよるが、「一部のスーパーリーダーが決めた仕組みに従って、ただ言われた通りのことだけやる人」を求める傾向がある。一方、プロフェッショナルは自分でやり方を工夫改良し、人にも教える。マニュアル通りにうごき、消耗したら部品のように交換可能な人、ではない。

単なるワーカーはプロフェッショナルではない、と書いたが、もう一つ、プロフェッショナルに程遠いのは、「お役人」である。ここで言う「お役人」とは、公務員と言う意味ではなくて、官僚主義者のことだ。常に権力や規則を振りかざして、人を従わせたがり、また序列の上に上がることばかりを考える。そういう官僚主義者は、民間企業にも多い。

彼らは2、3年ごとにポジションを変わって、ジェネラリストとして管理職に上がると言うキャリアパスを生きる。ふつう1つの職業的能力を得るのに、少なくとも10年はかかるはずだが、彼らはそうした成長への労力を、1つの専門分野につぎ込んだ経験がない。だから他人の能力に対する尊敬心も薄い。彼らが頼りにするのは、自分の能力ではなく、組織の中の自分の職位である。名刺の肩書きで仕事をしたがる。

「ワーカーになれ」というトップダウン式の淘汰圧力と、「上に行きたければジェネラリストになれ」という組織の論理にはさまれて、プロフェッショナルの領域は狭まってきている。プロフェッショナルを目指すとは、実は「業界で通用する人間になる」=「転職できるように自分の価値を上げる」だから、日本企業にとってはそもそも、両刃の剣なのだ。あまり皆に、プロ意識など持ってもらいたくないという気持ちが働く。

それでも、プロ意識を持ちつづけて仕事をする人たちだって立派にいる。彼らが、他のサービス業者に対して臨む態度は、平凡なワーカーやお役人達と、どこが違うのだろうか?

それは、「サービスとは相互的なものだ」との理解を持っている点である。サービスは、人的なものであれ物的なものであれ、信頼の上に成り立っている。その信頼は、じつはサービス提供者だけが責任を負うものではなく、相互信頼に基づくものだ。

サービスの利用者は、自分が何を望んでいるか、きちんと理解して、伝えなければならない。そうでないと、相手は適切に動けない。そして利用者は、自分の要求と、自分のやる行動とが、ちゃんと整合性・一貫性をもたなければならない。相手が口で言うことと、相手の手が求めていることが異なっていたら、何を提供すべきかわからないではないか。プロ意識のある買い手は、この点をきちんと心得ている。

そのような意味で、サービスとは協業なのである。売り手はプロフェッショナルとして、最良のサービスを提供する。買い手は、売り手の能力を最善に引き出せるよう、自分の過度な要望を制する。そして相手のやり方を尊重する。とくにサービスが不定型なものになればなるほど、相互性の度合いも増す。

サービスを買う側と提供する側は、対等である。この「対等」という概念も、現代ではとても誤解されやすい。対等とは、単なる「平等」のことではない。必要に応じて、フェアに、応分の義務を負うという意味だ。高速道路を利用するドライバーは、高速の運転ルールに従う。医師が指示したら、患者はそれに従う。金を払ったのだから、後は何をしても勝手だ、とドライバーや患者が考えるのは賢い態度ではない。もちろん、提供者は報酬をもらう以上、適切な品質の道路や治療を提供する義務がある。

道路や医師のたとえならば誰にも分かりやすいのに、設計や開発やユーティリティ提供などのサービスになると、すぐ忘れられてしまうのはどうした訳か。命じれば何でも出てくる、と思う人が増えると、サービス業全体の生産性が損なわれてしまう。それが、わたし達の社会の問題なのだろう。

サービスとは、いわば「雪かき」のようなものである。誰もが応分に、少しずつ汗をかいて歩み寄る。そうすることで、通じる道ができる。そのような形で、わたし達の社会のプロ意識を再興する希望を、持てるだろうか? 通勤に急ぐ人たちの残した足跡を見ながら、わたしは魯迅の言葉を思い出していた。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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<関連エントリ>
 →「休めない人々」 http://brevis.exblog.jp/14417945/ (2011-03-12)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-24 23:54 | ビジネス | Comments(0)

シンプル化のすすめ

最近、勤務先のPCの環境を移行・再構築せざるを得ない機会があった。まあ、一種のお引越である。面倒な作業だが、このチャンスに、少しファイルやアプリの整理をはかろうと思った。PCを数年間も使っていると、いつのまにか、ローカル環境にも、不要なもの、使わなくなったものが溜まってくる。引越は、ゴミ捨ての良い機会でもある。よし、デスクトップもクリーンにしよう。自分の環境は、できる限りシンプルにしよう。そう、考えている。

いろいろな事を、シンプル化したい。最近はそういう気持ちが強くなった。その方がすっきりして、精神衛生にも良いし、集中できるからだ。

わたしは元々、整理整頓・お片付けがそれほど得意ではない。机の上は、ほっとくとすぐ乱雑になってしまう。読んだりファイルしたりしなければならぬ書類が、どんどん積み上がっていく。そのあげく、書類探しで余計な時間を費やすことになる。忙しいから書類整理の時間がとれない、と自分では思っているのだが、その結果、生産性が下がって、さらに自分を忙しくしているのだ。こういうことを何年間も繰り返し、さすがに「このダウン・サイクルから抜け出すべきだ」と思った。

一つのきっかけは、ある方からのEメールだった。

わたしは経営企画部門の仕事をしているため、回ってくるメールの情報量が多い。わたしでこれなら、本物の経営トップの所には、さらに大量のメールが入ってくるに違いない。

ところで、昨年、ある日本でも指折りの大企業のトップに、直接メールする機会があった。そうしたら、数時間以内に当人から短い返信が返ってきて、度肝をぬかれた。当然、秘書経由で2〜3日後に返事があるんだろう、と想像していたからだ。

その後、ご本人に実際にお目にかかる機会があったが、その頭の回転の速さ、視点の戦略的なことに、また印象づけられた。だからこの会社は、低迷する同業他社を尻目に、業績を伸ばしているのだろう。それにしても、本当に仕事ができる人は、ボールをすぐ相手に打ち返して、自分のコートに止めておかないのだだな、と思った。それなのに、はるか格下のわたしが、何日も遅れて返事するのは、まことに恥ずかしいと肝に銘じた。

そこで、最近わたしが取り組んでいるシンプル化のやり方を簡単に記しておこう。けっして偉そうなことは言えないが、多少なりとも読者諸賢の参考になるかも知れない。

まず、モノのシンプル化である。

自分の持ち物は、自分なりに、ずいぶんと減らした。自分が好きで、大事なものだけを手元に残すように心がけるようになった。たとえばワードローブには、自分が気に入った服だけが並んでいる。引き出しには、いつも使う気に入りの文房具だけが入っている。こういう状態が、理想だ。

ベストセラーになった近藤麻理恵・著「人生がときめく片づけの魔法」には、不要なものを捨てる際のテクニックが、いろいろ書いてる。この著者によると、片付けの際は、自分が持っている服を、全部、床の上に並べろ、という。つまり在庫を一望できる状態に「見える化」するのだ。服全部だと多すぎる場合は、カテゴリー単位に、たとえばシャツなり上着なりを、全部棚から出してきて並べる。その上で、一つひとつ手にとって、「ときめく」かどうかを感じろ、という。ときめかなくなったものは、感謝した上で、捨てろというのだ。いかにも感性が女性的だが、とても面白い。

自分もそれにならって、いくつかのカテゴリーについて思い切った整理を行った。さて、モノが減って少なくなると、なんにもしてないのに、自然と部屋の中が整った形になってくる。これは思いもよらぬ効果だった。

実際、いろんな沢山のモノに囲まれている生活よりも、大切な少数のものを長く使う方がカッコいい。学生の頃、聞いた話がある。ヨーロッパの人は、たとえば毛皮のコートなど、仕立て直して長く着続ける。ときには、親から子に引き継ぐのだという。その後、西欧の街で短いながら暮らす機会があったが、周りを見ていると、たしかにそんな感じがあった。

本当に良いものは、長く使える。値段が多少高くても、引き合う。だから質素な暮らしぶりの人達でも、仕立ての良い服を着ている。環境派の人はリサイクルなどを盛んに言うが、それよりも、長く使える良いものを買う方が地球に優しい。すごく安いけど、買ってすぐダメになってしまう衣類を手に、出張先でため息をついた。

ただし、シンプル化の目的は、整理整頓ではない。見た目が整うことは、むしろ副次的な結果だ。けっして、美意識のためにやっているのではない。また、通常思われているように、シンプル化できるかどうかは個人の性格の問題でもない。片付けられない奴はダメな奴だ、という風には、わたしは思わない。台所はゴチャゴチャだけど、ため息が出るほど美味しい料理を出す人だっている。美観の問題ではなく、その人の大切なモノがちゃんとすぐ出てくるようにすることが、目的なのだ。つまり、シンプル化は生産性向上の問題である。

まとめよう。
(1) モノを整理するときは、カテゴリー単位に在庫の全貌を見てから取捨選択する
(2) 気に入った良いものだけに囲まれて暮らす
(3) モノが少なくなれば、必然的に部屋は整う

モノの次は、タスクのシンプル化だ。昨年わたしはシカゴに行ったときに、有名なLeo Babuta氏のサイト"ZEN habits"を読み、あらためて作業をシングルタスク化して、単純化することの大事さに感銘を受けた。("Creating the Elegance of Simplicity & Focus in Your Work Day” https://zenhabits.net/elegance/
Leo Babutaの教えは、単純だ。
・一度に一つのタスクだけに集中する。できれば10〜15分間は中断せずに。
・PCでもスマホでも、一つのアプリだけを立ち上げる。気が散らないようにするためだ。
・ブラウザのタブも、一つを残して閉じる。もし必要ならば、ブックマークしておく。
・メーラーも、メールの読み書き以外をしているときは、閉じる。

メーラーについては、わたしもかつて「メーラーを閉じろ」(2008-10-18)なる記事を書いたことがあるので、同感だった。だが、Leo Babutaの徹底ぶりは、はるかに上をいっていた。ブログには、彼のiPhone画面がのっているが、その何もないシンプルさには驚嘆した。

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彼の場合、アプリは全部、一つのフォルダの中にしまってある(それは別の頁においてあるので、画面には見えない)。ではアプリの起動はどうするかというと、検索画面から起動するのである。iPhoneでは、フロントページから1スワイプで検索窓が出てくるし、最近使ったアプリのアイコンがその下に並ぶ。だから実際やってみると、複数の画面をめくっていくより、ずっと簡単で早い。

比較のために、普通のiPhoneのホーム画面をのせよう。誰のiPhoneかは、ご想像にお任せする(笑)。残念ながら、なんとゴチャゴチャしていることか! この手のアイコン・タイルが、さらに数画面も続くのだ。
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つづいて、Eメール処理のシンプル化にも取り組もう。モノのシンプル化に比べ、メールや書類は情報だから、取り組みがやっかいだ。

まず、毎日送りつけられてくる大量のダイレクトメールは、極力、すべて購読を止める。毎日、いちいち仕分けして捨てる手間とイライラを考えれば、元から絶つ方が得だ。

つぎに、メールはタイトルやプレビュー画面をざっと見て、以下の3種類に仕分ける:
A. アクションや返信が必須のもの
B. アクションはいらないが、仕事上、必読の情報を含むもの
C. 参考的な情報

BとCは、それぞれ「必読」と「後で読む」のフォルダに移す。インボックスに残るのは、Aランクのものだけだ。一つひとつ開けて、すぐにアクションをとる。開けたメールは、しかるべきフォルダに移す。こうして、インボックスは、極力、きれいな状態にしておく。

すぐ返信できないような内容のメールは、いついつまでに回答します、とまず返信しておいて、自分のToDoリストに期限付きでタスク化する。この方が、何も言わずに数日たってからアクション結果を返信するより、ずっとシンプルだし、相手にも感じが良い。

ここでのポイントは、ToDoリストの利用だ。メールボックスというのは、実は一種のタスクリスト(=ToDoリスト)である。そこには読むべき未読メールと、返信すべき既読メールが、着信時間順に並んでいる。だが、自分にとっての優先度順には並んでいない。ここが不便なのだ。

ところで、拙著『時間管理術 (日経文庫)』にも書いたとおり、ToDoリストをきちんと回す最大の秘訣は、一つのリストに集約することである。いくつものタスクが、複数の異なるリストに入っていたら、自分がやるべきタスクの全貌が見えない。だから仕事上であれプライベートであれ、すべてのToDoを一つのリストに集約する。自分には、1日に24時間しかないのだから、当然である。

ここでも、「持っているタスクの全貌を見えるようにする」が秘訣だ。タスクを全部、ToDoリストの形で、見渡す。それを優先度順に並べ替える。そして最重要なタスクから、一度に一つずつ、取り組んでいく。ToDoリストに転記する手間が面倒に思えるが、得られる効果の方がずっと大きい。

なお、Bランクのフォルダに移した未読メールも、それを読むタスクを定期的にToDoリストに入れておく。時間は30分から、1時間程度にとどめる。Cランクのフォルダは、気が向いたときに読めば良い。

まとめよう。
(1) 一度に一つのタスクに、集中する。最低でも10〜15分間は。
(2) 集中できる環境を作るため、余計なアプリは閉じる。メーラーの通知機能もオフにする。
(3) メールはToDoリストを併用して優先度をコントロールし、読んだら極力その場で返信する。

くどいけれど、シンプル化の目的は、美学でも整理整頓でもない。知的生産性を向上させることにある。なぜ、知的生産性を上げたいのか。それは、「落ち着いて考える時間」を手に入れるためである。


<関連エントリ>
 →「メーラーを閉じろ」http://brevis.exblog.jp/8779827/(2008-10-18)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-08 21:00 | ビジネス | Comments(0)