<?xml version="1.0" encoding="utf-8" ?>
<?xml-stylesheet href="/assets/xslt/rss.xsl" type="text/xsl" media="screen" ?>
<rss version="2.0"
     xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
     xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
     xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
     xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#">
  <channel>
    <title>タイム・コンサルタントの日誌から:E1 マネジメントの技術論</title>
    <category domain="http://brevis.exblog.jp/i36/">E1 マネジメントの技術論</category>
    <link>http://brevis.exblog.jp</link>
    <description>タイム・マネジメントとSCM専門家のエッセー・批評・考察集</description>
    <dc:language>ja</dc:language>
    <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
    <dc:rights>2026</dc:rights>
    <pubDate>Mon, 05 Jan 2026 12:45:23 +0900</pubDate>
    <dc:date>2026-01-05T12:45:23+09:00</dc:date>
    <sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
    <sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
    <sy:updateBase>2013-06-01T12:00:00+00:00</sy:updateBase>
    <image>
      <title>タイム・コンサルタントの日誌から</title>
      <url>https://pds.exblog.jp/logo/1/200508/25/47/e005844720050825233346.jpg</url>
      <link>http://brevis.exblog.jp</link>
      <width>80</width>
      <height>60</height>
      <description>タイム・マネジメントとSCM専門家のエッセー・批評・考察集</description>
    </image>
    <item>
      <title>時計を合わせよう</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33863955/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/33863955/</guid>
      <description><![CDATA[時計は正確でなければならない、なぜなら・・<br />
<br />
<br />
自宅のリビングの窓際に、クリスマス・カクタスの鉢を置いている。小さな緑のサボテンだが、いつもクリスマスの時期になると深紅の花を咲かせる。どうして植物は目も耳もないのに、正確に時を知ることができるのだろう。いつも不思議に思う。時を知るとはどういう事なのか。<br />
<br />
<br />
「時計の針を進ませておいてはいけない」と、亡き父はいった。よく、『時間に遅れないために』時計の針をわざと数分進ませておく人がいる。時間のゆとりを確保しておくためだ。だが、父はそうした意見に反対だった。家の時計は正確に合わせておくよう、母に命じた。なぜなら、「時計は計器である」。それが技術屋だった父の答えだった。<br />
<br />
<br />
計器は正確でなければ役に立たない――それが技術者の感覚だ。安心や余裕のために、計器の針をずらしてはいけない。たとえば体温計を考えれば分かる。体温計は計器だ。『健康のために』体温計を0.2～0.3℃、上げておく人がいるだろうか？　事実が分からなくなったら、計器の役には立たない。<br />
<br />
<br />
ちなみに計器は英語でInstrumentという。これは多義語で、器具や楽器を指す言葉でもある。ただしこれを動名詞化してInstrumentationというと、計器を使った制御、すなわち計装のことを指す（日本で最初にInstrumentationを「計装」と訳したのは、父の働いていた会社だったらしい）。<br />
<br />
<br />
話を戻すが、計器にはときどきキャリブレーション（較正）が必要である。居間の時計をTVの時報に合わせたりするのが、キャリブレーションだ。仕事で使う計器は、定期的に（必ずしも使うたび毎回ではないだろうが）、この作業が必要になる。その間は設備が使えないので、生産性を下げてしまう。無論、較正は必要である。だが生産性が至上命題の組織や社会で、この種の仕事がどう位置づけられるか、想像に難くはあるまい。当然、後回しになる。そして情報は次第に、正確さからズレていく。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
サーバの時刻同期化問題<br />
<br />
<br />
もう20年以上も昔のことになるが、わたしはあるプロジェクトで、発注先の米国のSIerからの追加請求の交渉に直面していた。彼らのクレーム（請求項目）の一つに、サーバ間の時刻同期の問題があった。複数のサーバ群からなる、MESと制御系システムを発注している。当時のことだから、サーバは全て物理サーバで、オンプレミスである。<br />
<br />
<br />
サーバ群のクロックを同期する仕組みを構築する作業は、最初の仕様書に明記されていないから追加役務だ、金を払えというのが、彼らの主張だった。発注側であるわたし達は、「そんなこと当然だろ」のスタンスだ。最初、議論は平行線だった。しかし対象の制御系DCSから時系列データを、MESの一部であるPI SYSTEMに送るとき、時刻がズレて未来のデータになると、MES側が受け取れない。これはパッケージの仕様であった（当時）。しかも彼らは直前に、同等構成のシステムを顧客に納めているのだから、知らなかったはずはない。これを理由に、追加をはねつけた。<br />
<br />
<br />
しかし交渉は複数項目の間の駆け引きでもあるので、この件で逃げ切れたのはラッキーだったと思う。ただ、わたしはその時に、キャリブレーションといっても、絶対値に合わせることと、相対的に合わせることの二種類があるのだ、という事を学んだ。相対的に合っているだけでも役に立つ場合があるのだ。<br />
<br />
<br />
サーバ間の時刻同期は、ISA95でいうLevel-2以下の制御系と、Level-3のMESでは必須である。それぞれが単独で動いている場合は別に問題はない。だが協調して働くときには必須なのだ。そしてこのようなことは、いわゆるOT技術の分野では、昔から常識だった。そのために必要なNTPプロトコルだとか、あるいは近年注目されつつあるTime-sensitive Network (TSN)といった技術の詳細についは、ここでは割愛しておく。ただここでは、近代的なスマート工場を目指すとき、ロボットやマテハン機械でもおなじ問題が起きることだけ指摘しておこう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
協調して働くということ<br />
<br />
<br />
OT分野ではずっと以前から常識だった時刻同期問題を、今さら取り上げたのは、これがまだIT分野では課題になりがちだと、最近感じたからだ。IT分野では、たとえ記録計のSoRであっても、秒を争うようなアプリケーションはごく少数だ。情報系のSoEなら、言わずもがな。ましてクラウド化が進めば、クロックの水晶時計のズレを心配する必要などないではないか。<br />
<br />
<br />
それが、そういってもいられれなくなってきたのは、セキュリティのためだ。サイバーセキュリティ技術は、リアルタイム性がかなり重要になる。悪意ある侵入や攻撃を、いかに瞬時に察知してはねつけるか。それなのにSSOと実体サーバが何秒もズレていては目も当てられない。<br />
<br />
<br />
ただ、そこであらためてクローズアップされるのは、「リアルタイム性」とはそもそも何か、という問題だ。そもそもこの感覚が、OT技術者とIT技術者の間で、基本的にズレている。「リアルタイムとは何か」については、以前このサイトでも書いた（今調べてみたら、もう15年も前だ）。簡単にかいつまんでいうと、「リアルタイム性とは、対象とする系の時定数よりも、有意に短いこと」なのである。ミリ秒とか、マイクロ秒とかがリアルタイム性の定義なのではない。対象とする相手よりも有意に速いかが、リアルタイムの意味なのだ。<br />
<br />
<br />
だから、体温を計るのに十数秒かかる体温計だって、リアルタイムなのだ。なぜなら人間の体温の変化は分とか時間単位でしか動かないからだ。機械式の時計は、1秒ごとに針が動く。それでも日常生活のスピードからはリアルタイムだ。昔、SAP社のERPはR/2とかR/3とかいう名前だった。あのRはReal-timeの頭文字であった。なぜなら、企業の会計は、一日単位で集計できれば、十分リアルタイムだからだ。企業経営の指針としての財務バランスは、そういうゆっくりした時定数で動いているからだ。<br />
<br />
<br />
計器はリアルタイム性が必要である。しかしそれは測定する対象系の「時定数」に依存する。この時定数の感覚、系（物理対象となるシステム）がどれくらいのスピードで変化するのか、に対する感覚こそが重要だ。そして人やモノが協調して働くときには、このリアルタイム性の中で、時を共有する必要がある。<br />
<br />
<br />
そういう意味で、組織の中に時代認識が違う人がいると、協力しにくい（たとえば人手不足問題などが、いい例かもしれない）。シニア世代と、中堅と、Z世代では、時の感覚が違う。なのにお互い、違いをきちんと認識して、同期することを諦めている。<br />
<br />
<br />
「時計は正確でなければならない」と、技術屋出身の、経営者でもあった父はいった。事実とデータに基づいて認識し、決断すること。それが、マネジメント判断の基礎である。そういう教訓が、この短い一言に現れている。今の世でいう「データドリブン・マネジメント」とは、すなわちデータに基づくマネジメント判断である。AIを使うかどうかは本質ではない。事実を客観的にとらえようとする態度の有無が、境目なのだ。<br />
<br />
<br />
だから事実を見て、お互い頭の中の時計を合わせよう。わたし達は協調して働けなければ、何事もなしえないのだから。<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202601/05/47/e0058447_12431712.jpg" alt="_e0058447_12431712.jpg" class="IMAGE_MID" height="640" width="480" /></center><br />
＜関連エントリ＞<br />
「リアルタイムとは何か」  (2010-12-15)<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 05 Jan 2026 12:45:23 +0900</pubDate>
      <dc:date>2026-01-05T12:45:23+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>決断する役割、指示する役割</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33488693/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/33488693/</guid>
      <description><![CDATA[日本のオーケストラの特徴について<br />
あるとき、日本のオーケストラに関する文章を読んでいたら、高名な音楽家バーンスタインのこんな発言にぶつかった。<br />
「このオーケストラ（N響）のことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか？”」（大友直人「あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ　～　バーンスタイン氏の痛烈なひと言」 ）<br />
著者の大友直人氏は指揮者で、若い頃にバーンスタインから直接聞いた発言として書いている。セイジとは故・小澤征爾のことで、彼はバーンスタインの助手だったが、N響とトラブルを起こしたことがあり、だからこういう大げさな言い方をしたのだ、と推測している。つまり、大友氏はバーンスタインの批判に同意していない訳だ。<br />
そうなのかもしれない。だが、別のところで、作曲家の久石譲氏がよく似たようなことを言っていた。久石譲氏は日本では特にジブリの映画音楽で知られているが、指揮者でもある。彼によると、海外のオーケストラに比べて、日本の楽団は非常に気をつかう。指揮者として単純に指示を出せず、「お願い」しないといけない、というのだ（別に特定の楽団を指している訳ではないらしい）。<br />
もっとも直接本人から聞いた訳ではなく、伝聞である。しかも久石譲という人は、日本のクラシック音楽業界の感覚では、すいぶんとカーストが低い人だから、オケが軽く見てあまり言うことを聞かない、という可能性だって、ありそうだ。さそうあきらのマンガ「マエストロ」 でも、第一バイオリン奏者が怪しげな指揮者を警戒して言うではないか。「指揮者はオーケストラの敵だねっ。」・・でもまあ、外国人指揮者、それこそバーンスタインとかカラヤンとかだったら、ごく忠実に指示に従うのかもしれない。<br />
<br />
言うことを聞いてくれない現場<br />
だが、日本の楽団に関するこうした話を聞いて、なぜかわたしは工場での着手完了入力のことを思い出した。ご存じの通り、工場には複数の工程や設備が並んでおり、部品の加工や組立ては、それら一連の作業を通って、製品として完成される。<br />
顧客から受注した製品の納期をたずねられたら、それを構成する部品群が、それぞれ工場のどこの工程まで進んでいるかを把握しなければならない。従来のアナログな工場では、加工対象の現物と、それに添付して流れる紙の現品票だけが、進捗管理の頼りだった。だから生産管理担当者は、現場をあちこち駆け回って、部品の所在と進度を確認する必要があった。こういう仕事だけを専門にやる「進捗追っかけマン」職種のいる工場だって存在する。<br />
ところがバーコードやRFIDの普及は、この消耗で生産性に寄与しない仕事を、不要にすることができる。現品票にバーコードを印字したりRFIDを添付しておき、各工程では、作業担当者が着手時と完了時に、バーコードリーダやRFIDリーダで、それをスキャンすれば良い。現代の生産管理システムや工程管理パッケージ（製造実行システム＝MES）には、こうした入力を受け付けるインタフェースを備えているものも多いから、各部品の進捗状況をリアルタイムで収集することができるはずである。<br />
ところがこれが、日本の工場に限っては、なかなか実現できないのだ。まず、現場の抵抗に遭う。現場側は、「できない」理由をたくさん挙げてくる。技能員が機械を複数台持ちしている、現場に入力端末のための電源やWiFiが届かない、バーコードの汚れや破損時の対応が難しい・・<br />
こうした事は、どれも技術的問題だ。だから技術的に取組めば、何とか解決可能である。だが本当の障害は、技術面にはない。本当の理由は、現場の人間の感情面にある。<br />
「そんなの面倒くさい。今までは無かった作業の追加だ。そんなことをしても、ものづくりのコアの仕事の足しには1mmもならない。」そして、「なんで俺たちが、こんなオフィスから来た他部門のIT担当者の指示を聞かなくちゃならないんだ。」ーー口には出さないが、これが多くの本音であろう。<br />
同じ日本企業に属する工場なのに、海外工場はパッケージソフトが導入できて、日本のマザー工場だけはうまく導入できない、というケースもよく聞く。その背後には、『ものづくり』という直接業務以外の、一切の間接業務を余計な仕事と感じる、一種職人的なメンタリティーがある。さらにその底流には、「よそ者に指示されたくない」という感情の流れがあるのではないか。<br />
<br />
「指示嫌い」症候群について<br />
指示・決断は、マネジメントという仕事の中核である。『マネジメント』という言葉の一番根幹の意味は、「人に働いてもらうこと」にある。働いてもらうにあたっては、目標やプランを決め、迷いや問題が出たら決断しなければならない。とくに複数の人が働く組織で、分業が行われていたら、全体を見て指示・調整する役割が必要である。<br />
つまりマネジメントとは、『役割』なのである。工場では生産管理担当セクションが、生産計画を決め、製造指図を出す。製造現場はそれに従って動く。生産管理が製造部の中にある会社も、部として横に独立している会社もあるが、とにかく生産管理は一種の役割である。生産管理者が現場の技能員の「上位」の地位にいる訳ではない。<br />
ところで、生産管理の指示と、現場側の裁量のバランスは、日本では現場側に秤が傾いている。日単位の作業の着手順などは、現場側の裁量に任されるケースが、わたしの知る限り大多数である。また指示がなくても現場が自発的に作業に動くこともある。<br />
ところが、これが海外工場となると（欧米であれアジア・中東であれ）、基本「指示されたことだけする」形になる。指示されたら、必ず従う。指示されないことは、必要に思えても、しない。労働契約も、そうなっている。作業の着手完了時にバーコードをスキャンしろ、と指示されたら、従う。「そんなの自分の仕事じゃない」とは言わない。<br />
良し悪しを論じているのではない。また「日本だけ特殊だ」「遅れている」という話ではない。ただ、違いを述べている。そして、この違いを理解しないと、海外のやり方を取り入れるときに、気づかぬ障害が起きかねないと思って書いている。<br />
<br />
役割と地位の違い<br />
ここから先はあまり数値的エビデンスのない定性的な話になるが、日本の組織は、自分が属する職能集団の上位者以外からの指示を、嫌うように思える。仕事のやり方は自分たちが一番よく知っている、だから外部から余計な指示はされたくない、と。<br />
指示を聞くのは、「自分が属する職能集団」の先輩・権威者、というのがポイントである。きわめて職人的なメンタリティーかもしれない。現場の作業者は、直属のチーフ・係長・課長・・の指示ならば聞く。しかし斜め上とか外の部門からの指示は嫌う。<br />
会社の仕事を大きく変えるような取組みは、普通、複数部門をまたがったクロス・ファンクショナルなプロジェクトになる。そうした取組みでは、上に役員クラスの責任者もいるだろうが、実質的にはリード役のキーパーソンがどこかの部署から出る。そして、他の部署から見ると、その人間は「外の人」である。<br />
プロジェクトの決定事項は、この人からの決断・指示に見える。だから、心理的には聞きたくない。口には出さないが、意識下ではそういう感情が流れる。こうした感情こそが、「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 にも書いた、日本の製造業の問題に通底しているのではないか。<br />
ただし、例外が二つある。一つ目は、買い手だ。買い手からの指示は、一応ちゃんと聞く。この国では（いや、どこの国でも大抵そうだが）商取引では、売り手より買い手の方が、一般に強い。権力勾配と呼んでもいい。とにかく、お客に言われたら従う（内心不満であっても）。これが、我々の社会のエートスである。<br />
もう一つは、青い目の外人である。明治維新この方、真の本物は、海の向こうから来ることになっている。本家・本場は、西洋にある。だから彼らに従うのは、別にプライドも傷つかない。<br />
<br />
指揮者とは、どういう役割か<br />
ところで、あなたは車を運転していて、交通整理のお巡りさんに指示されて従ったら、プライドが傷つくだろうか？　そんなことはあるまい。それは別に、その警官に権力があるから、ではない。たまたまその警官は交通整理の役割をしていて、自分は運転手の役割だから、それに従ったまでだ。<br />
つまり、指示されることとプライドが関係するのは、その指示が自分の仕事の「質」や「手間」（生産性）に関わる場合なのだ。もっと言うと、指示が仕事のスキルやプロセスに関わるときである。交差点で一時停止しても道を譲っても、それは運転の質には関わらない。製造部が生産管理セクションの指示に一応従うのも、それと同じだ。<br />
もう一つ。交通整理のお巡りさんは、毎回変わる。固定的な関係ではない。上下関係でもない。わたし達の社会では、ほとんどの指示は「固定的な上下関係」から来る。つまり、地位だ。いわゆるタテ社会で、わたし達は地位の上下をめぐって毎日しのぎを削っている。その上下を決めるのは、仕事の質や成果だと、わたし達は思っている。それなのに、それと無関係な斜め上から指示されると、仕事の質を批判されたかのようにプライドが感じるのだ。<br />
ここで最初のオーケストラの話に戻ろう。バーンスタインは、日本の楽団の演奏技術を批判したのではない。指示に対する体勢（スタンス）を批判したのだ。個々の演奏技術と、組織としての動きは別物である。ソロの技巧は高くても、オケ全体がバラバラでは音楽にならない。逆にアマチュアでも、一糸乱れず活き活きと演奏する姿に感動することは、よくある。<br />
指揮者は器楽奏者に、具体的なテクニックを指示できる訳でもない。ただ、そのアウトプット（音量や音程やタイミング）の要求仕様を、伝えているだけである。全体の構造の中で必要なことを、伝えている。全体を構想して、指示を与え、形にしていくのが指揮者の仕事だからだ。指揮者は独立した専門職であって、それなりの教育と訓練を受けなければ、なれない。<br />
そしてもちろん、指揮者はオーケストラの上司ではない。オーケストラを雇っている訳でもない。普通は任期付きの役割である。指揮者は指示し、オケは実行する役割だ。である以上、その決断と指示に従ったからと言って、演奏家＝アーティストとしてのプライドが関わるだろうか？<br />
指示と実行は、車の両輪だ。どちらが上位か下位かの問題ではない。それは役割の違いなのである。両方がそろってこそ、優れた細部と、素晴らしい全体が両立する。わたし達はそろそろ、指示・決断と上下関係とを切り離して、よりオープンな体勢（スタンス）に移行すべき時にきているのではないだろうか？<br />
<br />
＜関連エントリ＞「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 (2024-12-01)「書評：『マエストロ』　さそうあきら」 (2014-09-19)<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Thu, 16 Jan 2025 19:32:16 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-01-16T19:32:16+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>ワンランク上のマネジメントの姿は、一緒に体験してみないと分からない</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/33460578/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/33460578/</guid>
      <description><![CDATA[プディングの味とは<br />
<br />
<br />
「プディングの味は、食べてみないとわからない」という西洋のことわざがある。物事の中には、実際に自分で体験してみないと、わからないことがある。言葉での説明が難しい、言語の伝達だけでは尽くせない何かがある、という意味のことを言っている。大抵の物事は、言語できちんと記述・伝達可能だ、と信じる西洋文化だからこそ生きる、逆説的なことわざである。<br />
<br />
<br />
マネジメントもそういうものだと、わたしは思う。マネジメントにはいろいろな流儀やスタイルがあるし、あって良いが、明らかに上手・下手がある。自分が属する部門であれ、たまたま自分がアサインされるプロジェクトであれ、あるいは会社全体の経営であれ、マネジメントにはレベルの上下がある。できれば上手なマネジメントの下で働きたいし、自分がマネージする立場の時は、うまくやりたい。<br />
<br />
<br />
だが実は、マネジメントが本当に上手かヘタかは、事後的にしかわからないのだ。事前にマネージャーの経歴や資格や人材スペックをいくら見たって、それで安心して評価できるだろうか？　あなたが仮に、誰か外部の業者にプロジェクトを発注するとして、提案書に書かれている経歴や手順で、自信を持ってその企業のマネジメント・レベルが判断できるか？　言葉では、何でも書けるではないか。だがマネジメント能力は言葉だけでは判別できず、プディングの味は食べてみないと分からないのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ある事例から<br />
<br />
<br />
わたしの働くエンジニアリング業界では、大型プロジェクトに取り組む際に、しばしば複数の企業（ライバル同士）が「ジョイントベンチャー」（JV）を組成する。つまり一緒に仕事をするのである。1社だけではリソースが足りないとき、あるいは1社で受けるにはリスクが大きすぎるとき、そうする。初めとの相手と組むことだって、当然ある訳だ・・<br />
<br />
<br />
「どうだった？」<br />
「いやー、ビックリしました。あの会社、『コレスポンデンス・コントロール』の概念が無いんですわ」<br />
「な、なんだそれ。」<br />
——海外のJV相手からの出張から帰ってきた人間が、週次ミーティングでこう報告してきた。JV相手側で調達業務がトラブっているため、調べに行ったのだ。<br />
<br />
<br />
コレスポンデンス（略称コレポン）というのは、会社間の公式なやりとりの事である。コレポンには普通、通しのNO.が発番されており、かつ発信者と受信者の略号が付記される。そして、プロジェクトでコレポンの全リストを保持・共有する。<br />
<br />
<br />
これにより、「貴方が何月何日に誰それに打った、No. XX番のコレスポンデンスによれば、当該系統の電源条件は○○だが・・」という風に、明確にリファー可能な形で伝達し合うのである。リクエストやオーダーの発信・受信確認や、アクションのオープン・クローズなどにも用いる。<br />
<br />
<br />
コレスポンデンス・コントロールは、「言った・言わない」の無用なトラブルを防ぎ、かつ、だらだらと長いチェーンメールの下の方を参照するような、分かりにくいやり方を避けることができる。つまり、コミュニケーションのトレーサビリティを上げる方法である。<br />
<br />
<br />
多くの場合、コレポンはメーリングリスト的な仕組みを媒介して伝送しあうが、Webサイトの書き込みや添付ファイルの場合もある。一昔前だったらFAXだったろうし、TELEXや紙のレターの時代から、こうしたやり方をとっている企業はあった。ところがこの現地のJV相手は、担当者間のメールだけで発注先と連絡を取り合っているという。<br />
<br />
<br />
「発注先ベンダーが5社や10社なら、それでもいいよ。しかし数十社を超えたら、メールだけだと誰に何をいつ言ったのか、トラッキングできなくなるじゃないか？」<br />
「そうなんですよ。小規模なプロジェクトしか、経験したことが無いんでしょうね」<br />
「それじゃ他のマネジメント業務のクオリティも、推して知るべし、だな。プログレスの把握とリソースの掌握も、よほど注意して見ていく方が良いぞ・・」<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
より大きなスケールの仕事は、ワンランク上のマネジメントを必要とする<br />
<br />
<br />
コレスポンデンス・コントロールは、プロジェクト・マネジメントのほんの一部の領域でしかない。だが、一事が万事、である。マネジメントの分野では、一部を切り取ってダメだったら、他が格段に素晴らしいことは期待しがたい。<br />
<br />
<br />
そして念のために言うと、上記のJVパートナー企業の設計能力がダメだという事ではない。技術的には、必要なレベルには達している（だから組んだのだ）。だがマネジメントの仕組みが足りないために、内部での情報のやりとりがグズグズになることを心配しているのである。どんなに個人個人のエンジニアが優秀でも、インプットの情報伝達が怪しければ、良い結果は出せない。<br />
<br />
<br />
マネジメントとは舵取りであり、情報処理の仕事である（交渉と説得なども「情報」と広くとらえれば）。そして情報には、一種の『質量転化の法則』が働く。処理すべき量が増えると、質（処理の仕方）の変化を促すのである。外注先のマネジメントだって、数社相手なら担当者の記憶だけでまかなえても、数百社ならリストの共有と番号によるコントロールが必要になる。数人のチームなら、顔と名前と能力は覚えていられる。だが百人単位の組織では、職務記述と能力表が必要になる。一事が万事、なのだ。<br />
<br />
<br />
だから、ビジネスの規模が大きくなったら、異なるマネジメントの仕組みとレベルが要求される。会社が成長するためには、ワンランク上のマネジメントがいる。記憶と主観と定性的な判断から、数値的で客観的な把握とルールベースの判断基準が望まれる。判断が属人的でなく、メトリクスと原則に基づくものになる。<br />
<br />
<br />
こうした高度なマネジメントでは、様々な手法やテクニックが組み合わさった「方式」「システム」になっている。もちろんマネジメントにはサイエンスとアートの要素があり、マネージャーの資質やスキルに依存する部分も必ず残るが、それを余計な判断に浪費しないですむようになる。<br />
<br />
<br />
とはいえ、こうした「マネジメントの質的な違い」は、なかなか体験してみないと分からない。企業が外部に提出する、製品・サービスとか情報（設計図等）を個別に見ても、固有技術レベルの差は見えるだろうが、企業内部のマネジメントの良し悪しは、見えにくい。<br />
<br />
<br />
マネジメントの良し悪しは、利益すなわち財務諸表に出るはずだ、って？　そうだろうか。マネジメントは判断プロセスに関わるものだ。決算は結果でしかない。それに企業業績は、とりまく市場環境に大きく左右される。好景気で市場全体が成長していたら、平凡なマネジメントでも会社はどんどん利益を拡大できる。企業内の大半の仕事はオペレーションで、マネジメント業務はごく一部である。もし現場にオペレーションを全部任せて、同じ製品を繰返し量産しても利益が出るなら、マネジメントなどお飾りでいい。<br />
<br />
<br />
逆に言うと、マネジメントの上手下手は、逆境の時にこそ分かるのだ。なぜなら、マネジメントとは「適応能力」「問題防止能力」のためにあるからだ。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202501/08/47/e0058447_14304744.png" alt="_e0058447_14304744.png" class="IMAGE_MID" height="313" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
<br />
どうしたら体得できるのか<br />
<br />
<br />
つまり、マネジメントというのは、金銭的価値だけでは評価しにくいのである。じつは、上手なマネジメントのありがたみは、「感情的価値」＝安定感・信頼感にあるからだ。従業員にとってのワクワク感、顧客にとっての信頼感、投資家にとっての安心感。これらはすべて、金銭では測りにくい、主観的な価値である。<br />
<br />
<br />
だから、わたしはよく、カーナビの例えを使う。カーナビがなかった昔と今は、何が違うか。それは安心感、ないし見通しの良さだ。カーナビをつけたって、運転それ自体がうまくなるわけではない。アクセルを踏みハンドルを切るのはドライバー自身だ。だが、現在位置を正確に表示し、目的地までのルートを提示し、到着時刻や速度などを予測してくれる。だから、ドライバーの判断の質が向上する。ここに、ナビの価値がある。<br />
<br />
<br />
では、外から見て分かりにくい上質なマネジメントを、どうしたら知ることができるのか。考えられる方策は、三つある。<br />
<br />
<br />
一番良いのは、ワンランク上の企業に出向して、その中で体験することだ。できれば2年程度は必要だろう。なぜならマネジメントの価値は「いざという時」こそ分かるからで、優れた企業ではそんなに緊急事態は発生しない。<br />
<br />
<br />
ただし、この方法の問題点は、他社で体験した個人が元の組織に戻ったときに、それをうまく伝えてポート（移植）できるかどうかにある。日本の慣例として、出向に出せるのは実務層まで。部門長レベルを出向で勉強に出すことはめったにあるまい。でも知って変革をドライブすべきなのは、この層なのだ。<br />
<br />
<br />
二番目に良い方法は、ワンランク上の企業と、一蓮托生のジョイントベンチャーをすることだ。こうすると実務層からミドル層、そしてエグゼクティブ層まで、否が応でも相手と接して、そのやり方の違いを実感することになる。JV以外でも、協力の仕方はいろいろあるが、JVは共通の財布で利害も共通する点が特徴だ。一緒に仕事し一緒に判断するためには、情報もやり方もある程度開示しなければならないからだ。<br />
<br />
<br />
たとえて言えば、これは運転の上手な人の助手席に座らせてもらうようなものだ。どこが優れているか、どう安心か、体感できる。とはいえ、JV方式が一般的な業界ばかりではない点が、このやり方の限界かもしれない。<br />
<br />
<br />
そして三番目の手段は、ワンランク上の企業に、マネジメント実務の一部を支援してもらうことだ。たとえば大規模プロジェクトを進める差異に、PMO的な業務を外部専門家に委託する方法である（これをプロジェクト・マネジメント・コンサルタント=PMCと呼ぶ）。エンジ業界や建設業界では、PMCを専門とする企業も海外には多く存在する。いってみれば、運転上手な人に助手席に座ってもらい、自分が運転するやり方だ。<br />
<br />
<br />
ただしこれは、経営コンサルを雇え、という意味ではない。経営コンサルは経営層にアドバイスをするだけで、自分で手は動かしてくれない。PMCは面倒なPM実務（とくに情報収集や分析まで）やってくれる。助手席で地図をめくったり、いろいろ情報収集してナビゲーションしてくれると思えば良い。とはいえ、ハンドルを切るのは自分だ。つまり、大事な決断は自分で行わなければならない。それでも学びはそれなりに大きいはずだ。<br />
<br />
<br />
マネジメントという仕事は、言葉で伝えにくく、外から見ても分かりにくい。その価値はお金で測りにくく、だからお金で買ってくることも難しい。体験してみるしかないのだ。どのようにして体験のチャンスを広げるかを考えることが、わたし達の能力をワンランクアップするには、ぜひ必要なのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
「問題はミッドスケールのシステムで生じる」 https://brevis.exblog.jp/17083095/ (2011-12-18)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Wed, 08 Jan 2025 14:10:11 +0900</pubDate>
      <dc:date>2025-01-08T14:10:11+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>『特殊病』それは日本の病気です</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30412458/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30412458/</guid>
      <description><![CDATA[自分のプロフィールに「国内外の製造業及びエネルギー産業向けに、工場作り・生産システム構築の仕事に従事してきた」などと書いているためか、「日本の製造業は、海外に比べて特殊なのですか？」という趣旨の質問をされることが、時々ある。「なぜ日本と海外はこうも違うのでしょうか？」といった聞き方の場合もある。<br />
<br />
<br />
<br />
こうした質問は、日本と海外で同等なはずのものが、なぜか違っていた、との事例とともに、語られることが多い。例えば、同じ企業のグループに属しながら、生産管理系のパッケージソフトを、海外工場ではノンカスタマイズでスムーズに導入できたのに、国内工場では苦労したあげく、失敗したという事例。あるいは、国際標準に従ったサプライチェーンの仕組みが、日本国内だけどうしても使えなかった事例。<br />
<br />
<br />
さらに、国内では立派なプロジェクトマネジメントの実績を持つ会社が、海外に出て行って遂行したら、赤字や納期遅延で痛手を被ったケース、など、似たような事例は案外多い。かくして『日本特殊論』みたいな疑念が生まれてくる。それは果たして本当だろうか、という訳だ。<br />
<br />
<br />
この種の質問に対する、わたしの答えは、イエスでもありノーでもある。海外と言う時、具体的にはどこを指すのか。一口に海外といっても、米国と欧州では事情もかなり違うし、中国、韓国、東南アジアでも状況はそれぞれ異なる。南アジアや中東のややこしさは言うまでもない。それなのに十把一絡げに、「海外はああだが、日本はこうだ」と対比して言えるのか？<br />
<br />
<br />
さらに「特殊」という言葉には、一種の価値判断的な響きがある。特殊はまずいことで、普通が良いことであるかのような。そこで、グローバル標準を背負って推進する立場の人に、「日本は特殊だ」と主張されると、なんだかお前は劣等生だ、と言われてるみたいな反発心も芽生えたりする。<br />
<br />
<br />
一方、「特殊」という用語は、「差別化された」「専門的な」とのニュアンスで、ポジティブに使われることも多い。特殊陶業とか特殊鋼板といった言葉を含む社名は、もちろんそれなりのプライドを感じつつ選ばれたに違いない。むしろ「特別」という形容に近いのだろう。<br />
<br />
<br />
なので、海外と比べて日本は特殊か、と問われても、わたしの答えは「場合による」となってしまう。違っている点はいろいろある。ただ、それは日本だけのことなのか、他にも同様の国はないのか、吟味が必要だ。もちろん、世界の8割がある傾向に属していて、日本が2割の側だとしたら、さすがに「日本は少数派だ」とは言えるだろうが。<br />
<br />
<br />
それでもわたしの経験から、日本企業にかなり共通する特徴的な点を一つ、挙げることができる。それは、「自分たちの業務は特殊である」という自己認識が、非常に多い点だ。<br />
<br />
<br />
仕事柄いろいろな企業と付き合ってきたが、どこの会社を訪れても、「ウチの業務は特殊です」「うちの業界は特殊です」という。人の命を預かる医薬品を作っているから特殊だ、爆発物や危険物を大量に扱うから特殊だ、人の口に入る食品を作っているから特殊だ・・という訳だ。<br />
<br />
<br />
どこの会社に行っても、「うちは特殊です」と、判で押したように言われる。この点は驚くほど共通していて、普遍的である。おかしなことに、ほぼ正反対の理由でも、特殊性の説明になる。曰く、ひどく高価で少量な製品を扱うから特殊だ、ひどく安価でバルキーな商品だから特殊だ・・。そして（わたしの限られた経験ではあるが）、このような特殊性の言明を、欧米企業やアジアの企業から聞いた覚えがない。<br />
<br />
<br />
「自分の業務は特殊だ・特別だ」という自己認識が、日本企業に限っては普遍的である。まことに奇妙なパラドックスと言わざるをえない。そして、特殊なるが故に、「自社の仕事は難しい」「他の業界や他社の事例は、参考にならない」という反応につながっていく。<br />
<br />
<br />
この特殊性の主張は、業界や企業個社だけでなく、部門の業務に降りていっても、現れる。この部の業務は他に比べて特殊で、という枕詞が、たいていの説明の頭につく。さらに、「この業務を担えるのは⚪︎⚪︎さんだけで」との、属人的な分担にまで行き着く。これをわたしは、『特殊病』と呼ぶことにしている。<br />
<br />
<br />
ちなみに「特殊」を表す英語は、”Special”である。もちろん欧米企業にも、specialな業務は色々ある。そして、それを担う職種は「スペシャリストSpecialist」だ。会計にも設計にも物流にも、スペシャリストがいる。彼らは、一種の敬意の対象でもある。だがそれは、彼らの仕事が属人的であることを意味しない。<br />
<br />
<br />
むしろ、設計のスペシャリストなら、どこの会社に移っても、専門家として通用することが期待される。スペシャリストの技量は普遍的である、というのが彼らの認識であって、特殊な仕事だ、とは見なされない。この点が、日本における『特殊病』との違いだ。<br />
<br />
<br />
『特殊病』はなぜ、立ち現れるのか。「特殊である」という説明は、日本企業や当事者にとって、どのようなメリットがあるのか？<br />
<br />
<br />
そのヒントは、先に述べた「差別化」にある。特殊な会社・特殊な業務とは、差別化された存在であることを暗示している。差別化されているが故に、他社や他の業界からは学ぶことができない、という訳だ。<br />
<br />
<br />
もともと差別化戦略は、単純な競争を避けるための手段として、発展してきた。同じような性能・仕様での、コスト競争のガチンコ勝負を避けるため、ライバルにはない機能・特徴を加味し、それをユーザにアピールする。これが差別化だ。<br />
<br />
<br />
差別化とはつまり、単純比較から逃れるための手段である。他業界とのベンチマーク、他社とのベンチマーク、そして他の部署や従業員との比較競争から、少しでも逃れ出るために、無意識に差別化＝特殊化を選ぶ。<br />
<br />
<br />
普遍化とか標準化という思考は、物事を定型的に比較しやすくする作用を持つ。差別化・特殊化は、それに対抗する方向性だ。つまり『特殊病』とは、比較からの無意識の逃走である。これは無意識的な傾向であって、別に業務の特殊性を、戦略として会社が意識して選んでいる訳ではない。たいていの社内業務はユーザとは無縁のところで働いており、アピールする意義もないからだ。<br />
<br />
<br />
業務の細部が属人化していく傾向もまた、その仕事を担う個人の、ジョブ・セキュリティを守る意義がある。彼（彼女）しかできない仕事があって、それが重要なら、簡単にはクビにできないことになるからだ。「この業務は特殊」派の人々は、現場業務に現れる例外的な事象をよく知っていて、ああいう事象もある、こういう例外もある、と指摘するのが得意だ。<br />
<br />
<br />
では、特殊病が企業にもたらす病状とは何か？　こたえは簡単、「学ぶ能力の喪失」である。なにせあらゆる存在、あらゆる業務が特殊で、比較できる対象が無いのだから、外を見て学ぶことはできない。そればかりか、特殊性は新規業務や新規製品にともなっても現れるから、昔と今を単純比較することも難しくなる。つまり、製造業お得意のPDCAサイクルさえ、十分機能しにくくなっていく。「最近の状況は特殊」だからだ。<br />
<br />
<br />
企業が学ぶ能力を喪失したら、前進していける訳がない。日本企業を覆う『特殊病』が、重大な病状であることはお分かりいただけると思う。<br />
<br />
<br />
そしてこの『特殊病』は、ある意味、単純なグローバリズムに対峙する局面で現れやすい。グローバリズムを単純に一括りすることは難しいが、少なくともその中心に、規模拡大志向と標準化思考があることはお分かりだろう。秦の始皇帝や豊臣秀吉が、度量衡の統一を重要な施策としたのは、彼らが標準化の力をよく理解していたからだ。<br />
<br />
<br />
現代のグローバリズムはもっとソフィスティケートされた仕組みで、標準化のローラーを世界中にかけていこうとする。そして、もちろん日本国内にも、欧米の最新の方法論を輸入して、強引に展開していこうとする人たちがいて、政財界やメディアに一定の影響力をもっている。<br />
<br />
<br />
ここまで来ると、なんとなく、学生時代に読んだ丸山眞男『日本の思想』 における、「理論信仰と実感信仰」の議論を思い出す。丸山は日本文化における、二つの無意識的傾向を指摘する。一つは「理論＝公式」に寄りかかって、万事にそれを適用しようとする、理論信仰派である。もう一つは、現実世界に対する自分の実感が全てで、それによって理論を拒絶する、実感信仰派だ。前者の方が少数だが口数は多く、後者は多数派で無言の抵抗をする。この書物は今でも必読の文献だと思う（昭和の思想史の文脈を多少知らないと読みにくいが）。<br />
<br />
<br />
・・さて、以上の書き方でお分かりの通り、わたし自身はどちらの側にも組みしない。グローバルな公式を無邪気に振り回す理論信仰派には共感できないが、現場業務の特殊論で身構える実感信仰派も、問題があると感じる。『特殊病』のスタンスは所詮、守りでしかなく、将来のビジョンを生みにくいからである。<br />
<br />
<br />
特殊か普通か、個別か普遍か、といった議論は元々、相対的なものだ。それは西洋哲学を知るとよくわかる。もちろん、日本と欧米の製造業の商慣習はいろいろと異なるが、どちらが特殊でどちらが普通かといった議論よりも、経済社会という大きなシステムの中で、どれが合理的かというふうに考えるべきだと思う。<br />
<br />
<br />
そしてわたしは、現状肯定に陥りやすい特殊性への着目よりも、より広いパースペクティブでの『抽象化』能力を育てることの方が、現代の日本企業には必要ではないかと考えている。<br />
<br />
<br />
わたしのよく使うたとえだが、在庫理論とは業種業界を問わず普遍的で、ストックする対象がダイヤモンドであろうが、トイレットペーパーであろうが適用できる。それは在庫理論が、対象を抽象化した上で得られた、マネジメント・テクノロジーだからである。ダイヤモンドとトイレットペーパーでは、単価も、売り方も、生産技術も、なにもかも違うように思える。だが、在庫として抽象化してしまえば、共通の考え方とツールが使えるのだ。<br />
<br />
<br />
『特殊病』が日本ではびこっているのは、経済の下降局面で守りのスタンスにいるからだろう。だが特殊化思考だけでは、未来は切り開けない。わたし達の社会の個性や伝統を生かしながらも、外に打って出られるだけのビジョンを得るには、抽象化する能力が必要なのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/10565262/ (2009-07-06)<br />
　「必要な人はいつもたった一人しかいない」 https://brevis.exblog.jp/2916445/ (2006-03-06)<br />
　「書評：「反哲学入門」　木田元・著」 https://brevis.exblog.jp/23954340/ (2015-12-12)<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 12 Aug 2023 21:00:31 +0900</pubDate>
      <dc:date>2023-08-12T21:00:31+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>クリスマスメッセージ――運は実力のうちか</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/30204694/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/30204694/</guid>
      <description><![CDATA[Merry Christmas !<br />
<br />
<br />
受注ビジネスに従事しているので、入札に応じる経験を何度もしてきた。公的な本式の入札もあるし、私企業を相手とする略式の競争もあった。提案書を作り、値段を決めて、期限の日までに客先に提出する。客先はその日になると、各社から出てきた提案書を開封して比較し、一番良いと考える候補者を選ぶ。<br />
<br />
<br />
本格的な国際入札になると、「技術提案書」と「商業提案書」を別々に出すことが求められる。客先は、最初に技術提案書を開封して、内容を比較吟味する。この時点で技術審査に通らないと、商業提案書は開封してもらえない。かりに1円入札、いや1ドル入札をしたとしても、技術点で落第したら仕事は取れない訳だ。<br />
<br />
<br />
入札のことを英語でBidという（Tenderというときもある）。入札への参加要請を、Invitation to Bid、略して「ITB」という。ITBには普通、入札提案書に記載すべき要件、契約書のドラフト、そしてプロジェクトの成果物に関する技術仕様書がどっさりついてくる。ITBは、IT業界でRFQ (Request for Quotation)とかRFP (Request for Proposal)と呼ぶものに、ほぼ相当する。<br />
<br />
<br />
我々エンジニアリング業界にいる人間にとって、ITBは一種の「神の声」である。呼ばれたら、応じる。運がよかったら、好い目を見ることができる。顧客からの「神の声」である要求内容に対し、こちら側から注文をつけることも、一応は許されるが、もし競合相手がその要求を丸呑みしたら、自分は比較審査で当然、不利になる。<br />
<br />
<br />
長年そうした仕組みの中で仕事をしてきて、つくづく思うのは、入札の勝敗には運不運が影響する、ということだ。能力が全てだ、能力が高ければ勝ち、能力が劣るほうが負け――というほど単純ではない。顧客の嗜好、市場環境、競合相手の多さ、資機材価格や為替相場の安定性、相手国の政治環境など、数々の要素が入札結果に関わってくる。その多くは、入札する側のプロマネでは、コントロールしようもない。<br />
<br />
<br />
プロジェクト・マネージャーが、短期的にコントロール不可能な事柄を、「環境」と呼ぶ。環境には「外部環境」と「内部環境」がある。外部環境とは、顧客や相場などの項目である。内部環境とは、社内で仕事を頼む相手部署のリソースの質や人数、自分に与えられた権限・ルール、上司の力量などなどだ。どれも自分ですぐに変えられるものではない。<br />
<br />
<br />
プロマネだったら誰しも、ベストな顧客に恵まれ、ベストなスタッフで仕事をして、ベストなプロダクトを産み出したいと考える。だがその多くは、自分で決められない「環境条件」であり、仕事の成果はそれに左右される。それが短期的に、一番はっきり出てくるのが、入札という仕事だ。<br />
<br />
<br />
入札に負けた経験は、自慢ではないが、たっぷりある（笑）。まあ入札というものは、3社以上で行うのが普通だし、業界内の似たレベルの企業が呼ばれるのだから、もともと勝率は3割以下ということになる。プロ野球選手の打率と似たようなものだ。それでも懸命に作った提案書で入札に負けると、かなり気分的にへこむ。<br />
<br />
<br />
そして、負けた当初は、「運がなかったのだ」と考える。つまり、環境条件が良くなかった、という訳だ。顧客の妙な要求、競合相手の思わぬ値引き、相場の不安定・・責めるべき要因は、いろいろある。自分は懸命に頑張ったのだが、環境が許さなかったのだ、と。<br />
<br />
<br />
だが、そうした敗北から半年経ち、1年経って振り返ってみると、少しだけ違う風景が見えてくる。「あの兆候に、なぜ気づかなかったのだろう」「そうか、あそこの、あの判断がまずかったのだ」と思い当たるところが出てくる。入札の最中は頭に血が上っているので、自分の落ち度に気づきにくい。しかし時が経って冷静になると、より客観的に見ることができるようになる。<br />
<br />
<br />
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉が、スポーツの世界でよく言われる。故・野村克也氏の座右の銘で著書のタイトルにもしているが、もとは平戸藩主松浦静山が『甲子夜話』に遺した言葉だったという。落ち着いて考えると、自分の入札敗北も、「あれでは、勝てなくて当たり前だったのだ」と思い当たる。<br />
<br />
<br />
仕事の成果の何割が、当事者の能力や努力のたまものであり、何割が、環境条件に依存するのか。アイツは運良く良い仕事を割り当てられて業績を上げて出世したが、俺は割の合わない案件で苦労したのに怒られる、などと考えるのは楽しくない。だったら、「今回のこの案件の業績評価では、結果の6割が君の実力、4割が環境条件に左右される分と考える」みたいなことが決められたら、ある意味、評定も透明になると思う。<br />
<br />
<br />
しかし、これを推定するのは、もちろん難しい。とはいえ囲碁や将棋など、ほとんど運の入る余地のないと思われるゲームでさえ、必ず優勝劣敗の結果になるとは限らないのだ。したがって、運が左右する比率は、決して小さいとは言えないのだろう。ただ、自分が負けたときの反省では、ゲームの直後には「環境が大勢を左右した」（環境7割＞能力3割）と考える。しかし冷静になると、「やはり自分の実力が足りなかったのだ」（環境3割＜能力7割）と気づくようになる。比率が変わるのだ。<br />
<br />
<br />
「運も実力の内」という言葉がある。このテーゼは、(環境)⊂(能力)、すなわち「実力がほぼ10割だ」と主張している。あなたは、この主張に同意されるだろうか？<br />
<br />
<br />
「プロマネは結果がすべて」という言葉も聞く。これも、似たようなニュアンスがある。結果が全て、運が悪かった、客が悪かった、というような言い訳をするな。すべてを自分の責任として引き受けろ。と、そう聞こえる。あなたは、それが当然だ、と思われるだろうか。<br />
<br />
<br />
『環境条件』とは、当事者が短期的にはコントロールしがたい物事だ、と上に書いた。「結果が全て」といった言い方は、逆に言うと「どんな環境だって、頑張ればコントロールできる」とのテーゼを表している。たちの悪い客だってうまくリードできるはずだ、使う技術ツールの欠陥だって避けることができるはずだ、与えられたチーム員が無能でもお前が育てて能力を伸ばせばいい。そう、言っている。為替変動だって、（どうやるのかよく分からないが、為替予約でも使うのか）ヘッジできるはずだ。そう、主張している。<br />
<br />
<br />
わたし個人は、このような考え方には同意しがたい。パンデミックも戦争もインフレも、個人の力量と頑張りで影響をカバーできるはずだ、との主張は、組織内の個人に過剰な負担を強いるものだ。それだと、何のために組織があるのか、よく分からない。成員が組織に貢献するのは当然としても、組織が成員を支えることがなかったら、それは単なる収奪の仕組みではないか。<br />
<br />
<br />
もちろん、育成のために、あえて多少難しい場面を経験させることはあるだろう。だが成員が真に困難な状況に陥ったら、上位者が手をさしのべ、あるいは横でも協力して助け合うのが、本来の組織ではないだろうか。<br />
（ちなみに、わたしは勤務先で「プロマネは結果がすべて」と言われた覚えがない。世界の僻地で巨大プロジェクトを進めるのがなりわいの企業なので、あらゆる事象をプロマネの責に帰すのは無理だと考える人が大多数なのだろう）<br />
<br />
<br />
<br />
そして、運が良いとは、『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』でも最後の方に書いたように（P. 237）、「本当につらいときに人が助けてくれる」という意味なのだ。<br />
<br />
<br />
うまく成功したら、運がよかったのだと考える。失敗したら、自分にまずいところがあったのだと反省する。それなりに大きな仕事をしてきた人たちにはこういう共通した態度がある。<br />
<br />
<br />
逆を考えてみればわかる。失敗したら、運が悪かっただけだと言い訳し、成功したら、自分の実力だと宣伝する。こういう人間に、他の人たちはついていきたいだろうか？　「運も実力の内」という言葉は、そういう人間の慢心をたしなめるときに使ってこそ、活きるのではないか。<br />
<br />
<br />
「運も実力の内」との通念は、裏を返すと、不遇な人たちは自業自得だ、要するに彼らは頑張る実力が無かったから、その結果が招いた事態なのだ、という冷酷な考え方にもつながる。過度の実力主義とは、つまり、「運も実力の内」の傲慢さが支配する社会である。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202212/24/47/e0058447_12371970.jpg" alt="_e0058447_12371970.jpg" class="IMAGE_MID" height="192" width="256" /></center><br />
クリスマスの時期になると、シャンパンを開ける機会も増える。そういうとき、昔、シャンパーニュ地方を列車で旅行した際の記憶がよみがえる。車窓からは緑で美しいぶどう畑と、丘陵地帯が見える。素晴らしい景色だ。だが、「ここの人たちは、毎年天候に一喜一憂する暮らしなのだろうな」とも思った。お日様も雨も、人間は左右しがたい。農業という古い産業は、それだけコントロールできない外部環境に依存するのだ。<br />
<br />
<br />
だから農業社会ではどこでも、豊作を願って天に祈る。自分たちが万能でないから、祈りの心が生じるのだ。農作物だけではない。初めての子どもが生まれそうなとき、親しい人が緊急に入院したとき、家族が遠くに旅立っていくとき、そして戦争の不安が地を覆いそうなとき、わたし達は天に祈りたくならないだろうか。<br />
<br />
<br />
宗教というものを知的レベルで批判する人は多い。たしかに地上の全ての宗教の全ての側面が、擁護可能だとはわたしも思わない。だが、わたし達の『祈りたい心』がある限り、この世から宗教が無くなることはあるまい。<br />
<br />
<br />
「明日、何を食べ、何を着ようかと思い悩むのはやめよ。一日の悩みは、一日で足りる」と、かつて中東の宗教改革者は、山上の垂訓で人びとに説いた。この言葉には続きがある。「野の鳥を見よ。種まきも刈り取りもしないが、それでも天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたが本当に必要とするものは、天の父はすべてご存じなのだ」と。<br />
<br />
<br />
わたし達が左右できないものごとは、最後は天に委ねるしかない。そして、天はわたし達の本当に必要とするものは知っておられる、と信じられることが大切なのだ。<br />
<br />
<br />
そして冬の最も暗いこのひととき、どうか、地には善意の人びとに平和がありますように。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　→「クリスマス・メッセージ：フェアな社会を裏付けるもの」  (2021-12-24) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sat, 24 Dec 2022 12:48:30 +0900</pubDate>
      <dc:date>2022-12-24T12:48:30+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>（くどいけれど）マネジメントにはテクノロジーが存在する</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29533198/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29533198/</guid>
      <description><![CDATA[このサイトの目的は、『マネジメント・テクノロジー』について考え、それを読者と共有・議論することにある。マネジメント・テクノロジーとは聞き慣れない言葉かもしれないが、ま、要するにマネジメントのテクノロジーである。 <br />
<br />
<br />
<br />
・・えーと、これじゃ何も説明したことにならないか。日本語で『管理技術』と言ってもいいし、スペース節約と通じやすさのために、そう書くこともある。だが、ほんとは少しニュアンスが変わってしまう。とくに「管理」という日本語は、英語のManangementと守備範囲も異なるし、人びとの受け取る感情も違う。なので、決してカタカナ好きではないのだが、マネジメントという表記を選ぶ <br />
<br />
<br />
テクノロジーの方は、単純に日本語の技術でいいじゃないか。もちろん、そう思いたい。だが、日本語の『技術』がまた、曖昧に使われすぎているのだ。たとえばあなたは、技術と技能を線引きして、使い分けているだろうか？　「あの人のPythonプログラミング技術はすげえ」みたいな言い方は、よく耳にする。でもこれ、実は属人的なスキル、すなわち技能のことを指している場合が多い。 <br />
<br />
<br />
Technologyという英語は、Science - Technology - Engineering、という系列の中で位置づけられる。Scienceは『科学』であり、その目的は真理の探究、客観的な法則性の発見にある。世の役に立つかどうかは二の次、ないし無関係である。科学とはいうなれば、法則性の知識に関する体系である。 <br />
<br />
<br />
これに対し、Technologyは、Scienceの発見の土台の上に構築される発明・方法の体系であって、世の問題解決に資することが大事だ。ただし、実効性が検証されており、役に立つならば、たとえ真の科学的基礎がまだ不明であっても、技術者はそのTechnologyを使うだろう。事実、いろんな分野で使っている。 <br />
<br />
<br />
ではEngineeringとは何か。これを『工学』と訳してしまうと、かえって分からなくなってしまう。明治時代の大学で、科目名を設定する際に、何にでもすべて「〜学」をつけてしまったせいで、この混乱が残っている。Lawはべつに法「学」ではないし、Economicsは経済「学」ではなく、Architectureも建築「学」ではない。同様にEngineeringは工学という名の学問ではない。わたしは長年、「エンジニアリング会社」に務めているが、そこは別に工学の研究をする組織ではない。 <br />
<br />
<br />
Engineeringとは、何らかの仕組みを設計し、実装する諸活動の総称である。その中では、様々なTechnologyを統合して、用いる。もっとも場合によっては、実装をProductionとかInplementationと呼んで、狭義のEngineering＝設計と区別する場合もあるが、ここでは広義のEngineeringについて論じている。そしてEngineeringという活動の中心には、複数のTechnologyのインテグレーションがある。 <br />
<br />
<br />
Engineeringという活動は普通、ビジネスとして行われて、その職業に従事する人びとをEngineerと呼ぶ。Technologyは方法の体系であって、それ自体はビジネスではない（まあビジネスの種とは言えるが）。Technologistという職種を自称する人びとも、まずいない。 <br />
<br />
<br />
テクノロジーに話を戻そう。テクノロジーは世に役立つことを主たる価値とする、と書いたが、もう一つ重要な特徴がある。それは、『再現可能』『共有可能』『移転可能』なことである。テクノロジーの多くは、なんらかの「道具」の形に結実して、繰り返し結果を生むことができ、かつ、人の手に渡すことができる。人に渡せないもの、個人の五感やセンスに依存するもの（senseという英語は「感覚」という意味だが）、つまり属人的な能力は、技能（Skill）と呼ぶべきである。 <br />
<br />
<br />
古くから日本では、縄目が均等に12箇所ついた縄の輪を、測量や工事で用いていたと聞く。この輪を、3:4:5の長さの辺からなる三角形に張ると、3:4の辺の角が直角になる。ピタゴラスの定理（和算では「勾殳玄の定理」）の応用である。この道具を使うと、直角の割り出しを、個人の感覚に依存せずにすむ。そして誰でも、経験が少ない者でも、ただしく直角を割り出せるようになる。これがテクノロジーである。誰かベテランが感覚的に、直角をどんなに正確に描き出すとしても、それはその個人の技能に過ぎない。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202105/23/47/e0058447_22575252.jpg" alt="_e0058447_22575252.jpg" class="IMAGE_MID" height="231" width="500" /></center><br />
<br />
<br />
つまりテクノロジーとは、組織全体の能力を底上げするものなのである。組織の能力は、構成員の能力の単純な足し算ではない。テクノロジーを用いて、組織全体の能力の向上を可能にする、という発想がそこには必要だ。いや、むしろ組織と言うものは、テクノロジーの力を使って、全体として能力を共有・向上できるように設計されていなければならない。 <br />
<br />
<br />
テクノロジーの道具はもちろん、物的なものばかりではなく、計算チャートやプログラムなど、手順・アルゴリズム類も含んでいる。むしろ、アルゴリズムを記憶媒体に記録して共有・移転可能にしたノイマン型コンピュータは、このテクノロジーの範囲を大きく拡げたと言っていい。 <br />
<br />
<br />
ただし、テクノロジーという言葉を、ITやデジタル技術のみに限って使う人が、ときどきいる。「当社はテクノロジーを活用した成長戦略を云々」というから、どんな事かと思って資料を読んでみれば、デジタルの話ばかりだったりする。CTOという役職の人が、専らアジャイルとデータ分析の話ばかりしたりする。こういう傾向は、MBAあがりのコンサルタントなどにも、結構多いが、それは狭すぎる使い方である。 <br />
<br />
<br />
なぜ、こういう偏った語法が通用するようになったかというと、例によって米国のトレンドの真似なのだ。主にアメリカで、金融業とか、小売業とか、B2Cのサービス業などの業界において、大企業がIT (Information Technology)を導入活用するようになった際、IT技術を単にTechnologyと呼んだことに由来しているらしい。 <br />
<br />
<br />
なるほど、こうした業界では、日本風に言えば「文系」の仕事ばかりだから、ITという理系チックな方法の体系が入ってきたら、Techonlogyという語を独占できるのだろう。かつ、こうした業界は戦略コンサルタント業の良いお客様だから、その語法がコンサル業界にもうつったらしい。 <br />
<br />
<br />
しかし、自動車メーカーでも半導体メーカーでもいい、モノづくりに電子やら機械やら計測やら、さまざまな分野技術を総合して使っているような企業では、CTOがITのことしか語らない、などという現象は起こらない（そしてついでながら、戦略コンサルの人達は、こうした、本来の意味でテクノロジー・リッチな企業の成長戦略は、業界出身者でない限り、なかなか描けないのである）。 <br />
<br />
<br />
もう一つ、ついでに書いておこう。それは、「テクノロジー」と「テクニック」の違いである。テクノロジーは、繰り返すが、移転可能な（＝客観的・非属人的な）方法の体系である。では、テクニックとは何か。それは、主に道具や方法の使いこなし方に関する、個人的なスキルを言う。また、体系化されていない、ちょっとした道具や方法を、テクニックと呼ぶことも多い。日本語の「コツ」にも通じる。 <br />
<br />
<br />
誰かが、自動車を複雑な街路をすごいスピードで運転できたら、その人は高度な運転テクニックを持つ、という。まちがっても、その人は運転テクノロジーを持っている、とはいうまい。上記の縄目による直角の割り出しも、それ単体だったら、まあテクニックの部類である。それが木造の日本建築の体系の中に組み入れられているから、テクノロジーの一部とよべるのだ。 <br />
<br />
<br />
それこそ端的に、「あの人はすごいテクニックを持っている」というが、「あの会社は高度なテクニックを持っている」とは言うまい。そう言われると、どんな会社なのか、妙な想像がしたくなるではないか（笑）。かくのごとく、テクノロジーとは、組織単位のものなのである。 <br />
<br />
<br />
だから、マネジメントのテクノロジー、というとき、それはマネジメントに関して、再現可能・移転可能な、組織の共有する方法の体系を意味するのである。 <br />
<br />
<br />
・マネジメントには、客観的で移転可能な方法論がある <br />
　（その根拠には科学的な法則性がある） <br />
・マネジメントは、属人的・主観的なスキルではなく、組織レベルで共有できる能力である <br />
・マネジメントのテクノロジーは、組織のパフォーマンスを上げることができる <br />
<br />
<br />
これは、通常信じられている、下記の考え方と真っ向から対立することが、お分かりいただけるだろう。 <br />
<br />
<br />
・マネジメントは、リーダー個人の属人的な能力で決まる <br />
・リーダーの成果を決めるのは、その人の「やる気」と、「資質」や「運」である <br />
・組織の能力とは、構成する個人の能力の足し算である <br />
・組織のパフォーマンスが落ちたら、リーダーを取り替えればいい <br />
<br />
<br />
もちろん、マネジメントは人が人を動かすことであるから、不可避的に属人的な要素が関わることは、否定しない。そして、人の活動は、モチベーションが大切であることも、いうまでもない。ただ、それらは必要条件かも知れないが、十分条件ではないといいたいのだ。下側の考え方は、そこを不必要に強調しすぎているというのが、わたしの意見だ。 <br />
<br />
<br />
わたし達の社会のマジョリティが、下側の考え方で動いている限り、現在のような不況と混沌からは、決して抜け出せないだろう。だが、残念ながら、今の大学教育でも、企業研修でも、マネジメントのテクノロジーについて教えている場所はきわめて少ない。だからこそ、ささやかながらセミナーやら研究会活動などを通じて、同志を集めようと心がけているのである。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　  (2019-10-05) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 23 May 2021 23:03:51 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-05-23T23:03:51+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>管理のシステム化は可能か？</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29474451/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29474451/</guid>
      <description><![CDATA[「管理不行届」という言葉がある。時折、新聞などをにぎわす言葉だ。通常は人間を対象にした問題が生じた際に使われる（危険物などの保管で使われる場合も、ないではないが、かなりの問題を起こした場合に限られよう）。多くの場合、組織の構成員が、社会問題になるような不適切な行いをした際に、上長とか代表者などの「管理責任」を問うために使われる。管理のかわりに「監督不行届」という場合もある。 <br />
<br />
<br />
<br />
「不行届」という漢字を、「ふゆきとどき」と音訓まぜた読み方にして、しかも送り仮名をつけないスタイルから見て、かなり古い時代から使われている言葉らしい。実際のところ、江戸時代などでも、家中で不祥事があると、大名や重役が幕府から管理責任を問われ、蟄居閉門だのお家断絶などを命じられたようだ（ただし、管理責任を厳しく問いすぎると、問題発生を隠して偽装する、という別の問題行動が生じるのは、江戸時代も今も変わらない）。 <br />
<br />
<br />
ちなみに、国士舘大学の杉野隆氏の研究「『管理』という言葉」（情報システム学会, 2011 ）によると、管理という言葉は元々、「管轄辨理が略されて成立した」という。「管轄」は、皆が知っている通りの意味だ。「辨理」という言葉は、「事務を処理する」（新漢語林）あるいは「弁別して処理する」（広辞苑）ことだという。「管理」の語は、清朝では17世紀末に成立し、日本には18世紀に到来したが、現在のような意味で広く使われるようになったのは、明治以降らしい。 <br />
<br />
<br />
本サイトでは、前々回の記事「管理とは何か、を明らかにする12の質問」  (2021-03-16)と、前回の「管理という仕事をスケールアウトするために」  (2021-03-28)で、それぞれ、「モノの管理」「人の管理」について、そのありようを考えてみた。その結果、両者はよく似た相似形のサブタスクからなる仕事であることが、見えてきた。 <br />
<br />
<br />
さて、「経営資源は人・モノ・金」と、よく言われる（ただし、こういう言い方が通用するのは日本だけらしく、わたしの知る限り、英文の文献では、あまりこの3要素の列挙は見かけない）。ともあれ、モノと人の管理については、考えてみた。お金の管理は、どうだろうか？ <br />
<br />
<br />
お金の管理は、モノの管理と比較的相似形だと考えられる。管理対象を認識し、その数量と状態、そして出入りを把握する。 <br />
<br />
<br />
ただし、お金がモノと違う点は、紙幣・貨幣を個別に追う必要がないことだ。10円玉10枚と、100円玉1枚は交換可能であり、合計した数値だけを「管理」すればよい。お金というのは預金・株式・債券を含めて、ある種の「権利」の表象だからである。 <br />
<br />
<br />
工場などでモノをきちんと管理する場合は、個品を追いかけるために、ロット番号やシリアルナンバーなどを把握する必要がでてくる。しかし、紙幣の番号をいちいち記録しながら出納している会社など、（金融機関の一部業務を除けば）見たことがない。そして紙幣や貨幣には、消費期限がない。修繕の必要も、ほぼない。それは国家が、必要に応じてやってくれる。とても世話なしである。 <br />
<br />
<br />
だから、お金の管理はモノの管理よりもずっと簡単である・・などというと、「それは違う！」と怒る人が大勢出てくると思う。お金の管理が簡単だなんて、とんでもないことだ。お前はお金で苦労したことがないのか？ <br />
<br />
<br />
いやいや、ここでいう「管理」には、「運用」の仕事は入っていないことに注意してほしい。「モノの管理」には、モノを調達したり加工したり消費したり、といった直接業務は含めないのだった。同じように、お金を貸し付けたり投資したり稼いだり消費したりする行為は、ここでいう「お金の管理」には含まない。 <br />
<br />
<br />
もちろん、お金には「利息」や「配当」、さらに市価上昇による「キャピタルゲイン」など、それ自体が時間と共にお金を生む仕組みがある点が、単なる物品の保管とは異なっている。でも物品だって、消費期限や劣化や陳腐化など、時間と共に数量が変化する場合があるから、本質的にひどく差がある訳ではない。 <br />
<br />
<br />
    <br />
むしろ、お金について、気を遣わなければならないのは、法律で「管理」が要求される点である。課税のための会計が求められるのだ。そして、会計においては、数字の正確性と記録性、そして一貫性などが要求される。これがゆえに、お金の管理＝すなわち経理という仕事に、専門職が発生するのだ。 <br />
<br />
<br />
冷蔵庫や工場倉庫の中が、いかに散らかっていても、そして数量が現実とあわなくても、誰も文句は言われないが、経理の数字が違っていたら、税務署に怒られる。だから「お金の管理は難しい、大変だ」と、多くの人が感じるのである。 <br />
<br />
<br />
かくして、モノ・人・お金の管理業務を、比較して見てきた。そして案外、共通性が高いことが分かった。管理においてやるべき事をまとめて、やや強引に抽象化すると、こんな要素になる： <br />
<br />
<br />
(1) 対象のリスティング ・・・ 現在 <br />
(2) 位置・状態のモニタリング・・・現在（位置・属性） <br />
(3) 動きのトラッキング・・・過去 <br />
(4) 当面のフォアキャスティング・・・直近の未来 <br />
(5) あるべき姿のデザイニング（個別対象）・・・要求・評価 <br />
(6) もっていきたい姿のプランニング（全体）・・・意思・目標 <br />
<br />
<br />
これをよくよく見ると、管理という業務の中は、2つのレベルに分かれそうだ。 <br />
<br />
<br />
一つ目は、(1)〜(3)に表される、管理対象の現在・過去の把握、である。さらに(4)の、確定した直近の予定・見込みも含む。つまり現在と過去と近未来に関して、正確な情報をつかむことだ。 <br />
<br />
<br />
いいかえると、管理という仕事の第一層は、ある意味、情報を処理する仕事＝情報処理業務なのである。 <br />
<br />
<br />
だからこそ、「管理システム」という名前のITシステムが、世の中に生じることになる。対象業務は、生産管理だったり在庫管理だったり、あるいは労務管理・出納管理・文書管理などなど、「人・モノ・金」の範疇を含んで、いくらでも広がりうる。 <br />
<br />
<br />
こうした「管理システム」を構築する際は、とりあえず、情報をやりとりするための画面・帳票が規定される。また、業務手順（プロセス）も、一応規定される。さらに、ふつうは、なんらかの台帳も共有される。つまり、ある程度、業務の手続きに関するルールが形式化されるのである。 <br />
<br />
<br />
さらに、多くの場合は、「管理レポート」なる帳票の類いも出力できるようになっている。この管理レポートとは、まあ履歴のリスティングや多少の集計、そして統計分析などが主体である。統計することを「管理」と呼ぶに値するかどうかはさておき、しばしば、何らかのKPIが測られ、計算出力される訳だ。 <br />
<br />
<br />
もっとも、そのKPIに、標準値があり、正常値の範囲（すなわち問題の検知の基準）と、さらに目標値があるかどうかは、別問題だ。そこまでついていたら、たしかに「管理」の名前に似つかわしいと感じるかも知れぬ。昔、わたしの勤務先で、ある管理職の方が、社内開発した「ドキュメント管理システム」の内容を見て、 <br />
<br />
<br />
「これって、単なる『ドキュメント・ステータス・トラッキング・プログラム』に過ぎないではないか。これでドキュメントを管理できる訳ではない。正しい呼び名で呼ぶべきだ」 <br />
<br />
<br />
と主張していたのを思い出す。情報を正確に処理するだけでは、管理として何かが足りない。そう、その管理者は考えた訳だ。では、その足りないものは何なのか？ <br />
<br />
<br />
そこで、上のリストに戻ってみよう。管理の第二層は、(5)と(6)に表されるように、管理対象を望ましい方向に動かすこと、だと分かる。そして、ここには要求や意思・目標、などの要素が入ってくる。つまり人間に起因する要素だ。 <br />
<br />
<br />
では、誰の要求や意思なのか？　直近のことだけを考えるなら、その直接のトリガーは、上から（あるいはユーザや顧客から）課された、要求・指示であろう。管理担当者は、それを管理対象に翻訳して伝達する訳だ。「対象を動かす」と言ってもいい。 <br />
<br />
<br />
しかし、「あるべき姿」「持っていきたい姿」が、誰か外部からの直近の（納期付きの）要求ではなく、自発的な、より中長期的な将来像である場合こそ、より本来の意味で『管理者』の仕事にふさわしい、と言えるだろう。そういう風に、管理対象を構造化・組織化して、動かすのが、管理業務の第二層、より上層の仕事である。 <br />
<br />
<br />
対象を動かすといっても、対象が単なるモノの場合は、「保管」という言葉がふさわしい。また、対象が機械の場合は、運転とか操縦とか制御と呼ぶ。やはり、人間を動かす場合が、一番難しい。対象が人間の場合、あるいは人間を含む「仕組み」の場合は、結果に不確実性も伴う。 <br />
<br />
<br />
ここでいう不確実性とは、「情報の不正確性」とは違う。だから、管理業務の第二層は、情報システムだけでは片付かない。むしろ、伝え方・動かし方の問題になる。そして、動かし方を全体として見た場合の、有用性・効率性・再現性などが、評価尺度になる。だからこそ、管理者側の価値観と意思が問われるのである。 <br />
<br />
<br />
ところで、以前わたしはこのサイトで、「スマートさ」について、７つの基準を用いた定義を紹介したことがある。それはこんな内容であった。 <br />
<br />
<br />
スマートさ：「全体を考えて判断し、自律的にふるまう」 <br />
  1. 現在を正確に把握 <br />
  2. 過去を記憶 <br />
  3. 将来を予見 <br />
  4. 意思と目標を実現すべく計画 <br />
  5. 問題にすぐ気づき解決する <br />
  6. 無駄なことはしない <br />
  7. 経験から学び、学びの枠を柔軟に拡げる <br />
<br />
<br />
このリストを、上の6項目と比較すると、(1)〜(4)がほぼ、1.〜3.に対応していることが分かる。(5)(6)はもう少し詳しく4.〜7.に展開されている。だが、どちらも2つの層からなっている。つまり、「管理」という仕事は、上層の部分まで含めれば、「スマートである」ための条件を満たすのだ。 <br />
<br />
<br />
ITによる管理システムは、もちろん管理の仕事のためには必要だ。だが、それだけでは、第1層をカバーしているに過ぎない。それはスマートであるための必要条件だが、十分条件ではない。賢くなりたかったら、自分の側に、主体的な意思と価値観が必要となるのである。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　 (2021-03-16) <br />
　 (2021-03-28) <br />
　「『スマート工場』はスマートか？」  (2018-05-26) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 05 Apr 2021 23:52:50 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-04-05T23:52:50+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>管理という仕事をスケールアウトするために</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29464078/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29464078/</guid>
      <description><![CDATA[あなたは、新しく開いた塾の先生だ。以前はIT業界で働いていたのだが、思うところあって脱サラし、小中校生を相手に勉強を教える、私塾を開いた。あなたは子ども好きで面倒見が良く、また以前からいろんな形で地域活動にも関わり顔が知られていたので、幸いそれなりに生徒も集まってきた。あなた一人ですべての科目を教えるのは大変なので、知り合いの大学生2人もアルバイトで雇い、手伝ってもらっている。 <br />
<br />
<br />
最初の受験シーズンも終え、成果はまずまずだった。あなたは胸をなで下ろし、新規募集に力を入れよう、と思う。前の職場では途中でエンジニアから営業職に転換され、不本意な思いもしたのだが、その時の経験は、塾生の募集にも多少役立っている。人生、どこで何が役に立つか、分からぬものだ。新学期に向け、新たな入塾希望者も増えてきた。そしてあなたは次第に、子ども達の顔と名前が覚えきれなくなるのを感じる。 <br />
<br />
<br />
そろそろ、塾の生徒たちの管理の仕組みが必要になってきたようだ。では、塾生の管理とは、いったいどういう仕事なのか？　あなたは昔取った杵柄で、「管理という業務の要件」を分析してみることにした。 <br />
<br />
<br />
最初に考えるべきは、あなたの「管理対象」である塾生が、誰と誰か、である。つまり塾生の名簿（リスト）が必要なのだ。それに加えて、本日、塾に来ているのは誰と誰か、も把握しないといけない。以前、ある親から、「塾に行く」といって家を出たまま帰らないのですが、という問合せがあったのだ。それ以来、あなたは入口近くに生徒の名札を下げ、来たら表側にし、帰るとき裏返す、という柔道場方式をとりいれている。 <br />
<br />
<br />
もちろん、当然ながら生徒たちの本来かえる場所（つまり自宅住所）はどこか、連絡先と連絡方法も、リストに記載しなければ。家の固定電話だけでなく、携帯も必要だ。あなたは現在、スマホの簡単な住所録アプリにグループを作って登録しているだけだが、近頃では親御さんともLINEでの連絡が増えてきている。どうしたものか。 <br />
<br />
<br />
次に把握すべきは、子ども達の状態だ。それには健康状態なども含まれるが、何よりも、毎回塾に通ってきているかどうかが大事だ。気持ちが向かってきているか、塾から離れていないか。義務教育の学校と違って、塾は結局、子どもの気持ちと意欲に依存している。 <br />
<br />
<br />
そして最大限に重要なのは、もちろん、それぞれの子どもの能力・態度・成績だ。塾は学校と違い、学期ごとに成績簿をつける訳ではない。むしろもっと細やかに、各人の能力や得意・不得意を見ていく必要がある。それにしても、能力・態度・成績とは、まるで会社における業績評定と同じ評価軸ではないか。むろん成績は科目別に細分化されているわけだが、人の「評価」って、どこでもよく似た形になるのだと、（中間管理職だったあなたは、年度末の査定業務を思い出しながら）思う。 <br />
<br />
<br />
次なる課題は、塾全体としての人数はどうか、である。現状の人数の把握も必要だが、むしろ管理者としてのあなたの主要な関心は、生徒の増加数はどうか、という時間軸の変化である。増加数とはすなわち、入塾・卒業・途中退塾から得られる純増のことだ。学校なら転入出というのも考えるところだが。 <br />
<br />
<br />
塾生の管理ということなら、ここまでかな、とあなたは思う。幸い人数が増えた。おかげで、自分の頭の中だけでは追い切れなくなってきた。そこでリストを作る必要が出てきた。とはいえ、リストも今の人数程度だったら、自分のPCでExcelの表を作れば十分そうだ。管理という業務の要件定義、なんて、習慣でつい身構えたが、データベースとか台帳とかいうほどのレベルじゃない・・ <br />
<br />
<br />
いや、待てよ。あなたは考える。そもそも、管理対象の単なるリストと、『台帳』とは何が違うのだろうか？　ほんとに、PCの中のExcelファイルのままでいいのだろうか。 <br />
<br />
<br />
それではまずそうだ、と今のあなたは思う。なぜなら、他のアルバイトの教師もいるし、経理事務を手伝ってくれている配偶者もいるからだ。この人たちも、必要に応じて、塾生のリストを参照したり、あるいは追記更新したりできる必要がある。個人事業主のあなたが、風邪をひいて3日寝込んだら、塾のすべての業務がストップするようでは、まずいだろう。 <br />
<br />
<br />
リストと台帳の違いなど、今まで考えたこともなかった。業務系システムの中でRDBで定義されたマスタを、台帳と呼ぶのだと、漠然と理解していた。だが、そうではなかったのだ。台帳とは、管理責任者である自分以外も含めて、複数の人間が共有し、必要に応じてアップデートできるリストであり、しかも、一次情報の源であって、情報の真偽はそこを基準に判断するようなリストのことを指している。 <br />
<br />
<br />
いいかえると、管理という仕事を複数の人間に拡大し、一部の機能を移転可能にするために、台帳というツールが必要なのだった。 <br />
<br />
<br />
あなたは前職の時代に、客先の製品倉庫で見た、紙の在庫台帳を思い出す。古くさいが、あの仕組みはちゃんと機能していた。あれは、販売管理システム構築のプロジェクトだったっけ。販売物流の側は、ちゃんと業務をシステム化できた。だが営業部門側は業務がグチャグチャで、各人が勝手に案件情報を抱え込んでおり、システム化は難航した。おまけに、苦労して開発して納めたのに、ろくに使われぬままだった。IT化の前に、台帳の仕組みがあるかどうかが、実は管理という仕事のカギなのだ。 <br />
<br />
<br />
管理対象が少数なら（数個とか数人なら）、すべてを頭の中で追うことができる。だが、対象の数が増えて数十の単位になったら、リスト化が必要になる。対象が百を超えたら、おそらく『台帳』化して複数人が使えるようにするべきだ。そして千個を越したら、もうITを使わなければ不正確非効率でやっていられない。 <br />
<br />
<br />
逆に言うと、管理の仕組みを検討するにあたっては、最初から、「現在の規模をスケールアウトできるようにするには、どうすべきか」を考えておく必要があるようだ。だとすると、現在、想定しておくべき事態は、何だろうか。たとえば、生徒の数が数百人に達したら、何が起きるか。 <br />
<br />
<br />
あたりまえだが、今のように、自分一人とアルバイト2名では回らなくなる。講師を増やして、組織化していく必要があるだろう。そんなことを今から心配してどうするのか、と配偶者は笑うかも知れない。だが、その時はどうすべきか。今度は、部下である講師も管理していかねばならない。講師の台帳が必要になるのだ。 <br />
<br />
<br />
ただ、その場合は、塾生のようなフラットな構造の台帳だけでは、足りないだろう。「組織」になるからだ。業務の組織であるからには、人数や連絡先や能力評価以外に、役割とポジションが適切か、という視点がいるだろう。業務ルールも作らなくてはならない。また、講師についても、求人や教育・認定などの仕組みが必要になる。企業組織の塾や予備校は、そうなっているはずだ。 <br />
<br />
<br />
加えて、現在はいないが、できれば居てほしい人材はいるか？　という問いに答えなければなるまい。今から何年後にそうなるかは知らないが、その時までの経験に学んで、人の管理（この場合は生徒の管理と講師の管理の両面になるが）の仕組みを作り上げるのが、経営者たる自分の責務であろう・・ <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
まとめると、人の管理という仕事は、最低限、以下の項目に答えられるようになっていなければならない： <br />
(1) 管理対象は、誰と誰か <br />
(2) 現在来ているのは誰か <br />
(3) 本来の場所（自宅住所）はどこか、また連絡方法は <br />
(4) 状態はどうか（毎回通っているか） <br />
(5) どんな能力・態度・成績か <br />
(6) 人数はどうか <br />
(7) 入学/退出はどうだったか <br />
(8) 入学/退出はどうなる予定か <br />
(9) 役割・ポジションは適切か <br />
(10) 募集、教育、認定がなされているか <br />
(11) 現在はいないが、できればほしい人はいるか <br />
(12) 経験に学んで、人の管理の方式をつくっているか <br />
<br />
<br />
前回の記事で解説した、モノの管理と比較すると、かなり相似形になっている事が分かる。 <br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/28/47/e0058447_22315374.jpg" alt="_e0058447_22315374.jpg" class="IMAGE_MID" height="394" width="500" /></center><br />
ただし、それは、人の管理がモノの管理と同じような仕事だ、という意味ではない。経験者なら誰でも知っているが、人を動かす方が、モノを動かすよりも、ある意味ずっと難しい。人は（モノと違って）自分の判断で場所を移動してしまう。人間はロボットではないので、同じことを指示しても、動きが異なる。訓練や経験で（そして対人関係や気分で）、動き方をかえる。それぞれが人格と自由意思を持つ存在だからだ。 <br />
<br />
<br />
したがって、個別のイベントから、再利用（再適用）可能な教訓を引き出すことも、モノ相手に比べて、はるかに難しい。それはあなたが、自分の親兄弟や、配偶者や子ども相手に、ほぼ毎日経験していることだろう。 <br />
<br />
<br />
ただ、そうした仕事の難しさの違いは、上の表の、どこに現れているのだろうか？　比べても、あまり差がありそうには思えないではないか。 <br />
<br />
<br />
逆の問い方をしてみよう。あなたが前職で客先に、製品在庫の管理システムを納入したとき、それがカバーした機能範囲は、表の左の列の、どこからどこまでだったのか？　おそらく、(1)〜(10)だったに違いない。 <br />
<br />
<br />
じゃあ、あなたの塾が将来成長したときに必要になる、「塾生・講師の管理システム」の機能範囲は？　それも同じように、(1)〜(10)だろう。(11)「あるべき姿の構想」と(12)「管理の方式づくり」は、ITで自動化したり効率化したりする範疇の仕事とは思えない。 <br />
<br />
<br />
だとすると、モノと人の管理の違い、人の管理の難しさは、もっぱら「あるべき姿の構想」「管理の方式」に潜んでいるに違いない。つまり、管理といっても、そこにはたぶん、二つの層があるのだ。それについて、もう少しだけ考えてみよう。 <br />
<br />
<br />
（この項続く） <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　 (2021-03-16) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 28 Mar 2021 22:45:37 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-03-28T22:45:37+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>「プロジェクト＆プログラム・アナリシス研究部会」（4月7日）開催のお知らせ</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29451019/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29451019/</guid>
      <description><![CDATA[各位： <br />
<br />
<br />
<br />
「プロジェクト＆プログラム・アナリシス研究部会」の2021年第2回会合を開催いたします。緊急事態宣言は21日に解除される予定とのことですが、今回もオンライン開催といたします。ご了承ください。 <br />
<br />
<br />
デジタル技術を活用した企業ビジネスの変革、Digital transformation＝略して『DX』なる言葉が、もてはやされる昨今です。ITツールを用いて変革を実現するためには、業務の「あるべき姿」To-Beを構想し、システムの満たすべき機能のニーズ、つまり要件を明確にする必要があります。そして、業務機能のニーズを考えるためには、あるべき業務プロセスをきちんと設計しなければなりません。 <br />
<br />
<br />
ここまではある意味、｢当たり前の話」です。ですが、わたし達の社会で今、問題なのは、この「当たり前」を、ちゃんとできる企業が少ない事です。ビジネスプロセスの設計？　それどころか、現状の業務フローすら、全体像を誰も知らないケースが、少なくありません。 <br />
<br />
<br />
自分の組織の業務が、どういう階層になっていて、自分たちの仕事のやり方（プラクティス）の、どこが優れていて、どこがまずい点なのか、責任を持って考える立場の人がいない、そんな話もよく耳にします。これでは業務改革プロジェクトなど、進むはずもありません。でも当然だ、なぜって、世の中には「ビジネスプロセスの全体像」に関する百科辞典、なんとかPediaみたいなものが無いんだから・・そんな風に考えていませんか？ <br />
<br />
<br />
では、企業や業種の壁を越えて、標準的な業務プロセスのリファレンス・モデルが入手可能で、おまけに分野ごとの『ベスト・プラクティス』まで、おまけについてくるとしたら、皆さんはどう思われますか。今回は、そんな超上流工程を助けるツールとノウハウを開発し続けてきた、（株）プロセスデザインエンジニアリング代表取締役・渡辺和宣様に、ビジネスアナリシス方法論『GUTSY-4』と業務参照モデルについて、お話しいただきます。 <br />
<br />
<br />
渡辺様には、もう25年近くも前になりますが、日本最初のERPの技術解説書「SAP R/3ハンドブック」（共著・日本能率協会マネジメントセンター刊）の執筆で、お世話になりました。氏は当時から一貫して、情報システム部門のあり方の改革の必要性、そしてビジネス・アナリストの方法論開発を、主張してこられました。その持論と到達点を、ぜひ多くの方に聞いていただきたいと思っています。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜記＞ <br />
<br />
<br />
■日時：2021年4月7日（水）　18:30～20:30 <br />
<br />
<br />
■講演タイトル： <br />
「標準プロセスとベストプラクティス（うまいやり方）の構築方法<br />
　　～21世紀『知識の時代』に大きく乗り遅れた日本はどう対応すべきか～」<br />
<br />
<br />
■概要： <br />
東京都の中小製造業で、受注生産品の売上を6年で13倍に拡大した事例で活用された、「GUTSY-4」。 <br />
GUTSY-4は業務参照モデル、プラクティスが整理されており、個人に依存せず誰でも業務分析、システム上流設計にアプローチ出来る、工学的手法です。連結売上３兆円の企業グループにおいて、採用された手法です。 <br />
ビジネスプロセスをありのままに見える化し、共有する現実直視。標準的プロセスと比較して強み弱みを把握する客観評価。それらが出来てからプロセスや用語の標準化、暗黙知の形式知化と共有、そして優れたプラクティス（業務のうまいやり方）を検討します。 <br />
<br />
<br />
■講師：株式会社プロセスデザインエンジニアリング　代表取締役　 <br />
　　　　バリューチェーンプロセス協議会　前理事長 <br />
　　　　一般社団法人　ICT経営パートナーズ協会理事 <br />
　　　　渡辺　和宣 <br />
　 <br />
■講師略歴： <br />
1948年生まれ。中小企業診断士やIT関係など資格は全て未更新で喪失。 <br />
53歳で独立後、15年間をかけてビジネスアナリシス方法論と業務参照モデルを開発し、 <br />
かつ日々バージョンUPに追われる。 <br />
ユーザであるS電工グループへEnable機能とプラクティスのグループ共有を提案中。 <br />
<br />
<br />
■参加希望者は、三好副幹事までご連絡ください。後ほどオンライン会議のリンクをお送りいたします。 <br />
<br />
<br />
■参加費用：無料。 <br />
　ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金（¥1,000）は免除されます。 <br />
　 <br />
　以上、よろしくお願いいたします。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
佐藤知一＠日揮ホールディングス（株） <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Fri, 19 Mar 2021 23:06:54 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-03-19T23:06:54+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>管理とは何か、を明らかにする12の質問</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29447313/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29447313/</guid>
      <description><![CDATA[何度か書いたことだが、わたしはこのサイトでは原則、「管理」という言葉を使わないことにしている。「管理」という日本語は多義的で、人により文脈により、何を指すのかブレが大きすぎるからだ。「ちゃんと管理しておけよ！」——そんな風に、部下が上司に叱られたとき、上司が求めていたことは何だったのか。部品材料の保管のことなのか、取引の追跡把握（トラッキング）のことなのか、人への作業指示のことなのか。あなたは間違いなく言い当てられるだろうか？ <br />
<br />
<br />
じつはこの稿、最初は製番管理について書こうと思って、内容を考えはじめたのだ。きっかけは、ある知人からの質問であった。『製番管理』とは、数ある生産管理方式の一つである。日本ではかなり広く用いられている方式だ。だが、これを理解しようとすると、どうしても生産形態と生産方式の区分、そしてそれらと生産管理方式との関係への目配りが必要になる。 <br />
<br />
<br />
ところで、生産方式と生産管理方式、と言葉を並べたところで、その区別がちゃんとできる人が、世の中にどれだけの比率でいるのか、ちょっと不安になってきた。「方式」はしばしば「システム」という言葉で置き換えられもする。在庫管理の「ダブルビン方式」は「ダブルビン・システム」だし、キャバレーの「明朗会計方式」は（わたしの専門外だが）、「明朗会計システム」とも呼ばれる。じゃあ、生産方式と生産管理方式は、生産システムと生産管理システム、と置き換えは可能だろうか。だが「生産管理システム」と呼んだとたんに、いつの間にかITシステムの話にすりかわってしまわないだろうか？ <br />
<br />
<br />
こういう風に話がやっかいになるのは、結局、皆が「管理」や「システム」という言葉を、その場の雰囲気で、いろいろに使ってしまうからだ。そこで今回はあらためて、日本語で「管理」と一般の人が言う行為は、どういう要素から成り立っているのかを、（英語のManagementとかControlは引き合いに出さずに）ゼロから整理し直してみよう。 <br />
<br />
<br />
そもそも、「管理」という行為は、何を対象とするのか。よく世間の人は、「人・物・金」という言い方をする。いや、世間の人だけでなく、経営を専門とする某学会も、学会発表の演題分類がこの3種類からできあがっている（なので、『プロジェクト・マネジメント』の研究はどこに出したらいいか迷うのだが、余計な話であった）。ともあれ、「人の管理」「モノの管理」「お金の管理」は、それぞれ管理という語の用法としては、しっくりくるだろう。 <br />
<br />
<br />
そこで、一番単純と思われる、「モノの管理」から考えよう。 <br />
<br />
<br />
まず、最初に考えるべきことは、 <br />
<br />
<br />
　(1) 所有しているものは、何と何か <br />
<br />
<br />
であろう。これが分からないようでは、「管理している」とはとうてい言えぬ。 <br />
もちろん、所有していないが借りているものだって、あるわけだ。だとすると、 <br />
<br />
<br />
　(2) 手元にある（借りている）ものは何か <br />
<br />
<br />
も大事だ。ここまでは『対象の把握』である <br />
<br />
<br />
さて、「モノの管理」というだけでは抽象的で、イメージがつきにくいかもしれない。そこで、誰の家にもある「冷蔵庫の中のモノの管理」を考えれば、少しわかりやすいかもしれない。そうなると、それぞれの管理対象のモノについて、 <br />
<br />
<br />
　(3) 所在はどこか <br />
　(4) 状態はどうか <br />
　(5) どんな性状（属性・品質）か <br />
　　　→少なくとも、使えるか、使っているか、使えないかの区別 <br />
　(6) 数量はどれくらいか <br />
　　　→少なくとも、足りているか、足りないか、余っているかの区別 <br />
<br />
<br />
あたりは、把握していないといけないはずだ。ここまでは『現状の把握』だということができる。まあ、ご家庭の冷蔵庫でも、ここらへんまでは、ユーザが（ふつうは頭の中で）「管理」しているだろう。 <br />
<br />
<br />
次なるレベルは、 <br />
<br />
<br />
　(7) 出入りはどうだったか <br />
<br />
<br />
である。これは、ある期間（1日、1月など「管理単位」の期間）に、何が加わり、何が減ったか、を把握することだ。冷蔵庫から何を出して使い、また何を買って入れたか。すなわち、「現在」に加えて、『時間軸と変化の把握』という要素が加わる。さらにいえば、 <br />
<br />
<br />
　(8) 出入りはどうなる予定か <br />
<br />
<br />
もほしい。過去だけでなく、「未来」の要素も加える訳である。 <br />
<br />
<br />
そして、さらに管理レベルには上がある。それが、 <br />
<br />
<br />
　(9) 使いやすい位置においてあるか <br />
<br />
<br />
である。冷蔵庫はたいてい、平棚の奥が深いので、どうしてもLast-in, first-outで、時間と逆順になってしまいがちだ。奥にしまったあげく、忘れられることもししばしばある。そこで、整理整頓というアクションを伴う。これは、使用する際の効率化をねらっている訳だ。そして、 <br />
<br />
<br />
　(10) 補充、廃棄、修繕がなされているか <br />
<br />
<br />
も大事になる。足りない食材は買い足しし、賞味期限の過ぎた古くなったものは捨て、倒れやすい食器の中身はタッパにでもうつし、容器のふたが外れていたらラップをして、使える状態に保つ。つまり、モノに関する問題解決であり、さらにいえば標準化でもある。ここでは、管理という行為が、単なる情報の把握を超えて、能動的で具体的なアクション（＝こと）を生み出していく。これの延長にあるのが、 <br />
<br />
<br />
　(11) 無いもので必要なモノはあるか <br />
<br />
<br />
を考えることだ。つまり目の前に「あるモノ」から、「ないモノ」に管理対象を広げるのである。いいかえると、それは、「あるべき姿」を考えることである。ここまで来ると、かなり高度な管理だといっていいのではないか。 <br />
<br />
<br />
では、モノの管理の最上位課題は？　それは、 <br />
<br />
<br />
　(12) 経験に学んで、モノの管理の方式をつくっているか <br />
<br />
<br />
である。モノに関わる個別の出来事から、再利用（再適用）可能な教訓を引き出すこと。そしてモノの管理の方式をつくり、あるいは改良すること。ここまで来れば、あとは自律的に回っていく。 <br />
<br />
<br />
こうして数えてみると、モノの管理なる行為は、12個（ちょうど1ダース）の疑問文に答える要素からなっていることが分かる。そして最後にあげた「管理の方式」は、これら12の課題を、カバーできるようになっている必要がある。 <br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202103/16/47/e0058447_21025995.jpg" alt="_e0058447_21025995.jpg" class="IMAGE_MID" height="501" width="500" /></center><br />
ところで、上にあげた行為の中には、冷蔵庫の中のものを出して食べたり（消費）、煮炊きして料理したり（加工・製造）、あるいは八百屋さんで美味しそうなものを見つけて買ってきたり（調達）、といった楽しいことは含まれていないことに注意してほしい。 <br />
<br />
<br />
調達・製造・消費といった行為は、会社の仕事でいえば『直接業務』である。直接業務のつながりによって、価値が生み出される。直接業務がなければ、文字通りわたし達は、飢えて干上がってしまう。これに対して管理というのは『間接業務』だ。間接業務というのは、たとえしばらくの間は止まっても、あまり切実にはこまらない。 <br />
<br />
<br />
また、こうやって整理してみると、たとえ冷蔵庫といえど、「管理レベル」の差がありそうだと分かる。(1)に答えられないようでは論外。(6)くらいまでは普通レベルだろう。(9)(10)は、上手下手はあれど、できている人も多いと思う。でも(11)(12)は、どうだろう。 <br />
<br />
<br />
家庭の冷蔵庫に当てはまることは、もちろん、工場の部品倉庫や製品倉庫、はたまた建設現場の資材置き場などにも、同じように当てはまる。そして、後で述べるが、会社の仕事となると、「全部頭の中で」管理します、ではすまなくなってくる。 <br />
<br />
<br />
だからこそ、(12)が課題となるのである。だが、そうなると、そもそも「モノの管理の方式って何だ？」という問いを、逆に返されるかも知れない。そう。それを考えるのが、本稿の目的なのである。 <br />
<br />
<br />
でも、答えにジャンプする前に、もう少し、「管理」の仕事の中身を探ってみよう。お金や人の管理の場合、何が違うのだろうか？ <br />
<br />
<br />
（この稿続く） <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　  (2017-12-18) <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Tue, 16 Mar 2021 21:15:35 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-03-16T21:15:35+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>リスク回避か、リスク追求か、それが問題だ</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/29384788/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/29384788/</guid>
      <description><![CDATA[人がお金に対して感じる価値は、金額それ自体に比例する訳ではないらしい。たとえば1万円しかない財産が2万円に増えるのと、1,000万円の財産が1,001万円に増えるのとでは、同じ1万円の増加ではあるが、前者のほうがありがたみが大きい。 <br />
<br />
<br />
つまり、金額の増加に対して感じる価値は、金額が大きくなるほど、少しずつ鈍くなっていく。グラフの横軸に金額を取り、縦軸に「感じる価値」をとったら、それは右上がりだが、上に凸のカーブになると思われる。 <br />
<br />
<br />
経済学では、この「感じる価値」のことを『効用』と呼び、金額が1単位増えるときの効用の増え方を「限界効用」と呼ぶ習わしだ（数学的に言えば微係数である）。つまり、限界効用は少しずつ小さくなっていく。これを「限界効用逓減の法則」という。現代の経済学では、この考え方に従って、人間の財貨に対する様々な行動を予測し説明する理論が構築されている。 <br />
<br />
<br />
そして、複数の選択肢があって、それぞれ実現される確率が推定できる場合には、全体の効用は、各々のケースの効用を、確率の重みで足したもの（＝つまり効用の期待値）で測ることができる、と考える。これを『期待効用理論』と呼ぶ。経済行動の結果は不確実な場合も多いから（その典型は株式を買ったときだ）、期待効用を最大化するように、行動を決めるべきだ。経済学では、そう教えている。 <br />
<br />
<br />
効用のカーブが上に凸なので、同じ金銭的期待値を得られる場合でも、人は、確実な結果を得られる行動の方を、リスキーで不確実な「博打」的な行動よりも好むことになる。人間の「リスク回避的」な性質を、経済学ではこのように説明してきた。これは前回も書いたとおりだ。 <br />
<br />
<br />
芝居のハムレットは、「生か、死か、それが問題だ」と悩む。このまま、何事もなかったかのように生き続けることもできる。あるいは、亡き父王の雪辱を晴らす復讐に踏み込むか。その場合は結構な確率で、自分の命も危険にさらされるだろう。リスク回避か、リスク追求か、それが問題だ、と。そして多くの人は、リスク回避を選ぶのだ。 <br />
<br />
<br />
ところで、この期待効用理論に対しては、ときおり疑問が投げかけられてきた。その一つが、下のような問題だ： <br />
<br />
<br />
「ここに、碁石の入った二つの壺がある。壺Aには、黒石と白石がちょうど50個ずつ入っている。壺Bにも碁石が100個入っているが、黒と白の比率はわからない。 <br />
　今、あなたはどちらかの壺を選んで、そこから1個碁石を取り出し、それが白石だったら1万円もらえる。あなたはAとBの、どちらの壺を選ぶだろうか？」 <br />
<br />
<br />
多くの人は、ここで壺Aを選ぶ。だが、それはなぜなのか？　数学的に見たら、どちらにも差はない。白石を選んで掛け金を得る期待値は、ともに5千円だ。もし差があるとしたら、壺Aは「確実に50%の確率」だが、壺Bは「確率50％と考えるしかない」という違いである。おかしなことに、人は、同じ確率50%に、確実か推測かという違いをつけたがるのだ。そして、確実な方を選ぶのである。 <br />
<br />
<br />
この問題を考えたのは、ダニエル・エルズバーグという経済学者なので、「エルズバーグのパラドックス」と呼ばれている（ただし上の例は、オリジナルより簡略化している）。ちなみにエルズバーグはランド研究所RAND Corporationという、米軍が設立したシンクタンクに働いていた。ランド研究所は、作戦研究（のちのOR研究）のメッカとして知られ、フォン・ノイマンやジョン・ナッシュなど、錚々たるメンバーが関わっている。 <br />
<br />
<br />
（ちなみにエルズバーグは後に、国防総省のベトナム戦争に関する秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を持ち出して、新聞に対しリークしたことで知られる。同名の映画にもなったが、つい先日、彼の協力者であった元記者が亡くなり、久しぶりにその名をメディアで見ることになった） <br />
<br />
<br />
もう一つ、例をあげよう。後にノーベル賞を受賞するフランスの経済学者モーリス・アレは、1952年に次のような問題を提出する。 <br />
<br />
<br />
「A: 確実に100万円もらえる <br />
　B: 10%の確率で250万円を、89%で100万円をもらえるが、1%は賞金ゼロ」 <br />
<br />
<br />
どちらを選びますか？　 <br />
たぶん、多くの読者はAを選ばれたに違いない。では、次の問題。 <br />
<br />
<br />
「C: 11%の確率で100万円もらえるが、89％は賞金ゼロ <br />
　D: 10%の確率で250万円もらえるが、90％は賞金ゼロ」 <br />
<br />
<br />
どちらを選びますか？　<br />
明らかに、Dの方が有利に見えるに違いない。事実、期待値を計算すると、C=11万円、D=25万円だから、Dをとるのが合理的だ。 <br />
<br />
<br />
だが、そうだとしたら、期待値はA=100万円、B=114万円なのだから、Bの方が有利ではないか。しかも、AとBの差は、CとDの差と同じ14万円なのである。なのに、なぜ多くの人はAを好んだのか？ <br />
<br />
<br />
これは、「アレのパラドックス」と呼ばれる。どちらも、期待効用理論とは異なる答えを、人々は選ぶ。わたし達はどうやら、確率の絡む問題については、なんだか数学の教えることとは違う方向を、選びたくなる傾向があるらしい。 <br />
<br />
<br />
これを単に、「理論の逸脱現象（Anomaly）だな」とか、「世の中には、合理的に考えられない連中もけっこう多いのさ」と片付けてしまっては、知識の進歩はなくなってしまう。こうした傾向の背景には、なんらかの一定したパターンと、それを生み出すメカニズムがあるはずだ、と思うほうが、知的であろう。 <br />
<br />
<br />
そういうアプローチの一つの成果が、行動経済学と呼ばれる分野の『プロスペクト理論』であった。これを確立したのは、実験心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーである。トヴェルスキーは50代の終わりに亡くなるが、カーネマンは後に心理学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞する。 <br />
<br />
<br />
プロスペクト理論が提案する、金銭に対する心理的な価値のカーブは、下の図のようになっている。図の右上の部分は、上に凸のカーブで、前回示した図とほぼ似ている。しかし、左下の部分は逆に、下に凸のカーブであり、しかも勾配が右側に比べて急になっている。左右非対称なのだ。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202101/25/47/e0058447_06071441.jpg" alt="_e0058447_06071441.jpg" class="IMAGE_MID" height="423" width="500" /></center><br />
図の中心は、「参照点」と呼ばれる。これは、別に金額ゼロを意味するわけではない。意思決定を行う人が、心の中に持っている、期待する現状＝「参照」の点である。まあ、普通の場合は、現在持っている財産だろうが、あるいは、同僚が受け取る給料が参照点になる場合だって、大いにありうる。 <br />
<br />
<br />
そして、マイナス（損失）側のカーブの勾配が急である、ということは、損失の方が「強く感じられる」ことを意味している。これは心理的な傾向であって、おそらく脳に起因するメカニズムから生まれてくる。 <br />
<br />
<br />
カーネマンは、「コインを投げて、裏が出たら100ドル失うが、表が出たらXXドルもらえる」というギャンブルに乗るかどうか、という問いを多くの対象者相手に実験した。その結果、利得がほぼ200ドルになる点が、100ドルの損失と釣り合う、という事がわかった。損失は利得の2倍の心理的な感度がある、ということだ。これを「損失回避倍率」という。 <br />
<br />
<br />
損失回避倍率は、1.5〜2.5の範囲にあることが分かっている。よく、「部下を育てたかったら、1回叱って、3回ほめろ」と言われるが、この法則に確かに合致している。1回叱ったら、その心理的マイナスは、2回誉めても埋まらないことが多いのである。 <br />
<br />
<br />
かくて、人がリスク回避的な思考習慣や行動傾向を持つメカニズムは、かなり明確になった。同時に、単純な期待効用理論は適用範囲に限界があることも、明らかになったわけだ。 <br />
<br />
<br />
ただ、カーネマンはプロスペクト理論が万能だとは言っていない。その一つは、「フレーミング効果」と呼ばれる現象だ。カーネマンの著書「ファスト＆スロー」から引用しよう（邦訳下巻 P.201） <br />
<br />
<br />
「アメリカはいま、アジア病という伝染病の大流行に備えていると想像してください。この流行の死者数は、放置すれば600万人に達すると見込まれています。対策として二つのプログラムが提案されています。正確な科学的予測によれば、効果は次のとおりです。 <br />
・プログラムAを採用すると、200万人が助かる <br />
・プログラムBを採用すると、1/3の確率で600万人が助かるが、2/3の確率で一人も助からない」 <br />
<br />
<br />
この問題では、圧倒的多数の人がAを選ぶ、という。ギャンブルより確実を選ぶのである。 <br />
ところが、この問題は、次のようにもフレーミング（枠組み設定）できる： <br />
<br />
<br />
「・プログラムAを採用すると、400万人が死ぬ。 <br />
　・プログラムBを採用すると、1/3の確率で一人も死なずにすむが、2/3の確率で600万人が死ぬ」 <br />
<br />
<br />
こう出題すると、大半の人間が、Bのギャンブルを選ぶのだ。すなわち、「選択の結果がどちらも好ましい場合には、ギャンブルより確実性を好む傾向がある。つまり、リスク回避的になる。しかし、どう転んでも結果が悪いときは、ギャンブルを容認する。つまりリスク追求的になる」という（同書 P.202）。 <br />
<br />
<br />
（ちなみに、上の引用文は、元は「400人」だったものを、「400万人」に変更した。しかし、その他は「アジア病」という言葉まで含めて、原訳文のとおりだ。なんだかカーネマンは、今の世界的大流行状況と対策決定の論争を、まるで予見していたかのようだ） <br />
<br />
<br />
フレーミング効果とは、ある意味では、参照点をずらす効果だと考えてもよさそうだ。だとすると、わたし達が一括請負型プロジェクトのような、一種ギャンブル性のあるビジネスになぜ、引きつけられるかも見えてくる。 <br />
<br />
<br />
SI業界でみても、受託開発の多くは一定の利益を上げるが、稀に大きな損失を出すことがある。それは、わたし達のフレーミングがマイナス側にあるからなのだろう。すなわち、「この案件に応じなければ、確実に競争相手が仕事を得てしまう。応じれば、損もありうるが、儲かる可能性のほうがずっと高い」と信じているからだ。 <br />
<br />
<br />
逆に、わたし達が、たとえば顧客や上司に何かを説得し、二つの選択肢から一つを選んでもらう場合、どちらのフレーミングを使うか、上手に考えるべきだ、ということが分かる。それによって、リスク回避的になったり、リスク追求的になったりしがちなのだ。 <br />
<br />
<br />
たとえばあなたが、成功する確率は小さいが、当たれば大きい新規提案をもっているとする。あなたは上司に、リスク追求的になってほしい。そういうときには、「投資額はかかりますが、うまくすれば儲かります」などと言ってはいけない。そしたら上司は、「もっと確実に儲かる案をもってこい」というに違いない。 <br />
<br />
<br />
むしろ、 <br />
「・この案を実行すれば、一定の確率で市場のプレゼンスを維持できます。ただ失敗すれば☓☓を失う可能性もあります。 <br />
　・しかし、この案を実行しなければ、我々は確実に市場で○○を失います。」 <br />
という風な、損失ベースのフレーミングを提起すべきなのだ。 <br />
<br />
<br />
わたし達は合理的にふるまいたいと思っている。ただ、ふつうは経済学の理論が前提するほどには、合理的ではないのだ。もちろん、全く非合理な存在でもない。わたし達の複雑な脳が命じる程度に、複雑系的な行動をする人間たちによって、組織も社会もできあがっているのである。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　 (2021-01-17) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 25 Jan 2021 06:19:38 +0900</pubDate>
      <dc:date>2021-01-25T06:19:38+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>危機対応のマネジメントをダメにする『政治主義』とは何か</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/28905112/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/28905112/</guid>
      <description><![CDATA[<br />
前回の記事（「危機なんて、ほんとに管理できるのか？ーー現場感覚という事」  2020-03-16）では、事前対策的なリスク・マネジメントと、事後対応的な問題管理（イシュー・マネジメント）は、全く別のものだと書いた。別のものだが、もちろんこの2つは車の両輪で、どちらも必要だ。 <br />
<br />
<br />
ただ、わたしの経験では、英米系企業は「計画万能」的な態度が強く、リスク・マネジメントを重視したがる（PMBOK Guideにも、その傾向は伺える）。他方、日本企業は「現場力」に自信を持つ傾向が強く、事前対策は軽視するきらいがある。<br />
<br />
<br />
だからといって、日本企業は、いったん事が起きたあとの事後対応に強いかというと、一概にそうは言えまい。それは発生するトラブル事象（イシュー）の、種類と数によるのではないか。テクニカルな種類のトラブルには、比較的強いと思う。日本企業のミドルや現場の技術者・ワーカーは、概ね優秀であり、責任感も強い。だから、自分の範囲内で対応できる問題は、個別に解決して、前に進む態度を身に着けているからだ。<br />
<br />
<br />
しかし、発生するトラブルが非常に深刻なものの場合、あるいはまだ深刻とは言えないが「テクニカルに対応しづらい」種類の、異質なトラブルの場合は、対応に余計な時間がかかるように思われる。非常に深刻なトラブルでは、現場やミドルの裁量権を超えた判断をしなければならなくなる。だが本社組織というのは、しばしば官僚主義に侵されていて、重要な例外的決断になればなるほど、どこで誰が決めるのか分からなくなりがちだ。<br />
<br />
<br />
テクニカルに対応しづらい種類のトラブルとはなんだろうか？　一つは、通常は想定しがたい異質な他者からの介入・影響、といった問題だ。極端なことを言えば、戦争とかテロだが、そこまで言わずとも、未知の第三者や監督官庁が突然現れて、無理難題をふっかける、という事は、時々ある。<br />
<br />
<br />
もう一つの例を挙げると、個別にはテクニカルに対応可能なトラブルなのだが、それが妙に多数起きて、組織全体のパフォーマンスが下がってくる、という種類の問題だ。たとえば製造で言えば品質問題が頻発するとか、プロジェクトで言えばジリジリと進捗が遅れて納期を割り込んでくる、といったトラブルである。こうした問題は、ゆっくりと表面化して、気づきにくい。マネジメントが気づいたときには、かなり手遅れになっている、などという事態も起こりうる。<br />
<br />
<br />
以前も書いたことだが、どんな組織やシステムにも、自分で問題を解決して自己平衡を保つ機構が、ビルトインされている。そうでなければ、その組織は長続きしない。たとえば社会で言うなら、医療機関や保険制度などがそれにあたる。 <br />
<br />
<br />
しかし、そうした自己回復機構には、キャパシティの限界がある。それを超えると、問題を多数抱えたサブシステムが崩壊に向かって、全体のレジリエンス（危機対応能力）が失われてしまう。こういう状態になったら、もう「現場力」だけでは止めようがない。そうなる前に、気づいて手を打つのが、マネジメントの仕事である。 <br />
<br />
<br />
ところが、ここで危機対応のマネジメントに対して、重要な障害になりうる要素が登場する。それは、組織における「政治主義」（＝党派主義）の存在である。前回の記事では、「官僚主義的組織」の問題を指摘したが、じつは、それ以上に障害となりうるのが、この「政治主義」的行動なのだ。 <br />
<br />
<br />
「政治主義」とは何か。それは、ビジネスにおける政治的な態度である。すなわち、「経済合理性よりも、個人や徒党の利害・権力争いを優先させる」態度をいう。企業というところは、基本、利益追求の場である。だから、経済合理性が最上位に置かれるのが本来だ。だが、政治主義的な態度の人たちが一定数いると、組織の利潤よりも、その人達の権力獲得や党勢助長が優先されるようになる。あるいは、他の政治主義的な党派との勢力争いが主眼になってしまう。世の中に時々ある、派閥争いがその典型である。<br />
<br />
<br />
ビジネスにおける政治主義は、三つほどの特徴的な思考習慣を持っている。リーダーシップ信仰、敵失追求重視、そして現実無視の楽観主義である。ひとつひとつ見ていこう。<br />
<br />
<br />
(1) リーダーシップ信仰<br />
<br />
<br />
政治主義では、組織のパフォーマンスは、上に立つリーダーのみで決まる、と考える人が多い。そこには、リーダーのあり方以外に、組織の構成員や業務手順や仕組み（システム）にも問題が内在しうる、という発想がない。だから、自分（達）がリーダーになれば、万事すぐ順調になる、と楽観しがちだ。<br />
<br />
<br />
(2) 敵失追及重視<br />
<br />
<br />
リーダーシップがすべてを決めると信じているため、自分たちと敵対する徒党のリーダーが、組織の上に立っている場合、失敗はすべて敵であるリーダーの責任と考え、責を負わせたがる。そこで、連座制、連帯責任、任命責任、説明責任、などの概念を用いて攻撃する。<br />
<br />
<br />
このため、政治主義では、他責的な思考のみが発達する。大きな問題が発生しても、避難措置や原因分析を軽んじ、敵であるリーダーを変えればいい、と考える。全体の利益よりも、自分たちの政治的損得が優先するのである。したがって、一致協力が必要な危機的状況でも、団結力を妨害するように動きがちだ。<br />
<br />
<br />
(3) 現実無視の楽観主義<br />
<br />
<br />
上とは逆に、自分たちの徒党がリーダーを出している場合、どんな状況であろうと、「すべては順調」という結論が先にくる。自分に都合の悪い事実は、調べもせず、見なくなってしまう。楽観主義故に、リスクや悲観論を口にする者は、潜在的な敵であり、危険分子と考える。リスク対策的な仕組みは、コストの無駄で、生産性の阻害要因とされ、限界まで切り詰められる事になる。<br />
<br />
<br />
なにせ政治主義的な人たちは、党派的信条と「やる気」さえあればOK、と考えるので、結論に合わせて現実を説明したがる。だから、手近にある事例や推論は、なんでも武器にする（全体を考える必要はない）。敵の問題は「屁理屈」をこねてでも論難する。自分たちの問題は「言い逃れ」で無視、である。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
上記3つの行動習慣の結果として、政治主義が招くのは、客観的・総合的な思考能力の低下だ。言葉を軽んじる者は、結局、思考も軽んじることになる。何よりも、政治主義が跋扈すると、他の集団と、「議論」が成立しなくなってしまう。<br />
<br />
<br />
そもそも「議論」とは何だろうか。まともな議論を行うためには、<br />
・問題解決という共通目的<br />
 ・客観的事実という共通認識のグラウンド<br />
 ・事実とデータを積み上げながら、仮設を互いに強化しあっていく作業<br />
が必要である。議論を通じて、複数の視点（それぞれの立場）から、状況がどう見えるかを検討するのである。<br />
<br />
<br />
もちろん、まともな議論においては、相手のメンツという感情面も配慮することが大切だ。両者が互いに、自分たちの勝利だ、少なくとも一応満足できる、という形で決着するのが、望ましい（ちなみに、参加者の間でゼロサムゲームとなるような事態での議論を、「ネゴシエーション」と呼ぶ）。<br />
<br />
<br />
という訳で、議論では、事実とデータを重んじ、言葉を大切にする態度が必要となる。にもかかわらず、政治主義の人たちは、言語もデータも、そして現実も軽視する傾向が強い。だから、他者との関わりにおいては、議論の代わりに、貸し借りと「裏取引」だけに長けていく。<br />
<br />
<br />
自分たちのリーダーが政治主義的かどうかは、日々接している人ならば自然と分かる。ずっと上位の遠い存在の場合は、上に述べた３つの特徴から推測する必要がある。<br />
<br />
<br />
そもそも、こうした政治主義（党派主義）はどこから発生し、どうして成長してくるのだろうか？　自分の地位や権力、出世を優先する態度自体は、誰の心の内にも潜在的にあると思われる。その底には、承認欲求、制御欲求といった欲求が動いている。その欲求の対象が、組織内の権力や職位に集中するのである。<br />
<br />
<br />
ただ、このような傾向が増長するにあたっては、社会の（そして組織内の）競争原理の強さが、大きく影響する。そして、「勝った者が皆もらう（Winner takes all）」方式の、利益誘導・格差助長的ルールが、その傾向を強めるだろう。いわゆる「能力主義」「成果主義」などの言葉で今世紀になってから浸透した、あの考え方である。<br />
<br />
<br />
能力主義自体は本来、官僚主義的な年功序列制度の毒消し、という意味を担っていたはずだ。だが政治主義的な人たちは、「能力＝自己の党派に属すること」という短絡思考なので、結果として組織は序列重視、命令服従型組織（軍隊式の組織）になっていく。そして目下の人間の「自由」は、目障りに思うようになる。<br />
<br />
<br />
  <br />
政治主義的な党派間では、貸し借りと裏取引で「野合」し、勢力を拡大・膨張していく。野合なので考え方は異なるはずだが、そこは「強力なリーダー」の神話で統一する訳だ（神話なので、本当に強力なリーダーかどうかは、問わない）。危機が起きると、リーダーを批判する者たちは、「この非常時に和を乱すとは、不届きだ」といって排除される。だから、政治主義者は内心、危機を待ち望んでいたりする。<br />
<br />
<br />
こうした政治主義的な動きを止めるには、どうしたら良いだろうか？　相手は権力を持っているので、隠密理に動き、仲間を増やして対抗しよう、と考える事になる。だが、そうなると、今後は自分たち自身が政治主義化する道を、たどることになる。何のことはない、ミイラ取りがミイラになりやすいのだ。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
かくて、組織の中に一度、有力な政治主義の党派が芽生えると、それは周囲を飲み込んで拡大していき、組織全体を支配していくことも少なくない。単なる経済合理性よりも、政治主義のほうが攻撃力が強いからだ。そして、トップの地位を占めると、独裁的な権力を行使するようになりかねない。<br />
<br />
<br />
<br />
そうなる前に、政治主義的な動きを止めるにはどうしたら良いか？　答えは明白だ。それは、リーダーの地位を決める手順のルール化と透明性である。政治的動きの最終的な目標は、権力ある地位につくことだ。だから、リーダーや昇進昇格が客観的にルール化されていることが、大切なのだ。ちょうど、中世の英国で、暗愚なジョン王の暴政にこまった諸侯が、名文化したルールであるマグナ・カルタを王に突きつけたように。<br />
<br />
<br />
また、組織内にむやみに位階とポジションを増やさないことも大切だ。政治主義は、フラットな組織では活躍しにくいのだ。<br />
<br />
<br />
なお、ここでいっているのは、ビジネス組織における傾向であって、「政治主義」といっても、実際の政党やら政治家たちの話をしているのではないので、誤解なきよう。ちょうど前回の記事で「官僚主義的組織」といっても、別に官庁の話をしたのではないのと同様だ。いや、実際のところ公務員でも、自分の所属する組織の官僚主義に、内心、辟易している人はけっこういる。<br />
<br />
<br />
<br />
同じように、現実の政治に関わっている人で、自分たちの中の党派主義に不満を持つ人がいても、不思議ではない。ただ、政党政治の世界は権力闘争の面が強いから、どうしても政治主義的になりがちだ。そして、この政治主義の傾向は、信じているイデオロギーの種類に関わらない。たとえばヒトラー支配下のナチス政権と、スターリン独裁下のソ連共産党は、どちらも非常に政治主義的である点では、よく似ていたはずだ。<br />
<br />
<br />
だが、政治主義者による独裁権力は、それ自身の内に崩壊の種を抱いている。政治主義者がリーダーの地位をとると、結果として、イエスマンばかりがリーダーを取り囲むようになるからだ。そうなると、リーダーのところに、不都合な情報が上がっていかなくなる。どんなに優秀なリーダーだって、正しい情報が入ってこなければ、正しく判断できなくなるだろう。<br />
<br />
<br />
そういうときに、「裏取引」できない相手が登場することがある。裏取引できない相手とは、たとえば黒船のように、異世界から来た侵入者である。江戸幕府は黒船の出現で、一気に政治的権威を失墜する。黒船は、それまで幕府が知っていたテクニカルな問題対応を、拒絶する存在だった。こういう時、楽観主義に基づいて、ギリギリまで削減していた、リスク対策と保険的制度の欠如が、最終的に自分たちの首を絞めることになる。<br />
<br />
<br />
本当の危機にあっては、自らの組織内で、あるいは近隣の組織と、一致協力する必要がある。なにか手を打つためには、事実とデータに基づき、総合的な思考能力を要する。だが、それこそ、自分たちが軽視し、組織から排除してきた能力なのだ。だから政治主義的な組織は、結局は長続きしない。<br />
<br />
<br />
黒船の出現のあと、国論は四分五裂になり、クーデター的事変も内戦も発生した。だが、外国が介入して国が分断される事態は、なんとか避けられた。それは幸いにも、「分断は植民地化への道だ」と理解していた有能な人たちが、対立する双方の側にいたからだ。<br />
<br />
<br />
危機対応のマネジメントで必要なのは、競争原理ではなく、協力原理に基づいた行動である。協力原理とは、自己利益の追求を一旦脇において、共同体利益を求める態度にほかならない。それは同時に、前例や権威を超えた、臨機応変な自発的な働きを必要とする。自発性こそ、政治主義を中和する最大の良薬なのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞<br />
　→「トラブル原因分析を、責任追及の場にしてはいけない」  (2014-11-09) <br />
　→<br />
<br />
  (2020-03-16) <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Mon, 23 Mar 2020 19:54:50 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-03-23T19:54:50+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>危機なんて、ほんとに管理できるのか？ーー現場感覚という事</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/28892932/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/28892932/</guid>
      <description><![CDATA[わたしのこのサイトでは、管理という言葉を極力使わないようにしている。このことはすでに何回か書いたので、あまり詳しくは繰り返さないが、日本語の管理に対応する英語は、Management, Control, Administrationの3つのレベルがあって、海の向こうでは使い分けされている。これに比べ、日本語の『管理』は語義が広すぎて、何のことを指しているのか誤解しやすい。<br />
<br />
<br />
<br />
それでも、管理が何を指すかは、「管理できていない状態」と比べると、少しは明確になるかもしれない。管理できていない状態というのは、どんなイメージか。<br />
<br />
<br />
70年代、ようやく少しずつ開放の始まった中国を、私の父が訪れた。父は機械エンジニア出身で、機械メーカーの役員だった。中国でいくつかの大規模な工場を訪れ、当時普及し始めたNC（数値制御）工作機械の、研究と導入について相談を受けたという。<br />
<br />
<br />
しかしそこの工場たるや、加工品を床の上に積み上げて、通路だか物置だか分からないような状態になっていた。積み上げた加工品が崩れて、そこに何種類の部品がどれだけあるか誰もわからない。それを見た父は遠慮なく言ったらしい。「ここの工場のような管理体制のところにNCを導入してもナンセンスですよ。」<br />
<br />
<br />
後に父は著書「実践的NCマネジメント入門」（技術評論社、1974）に、だらしない工場のあり方について書いている。<br />
<br />
<br />
「整理整頓などと言うことは目的ではなく、しっかりした管理体制ができているかいないかの、むしろ結果の表現である。」<br />
「何はともあれ、物には置き場が対応しなければならない。計算機には、図番と同時にその部品のありかが記録されねばならない。通路にものを置くなど論外である。（中略）工場内いたる所、足の踏み場もないほど、部品入荷待ちの半製品が散らばっており、棚の裏にでも入った日には、その部品は永久にお蔵入りで、部品がないと称して作り直である」(p95, 35)<br />
<br />
<br />
もっともこれは、半世紀も前の話だ。今では日本でも中国でも事情はよほど違っているはずだ。ただ、問題の本質は同じである。<br />
<br />
<br />
ものがどこにあるのか、全部でいくつあるのか、誰の所轄なのか、この先の過不足はどうなのか。そうしたことが全くわからない状態を、無管理と呼ぶ。このことには皆さん、異存はあるまい。<br />
<br />
<br />
だとしたら、危機管理ができていないとは、どういう状態なのか。危機とは、通常のオペレーションや、日常的な生活を、全面的にストップさせてしまうような重大なトラブルであろう。すると、アナロジーで考えてこうなる:<br />
<br />
<br />
「重大なトラブルが、どことどこに起きているのか。全部でいくつあるのか。誰が担当して、それと戦っているのか。この先どうなるのか。そうしたことが全くわからない状態にある」<br />
<br />
<br />
世間の人が危機管理という言葉でで何を期待しているのか、わたしにはわからない。だが、少なくとも上記のようなシチュエーションでは、目的を達成できてないのは明らかだろう。<br />
<br />
<br />
危機管理と言う言葉は、95年の阪神淡路大震災から、世間で広く使われるようになったらしい。今世紀に入り、特に3·11以降は、代わりにリスク・マネジメントと言う言葉が、多く用いられるようになった。だが本来これは、別の概念である。<br />
<br />
<br />
もともとリスクとは、起きる可能性のある事象を指している。リスクが一旦現実化して、トラブルになってしまった場合、プロジェクト・マネジメントの分野では、それを「イシュー」と呼ぶ。潜在的な可能性だったリスクと、現実に起きたイシューは別のものである。また、イシューは放置しておくと、二次的な影響が発生して、雪だるま式に膨れていく危険性がある。<br />
<br />
<br />
前回の記事で、対応能力には、事前対策と事後対応がある、と書いた。現実化してしまったイシューへの対応を、モダンPMの世界では「イシュー・マネジメント」と呼ぶ。リスク・マネジメントとイシュー・マネジメントは、車の両輪である。片方だけではちゃんと走れない。<br />
<br />
<br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202003/15/47/e0058447_23302987.jpg" alt="_e0058447_23302987.jpg" class="IMAGE_MID" height="112" width="500" /></center><br />
イシューはその影響によってランク付けされる。最も深刻な影響が懸念されるもの、普通、危機と呼ぶわけだ。<br />
<br />
<br />
大規模なプロジェクトでは、イシュー（トラブル）は多数発生する。そこで普通は、「課題管理表」(Issues Log)を作って把握整理する。しかし、把握だけでは足りない。イシューの中でも、プロジェクト全体の遂行を阻害してしまう重篤なものは、他のアクティビティの手を止めてでも全力で対応しなければならない。さもないと、プロジェクト全体が崩壊してしまう。<br />
<br />
<br />
プロジェクトを含みどんな組織でも、普通は末端の人々が、それなりに問題を解決しながら進めている。つまり、一定のレジリエンス（復旧能力）があるわけだ。しかし、重篤な危機的事象は、通常の体制が持つレジリエンシーを超えている。したがって、危機と闘う体制を整える必要がある。<br />
<br />
<br />
そのためには、まず人を動員する事になる。人を動かすためには、ロジスティクスの手配が大事になる。つまり働く場所、働くための道具や材料、食事をしたり休んだりする場所、移動手段、宿泊手段など、様々な予算と手当がいる。<br />
<br />
<br />
もちろん働く人の環境と安全が、第一優先である。それに、安全な退路の確保も必要だ。さらに言えば、トラブル事象に無関係な通常の人間が周囲にいる場合は、その人たちの避難（隔離）も考えなければならない。<br />
<br />
<br />
危機のときの技術のマネジメントについては、すでに以前記事に書いているので、繰り返さない。ただ、このような時に大切になるのが、「現場感覚」であろう。わたし自身は別に危機対応の専門家ではないが、仕事柄、現場とはどういうものか、多少は知っている。<br />
<br />
<br />
現場と言う言葉で、普通の人々がイメージするのが、どんな場所だろうか? 具体的には例えば、製造現場、建設現場、物流現場、イベント現場、医療現場、報道現場などが挙げられるだろう。こういった仕事場は、普通の場所とどこが違うのか。<br />
<br />
<br />
現場が通常のオフィスと違う点は、大きく3つあるように思われる。それは、リアルタイム性（同時性）、危険性、対面・対物性、の3点だ。<br />
<br />
<br />
(1) リアルタイム性（同時性）: 現場の状況は、日々刻々変わっていく。分析や意思決定に、何週間もかけてはいられない。遅巧より拙速を尊ぶ、という言葉があるが、厳密に正確性より、まず手を打つことが求められる。<br />
<br />
<br />
(2) 危険性: 製造現場や物流現場、医療現場など、どこでも大きな機械装置を使ったり、病気を相手にしたりしなければならない。だから働く人にとって、仕事は常に危険性と隣り合わせである。労働安全が最優先されるのも、そのためだ。<br />
<br />
<br />
(3) 対面・対物性: 言葉や数字だけをやり取りすれば済むオフィスワークと違って、現場の仕事では、具体的なものや人を、目の前の対象とする。対面したら、何かをしないわけにはいかない。だからこそリアルタイム性が出てくるのである。<br />
<br />
<br />
まあ、このほかにも、リモート性とかいくつかの特性が考えられるが、ここでは省く。<br />
<br />
<br />
上記のような性質があるため、たいていの現場では、働く人たちに、制服による識別がなされている。さらに、位階による指示命令系統が決められている。仕事に危険性があるからだ。<br />
<br />
<br />
しかし、リアルタイム性の要請があるため、命令がなくてもルールの規定がなくても、すぐに判断しなければならない場合が、多々ある。つまりルールより有効性が優先なのである。<br />
<br />
<br />
夜間に患者の容体が急変したら、医師を呼んで到着を待つ間にも、看護師はどう対応するかを決めてアクションを取る。看護師が医師の指示を持ちだけで、何もアクションを取らなければ、患者の命に関わるかもしれない。それが医療の現場のリアルタイム性なのだ。経験を積んだ看護師は、エリート大学を出た若い医師よりも、はるかに重要な時がある。<br />
<br />
<br />
さらに、現場で利用可能なリソース（人、道具、資材）には限りがある。だから、優先度をつけて着手（トリアージ）していかなければならない。そして人が限られているから、分担を超えてなんでもやる必要も出てくる。失敗の可能性と背中合わせで、賭けをするのが、現場仕事の宿命なのである。<br />
<br />
<br />
危機対応のための現場とは、特定目的のための、一時的・時限的な組織であり、そしてリスクと共存している。<br />
<br />
<br />
このような危機対応のための仕事のあり方は、それと対極的な組織と比較してみると分かりやすいだろう。対極的とはすなわち、日常の場所に恒常的に存在するような組織だ。<br />
<br />
<br />
そこでは有効性よりルール、前例が大切にされる。仕事の分担は細かく規定されていて、他の領分に手出ししてはいけない。末端が自分の権限を超えて考え、判断するのも許されない。もちろん、失敗も許されない（だから前例主義になる）。事前的なリスク回避は周到に行う。そして、管理することが大好きだ。それも、管理のための管理が大好きである・・。<br />
<br />
<br />
これを官僚主義的組織という。このような組織は別にお役所には限らず、民間企業でも、いくらでもある。組織は安定した時代に、大きくなると、官僚主義的になりがちだ。うっかりするとプロジェクト組織でさえ、そうなってしまう。<br />
<br />
<br />
官僚主義の最終目的は、自己保全である。有用かどうかは、どうでもよくなってしまうのだ。それよりも、非難されないことが大事になる。すなわち、リスキーな決定は、排除される。誰が決めたのかも、よくわからないように、手続きの中で隠蔽される。そのため、どうしても意思決定が遅くなる。<br />
<br />
<br />
官僚主義的組織の最大の問題は、リアルタイム性の欠如である。だから、危機に応対するには向かないのだ。<br />
<br />
<br />
誤解しないでいただきたいが、わたしは公務員が良いの悪いのという話をしているのではない。どんな組織にも、つねに潜む傾向について語っているのだ。半世紀前の中国の工場の話を、思い出してほしい。共産党政権下の計画経済（＝命令経済）での工場組織だ。官僚主義的な「管理」は万全だったに違いない。だが、部品がどこにどれだけあるか、というようなコントロールは、全然できていなかった。工場が上から命令されたアウトプットさえ出していれば、たいして機能的でなくても効率的でなくても、構わない。品質が悪くても、言い訳さえ立てばいいーーそういうメンタリティを、問題にしているのだ。<br />
<br />
<br />
予防的なリスク・マネジメントと、事後的なイシュー・マネジメントは別物だが、どちらも重要である。ちょうど計画と統率が、車の両輪であるように。だが組織が官僚主義的になりすぎると、予防側のみが肥大化してしまう。そして「危機管理マニュアル」で全てに対応できるかのような幻想が闊歩する。できなくなると、「想定外でした」など言い訳をする。だが、わたしの知る限り、本当のイシュー・マネジメントは、マニュアルにもルールにもない状況で、どう考えるべきか、から出発するのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
&lt;関連エントリ&gt;<br />
　→「わたしはなぜ、『プロジェクト管理』という言葉を使わないのか」  （2017-12-18） <br />
　→「危機における技術のマネジメントとは」  （2011-03-24） <br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 15 Mar 2020 23:35:47 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-03-15T23:35:47+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>危機なんて、ほんとに管理できるのか？</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/28881563/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/28881563/</guid>
      <description><![CDATA[「あなたは世の中には大きな運・不運があると思いますか？」 <br />
<br />
<br />
これまで学生や社会人、そして勤務先の後輩たちなど、それなりに大勢の人々に対して、リスク・マネジメントの講義をしてきた。その説明の最初に、いつも問いかけるのが、この質問である。無論、答えは様々だ。だが（少なくとも日本では）大多数の人が、「運・不運はある」と答える。「いや、ないと思います」という人は少数で、経験的に、ほとんどが20代の若者である。 <br />
<br />
<br />
そこで、念のため、もう一つ補足の質問をすることにしている。それは、 <br />
<br />
<br />
「じゃあ、あなたは人生において、本当にその気になれば、たいていの事は可能だと思いますか？」 <br />
<br />
<br />
という問いだ。こうたずねると、少なからぬ人が、虚をつかれたように「うーん」という顔をする。 <br />
<br />
<br />
当たり前だが、この2つの質問は、セットで裏表の関係にある。もし、人生において、本当にやる気になれば何でも実現可能だとしたら、運・不運なんてない、という事になる。逆に、もし運・不運があるなら、それはどんなに気合を込めて頑張っても、実現不可能なことがある、と認めることになる。 <br />
<br />
<br />
それなのに、この2つの問いかけに対して、あらためて驚き悩む人がいるのは、なぜだろうか。それは、ふだん無意識的に「運・不運がある」と感じながら、意識の面では「頑張ればたいていの事は可能だ」というテーゼに影響され、頼っているからだ。両方を言語化してみると、初めて自分の信念の中に矛盾があったことに気がつく。 <br />
<br />
<br />
そこで、（追い打ちをかける訳じゃないが）もう一問、たずねる。それは、 <br />
<br />
<br />
「じゃあ、リスク・マネジメントに意味なんてあると思いますか？」 <br />
<br />
<br />
である。“じゃあ”という接続詞は、運・不運があると思っている人にも、やる気になれば何でも可能と信じている人にも、共通して使っている。 <br />
<br />
<br />
なぜなら、もし大きな運・不運があるというなら、不運（リスク）を本当にさける方法などありえないはずだからだ。避けられるなら、それは不運だったとは言わない。人間が運・不運に翻弄される存在なら、リスク・マネジメントなど存在し得ない。 <br />
<br />
<br />
逆に、その気になれば不可能なことはない、と信じるなら、どんな事態になろうと「やる気」で打開できるはずだ。だったら小賢しいリスク対策など、時間のムダではないか。つまり、運・不運があるとの信憑も、やる気がすべてを可能にするとの信念も、ともにリスク・マネジメントを否定している点では同じだ、という事になる。だったら、なぜリスク・マネジメントを学ぼうと思うのか？ <br />
<br />
<br />
あらためてこうたずねられると、ほとんどの受講者は、「いや、でも、少しでも避けられるリスクがあるなら、それは意味あるかと思って」みたいな、曖昧で妥協的(?)な返事をしてくる。それは、ホントは意味ないんだけどさ、ちょっとは意味あるかと思って・・といっているのと同じである。そこで、わたしはトドメの一言をこう放つ。 <br />
<br />
<br />
「マネジメントって、人を動かす、とか、自分の管轄下にあってよく知っている事物を、なんとか意思に沿うよう働かせる行為でしょ？　でも、リスクというのは未知の事象を指している訳です。自分がよく知りもしないリスクなんて、本当にマネジメントできると思いますか。リスク・マネジメントって、言語矛盾だと思いませんか？」 <br />
<br />
<br />
・・ここまで読んだ読者諸賢は、なんて意地悪な講師なんだ、と感じたに違いない。いや、申し訳ない。ただ、リスク・マネジメントだとか危機管理だとかいった概念は、かくも、わたし達が無意識に抱えている矛盾をあぶり出す存在なのである。でも、それを最初にやっておかないと、 <br />
<br />
<br />
「ああ、リスクって、マネジメント可能なんだな」 <br />
「危機的状況になっても、危機管理をすれば乗り切れる」 <br />
<br />
<br />
といった、妙に楽観的な(?)誤解を持ったまま、教えられることを教科書的に受け入れていく危険性が高いのである。教科書をそのまま真に受けて、暗記しようとする事ほど、本当のリスク・マネジメントから遠い態度はない。 <br />
<br />
<br />
リスク・マネジメントというのは、簡単に言うと、ふだん意識の下に押し込めている『リスク』に光をあて、その影響を評価するとともに、科学的にその対応策を考えよう、という一種の技術である。ただし、技術だが、そこには必要なマインドセットがある。それは、自分を取り巻く事態を、自分が能動的に変えられる、という主体性である。そして、技術という以上は、リスクにも一定のパターンや傾向があるはずだ、という信憑がある。 <br />
<br />
<br />
ところで、学業や仕事をする人にとって、その成果は、主に何で左右されるのか。それは「やる気」（モチベーション）である、と考える人は多い。「本当にやる気になれば何でも実現可能だ」というテーゼは、この信念を強化する。 <br />
<br />
<br />
他方、成果は外的環境に左右されることが多い、と考える人も少なくない。つまり運・不運で決まるのだ、と。そして、いや、仕事の成果はやはり、科学的な技術に裏付けられた、能力で決まるのだ、という考え方もあろう。 <br />
<br />
<br />
成果を生み出すのは、「やる気」なのか「環境」なのか「技術」なのか。もちろん、どれも必要ではあろう。それは「天の時、地の利、人の和」といった昔風の言葉にも現れている。とはいえ、どこに一番の主眼をおくのか。それは、じつは時代によって変わってきた。 <br />
<br />
<br />
昭和20年の敗戦後すぐから、昭和30年台の終わりごろまでは、「やる気」主義が中心だったように思う。この頃の社会で必要とされていたのは、食品・衣服など、日用品中心の産業だった。流通も小規模で、小売り中心だった。多くの人が、小商いで、貧しい中を、頑張って生きていた。戦後復興のある意味での到達点が、昭和39年の東京オリンピックだった。 <br />
<br />
<br />
ところで、オリンピックが終わって翌年の昭和40年になると、戦後最悪と言われた、いわゆる「40年不況」が訪れる。それまで単純な拡大路線で走ってきたビジネスは、転換点をむかえる。アメリカから、統計的品質管理（QC）などの、マネジメント技術が入ってきた。また、産業も重化学工業が高度成長をリードする形に、転換していく。 <br />
<br />
<br />
そこでは、科学技術や、ルールが大事になる。技術主義の時代である。そうなると、勉強が大事である。良い仕事に付きたければ、大学にいけ、ということになる。高度成長期には、学歴主義も強まった。 <br />
<br />
<br />
しかし、昭和が終わる頃、わたし達の社会はバブル時代に突入する。土地や株など、相場で全ての成果が決まる、という社会である。この時代を制したのは、いわば「チャンス」主義＝運不運を見極めて、チャンスをつかまえ、それに乗る、という態度であった。 <br />
<br />
<br />
自分で技術を身につける自力路線から、バブルの波に乗るという、他力本願への転換が、マインドセットの世界で起こった。と同時に、運・不運で決まる社会は、世の中は不公平なものだ、という考えも広めていった。社会的公正の「建前」より、自己利益の「ホンネ」を優先する態度が主流になった。 <br />
<br />
<br />
バブル時代は短く、'95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件で、平成不況へと社会は転換する。モノが売れないため、産業の主導権は、製造側から販売側に移り、コストカット（デフレ）戦略が主流になった。同時に、チャンス主義の双子の弟分である、「自己責任」主義が広められていく。そうした社会では、個人も組織も、リスクを可能な限り回避することを志向する。運・不運が重大という点ではバブル時代と変わらず、ただ格差社会の拡大が、その傾向に輪をかけていった。 <br />
<br />
<br />
さて、成果を左右するのは意思なのか（「やる気主義」）、技術能力なのか（「技術主義」）、それとも環境すなわち運不運なのか（「チャンス主義」）？　 <br />
<br />
<br />
やる気主義とチャンス主義は、最初に述べたように、リスク・マネジメントと基本的に反りが合わない。というか、論理的に矛盾している。そうした不合理に気づかないのは、成果を起点にした、自分の「意思」と「能力」と「環境」の関係を、根本から考えたことがないからだろう。いわば、哲学の貧困である。 <br />
<br />
<br />
ちなみに、このサイトの基本スタンスは、技術主義である。なにせテーマが「マネジメント・テクノロジー」なのだから当然だろう。技術だけで、全てがうまくいくわけではない。しかし、大間違いは避けられる。やる気主義やチャンス主義だけでは、大成功するかもしれないが、大間違いするリスクも孕んでいる。 <br />
<br />
<br />
では、自分にとって未知なリスクを、どうマネジメントできるのか？　本サイトでは、この問題にも、すでに答えは出してある（今、調べたらちょうど10年前の記事に書いてあった）。 <br />
<br />
<br />
まず、普通のリスク・マネジメントの考え方を説明しよう。たいていの教科書には、次の式が書かれている。すなわち、 <br />
<br />
<br />
    リスクの大きさ＝発生確率 × 影響度 <br />
<br />
<br />
だが、リスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い（台風の進路や、疫病の発生のように）。そうなると、わたし達が左右できるのは影響度の方だけということになる。だから、リスクへの対応戦略は、回避（避ける）か、転嫁（人に押し付ける）か、軽減（影響度を弱める）か、あるいは受容（あきらめて共存する）、の４つが中心になる。これが今の教科書の記述だ。 <br />
<br />
<br />
だが、わたしはここに大事な因子がかけていると考えている。だから、わたしの講義では次のような式でリスクを評価する、と教える。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/202003/08/47/e0058447_18201249.jpg" alt="_e0058447_18201249.jpg" class="IMAGE_MID" height="123" width="335" /></center><br />
<br />
<br />
すなわち、リスクの大きさは、その可能性（生起確率）と、影響度の積に比例し、対応能力に反比例する。 <br />
分子は教科書と同じである。違いは、分母の存在だ。分母の対応能力が大きければ、リスク自体は小さくなる。逆に、対応能力が小さいと、同じ確率・影響度のリスクも、大きなものになってしまう。だから、組織の『対応能力』をいかに高めるかが、中心課題になるのである。 <br />
<br />
<br />
よくPMOでは、「あのプロジェクトにとっての最大のリスクは、××さんがプロマネをやってることだよ」という冗談半分のコメントが出たりすることがある。これはつまり、分母の対応能力が小さい、ということをいっているのである。そうでなければ、もとの教科書の式だけでは、リスクの意味を説明できまい。 <br />
<br />
<br />
対応能力はさらに、予防的（Preventive）な 「事前計画能力」か、適応的（Adaptive）な 「事後対応能力」に分解することができよう。事前計画能力は、見通しの能力である。それはリスク・アセスメント・セッションの実施や、過去のLessons Learnedの共有などで向上できる。 <br />
<br />
<br />
事後対応能力とは一種の機動力であり、実際に発生してしまったトラブル・危機を、どう早く察知し、機敏に対応できるか、を示している。（ちなみに、現在のPMBOK Guideでは、この事後対応のためのイシュー・マネジメントの説明が、ほとんど欠落している） <br />
<br />
<br />
そして、「危機管理」のための事後対応能力を高めるためには、組織のデザインにおいて、集権化と分権化という矛盾したポリシーをどう両立するか、という問題が控えているのだが、どうやらいつもの癖で、前提の説明が長くなりすぎたらしい。その問題については、稿を改めて、また書こう。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　→「リスク・マネジメントは本当に可能か」  (2010-08-10) <br />
　→<br />
<br />
  (2011-01-10) <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 08 Mar 2020 18:24:04 +0900</pubDate>
      <dc:date>2020-03-08T18:24:04+09:00</dc:date>
    </item>
    <item>
      <title>IT、OT、ET、そしてマネジメント・テクノロジー</title>
      <link>http://brevis.exblog.jp/28655382/</link>
      <guid isPermaLInk="1">http://brevis.exblog.jp/28655382/</guid>
      <description><![CDATA[前々回、そして前回と続けて、本サイトのテーマである『マネジメント・テクノロジー』の領域について、あらためて考えてきた。 <br />
<br />
<br />
マネジメント・テクノロジーは、目に見えにくい領域における技術である。わたし達の文化は、目に見えるもの（五感で感じられるもの）に対しては細部にまで徹底してこだわるが、見えない物事や抽象的概念には、いたって無頓着、という傾向が強い。 <br />
<br />
<br />
たとえばカレー屋さんの場合、料理の味と、その材料やレシピには研究を怠らない。しかし客の注文をどうとってどういう順序でデリバリーするか、何をストックし作る量をどう予測するか、といった店を運営する過程や仕組みには、なりゆきで応対する。これが多くの店のあり方だろう。 <br />
<br />
<br />
カレーの料理法は「固有技術」で，店の運営の仕組みは「管理技術」（マネジメント・テクノロジー）に属する。もちろん固有技術（味）は、いわばビジネスのベースで、これが不味ければ商売は成り立たない。しかし管理技術（運営の仕組み）ができていないと、商機に乗って展開することも、急な環境変動にうまく応対することもできず、気づかぬうちに非効率と機会損失を出してしまう。ここが弱いと、皆が必死に働いているのに、なぜか儲からなくなるのだ。 <br />
<br />
<br />
わたし達の社会は、このマネジメント・テクノロジーの存在と、その重要性を見過ごしてきたことで、長い不況を抜け出せずに来たのではないか。それが本サイトの問題意識だ。 <br />
<br />
<br />
そして、マネジメント・テクノロジーは、隣接する3つの固有技術領域、すなわちIT（Information Technology）、OT（Operational Technology）、ET（Engineering Technology）と少しずつ重なり合いながら、その方向性を広げてきた。では、このIT、OT、ETとは、それぞれどのような技術なのか。 <br />
<center><img src="https://pds.exblog.jp/pds/1/201910/13/47/e0058447_15133814.jpg" alt="_e0058447_15133814.jpg" class="IMAGE_MID" height="354" width="409" /></center>マネジメント・テクノロジーの領域図（再掲）<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
ITについては、すでにネットの内外に、数多くの情報があるため、いまさらここでは解説不要だろうと思う。コンピュータのハードウェア設計から始まり、OS、通信ネットワーク、ミドルウェア、データベース、そしてその上で活躍する応用ソフトウェア群（とくに業務系システム）の設計・実装・運用技術までが、ここに含まれる。 <br />
<br />
<br />
本サイトでも、随分前だが、『ITって、何？』という連載をのせた。長い記事になっているが、あそこで書いたコアのメセージは、<br />
「ITの本質は、データと情報のサイクルを回すこと」<br />
である。データとは定型化された符号の並びで、他方、情報とは人間に意味を与える（不定形な）ものだ。だから情報を機械に与えて蓄積・処理できるようにするには、定型化してデータにすることが必要だ。データは上手に組織化し提示しないと、人間に意味をもたらさない。この双方向をうまく回すのが、IT=情報技術である。 <br />
<br />
<br />
固有技術としてのITの基礎を支える科学は、コンピュータ・サイエンス（計算機科学）である。それは数学・論理学から電子工学さらには言語学まで、様々な科学領域にまたがって存在している。だから、大学のコンピュータ・サイエンス学科を卒業して、専門職としてのITエンジニアになる、というのが米国流の普通のキャリアパスである。日本があまりそうなっておらず、大学にも「計算機科学科」がめったに存在しないのはなぜか、わたしはよく分からないが。 <br />
<br />
<br />
さて、これに対して、OT（Operational Technology）とは何か？ <br />
<br />
<br />
OTについては最近、IoT技術に関連して注目されるようになり、世の中にもいろいろな解説が流布している。ネットでちょっと調べただけでも、以下のようなものが出てくる。 <br />
<br />
<br />
「交通手段やライフラインといった社会インフラにおいて、それに必要な製品や設備、システムを最適に動かすための「制御・運用技術」を意味します。」（キーエンス IoT用語辞典） <br />
<br />
<br />
「データを収集・分析し、経営に生かすテクノロジーがITであるのに対して、ハードウェアに働きかけ、制御・運用を行うためのテクノロジーを言います。（中略）OTの構成要素には、PLC、SCADA、DCS、CNCおよびcomputerized machine toolsといった制御装置と、制御装置と産業用ロボット・パワーサプライなどを結ぶフィールドネットワークがあります。」（Mono-watch IoT用語集）  <br />
<br />
<br />
「ガートナーは、様々な装置のオペレーションを高度化する技術のことを、OT（オペレーショナルテクノロジー）と定義している。ファクトリーオートメーション（FA）などが、OTの代表例だ。」（日経コンピュータ World IT Watch 2011-09-01） <br />
<br />
<br />
こう見ると、社会インフラ向けと言ったり産業機械向けと言ったり、定義には幅があっていろいろだ。最後の米国ガートナー社の定義は2011年のもので、中では一番古い。ちなみに現在はこうかいてある： <br />
<br />
<br />
"Operational technology (OT) is hardware and software that detects or causes a change, through the direct monitoring and/or control of industrial equipment, assets, processes and events.” (Gartner Glossary)   <br />
<br />
<br />
この定義は英語版WikipediaのOperational Technologyの記事にも冒頭で引用されている（日本語版ウィキペディアの記事は、現時点ではその部分的抄訳でしかない）。 <br />
<br />
<br />
ただ、このガートナー社の定義は、わたしの目から見ると、少しだけ制御系や通信系の仕組みに偏りすぎているように感じられる（ガートナーはIT系コンサルティング会社だから、主な顧客はITエンジニアである）。 <br />
<br />
<br />
たとえば、NC（数値制御）のマシンを対象に入れるのだとしたら、その加工プログラムは、明らかにOTに入るはずであろう。そうなると、そのための切削条件決定や、加工ツール・バイト（刃先）の選定も、OTに含まれなければ、おかしい。搬送やチャッキングや検査の仕組みだって、そうだ。こうした機械工学系の加工技術は、現場の熟練者たちの手中にあって、ITコンサル会社には見えにくいのだろうが。 <br />
<br />
<br />
いいかえると、OTとは加工技術や機械制御といった、直接ものづくりに関わる固有技術だと、広く捉えるべきであろう。もちろんNC装置の加工プログラムや、SCADA, PLC、DCS、MES（とくにLower MES）など制御系も、この領域に入る。 <br />
<br />
<br />
日本のIT分野は世界の最先端に比べて遅れつつある、という認識が最近は広まっているが、それに比して、OTの分野に関しては、まだかなり世界的な強みを維持している。この点は強調しておいていいと思う。NC工作機械やマシジングセンタ、ロボット、物流搬送系設備、制御システムなど、世界トップレベルの企業がごろごろいるのが、この分野だ。 <br />
<br />
<br />
最後に、図の下の方に配置したET（Engineering Technology）に触れておこう。ETとは、製品設計や工程設計・レイアウト設計などに関わる固有技術領域である。ここには、機械・電気・制御・建築・空調・化学プロセスといった、いわゆる工学系技術が活躍する。そしてCAD/PLM/BIMなども、この分野のためのツールだ。 <br />
<br />
<br />
もっとも、IT・OTに比べて、ETという用語はあまり広く用いられていない。調べると、たとえば米ARC社は次のように使っているが、これが唯一の用法という訳でもない。 <br />
<br />
<br />
"ARC defines ET as those technologies that comprise digital models. … In the digital data environment of IIoT, engineering technology, those technologies that create virtual models must be included in the convergence conversation.” (ARC Insights, IT/OT/ET Convergence, May 25, 2017)  <br />
https://www.arcweb.com/blog/itotet-convergence<br />
<br />
<br />
じつはETという用語が広まらないのには、別に特殊な理由がある。米国の大学教育コースの中に、”Engineering Technology”という学科が、”Engineering”とは別に設けられているところがあるのだ。たとえば英語版WikipediaでEngineering Technologyをひくと、Engineering Technologistという項目に自動転送されて、こういう説明が出てくる。 <br />
<br />
<br />
"Engineering technologists are more likely than engineers to focus on (post-development) implementation or operation of a technology but this is not a strict rule as they often do design original concepts.” (英語版Wikipedia: Engineering Technologist) <br />
<br />
<br />
設計よりも実装に近い仕事を受け持つ技術職。日本の高等教育で言えば、高専のカリキュラムに近いのかもしれない。ET（Engineering Technology）というと、米国ではこちらのことを連想するらしいのだ。ともあれ、他に適切な言葉も見つからないため、上記の図ではETと表記しておいた。 <br />
<br />
<br />
そしてManagement Technologyは、OT＋IT＋ETの三本柱の上に乗っており、一部は重なっているのである。重なった部分は、それぞれ <br />
OM（Operations Management） <br />
EM（Engineering Management）<br />
IM（Information Management）<br />
と呼ぶべき領域である。 <br />
<br />
<br />
そして、これら3つのマネジメント・テクノロジーは、日本ではいずれもほとんど教えられておらず、知られてもいない。理工系はもちろんのこと、いわゆる文系の経営学でも、またビジネススクールでも、ほとんど等閑視されている。米国にはちゃんと、OMやEMを教えるコースを持つ大学・大学院があるのに。 <br />
<br />
<br />
なお、ITと重なる領域を、IM（Information Management）と表記したが、この言葉はプラント・エンジニアリング業界では、ある特殊な狭い領域の業務を指すことがある。本当はより一般的に、DM（Data management）とか、KM（Knowledge Management）などと併用すべき用語に思われる。 <br />
<br />
<br />
そして、図中には、他にもSCM（Supply Chain Management）やPM（Project Management）やMM（Material Managemen）といった、やはり物づくりに関連するマネジメント・テクノロジーの領域を入れておいた（ただし図中の位置は場所的に散らしているだけで、必ずしもPMがIMとEMの中間にあるという意味ではない）。 <br />
<br />
<br />
ちなみに、上の説明ではOTに属するPLC/DCS/SCADAや、ETに属するCAD/PLMなどを、ITとは別のものとした。だが、これらはみんなコンピュータのハードとソフトで実現するものだから、ITの一部ではないか、という議論もあるだろう。<br />
<br />
<br />
しかし現実を見ると、業務系システムと、制御系・組込系システムと、科学計算系システムでは、作る人達も売る企業も、業界的に分かれている。技術の要素も相当に違っており、昨日まで製造原価報告書を設計していた人が、今日から偏微分方程式の収束計算を設計できるかというと、まあ無理であろう（逆も真なりだ）。繰り返すが、図中の「IT」は、主に業務システム系の領域を主に意識している。ITとOTの融合が語られはするし、そうした動きを否定するつもりはないが、それは、建築と機械の融合、くらい大変な話であることは理解しておいたほうがいい。 <br />
<br />
<br />
ともあれ、これがマネジメント・テクノロジーの領域の見取り図である。固有技術の領域では、日本の技術者たちはそれなりに優秀だ。みな真面目だし、ほぼ例外なくハード・ワーカーでもある。だが、縦割り組織と分業病におかされているため、固有技術を束ねて、全体をオーケストレーションする部分が弱い。オーケストレーションの技術、それがマネジメント・テクノロジーである。 <br />
<br />
<br />
もちろん、マネジメント・テクノロジーを学ぶとしても、この図の全部に通暁する必要はないし、そんなスーパーマンもいないと思う。ただ、わたし達は、自分が何を知っておらず、どこを探しに行けば先人の知恵を学べそうか、その方角を知るために、こうした地図を必要としているのである。 <br />
<br />
<br />
<br />
<br />
＜関連エントリ＞ <br />
　→「マネジメント・テクノロジーの領域を知ろう」（2019-10-05） https://brevis.exblog.jp/28610522/<br />
　→「マネジメント・テクノロジーの技術地図を見渡す」（2019-10-13） https://brevis.exblog.jp/28623704/<br />
　→『ITって、何？』https://brevis.exblog.jp/i12/<br />
<br />
<br />
]]></description>
      <dc:subject>E1 マネジメントの技術論</dc:subject>
      <dc:creator>Tomoichi_Sato</dc:creator>
      <pubDate>Sun, 20 Oct 2019 17:28:33 +0900</pubDate>
      <dc:date>2019-10-20T17:28:33+09:00</dc:date>
    </item>
    <supplier>
      <url>
        <excite>https://www.excite.co.jp/</excite>
        <exblog>https://www.exblog.jp/</exblog>
        <idcenter>https://ssl2.excite.co.jp/</idcenter>
      </url>
    </supplier>
  </channel>
</rss>
