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書評「Q-Japan」 飯塚悦功・著

Q‐Japan―よみがえれ、品質立国日本 (JSQC選書)


著者は東大工学部教授で、日本品質管理学会の元会長。「日本では、マネジメントは理工学的研究の対象とも思われていない。現に東大にも京大にも、理系のManagement Science系の学科が学部レベルでは存在しない」という意味のことを最近書いたが、著者の飯塚教授は、東大における、経営への理工学的アプローチの頭目ともいうべき人である(そして、この方が化学システム工学科にいる事が、東大の不思議な点なのだ)。

本書は日本品質管理学会(JSQC)監修のJSQC選書の第1巻で、日本規格協会から出版されている。とはいえ、一般人むけに書かれており、薄くて読みやすい本である。

本書は、最初に、動燃のアスファルト固化処理施設における火災・爆発事故('97年)と、その『虚偽報告』の事件から出発する。ついで横浜市大付属病院の患者取り違え事件('99年)、雪印乳業集団食中毒事件(2000年)など、かつての品質大国ニッポンを疑わざるを得ないような事件が近年起こっていることを指摘する。

だが、以前の日本が実現した品質とは何だったのか。著者は「'60~'85年といういわゆる高度成長期を一つの時代と見るのが適切ではないか」(p.23)とした上で、工業製品の大衆化による高度経済成長期にあって、その競争優位要因は品質であった、と見る。ここでいう品質とは、大量生産する品物の特性の安定性という意味だ(いわゆる“後ろ向き品質”)。「'80年代の半ばまで、TQCが経営者を惹きつけた理由は、質が経営に貢献すると言うことが非常に分かりやすい形で納得でき、魅力的だったからである」(p.68)。

この方程式が成り立たなくなったのは、成熟市場の社会に入った'90年頃からだ。消費者ニーズの多様化と、経済のソフト化・サービス化が進行するが、そこではニーズを具現化する“前向き品質”が求められる。かつてのTQC方法論では、この変化にうまく答えられなかった。

そこで著者が改めて提案するのが、「Q-Japan構想 - 品質立国日本再生への道」である。その内容は、(1)自立型精神構造の確立、(2)産業競争力の視点からの質の考察、(3)“社会技術”のレベル向上、の三本柱からなる。

ここで著者は、「組織は製品・サービスを通して、価値を提供する。質とは、価値の提供を受ける側にとってのニーズにかかわる、その製品・サービスの特性・特徴の全体像である」(p.69)と、あらためて再定義する(「品質」から、物品を連想させる「品」の文字が消えて「」だけになったことに注意されたい)。この定義は、“ニーズに関わる”という目的志向の考え方、目的達成に必要な方法論の基盤をあたえるものだ。

著者は2005年12月に発行した「JIS Q 9005(質マネジメントシステム-持続可能な成長の指針)」でも中心的役割を果たす。JIS Q 9005では、満点のない自己評価を推奨している。だが、これが評判がわるい、と著者は言う。ほかと比べられないと非難されるのだそうだ。だが「自分であるべき姿を描き、その基準に照らして評価すればよい。なぜすべての会社を同じ尺度で評価しなければならないのだろうか」(p.53)と、企業に逆に問いかける。

さらに問題を抱える企業の経営者達に、自社の競争力のありかについてたずね、「それを可能にしている組織能力は何ですか、それを将来ももち続けるためにはどうすればよいですか、との問いに納得できる答えがない」(p.79)ことを見いだす。つまり、日本企業は自分の“あるべき姿”がわからないのである。これでは前に進むことが出来るはずがない。本書の後半は、JIS Q 9005のフレームワークに従って、これを見つけるための活動の仕組みについて解説する。

本書はまた、わたしの属するエンジニアリング業界に対しても示唆するところが大きい。「サービス産業においては、質と生産性の維持・向上に最も重要な、固有技術の可視化、構造化、最適化(標準化)が不十分」(p.111)だったためにTQCが成功しなかった、と著者は言う。しかしながら同時に、「日本人の面目躍如たる特徴は“未定義でも前進できる精神構造”ではないかと思う」(p.81)。 「コンカレントエンジニアリングを容易にしたものは、未定義でも進める精神構造をもつ関係者が価値観を共有できる仕組みを持ち、未定義でも進行し変更へも柔軟に対応できるプロセスを運営しているからである」(p.82)。これらは、まさに日本のエンジニアリング企業の強みの源泉でもあるからだ。

最後の章は、社会技術について充てられている。まず、「技術とは、“目的達成のための再現可能な方法論”である」(p.114)と定義する。その上で、「経済性という単純なインセンティブによって健全な発展を望むことが難しく、何よりもよしあしが社会に与える影響が大きく、社会全体として何らかの方法論をもっていなければいけないとき、その方法論の全体を“社会技術”と呼びたい」(p.119)という。そして、医療安全、交通・物流、製品安全など社会のインフラをささえる方法論について考察する。ここは、東大で社会医療システム講座を運営する著者の面目躍如たる部分であろう。

本書は、質マネジメントやJIS Q 9005に関心のある読者のみならず、経営の今日的課題について真剣に考えたいとねがう多くの人に示唆を与える、良書である。
by Tomoichi_Sato | 2011-11-03 23:36 | 書評 | Comments(0)

書評「生命を捉えなおす ― 生きている状態とは何か」 清水博・著

生命を捉えなおす―生きている状態とは何か (中公新書)

非常に面白い、知的刺激に満ちた本だ。著者は今は東大名誉教授だが、本書の初版が出た1978年には、まだ40代半ばの現役薬学研究者だった。その頃に、このように構想の大きな、ある意味ではアカデミズムの専門性の枠を踏み外した本を書くのは、勇気のいることだったかもしれない。しかし、おそらくこの本に書かれているテーマ、すなわち「生きている状態とは何か」を探求することこそ、著者が研究の道を選んだ原点だったに違いない。

近代科学は分析的方法を専らとしており、かつアトミズムに裏打ちされた分子生物学の方法は、「生きている状態」を括弧に入れたままで、生物の還元論的研究に邁進する道を開いた。しかし、マクロな視点に立つと、「生きている状態」と「生きていない状態」は一種の相として捉えることができる、と著者は考えはじめる。そこで統計力学にヒントを求め、自然の性質に「内部エネルギーの小さな安定状態と、エントロピーの大きな自由度を同時に求める傾向があり、一方ではこの二つが互いに相反した要求になっている」ことから、動的秩序の自己形成プロセスを調べていく。

その結果、化学レーザーに見られるような自己励起(自己触媒)プロセスにおいて、系が(ミクロには)不安定な状態に置かれているとき、ゆらぎが引き金として作用すると、秩序の自己形成が次々と進行することを見いだす。さらに著者は自分の専門領域である筋肉収縮について、流動セルと呼ばれる巧妙な実験装置を考案して、ATPのもつ化学ポテンシャルを直接、一方向流動に変換する現象を発見する。これを説明する第5章が、本書の白眉であろう。このあと、著者の考察はさらに非線形振動の引き込み現象から、生体における「情報」の機能を探ろうとする考察が後半である。そして著者は本書の初版出版後、脳の研究にむかう。

生きている系には、動的協力性をもつミクロな要素(松岡正剛の命名にしたがって「関係子」と著者は呼ぶ)の相互関係が働いて、秩序を形成している、というのが著者の主張である。ここはまだ思弁と仮説の段階にある。とはいえ、いろいろな意味で、はっきりした問題意識と、明確な科学的手法による探求の結果生まれた主張がちりばめられていて、面白い。生命現象ならびに非線形現象に興味のあるすべての読者にお勧めする。
by Tomoichi_Sato | 2011-10-27 22:30 | 書評 | Comments(1)

書評:「算法少女」

算法少女 遠藤 寛子・著 (ちくま学芸文庫)


江戸時代に出版された和算の書物「算法少女」をもとに、史実に忠実なかたちで創作された小説。神田に住む町医者の娘・千葉あきは、父の指導で算法(数学)の才能を開花させ、やがて、自身も算法家である久留米藩主・有馬公に見いだされるが・・。

元の和算書『算法少女』は1775年の出版である。江戸中期、すでに社会は安定し、逆に固定化されて、数学は発達しつつも純粋な知的趣味の対象となっていた。そしてまた、流派と家元制度にしばられ、まるで盆栽のような狭く偏った育ち方を強いられた時代でもあった。一方では、数学を、金銭を数える技術として卑しむ風潮もあった。

こうした中で、物語の後半に登場する本多利明という算法家が、数学は世の中が発展していくための基礎である、という新しい考え方を主人公あきに教える。それは、算法を『壺中の天』の楽しみ(つまり現実から逃避するオタク的知的娯楽)と考える、あきの父とはまったく異なった思想である。こうして物語は、新しい世の中の、明け方に希望を託すかたちで終わる。読み終わった後で、ほっとする感情を読者に残す小説である。わずかであるが、算法の問題ものっていて、答えが書かれていない分、読者が自分で考える楽しみもある。挿絵も良い。

こうした『理系好み』の、しかし歴史と文学に根ざした小説が、インターネットの「復刊ドットコム」のリクエストに応えて文庫で出版される点をみると、私たちの世の中もまだ多少は捨てたものではないと感じる。
by Tomoichi_Sato | 2011-09-29 18:00 | 書評 | Comments(0)

書評: 「不確実性のマネジメント」 桑嶋健一

不確実性のマネジメント - 新薬創出のR&Dの「解」

医薬品の中には、1gあたりの価格が宝石よりも高いものもある。画期的な新薬の開発にうまく成功すれば、一品目だけで数年から十数年にもわたって、製薬企業の収益を支えることができる。まさに宝物である。

そのような画期的医薬品の代表例の一つが、三共(現・第一三共)の高脂血症治療薬「メバロチン」であった。1991年から2003年まで、13年間にわたって日本の医療用医薬品の売上高トップの座を維持した。しかし、本書によれば、メバロチンの開発は計画の線に沿って進展したプロジェクトではなかった。'73年にコレステロール合成阻害作用を持つリード化合物が発券されていたが、マウスによる動物実験ではまったく効果が出なかったという。しかし、飲み屋での偶然の出会いから、別の動物の非公認実験の協力者を得て活路を見いだし、'81年からは前臨床試験、そして'84年から人による臨床試験が始まる。認可を得て販売開始したのは'89年で、ここまでに16年の歳月がかかっている。また臨床実験では通常、数十億円の費用がかかる。

このように偶然や運が大きく作用する医薬品開発プロジェクトは、どのようにマネジメントされているのか。これが本書の研究テーマである。著者は筑波大の助教授(出版当時)で経営学者であるが、比較的読みやすく書かれている。

新薬開発の成功確率は、2006年の業界団体調査によれば、約1万2000分の1である。まさに一攫千金の宝探しと言っていいい。製薬企業のマネージャーの中には「医薬品の研究開発はマネジメントできない」という人さえいる。にもかかわらず、著者の調査による比較では、日本の製薬企業の間における新薬開発の生産性(成功率)に関し、歴然とした差が見られるのである。その差はいったいどこから来るのか?

「粘り強い研究が画期的な成功につながる」というストーリーは、しばしば聞かれる。しかしこれでは、逆に言えば「いつまでもプロジェクトを止められない」問題も生じる。

著者は、新薬プロジェクトを、上流(探索段階)と下流(開発段階)に分けて考察する。そして、継続か打ち切りかの「go or no-goの判断」が最重要である、との仮説にたどり着く。ところで、臨床試験段階に入ったプロジェクトは、すべて厚生労働省に申請して始める事が義務づけられている。すなわち、医薬品業界は、新製品開発プロジェクトの公的な統計が存在する、きわめて珍しい業界なのである(殆どの業界では、すべて秘密裏に進むために失敗統計が公表されない)。著者はこれを利用し、「生存時間解析」という手法を用いて、主要10社のデータを分析比較する。

その結果わかったのは、フェーズ2と呼ばれる有効性試験の途中で、明確に絞り込む事が最も効率がよいらしい、との事だった。そして、10社の中で最も成績の良い武田薬品は、まさにこのパターンの戦略にしたがっているのである。(余計な話だが、わたしはこの桑嶋氏のデータに対して、リスク確率に基づいたプロジェクト価値分析を行って、フェーズ2成功の価値貢献が最大である事を、2010年のスケジューリング学会で報告した)

本書の後半1/3は、優れた製品開発マネジメントの産業間比較にむけられる。そして、「市場ニーズの多様性」と「製品構造の複雑性」という2軸での整理による藤本・安本モデルをもちいた分析が行われる。

本書の主要な主張は、不確実性と運に大きく支配される製品開発においても、組織によるマネジメントはあり得るし、有効でもあるという事にある。その鍵は、意志決定と、勇気ある中断撤退にある。本書の副題が、「新薬創出のためのR&Dの『解』」であることにも示されるように、製品開発マネジメントとリスクについて興味ある人々にとって必見の書物である。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-30 23:28 | 書評 | Comments(0)

書評:「見えないものと見えるもの」 石川准

見えないものと見えるもの―社交とアシストの障害学


本書は、医学書院「ケアをひらく」シリーズの一冊である。著者は気鋭の社会学者で、私の旧知の友人でもある。全盲でありながら、彼はこの浩瀚な書物をわずか2ヶ月で書き上げた、とあとがきにある。そのせいか、この本はいわゆる専門書よりもエッセイに近いスピード感もあって、とても読みやすい。

私は「感情労働」という概念を、この本ではじめて本格的に知った。感情は人間という生物に生まれつき組み込まれたセンサーであるが、自由にオンにしたりオフにしたりできる装置ではない。そこで適切に感じるように(適切さの範囲は社会が「感情規則」というルールとして暗黙に定めている)、自分をコントロールする必要が出てくる。これを感情管理というらしいが、職務として求められる感情管理を、『感情労働』と呼ぶのである。

19世紀の工場労働者が肉体を酷使されたように、感情が商品となることが定着した今日、ある種の労働者たちは感情を酷使されている。その代表例は接客業や役者である。しかし、著者が本書で主題とするのはナース(看護師)たちである。なぜなら看護師たちは、専門職の労働者でありながら、同時に過酷な感情労働を裏側で要求されるからだ。

高度な感情管理を要求する社会では、本物の感情が希少価値をおびてくる。その行き着く果てでおこる感情労働の破綻は、人間を暴力的にさえする。そこでアシストと社交、さらに感情公共性と脱社交という概念をもちい、「高度に文明化された社会」、あるいは配慮の平等な社会、という青写真を提出する。

本書ではまた、オープンソース活動のプロジェクトが金銭的報酬系ではなく『評判ゲーム』によって駆動されていると指摘し、評判ゲームにより駆動される贈与文化は、じつは高品質で創造的な共同作業を促す最適な方法かもしれない、と考察する。他にも、セクシュアリティの脱規格化や、ネットオークションの奇妙な魅力、地域通貨など、人と人をつなぐ様々な仕組みとあり方について体験や対談も交えて分析していく。

本書に述べられているのは、損得と目的合理性で人間を規定した非協力ゲーム理論の、いわば対極にあるもの、すなわち感情を持つ存在としての人間社会のあり方である。今日の経済社会にあって、障碍者をふくむ誰もが自由につつがなく暮らせる条件を模索する、読みやすいが極めて野心的な著作だといえるだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-08-23 23:36 | 書評 | Comments(0)

書評:「トップコンサルタントがPTA会長をやってみた」 三谷宏治

トップコンサルタントがPTA会長をやってみた—発想力の共育法

小学校の新入生100人を前にして、あなたなら、入学式で何を話すだろうか。相手は活発で、天真らん漫で、だが難しい言葉も知らず忍耐心も無い幼児たちだ。持ち時間は9分。何を話すか、だけでなく、「どう話すか」「どう興味を引きつけるか」が大事になる。

この著者は、ピンポン球1個と直径1mのゴム製大玉とで、PTA会長としての『入学式デビュー』を果たした。二つのボールを上下に積んで、同時に地面に落とす。そして起きるビックリ現象。これで、物理の不思議と交通安全という二つのメッセージを、子供たちの心に強烈にやきつけた著者のアイデアは素晴らしい。この人は天性の「コミュニケーター」にちがいない。

コミュニケーションの上手さは経営コンサルタントにとって最大の武器だろう。「教わる癖がつくから、俺は、教えない」と著者はいう。聞き手に「考えさせる」話し方は、人を動かす仕事では、とても大事だ。それは経営コンサルティングのみならず、セールスや部下への指示でもヒントになる。知的刺激に満ちた、魅力的な本である。
by Tomoichi_Sato | 2011-07-18 22:38 | 書評 | Comments(0)

書評:「新薬はこうして生まれる」 森田桂・著

新薬はこうして生まれる―研究者社長が明かす開発秘話

著者は武田薬品工業の元・会長、それも研究畑出身で初の会社トップになった人の自伝だ。どこにも明確には書かれていないが、日経の「私の履歴書」の連載執筆に加筆したものだろうか。

医薬品業界は巨額の研究開発投資を要する業界として知られる。一つの新薬が生まれるまでに「10年の歳月と100億円の資金が必要」と言われる(最近は1,000億円とも)。しかも、10年というのは前臨床試験に入った後のことであって、本書を読むと創薬研究から10年では短すぎる、という。おまけに成功率は非常に低い。お金と時間がかかって、失敗リスク確率の大きな事業を、どのように舵取りするのか。マネジメント・テクノロジーの観点からきわめて興味深い分野である。

にもかかわらず、(というか、むしろ「だから当然」と言うべきかもしれないが)この新薬開発マネジメントに関する説得力のある論者は少ない。わたしは数年前に、経営工学会の雑誌「経営システム」で、『R&Dの経営工学』という特集を発案して責任編集したことがあるが、医薬品分野での研究方法論を具体的に語れる産業界の現役マネージャーを見つけるのに苦労した。本書はその後に読んだが、あのとき、この著者に頼むことができたらと感じた(無論、大物過ぎてとても無理だったろうが)。

たとえば、著者はこう書く。

「研究所という組織が大きくなればなるほど、研究目標は個々の研究者ごとに具体化され、効率の向上が要求され、加えて予算面からの締め付けが加えられる結果、まっ先に研究管理という大義名分の槍玉に上げられて犠牲となるのが、独創性を追求しようとする研究者である。私はかねがね、このタイプの研究者のことを『タイプT』、すなわち『スリル追求型』と呼んでいた。(中略)『タイプT研究者を窒息させるような組織を作るな』と機会あるたびに言い続けてきた。」(p.18)

あなたの勤務先では、『タイプT』の人は生きやすいだろうか? あるいは、著者はこうも書く。

「研究者が壁にぶち当たったときの悩みは深刻である。それは妻子に言えることでないのはもちろんのこと、友人の助けを期待することもできず、自分の力で切り開く以外に道はないのであり、そのためには時間がかかる。これらのことを無視して『研究の効率化』とか『研究評価の客観性』などという大義名分を振りかざして研究者を『役立たず呼ばわり』するような環境には、独創性の高い研究者は安住できないのである。」(p.101-102)

研究者社長らしく、本書の構成は、自伝の各章がそれぞれ薬で代表される。「パダン」「クロモマイシン」「アリナミン」といった具合である。また、20世紀の医薬品開発の流れを概観して、ペニシリンに代表される抗生物質の時代(30年代まで)→利尿剤・血糖降下剤の時代(40年代)→副腎皮質ステロイド(50年代)→向精神薬トランキライザー(60年代)→抗潰瘍薬シメチジン(70年代)→遺伝子工学技術とインターフェロン(80年代)→抗コレステロール薬(90年代)、と追いかけていくのも面白く、勉強になる。20世紀の医薬品の歴史はドイツ中心にはじまり、フランス・英国を経て、戦後はアメリカが中心となる。著者も米国のCenter fo Excellenceとして名高いNIHに留学するのである。

それにしても、著者は戦後の日本の学会について、こう指摘することも忘れない。

「(終戦直後の応用化学では)アメリカから輸入されはじめたプラスチックや合成繊維など新物質の講義が行われていた。世界の学会ではすでに認知されていることであっても、『本邦で初めて』であれば、新しい知識として受け入れられてきた。このことは、その後の日本の化学工業の発展には有害とさえなった。というのは、新製品や新技術を国内に紹介する能力に長じた学者が重用される傾向を助長し、ひいては独創性を重視する研究本来の姿を損なうことになった、と私は考える。」(p.57)

著者はやがて、研究所から本社に呼び戻され、一時は企画部門のマネジメントをする。この当時、武田薬品では中央研究所(学問分野別組織)とは別に550人規模の「医薬研究所」(研究プロジェクト組織)を作っており、本社の後は医薬研究所長として赴任する。つまり、R&Dのプロジェクト・マネジメントを動かす立場になった訳だ。当然ながら、科学的興味だけでなく、ニーズ中心で仕事を見ることになる。ところが、そうしてみるといろいろな不都合な点が分かってくる。

「アメリカでも日本でも、その他多くの国においても、病気を未然に防ぐという名目で薬としての承認を得ることができるのはワクチンに限られている。肥満という症状がいかに『万病のもと』であると主張しても、抗肥満作用だけで薬としての効能を取得することはできない。」(p.204)

医薬品行政は、典型的な規制業界の上に君臨する行政である。製薬企業は自社の製品の正価さえ、自分では決められない。発売も製造もすべて役所の許認可がいる。そのかわり、新薬の権利は一定期間守られ、利益を独占することができる(ジェネリックなど後発医薬品が許されるのは原則その期間が過ぎてからだ)。その結果、日本の多くの業界において保護行政の結果生じた事態に、医薬品業界も陥ることになる。国際競争力の低下と、成熟市場での急激な統廃合だ。

「国による新薬許可基準では、日本の施設で行われる動物実験や病院での試験臨床成績の添付を厳しく義務づけていたので、欧米の製薬企業の多くは日本企業をパートナーとして合弁事業を創立して参入するしか方法がなかった。その結果、日本の製薬企業は国内では保護され、その裏返しに海外進出が遅れることになった」(p.225)

(医薬品卸の統廃合は)「メーカーにとっては対岸の火事なのだろうか。答えは明白に『ノー』である。日本の医薬品メーカーの数もなんとしても多すぎる。一部上場の企業の数も30社に余るというのは、世界でも例を見ない。」(p.277)

本書は、醤油屋の息子に生まれ、大学で生化学を勉強した優秀な研究者が、敗戦直後から50年間、日本最大の医薬品メーカーで働いてきた記録である。それはまことに、昭和初年生まれの人らしい回想録であり、かつ医薬品産業の自叙伝でもある。戦後の半世紀の間に、何がどう変わり、どう進歩し、またどう停滞していくことになったのかが、科学者らしい正確で客観的な観点で書かれている。医薬品開発や産業史に興味を持つすべての人に勧められる良書である。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-27 22:03 | 書評 | Comments(2)

書評:「完全な真空」 スタニスワフ・レム

完全な真空 (文学の冒険シリーズ) スタニスワフ・レム

うーむ、素晴らしい。現代ポーランドを代表する作家・レムの、知的創造力の広大さを示す傑作だ。レムはSF作家として出発したが、70年代以降はむしろ文明批評家としての活躍が目立つ。1971年に出版された本書は、そのターニング・ポイントを示しているといってもいい。

本書は、実在しない、架空の本に対する書評集である。無人島に漂着した男が空想の中で召使いや侍女をつくりあげ、しまいには想像上の群衆で島が満員になってしまうという皮肉な小説や、南米奥地にナチス親衛隊将校が作り上げた奇怪なフランス風王国の宮廷物語など、空想的な小説本が多いが、これはまあ「レム自身が書こうとして書けなかったSF」の風刺だといっても良い。

しかし、人間誕生の確率を算定しようとする学者の抱腹絶倒な論文や、ゲームの理論によって宇宙の発生と物理法則の成長を説明するノーベル賞受賞学者の講演「新しい宇宙創造説」などの本は、いかにも医大出身で技術畑のキャリアを持つレムらしい、理科系的な構想である。また、架空の本の著者も、ドイツ人ありフランス人ありイタリア人あり米国人ありで、それぞれの文化の特色を示すような内容となっており、その配列や対比も面白い。

本書は文学と言うべきか、はたまたノンフィクションと形容すべきか、あるいはSFの趣向の一種と断ずるべきか、その位置づけもまた人々を困惑させる。きわめて機知に富んだ、楽しい書物と言うべきだろう。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-16 23:14 | 書評 | Comments(0)

書評:「ビジネス脳はどうつくるか」 今北純一・著

ビジネス脳はどうつくるか

今北氏は長年フランスで働き、ルノー公団やエア・リキード社のエグゼクティブを経た後、現在はコーポレート・ヴァリュー・アソシエイツという欧州コンサルティング会社のパートナーの地位にある。毎月、日本とフランスの間を往復されているわけだから、航空会社にとっては上得意にあたる。乗り込むと、キャビンアテンダントがつつとやってきて、「今北様、いつもご利用ありがとうございます」と挨拶してくれる身分だ。

ところが、食事の時間になると毎回、献立の好みを聞かれる、という。今北氏は機内ではつねに、食事をパスしてワインを一杯とチーズの盛り合わせだけで過ごす習慣なのに、彼女らはそのことに気がつかないのだ。あるいは、たとえ気づいても、そうした情報を申し送りする仕組みが欠けているのかもしれない。いずれにせよ、表面的な顧客満足はみたそうとしても、本当のニーズがどこにあるのかを推し量る想像力に欠けたまま、ビジネスをやっているわけだ。

本書のテーマは、そうした想像力をどう涵養するか、である。そのための手段の一つとして、「顧客のさらに顧客に会って、ニーズを知れ」という。鉄鉱石を産出する会社は、直接顧客の製鉄メーカーの言うことだけをきいていてはダメだ。製鉄メーカーの顧客である(たとえば)自動車メーカーのニーズや動きを注視していく必要があるし、それができれば需要の将来の動きを想像することができるようになる。

今北氏は顧客の潜在需要の底にある「絶対需要」を探知する想像力を、『左岸からの発想』と名付ける(パリを知らない人にはわかりにくいが、あの街はセーヌ右岸と左岸に分かれており、右岸は商業とビジネスの地域である。つまり右岸は大企業の押しつけ論理の発想を象徴している)。しかし今日のマネジメント層は、むしろ想像力を枯らしてしまう方向に動かされているようにも見える。そうした意味で、知的刺激に満ちた本である。ただし、この本のタイトルは(編集者がつけたらしいが)なんだかちょっと誤解を与えそうな気もするのだが。
by Tomoichi_Sato | 2011-06-09 21:24 | 書評 | Comments(0)

書評:「持続不可能性」 サイモン・レヴィン著

持続不可能性―環境保全のための複雑系理論入門

原題は"Fragile Dominion"。『はかない住み処』の意味である。本書は、京都賞を受賞した数理生態学の大家S. Levinが、一般人向けに書いた(珍しく数式が一つも出てこない)生態学の集成である。

著者レヴィンの主たる業績は、空間生態学にある。従来は生物相の時間的遷移を扱う学問だった生態学に、空間分布とスケールの意味概念を計量的に持ち込んだ。彼の論文"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"は'90年代を通して生態学で最も広く引用された論文だと言われている。私は'80年代の後半に、米国東西センターの環境政策研究所にいて、生態学におけるスケールアップ問題を研究しており、このときの縁でレヴィン博士の知己を得ることができた。

さて、本書でレヴィン博士は、地球の生態系を「複雑適応系」だと定義している。『複雑系』の概念は、サンタフェ研究所が中心となって'90年代に発展し広く普及したが、レヴィン博士はこの思潮に一役買っているらしい。生態系を機能と構造から考える、というのが米国の生態学の主流だが、ここに「目的論」の観点を密輸入する傾向が、以前からあった。彼はこれを警戒して、「エコシステムの生成は適応の結果であって、合目的な意志が働いている訳ではない」と繰り返し主張している。

長い年月をかけて織り上げられた、この地球のエコシステムは、しかし人間活動と欲望のために危機にさらされている。これが、原題『はかない住み処』の問題意識であった。彼は生態学(生物進化学を含む)の発展経緯と視点を丁寧に記述して、生物多様性とエコシステムのパターンが、生物の局所的な適応戦略から発生してくることを説明する。エコシステムを、安定性と自己修復性を持つ実体的な概念(つまり“生き物”)ではなく、パターンとして理解する著者の立場は非常に明瞭で、説得力に富んでいる。

しかし、レヴィン博士のこのような研究のアプローチは、どこかで適応と進化の「ゲーム理論」的な生物観をもたらす危険性をはらんでいる。それは、彼の活躍してきたアメリカの知的風土においては、とても自然なものだったのかもしれない。じじつ、京都賞の受賞記念講演で、レヴィン博士は「囚人のジレンマ」の例を引き、生物行動のモラルの発生を突き止めたい、と言っていた。生物界には、「利他的」としか言いようのない、不思議な現象が時々ある。それを、めぐりめぐって最終的には自己や自種の適応可能性を高めるから、という視点から説明しようという、いかにもネオ・ダーウィニズム的な研究アプローチである。

しかし、本当にそういう説明ですべてが納得できるのだろうか。進化ゲーム理論やネオ・ダーウィニズムには、競争原理はあれども、協働原理は存在しようがない。前提条件から排除されているからだ。

素人の私が、直感だけに頼って発言しても、何の意味もないことは重々承知している。ただ、本書の結論にある環境管理のための8つの提言の、奇妙なインパクトの弱さは、レヴィン博士を含むアメリカ現代科学が見過ごしてきた、協働原理の欠落によってもたらされたものではないか。彼の知性と、ユーモアに満ちた人柄に敬意を持つからこそ、この点についてあらためて考えてみてほしいのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-04-29 18:21 | 書評 | Comments(0)