「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(6月7日)開催のお知らせ

各位:

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2018年第3回会合を開催いたします。

今回は、ギルドワークス(株)代表の市谷聡啓様に、アジャイル開発プロジェクトについてご講演いただきます。

2001年に米国で「アジャイルソフトウェア開発宣言」が発議されてから、すでに17年がたち、アジャイル開発は日本のIT業界でも、かなり広く認められる手法となりました。とくに開発・実装の仕事に直接関わる人たちからは、大きな期待が寄せられています。またPMIが昨秋発表した「PMBOK Guide」第6版は、「Agile Practie Guide」との合本の形で発売され、米国のプロジェクト・マネジメント分野でも重要性が増していることが分かります。

しかし、多くの利点にもかかわらず、現実のアジャイル開発は様々な障壁やチャレンジに直面し、また不振なプロジェクトの事例を耳にすることも出てきました。その理由にはソフトウェア技術的な面から、日本におけるIT業界の構造・慣習の面まで、いろいろあるようです。IT業界がたまさか活況を呈し、人手不足も語られる今日、アジャイル開発の賢い進め方について、この分野でエヴァンジェリスト的に活躍される市谷様からお話を伺います。ご期待ください。


<記>

■日時:2018年6月7日(木) 18:30~20:30

■場所:場所:三田キャンパス 研究室棟B会議室(1F)定員:36名
※キャンパスマップの【10】
HPの下部にキャンパスマップがございますので、ご確認ください。

■講演タイトル:
アジャイル開発の実際

■概要:
 改めてアジャイル開発とは何か。そして、日本の現場ではどのように実践されているのか。
プロジェクト、プロダクト開発の運営の観点から、アジャイル開発の実際についてお話ししたいと思います。

■講師:ギルドワークス株式会社 代表・株式会社エナジャイル 代表   市谷聡啓(いちたに・としひろ)

■講師略歴:
 サービスや事業についてのアイデア段階の構想から、コンセプトを練り上げていく仮説検証とアジャイル開発の運営について経験が厚い。プログラマーからキャリアをスタートし、SIerでのプロジェクトマネジメント、大規模インターネットサービスのプロデューサー、アジャイル開発の実践を経て、ギルドワークスを立ち上げる。それぞれの局面から得られた実践知で、ソフトウェアの共創に辿り着くべく越境し続けている。著書に「カイゼン・ジャーニー」、訳書に「リーン開発の現場」がある。

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。

佐藤知一@日揮(株)

# by Tomoichi_Sato | 2018-05-19 18:49 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ミニレビュー:Lenovo Bluetooth Touch Mouse N700

Lenovo Dual Mode WL Bluetooth Touch Mouse N700 (Amazon.com)

(追記:ある方から、この並行輸入品のマウスは2.4GHz無線に関して、日本国内で「技術基準適合証明」を取得していないので違法ではないか、という指摘がありました。確かにその疑いが濃厚ですので、この記事は近いうちに削除します。Lenovo社には、早く日本国内でも正式販売してもらいたいと希望します。と同時に、旅行者は携帯使用が許されるのに、国内販売には独自の証明手続きが必要だ、という制度にも、素人ながら多少の疑問を感じる次第です)
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わたしの勤務先では、LenovoのNote PCが標準機だ。今年、軽量なタイプに変わったのを機に、マウスもコード型から、持ち運びやすい無線タイプにしたいと思い、個人で買ったのがこの製品だ。かってから1ヶ月ほど使ってみたので、レビューで紹介したい。

Bluetoothのマウスは、世の中にものすごく沢山、種類がある。値段もまあ、2千円程から1万円くらいまで、幅がある。その中から、あえてこれを選んだのは、いくつかユニークな特徴があるからだ。

(1) カッコいい
 まあ、じつに単純でミーハーな理由である(笑)。でも、よく持ち歩くモノは、やはりデザインが大切だ。PCと同じLenovoの製品で、色もスタイルもぴったり合っている。そして、マウス自体が、とてもスマートな形状である。真っ直ぐな状態のままだと、マウスには思えない。シガレットケースか何かのようだ。しかし、途中の部分をねじって回転すると、中央部分が三角形に持ち上がる。これもまだマウスには見えないが、つかんで動かしてみると、なかなか手になじむ作りだ。このデザイン性が、なかなか良い。

(2) 案外持ちやすい
 マウスとしては、ここが一番大事だ。軽いけれども、必要なだけの重さもあって、妙にぶれたりしにくい。それに、まっすぐな形状に戻すと、ポケットにも入れやすいから、持ち歩きに便利だ。これまで何年も、Note PCと一緒に有線式のマウスと、マウスパッドまで持ち歩いていて、つくづく面倒だった。今は、とてもすっきりしている。もちろん、カバンに入れても邪魔にならない。

(3) レーザーポインターにもなる
 このマウスはまっすぐな状態では、レーザーポインターとして機能する。マウスボタンは左右にあり、その真ん中には幅1cm足らずのスイッチがあって、マウスとして使っている場合は、ここが一種のスライダー機能を持つ。しかしまっすぐな形のときは、ポインターのスイッチに変わる。もちろんその際でも、左右のボタンは機能し、PowerPointのスライドの前後めくりに使える。わざわざマウスとポインターを別に持つ必要が無く、非常に便利である。

(4) Bluetoothと2.4GHz無線の2つの方式をサポートしている
 このマウスは、Bluetoothの他に、2.4GHzにも対応しており、そのために使う小型のドングル(PCのUSBポートに差す受信機)も付属している。わたし自身は普段Bluetoothを使っているのだが、他のBT未対応のPCとも接続して使える。そして、そのドングルは、このマウスの電池ホルダーの横のスペースに格納できるのである。こういう細かい配慮の行き届いている点が、デザインとして優れている。

(5) 電池はまあ持つ
 単4電池2本を内蔵するのだが、とりあえず1ヶ月は問題なく使えている。

(6) クリック音も低い
 クリック音はあまり気にならない方だと思う。クリックアクションも軽いが確実だ。すごく静音だというほどでもないが、あまりカチカチやかましいタイプではない。

(7) スライダー機能はやや動かしづらい
 あえて一つ欠点をあげると、ホイールに相当する中央部のスライダー機能の感度がやや低く、スクロールがやりにくいことだろうか。まあ、AppleのMagicマウスみたいに、やたら感度が高すぎるのも、使いにくくて不便だとは思うのだが。

中央の回転部分が、機械的にどこまで耐久性があるか、そこが購入した時点で一番心配なことだった。無論、まだ1ヶ月程度では分からないが、そんなに頻繁に回す訳でもないし、と思っている。値段はまあまあするが、とりあえず現時点では、買ってとても満足している製品である。ただ、わたしはこの製品、Amazon.comから並行輸入品を注文するしかなかった。なぜ日本国内で一般販売していないのだろうか? けっこう売れると思うのだが。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-15 23:15 | ビジネス | Comments(1)

プロジェクトの成功と、アウトカム

「自分がチャレンジする予定のプロジェクトでは、ゴール到達から成功失敗の判断まで半年かかることになっていますが、このような目標設定は適当ですか?」

今回は、この質問を取り上げよう。例によって、大学でプロジェクト・マネジメントの講義をしていた時、学生から出てきた問いである。そして、とても良い質問だ。

このときの講義のテーマは、「ミッション・プロファイリング」だった。この用語は、PMBOK Guideには出てこないので、なじみのない読者も多いかとは思う。プロジェクトにおけるミッション、すなわち使命を、その目的・ゴール及び目標(=成功基準)などの観点から、分析・定義し文章化する作業である。その結果がプロジェクト・チャーターになる。

授業では特に目標設定の大切さを学生に教え、修士論文や就活を題材に、プロジェクトとしての目標を考える、簡単な演習を入れている。さらに、自分がこれから将来関わるであろうプロジェクトの内容を考えて、そのゴール・目的・目標を、簡単なプロジェクト・チャーターの形に書かせている。上記の質問は、その中から出てきたものだ。

この学生はどうやら、新しい技術を使った製品開発のプロジェクトにチャレンジしようと考えているらしい。プロジェクトがゴールに到達し、すなわち製品が無事に開発完了しても、それが本当に世の中に受けられるかどうか、売れて経済的にペイするかどうかは、その後半年ぐらいしないとわからない。そういう状況下で、プロジェクトの成功基準は、どのように考えるべきか?

この質問を見て、私は3月に日経ビジネスオンラインが発表した、あるITプロジェクトの調査結果を思い出した。
プロジェクト失敗の理由、15年前から変わらずhttp://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/100753/030700005/?P=1
という記事で、著者は日経コンピュータの元編集長・谷島宣之氏である。サブタイトルに、「1745事例を調査、成功率は52.8%」とある。簡潔ながら要点をついた、良い記事であると思うので、読まれることをお勧めする。

この記事によると、日経コンピュータ誌が2003年に行った第一回の調査や、その後、数年おきに行われた調査結果から見て、日本では明確にITプロジェクトの成功率が上がってきていると言う。それ自体はとても重要で、良いニュースだ。「成功率が上がった理由の一つはプロジェクトにおける定量管理の普及だ」と記事は書いている。また、「失敗理由の筆頭はシステムの『要件定義が不十分』」というのも、うなづける内容である。

ところで、この記事における「プロジェクトの成功」とは一体どのように定義されているのだろうか? それは、「品質、コスト、納期の3点を順守できたか」である。品質をスコープに読み替えると、つまり『鉄の三角形』を守ることができたか、と問うている訳だ。

実は、この日経コンピュータ誌と同様な調査を、米国ではStandish Groupという調査会社が'90年代から継続的に行ってきた。1994年以来、3年おきに発表された調査レポートでも、プロジェクトの成功率が問われ、そして徐々にあがってきている。それはプロジェクト・マネジメントの普及による成果だと解釈されている。ちなみに、Standish Group の定義は次のようになっている。

Successful: completed on time, on budget, with all specified features.
Challenged: completed and operational, but over-budget, over time and with fewer features than specified.
Failed: the project is cancelled before completion or never implemented.

すなわち、品質・コスト・納期を計画通り満足して終わった「成功プロジェクト」と、完了したが 3 大制約条件を満たせなかった「困難なプロジェクト」、そして中断終了した「失敗プロジェクト」のクラスがある。2003年の調査では、成功プロジェクトの比率は34%だった。同じ2003年の日経コンピュータ誌調査では、日本の成功率は約27%だったから、日本は米国の後を追いかけている訳だ。

それはともかく、ここで問題にしたいのは、プロジェクトの成功を、コスト・品質・スケジュールの3点で定義していいのかということだ。それはいわば、プロマネ視点から見た成功、と言うことに過ぎない。鉄の三角形と言う大きな制約条件を満たした。それ自体は立派なことだ。だがプロジェクトとは、その成果物が価値を生み出して、初めて意義があるのではないか。

どんなに立派なシステムを開発しても、ユーザがちっとも使ってくれなかった。そういう事例は、しばしば起きる。立派な地方空港を建設したが、閑古鳥が鳴いている事例もある。「仏作って魂入れず」とは、まさにこのような状況だ。

プロマネの視点から見た、プロジェクト・マネジメントの成功だけで、プロジェクトの出来不出来を判断していいのか? ここが問われている。新製品の完成後、世に受け入れられるかどうかは、半年ぐらい経ってみないとわからない、という最初の学生の質問は、まさにこの点をついているのだ。

そこで必要となるのが、アウトプットとアウトカムの区別である。アウトプットとは、プロジェクトが直接生み出す成果物である。それは情報システムだったり、橋だったり地方空港だったりする。

では、アウトカムとは何か? それはプロジェクトの成果物を活用することでもたらされる、変化である。情報システムで生み出される、新しい業務プロセスかもしれない。橋がかけられたことで生じる、地域交通の活性化かもしれない。地方空港のもたらす、新しい経済効果かもしれない。
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図を見て欲しい。プロジェクトとは、インプットとして資機材等何らかのマテリアル、そして情報を受け取って、何らかのアウトプット=成果物を生み出す活動である。プロジェクト起動のトリガーとなるのは、何らかのオーダーなり受注であろう。プロジェクトを遂行するには、人々あるいは道具といったリソースが必要である。また、様々な要求事項や制約条件もあろう。途中段階や最後でのレポートも必要だろう。

アウトプットを生み出せば、プロジェクト自体は完了する。しかしビジネスとしては、その先に大事なステップがある。それは成果物を活用して、アウトカムを生み出すことだ。

このような構造を考えると、プロジェクトにはざっくりいって、2種類の成功があると考えられる。それは短期的成功と長期的成功だ。

プロジェクトの短期的成功とは、効率よくアウトプットを生み出すことである。プロマネ視点での成功といってもいい。これに対し、長期的成功とは、プロジェクトが価値あるアウトカムをもたらすことである。

英語ではよく、"do things right" と "do right things"という言い方で、この2つを区別する。Do things rightとは、ものごとを正しく(上手に)やること。Do right thingsとは、正しい(良い)ものごとを行うことを意味する。効率よく上手にやることが大切だが、価値あるものを作り出すことの方が、もっと重要だ。

これに関連して、KPIとKGIという言葉もあげておこう。KPI(Key Performance Indicator)とは、いうまでもないが、仕事のパフォーマンスを測るための主要なモノサシである。企業活動全体なら、売上高とか利益だとか総資本回転率といった尺度だ。何かをマネジメントしたかったら、対象を計測して数値化し、それを計画や過去の類似実績や標準値と比較し、改善活動を促していく。これが定石である。プロジェクト・マネジメントの場合ならば、進捗率だとか総工期などがあげられる。EVMS(Earned Value Management System)の中にも、CPI(Cost Performance Index)とかSPI(Schedule Performance Index)などの尺度が内蔵されているのは、ご存じの通りだ。

KGI(Key Goal Indicator)という言葉は、最近になってマーケティング、とくにWebマーケティングの分野で耳にするようになった。KPIが、途中のプロセスのパフォーマンスを表すのに対して、KGIはゴール=結果の(たとえば顧客の購買率などの)よしあしを直接示す、という風に使われる。

もしこれを、KPIはアウトプットに関するモノサシで、KGIはアウトカムに関する尺度だ、と解釈できるなら、上に述べた説明とちょうど合致する。ただ、KGIはそれを支える複数のKPIのツリー状になっている、という解説も見受けられるので、必ずしもそうもいいきれない。まあ、Webマーケティングとプロジェクト・マネジメントという異なる分野での概念なので、違っていても当然かも知れないが。

いずれにしても大事なことは、プロジェクトの成功・不成功は、そのプロジェクトが完了した時点だけでは必ずしも決まらない、と認識することだ。あるいは、プロジェクトの価値は、そのプロジェクトだけを見ていても定まらない、と言いかえても良い。もしもその「プロジェクト」が、単にアウトプットを出すまでの射程距離を指すのなら、ということだが。そしてプロジェクトの成功を本気で心配するならば、「プロジェクト後」をケアしなければならない訳だ。だから、「ユニークな製品、サービスあるいは所産」を創造するまでをプロジェクトの範囲と考えると、プロジェクトの価値論はそこから抜け落ちてしまうことになる。

仏を作って魂を込めたいならば、プロジェクト後のアウトカムの活用まで面倒見なければならない。また、活用しやすいアウトプットの要件を、最初に定義し設計することからはじめなければいけない。ここが肝要なのだ。「与えられた要件とSOWから、コスト・納期・品質の制約内で、成果物を効率よく生み出す」ことがプロジェクト・マネージャーのスコープだとすると、魂を入れる仕事は、その外側、ないし上位にある。

プロマネの上位にあって、プロジェクトの価値を本当に作り上げるのは、じつは『プログラム・マネジメント』の仕事である。プロジェクトを起動し、プロマネを任命し、途中途中でプロマネを助け、評価し、成果物を受け取り、それを元に組織能力を変えていくのも、プログラム・マネジメントの仕事だ。完成しても価値を生まない、意味の無いアウトプットを作ろうとしている問題プロジェクトに中止を命ずるのも、プログラム・マネジメントだ。

そういう意味で、わたしたちの社会で本当に足りていないのは、プログラム・マネジメントの方なのである。そこの欠落を、プロジェクトのレベルで何とか解決しようともがいているプロマネが、あまりにも多い。それはとくに、要件定義から成果物構築までの段階を、ほとんどすべて外部にアウトソースしてしまう、IT分野に著しい傾向なのかも知れぬ。

多くの人は、「プログラム」とは同時に複数のプロジェクトを束ねたものだ、と理解しているようだ(米国PMIの定義)。しかし、わたしは、たとえ単一プロジェクトでも、プログラム・マネジメントは成立するし、必要だと考えている。プログラムとは、組織が新しい能力を獲得して成長するために行う活動の仕組みである(英国MSPの定義)。つまり、組織としての成長への経路を、一歩一歩進んでいくのが、プログラム・マネジメントだ。だから、もしもプログラム・マネジメントを日本語で強引に表すなら、『成長行程管理』という言葉が適切かも知れないと、夢想するのだ。あるいは、『戦略行程管理』の方が受けるかな?


<関連エントリ>
 →「プロジェクトにとって成功とは何か ~ESC Lille PM Seminarより」 https://brevis.exblog.jp/8567708/ (2008-09-05)
 ・・10年も前の記事ですが、今回の話の原点は、ここにあります。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-07 23:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

生産システム、そのパラダイム・シフト

「工場づくりが仕事です」と、よく自分のことを説明してきた。ときどき、「おたくの会社はプラント屋じゃないの?」といわれることもある。だが、英語でたとえばCar plantとは自動車工場であり、Plant Managerは工場長を指す。だから「プラント」と「工場」を区別するのは、日本独特の習慣だとも言える。

ところで、「工場」とは、そもそも何を指す言葉か? じつは、ここにいささかややこしい事情が生じる。というのも、工場とは、以下のような複数の意味合いで使われるからである:
・建物を指す場合(「工場建設」のように)
・組織を指す場合(会社組織図で、AA事業部の下に「aa工場」がある)
・機能を指す場合(「ウチの工場は納期が長くって」・・)
こうした問題があるため、工場を論じると、しばしば誤解や行き違いが生じる。まことに面倒である。

かりに、ここで工場を「生産機能」として括ったとしても、それでは、工場に製品設計の機能は含むのか、購買機能や物流出荷機能はは含むのか、という疑問が生じる。いや、工場と呼ぶからには、純粋に製造機能だけを指すべきだ、というご意見もあろう。しかし、「純粋な製造機能」だけを、はたして括り出せるのか。たとえば、部品保管や、配膳や、電気・水・ガス供給は、製造ではないのか? 等々。

そこで、わたし自身は、機能的な仕組みを表すとき、あえて「工場」ではなく、『生産システム』という言葉を使うことにしている。

(本サイトの読者には毎度の注釈で、くどいけど、「システム」とは『仕組み』を指す言葉である。コンピュータ・システムだけのことを指しているのではない)

では、生産システムとはどのようなものか。実際の工場には、機械加工もあれば組立もあれば化学も金属精錬も食品もある。すべて個性があり、ばらばらだ。それら全てに共通する「仕組み」なんて、あるのだろうか?

もちろん、ある。そうでなければ、たとえばドイツは「インダストリー4.0」なんてことを考えなかっただろう。ものごとの個別性・共通性は、相対的なものだ。林檎とオレンジは、まったく別物だともいえるが、木になる果実で、丸くて手にのるサイズだ、というレベルでは共通だとも言える。わたし達の文化はなぜか個別性にこだわりたがるが、西洋文化はわりと抽象化思考を好む。

そこで、「生産システム」についても、かなり抽象化したレベルでの、共通モデルを示すことは可能だ。システムの機能を説明するときは、インプット・プロセス・アウトプット(頭文字をとってIPOモデルと略称することもある)を理解することが鍵である。それが図だ。この図は2年前にも説明したが、あえて再掲しておく。
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生産システムのアウトプットは、製品(の形で具現化された付加価値)である。これに対し、主要なインプットは、需要情報である。需要情報とは、確定した受注かもしれないし、予測された需要の場合もあろう。そして、原料資材と、副資材・ユーティリティが、脇からのサイド・インプットとなる。

設計情報について言うならば、受注設計生産の場合は、生産システムの中で設計が行われる(設計機能がシステムに含まれる)。それ以外の生産形態(繰返受注生産や見込生産など)では、設計はすでに終わっていて、外部からインプットとして与えられることになる。設計部門はたぶん、本社に座っているのだろう。いや、工場の建物にいるのかもしれないが、そこは生産システムとは別のライフサイクルで動いている機能だ。

生産システムの主要な構成要素(構造)をあげると、以下のようになる:
・働く人
・機械設備(ツール・金型・治具等を含む)
・空間と、それを支える建築(用役供給を含む)
・情報系(伝票とコンピュータ・システム類)

この中を、モノが流れていくわけだ。いわゆる生産の「4Mといわれるもの(Man=人、Machine=機械、Material=モノ、Method=方法)のうち、加工対象のモノ(マテリアル)は機能の対象であり、仕組みそれ自身には含めない。

そして、生産システムには動的特性に応じた制御が付随する。「制御」といっても、このレベルでは、通常「生産管理」と呼ばれる機能を指す。すなわち、計画系(指示)と実績(報告)系の、両方からなるコントロールである。計画・指示のない生産管理はないし(それは管理ではなく「なりゆき」と呼ばれる)、実績・報告のない企業では、お金をきちんと勘定できない。

指示と報告の対象としては、
(1) 数量・納期の指示と結果(進捗)報告
(2) 仕様の指示と、性状(品質)の報告
があげられる。もちろん、「かんばん」のような同期化の仕組みも、制御の一種である。そして、異常の発見と処理も、制御の一部だ。

生産システムは、その要素に人間を含む第二種のシステム(法政大学西岡教授の用語)だから、制御に隣接した項目として、ルールや評価尺度も含むことになる。また、生産システムをとりまく環境・制約条件なども、考慮する必要がある。

こうした、いわば最上位レベルの機能・構造・制御は、業種や品種によらず、ほぼ共通である。ただ、実際の工場づくりに進むためには、業種業態に応じて、この下のレベルに設計(システム・デザイン)が入ることになる。

ところで、2年前の記事「生産システムとは、どういう仕組みだろうか」 https://brevis.exblog.jp/24388827/ でも書いたことだが、四半世紀前の時代は、生産というもののとらえ方は一般に、もっと単純だった。それは、「原料・部品」を主インプットとし、「用役・副資材」がサイド・インプットで、アウトプットは「製品」だった。この絵には、どこにも需要情報が登場しない。かりに描くとしても、サイド・インプットの扱いだろう。
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なぜか。それは、作れば売れたから、である。これが戦後復興期から昭和の高度成長期を経て、平成初期まで長く続いてきた、従来の考え方だった。基本的に、社会の側に、需要はある。良いものを作れば、必ず、売れる。そうした無意識の仮説が、ずっと世の中を支配してきた。

先日も、自動車業界のある大手企業に招かれて講演をした折に、上記の図をお見せしたところ、生産システムの主要なインプットが「需要情報」であるのはなぜか、との質問をいただいた。昔は、原料・部品が生産における重要な制約であったが、今は需要情報の方が大事になったので、主客逆転が起きたのだ、とお答えした。たとえ手元に十分な原料部品があり、品質について満足できる状態であっても、需要がないところで製品を作ることは、現代では無意味なのだ。

ところが、多くの日本企業では、この思考方法の転換(パラダイム・シフト)がうまくいっていない。

プル型の生産方式、という言葉は、世の中に普及するようになった。Pull型とは、すなわち、需要情報を主要なインプットとして、工場を動かす方式を言う訳だ。だから、実質的には同じ事をいっている。では、工場のマネジメントの人に、絵を描いてもらったら、上記のような絵になるだろうか? 相変わらず、原料・部品が製品に変わる絵を描くのではないか?

もう10年以上、いや15年以上も前から書いてきていることだが、「大量見込生産の仕組みを残しながら、多品種短納期の受注生産に対応しようとしてる」ことが、日本の製造業を難しくしている根本問題である。時代の変化についていくためには、生産システムの抜本的な再考・再設計が必要なのである。

そこを、多くの会社では怠ってきた。そういう問題意識で、物事を見てこなかった。

では、システムとは、どう設計すべきものなのか。それを考えるためには、システムとは、どういった性質を持つものかを理解しなければならない。

システムを考える際、まず理解すべきことは、「ミクロを積み上げてもマクロにはならない」という原理だ。全体は部分の総和ではない、と言いかえてもよい。

これはすなわち、「ベストなプレイヤーを9人集めればベストな野球チームになる」とは限らないことを示している。あるいは、「総員その持ち場で最善を尽くせ」、という類いの方針が、全体の最良のパフォーマンスを生む保証はないのだ。

むしろ余計な、ムダに見える部分を置くことで、かえって全体がよくなることがある。これを意図して行うのが、システム設計のポイントである。そもそも、限られたリソース(経営資源)を、どこに傾斜配分するかがマネジメントの鍵だ。経営資源には限りがある。

上から順にベストなメンバー9人をチームに揃えられないとき、じゃあ、どこを強くしてどこは抜くかを考えるのが、野球の監督の仕事だ。同じように、どこを手厚くし、どこは緩くしておくかを、生産システムでは考えなければならない。

そしてシステムでは、効率性(生産性)と柔軟性(追随性)は、しばしば相反する。列車の目的は移動することで、速く走れて多くの乗客を乗せられる新幹線はある意味、最高の効率をもつ。だが、その線路は簡単に引いたり変えたりすることはできない。車にたとえるならば、最高速で走れるレーシングカーは、しかし、狭い町中を小回りするには向いていないのだ。そこにはトレードオフが存在する。同じように、低コストと短納期だって、簡単には両立しない。だから、何を重視し、何を犠牲にするかについて、設計思想がいるのだ。

したがって、工場を構想する人は、システムの設計原理を知るべきである。工場づくりは、すぐれてシステムズ・エンジニアリングの問題なのである。こういう思考方法をすっ飛ばしたまま、自動車業界で有名な「なんとか生産システム」の、道具立てだけ導入しようとしても、ふつう役には立たない。無理にそんな事をトライしても、結局「コンサル疲れ」した現場が残るだけだ。

そして、わたしがここに書いたようなことは、本当は、経営レベルが理解すべき事である。

だが、世の現実を見ると、工場を監督する立場にある人は、本社の営業出身か設計出身の事業部長だったりして、「工場が生産システムである」ことを知らないことが多い。だからせめて、現場を預かる中堅技術者は、知っていなければならないと思うのである。営業云々と書いたが、これは文系・理系の問題ではなく、そういう視点を持ち得るかの問題である。

だからわたしは、工場よりも本社の多い東京・新宿で、あえて生産計画系のセミナー を引き受けているのである。「生産システムとは何か」を、ここに書いたよりは1段階詳しいレベルで、理解してもらうためだ。セミナー講師が生業ではないから、せいぜい年に1回か2回程度だが、演習を交え、多少自分の手を動かして、身につけられるようなコースにしている。こうした視点でモノを考えてみたいという方のご来聴をお待ちしている。

この1〜2年、IoTブームがきっかけとなって「スマート工場」が脚光を浴びている。さらに人手不足が深刻化したせいで、生産自動化のための投資も、久しぶりに承認を得やすい状態になってきている。そうした仕組みを考えるためにも、ぜひ「生産システムズ・エンジニアリング」の分野への関心が高まってほしいと願う次第である。


<関連エントリ>
 →「生産システムとは、どういう仕組みだろうか」 https://brevis.exblog.jp/24388827/ (2016-05-17)
 →「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/2641571/ (2001-02-03)


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-28 14:56 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「自由人物理」 西村肇・著


自由人物理―波動論 量子力学 原論」西村肇・著(Amazon.com)


1927年10月。数年に一度開かれる国際的な科学者の会合であるソルヴェイ会議に、錚錚たる物理学者たちが集まっていた。ニールス・ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、パウリ、ド・ブロイ、ディラック・・。会議のテーマは原子内における電子と光について。だが、議論の内実は、量子力学の主流派であったボーア、ハイゼンベルク、ボルンらの「コペンハーゲン解釈」の主張と、それに反対するアインシュタイン、シュレーディンガーらの批判だった。

ハイゼンベルクらが行列力学と不確定性関係を提唱したのも、シュレーディンガーが波動力学を提案したのも、その会議のほんの1〜2年前のことで、原子内部の物理像については百家争鳴の状態だった。しかし、数日間の猛烈な論争は、主流派の勝利に終わった。そしてこの時以来、「粒子と波動の相補性」「不確定性原理」「波動関数の確率解釈」を中心とした物理現象の説明が、アカデミアと教科書を支配するようになる。

しかし、コペンハーゲン解釈を柱とした説明は、物理モデルとして奇妙な(直感的に理解できない)問題をいろいろと残した。それは、たとえば電子線の2スリット干渉問題であり、内部構造を持たないはずの電子の「スピン」(自転)だったりした。後に、シュレーディンガーは確率解釈を皮肉って、有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験を披露した。

主流派の武器はハイゼンベルクの行列力学だった。対する波動力学も、数学的には等価であると証明されたのだが、シュレーディンガー側の不備もあって、論争には負けた。ただ、ここには奇妙な現実がある:じっさいには誰も、行列力学なんか計算に使わないのだ。とくに、量子化学の分野では。

物理学は科学の帝王である、純粋科学である、という自負を、物理学者たちは内心抱いている。物理学では、すべては原理から演繹的に・連続的に導出されるよう構成されている。知識の暗記など、本来は不要である。たとえば化学はディスクリートな学問で、沢山の知識を要求する。物理はそうではない。だから物理学者は単純な基礎現象に集中したがる。素粒子を多数組み合わせた原子や分子の挙動など、「あとは化学の問題に過ぎない」と彼らは言った。

ところで、個人的なことになるが、わたしは大学入試で、物理と化学を理科の選択科目とした。そして物理は最後の1問を除き満点だったと思っているが、化学はほぼ白紙回答で提出した。それほど化学嫌いで、物理が好きだったはずなのに、大学に入ってしばらくすると、いつのまにか物理学への興味も情熱も失ってしまった。点数は赤点スレスレ。いったい、どこで道に迷ってしまったのか?

大学の物理の授業は、沢山の数学(数式)はあるが、背後の思想の説明がない。今にして思うと、それが原因だったような気がする。いったい何を目指し、どうしたいから、そんな数学的手法をつくるのか。その目的意識が分からぬまま、いわば行き先不明のまま、先人の後をついて山登りをするような気がした。当時はそんな風に言語化できず、ただ自分は理系の劣等生なのだと感じていたのだが。

たとえば、大学初年でラグランジュの解析力学を習う。ニュートン力学の微分方程式問題が、最大最小問題(変分問題)と等価であることを習い、また一般化された座標系の使い勝手を知る。だが、なぜそんな面倒な定式化を考えるのか、なぜラグランジュアンが運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差なのか、納得がいかないまま、授業はどんどん先に進んでしまう。わたしが知りたかったのは、研究の「いかに How」だけではなく、「なぜ Why」だったのかもしれない。

研究者とは、思想を持つ存在である。優れた研究者とは、学問における戦略性と体系化にたけている人だ。アインシュタインとか、数学のグロタンディークを思えば良い。まだ未解決の中核問題をみつけ、巧みなアプローチで攻める。また優れた学者は、概念の体系、ゴシック建築のような美しい構造物を作り上げる。それが本来の姿だろう。

しかし、現代の科学者は基本的に大学人であり、アカデミアの中で生きて競争している。その結果、支配的なパラダイムに適応する必要がある。また論文になりやすい研究をする。研究費を稼ぐ必要があるからだ。とくに、現代物理学は巨大な実験装置を必要とする学問である。研究費も組織も役職も大切である。そして、ここに一種の「淘汰圧」が働く。主流のパラダイムに適応して生き残るための、淘汰圧だ。つまり、職業人の物理学となりがちなのだ。

自由人物理』とは、独立研究者による物理学である。ただひたすら、真理の探究と理解を目的とする、物理愛好者の学問だ。どこからも研究費も報奨も出ない。発見自体が面白い、という事だけが唯一の報奨である。巨大実験を排して、思念(と数式)だけでどこまで到達できるか、が問われる。

その到達点を示すのが、本書「自由人物理 〜波動論 量子力学 原論」である。

著者の西村肇氏は、物理学者ではない(少なくとも社会的には)。氏は東大工学部の名誉教授だが、機械工学出身で、東大宇宙研で工学博士の学位をとった。そして化学工学科(現・化学システム工学科)で終生勤め上げ、とくに学会ではプロセスシステム工学のパイオニアとして著名だ。

しかし、アカデミアの分類でいえば、物理学には「素人」である。ついでながら、この人の大学での最後の10年間はバイオテクノロジー研究だったが、生物学にも素人だ。Natureに論文まで載ったが、農学部からは「生物の素人がなぜ学生に教えているのか」と抗議が来たという。

そして、定年退官後はまったくの自由人として、2001年に「水俣病の科学 増補版」を研究・執筆し、毎日出版文化賞を受賞する。

水俣病研究の最後の鍵は、工場の反応器内でのメチル水銀の生成過程だった。それまで、有毒なメチル水銀は、水俣湾の環境中で生成するという推測が多数派だったが、著者はそれをくつがした。厳密な量子化学の問題として、新しい発想で解決し、共同実験で確認した。それは「水俣病の科学」の最後の部分に書かれている。ただ、その探究の中で、著者の頭には、分子軌道(Molecular Orbitals)論とは何なのか? 電子の存在確率、そして排他律を支配する量子数=スピンとは何か? という根本的な疑問がわいてきたらしい。

著者の学風の特徴は、大胆なモデル化を用いた、複雑な系の解明と予測にある。元々、化学工学Chamical Engineering自体が、モデル化を多用する学問である。そこに、技術物理(機械工学)の発想を持ち込む点が著者のユニークな点だ(ちなみに、本書で初めて知ったのだが、旧ソ連では、物理と技術は地続きであって、純粋物理が学問として偉い、という思考は薄いらしい。著者は英語の他にロシア語も堪能だから、若い頃そちらからも影響を受けたのかもしれない)。

モデル化を武器とする学風を持つ著者が、物理学の発展という、長く複雑な対象系を分析し、「量子力学の混迷」と著者が呼ぶ中核問題に挑んだのが本書である。すなわち、非常にユニークな物理学史の記述、再構成になっている。その際に用いるのが、物理学者の思想・学風を「数学派」「物理派」に二分する大胆なモデルである。

著者によれば、数学派の代表格は、古典力学ならばニュートン、量子力学ではハイゼンベルクやフォン・ノイマン、となる。日本ならば朝永振一郎だろうか。他方、物理派の代表格は、古典力学のラグランジュ、マックスウェル、また量子力学ではシュレーディンガー、ド・ブロイ、ディラック、であるという。日本ならば武谷三男、もっと後ならば南部陽一郎だ。

そして1927年のソルヴェイ会議は、数学派と物理派の格闘であり、数学派が勝利して主流の地位を得た、というドラマであった、と解釈される。なお、ここでいう数学派・物理派とは、数学が得意だとか実験物理が得意といった、研究者の資質による分類ではない。そうではなく、この世界を数学的秩序で記述することを求めるか、それとも物理像(物理モデル)を重視するか、という基本的な思想の違いだと、著者は言う。

話は、古典力学からはじまる。

ニュートンの「プリンキピア」は、ギリシャ幾何学にならった、宇宙の公理論的な記述方法であった。しかし同時に、ニュートンという人の底意地の悪さについても、かなり詳しく書かれている。

ちなみに、著者は可能な限り原著・原典にあたり確認する姿勢を怠らない。そこはさすが学者であって、安易な孫引きに頼った、素人の印象批評ではない。ここには書斎で安楽椅子に座りながら、資料だけで事件の全容を解明していく探偵小説のような面白さがある。

ニュートンの力学から、ラグランジュの方程式(最小作用の原理)、そしてハミルトンの正準方程式というのが、大学授業での普通の説明コースである。これは、単なる数学的発展のように見える。しかし、その背後には思想的なドラマがあったことが、本書を読んではじめて理解できた。ラグランジュが、先人モペルテュイの提案した最小作用量の原理を、変分問題に発展させたのは、「質点系(剛体)の問題を、静力学と動力学を統合した形で記述したい」、という目的意識があったからだ。

それだけではない。ラグランジュが活躍したフリードリヒ大王の宮廷が、当時の啓蒙時代(著者によれば「理性革命」時代)のヨーロッパ大陸の思想界にあって、どのような地位を占めていたのか。イギリス経験論哲学からフランス革命につながる縦糸の、どの結節点に位置していたのかを、著者は大きな見取り図の中で示してくれる。数学・物理学・哲学・社会思想は、すべて一つの大きな知的活動の部分的様相にすぎないし、当時の学者はそういう意識の中で生きていた。こうした記述論的な部分こそ、本書の真骨頂であろう。
(ちなみに数式の説明もあるが、どこもごく簡略になっていて、わたし程度ではとても追い切れなかった)

古典力学は、ラグランジュによる作用量関数の定式化を経て、ハミルトン=ヤコビの方程式へと続く。ここでのポイントは、力学と光学の並行関係である。光の進む道は、最短時間の経路をたどるという「フェルマーの原理」が、光学の基礎にある。ハミルトン=ヤコビの方程式と、電磁気学のマックスウェル方程式が、量子力学への架け橋になる。

ここから本書は第2部・量子力学に入る。そして、まず「量子」概念の発見者は、プランクなのかアインシュタインなのか、という問題が提起される。実はこの論争をしかけたのはアインシュタインなのだが、彼が自分で矛を収めたため、現代ではあまり知られていない。この論争は、量子化される物理量の原像はエネルギーか、作用量か、という事を問うている。

プランクの発想のきっかけとなったのは、黒体輻射問題だった。著者はこの問題を、マクスウェルの電磁波理論・ハミルトンの正準変換・調和振動子の統計力学を援用して丁寧に分解し、作用量の離散性こそが本質であると論証する。「作用量子論は運動法則に素量を認める立場です。(中略)量子を実体の性質とみるか、運動法則と見るかで、結論は大きく変わってくる筈です」(p.151)−−これが、第2部を通した大きな布石となる。

第2部では、著者はハイゼンベルクの交換関係(pq - qp = h/πi)の発見と、ボルン、ジョルダンによる「行列力学」化についても、同じような再構成を試みている。つまり、研究者の目的意識からみた、発見の手順である。位置pと運動量qの積が可換ではない、ということは、量子力学の世界での物理量は、演算子(操作)であることを示す。これはわたしにとって、ずいぶん新鮮な学びだった。

ただ、「数学派」のハイゼンベルクらは、数学的な無矛盾性さえ達成できれば、原子内部の物理的描像については無頓着だった。「粒子でありかつ波である」とか「内部構造のない電子が自転する」といった説明が、人間の直感に反していても、「そういうものだ」で済ませてしまうのだ。

これに対し、貴族で素人物理学者だったド・ブロイの発想は違っていた。彼は、フェルマーの原理にしたがって、粒子の運動を先導する物質波というものを構想する。ある変換によって、電子の運動に対するフェルマーの原理が、モーペルテュイの最小作用量原理とまったく一致することに気づいたのだ。彼の構想を、シュレーディンガーは波動方程式へと発展させる。さらにそれを相対論化した、ディラックの波動方程式へと続く流れである。

「物理派」のアインシュタイン、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ディラックに共通する思想とは、波動による物理像(モデル)である。それはコペンハーゲン解釈への批判でもあった。

著者はさらに、パウリの「スピン」論とディラックのスピン解釈へと、考察を進める。ここから、いよいよ分子軌道論の話になる。そして、物理学者達が「化学の問題に過ぎない」といった分子構造論について、ハイトラー・ロンドンの共有結合(波動関数の交換積分)、化学結合におけるウッドワード・ホフマン則を経て、著者による“化学と物理を結ぶ”分子軌道に関する新モデル(「分子内ド・ブロイ・モデル」)になる。ここでは、電子の「スピン」の著者流の再解釈が披露される。

「物理派」と「数学派」の対立軸で、量子力学台頭期の論争を読み解く視点は非常に面白い。ただ、「物理派」と「数学派」の対立軸を、著者は「無神論(Atheist)」と「キリスト教」の区分で捉えている。その面もあるかもしれないが、この対立はもっと深い(古い)問題に根ざしているのではないかと、わたしは思う。それは、「宇宙は単純で美しい数学的秩序から生成しているべきだ」という信念をもつかどうかの違いである。

たとえば、つい先日、物故した物理学者ホーキングを例にとってみよう。彼は先輩筋に当たるロジャー・ペンローズの著書「心は量子で語れるか」に反論を寄せて、こういう。

「私(ホーキング)は恥知らずな還元主義者であると、まず最初に言っておきます。(中略)基本的にペンローズはプラトン主義者で、唯一の観念の世界が存在すると信じている。一方、私は実証主義者で、物理理論は私たちが構築する数学モデルにすぎないと思っている。」

数学派のペンローズは、彼のツイスターという純粋に数学的着想を中心に、量子重力論という宇宙像を描き出そうと努力している。その彼を、ペンローズは「プラトン主義者」と呼ぶ。プラトン主義とは、イデアの世界の実在、ここではシンプルで美しい数学的原理から宇宙は生じた、と信じる思想だ。

ただし、このような思想は、歴史上プラトンが創始者という訳ではない。バートランド・ラッセル「西洋哲学史」によると、実はもっと古く、紀元前6世紀に活躍したピタゴラスにさかのぼる。

「ピタゴラスと共にはじまった数学と神学との結合は、ギリシャ、中世、そしてカントに至る近代における宗教哲学を特色づけた。プラトン、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザおよびカントにおいては、宗教と理性との、無限なるものへの倫理的渇望と論理的賛美との、内密な結合があって、これはピタゴラスに発している。
プラトン主義と見えているものは、本質的にはピタゴラス主義である。感覚にではなく知性に対して啓示された永遠の世界という全概念は、彼に由来している。」(林達夫・訳より)

このような「数学と宇宙観との結合」は、ギリシャから欧州に流れ込み、西洋的な思想の一つのルーツ、あるいは特徴となっている。キリスト教は中東の片隅で誕生した宗教だが、ヨーロッパで大きく育ったため、こうした感覚を色濃く受け継いでいる。著者はハイゼンベルクを例にひいて、「数学派は必ずしも数学能力が高い人ばかりではない」といっているが、そもそも数学派とは「宇宙の基礎にはシンプルで美しい数学的原理があるはずだ」と信じる人たちなのだろう。一方、物理派とは、「数学モデルは物理現象の近似モデルに過ぎない」と考える人たちである。

あるいはW・パウリを考えてみてもいい。ユダヤ系キリスト教徒の家に生まれ、幼児洗礼ではエルンスト・マッハが名付け親になった。だが大人になり、最初の結婚に失敗した頃から、キリスト教会を離れ、「半分ユダヤ人」と自称する。ただ、彼は数秘術みたいなものに関心を持ち続け、微細構造定数が素数137の逆数である理由を、生涯探求した。そういう点で、彼はキリスト教徒ではないけれども、数学派だった。

数学的秩序が宇宙の基礎にあるはず、という感覚は、われわれ東アジアの文化圏には乏しいものだ。日本にも数学的能力の高い物理学者はいるが、彼らを単純に数学派といいきれないないのはそのためだろう。たとえば日本生まれで後に米国に帰化した南部陽一郎は、一般書「クォーク」第2版18章で、こんな風に書く。

「神が宇宙の設計をしたとき、重力、電磁力、強い力などの構成について公式に従って正確に図面をひいた。しかし弱い力に来たとき計算ちがいをしたのか、物指しを読みちがえたのか、図面のところどころにくいちがいが生じてしまった。直線は垂直に交わらず、四辺形はうまく閉じない。そして弱い力の骨組みが他の力の枠に対して少し傾いている。けれども遠くから見たのではあまり目立たないので、神はそれをそのまま使って宇宙を建ててしまった。」(p.222)

しかし南部は、宇宙がかくも不整合で美しくないからといって、当惑している様子もない。同じ著書の別の箇所で、南部は「超弦理論」を批評して、

「超弦理論だけですべてが解決するかどうかは、少なくとも私には大いに疑問である。自然はわれわれの想像以上に複雑豊富なものであると思うからだ。」(p.309)

とも述べている。ハドロンの弦モデルはもともと南部が考案したものだが、現代の超弦理論はある意味で、数学派の権化のようなところがある。南部は明らかに、そのような思考には組みしていない。

そのような訳で、著者が指摘するように、日本の物理学は式と計算に熱中する割に、あまり根っからの数学派は多くないように思われる。まあ、西洋人のいうことを信奉しやすい日本人は多いので、数学派風のパラダイムで仕事をすることに、さして疑いを持たないのだろうか。批判すべきとしたら、むしろこの点だと思う。

数学を単なるモデル化や近似の手段であるとする態度は、数学を宇宙の構造の中心におく信念とは、正反対のものだ。前者は現象から帰納的に物理法則や原理を発見しようとし、後者は原理から演繹的に物理現象を予測する。健全な科学にとって、この二つのアプローチは車の両輪だ。しかし論争となると、帰納派は演繹派よりも分がわるい。帰納は完全にロジカルではないからだ。単純で説明力の高いモデルを構築するのは、一種のアートでもある。

著者が本書で描いた二つの対立軸、
 <数学派 = コペンハーゲン解釈学派 = キリスト教> と
 <物理派 = 波動関数学派 = Atheist>
も、一種のモデルだ。こういうモデルを用いると、混迷を理解し整理しやすい。わたしはキリスト教かどうかよりも、ピタゴラス主義かどうかというパラメータを使う方が便利だと考えるが、どちらを採用しても、いろいろな例外は生じよう。しかし、例外があっても、モデルは有用なのだ。我々の理解と予測を助けるからだ。"Models are all wrong, but they are useful."という格言があるように。

わたしが西村研究室に入ったしたのは1980年。修士1年のときだった。そして、考えてみると、モデル化を重んじつつも、それに酔わない態度は、西村さんの学風に影響されて、わたし自身、身につけたものだと思える。だから、こうした態度を教えてくれたこと自体が、わたしにとって一番の財産ではないかと思う。

別にわたしが弟子だったから、本書をほめている訳ではない。本書は高度に論争的だが(そして論争的なのも西村さんの学風なのだ)、理路整然としていて内容的に非常に面白いのだ。そして、本書の一番の長所は、読むと「もっと物理を勉強したくなる」ところだろう。

ただ、本書は仙台の出版社から上梓されているが、事実上の自主出版であり、プロによる編集が足りない点が、いささか残念ではある。やはり、編集者はだてに編集をしている訳ではないのだ。

本書の最後の章は、著者自身の半生を(あるいは戦闘歴を)一瀉千里に振り返っている。東大紛争をきっかけに、化学プロセスのシステム工学から、社会システムの問題(公害)の研究に踏み出すのだが、その結果、東大を追い出される寸前までいく。しかし、著者は別に、社会運動家でも左翼思想家でもない。ただ単に、権威や権力に依存した人間の、非合理性を憎むだけだ。つねに、物理(モノのコトワリ)にこだわる人なのだ。

だからこそ、「自由人物理」なのである。


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-23 22:14 | 書評 | Comments(0)

講演のお知らせ:「生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮のポイント」(6月27日)

お知らせです。6月に、生産スケジューリングとリードタイム短縮をテーマとした研修講演を行います(有料)。
わたしは長年、エンジニアリング会社で国内外の工場・プラント作りに関わってきました。また、それなりに数多くの工場も見てきましたが、疑問を感じるケースが少なくありませんでした。「なぜ、こんな所に在庫を持つのだろう?」「どうしていらないモノはたくさんあるのに、必要なモノは欠品しがちなのか?」「ここを工夫すれば、もっと効率よく、かつ楽に仕事ができるはずなのに」
そうした非効率が生じるのは、生産活動の仕組み=『生産システム』の基本デザインに問題があるからです。つまり、生産活動のシステム・エンジニアリングが欠けているのです。むろん、ここで言うシステムとは、コンピュータのことではありません。情報系も一要素ですが、むしろ働く人々と、機械設備と、物流と、それを包む建築空間のことをいっています。こうした基本的なことを抜きにして、ただ最近の流行である「スマート技術」を追いかけても、部分的な改善効果しか生まないのがつねです。
また生産システムは、自社を取り巻くサプライチェーンの特性に応じて、適切な機能構成を選ばなくてはなりません。単に、業績の良い他社の物真似をしても、生産形態が違えば、役に立たないのです。
拙著「革新的生産スケジューリング入門」や「BOM/部品表入門」をお読みになった方はご承知の通り、わたしは具体的なテクニック論のみならず、原理・原則に関する体系的な理解を重視しています。そのため、生産システムをより良く運用するにはどうしたらいいか、より上手に設計するためには何に留意したらいいを考える『システムズ・アプローチ』をとります。したがって業種分野については、わりと間口を広くとってお話しできる点が特徴です。年1回行っているこの講演も6回目になりますが、今年はさらにバージョンアップしてお届けするつもりです。

普通の現場改善コンサルタントや、ITベンダー系コンサルタント達の提言に、飽き足りない気持ちでおられる技術者の皆さんの、ヒントになればと思っています。

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「生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮のポイント 〜演習付〜」(3月24日)

日時: 6月27日(水) 10:30~17:30
主催: 株式会社日本テクノセンター
会場: 株式会社日本テクノセンター研修室
     東京都新宿区西新宿2-7-1 小田急第一生命ビル22F
     (都営地下鉄大江戸線「都庁前」駅または丸ノ内線「西新宿」駅)

生産計画とスケジューリング、リードタイム短縮について、事例と演習を含めてお話しします。

セミナー詳細: 下記のURLをご参照ください(受講申込もここからできます)

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関心のある大勢の方のご来聴をお待ちしております。

佐藤知一


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-15 23:56 | サプライチェーン | Comments(0)

プロジェクト・マネジメントの能力は何で決まるか



先週からまた、大学で行う週一回のプロジェクト・マネジメントの講義が始まった。準備にはそれなりに手間がかかるが、それでも、授業自体は楽しい仕事だと思う。わたしはなるべく、大学の講義をインタラクティブにやろう、と心がけている。単なる一方的な講義形式では面白くないし、自分が学生だった頃のことを思い出してみても、そうした授業で頭に残った事は少ない。

教育とか研修は、それを受けた後で、自分自身の行動が変わらなければ、ほとんど価値がない。学びとは、自分の能力を高めるために行うものだ。単に知識が増えただけで、自分の行動に変化がなければ、何かを学んだことにはならない。だから、せめて授業の間は、なるべく学生に考えてもらい、また、手を動かしてもらうようにしている。インプットだけでなく、何かアウトプットしてもらうことで、相手の理解も測れるからだ。

そしてもちろん、一番良いのは、質問をしてもらうことである。ただ、授業中に「何か質問ありますか?」と問いかけても、学生が手をあげてくる事は、ほとんどない。他の皆の前で、何か質問を口に出すことには、心理的な抵抗があるらしい。私たちの社会におけるコミニケーションには、「受信者責任の原則」とも言うべき暗黙のルールがあるらしく、理解できないのは、受け手の側の理解力が低い(=頭が悪い)せいだ、と判断されかねないからだろう。

仕方がないので、わたしは講義の際、毎回必ず「出席シート」の紙を配り、そこに授業で感じた質問や、コメントを書いてもらうことにしている。こうすると、無口な学生たちもそれなりに、色々と質問を書いてくれる。こうして出た質問は、次の週、授業で極力回答するようにしている。

中でも、いい質問だなぁ、と感じる問いに対しては、「今週のGood Question賞」を与えることにしている。良い質問は、教える教師にとって、何よりもうれしい報酬である。質問が出るという事は、教え方に足りない点があったことを示しているし、特に良い質問は、教師のものの見方に、新しい光を投げかけてくれるからだ。良い質問は大抵、答えるのがやや難しい質問だし、それを考えることで、むしろ教師を育ててくれるのだ。

さて、先週のプロジェクトマネジメント講義の第一回目のテーマは、「プロジェクトとは何か? マネジメントとは何か?」だった。まぁ要するに、全体へのイントロダクションである。プロジェクトの定義を説明し、それを自己流に敷衍する。さらに「マネジメント」なる言葉の意味の中核には、「人を動かす」ということがあると説明した。

さて、帰り道に出席シートを読んでいると、次のような質問に出くわした。なかなか面白い質問だと思う。読者諸賢だったら、この問いにどう答えられるだろうか?

「マネジメントの能力は、どう見極めるのが良いのでしょうか。単にプロジェクトの成功・失敗だけで評価するなら、プロジェクトの難易度に差があるので、不公平だと思いました。それとも『結果がすべて』なのでしょうか?」

とても良い視点からの質問だ。プロジェクトを扱ういろいろな企業の経営者に、そのまま問いただしてみたい気持ちにもなる。プロジェクトは一つ一つが固有の、その場限りの、時限的な取り組みだから、難易度に差があるのも当然である。この学生はちゃんと、その本質を理解している。その上で、この問いを投げかけている。

「プロマネは結果が全て」という決めつけ方に、わたしはずっと反対してきた。それは、個々のプロジェクトを取り巻く環境の違い、難易度の差をまるで無視した、ものの言い方だからだ。以前も書いたが、プロジェクト・マネジメントの能力は、いわば確率的な能力である。プロ野球の選手だって、一度限りの打席の結果だけで能力を判定したりはしない。何試合分か、ないしはシーズン全体の打率(ヒットの確率)で、能力を測るのである。

「優秀なプロマネなんかいない。運の良いプロマネがいるだけだ。」という言葉を、最近、ある大先輩から聞いた。一種の逆説であろう。優秀なプロマネさえ連れてくれば、どんなに難しい大規模プロジェクトでも、うまく収まるはずだ、といった思い込みに警告を発する言葉だ。

そもそも、プロジェクト・マネジメントの能力とは、プロマネ個人の能力だけで決まるものなのだろうか? このような思い込みは、世間でかなり根強い。

こうした信憑は、さらに3種類に区分することができるように思う。第一は、プロマネの能力は、その人の人柄や根性、あるいは頭の回転の速さで決まるという考え方である。「あの仕事がまとまったのは、プロマネの彼が根っから優秀だからだよ」と言うわけだ。つまりプロジェクト・マネジメントの能力は、プロマネの資質で決まるとの信憑である。

もしこのような考え方が正しいのだとしたら、会社がプロジェクトマネジメントの能力を向上するには、どういう対策が必要だろうか? 資質はある意味、生まれつきのものである。である以上、生まれつき優秀な人間を、プロマネの座につけるかどうかで、ビジネスの成否が決まってしまう。逆に言えば、だめなプロマネ達は、もう一度生まれ変わるしかない、ということになる。まことに身もふたもない結論だ。だが、これで能力向上の処方箋と言えるだろうか?

第二の考え方は、「プロジェクト・マネジメントの能力はプロマネの知識で決まる」というものである。こちらの方が、能力は生まれつきだと言うよりは、多少救いがある。知識ならば、本や研修から得ることができるからだ。十分な知識があるかどうかは、ペーパーテストなどの試験で検証可能だ。そして実際、PMP (Project Management Professional)の資格試験などは、こうした論理でてきあがっているように思う。そうでなければ、パソコンの端末に向かって何時間も、ひたすら4択問題を答えさせる、などという資格審査の方法を思いつくだろうか。

しかし本当に、プロジェクト・マネジメントの能力を、知識だけで判断して良いのだろうか? 知識量と記憶力では、人間はコンピュータにかなわない。だとすると、いずれプロマネの仕事は、AIが人間を駆逐することになる。そして人々は、ただコンピュータの指示に従って、仕様書を書いたり、構築結果をテストしたりするだけの身分になる。・・これで本当に、全てのプロジェクトは、成功するようになるだろうか? この考え方は、いささか疑問に思える。

となると、プロジェクトマネジメント能力は、プロマネ個人のスキルである、ということになる。資質でもなく、知識だけでもない、と。これが三番目の考え方である。スキルとは身体化された技能で、かつ、ある程度まで属人的なものだ(「あの人のスキルはすごい」というが、「あの会社は高いスキルを持っている」とは、普通言わない)。

スキルは身に付けることができる。なおかつ、スキルを身に付けるには、練習が必要である。ここが単なる知識取得と違う点だ。そのためには、実地練習の場を作る必要がある、ということになる。練習の場とは、言い換えれば、失敗しても、傷つかずにすむ場所である。そうした場を作り、提供できるかどうかが、エンジニアのPM能力の向上のカギになると言うことだ。

ところで、ここまでは、PM能力はプロマネ個人の能力だけで決まる、と言う立場の議論だった。これに対し、いや、プロジェクトのパフォーマンスは、プロマネとチーム員の能力で決まるはずだ、という見方もありうる。つまり、組織としての能力ということである。わたしは、どちらかということこの意見に組する。

ただ、この考えも、2種類に区分できよう。よくありがちな見解は、「組織の能力は、構成員の能力の足し算である」、との考えだ。これは、能力ある人間を揃えれば、自動的に組織のパフォーマンスもよくなる、という、単純な足し算の論理である。オリンピックなどで、トップチームのスタープレイヤーばかりを集めた「ドリームチーム」を作れば最高だ、という話がでるが、この延長上の発想だと思う。

では、この考え方からは、どのような能力の向上策が導かれるだろうか。各人の能力はまちまちである。となると、良いプロジェクト運営をしたければ、ベストなメンバーを選ぶしかない、ということになる。つまり社内での人の取り合いを、推奨するわけだ。でも、これでは企業全体のパフォーマンス向上にはつながるまい。

そしてドリームチームが必ずしも最高でないのと同じように、組織もまた、単なる能力の足し算では決まらない。そもそも能力といっても、いろいろ種類がある。プロマネに求められる能力と、チーフ・デザイナーに必要な能力と、品質管理責任者の能力は異なる。こうした別々の能力が、適材適所に生かされるよう構成配置し、かつ問題を速やかに検知して対処するのが、そもそもプロマネの仕事ではないか。つまりマネジメント能力とは、「能力に関する能力」、ないし「能力を活かす仕組みづくりの能力」なのである。

そうした仕組み(システム)を、組織の全員が理解・共有し、皆がその中で安心して働ける状態になっていること。だから、毎回書いていることだが、プロジェクト・マネジメントにはシステムズ・アプローチが大切なのである。そして、システムズ・アプローチから生み出されたWBSやCPM・EVMSといった技術が重要になる。

つまり、プロジェクト・マネジメント能力は、組織が共有する技術で決まる、というのがわたしの考えだ。技術は本来、蓄積・移転可能なものだ。その技術をもとに、仕組み(システム)を作る。無論、プロマネ個人のスキルも、もちろん必要である。ただ、それだけで十分条件にはならない。組織の構成員一人ひとりが、その思考と行動習慣(=組織のOS)を共有すること。これが能力向上の処方箋である。
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ここに書いたようなことは、別にわたしの独創ではない。落ち着いて順序立てて考えれば、誰でも思いつくことだ。もちろん、見解の差はあるだろう。「やっぱり人間の能力は、生まれつきの差だろ」と信じるのは自由だ。だが、そこから、どういう帰結が生じるかも、考えてみてほしい。

もしも仕事のパフォーマンスを左右する能力が、リーダーやプロマネ個人に付随する能力だけで決まるのだとしたら、企業の成長力は、優秀な人間の頭数で制約されることになる。優秀な人間は限られていて、急には育たない。したがって、このような思想に立つ限り、ビジネスをスケールアウトすることはとても難しいーーこれが道理である。

わたし達の社会は、こんな個人依存の考え方を、もう20年この方、続けてきた。その間、海の外の競合相手は、仕事のシステムを作ることで、成長とスケーラビリティを実現してきたのだ。今やその差は、歴然としつつある。

わたし達に必要なのは、仕事に関する基本的な概念について、思い込みや常識をいったん置いて、ロジックを見直してみることではないだろうか。それは、上に述べたように、大学生にだって発問できるのである。知識を勉強することだけで十分ではない。良い質問を考える事こそ、はるかに価値があるのだ。


<関連エントリ>
 →「マネジメントとリーダーシップはどう違うか」 https://brevis.exblog.jp/24082343/ (2016-01-25)
 →「天の時・地の利・人の和と、プロジェクト」 https://brevis.exblog.jp/26170090/ (2017-11-12)


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-08 23:48 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

「インテグレーター不在」という深い谷間

先日、ある技術系コンサルタントの方が来訪したので、最近の話題を聞いた。AI技術がこのところ注目を集めており、工場の製造現場でも、様々な取り組みを始めている。ただ、汎用的なAIのエンジンを、自分たちの仕事の用途に合わせて、テーラーメイドで開発するには、それなりの力量が要る。

そこで最近は、FA用途に向けた「アプリケーション特化型」のAIソフトが出てきた、という。特定の目的、例えば機械の振動のデータを蓄積分析して、異常の予兆を診断するといった、目的特化型のAIソフトが出てきているらしい。これが次のトレンドかな。なるほど、なかなか面白い。

ただ、ひとつ心配な点がありますね、とわたしは指摘した。そうしたアプリケーション特化型のAIソフトを売るベンダーと、工場でそれを使用したユーザとの間に、1つ問題となるギャップがある。それは、AIのソフトウェアパッケージと、工場側の具体的な制御システムないしMESとの、インテグレーションの仕事である。

その仕事を、自分たちだけでできるユーザが、果たして日本の工場でどれだけいるだろうか? かといって、2つのシステムを統合する難しい仕事を引き受けてくれる業者、すなわち製造現場に強いシステム・インテグレーターがいるかというと、世の中には決して多くない、という事情がある。

つまり、AIベンダーと製造現場のユーザーとの間に、「インテグレーター不在」という深い谷間があるのだ。

いや、話はAIのソフトウェアに限らない。MESのソフトを導入するにせよ、あるいはデジタル屋台のシステムを買ってきて、社内の3D-CADとつなげるにせよ、同様の困難がある。いや、それどころではない。例えば産業用ロボットを買ってきたり、あるいは気の利いた搬送システムや立体自動倉庫を買ってきて、自動化・省力化を図る場合だって、自社の製造ラインとのインテグレーションが必要になるのだ。こうした仕事はしばしば、生産技術を受け持つ機械エンジニアだけの手には余る。

もちろん、高価な機械を何台も買ってやるから、ついでにインテグレーション業務もしてくれ、と機械メーカーに要求することは可能だ。実際、有力な機械設備メーカーの中には、自社製品を買ってくれることを条件に、請け負ってくれる企業もある。ただ、そうした「つなぎ」の仕事は、しばしば、子会社や下請けにやらせたりするらしい。

逆に、いや、それはお客さんの仕事です、と突き放すメーカーもある。請ける・請けない、いずれの場合も、機械メーカーやパッケージソフト・ベンダーが、製造現場におけるインテグレーションの仕事自体を好んでいない点では、同じだ。

なぜか。儲からないからである。

『インテグレーション』とは何か。それは、それぞれ単独で完結した機能を持つ要素群を、上手に連結して、一体として働くようにすることである。

例えばパソコンのソフトに例えるならば、ワープロと表計算とのあいだで、クリップボードを経由したコピー&ペーストを可能にすることも、インテグレーションの一例だ。今日では、まるっきり当たり前のように思えるこの機能も、'90年代前半までMS-DOSやCPMといった旧世代のPC用OSを使っていたユーザにとっては、とても新鮮なものだった。当時の感覚では、Lotus 1-2-3で表を作成して、WordPerfectの文章の中に貼るなど、想像しにくい使い方だったのだ。

だからMacOSやウィンドウズが登場して、OSレベルでカット&ペーストをサポートし、複数のアプリケーション間でデータのやり取りを統合的に行えるようにした事は、ほとんど革命的な進歩だった。これがインテグレーションの価値なのだ。

あるいは、鉄道の世界でたとえるなら、インテグレーションとは「相互乗り入れ」がそれに該当する。私の勤務先は横浜の「みなとみらい」地区だが、実家は今は埼玉県所沢市にある。以前は、職場から実家まで帰るためには、渋谷と池袋で2回、乗り換えなければならなかった。そのたびごとに階段を上り下りし、行列に並んで席に座らなければいけない。

だから、西武池袋線と副都心線と東横線・みなとみらい線が相互乗り入れを開始し、みなとみらい駅のホームに小手指行き列車が到着した瞬間は、頭がクラクラするほどの衝撃があった。実際、乗り換えの不便が減ったし、所要時間も圧倒的に短くなった。これも、インテグレーションがユーザにもたらす価値だ。

周知の通り、システムにおける要素間のインタフェースには、密結合疎結合の2種類がある。製造現場の例で言えば、一貫生産ラインは密結合であり、工程間に在庫のスペースがあるのは、疎結合である。コンピュータなら、「ファイル渡し」は疎結合であり、APIの呼び出しなどは密結合だ。

高度なインテグレーションとは、サブシステム間を密結合・強連結にすることである。すなわち、一つの指示(インプット)で、複数の要素が連携協調して動作するようにすること。あるいは、モノやデータの受け渡しのある要素間では、処理量とタイミングを同期化することだ。

また、部分に異常が生じたら、全体が安全にスローダウンする、ないし、共通したアラームを発信するといった対応もいる。さらには、必要に応じて、個別要素を部分的に立ち上げたり、全体を止めずに切り離したりできる機能も必要だ。

したがって、構成要素数が多く、かつ高度にインテグレーションされたシステムには、主要な全要素をモニタリングする「情報のハブ」が、必然的に生まれてくる。そこが、全体のタイミングをとり、要素に適切な指示を出す。まあ、オーケストラの指揮者のようなものである。

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こうした「インテグラルなシステム」を作る仕事のプロが、インテグレーターである。

つまり、インテグレーターの仕事とは、システム構築=仕組みづくりである。だが、「システム」という、目に見えないものが理解できない人たちには、そもそもその価値が分からない。この人達には、目に見えやすいもの、たとえばロボットだとか、立体自動倉庫だとかAIソフトパッケージだとかいったものが、価値の中核に見える。インテグレーション作業はオマケだ、という訳である。

高価な機械を買ってくれる代償として、周辺のインテグレーション作業を請け負うメーカーは、ある意味、そうした理解ないし誤解を助長しているとも言える。もちろん、エンドユーザーを助けるという積極的な面もあるわけだが。

インテグレーションの仕事は、ユーザの個別性の高い要求(制約条件)に合致するよう、複数の要素を選んで組み合わせる能力を必要とする。つまり、「すり合わせ」型の業務である。工場のように、既存の機械や仕組みと組み合わせる場合、相手の状況に応じて作業量が変わるし、つながらないリスクもある。だから、本来は固定金額の見積にはなじまない仕事だ。

それなのに、たいていの顧客は、インテグレーション・サービスに要した人工(工数)分の費用しか、インテグレーターに払ってくれない。曖昧でリスクが大きいのに、である。だから、インテグレーションは儲からない商売だ、という事情が生まれる。

だったら、単体売りに徹する方が、商売として「堅い」「手切れが良い」ということになる。かくて、ウチは単体設備メーカーです、というスタンスを持った企業が栄えることになる。いいかえると、優秀な部品メーカーは多いが、全体システムの売り手はあまりいない、ということで、どこかの業界によく似た構図ができている。

工場系の生産システム・インテグレーターは、機械メーカーの下請けに位置せざるを得ない。だから、中小零細企業が多い、という話を良く聞く。そうなると、人材の確保や育成も課題だ。

それでも、信頼できるインテグレーターを、身近に抱えている企業なら、まだ良い。多くの場合は、ユーザが自分でインテグレーションするしかない。そこで、機械設備やIT系における、モノの受け渡しやデータ通信インタフェースの標準化、せめて共通化が望まれる。

いや、本当は、機械設備メーカーやITベンダーなどは、インテグレーションされることを前提に、自社製品を考える態度が必要なのだろう。だが、かつてIBMのOS/360開発のプロマネで、後に名著『人月の神話』を書いたBrooks Jr.によると、要素をインテグレーション可能な形にするには、単に作るだけに比べて、3倍の費用がかかる、という。

これはソフトウェアの場合の話で、機械設備の場合は、もう少し小さな数字になるだろうが、余計なコストがかかるのは事実だ。コストがかかれば、製品の価格に跳ね返る。価格競争にさらされるメーカーにとっては、ありがたくない話だろう。

では、どうしたら良いのか。要素技術のプロバイダーと、ユーザの間には、「インテグレーター不在」という深い谷間がある。ここうまくつながないと、ユーザが困るだけでなく、優れた技術を持つAIベンダー・機械メーカー等のベンチャー企業も、日本では育たないことになる。

もちろん、エンドユーザーである日本の製造業の、経営管理職の人たちが、インテグレーションの価値を認めて、それにきちんとお金を払うようになることが、理想型である。しかしそれは、百年河清を待つ、の類だろう。

わたしは、こうしたFA系のインテグレーターたちが、下請けや系列の地位から脱するためにも、せめて一個の独立した業界として認められ、その価値を世間に対してアピールしていくような方策が必要だろうと思う。そのためには、業界団体の結成も、ひとつの手段だろう。聞くところによれば、近々、経産省の旗振りで、「ロボット・インテグレーション協会」が設立されることになる見通しだと言う。これは良いニュースだ。

しかし「深い谷間」の問題は、ロボットという(先進的な見かけの)部分だけでは留まらないはずである。より広く、産業システムのエンジニアリング、ないし生産システム・インテグレーションの担い手が、求められているのだ。以前、政府の「ものづくり白書」には、『ラインビルダー』という言葉も紹介されていた。こうした業界の確立を助けるために、国の支援策も必要だろうし、標準的な契約や仕様のあり方も、議論される必要がある。

ドイツのIndustry 4.0の向こうをはって、日本は「ソサエティー 5.0」を目指すのだそうだ。"Connected Industries"というスローガンも、よく見かける。それが具体的に何を意味しているのか、わたしにはまだよくわからない。だが、少なくとも、インテグレーター不在と言う深い谷間を、埋めるための努力が必要だという事だけは、明らかだろう。



# by Tomoichi_Sato | 2018-04-01 18:45 | サプライチェーン | Comments(0)

POPとは何か、MESとはどこが違うのか

工場見学が趣味である。いや、趣味というのは言い過ぎかも知れないが、とても好きなことは確かだ。昨年から思うところあって、いわゆる組立加工系の工場について、機会があれば業種を問わず見学して歩いている。国内外あわせてすでに1ダースを越えたから、平均すると一月に1ヶ所は訪問している勘定だ。むろん、工場の改善指導をしているプロのコンサルタント諸氏には及びもつかないが、まあそれなりに見ている方ではないか。

工場見学に行ったら、何を見るべきかについては、すでに記事も書いた(「超入門:上手な工場見学の見方・歩き方https://brevis.exblog.jp/21898734/ 2014-04-16)。とくに製造現場を歩いているときは、できるかぎり、現品票を見ることにしている。

現品票とは何か。それは、工場の中を行き来している部品・材料などの現品に添付されて回っている紙の帳票のことである。なお、機械加工系では、加工対象の物品のことを「ワーク」Workとも呼ぶ。英語のworkは仕事・作業の意味が強いが、仕掛品のことをWork in Process(略称WIP)と呼んだりもする。そこで以後、この記事の中では、現品とか物品という代わりに、ワークということにする。現品票とは、工場内でワークに添付されている紙の帳票のことである。

ワークはそれぞれが個別だから、現品票もそれに1対1でついている必要がある。ただしワークが小さな部品である場合や、ロット単位でずっと流れていく場合は、複数個のワークに1現品票のこともある。ただ、その際は、複数個のワークが、通い箱や台車などに入っていて、物理的にワンセットで動かなければならない。そうしないと、ワークと現品票の対応関係が崩れてしまうからだ。

現品票とは、ワークについて「これは何か」を示す名札のようなものだ。小学校の新入生につける名札と思えばいい。高井戸小学校・1年4組・佐藤知一、という風に(たしか1年のときは4組だったと思う・・違っているかも知れないが)。現品票には、少なくともそのワークの品目コード・品名が表示される。

そして、通常は、そのワークが使用される『製造オーダー』の番号と付帯情報も示される。もっとも、日本では生産関係の用語に統一がないため、企業によっては製造オーダーではなく「製番」「製造指図番号」と呼んだりする。付帯情報とは、製造作業の納期、必要数量、製作図面の番号、どの最終製品に使われるか、どの工程(作業区)で使用されるか、等々だ。ちなみに、トヨタ生産方式で使われる「かんばん」も現品票の一種である。

工場内には多種多様なワークが流れている。それに対して、一対一で現品票を発行し添付するのは、手間とコストがかかる。ただ、それをやらないと、目の前のモノが何なのか、本来どこに置くべきか、いつまでに使用されるのか、等々が、「良く知っている担当者」以外の人には分からなくなってしまう。だから、すべてのワークに現品票がついているかを見ると、その工場のマネジメント・レベルがすぐ判断できる。

そして、現品票にバーコードがついているかどうかも、大事なポイントだ。

現品票には、人間に必要な情報は印字してある。では、バーコードは何に使うのか? 答えは、POPに使うのだ。

POPとはPoint of Production、すなわち「生産時点情報管理」の略称だ。ふつうは、それを支えるITシステムのことを指す。流通業界、たとえばコンビニでは、お客が買い物をすると、レジで商品のバーコードをスキャンして、品目・数量を確認し、金額を計算する。この時点で、購入情報はレジを通して吸い上げられる。この仕組みをPOS(Point of Sales)=「販売時点情報管理」という。そしてバーコードリーダと通信機能のついているレジを、「POSレジ」と呼ぶ。

POSシステムが表れる前は、商店は、一日が終わって棚の残量をチェックするまで、販売数量を知る方法がなかった。その時点で翌日の仕入れ数量を決めるのでは、遅すぎる。だからPOSという概念が現れた。

同じように、従来多くの工場では、一日が終わって作業者が「製造日報」を記入するまでは、何がどれだけできたのか、把握する方法がなかった。これでは、短納期化した注文に追いつくことが難しい。そこで、流通業界を真似る形で、POPシステムを導入する工場が現れるようになったのだ。

POPシステムでは、現場の作業者が新しいワークに対する作業に着手するとき、現品票のバーコードをスキャンする。また、作業が完了したときも同様に、スキャンする。これによって、作業区単位(ないし機械単位)に、どのワークを、いつ着手/完了したかを、システムがリアルタイムに把握する。

POPの目的は、大きく三つある。一つめは、個別オーダーの進捗把握である。受注生産では通常、個別の注文(オーダー)ごとに、納期と数量が決まっている。生産管理担当者は、製品単位の「生産オーダー」を、部品展開(工程展開)して、各部品ごとの「製造オーダー」に展開する。この時点で、各工程ごとの数量と期限が決まる。そして、これを製造現場に指図として送る(これを「差し立て」ないし「ディスパッチング」とよぶ)。と同時に、それぞれの部品に対して「現品票」を発行し、現品に添付させるのである。

したがってPOPシステムを利用して、予定した製造作業の期限に対し、きちんと完了の信号があがってきているかをチェックすれば、進捗状況が把握でき、遅れがある場合は検知できる。現品がどの作業区にあるかについて、ラフな所在管理もできる。

二番目の目的は、作業時間の計測である。着手・完了時刻を取得している訳だから、作業時間を計算するのはたやすいし、従来の日報に比べて、正確だ。作業時間が分かると、賃率をかけることで、個別オーダーのコストの集計・管理ができるようになる。すると、オーダー単位の利益が計算できるし、また次の見積にも基礎データとして役に立つ。

三番目の目的は、生産性の把握だ。こちらも作業時間の計測が基礎になるが、さらに機械単位ないし作業者単位に、どれだけの生産数量ができたかを集計し、生産性を比べることができる。もしも標準工数が決まっているのならば、作業区別の負荷と余力も推算することができる、という訳だ。

POPシステムの概念は決して新しいものではない。図は、わたしが1992年に、中小企業診断士の受験参考書のために描いた、手書きの図(笑)である。日刊工業新聞社「工程管理ハンドブック」を参考に作図した。今から26年も前の話なので、「ホスト・コンピュータ」などと書いてある。今ならPCサーバとかエッジサーバと書くところだろう。
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ちなみに、POPに隣接する概念として、SOPおよびデジタル屋台の支援システムがある。SOP(Standard Operating Procedure=標準作業指示書)とは、適正な作業を行い品質を保つ目的で定める、作業の詳細な手順指示である。これは医薬品製造や食品製造などの分野で広く用いられる。これを電子化し、現場の作業者に端末経由で示し、それにしたがって確認記録を入力することで、製造作業をガイダンスする仕組みを、この分野ではよく用いている。とくに医薬品はGMP(Good Manufacturing Practice)の法的要請があり、適正な作業記録が義務づけられるからだ。

デジタル屋台とは、組立工程における一種のセル生産の仕組みである。ちょうど屋台のように、作業台を一人1台ずつ与え、台の周囲に部品供給用の引き出しやラックを置く。そして、作業台にはモニターを設置して、作業者に対して組立作業をワンステップずつ、3D的に図解して示すのである。とくに組立の部品点数が非常に多いケースや、個別受注で組立手順が毎回少しずつ違うケースに有効である。

さらに、作業者が部品棚から正しい部品を正しい個数取り出したか、とか、適正なトルクでネジを締めたか、といった点までセンサーでモニタリングすることも行われる。現在、静岡大学客員教授の関伸一氏が、2000年代にローランドディージー社で見事なデジタル屋台システムを作り上げ、広く知られるようになった。この事例では、作業者一人ひとりの生産性を測定し、自分の能力アップを実感できる仕組みにして、作業者のモチベーション向上に大いに貢献したという。

SOPもデジタル屋台も、必ずしも現品票とバーコードを活用するとは限らないが、作業時間を計測しているので、いろいろと付加的な機能を持てる点で共通している。

このようにメリットの大きいシステムであるにもかかわらず、日本の全ての工場に常識的に普及しているかというと、決してそうでもない(だから毎回、工場見学のたびに現品票とバーコードをチェックしているのである)。技術的には、25年前から存在し、ある意味、もう枯れた技術である。なのに、なぜ普及しないのかについては、ここではあまり深入りしないが、大きく3つの要因がある。一つめが、こうした製造現場のIT化投資に関する経営側の無理解、二つめが現場作業者のもの言わぬ抵抗、三つめは生産管理(とくに生産計画)担当部門の力量不足である。(さらに4番目をつけ加えるなら、現場に強いITエンジニア不足もあるが)

ところで、この1〜2年ほど、少し潮目が変わったかな、という感じを受けている。IoT技術の進展と、スマート化・AIブームなどの影響で、再び製造現場のIT化の遅れが問題視されるようになった。今回は特に、深刻な人手不足問題が追い打ちをかけている。自動化を進めないと、受注をさばききれない、という状況があちこちに生じたのだ。その結果、たとえばわたし自身も、MES(Manufacturing Execution System=製造実行システム)に関する問合せを受けるようになってきた。MESの話題なんて、この15年間、特定業界以外の人はほとんど誰も口にしなかったのに。

MESが何かについては、別に解説記事も書いた(「IoT時代のMESをもう一度考え直す 〜 (1) MES普及を妨げたもの」 https://brevis.exblog.jp/25991822/ 2017-08-19)ので、ここでは繰り返さない。ただ、POPとMESの関係だけは整理しておこう。簡単に言うと、POPとはMESの第一歩である。

そもそも、組立加工系の工場におけるMESの機能要素は、7種類くらいに分けることができる(世間的にはMESA Internationalの「11機能」を列挙するのが通例だが、あれはプロセス系も混ざり込んで分かりにくいので、自分流に整理し直した)

(1) 詳細な工程(作業)展開と指示発行(SOP含む)
(2) 機械設備の高度な連携制御(DNC含む)
(3) 製造プロセスのモニタリング
 →これは、機械・人の状態監視と、ワークの所在・数量・移動の把握に、さらに区分できる
(4) 製造オーダーのトラッキング
 →これも、進捗と完了予測、そしてトレーサビリティ機能に区分できる
(5) 品質と製造パフォーマンスの計測
 →すなわち、品質・リードタイム・生産性の計測と分析である
(6) 製造資源の維持・保守
(7) 製造技術情報(製作図面・BOMを含む)の共有・検索

逆に、MESでは通常、対象外となる機能もある。すなわち、
(8) 通常の制御系機能
(9) 調達・コスト管理機能

POPは、上の機能リストで言うと、(1)と(3)を部分的にカバーしている。つまり、MESのサブセットという訳だ。もちろん、別に上の機能全てをカバーしなければ、MESと呼んではいけない、というつもりはないし、工場によって必要な機能のセットは異なるだろう。そこはもちろん、IT化の手間と効果、そしてコストの見合いで決めるべき事柄だ。一般に、対象業務の規模が大きくなり、コントロールすべき物事の数が増えたら、IT化の効果が出やすい。

さらにいうなら、市販の生産管理システム・パッケージや、ERPパッケージにも、ある程度POP的な機能が実装されている場合が多い。現代では、選択肢はいろいろあるのだ。ただ、生産管理やERPが、どちらかというとコスト管理目的に傾斜しがちであるのに対し、単体のPOPやMESは、製造プロセスの円滑なマネジメントが主目的であるという違いはある。それに応じて、現場に要求される作業も微妙に変わってくるだろう。

わたしの個人的な意見としては、最初から製造現場に細かなコスト管理の仕組みを持ち込むよりも、まずは製造が遅滞や不良なく円滑に進むことを、優先すべきではないかと思っている。ここは異論のあるところかもしれないが、もしも納期遅延や生産性に悩んでいるのなら、単体のPOP構築からはじめてみるのが、賢い選択ではないだろうか。

<関連エントリ>
 →「超入門:上手な工場見学の見方・歩き方https://brevis.exblog.jp/21898734/ (2014-04-16)
 →「IoT時代のMESをもう一度考え直す 〜 (1) MES普及を妨げたもの」 https://brevis.exblog.jp/25991822/ (2017-08-19)

# by Tomoichi_Sato | 2018-03-21 14:56 | サプライチェーン | Comments(1)

書評:「小水力発電が地域を救う」中島大・著

小水力発電が地域を救う」 (Amazon)

最近読んだ中で、最も面白かった本だ。わたしはあまり新刊書を批評しない(というか、読んだけれど書評を書けずに溜まっている本が沢山ありすぎる^^;)。だが、この本はできる限り多くの人に読んでもらいたいので、あえて順番を飛び抜かして取り上げよう。

タイトルを見ると、本書はたんに再生可能エネルギーの一分野である「小水力発電」を紹介し、宣伝するだけの目的に思えるだろう。だが著者は、この一見地味な技術について、もっと広いパースペクティブ(ほとんど文明論的な視野)に立って、日本社会に与えうるポテンシャルを論じる。いやあ、頭の良い人が書いた本は面白いなあ、と読みながら久々に感じた。お勉強のできる人や知識の豊富な人は、たくさんいる。だが、広い視野からものごとを多面的にとらえて考えられる人は、滅多にいないのだ。

著者は、全国小水力利用推進協議会の事務局長。経歴を見ると、’85年に東大の物理学科を卒業するが、その後は官庁や大企業にいかず、ベンチャー企業をへて、2005年に非営利の協議会組織を立ち上げ、リードしてきた人だ。

思い出してみると、2005年頃と今では、再生可能エネルギーをめぐる状況は、まったく変わってしまっている。その供給量も価格競争力も、世界的にここまで進むとは、誰も思わなかったろう。日本では2011年にFIT(固定価格買取制度)が制定され、以来とくに太陽光発電がブームになった。

だが、わたし達が最も古くから利用してきた再生可能エネルギーは、水力なのだ。日本は気候と地形に恵まれ、水力利用の適地だという事情もある。だが、著者が指摘するように、ヨーロッパの産業革命も、じつは水力からはじまった。アークライトの水力紡績機は、ジェームズ・ワットの蒸気機関よりも先に現れ、機械工業化の火付け役となったのだ(p. 150)。

水力発電のメリットとは何か。それは、発電量が安定していることだ。太陽光が、日周変動を不可避的に持つことはいうまでもない。では、風力発電はどうか。じつは、風力の発電量は、風速の3乗に比例するという物理法則がある(流体の動圧=運動エネルギーは流速の2乗に比例し、かつ発電の能力はタービンを通過する風量に比例するから)。大気乱流のスペクトル分布を考えれば、風力発電がいかにブレやすいか容易に想像がつく。

水力発電も風力発電も、基礎原理的には同一だ。なのに、発電量の安定度が違うのは、水力は発電機のタービンの前に、堰・ダム・水路などのバッファーをたっぷり持っているからだ。さらに、天からふる降雨量を、山それ自体が平準化して流出してくれる。本書が対象とするのは、1000 kW未満の小水力だが、それでも全国の開発可能量(経済性を考慮した数量)は数千箇所、合計100万kW程度と見込まれている(p.21)。ほぼ原発1基分である。これだけあれば、足下の山間地の需要はおおむね満たすことができる、という。

ただし、第8章「歴史の中の小水力発電」に詳しく書かれているように、日本には小水力発電が育ちにくい不幸な事情があった。現在、小水力発電を計画しようとすると、肝心の水車を、欧州やアジアから買ってこなければならない。発電用水車を安価に製造できるメーカーが、日本にほとんど無いからだ。なぜ、この技術大国で、水車程度を作れる企業が存在しないのか。それは、そもそも市場がなかったからだ。

戦前の日本では、水力発電事業を行う鉄道会社や自治体も、それなりに沢山あった。しかし、「戦争に伴う挙国一致体制を築くため、小水力も含めて、発電所・電気事業は日本発送電という国策会社に統合されてしまいます。そして敗戦後も、元に戻すのではなく、(沖縄を除く)9社の電力会社に分割再編することになり、地域の小水力発電所もその電力会社に帰属することになりました」(p.158)

地域独占となり、経済成長で巨大となった電力会社にとって、「戦前から引き継いだ小水力発電所はコストパフォーマンスがわるいため、だんだんと廃止され」ていった(p.159)。たとえば東電管内の山梨県では、300kW以下の発電所は廃止の指示が出た。こうなると、機器を製造するメーカーも生きていけなくなってしまう。

ところがヨーロッパでは事情が違った。もともと歴史的には、日本も欧州も、大都市向けの大規模水力の開発と、村落向けの小水力の増加が並行して進んでいた。だが敗戦国ドイツでさえ、小水力発電所の統合は行われなかった。今でも村営の発電所が多数残って、馬鹿にならない量の電力を安定供給している。かくして、今でもドイツやイタリアに、安価で優秀な水力機器メーカーが生き残っているのである(p.159-161)。

ただ、歴史の面白いところは、このような状況にもかかわらず、民間が自由に水力発電事業を営める形態が、ほんの一筋の水脈のように、残ったことだ。それも、なぜか中国地方に残っていた。織田史郎という人物のおかげだった。彼は中国電力の前身にあたある中国配電会社の役員だった。彼は、戦後まだ残っていた「無点灯地区」(電気の来ない村)では、自力で発電事業をやればいいと考えた。そして将来、配電線が村に届いたら「電力会社に電気を売って、地域振興の財源にすればいい」とまで見通した(p.164)。

こうして彼らの働きかけにより、「農山漁村電気導入促進法」が1952年に制定される。織田の努力が実り、中国地方には最盛期には200ヶ所もの小水力発電所があった。事業主体は農協や漁協、土地改良区などだ。水力発電設備は寿命が長いから、今も50ヶ所が事業を続けているという。ただ、全国的には衰退していく。「その原因を一言で言えば『挙国一致体制で国策会社に統合した』ことにつきます」、と著者は書く(p.167)

しかし、まだ「促進法」自体は生き残っている。これを活用する形で、この10年ほど、全国にぽつりぽつりと、地域振興をかねて小水力発電が復活しはじめた。その代表例は、第1章に詳しく書かれている岐阜県郡上市石徹白(いとしろ)地区の事例だ。岐阜市出身で一時は外資系コンサル会社に勤めていた平野彰秀氏が、一種のUターン(正確にはIターン)をし、地域づくり協議会として、マイクロ水力、ミニ水車をつくっていく。ついには発電目的の農協を組織し、125kW出力の発電所を建設するのである。

「FIT制度が始まった今は、小水力発電に良い時代です」と著者の中島さんは書く。「農産加工品などの市場開拓は簡単ではありません。ところが、小水力発電の電気は、FITのおかげで必ず売れるという利点があります」(p.47)。

石徹白の取り組みの原動力になったのは、じつは小学校が廃校になってしまうかも知れない、という危機感だった。「小学校の存続は、地域が存続するかどうかの先行指標と言っても過言ではありません。子育て環境の悪化で若い夫婦がいなくなるだけでなく、子どもたちの帰属意識が薄れ、高校・大学を卒業した後戻ってくる動機が弱くなるからです」(p.38)-- このように、過疎に悩む限界集落にとって、発電事業による収入の確保は、地域の生き残りのカギになりうる。

そればかりではない。日本の里山では、農業用水路の維持保守が、死活的に重要だ。しかし近年の農業人口の減少により、一人あたりの維持費用負担が高くなり、ますます離農が増えるというダウンスパイラルが、あちこちに起きている。そこで、農業用水路を活用した小水力発電と、それに伴う現金収入は、農業それ自体を維持する上で重要なのだ。

ここで、農業用水路の『空き断面』を活用した水力発電、という新ビジネスモデルが、にわかに登場する。空き断面とは、水路の余裕となる流量だ。農業用水は田植えなどの時期を除くと、じつはかなり流量を絞っている。10の容量があっても、1の水量しか流れていない状態は珍しくない。そこで、ここに10の水量を流して、9の分は発電に使うのだ(p.57)。発電に使った後の水は、農地ではなく川に戻す。こうした話は、本書を読むまでまったく思いもかけなかったアイデアで、とても面白い。

もう一つ、なるほどと思ったのは、「山村の土建会社は小水力発電で生き残れ」(第3章)だ。近年、地方の小規模な土木業者たちはつぎつぎと廃業している。しかし、山村ではいったん大雨や災害が起きると、土建業者が対応してくれない限り、ライフラインが復旧しない。だから地方の土建会社は必要なのだ。ところで小水力発電所の建設と運営は、土木技術の固まりである。だから公共事業の減った今日、土建会社にとって良い副業になる。

おまけに土建会社の経営者は、当たり前だが経営感覚に優れている。発電所の設置と運営は、やはり経営感覚のある人がいるかどうかが、成功の鍵なのだ。第3章には、富山県の土木経営者だった、故・古栃一夫の獅子奮迅の働き(当時は監督官庁の、言いがかりに近い無理解があり、それと闘った)が、いきいきと描かれている。

というわけで、本書は具体事例をふんだんに盛り込みつつ、地方活性化のために小水力発電事業がいかに有用かを、多面的かつ客観的に書いている。副題に「日本を明るくする広大なフロンティア」とあるが、地方の山村を明るく事こそ、著者(ご本人は都会生まれだと書いているが)の強い願いなのだ。

その信念は、序章と終章によく表れている。序章で著者は書く。「日本の山の木材の価値を死なせてしまったのが、1964年の木材輸入自由化でした。海外から木材を安く輸入できるようになったため輸入材が急増し、日本の林業は壊滅状態になってしまったのです。このことは山村から主要な価値が失われたことを意味していました。(中略) 木材が燃料であり建築材であった20世紀の半ばまでは、ものの価値と言う意味で見れば、山は価値の流れの上流にあったのです。ところが山は、価値の流れの下流、しかも最も末端になってしまったのです。こうして、山村から人がどんどんと里へと移動し、過疎化が進んだわけです。」(p.14)

このような流れを止め、できれば逆転させる力となりたい、というのが著者の望みなのだろう。今日風のグローバリズムの観点に立てば、そんな経済効率の低い辺境地域などうち捨てて、人口は都市に集中させ、そこに資源を集中させる方が効率的だ、という結論しか出てこない。だが、著者の意見は違う。

「町育ちの人ばかりになると、社会が脆くなります」(p.177)

効率性は脆弱性と裏表の関係にある。効率性の高いシステムは、冗長性が乏しく、外部条件の変化に対して脆弱になる、と著者は指摘する(同頁)。このテーゼは、わたしが最近ずっと考えている、システムに固有なトレードオフの問題と同じで、その点でもとても共鳴してしまった。

小水力発電事業は、たぶんわたしの勤務先のビジネス領域には重ならない。多くの読者にとっても、同じだろう。だが、それでも、日本の地域の文化が生き生きと存続することを願うならば、一人でも多くの人にこうした活性化のビジネスがあり得ることを知ってほしいと思う。


# by Tomoichi_Sato | 2018-03-14 23:48 | 書評 | Comments(0)