2018年 01月 31日 ( 1 )

書評:「怒りの葡萄」(上・下) ジョン・スタインベック著

このところ、書評を書くペースが遅くなって、なかなか読み終わるスピードに追いつかない、と昨年はじめの「書評 2016年のベスト3」 に書いた。その事情は変わっていないが、2017年は読む本の冊数自体も随分減ってしまった。これはスマホでなんとなくだらだらと、ネットを見ているからだと気がついた(わたしは主に移動時間に本を読む習慣なので)。そこで、最近は電車では可能な限り、紙の本を読書ようにしている。まあその方が情報内容に読み応えがあるし、ピンチの出版業界の助けにもなるし、何より目にも良い。

昨年読んだベスト3の内、1冊は「ケセン語訳 新約聖書 【マタイによる福音書】」(山浦玄嗣・著)だったが、これは書評をすでに書いているので、残りの2冊について早めに紹介しておきたい。もっとも2冊というのはどちも上下2巻本なので、実質的には4冊だが。「怒りの葡萄」は、そのうちの一つである。


怒りの葡萄〔新訳版〕(上)」・「怒りの葡萄〔新訳版〕(下) 」 (Amazon.com)

1930年代、アメリカ中西部から南部にかけて走る「グレート・プレーンズ(大平原)」の農業地帯は、厳しい日照りと砂嵐に見舞われる。通称「Dust Bowl」とよばれた現象である(本書では純粋に天災として書かれているが、実際には、生態系を無視した収奪的な開墾農業に起因する、人災の面が強かったことが分かっている)。

アメリカ社会はすでに1929年から、大恐慌時代に入っており、多くの農民は借金を抱えていた。そこに、この砂嵐が追い打ちをかけた。結果として彼らの多くは、借金のカタとして土地の所有権を奪われた。さらに貸し手の金融業者達は、機械化トラクターを使って、容赦なく農民たちを半暴力的に住み家から叩き出した。生活の糧を得るために、彼らは仕方なく州外に逃れなければならなかった。

この小説は、そのような難民達の物語である。そう。100年近く前の米国には、国内に、多数の経済難民を輩出していたのである。彼らの多くは、仕事がある豊かな地というイメージにひかれて、カリフォルニア州を目指した。とくにオクラホマ州は多くの農民が放浪状態になり、「オーキー」と蔑まれてよばれた。オーキーの小作農出身であるトム・ジョードが、本書の主人公だ。

彼らの多くは、自家用車を改造したトラックにありたけの荷物を積んで、ルート66と呼ばれる道路を西に向かう。そこにはアメリカの農民たちのバイタリティと、自動車のエンジン部品まで自分で修理するDIYの精神が息づいている。

だが、彼らを待っていたのは過酷な運命であった。カリフォルニアの農業は、すでに土地の大土地所有化が進み、さながら大企業かプランテーションのように、安い労働者を搾取することに慣れていた。彼らは中西部に無際限に労働者募集のビラをまいて、集まった労働者同士で競争させ、単価をさらに下げると言う方策をとっていた。加えて豊かな土地の住民にありがちな、貧しい余所者のへの差別。そして難民収容所さながらの、劣悪な生活。

その中で、貧しい者同士が団結して、単価の値上げを要求しようとするリーダーが生まれてくる。しかし大農地の所有者たちは、彼らを「アカ」と呼び、保安官を動かして彼らを逮捕、あるいはこっそり殺そうとする。この辺もまことに米国的である。

主人公のトムも、そうした中で保安官に追われる身となる。彼が母親に別れ際に言う有名なセリフ、「俺の魂はそこら中の暗闇の中にいる。飢えるのはごめんだと言って喧嘩する奴がいたら、俺はそこにいる。おまわりが誰かをぶちのめしていたら、俺はそこにいる。」--これは実は新約聖書にあるイエスの言葉、最後に弟子たちに向かって別れ際に言う言葉のもじりだ。『怒りの葡萄』というタイトル自体、この世の終わりを描写した「ヨハネの黙示録」からとられている。

本書は1939年に出版されるやいなやベストセラーとなって、賛否両論の激しい渦を巻き起こし、いくつかの州では発禁となった。またジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され、さらに多くの人に知られるようになる。この重厚な名作によって、後にスタインベックはノーベル賞をもらう。昔から翻訳は出ていたが、スピルバーグが再映画化するというので、出版社は新訳を出したのだろう。わたしはそちらの方で読んだ。

それにしても、ぎりぎりの賃金で苛烈な生活を送る、最下層の貧しい人びとの果敢な精神と、彼らを容赦なく利用・簒奪し、かつ差別する富める者たちという二分法の構図は、100年前どころか今も既視感のある情景である。本書はジョード一家の個別の物語と、特定の人称を持たないアメリカ社会の描写を交互に配した重層的な構成だが、話が重たいだけに、結末の不思議な、しかしある意味、苦難を超越した幕切れが印象に残るのであろう。100年前の出版ながら、いまだに今日的な意義を持つ小説である。


by Tomoichi_Sato | 2018-01-31 08:40 | 書評 | Comments(0)