契約はプロジェクト・マネージャーが設計するものであり、その設計においては三つの重要な原則がある、と前回説明した。それは、「当事者は対等であること」、「自由度が責任範囲を決めること」、「強制力があること」の三原則だ。
「当事者は対等であること」とは、発注者と受注者は本来対等な存在であって、権利義務関係は一方的なものにならないよう、主張することができるということだ。第二原則の「自由度が責任範囲を決めること」とは、当事者に許された自由度の範囲を超えて、無限に責任をとらされないようにすべきだ、という原則である。無限責任というものは、近代法の世界では存在すべきではない、と考える。いずれも、弱い立場に立たされがちな受注者を勇気づける原則である。 では、第三の「強制力があること」は具体的に何を意味しているのか? これは、「契約は約束なんだから、自分の言ったことは責任を持って守りましょう」という、ある意味で当たり前のことの宣言だ。発注者に、言ったことを守らせる。もちろん、受注者も守る(第一原則にある通り、両者は対等なのだから)。とはいえ、これはもう少し説明が必要だろう。 以前、「受注生産という名前の見込生産」(『生産計画ワンポイント講義』2008/07/ )で、発注書無しで材料を購入する業界がある、と書いた。内示はあっても正式な発注書はなく、金額は当月納入(使用)した量に応じて単価精算する。内示と現実がちがってサプライヤーに在庫が残っても、購入側は責任をとらない(その顧客向けの商品だから転売もきかないのだが)。よく考えてみると、J-SOX法と内部監査の専門家が目をむきそうな業界慣習である。だから今後もこのような慣習が生き残るかどうかは、わからない。 しかし、サプライヤーに一方的に不利に見えるこの慣習も、じつは裏面があるという。知り合いの営業マンは、その業界に入った頃のことを思い出して、こういう。「大量の資材を、口頭の指示だけで納める習慣にはたしかにビックリしました。でも逆に、『10万本もってきてくれ』という客先の注文に対して、『すんません、9万5千本しか製造が間に合いませんでした』といえば、『そうか、まあいいよ』でお客さんの方も済んだんです。」 つまり、不良で歩留が上がらなくても、泣きつけば許してもらえた、ということである。 何を、いつまでに、いくつ、いくらで納めてほしい--はい納めます、という約束が発注書(&受注請書)と呼ばれる書類の正体だ。つまり、発注書とは約束と合意からなる契約文書にほかならない。発注書のない業界とは、発注側と受注側に契約が存在しない世界である。そこでは、受注者が無限責任を負う代わりに、発注者は多少の甘えも許してやる。さながら親子関係のように、自他の区別のない世界なのだ。 でも、そもそもなぜ契約などというものがあるのだろうか? 八百屋で大根1本を買うのに、誰か発注書を書くだろうか? だったら容器100万本を買うのにも、なぜ契約書など必要なのか? その答えが、『強制力』なのである。合意(Agreement)と、契約(Contract)の違いとは、後者には強制力(Enforcement)があることだ。何に対する強制かって? それはむろん、約束を守れない事態におちいることを避けるための力だ。あるいは、約束が守れない事態に陥ったとき、できるかぎり修復できるように当事者が努力するための力だ。昔から多くの社会では、約束を人前で誓い、立ち会った人々に証人になってもらうことで、社会による強制力を保証してきた。約束を守れなければ、信用を失う。結婚式が人前での誓いの形式をとるのも、たぶんこの延長線上にある。結婚は両性の合意で成立するが、それを簡単にこわせないように、「固めの儀式」でenforceするのだ。 近代社会では、人前での誓いの代わりに、紙に記してそれを証拠立てる方式が広まった。西洋では、両者が紙に自分の印章で封蝋をつかってスタンプすることで、強制力が保証されるようになった。後には、透かし入りの上質紙(これをBondと呼ぶ)にサインすることにかわった。現在では、電子的記録でも正式な契約である。 むろん、口頭での合意でも、大根1本は買える。純粋に合法だ。しかし、容器100万本を口頭依頼で納めた後、代金が支払われなかったら、どうするのか? 「ほしかったのは90万本だった」と注文主が言い出したら、どこに強制力があるのか? 契約のない世界--すなわち、従来の日本の少なからぬ業界では、「世間的信用」がそれを保証してきた。いや、保証するはずだった、と言い直すべきだろうか。「逃げも隠れもしない大店(おおだな)の暖簾」が、裏書きだったはずだ。納入業者を泣かせるようなことはしない。商売は相身互い。以心伝心、一心同体やないか。 おわかりだろうか。契約というのは、「あなたと私は別人です」という、自他を区別する“水くさい”関係認識の上に成り立っている。別人だから、互いに思いもよらぬ事態になりうる。そうなって困らないように、約束の内容を文書で記録にして、「強制力がある」ものにする。これが契約の第三原則なのである。 だから契約書では、たいてい最後の方に、「仲裁条項」を書く。これは、本契約に関して当事者間に紛争が生じた際に、誰に仲裁を頼むかを決める項目だ。普通は裁判所か公的調停機関である。少なくとも私の知る限り、海外の契約書では、どの国の法律を適用し、どこそこの裁判所に仲裁をゆだねる、という仲裁条項がある。強制力のためである。 ところが、私の経験では、日本の契約書には不思議なことにこの仲裁条項が無い。かわりに、「両者は誠意をもって解決に努力する」という『誠意条項』が書かれているのだ。誠意! まことに日本的で、結構なことだ。他人同士みたいな「水くさい関係」は、なるべく避けたいという“大人の知恵”なのだろう。そして、他人ではないから、発注者側は好き放題のことを言って、甘えてくる。自分の側で責任を持って行うべき義務は、都合良く忘れてしまう。そして、受注者に無限責任を求めてくる。--どうやら、日本における発注者と受注者の伝統的関係は、母子関係のようなものらしい。お互い他人でもないし、逃げることもできない。 とはいえ、長い伝統社会の、決まり切った仲間内での取引では収まりきれなくなった現代では、契約は避けて通ることのできぬ手続きなのだ。もしあなたがプロジェクト・マネージャーなら、そしてあなたの顧客が「あなたと一心同体と思える相手」でなかったら、契約をどうすべきか考えるべきなのだ。客先と打合せをしたら、合意事項を議事録に書いて(議事録は契約を補完するものと位置づけられる)、あとで「あのとき貴方はこうおっしゃいました」とやんわり詰めよるべきなのだ。 「自他は別の存在であること」が契約の根底である。自分と相手は他人であって、一心同体でも以心伝心でもない。そこで、権利義務関係はできるかぎり明確化・文書化しましょう、という考えが生まれてくる。また、他人であるということは、責任範囲には限界がある、ということで、第二原則にも通じている。もちろん、別人であるからには、両者は対等だ。これが第一原則である。ところが、日本の企業社会には、この自他分別の論理が抜けている。抜けたまま、形の上だけ契約風な紙切れを交わし、また「契約だから」といって勝手に関係を切るのにも利用している。 「生産システムの目的と機能」で私は、「日本の製造業が抱えている問題点を、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。」と書いた。私はもう一つ、あえて書きたいことがある。それは、「日本の企業は契約の論理の根底にある、自他分別の認識を抜かしたまま、形の上だけ欧米企業のやることを真似ようとしている。それが、今日の社会のさまざまな矛盾を生んでいる」ということだ。偽装請負も、年俸制も、工場の子会社化も、事後精算付き発注も、みな同じ根っこから発している。 現実世界では、無限責任をとれるような永久的共存共栄関係はもはや存在しない。それならば、自分の身を守るために、あなたも今日から契約書に強くなるべきである。
by Tomoichi_Sato
| 2008-08-13 23:28
| E4 ビジネスのソフト・スキル
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