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科学の子

JR高田馬場駅のホームで乗り降りしたら、耳慣れた曲が聞こえた。電車の発着のベルのかわりに、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌が聞こえたのだ。谷川俊太郎作詞・高井達夫作曲の、あの“空を超えて~、ラララ、星の彼方~♪”という歌である。この駅だけ、なぜ鉄腕アトムなのかは、よく知らない。もしかしたら手塚治虫の虫プロが、かつてこの地にあったのかもしれない。いずれにせよあのメロディは、昭和30年代に生まれた男の子なら、誰でも知っていた。

この歌を想い出してみると、もう少し先で、“心優し~、ラララ、科学の子~♪”という風に音階が盛り上がっていく。「科学の子」! 今日の世界では、決して思いつかないフレーズだなあ。若いときの谷川俊太郎は才能があったのだろう。いずれにせよ、今ではこんな言葉、誰もロマンチックには感じまい。

科学というものが、ロマンチックな性質を持つことを、もはや皆が忘れているらしい。エンジニアはみな、科学を学ぶ。技術は科学の裏付けがなければ、たんなる職人の手仕事にとどまってしまう。技術者を志す大きなモーメントは、科学というものの持つ限りない可能性と、理知的な精神の結びついた、ロマンチックな性質だったはずだ。

最近、情報系の学科は入学希望者がたてつづけに減ってきている。知り合いの大学教授から、そう聞いた。さもありなん、とも思う。IT産業はこの20年間というもの花形だったが、それを支えるソフトウェア技術者は過酷な労働環境を強いられる職業だと、誰もが思うようになった。技術者というより、ソフトウェア労働者と呼んだ方がふさわしい。しかも、それで大金が儲かる確率は、もはや極めて小さい。企業は中国かインドに仕事をアウトソースしようと虎視眈々だ。経済産業省が鉦と太鼓で育成の音頭をならそうとも、誰がそんなしんどいばかりの仕事に就きたいと思うだろうか?

似たようなことは、工学部全般に言える。青少年の理工系離れを防ぐために、いろいろな人が策を提言しているが、私は悲観的だ。なぜなら、エンジニアという職種は、今の産業界では、たいして報われないからだ。嘘だと思うなら、製造業の役員リストを調べて、その中に生産畑・研究畑出身がどれほど少ないかを見てみればいい。彼らの科学知識は、彼らのキャリアを豊かにするために、どれだけ役に立ったか? こうした事実に目をつぶったままで、青少年だけを、使いやすい歯車として育てようというのは虫が良すぎる。

つい先日、同年代のエンジニアで飯を食いに行って、しばらく雑談した。話は彗星にロケットを打ち込んで、そこから物質サンプルを持ち帰るプロジェクトの成功と失敗要因に至り、おおいに花が咲いた。こういう話は楽しい。もっている科学知識をあれこれ動員して、想像力の翼を多少なりと羽ばたかせることができる。こういう議論をしていると、ああ、自分たちはまだ科学の子の意識が、少しは残っているな、と感じる。わずかなりともそこには、歳を忘れさせるロマンティックな香りがある。

リスク確率にもとづく貢献価値理論について、最近あれこれと考えている。その中で、タスクの貢献価値の比率は、その仕事の難易度(つまり代替可能性の小ささ)に比例することを証明できた。これを応用すると、コストセンターの生産部門の貢献価値が、プロフィットセンターの営業部門よりも大きくなる条件も示せる。お金を使うばかりの部署でも、価値の源泉であることが示せるのだ。こういう発見こそ、科学的アプローチの醍醐味だろう。

製造は代替可能ではない、と私は言い続けている。設計もそうだ。こうした仕事は単なるコストセンターだから、さっさと海外に移転すべきだと考える今日の経営思想に、私は反対だ。販売はプロフィット・センターであり、マーケット・インの環境下で強い発言権をもつのは当然だ、と多くの人は思っているらしい。私はこれにも完全には同意しない。モノの感覚に裏打ちされた科学のセンスを失うと、組織はしばしば言葉の上だけで空回りを始める。言葉では何でも言える。だが、言葉による論理の暴力に対抗できる力を持つのは、検証可能な事実に即して考える訓練を経た者、すなわち科学を身につけた者だけなのである。
by Tomoichi_Sato | 2006-06-05 00:33 | ビジネス | Comments(0)
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