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書評:「毎日あほうだんす〜横浜寿町の日雇い哲学者西川紀光の世界」 トム・ギル著

「毎日あほうだんす〜横浜寿町の日雇い哲学者西川紀光の世界」(Amazon)(版元:キョートット出版

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(キョートット出版HPより画像引用)

この本をどこで知り、入手したのか、今ではよく思い出せない。手元の本の奥付を見ると、第1版が2013年出版、そして2021年に「完全版 第2刷」とある。だからコロナ禍の最中に、どこかの展示会で買ったかネットで注文したのだろう。発行所は「キョートット出版」という、半分冗談みたいな名前の、京都市北区にある出版社だ。ペーパバックの簡易な装丁。決して高級感のある作りではない。


しかし、わたしにとってこの本は衝撃だった。本書は、英国出身の社会人類学者Tom Gill氏(現在は明治学院大学教授)による、「一人民族誌」である。ある特定の一人に密着し、その生活史から民族や社会のあり方を記述する。彼はこれを、横浜寿町に住む日雇い労働者・西川紀光という人に依って行う。(本の表紙の後ろ姿、左が西川紀光、右が著者)


西川紀光は、陋巷に居る無名の賢者である。彼が最初に著者トム・ギルと会ったときに、こうたずねる。「ね、ハロルド・マクミランが首相を辞めた後、誰が継いだ? ハロルド・ウィルソン? それとも、エドワード・ヒース?」 1993年のことだ。ちなみにマクミラン、ウィルソン、ヒースの3人は60年代の英国の政治家であるが、読者はご存じだろうか。そして彼は、相手が英国人だからこの質問をしたのであって、フランス人だったらきっと別の質問をしただろう、と著者はいう。


紀光はさらに、寿町の喫茶店で、著者にハイゼンベルクの不確定性原理を、ΔxΔp ≧ h/2という式を使って説明する(hはディラック定数なので、hの上には横棒が入る)。そこから彼は、「社会不確定論」を語る。


横浜の寿町は、日本でも有名なドヤ街である。港町横浜の港湾労働者がたむろし、住む街であった。寄せ場ともいう。「ドヤ」とは「宿」をひっくり返した隠語で、いわゆる簡易宿泊所を指す。日雇い労働者が寝泊まりする場所。敷金もいらず身分証明も求めない。今日の寿町を歩くと、あまり周辺地区との顕著な違いが分かりにくいが、昔を知っている人は、随分変わったという(本書の最後の方で著者も詳しく書いている)。港湾労働の需要自体が減ったので、現在住んでいる人たち(ほとんどが高齢者)は福祉の対象である。


しかし、昭和時代はそうではなかった。地方の農村社会が、人口増加と工業化によって、余剰となった人びとを吐き出し、都会に吸い寄せられていった時代だ。西川紀光は熊本出身。1940年に生まれ、5歳で敗戦を経験。高校を出て自衛隊に入るが、任地の北海道で怪我をして指が少し不自由になり、隊をやめて横浜に行く。ただし人を刺して2年半刑務所に入っていたこともある。ずっと独身で、ドヤに暮らし、必要なときに働いて、好きな本を読み、焼酎を飲む。晩年は病気だったが、なくなる2年前の2013年に本書の初版を見ている。


本のタイトルにある「あほうだんす」は、哲学用語のアフォーダンスAffordanceである。最初、著者のギルは「阿呆ダンス」かと誤解したらしい。Affordとは、提供する、の意味で、デザイン心理学では機能的な価値や与えられた可能性を指し、もう少し広げると個人を取り巻く環境の全体像をいう。少し言い方を変えれば、運命ともいえる。紀光は主にこの意味で使っていたらしい。毎日が、生きていくので精一杯。これが「毎日あほうだんす」の内容である。


それにしても、博識とは何なのだろう。西川紀光は三畳一間の狭い空間に本を積み上げて、よく読んでいる。理解力と記憶力にも恵まれている。人間の頭の良し悪しと、一流大学を出た出ないは、さほど強い相関がないと、わたしはよく感じる。それよりも、与えられる正解に頼らず、自分で考える意思があるか、自分で学ぶ覚悟があるか、の方が大事だ。彼は体系だった思想家とは言えないにしても、鋭い視点をもつ批評家である。だからこそ、英国出身の若い学者を引きつけたのだろう。


だが、彼のような人間が片隅で暮らせる場所は、今の日本に無くなってきている。アフォードの余力が、社会になくなっているのだ。リベラル・アートとか人文知といった言葉も流行りはじめているが、彼が自分を守る力になっただろうか。


知識が、徳への指向と結びついたものを教養と呼ぶ。教養とは、有徳への道の一つだ。知識が教養にならない人を、オタクという。西川紀光という人は、自分が有徳者とはけっして思わなかっただろう。人を刺してムショに入った経験も持つ(ただし彼は自分のためでなく、他人が被った盗難の犯人と信じて暴力に及んだのだが)。では、今の世の中に教養は存在するのか。一流大学を出て舶来のバズワードを振り回すだけの無教養な人間が、大手を振って歩く社会が、今の日本ではないか。そういう愚かな社会への鋭い針先として、彼のような存在が光るのである。



by Tomoichi_Sato | 2026-03-18 09:37 | G 書評 | Comments(0)
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