自宅のリビングの窓際に、クリスマス・カクタスの鉢を置いている。小さな緑のサボテンだが、いつもクリスマスの時期になると深紅の花を咲かせる。どうして植物は目も耳もないのに、正確に時を知ることができるのだろう。いつも不思議に思う。時を知るとはどういう事なのか。 「時計の針を進ませておいてはいけない」と、亡き父はいった。よく、『時間に遅れないために』時計の針をわざと数分進ませておく人がいる。時間のゆとりを確保しておくためだ。だが、父はそうした意見に反対だった。家の時計は正確に合わせておくよう、母に命じた。なぜなら、「時計は計器である」。それが技術屋だった父の答えだった。 計器は正確でなければ役に立たない――それが技術者の感覚だ。安心や余裕のために、計器の針をずらしてはいけない。たとえば体温計を考えれば分かる。体温計は計器だ。『健康のために』体温計を0.2~0.3℃、上げておく人がいるだろうか? 事実が分からなくなったら、計器の役には立たない。 ちなみに計器は英語でInstrumentという。これは多義語で、器具や楽器を指す言葉でもある。ただしこれを動名詞化してInstrumentationというと、計器を使った制御、すなわち計装のことを指す(日本で最初にInstrumentationを「計装」と訳したのは、父の働いていた会社だったらしい)。 話を戻すが、計器にはときどきキャリブレーション(較正)が必要である。居間の時計をTVの時報に合わせたりするのが、キャリブレーションだ。仕事で使う計器は、定期的に(必ずしも使うたび毎回ではないだろうが)、この作業が必要になる。その間は設備が使えないので、生産性を下げてしまう。無論、較正は必要である。だが生産性が至上命題の組織や社会で、この種の仕事がどう位置づけられるか、想像に難くはあるまい。当然、後回しになる。そして情報は次第に、正確さからズレていく。
もう20年以上も昔のことになるが、わたしはあるプロジェクトで、発注先の米国のSIerからの追加請求の交渉に直面していた。彼らのクレーム(請求項目)の一つに、サーバ間の時刻同期の問題があった。複数のサーバ群からなる、MESと制御系システムを発注している。当時のことだから、サーバは全て物理サーバで、オンプレミスである。 サーバ群のクロックを同期する仕組みを構築する作業は、最初の仕様書に明記されていないから追加役務だ、金を払えというのが、彼らの主張だった。発注側であるわたし達は、「そんなこと当然だろ」のスタンスだ。最初、議論は平行線だった。しかし対象の制御系DCSから時系列データを、MESの一部であるPI SYSTEMに送るとき、時刻がズレて未来のデータになると、MES側が受け取れない。これはパッケージの仕様であった(当時)。しかも彼らは直前に、同等構成のシステムを顧客に納めているのだから、知らなかったはずはない。これを理由に、追加をはねつけた。 しかし交渉は複数項目の間の駆け引きでもあるので、この件で逃げ切れたのはラッキーだったと思う。ただ、わたしはその時に、キャリブレーションといっても、絶対値に合わせることと、相対的に合わせることの二種類があるのだ、という事を学んだ。相対的に合っているだけでも役に立つ場合があるのだ。 サーバ間の時刻同期は、ISA95でいうLevel-2以下の制御系と、Level-3のMESでは必須である。それぞれが単独で動いている場合は別に問題はない。だが協調して働くときには必須なのだ。そしてこのようなことは、いわゆるOT技術の分野では、昔から常識だった。そのために必要なNTPプロトコルだとか、あるいは近年注目されつつあるTime-sensitive Network (TSN)といった技術の詳細についは、ここでは割愛しておく。ただここでは、近代的なスマート工場を目指すとき、ロボットやマテハン機械でもおなじ問題が起きることだけ指摘しておこう。
OT分野ではずっと以前から常識だった時刻同期問題を、今さら取り上げたのは、これがまだIT分野では課題になりがちだと、最近感じたからだ。IT分野では、たとえ記録計のSoRであっても、秒を争うようなアプリケーションはごく少数だ。情報系のSoEなら、言わずもがな。ましてクラウド化が進めば、クロックの水晶時計のズレを心配する必要などないではないか。 それが、そういってもいられれなくなってきたのは、セキュリティのためだ。サイバーセキュリティ技術は、リアルタイム性がかなり重要になる。悪意ある侵入や攻撃を、いかに瞬時に察知してはねつけるか。それなのにSSOと実体サーバが何秒もズレていては目も当てられない。 ただ、そこであらためてクローズアップされるのは、「リアルタイム性」とはそもそも何か、という問題だ。そもそもこの感覚が、OT技術者とIT技術者の間で、基本的にズレている。「リアルタイムとは何か」については、以前このサイトでも書いた(今調べてみたら、もう15年も前だ)。簡単にかいつまんでいうと、「リアルタイム性とは、対象とする系の時定数よりも、有意に短いこと」なのである。ミリ秒とか、マイクロ秒とかがリアルタイム性の定義なのではない。対象とする相手よりも有意に速いかが、リアルタイムの意味なのだ。 だから、体温を計るのに十数秒かかる体温計だって、リアルタイムなのだ。なぜなら人間の体温の変化は分とか時間単位でしか動かないからだ。機械式の時計は、1秒ごとに針が動く。それでも日常生活のスピードからはリアルタイムだ。昔、SAP社のERPはR/2とかR/3とかいう名前だった。あのRはReal-timeの頭文字であった。なぜなら、企業の会計は、一日単位で集計できれば、十分リアルタイムだからだ。企業経営の指針としての財務バランスは、そういうゆっくりした時定数で動いているからだ。 計器はリアルタイム性が必要である。しかしそれは測定する対象系の「時定数」に依存する。この時定数の感覚、系(物理対象となるシステム)がどれくらいのスピードで変化するのか、に対する感覚こそが重要だ。そして人やモノが協調して働くときには、このリアルタイム性の中で、時を共有する必要がある。 そういう意味で、組織の中に時代認識が違う人がいると、協力しにくい(たとえば人手不足問題などが、いい例かもしれない)。シニア世代と、中堅と、Z世代では、時の感覚が違う。なのにお互い、違いをきちんと認識して、同期することを諦めている。 「時計は正確でなければならない」と、技術屋出身の、経営者でもあった父はいった。事実とデータに基づいて認識し、決断すること。それが、マネジメント判断の基礎である。そういう教訓が、この短い一言に現れている。今の世でいう「データドリブン・マネジメント」とは、すなわちデータに基づくマネジメント判断である。AIを使うかどうかは本質ではない。事実を客観的にとらえようとする態度の有無が、境目なのだ。 だから事実を見て、お互い頭の中の時計を合わせよう。わたし達は協調して働けなければ、何事もなしえないのだから。 <関連エントリ> 「リアルタイムとは何か」 (2010-12-15)
by Tomoichi_Sato
| 2026-01-05 12:45
| E1 マネジメントの技術論
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Comments(1)
人間の都合でバイアスのかかった計器はもはや計器では無いというご主張、確かに納得します。そうでなかったら、軽装制御が意味をなさないですから。
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