ある大手航空機メーカーのオフィスを訪れた。研究開発拠点で、小ぶりなオフィスだ。しかし中に入ると、会議室や廊下のあちこちに、自社の様々な製品の写真が飾られている。いずれもカッコいい写真だ。模型も並んでいる。見ていて、改めて思った。「そうか。この人たちは、自由に空を飛べる乗り物を作りたいという情熱で、この会社を動かしているんだ」。 そこの本社も訪れた事はあるのだが、来客用の大会議室や研修室が並ぶ建物では、実感がわかなかった。凝縮されたスペースで初めて、その情熱に気づいたのだ。 働く人の情熱がなければ、企業は続かない。もちろん、情熱さえあれば企業が存続できる、というほどビジネスは単純ではない。しかし優れた製品ができ、自分もそれに多少は関わっていて、それが望ましい風に働くのを見る事は、感情的な勲(いさおし=報酬)になるのだ。 もちろん給与という経済的報酬ももらう。もらわなければ生きていけない。だが感情的な価値は、お金だけでは足りない部分を補うことができる。 それは企業自身にとっても同じだ。売上・利益は会社が存続し、機能し続けるために必要である。だが、会社が社会に届ける製品、社会の中で果たす役割に対する、こだわり・情熱がなければ、会社は続いていかない。 世の中には、一見風変わりなことに情熱を燃やす会社もある。例えば、わたしの勤務先は、砂漠の真ん中や、1年の半分は夜になる極地に、プラントを建てる仕事をしている。多くの人から見ると、さっぱりわからない情熱だろうと思う。でも人々が情熱を燃やし、面白い・好きだと感じる対象は、とても多様で、様々なのだ。
世の中には、なぜ、これほど多種多様な企業が存在しているのか。効率的なお金儲けだけを追求するのなら、金融を中心としたわずかな業態に、どんな企業も集約していくはずではないか。極寒の地にプラントを建てるのなどやめて、債権を転がして儲ける方が、ずっと楽で効率的ではないか。この問いを立てて20年以上がたつが、いまだに経済学や経営学では納得できる説明を見たことがない。 でも答えなど、出るはずもない。それら学問が立脚する経済的価値=お金だけでは、企業の多様性の説明はつかないからだ。それは、「好きである」こと、感情的価値の多様性に根ざしているからだ。この事にようやく最近、気づくようになった。 経済的価値とは、端的にいって、売ったらいくらの額に換金できるかを示す。交換価値と呼んでもいい。 これに対して、感情的価値とは、その対象が自分にどれだけの感覚的・情緒的なプラスをもたらすかを示す。 例えばあなたが、以前から欲しいと思っていた、カッコいい新車を買ったとしよう(クルマに興味が無ければ、カッコいい音楽用ガジェットでも、自家用ジェットでも何でもいい)。 あなたにとっての経済的価値は、それがもたらす時間の便益や、他人に転売したときに得られる値段だ。 しかし感情的価値とは、その流線的なカーブや色合いの美しさ、動かしたときの手ごたえの面白さ、自分のできることが広がる期待、そして所有者であることの誇らしさなどからなっている。 あなたが職場で働く時、あなたは労働力と言う資源を雇用主に売っている。代償として得られる経済的価値が給与だ。しかし、あなたが仕事で感じる面白さや誇らしさ、将来性への希望などは、感情的価値に属する。この感情的価値が、仕事の負担や人間関係のストレスなどで、ゼロ以下に減じてしまうと、どこか別のところに移ろうか、と言う気持ちになる。 エンゲージメントと世の中で呼ぶものは、働くことの感情的な価値の側面なのだ。
経済的価値は必要条件だ。だがそれは、人を引きつけ、関わりを続けるための充分条件ではない。感情的価値こそ、人を動かすための充分条件を作るのだ。 スマート工場とは何かについて、私は何年も前から同じことをずっと主張している。スマートな工場とは、見た人間が誰でも「ぜひ、ここで働きたい」と感じる工場なのだ。見る人は技術者かもしれない、技能員かもしれない、あるいは単純な事務職かもしれない。誰が見ても、「すごい。ここで働いてみたい」と思えるような工場こそがスマートなのだ。そうした工場が、今の日本には必要なのである。 なぜなら、スマートでない工場で働くのはつまらないからだ。働くことがつまらないと感じる職場から、良い製品が生まれるだろうか? この国ではどこでも、工場は人手不足だ。給与が少しでも良ければ、別の職場に移ってしまう。それはつまり、働く人に感情的価値を与えることが、できていないからだ。 でも、それは工場に限ったことではない。あらゆる職場でギリギリまでコストダウンを迫り、 非正規労働の契約で給与を低く抑え、マニュアル化とKPIで創意と個性を縛る。生まれた経済的余剰は企業が内部留保するだけで、ろくにまともな設備更新も教育投資も行わない。これがわたし達の社会で20年以上続いてきたことだった。かくして、働く人の大多数が、感情的価値の欠乏に内心苛立つような社会が出来上がった。 少し前の『新しい第3の分断〜建前社会の疲弊と、新・本音主義の登場』 で書いた、現代社会のあちこちで起きている「分断」の動きは、いわば抑圧されてきた感情の反乱である。経済的価値だけを最優先し、感情的価値を無視続けてきた社会は、明らかに行き詰まってきた。ならば、「ポスト資本主義」を考えたい人は、わたし達の感情面をどう再構築するか、もう一度検討しなければならないだろう。感情は金銭と違って客観性に乏しいから、数学的な経済学だけでは、その答えは出ないと思う。
感情には、価値をもたらすポジティブな面もあるが、破壊的に作用するネガティブな面もある。その両面を心の中に持っているのが、人間だ。心の内部構造がどうなっているのか、わたしにはよく分からないし、脳科学も心理学も、確実な答えを持っているようにはまだ思えない。 ただ、一つ言えるのは、さまざまな感情の動きが心の中で乱れていると辛い、という事だろう。そして感情的価値の乏しいわたし達の社会では、そういった心の状態になりやすい。身体の状態については、「整う」という言葉が、よくサウナなどに関連して使われる。では、それに相当する状態、内面が「ととのう」のは、どういう時だろうか。 こうした事柄はとても主観的なので、説明が難しいが、わたし自身の体験では、何らかの儀式のようなこと、時間をかけた身体的所作や発声をともなう行いを経ると、何となく心が落ち着くことはある。それは宗教行事的な場合もある。だが、だからといって起工式や結婚式に臨席しただけで「整う」ほど、心は単純ではないらしい。発声が良いといっても、カラオケに行けば済む話でもない。ともあれ、多忙な現代に等閑視されがちな営為にこそ、乱れた感情を整えるためのヒントがあるらしい。 心が落ち着くと、他者の心の状態にも気づきやすくなる。そうでなければ、協力という事はできない。現代社会で協力関係が結びにくくなり、人びとがバラバラになりがちなのは、感情的価値が痩せ細ってしまった事と関係がある。経済的価値は必要条件だが、十分条件ではない。感情的価値が乏しい物事は、必要な栄養はあるがちっとも美味しくない食事のようなものだ。 顧客である航空機メーカーの人たちの、感情的な原点に気づけたのは、わたしにはとても大事なことだった。皆、自由に大空を飛ぶ姿が、好きなのだ。「好き」という表現は、ビジネスでは滅多に公的会話に登場しない。でも、それがあればこそ、トラブルを超えて前に進もうという気持ちになる。では翻って、わたし達の社会はどんな自由を、「面白い」と思えるのだろうか? <関連エントリ> 「新しい第3の分断 〜 建前社会の疲弊と、新・本音主義の登場」 (2025-07-12)
by Tomoichi_Sato
| 2025-09-23 19:06
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