1959年、冷戦時代の米国。ハーバード大学で経済学博士号を取ったばかりの若き俊英ダニエル・エルズバーグは、母校の政治学者・キッシンジャー教授のセミナーで、交渉戦略について連続講義を行う。タイトルは、「Art of Coercion(威圧の技法)」。内容は、経済や政治・戦争における脅迫や強制を「交渉ゲーム」として捉え直すアプローチだった。とくに彼は、第二次大戦前のヒトラーが、破壊を示唆することでオーストリアやチェコスロヴァキアを服従させた例をとり、相手の合理的な推測を逆手に取る「予測不可能性=威圧戦略」の有効性を解説した。 後にキッシンジャーは、「自分が交渉について最も多く学んだのはエルズバーグからだった」と回想している。キッシンジャーという人物への好き嫌いはおくとしても、後に国務長官になった彼の現代政治への影響力は、巨大だった。他方エルズバーグは、米軍のシンクタンクであるランド研究所で働くが、次第にベトナム戦争に関する米国の戦略に疑問を持つようになり、スピルバーグ監督の映画「ペンタゴン・ペーパーズ」に描かれたような内部告発者になっていく。 エルズバーグは『ゲームの理論』の専門家だった。ゲーム理論は、現代の戦略家が意思決定をする際に広く用いる、強力な道具だ。ゲーム理論では、各プレイヤーがそれぞれ自分の行動を選び取ったときの、結果の損得を「利得マトリックス」という表の形に表して、考える。他のプレイヤーがどう出るか予測し、それに基づいて自分の行動を選択する。ところで相手だって、同じように自分の出方について予測している。その事も予測に組み入れて、最適な手筋を組み立てる。これがゲーム理論だ。 たとえば、有名な『囚人のジレンマ』がある。これについては以前も解説したので詳細は繰り返さないが(「ミクロな合理性を積み上げると、マクロな不合理が生まれるとき」 )、利得マトリックスを冷静に見れば、囚人達が互いに協力し合うことが全体の最適解になる。だから、かりに独房でコミュニケーションを遮断されても、協力解が選ばれるはずだと考える研究者もいる(たとえばA・ラパポートなど)。つまりこれはジレンマではない、という訳だ。
だが、このような「戦略的な最適解」が合理的に選ばれるためには、条件が二つある。一つは、各プレイヤーが現状ならびに利得マトリックスを正しく理解していること。もう一つは、どのプレイヤーも合理的に判断し行動することである。 問題は二番目だ。他のプレイヤーたちは本当に、状況に応じて『合理的に』判断するのだろうか? それはいいかえると、相手も自分と同じように知的である、と認めることだ。それはいつでも成立するのか? ゲーム理論自体はフォン・ノイマンやナッシュらによって、50年頃にそれなりに確立されていた。しかし「ゲーム理論を読みとく」(竹田茂夫・著)によると、経済学の主流に取り込まれるのは70年代以降で、それはミクロ経済学の主題が均衡論から、次第に市場の失敗や欠落などのテーマにうつったためだった。言いかえると、仮想的な「合理的経済人」が生み出すはずの市場の理想と、現実とのギャップを説明したいという関心があったからだ。 ただし、“現実の大多数の人間はバカで合理的に考えられないから”、市場メカニズムが失敗する、と説明したのでは学問的に身も蓋もない。たとえ合理的な経済人でも、情報の非対称性とか契約のインセンティブ等で、一見非合理的な行動が生じるように見える、という説明を経済学者達は求めたのだろう。
ところで、こうした説明は本当だろうか。いや、現実の人間にはおバカさん達がたくさんいるかどうか、という意味ではない(あいにくその点は疑いの余地がない)。そうではなくて、合理的で頭の良い人間は、同じように頭の良い他人から予測可能か、という問題だ。こういうシチュエーションなら、こういう選択肢をとるはずだ、とか、こういう利益を期待するなら、こんな行動するはずだ——なぜなら自分が相手の立場なら、そうするはずだから、といった推測が、正しいかどうかである。 麻雀に「迷彩」という戦法がある。麻雀は1巡ごとに山から牌をとり、自分の手の中から不要な牌を捨てていく。不要とは、他と関連性の薄そうな牌だ。だから捨て牌を見ると、相手が何を狙っているのか、推測が可能になる。ところが「迷彩」を好む打ち手は、わざと重要そうな、普通だったら他と関連しそうな牌も(おそらく先に役だたたないだろうと早い段階で見切って)捨てていく。雀豪として有名だった作家・五味康祐などが、こういう打ち手だった。 もっと別の例を挙げてもいい。徳川家康である。関ヶ原の合戦で西軍を打ち破り、天下の覇権を手に入れたのは西暦1600年9月15日のことだった。彼はその年の6月、大阪にいたのだが、会津若松に封じた上杉景勝が謀反を企てているので鎮圧する、といって軍を集めて出兵する。しかし、彼の軍勢が今の栃木県小山に達したときに、「石田三成が西軍を結成して挙兵」ときき、兵をかえして西国に向かう(小山評定)。 しかし、会津征伐は彼の本当の意図だったのか? 家康が京都・伏見城を出てから小山まで進軍したのは38日後だった。大軍を動かすにせよ、この遅さは奇妙である。彼は伏見を留守にすることによって、三成の挙兵をわざと誘い出したのではないか? そもそも家康は、行動が予測しにくい人物だった。秀吉は最晩年、自分の死後に「大名間で勝手に婚姻を結んではならない」と命じ、家康からも誓約書まで取っていたのに、勝手に娘や養女を次々と有力大名に嫁がせた。伏見城だって、勝手に上がり込んで陣取ったのに等しかった。口先ではYESといいながら、行動では平気でNOを示す。そういう人物だった。
家康のようなやり方は、もちろんリスクがある。会津につく前に、三成が挙兵しなかったらどうなるのか。秀吉との誓約破りで、せっかく自分が組んだ姻戚関係が関係者の反対で破談になったら、どうするのか。ある意味、バクチである。その点は麻雀の迷彩戦法も同じで、重要な牌を先に切ったら、あとから関連する牌が来ることもよくある。だが彼らは、そのコストは承知の上で、「相手から読まれない」ことを選んでいるのである。 合理的で頭が良いことは、結構なことだ。そういう人は多くの場合、自分の頭の良さに自負を持っている。他人から、「あの人は頭が良い」と評価されたいという、承認欲求を抱いている。そして他人も同様だと信じている。 しかし世の中には、「頭が良い」と評価されるより、「何を考えてるのか分からない」と思われる方を、わざと選ぶ人間もいるのだ。そういう人間を見て、頭の良い人たちは「あいつは合理的でもないし、一貫性もないし、頭が悪いんだ」と思い込んでしまう。そして結果として、相手の術中にはまってしまう。いや、たとえそうでなくても、自分は平凡な頭の持ち主だと思っている普通の人は、こうした「頭の良さに自信を持っているエリート」の鼻持ちならさに、口には出さぬ反感(わたしが「新・本音主義」と名付けた態度)を持っていることを忘れるべきではない。 冒頭に上げた二人の人物、エルズバーグとキッシンジャーは、奇しくも同じ一昨年(2023年)に世を去った。あまり公にはされていないが、キッシンジャーは最晩年、大統領選挙中だったドナルド・トランプにフロリダで会っていた可能性がある。だとしたら彼は何をアドバイスしたのか。エルズバーグから学んだ、威圧の戦略だろうか? 第2期目のトランプが、第1期にまして予測不能なのは、そのためだろうか? もちろんこれは憶測に過ぎない。「トランプは馬鹿だ」という論者は、右にも左にも多い。だが、トランプが「予測不可能であることを意図して選んでいる」と考える人間は滅多にいない。彼は馬鹿だからそんな知恵は無いって? それならそれで良い。だが、自分が理解できない者を、自分よりバカだと簡単に断じるのは、とても危険なのである。それは事実というより、願望かもしれないからだ。そして歴史を見る限り、頭の良いはずの人間が、その自負ゆえに自ら罠にはまった例を、わたし達はいやというほど見てきたのだから。 <関連エントリ> 「ミクロな合理性を積み上げると、マクロな不合理が生まれるとき」 https://brevis.exblog.jp/29393150/ (2021-01-31) 「新しい第3の分断 〜 建前社会の疲弊と、新・本音主義の登場」 https://brevis.exblog.jp/33717891/ (2025-07-12)
by Tomoichi_Sato
| 2025-08-24 22:53
| F2 社会・言語・文化
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