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考える技法——ディスクリートな思考方法について

  • 「考えること」について考えてみる

「佐藤さんは何も考えずにぼんやりしてる事なんか、ないんでしょ?」と言われたことがある。そうかな? 確かに、そうかもしれない。いつも、何か考えている。まあ最近は、マインドフルネスないし座禅まがいのことをしているので、その間は何も考えない・・と言いたいところだが、実は「何も考えない」のは、やってみるととても難しい。わたし達の脳は、ちょっとしたきっかけで思考のドリフトが始まるように作られているらしい。

ともあれ、わたしは、考え事が好きだ。趣味だと言ってもいい。何を考えているかって? まあ、いろいろ。とても抽象的な問題から、今夜のおかずまで。ビジネスのことから、趣味のことまで。でも具体的で直近のことより、抽象的な問題のことが多い。その同じ問題を、繰返しくりかえし考え続けている。時々、ちょっとだけ気づきがあって、少し前進する。

例えばこの、「考える技法とはどのようなものか」も、そうした問題の一つだ。抽象的だ。ちゃんと答えがあるんだかないんだか、分からない。でも考えると少しは、役に立つ。

さて、経営企画部門に移って10年以上たつが、経営計画だの戦略だのといった名札のついたサブジェクトについて、社内外の人と意見交換するうちに、気がついたことがある。それは自分と、世間の人たちの考え方や問題意識が、ずいぶん違うことだ。「なぜ、世の中の人は、こんな考え方をするのだろう?」と、よく思った。

しかし最近、問題の立て方が逆であることに気がついた。むしろ問うべきは、「自分はなぜ、世の中の人のように考えることができないのか?」なのだった。自分が世間の人のように考えられたら、コミュニケーションが通じて楽なのになあ。でも、もしかするとそれは、ディスクリートな思考方法をめぐる違いなのかもしれない、と。


  • 化学はディスクリート

きっかけは、ある会合でご一緒した東大名誉教授の幸田清一郎先生が、とても興味深い発言をされるのを聞いたときだ。「化学はディスクリートだ」という言葉が、それだ。これは物理学と化学を対比した文脈の中での発言だったと記憶する。ちなみに幸田先生は化学反応速度論の研究で知られる専門家で、前回の 書評記事で書いた「西村肇さんを忍ぶ会」にも来られていた。

化学がディスクリートだとは、具体的にどういう意味か。例えば酸素という元素がある。原子番号は8、原子量16。その直前の原子番号7は窒素で、原子量14。わたし達が毎日呼吸している空気は、この酸素と窒素が大体1対4の割合で混ざっている。

ところで、両者の性質は相当に違う。窒素は不活性で、あまり他の物質と常温では化合しない。ところが酸素は活性が高く、多数の物質と結びつき酸化してしまう働きを持ってる。原子量や原子番号がすぐ隣だからと言って、窒素の性質から酸素の性質を推測することができない。両者は極めて独立しているのだ。離散的と言っても良い。 これを幸田先生は『ディスクリート』と形容されたのだ。

これを聞いてようやく、わたしはずっと化学が苦手だった理由が分かった。わたしは化学工学科の修士を出て、化学システム工学科というところで学位をとった。だが化学は大の苦手なのだ。大学の入試では理科から2科目を選択する必要があり、物理と化学を選択したが、化学は白紙答案だった(正確に言うと、「リービッヒ・コンデンサー」という器具の名前だけは知っていたので書けた)。他の問題は解こうとすらしなかった。全部の時間は物理にあてて、最後の1問を除きすべて正解だったと思っている。

入学後もずっと化学は苦手だった。化学工学の修士課程の入試を受けるために、わたしは旺文社から出ていた高校生用の参考書をやむなく読んだくらいだ。なぜ苦手だったか。それは、推測がきかないからだ。

物理の世界では、物事は連続している。手を離して落下する物体は、距離= 4.9 x (時間)^2 の式に従って、落ちていく。2秒後と2.5秒後と3秒後の位置は、互いに関係し合っており、3.5秒後の位置も、3秒の状態から推測可能だ。だが、化学はこうはいかない。幸田先生が指摘したように、事物はディスクリートであって、窒素から酸素を推測することができない。だから、全部、暗記して覚えるしかない。わたしは暗記が大嫌いなのだった。


  • ディスクリートな思考方法は、どこが違うのか?

わたしの頭の中では、いろいろなものは、つながりあって存在している。そして互いに影響し合っている。また近隣との関係から、多少の推測ができる。比較的、相似している。しかし、ディスクリートな思考方法の頭の中では、そうではない。酸素は酸素、窒素は窒素。別の名札で、別の代物だ。英国は英国、フランスはフランス、言語も文化も全然違うね、ということになる。そりゃまあ、そうだ。

ディスクリートな思考方法の人たちを見ていると、物事は個別に独立して存在している。だから独立に、弁別や対応や解決が可能だ。AならばB、CするにはD。活気あるオフィスを作りたい。じゃあフリーアドレス制を推進しよう。プロジェクトがなんだかギクシャクしている。それはコミュニケーションが良くないからだ。成果物の品質が今ひとつだ。では検査とレビューを徹底すべきだ。そういう論理になっている。

スマート工場を実現する? じゃあ、AI/IoTを現場に導入すればいい。・・こんな風に考えられたら、楽だろうなあ。少なくとも、セールスにはとっても有利だろう。わたしみたいに、スマート工場にはMESが必須だ、なんて言ってたら商売のハードルが高くて、たまらないからだ。

納期遅れが生じている。それはスケジューリング・マネジメントができてないからだ。現場が余分なモノであふれかえっている。それはマテリアル・マネジメントが不足しているからだ・・・製造現場の2つの事象が、実は「リトルの法則」を通じてつながり合っている、などと言う事は気がつきないし、興味もない。ディスクリート思考の人たちにとって、品質QとコストCと納期Dとが、トリレンマ状態にあるなんて、当然理解の外にある。

ディスクリートな思考方法の特徴は、クローズアップと分析指向である。物事を把握し理解するには、近づいて細部をよく見ることが大切だ。細部はそれぞれ独立している。だからディスクリートな思考方法では、物事は階層的な分類、ツリー構造になりやすい。


  • ディスクリート思考とマネジメント

このようなディスクリートな思考方法には、利点がある。それは、素早く判断し、割り切りによって、余計な枝葉を切り捨てていくのに適している点だ。また、分解・分類指向だから、複雑な対象を、分担・分業化して行くのにも向いている。したがって、忙しいマネジメント職にある人間には、とても有用である。

AならばB、ということは、ルール化しやすい事も意味している。これは単なる想像だが、法学部的思考とは、かなりディスクリートな思考方法なのではないか。法学的には、窒素を見て酸素を推測する必要は、さほどあるまい。

逆に、この種の思考方法の弱点とは何だろうか? それは、端的に言うと『シナジー』という現象が出てこないことである。だって、個物は互いに独立しているのだ。部分の総和が全体である。すべては分類・分業と足し算で出来上がっている。人や組織間に関係があるとしたら、経済的ないし法的関係に過ぎない。これこそ、多くのマネージャー達が陥りがちな、思考習慣に違いない。

わたし達の社会ではペーパーテストが幅をきかせているが、それはディスクリートな思考方法が(その人の記憶力さえ良ければ)向いている。難関を突破した優秀な人たちが、マネージャー職についていく。そしてシナジー=協力という無形の価値を、見ようとしない人たちが社会を引っ張っていく。

では、ディスクリートではない思考方法とは、どのようなものか? 離散の反対概念は連続だから、「コンティニュアス思考」だろうか? いや、なんだか違うような気もする。物事のつながり、関係性を主に見ていく思考方法だとしたら、「システム思考」と呼んでも良さそうだが、どうも使い古されて、しかも実体の乏しい用語に思える。

では、どういう呼び方が良いだろうか。そして、そのような思考方法のコアの部分とは、どういうものだろうか? ――そう、まさにわたしはこういう問題を、いつも考え続けているのである。


<関連エントリ>
「頭が良くなる方法は存在するか」 https://brevis.exblog.jp/29770031/ (2021-12-05)
「知能は決断のためにある」 https://brevis.exblog.jp/33621835/ (2025-05-03)


by Tomoichi_Sato | 2025-05-30 20:52 | 思考とモデリング | Comments(0)
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