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書評:「ゲノム医学入門」西村肇・著


ゲノム医学入門」 西村肇・著(Amazon)

名著である。ずいぶん前に著者から拝領したのだが、前半少し読んだだけで本棚に置いたままにしていた。ゲノム(分子生物学)と医学の本だから、自分の専門とはあまりにかけ離れていて、読んでも分からないだろうと思っていたのだ。しかし今回、機会があったのであらためて手に取り、全部を読み通して、自分の不明を恥じた。これは、自分の身体や生物学に多少の関心があり、病気の治療のあり方がどの方向に進むかを理解したい人すべてにお勧めできる書物だ。いや、医学には無縁でも、システム工学に関心がある人はぜひ、読むべきだ。高度な前提知識はいらない。そして文章も構成も上手く、面白い。

ところで、上述した「機会」とは何か。じつは、さる4月12日、東大本郷キャンパス山上会館で、故・西村肇東大名誉教授を「偲ぶ会」が行われた。昨年11月に91歳の天寿を全うされた故人の遺徳を慕って、全国各地から弟子達(多くは現役の大学教授ないし名誉教授だったが、わたしのような実務界の人間も含む)が参集した。わたしは幹事の一人として開会の挨拶をすることになり、そのために改めて著書を再訪したという次第である。

ちなみに偲ぶ会では、皆が故人を「西村先生」ではなく「西村さん」と呼んでいた。教員になった若い頃から、対等な「さん」づけを好み、「先生」と呼んだ人からは100円の罰金を取る、という研究室のポリシーがあったからである。

西村さんの大学人としてのキャリアは、大きく3つの時期に分かれる。最初は、東大の機械工学を卒業し、化学工学で修士をとってから、航空宇宙研究所で博士号を取得し、化学工学科に呼び戻されて、初期のプロセスシステム工学を確立するまでの第一期。その後、東大紛争を転機として公害と環境の研究に転じた、第二期。そして東大から公害の研究を事実上禁止され、バイオテクノロジーと生命工学の研究分野を新たに切り開いた第三期。それぞれ、ざっくりと10年くらいずつの期間である。

(ちなみに東大から公害の研究を禁止され、地方大学に追い出されそうになった時のいきさつは、最後の著書「気品あるアタマと冒険ある実践」 に記されている。ただし、この事件のあった当時は研究室の誰にも告げることができず、弟子達は、“なぜだか分からないが方向性の急カーブを切っている”と感じていた)

本書「ゲノム医学入門」は定年退官後しばらくたった2003年の発刊で、内容としては第三期の仕事の系譜に属する。『医学入門』とタイトルにあるが、著者は無論、医学者ではない。東大工学部で初めてバイオテクノロジーの研究の先駆けとなり、数年間で雑誌Natureに論文を載せるまでになったが、工学博士である。ではなぜ、彼はこんな本を書くことを思い立ったのか?

それは西村肇という学者が、終始一貫して、システム工学の人だったからである。東大に、『システム工学科』という学科はない。ずっと無かった(システムという言葉が入っている学科はあるが)。東大とは、国の文部科学行政の考え方を映す鏡だ。だから日本では、システム工学という学問は正式に認知されていない、という事が分かる。仮にもしもそれが確立されていたら、西村さんは確実にそのリーダーのひとりだったろう。

そして本書は、人間を対象とした医学という分野を、システム工学の観点から分析したら、こんな見取り図になるという、類例のない解説書である。医学はもちろん、数千年にわたる長い歴史をもつ学問であり、また実技の体系でもある。ただゲノム解析という革新的な道具を手にしたのは、20世紀も終わり近くになってからだった。それは医学の考え方も、医薬品のあり方も、根本から変革する力を持っている。著者の言い方を借りれば、それは「医学がエンジニアリングになる」事である。

だが、そうした医学の重要な変革を、大所高所から(もう少し戦略用語を使うなら「管制高地から」)記述した本は、内外にほとんど無かった。なぜ、戦略用語を使うか。それは西村肇という人が、学者として極めて優れた戦略家だったからである。良い学者・研究者に必要な資質はいろいろとあるが、戦略性は優れた業績を上げるための必須の能力である。戦略性とは何をターゲットにどのようなルートからアプローチすべきかを、長い射程距離から考え、順に決めて進んでいく力である。そのことは初期のプロセスシステム工学でも、中期の公害研究(たとえば柳沢幸雄氏と進めた大気汚染研究など)でも、遺憾なく発揮された。

その医学のシステム工学的な見取り図として、本書では具体的に、肥満症・糖尿病・ガン・アルツハイマー病・スキゾフレニア(統合失調症)が取り上げられる。序章として「ヒトゲノム解析」の経緯と意義が語られ、最終章は「全体像をつかもう」となっている。

システム工学的な見取り図とはどんなものか。著者は「遠景・近景・拡大図」という言葉を使って、それを説明する。具体例を挙げた方がわかりやすいと思うので、第3章から「図3-1 化学プロセスとしての糖尿病」を見てみよう。
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(西村肇「ゲノム医学入門」日本評論社(2003)・第3章 P.55より引用)

これは人間が糖尿病の状態に陥るかどうかを決める、物質と情報の流れを記したフロー図である(化学エンジニアならば、Process Flow Diagram = PFDと呼ぶだろう)。無論、ここには定性的な関係があるだけで定量的な記載は無いし、腸と筋肉と脂肪組織など、本来は同じレベルにならない要素が並んでいる(著者はそれを承知で、わかりやすさのために描いている)。

だが個別の要素、たとえば脂肪組織を見ると、それはグルコース(ブドウ糖)をインプットとして受け入れ、それが脂肪というアウトプット、遊離脂肪酸という副生物、さらに発熱というエネルギーに変換することが分かる。またグルコースの受け入れには、インスリンがコントローラー信号として関与している。

糖尿病とは血液中のグルコース濃度(=血糖値)が、正常範囲を超えて上がる状態を言う。それが起きるメカニズムを知るためには、グルコースの身体の中での物質収支を考えれば分かる。その物質収支に主に関与する要素が、この見取り図の中に表現されているのだ。治療のためには、脂肪組織をはじめとする各要素における生化学反応と、それを左右する酵素(触媒作用を持つタンパク質)の近景を見ていく。そして酵素はゲノムの中に、遺伝子でコーディングされているから、ゲノム配列の拡大図を手がかりに、分子レベルで医薬品をデザインしていく。これが「エンジニアリングとしての医学」である。

この糖尿病の見取り図や、近景・拡大図を把握するために、著者が典拠とするのは、生命科学系で最高峰の学術誌Natureの、総合レビュー記事である。そして一つ一つ、原典の論文に当たって、そのポイントを確かめていく。ここら辺が、いかにも学者らしい仕事ぶりである(最高の学術誌、総合レビュー、原著論文の代わりに、手近の資料の孫引きで済ませる自称「専門家」はいくらでもいる)。そして、それぞれの病気について何が分かっていて、どこが分かっていないか、今後のアプローチはどこが重要か、などを説明していくのである。

本書は、日本評論社の雑誌「からだの科学」(現在は休刊)に連載された記事をもとに書き直したものである。日本評論社は「数学セミナー」「法学セミナー」など専門的で硬派な雑誌・書籍を出版する会社で、「からだの科学」誌は、難解になりがちな医学知識をわかりやすく、かつできるだけ正確に読者に伝えることを目的とした医学教養誌であった。このため本書は、臨床の現場に働く医師や医療従事者(ただしアカデミックな論文などは追いかける時間の無い人たち)を主なターゲット読者層として、書かれている。しかし、そのおかげで医学に素人である人間にとっても、ある程度の理系的なバックグラウンドさえあれば理解できる入門書に仕上がっている。

本書では肥満・糖尿病からはじまり、ついでガンと、それに重要な役割を果たすガン抑制遺伝子p53に1章ずつを割いている。ガンが医学にとって重要な戦略対象である上に、著者が99年に出版した「見えてきたガンの正体」 (ちくま新書)の続きに位置づけられるから、ある意味当然とも言えよう。

本書の後半部分は、しだいに精神医学の領域にシフトしていく。まず、アルツハイマー病。それからスキゾフレニア(今は「統合失調症」と呼ばれるが、英語の語義は「精神分裂病」なので、著者はあえてカタカナ語を使っている)。そして精神障害とドーパミンを取り上げる。じつはこちらの分野の方が、ミクロ(分子レベル)にもマクロ(症状レベル)にも、未解決の領域が多い。そのため「エンジニアリングの医学」の姿も、やや茫漠としがちだ。

ではなぜ、著者はこの領域を取り上げたのか。脳科学に興味があったから? むろん興味はあっただろうが、戦略家の西村さんは、決して自分の知的好奇心だけで研究領域を決めたりは、しない。そこが彼と凡百のアカデミシャンとの違いなのだ。彼にとって、何か、重要な動機があったはずだ。

それは実は、水俣病の問題だったのではないか、というのが、わたしの推測だ。学者・西村肇の出世作が「化学プロセス工学」 だったとすれば、彼の後年の最高峰の仕事は、毎日出版文化賞を受賞した「水俣病の科学」 だった。東大で禁止された公害研究を引退後に独立研究者として進め、メチル水銀の発生プロセスと蓄積の機序を解明した本書は、会心の仕事だったはずだ。それでも、なぜメチル水銀が患者の精神までダメージを与えるかまでは、分かっていない。そこを何とか、解明したかったのではないか。

毎日出版文化賞は、じつは著者だけでなく、その出版社に対しても贈られる賞だ。わたしは西村さんの受賞記念講演を、今は亡き経営コンサルタント・今北純一さんと一緒に聴きに行った。水俣病の本を出してくれる出版社を、西村さんはいろいろと探した(東大出版会にも打診したが断られたという)。そして、最後に引き受けてくれたのが日本評論社だった。担当した編集者は黒田敏正氏。そう、雑誌「からだの科学」編集長で、後に同社の社長になった方だ。

だから日本評論社のためにも、西村さんは受賞をたいへん喜んだ。本書を同社から出したのも、その関係があったからに違いない。そして何よりも、将来の医学が、水俣病の残された謎を解決してくれるのを願ったのではなかったろうか?

西村肇さんは現役時代・引退後を通して、たくさん本を書いた学者だった。その多数の著書の中で、小宮山宏・前東大総長は、同じ化学工学科で西村さんの同僚だったが、本書をもっとも高く評価したときく。それだけ面白い本なのだ。せめて今からでも多くの方が手に取られることを強く望む。


by Tomoichi_Sato | 2025-05-19 19:21 | G 書評 | Comments(0)
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