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情報の裏目読みをする人のために

  • 陰謀論の哲学

昨年、編集者の若林恵氏が哲学者・岡本裕一朗氏を講師に迎えて企画した、『陰謀論の哲学』 という全6回のレクチャー・シリーズを聴講した。ちょうど米国大統領選挙でトランプが(接戦だというマスコミの予想報道にもかかわらず)勝った時期でもあり、タイムリーな企画だったと思う。

岡本氏の講義も、学者らしく様々な知られざる知識がちりばめられていて、なかなか面白かった。ユダヤ人陰謀説の定番「シオンの議定書」なる偽書が、いかにフランス駐在のロシア秘密警察と関係していたか、とか、『アメリカの反知性主義』のホフスタッターが、50年代のマッカーシズムの熱狂への反省・批判として、パラノイアという用語を初めて政治学で使ったとか、とても興味深い。

また、「空飛ぶ円盤」の目撃証言は世界中にあるが、国家の関与と結びつけられるのは世界中でアメリカだけだ、などは抱腹絶倒の指摘だった。陰謀論って何やら、アメリカが本場でありメッカであるらしい。


  • 陰謀論と陰謀論者

岡本氏は、「陰謀=秘密の共同謀議」と定義する。これは妥当なところだろう。その上で、陰謀論をいくつかのレベルに分けて論じていくのだが、正直いささか判りにくい。そこで以下は、岡本氏の文脈とは離れて、わたしが聞いて考え感じたことを、備忘録として書いていきたい。

まず、個別の事件に共同謀議の関与を疑うことと、一群の事件の背後に(あるいはほとんど森羅万象に)共通した謀議の存在を信じることは違う。後者の段階にまで進んだ人間だけを、『陰謀論者』と呼んで区別すべきだろう。

ケネディ大統領の暗殺はオズワルドの単独犯行だった、と信じているアメリカ人が一体どれだけいるのかは、知らない。だが、あの事件の背後にはもっと何かあったのではないか、と疑う人を全員、陰謀論者よばわりするのは、いささか不適切だろう。同時に、陰謀論に関する議論が急増するのが、'64年のケネディ事件の前後からだ、という岡本氏の指摘は重要で、たしかに世の中の何らかのターニング・ポイントが、あの頃あったらしいことを示唆している。

さて陰謀論者は、世の中の大きな事件で、公式に通用している説明は嘘で、背後に別の真実がある、と考える。そして世の中の主要な情報チャネルは操作されている(少なくとも汚染されている)、真実が我々から隠蔽されている、と考えている。この「情報チャネル」が、わたしには陰謀論の理解にとって大事なポイントに思えるのだ。


  • 情報の供給ルートとしてのマス・メディア

古代から中世、近世にかけて、重要な情報と真理の供給元は宗教であった。情報自体はマーケットやバザールなどの口コミや、活版以前の印刷などでも伝えられたが、流量は限られたものだった。

近代以降、情報の供給ルートを支配してきたのはマス・メディアである。出版、新聞、ラジオ、そしてテレビだ。

マス・メディアが産業として発達した背後には、大衆社会の興隆がある。近代化と産業革命によって、大衆が「消費者」として経済の中で重要な地位を占めたからだ。産業資本は、かれら消費者への情報伝達とアピールが重要な課題となった。

商品取引には、必ず商品に関する情報伝達が付随する。商品を知らなければ、商品を買わない。そこで広告が必須となる。そして広告が産業として成長するようになる。

大衆の力が強くなったのは、近代的な戦争、とくに世界大戦以来の、国民総力戦に応じた民衆のプレゼンスによる部分もある。近世以前の騎士団・武士団による戦争の時代は、そうした特権的階級だけが軍事に関わっていた。しかし国民皆兵が導入されて以来、名も無き普通の人々が動かないと、戦争に勝てなくなった。政治権力でさえ、兵士達の声を無視できない。さらに政治的なアピールの伝達も、「選挙」という名前の、販売競争では重要である。


  • 真理の認定システム

ところで、こうしてメディアを通じて配給される情報が、本当に正しく信じるべきかどうか、受取り手の側はどう判断し対応してきたのだろうか。

かつての古き良き時代、新聞・テレビなどは「ジャーナリスト」というプロフェッショナル集団であり、その職業倫理によって行動すると信じられてきた。それが、提供する情報の客観性や真理性を裏書きしてきた。ジャーナリズムはある意味、非営利的な存在であるはずだった。

それゆえ、「新聞が書いていた」「テレビで紹介された」は、その内容が真実で信頼に足ることの保証として、受け止められてきた。つまりマス・メディアは、真理を認定するシステムでもあったのである。

メディアが発達する以前は、大学がその役割を担っていたし、今でもその名残は随所にある。「有識者」とか「知識人」とか呼ばれる人たちの、少なからぬ部分は学者、つまり大学の先生達だ。さらにもっと昔は、宗教が真理認定の役割を果たしてきたが、さすがに今日の近代社会では、その神通力は薄れている。

ともあれ、何が真理であるかを判断し裁定する権限を持つ人々を、権威者と呼び、権威者の階層的なあり方・維持の仕組みを、「権威」と呼ぶ。これらは元々、お金とか社会的権力とは、独立した存在であるはずだった。マス・メディアもまた、権威の一種としてふるまってきた。


  • 広告モデルの功罪

さて、マス・メディアを通じた情報供給は、世の権力者や産業資本にとって死活的に重要である。それらは普通、広告とプロパガンダという形で、流通する。結果として、広告からの収入は次第にマス・メディアで比重が高まる。新聞書籍など媒体の販売収入よりも、広告収入がメインになっているようなスタイルを、「広告モデル」と呼ぶ。

じつは現代のメディアのほとんどは、広告モデルで運営されている。無償で情報は提供する。その費用は、広告主が負担する。それが広告モデルだ。わたしの友人に大手雑誌編集者がいるが、最盛期には誌面の約4割が、じつはスポンサーつきの記事制作だったといっていた。

そして広告モデルはゆっくりと、マス・メディアが非営利的で独立したジャーナリズム組織である、という構図を浸食していった。出版・新聞・テレビは次第に、メディア産業という、営利企業に変身していった。日本の系列化や米国のM&Aはそれを加速した。

そしてネットの登場である。ネット時代になって、今、ほとんどのアナログ・メディア産業は「生き残りをかけた」企業戦略の構築に必死になっている。だが新聞の発行部数の驚異的な急落を見ると、その命数は尽きかけていると、言わざるを得まい。かれらが広告から独立することは、ほぼ期待できない。


  • ネットの時代の情報リテラシー・・とは?

では、今や情報チャネルの主流となったネットは、どういう世界か。インターネット初期の、誰もが最新の正しい情報にオープンにアクセスでき、自由なデジタル民主主義の実現する場だ、というカリフォルニア風な自由幻想を、今でも信じている人はどれだけいるだろうか? ネットには真偽まじえて情報が行き交っているが、偽の方がずっと比率が多い、と感じていないだろうか?

なぜなら、ネットの大手プラットフォーマー達も、じつは大多数が広告モデルで動いているからである。我々が旧マス・メディアの代わりに情報世界への窓口として使っているSNSやネット・メディアも、実は広告によって汚染されている。こう疑っている人が多い。

このような状況では、よく知っている少数の人とのクローズドなサークルに実名で閉じこもるか、逆に匿名空間でフェイクなアイデンティティを作って活動するか、といった行動の二極化が起こりやすくなる。前者はホンネと感情沼の世界、後者は見栄とハッタリの世界。どちらも平安を得にくく、精神衛生によくない。

昔と違い、情報は無料で好きなだけ手に入れることができる。わたし達は情報を、その真実性や重要性でなく、直感的な好き嫌いで選ぶようになった。好きな情報は、そのまま鵜呑みにし、好きでない情報は怪しい手形のように割り引いて読む。そんなふうに2極化しがちだ。知的な人は情報リテラシーが高い、といった論議もあるが、それほど単純ではあるまい。


  • わたし達の精神衛生のために

いわゆる極端な陰謀論のどこが問題か。実は、その真偽ではない。あらゆる事件の背後にCIAとかユダヤ人とか宇宙人とかがいると言う説明は、真偽を決めがたい。実証もできず、反証もできないように構成されているからだ。

問題は、それが正しいかどうかではない。それが精神の健康に悪いことだ。あらゆることを説明できすぎる「万物理論」の問題が、そこにある。全てが都合よく説明可能な世界では、逆にわたし達の関与できる割合が少なくなっていく。そうした自由度の小さい中で、わたし達は精神の平衡を保つのが困難になっていくのだ。

疑う事は、それ自体は健全である。教科書を鵜呑みにしすぎる人は、マネージャーには向かないと、このサイトでは何度も書いている。だが、疑わしく真偽を決められない仮説が増えすぎると、わたし達の脳はポテンシャル不安定な状態に陥りやすい。正しいか間違っているかをさっさと決めて、早くポテンシャルの低い安定・安心状態に戻りたいのだ。情報型の社会では、特にそうなる。

多分わたし達は、そうした不安定さにある程度耐える能力を、得なければいけない。「耐えて考え続ける」能力だ。それには訓練がいる。本当は、そうした訓練を高等教育が提供するはずだが、むしろ正解を鵜呑みにすることが求められるのは残念だ。考える訓練のために、安心して議論できる場。それが今、必要とされている。そしてどうしたら作れるのか、ずっと考え続けている。


<関連エントリ>
「おじさん的議論に負けないために」 https://brevis.exblog.jp/30189360/ (2022-12-05)
「問題解決への出発点とは」 https://brevis.exblog.jp/30196826/ (2022-12-14)




by Tomoichi_Sato | 2025-02-01 09:57 | 考えるヒント | Comments(0)
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