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決断する役割、指示する役割

  • 日本のオーケストラの特徴について


あるとき、日本のオーケストラに関する文章を読んでいたら、高名な音楽家バーンスタインのこんな発言にぶつかった。


「このオーケストラ(N響)のことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」

(大友直人「あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ ~ バーンスタイン氏の痛烈なひと言」 )


著者の大友直人氏は指揮者で、若い頃にバーンスタインから直接聞いた発言として書いている。セイジとは故・小澤征爾のことで、彼はバーンスタインの助手だったが、N響とトラブルを起こしたことがあり、だからこういう大げさな言い方をしたのだ、と推測している。つまり、大友氏はバーンスタインの批判に同意していない訳だ。


そうなのかもしれない。だが、別のところで、作曲家の久石譲氏がよく似たようなことを言っていた。久石譲氏は日本では特にジブリの映画音楽で知られているが、指揮者でもある。彼によると、海外のオーケストラに比べて、日本の楽団は非常に気をつかう。指揮者として単純に指示を出せず、「お願い」しないといけない、というのだ(別に特定の楽団を指している訳ではないらしい)。


もっとも直接本人から聞いた訳ではなく、伝聞である。しかも久石譲という人は、日本のクラシック音楽業界の感覚では、すいぶんとカーストが低い人だから、オケが軽く見てあまり言うことを聞かない、という可能性だって、ありそうだ。さそうあきらのマンガ「マエストロ」 でも、第一バイオリン奏者が怪しげな指揮者を警戒して言うではないか。「指揮者はオーケストラの敵だねっ。」・・でもまあ、外国人指揮者、それこそバーンスタインとかカラヤンとかだったら、ごく忠実に指示に従うのかもしれない。



  • 言うことを聞いてくれない現場


だが、日本の楽団に関するこうした話を聞いて、なぜかわたしは工場での着手完了入力のことを思い出した。ご存じの通り、工場には複数の工程や設備が並んでおり、部品の加工や組立ては、それら一連の作業を通って、製品として完成される。


顧客から受注した製品の納期をたずねられたら、それを構成する部品群が、それぞれ工場のどこの工程まで進んでいるかを把握しなければならない。従来のアナログな工場では、加工対象の現物と、それに添付して流れる紙の現品票だけが、進捗管理の頼りだった。だから生産管理担当者は、現場をあちこち駆け回って、部品の所在と進度を確認する必要があった。こういう仕事だけを専門にやる「進捗追っかけマン」職種のいる工場だって存在する。


ところがバーコードやRFIDの普及は、この消耗で生産性に寄与しない仕事を、不要にすることができる。現品票にバーコードを印字したりRFIDを添付しておき、各工程では、作業担当者が着手時と完了時に、バーコードリーダやRFIDリーダで、それをスキャンすれば良い。現代の生産管理システムや工程管理パッケージ(製造実行システム=MES)には、こうした入力を受け付けるインタフェースを備えているものも多いから、各部品の進捗状況をリアルタイムで収集することができるはずである。


ところがこれが、日本の工場に限っては、なかなか実現できないのだ。まず、現場の抵抗に遭う。現場側は、「できない」理由をたくさん挙げてくる。技能員が機械を複数台持ちしている、現場に入力端末のための電源やWiFiが届かない、バーコードの汚れや破損時の対応が難しい・・


こうした事は、どれも技術的問題だ。だから技術的に取組めば、何とか解決可能である。だが本当の障害は、技術面にはない。本当の理由は、現場の人間の感情面にある。


「そんなの面倒くさい。今までは無かった作業の追加だ。そんなことをしても、ものづくりのコアの仕事の足しには1mmもならない。」そして、「なんで俺たちが、こんなオフィスから来た他部門のIT担当者の指示を聞かなくちゃならないんだ。」ーー口には出さないが、これが多くの本音であろう。


同じ日本企業に属する工場なのに、海外工場はパッケージソフトが導入できて、日本のマザー工場だけはうまく導入できない、というケースもよく聞く。その背後には、『ものづくり』という直接業務以外の、一切の間接業務を余計な仕事と感じる、一種職人的なメンタリティーがある。さらにその底流には、「よそ者に指示されたくない」という感情の流れがあるのではないか。



  • 「指示嫌い」症候群について


指示・決断は、マネジメントという仕事の中核である。『マネジメント』という言葉の一番根幹の意味は、「人に働いてもらうこと」にある。働いてもらうにあたっては、目標やプランを決め、迷いや問題が出たら決断しなければならない。とくに複数の人が働く組織で、分業が行われていたら、全体を見て指示・調整する役割が必要である。


つまりマネジメントとは、『役割』なのである。工場では生産管理担当セクションが、生産計画を決め、製造指図を出す。製造現場はそれに従って動く。生産管理が製造部の中にある会社も、部として横に独立している会社もあるが、とにかく生産管理は一種の役割である。生産管理者が現場の技能員の「上位」の地位にいる訳ではない。


ところで、生産管理の指示と、現場側の裁量のバランスは、日本では現場側に秤が傾いている。日単位の作業の着手順などは、現場側の裁量に任されるケースが、わたしの知る限り大多数である。また指示がなくても現場が自発的に作業に動くこともある。


ところが、これが海外工場となると(欧米であれアジア・中東であれ)、基本「指示されたことだけする」形になる。指示されたら、必ず従う。指示されないことは、必要に思えても、しない。労働契約も、そうなっている。作業の着手完了時にバーコードをスキャンしろ、と指示されたら、従う。「そんなの自分の仕事じゃない」とは言わない。


良し悪しを論じているのではない。また「日本だけ特殊だ」「遅れている」という話ではない。ただ、違いを述べている。そして、この違いを理解しないと、海外のやり方を取り入れるときに、気づかぬ障害が起きかねないと思って書いている。



  • 役割と地位の違い


ここから先はあまり数値的エビデンスのない定性的な話になるが、日本の組織は、自分が属する職能集団の上位者以外からの指示を、嫌うように思える。仕事のやり方は自分たちが一番よく知っている、だから外部から余計な指示はされたくない、と。


指示を聞くのは、「自分が属する職能集団」の先輩・権威者、というのがポイントである。きわめて職人的なメンタリティーかもしれない。現場の作業者は、直属のチーフ・係長・課長・・の指示ならば聞く。しかし斜め上とか外の部門からの指示は嫌う。


会社の仕事を大きく変えるような取組みは、普通、複数部門をまたがったクロス・ファンクショナルなプロジェクトになる。そうした取組みでは、上に役員クラスの責任者もいるだろうが、実質的にはリード役のキーパーソンがどこかの部署から出る。そして、他の部署から見ると、その人間は「外の人」である。


プロジェクトの決定事項は、この人からの決断・指示に見える。だから、心理的には聞きたくない。口には出さないが、意識下ではそういう感情が流れる。こうした感情こそが、「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 にも書いた、日本の製造業の問題に通底しているのではないか。


ただし、例外が二つある。一つ目は、買い手だ。買い手からの指示は、一応ちゃんと聞く。この国では(いや、どこの国でも大抵そうだが)商取引では、売り手より買い手の方が、一般に強い。権力勾配と呼んでもいい。とにかく、お客に言われたら従う(内心不満であっても)。これが、我々の社会のエートスである。


もう一つは、青い目の外人である。明治維新この方、真の本物は、海の向こうから来ることになっている。本家・本場は、西洋にある。だから彼らに従うのは、別にプライドも傷つかない。



  • 指揮者とは、どういう役割か


ところで、あなたは車を運転していて、交通整理のお巡りさんに指示されて従ったら、プライドが傷つくだろうか? そんなことはあるまい。それは別に、その警官に権力があるから、ではない。たまたまその警官は交通整理の役割をしていて、自分は運転手の役割だから、それに従ったまでだ。


つまり、指示されることとプライドが関係するのは、その指示が自分の仕事の「質」や「手間」(生産性)に関わる場合なのだ。もっと言うと、指示が仕事のスキルやプロセスに関わるときである。交差点で一時停止しても道を譲っても、それは運転の質には関わらない。製造部が生産管理セクションの指示に一応従うのも、それと同じだ。


もう一つ。交通整理のお巡りさんは、毎回変わる。固定的な関係ではない。上下関係でもない。わたし達の社会では、ほとんどの指示は「固定的な上下関係」から来る。つまり、地位だ。いわゆるタテ社会で、わたし達は地位の上下をめぐって毎日しのぎを削っている。その上下を決めるのは、仕事の質や成果だと、わたし達は思っている。それなのに、それと無関係な斜め上から指示されると、仕事の質を批判されたかのようにプライドが感じるのだ。


ここで最初のオーケストラの話に戻ろう。バーンスタインは、日本の楽団の演奏技術を批判したのではない。指示に対する体勢(スタンス)を批判したのだ。個々の演奏技術と、組織としての動きは別物である。ソロの技巧は高くても、オケ全体がバラバラでは音楽にならない。逆にアマチュアでも、一糸乱れず活き活きと演奏する姿に感動することは、よくある。


指揮者は器楽奏者に、具体的なテクニックを指示できる訳でもない。ただ、そのアウトプット(音量や音程やタイミング)の要求仕様を、伝えているだけである。全体の構造の中で必要なことを、伝えている。全体を構想して、指示を与え、形にしていくのが指揮者の仕事だからだ。指揮者は独立した専門職であって、それなりの教育と訓練を受けなければ、なれない。


そしてもちろん、指揮者はオーケストラの上司ではない。オーケストラを雇っている訳でもない。普通は任期付きの役割である。指揮者は指示し、オケは実行する役割だ。である以上、その決断と指示に従ったからと言って、演奏家=アーティストとしてのプライドが関わるだろうか?


指示と実行は、車の両輪だ。どちらが上位か下位かの問題ではない。それは役割の違いなのである。両方がそろってこそ、優れた細部と、素晴らしい全体が両立する。わたし達はそろそろ、指示・決断と上下関係とを切り離して、よりオープンな体勢(スタンス)に移行すべき時にきているのではないだろうか?



<関連エントリ>

製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 (2024-12-01)

書評:『マエストロ』 さそうあきら」 (2014-09-19)



by Tomoichi_Sato | 2025-01-16 19:32 | ビジネス | Comments(0)
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