Merry Christmas!
ビリー・ワイルダー監督の名画「アパートの鍵貸します」(1960)に、忘れがたいシーンがある。大晦日の夜、新年を待つパーティーの乱痴気騒ぎの中、午前零時が訪れ、皆が声をそろえて『蛍の光』を合唱する。日本では卒業と別れを象徴する歌だが、元はスコットランド民謡で、英米では新年に歌う習慣だ。歌い終えた企業の重役が、ふと振り向くと、連れの若い愛人(シャーリー・マクレーン)の姿が消えている。愛人としての人生に疲れていた彼女は、自分の真の望みに気づき、外に出て目的地に向かって走るのだ。 白黒の古い映画だが、映像はとても美しい。白黒の方が、なぜか観客のイマジネーションを刺激するのだろう。パーティーの様子も、彼女が走る街路も、一つ一つ鮮やかなイメージを残す。初めて見たのは、10代の終わり頃だったかと思う。映画には当時のハリウッドの職人芸が詰まっている。 監督・脚本のビリー・ワイルダーは、ウィーン生まれのユダヤ人だ。彼はナチスの迫害を逃れて、英国、そして米国へと渡る。ハリウッドでは最初不遇だったが、独特の反骨精神を洒落たウィットで包み込み、次第に人気が出て優れた作品を生み続ける。 主人公(ジャック・レモン)は、ニューヨークの生命保険の大企業組織で働く、会社員だ。彼はアメリカの強烈な競争社会で、上役達に自分のアパートの鍵を貸すことによって、金銭と栄達を得ようとしている。盛り場に近い彼の部屋を、上役達は女との密会と逢瀬の場所に使うのだ。ここら辺の偽善的で酷薄な社会の有様を、映画は皮肉を込めつつ見事に描く。 いったんは自暴自棄になって、彼の部屋での逢瀬の後に睡眠薬を飲み、自殺を図った例の若い愛人は、彼と隣室の医師のおかげで一命を取り留める。だが後ろ盾も何もない彼女にとって、生きるとは権力とお金に支配され続けることだ。その彼女が、最後に気づいた、真の望みとは何か。彼女は何を、本当の幸せだと感じたのか。
現状のAs-Isを分析して、あるべきTo-Be像を描く。そういう仕事を、社内でも社外でも続けてきた。その中で感じるのは、わたし達の社会における、「ありたい姿」を描く力の弱さである。企業も個人も、そして社会全体もそうだ。日本社会がどういう「ありたい姿」に向かっているのか、わたしにはサッパリ分からない。 わたし達は経営の流行やビジネス・トレンドに敏感だ。スマート製造だのDXだのも、流行の一種と言えよう。皆が走る方向に、自分も走り出す。ライバル企業が既にやっているというと、稟議も通りやすい。だがそれは大学受験と同じで、皆が進学するというから、自分も試験を受けるというのに等しい。成績優秀な人は医学部や法学部に行くからといって、医者や法律家になることが、自分の望みと言えるのか。 日本企業は(わたし自身の勤務先も含めて)、『顧客の望み通り』に働くのが得意である。問題を出されると、それが無理難題に近くても、なんとか技術的に解こうとする。一種のプル型、ないし受け身の能力といってもいい。その問題解決能力は一級品だ。だが、自分で課題を設定することは上手ではない。言われた通りのものを作るのは得意でも、自分から「良いもの」を提案することは、あまりない。人に褒められることは得意だが、自分の中に価値観が薄い。 だから、あえて言うが、日本のエンジニアは詳細設計は一流でも、全体に関する基本設計は凡庸だ。すぐれた基本設計のためには、「良い」ものとは何かについての、価値観が必要だからだ。 価値観とは、わたし達が何かを選ぶ際の、優先度に関する基準である。それは言語化されているかもしれないし、暗黙かもしれない。ただ、何かを決めて行動をする場合に、それは現れる。価値観を持つ人びとは、行動の選択に、ブレがない。
わたし達が何かをする場合、理由はいろいろである。息をしたり、夜眠ったりするのは本能、すなわち生理的欲求に他ならない。朝起きて職場に行ったりするのは、習慣だからかもしれない。「行きたくない」気分のときも、行かないと不利な結果が待っていると思い、無理に出かけるのは、規範やルールに基づく義務感かもしれない。ルールと言うのは、大抵罰則を伴うものだ。 本能、習慣、そして規範に続く要因として「欲求」があろう。わたし達人間には「社会的要求」というものがある。人に認められたいとか、人に勝ちたいとか、人を支配したいとか。ここで欲求段階説などに深入りするのはやめておく。ただ、「この世は所詮、色と金」と思う人は、人間は全て欲望にドライブされている、との世界観を表明しているわけだ。 そして、わたし達の欲求の充足度合いをフィードバックする信号が、感情なのである。欲求が充足されていれば、満足感や安心感を、不足していれば、不満や怒りや恐れを、脳の思考回路にフィードバックする。欲求という動因を強化する補助剤として、感情がある。 ただし人間の面白いところは、過去や未来を想像する能力があることだ。そして過去や未来の状況についても、感情を得ることができる。過去への後悔、未来への不安などが、わたし達を動かすことも多い。 将来のあるべきTo-Be像を議論していて、よく出てくる発言が「ワクワクするか」である。そ の製品、その仕事、その会社像に、ワクワクできるのか。数字だけでは人は、モチベーションを持てない。ワクワクできることが大切だ、と。それはつまり、感情を刺激する物事が必要だ、今のままでは感情的価値が足りない、といっている訳だ。
さて、望みとは何か。それは未来の状況、それも感情的な価値を持つ未来を期待することである。天気予報のように科学的で数値的だが、感情的価値を伴わない未来予測は、望みとは言わない。電車は5分遅れて到着します、というアナウンスは期待値の表明だが、感情の動きがない限り、望みではない。 人間が、自己の将来の望みに従って、現在の行動をとったり抑制したりする働きを、意思と呼ぶ。意志が強い人とは、将来のために、今の行動をコントロールできる人のことである。明日は大事な約束があるから、今夜は酒を控えよう、というのは意思の表れである。それなのに誘われたら飲みに行く人は、「意志が弱い」といわれる。 ここまでを少し整理しよう。人の行動を決める動因には、次のようなレベルがある: 本能 → 習慣 → 規範 → (社会的)欲求 → 望みにもとづく意思 目の前の欲求に条件反射的に従って行動するだけなら、下等動物だってできる。しかし「おあずけ」の芸などを見ると、犬にも意思があるらしいことが分かる。でも意思の強さは、人間の重要な特徴だ。 近頃の社会で目立つのは、『ワガママなくせに意思がはっきりしない』面倒な人たちだ。そんな顧客を、あなたも見たことはないだろうか。こういう人たちは、欲求に基づく快不快には敏感でも、自分の中に明確な望みや価値観がない。だから、何を提示されても真の満足がない。しかし自分のありたい姿に向けて、構造的に戦略的に、行動をプログラムしていくこともできない。こういう他律的な人や組織が増えると、互いの協力やアライメントが難しくなる。今の社会がバラバラで分断されがちなのも、不思議ではない。 どうして、こうなるのか。理由の一つは、わたし達が外部・社会から与えられるモノサシ、とくに競争社会での勝ち負けによって、学校時代からずっと駆り立てられてきたことにある。意味不明な受験勉強、ワケワカな出世競争、それに駆動されるうちに、自分の評価を、自分自身でなく外部に委ねてしまうようになる。自分の真の望みも価値観も、見えなくなってしまう。
では冒頭の映画の中で彼女が見つけた、自分の真の望みとは何だったのか。それは、「自分が幸せになること」だ。当たり前ではないか? そして、幸せとは感情的価値なのである。 たいていの人は、より良く生きたいと望んでいる。死のうかと考えている人でさえ、じつは「自分がより良く生きられる望み」が見えないから、そう思うのだ。ただ、「より良く」と思う事柄の内容とレベルは、人によりバラバラだ。同じ人でも時によりブレたりする。でも価値観に裏打ちされた明確な望みを抱く人ほど、強い意志を持ち、ブレが少なくなる。 価値観を持つとは言い換えるなら、お金以外の判断基準を持つことだ。お金はもちろん必要である。だが、お金は(生き延びて)幸せになるための必要条件でしかない。お金だけあっても幸せにはなれない。充分条件では無いのだ。そしてブレない人が多い社会の方が、実はお互いに住みやすい。だから、わたし達は自分の意思と望みをもって生きるべきなのだ。 ・・普通ならここで、筆を止める。でも今はクリスマスの季節だから、これはクリスマス・メッセージだから、もう少しだけ続けさせていただこう。人を動かす動因、人の望みには、本能・習慣・規範・欲求・個人の意思、の上にもう一つ、レベルがある。 それは、自分だけでなく、人類すべてが幸せになりたい、と望む事だ。人類が皆、労苦から解き放たれていつか救済される、という望みに従って動くこと。このような望みをもつのは、人類だけの特徴だろう。サルや鯨にどれほど知性があるかは知らないが、彼らが自分たちの種全体の救済を望むかは、あやしい。 もちろん、こんな望みは、全ての人がいつでも持てる訳ではない。ただ時々、歴史上にはそういう人が現れるのだ。 今から2千年ほど前、中東パレスチナの地で、弟子達と祭りの食事を囲んでいた人も、そうだった。後に「キリスト」という尊称で呼ばれることになる、ナザレ出身のイエスは、晩餐の終わりに葡萄酒の杯をとり、弟子達にいう。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯。あなた方と多くの人のために流される、新しい契約の血である」、そして「わたしを忘れないために、これを行いなさい」と。 いわれた弟子達は、何のことやら分からなかっただろう。だが彼は当時の宗教的権力との対立の中で自分の死を予感し、これが最後の晩餐となることを知っていた。生贄の血を流して誓いを立てる中東の習慣にしたがって、だから葡萄酒を自分の血に見立てたのだ。その彼の願いとは、すべての人の救いだった。 彼の望みが果たされるのかどうかは、2千年たっても不明のままだ。今のパレスチナの地を、そして地球表面のあちこちの争いを見ると、まだまだ遠い道のりに思える。彼の弟子達がおこした新宗教だって、プラスの面もマイナスの面もあったし、今もあるだろう。 だが一つだけ確かなことがある。自分の栄達や利益でなく、他者を助けて和解しようとする意思は、死のうとした人をも再び立ち上がらせ歩かせることができるのだ。それは、映画の主人公が示したとおり、彼が最後に取り戻したアパートの鍵と同様、人生への鍵なのだ。 ![]() <関連エントリ> 「意思を持つために――未来はわたし達の意思がつくる」 https://brevis.exblog.jp/30153969/ (2022-10-25)
by Tomoichi_Sato
| 2024-12-22 12:27
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