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『それ』は本当に、不要不急なのか

徹底して現世的な人には、現世のことがよくわからないものだ。——わたしの好きな、G・K・チェスタートンの言葉である。

現世という言葉の反対概念は、来世だ。「現世的」とは、つまり来世など一切信じない態度を言う。

現代日本で、来世だとか生まれ変わりとかを真剣に信じている人は、それほど多くないと思う。 そういう意味で、今の日本はとても現世的だと言える。そして100年前のイギリス、チェスタートンが生きていた最盛期の大英帝国も、実はそうだった。英国はキリスト教国ということになっているが、真剣に宗教を信じている人は減りつつあり、特にそれはお金持ちや支配階層において顕著だと、彼は洞察していた。

当時、キリスト教の権威が揺らいでいたのは事実だ。ダーウィンの進化論や近代天文学の発展により、神と地球を中心とした世界像は、次第に相対化されるようになっていった。

しかし、それよりも、急速に拡大する資本主義が、現世主義を加速していた。日曜日になるとブルジョア達は着飾って、教会の上席に連なって説教を聞くが、それは農民や労働者階級に範を垂れるためで、もはや敬虔さのためではない。そんな風に、チェスタートンは傑作中編小説「孔雀の樹」(『裏切りの塔』 収録)で皮肉っている。

勃興するブルジョア階級が何よりも求めたのは、金銭と権力であった。英国にはいまだに貴族制度が残っているが、この時代すでに、爵位は事実上、お金で手に入った。だから地位や名誉は、買うことができる。英国では資本と経営が早くから分離され、金融制度も発達していたから、金融資産を持っている人間は、企業の経営者に命令することができた。つまり人を動かす権力を持っているのだ。

ところで、普通の庶民の生活を考えると、そこには様々な苦労がある。災害もあり、疾病もあり、貧困もあり、そして世の不正もある。愛憎や孤独の苦しみもある。これらはすべて、その本人のせいなのか。もしそうでないなら、神の見えざる大きな力によって、この世の不公正、秤の傾きを正す時が来るのではないか。せめて自分の魂は、善行や友愛の代償として、救いが得られるのではないか。そう考える人たちがいたって、不思議ではない。

現世的とは、金銭と権力が、この世ではすべてだ、と考える傾向である。だって、お金と権力こそ、あの世に持っていけない最大のものだからだ。

ただ、普通に働く人たちの中には、金銭万能の現世的な思考だけでは納得できない者も、数多く存在する。一応、民主制の下で社会が動く英国では、彼らの意見も無視することはできない。だから、徹底して現世的な人には、現世のことがよく理解できない、とチェスタートンは言ったのだ。


コロナウイルス禍による都市封鎖がはじまって以来、もう4年経つ。封鎖の緊急事態は1年前に終わったが、あの3年間は何だったのか。わたし達が得た教訓は、何があったのか。

都市封鎖の初期、『不要不急』な移動や行動は、かたく忌避され、「自粛」を強要された。わたしの息子は2020年の秋に、結婚式を挙げたのだが、それは緊急事態と次の緊急事態の間、ちょうど梅雨のつかの間の晴れのような短い時期に、奇跡的に開催できたのだった。しかしその時期、ほとんどのカップルは自分たちの結婚を祝ってもらう事さえ、ろくにできなかった。婚礼の儀式など、不要不急という訳だ。

息子夫婦に子供が生まれたときも、わたし達はまだ病院に面会に行くことすらできなかった。でも、それはまあ、まだいい方だ。世の中には、最愛の人に先立たれながら、コロナ感染の理由で見送ることさえ許されなかった人たちが、本当に大勢いたのだから。

あの頃、ドイツZDFのニュースを見ていたら、イタリアの都市封鎖の状況をレポーターが紹介して、「イタリア人が大切にする三つのもの、すなわち家族と、宗教と、美味しい食事を、都市封鎖が痛打した」と報じていた。そう。親しい人の交流、集まって祈ること、そして新鮮で豊富な食事を皆で楽しむことが、すべて禁じられたのだった。

ヨーロッパの都市封鎖に比べて、この国の行動制限は多少緩やかだったと言ってもいい。ただ、そこに登場したのが『不要不急』という言葉だった。では、いったい不要不急とは何なのか。

わたし達の社会において、不要不急とは、生存に直接関係のない事だ。わたしのささやかな趣味は、合唱・音楽だが、それは不要不急に類別された。集まって皆で歌を歌うなど、言語道断という訳だ。

他方、食べる事、雨風をしのいで眠る事、衣服をまとう事、つまり衣食住は、一応必要なものとされた。食料生産と輸送、建設工事、衣類リネンの製造は(たとえそれが意味不明なマスクであっても)継続推進された。そしてエネルギー、電力、水などの供給を行うユーティリティ産業も、社会の必要品とされた。

もちろん衣食住と言っても、あまり贅沢な住居や華美な衣服は、不要不急と見なされる。つまりそこには、程度の差があるらしい。最低限のものなら、許される。贅沢はダメ。なんだか江戸時代の倹約令みたいだ。あるいは隣近所にある共産主義国みたいだと言ったら、皮肉に過ぎるだろうか?

別の言い方をしよう。生存の要を満たし、社会の利便性を支え、生産活動に直接寄与するもの。それが要で急なるものだ。そして、美とか遊びとか、あるいは儀式や祈りとか、人間の感情的・感覚的要求を満たすに過ぎないものは、「不要不急」のラベルを貼られる。これが、わたし達の社会の価値観である。

新著『ITって、何?』で、わたしは文明と文化について、次のような意味の定義を紹介した:

  • 文明とは人間に、生存への必要と利便性を与える
  • そして文化とは、人間にアイデンティティ(生きる意味)を与える

『ITって、何?』は、男女の対話形式になっている。男は技術者で、定型的なデータを重視し、女は翻訳家で、非定形な情報を大切にする。そしてITの本質とは、データと情報のサイクルを作ることである。とはいえ実は、わたしはこの本を、文明と文化の対話劇として書いた。文明がなければ生きていくことができない。しかし文化がなければ、人間は生きていく意味を失う。そして情報こそ、人間に意味を与えるものなのだ。

こうしてみると、『不要不急』の範囲が、よく分かる。わたし達の社会で不要不急とされるのは、文化の領域に属する物事、美とか遊びとか交流とか宗教とかだ。これらは人間に個性と意味と、アイデンティティを与える役割を持つ。

それに対して、文明の領域に属する事柄、すなわち食料・エネルギー・基幹素材などの商品の生産や流通とか、それらを支える社会のルールと防衛機構は、いつも優先される。そしてこちらは、生産量とか、利益額とか、効率性とかいったKPIで測り、「管理」することができる。管理社会とは、すなわち文明の論理だけでできている社会である。

さて、現世的とは、お金と権力だけを信じることだと、最初に書いた。お金と権力への欲望とは、言いかえれば所有欲支配欲である。だが、この二つの欲望は、その当人にとって、両刃の剣のように、危険な存在だ。

何かをあまりに強く所有したいと願うと、逆に人はその対象に縛られてしまう。何かを強く支配したいとの願いにとりつかれると、逆にその願いから自由になれなくなる。ずっと以前、G・ワインバーグの、

「もしあなたが何かをそんなにひどく求めているなら、多分それは手に入れない方がいい」

という言葉を、『ロージーの返事を、ときどき思い出す』で紹介したが、人は所有欲に自分自身を所有され、支配欲に自分自身が支配される傾向がある。結果として、自分が自分自身の主人ではなくなってしまう。それが、独裁者の危険なのだ。

そして、その毒を中和できるのは、ふと我に返って、自分の人生の意味を考える瞬間である。文明に中毒した人間を救える唯一のものが、不要不急とされる文化の力なのだ。

20世紀初頭、大英帝国の最盛期において、チェスタートンはこのままでは英国は滅びる、と予見した。徹底して現世的な少数の人々に、資本と権力が集中しすぎ、殆どの人は雇われ人としてしか、生き延びることができない。そして多数の人が孤独という名の病に苦しむ。そのような社会は、長続きしないというのが、彼の思想だった。

英国はしかし、彼の願う道をたどらなかった。二度の大戦を経て、苛烈な支配下に置いていた植民地の殆どを失い、自国内の産業基盤も国外に流出してしまったのだ。今、ロンドンのヒースロー空港の新ターミナルへの通路を歩くと、戦後のイギリスを象徴する写真と年表を見ることができる。彼らが誇りに思っているのは何か。皮肉にも、戦後の英国で唯一最大に輝いていたのは、ビートルズに象徴される、不要不急な音楽文化だったのである。


『それ』は本当に、不要不急なのか_e0058447_13180791.jpg

(現代のロンドン中心部と、ヒースロー空港のターミナル2への長い通路)


<関連エントリ>
「ロージーの返事を、ときどき思い出す」 https://brevis.exblog.jp/22307650/ (2014-08-21)

「クリスマス・メッセージ:あらためて、平和を祈ろう」 https://brevis.exblog.jp/30539585/ (2023-12-21)


by Tomoichi_Sato | 2024-05-11 13:19 | 考えるヒント | Comments(0)
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