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クリスマス・メッセージ:あらためて、平和を祈ろう

Merry Christmas!!

3年前の秋、コロナ禍の真っ最中に、息子夫婦が結婚式を挙げた。ちょうど緊急事態宣言が解除され、外出自粛が緩んだ頃だった。その後また感染の波がぶり返していくのだが、ほんの短い、奇跡のような自由な期間に、友人親戚が集まって、(マスクは必須だったが)二人の前途を祝福することができた。

その少し前、息子から式場の相談を受けたとき、わたしは一つだけお願いをした。日時も場所も、二人の望むように決めてくれていい。ただ、西洋風の結婚式をするなら、ちゃんと信者も聖職者もいる、普通の教会であげてほしい。カトリックでもプロテスタントでも構わない。ともかく、毎日毎週、信者が来てミサや礼拝をする、本物の教会でしてくれないか。結婚式場に付随したチャペルに、どこからか説教師を招いて、そこで神の前で誓ったりするのはやめてほしい。

そう言われて、息子も、いささかこまったに違いない。場所の選択肢も限られるし、カトリック教会などでは、信者以外が式を挙げる際は、「結婚講座」なるものに何度も通わなければならない。

結局、息子達は「人前結婚」を選んだ。結婚式場の付属のチャペルで、でも、臨席した大勢の友人知人の前で、愛を誓ったのだ。

それでいい。わたしはこの事に関して、今も息子たちに深く感謝している。二人は宗教というものに、ちゃんとリスペクトを払ってくれたからだ。リスペクトしたからこそ、無宗教を選んだ。わたしは宗教的な祭礼を、商業的ビジネスの下に従属させることが、好きではない。外形だけ宗教をなぞっていても、そこには天の配剤に対する謙虚さが、足りないではないか。

こう言っていいなら、結婚とは、賭けである。結果は、誰にも分からない。でも、集まる皆は、なんとかうまく行ってほしい、幸せになってほしい、と願う。人と人の関係もこわれやすいものだから、固めの儀式をおこなう。その儀式に重みを持たせるために、神聖な場所で、大事なものの前で、本人たちに誓わせるのだ。

息子は特段、神仏を信じているわけではない。わが連れ合いも、そうだ。息子はたまたま、私立のキリスト教系の高校に通っていたし、連れ合いは大学がミッションスクール系だったが、信心にひかれたという風ではない。だが、2人とも宗教というものの重要性については、一目置いている。少なくとも、宗教を大切にしている人の前で、その宗教を馬鹿にするようなことはしない。これは、今の世界を生きていく上で、とても必要なことだ。

そして祭礼は、宗教の大事な役目である。日常生活のルーチンを回していくだけなら、必ずしも神仏は必要ない。大抵のものごとは、習慣通りに、あるいは決まったとおりに、進んでいく。

だが時折、そうした日常生活の輪がしぼんで、時間の大きな節目がやってくる。それは新年やお盆のような暦の上での変わり目だったり、あるいは、結婚や入学、就職や出産といったイベントだったりする。

はじめての子供が産まれそうで、病院に急ぐ時、大事な入学試験の会場に向かう時、そして、誰かと結婚しようと心を決めた時、あなたは何を思うだろうか。先の事は誰にもわからない。自分の願いや才覚だけで、世の中全てが決まるわけでもない。誰にとっても、人生はむずかしい。大事な事はしばしば、自分以外の環境、あるいは「」としかよべないものに左右されるのだ。

そういうとき、わたし達は自分を超えた何者かに、加護を祈りたくなるのではないか。そうした「祈りの心」こそが、宗教的なものの原点なのではないか。自分自身の人生に対して、自分はちっぽけな力しか持っていないと感じるとき、それでもわたし達を助けてくれそうな何者かに、希望をかけるのではないか。

その希望を心の中で言葉にする時、なぜか知らないが、ある種の感覚的・身体的な手順が助けてくれるのだ。別の言い方をすると、何らかの美学が必要になるのだ。多少、型にはまった伝統的美学かもしれないが、そうした所作を通じて、わたし達は心をしずめ、自分の本当の望みを見つめる。

そうしたことを集団で行うのが祭礼だ。わたし達は、感情を他者と共有したいと、いつも無意識に願っている。祭礼とは、そうした感情の共有を、皆に与える場なのだ。そして宗教は、祭礼の主催者である。

ところが現代では、人の集まる祭礼は商業主義に吸収されがちだ。スポーツの「祭典」であるはずのオリンピックを、このところ、あまり好んで見たいと感じないのも、このためかもしれない。

祭礼は元々、わたし達の力がおよばない部分の助けを神仏に祈る、謙虚な行事だったはずだ。だが、あらゆる望ましいものは金銭で買えると信じる商業主義は、謙譲さの正反対である。「神とお金という、二人の主人に同時に仕えることは誰もできない」という古い聖句は、このことを示している。

もちろん宗教にも、良い面とそうでない面がある。人間が作り出すものは、なべてそうだ。宗教には、社会を維持する機能と、社会を刷新する機能の、両面がある。この二つは、社会のありように応じて、働き方が変わる。不安な時代には、安定が望ましい。淀んだ時代には、刷新が好ましい。

この秋に中東で起きた不幸な戦争について、きちんと論じようとすると長くなりすぎるから避けるが、宗教が対立の重要なドライバーであることは否めない。だったら宗教がなければあの対立は起きなかったのか? 残念ながら話はそれほど単純ではない。だが火に注ぐ油の役割を果たしたことは、事実だろう。

わたし達は(とくに都会に住む者は)、日本を非宗教的な社会だと思っている。初詣くらいは行くが、たいていの人は、神仏を真面目に信心している訳でもない。それはある意味で、我々の生活のルーチンが、文明の仕組みによって守られているからだ。その代わりにわたし達は、予見可能な範囲内でしか暮らせていない。そして予見不可能な社会に暮らす人ほど、宗教への信頼が深くなる。

世の中には数多くの宗教があるが、ほとんどに共通していることが2つある。それは、人間の「思い」が、何らかの形で現実世界に力を及ぼし得ると信じる点だ。純粋な物理法則では説明できない何かが、この世に働き得ると考える。つまり、祈りの力を信じているのだ。

もう一つは、人々のむやみな欲望や暴力を抑制しようとする点だ。禁欲や節制を進め、いたずらな殺生を避けるべきとする(すべての暴力を、ではないところが面倒なのだが)。いいかえると、平安を求めるのである。それは心の平安であり、現実社会の平安でもある。

だとすると、平和を祈ることは、宗教的な心の中核にあるのではないか。そのような行動は、経済からも、政治からも、科学からも、導出されない。この3つは、それぞれの方法で、社会に働きかけてくる。ただし経済も政治も科学も、人間に全能感を与えがちだ。「先のことは分からないのだから、心を静めて、希望に思いを馳せるべきだ」と人間に説くのは、宗教だけである。

「祈ったって、それで世界が変わるわけないさ」という疑念の声は、わたし自身の中にもエコーのように存在している。それでも人前結婚の式で、わたし達は心の中の誰かに、若い二人の平和な暮らしを願った。同じように、世界が冬景色に暮れていくこの季節に、世の中の無益な戦争が早く終わることを、あらためて祈ることにしよう。
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<関連エントリ>
「クリスマス・メッセージ:男の子の育ちにくい時代に」
https://brevis.exblog.jp/29343530/ (2020-12-24)


by Tomoichi_Sato | 2023-12-21 09:55 | 考えるヒント | Comments(0)
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