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乱世にこそ、フェアネス(公正さ)の感覚が必要となる

1985年5月。カリフォルニアにあるアップル本社では、緊急の役員会が開かれていた。その前年、社運をかけて開発し発売した新製品Macintoshの、販売不振による経営悪化の責任を問うて、CEOのJ・スカリーが、創業者であるスティーブ・ジョブズから、経営権限を剥奪する動議を出したのだ。

周知の通りスカリーは元々、ジョブズがペプシコーラからスカウトしてきた経営のプロだ。だが、会社が傾きつつある中、2人の間の確執が強まる。そしてジョブズは、スカリーの中国出張の間にクーデターを起こし、彼を追放しようとした。しかしスカリーはジョブズの計画をつかんで、逆に緊急の役員会を招集し、役員達に彼とジョブズのどちらを選ぶのか、選択を迫った。

役員会のメンバーは、ジョブズ以外の全員が、スカリーを選ぶほうに手を挙げた。

「あの時の光景は、今でも忘れられない。」スティーブ・ジョブズは晩年になっても、そう述懐している。「自分が設立した会社から、追い出されるなんて信じられるか?」とも、スタンフォード大学の卒業式スピーチで語っていた。当時のアップルには彼が育て、彼が動かし、彼のおかげで功績を上げ富を得た人間が、大勢いた。その部下達に、彼は裏切られるのである。

アップル社は現在、時価総額で世界最大の企業である。同社をここまで成長させたのはもちろん、97年に復帰したジョブズのリーダーシップのおかげだ。ジョブズが傑出した人間だったことは疑いがない。彼がまだ50代で亡くなったのは、本当に惜しいことだったと思う。

しかし、彼が万人に好かれていたわけではない。特に若い頃の彼が、経営者として、部下たちから好かれ、慕われていたかどうかと言うと、相当に怪しい。

それはアップル上場前後の彼の行動を、共同設立者だったスティーブ・ウォズニアックと比べるとよくわかる。株式を初期の従業員の誰に、どれだけ分け与えるか。多くの人の目にとって、ジョブズの配分は人々の貢献に対して、不公正に思えた。

もちろんジョブズには彼なりの、従業員に対する評価基準があったのかもしれない。だが、それが他の人間に不可解で予見不可能だったら、彼が気ままに、恣意的に決めているのだ、としか思えなかっただろう。

ジョブズは実の娘に対してさえ、アンフェアだった。ずっと私生児として認知さえしなかったくせに、社運をかけて開発した世界初のGUI搭載パーソナルコンピューターに、娘と同じLisaと言う名前をつけた。そしてそれはLocally-integrated system architectureの略だ、などという説明にならない説明をした(ここらへんのエピソードは、映画『スティーブ・ジョブズ』(→映画評)で、非常に印象的に描かれている)。

米国のビジネス文化では、人々はフェアネス(公正さ)に関して非常に敏感だ。これは彼らの思考習慣を支える、座標軸的な事がらだと言ってもいい。

念のために書いておくと、フェア(公正)であるとは、「平等である」こととは全く別である。米国は全然、平等な社会ではない。平等というのは通常、結果がイコールであることを意味する。これに対して公正とは、チャンスがイコールで対等であること、あるいは秤が傾いたら、元に戻すことをいう。

それは例えば、何かを借りたら、必ずそれを返すと言うことだ。ものを買ったら、代金を払う。ものを売るときには、必要な情報を説明する。情報はチャンスの重要な要素だからだ。契約ならば、権利を得たら義務を負う。契約当事者は互いに対等だから、お互いに権利を請求できる。

そして、上司が部下を動かして、何か益を得たら、それに応じて、部下に報いる。部下は上司の所有物ではない。両者は基本的に対等だからだ。これがフェアネスの感覚である。

したがって人の上に立つものは、下の人間に対して、公正な、フェアな評価をしなければならない。信賞必罰である。そうでないと下の人間は、リーダーを疑い、いずれは命令を聞かなくなる。あるいは、リーダーの座から放逐しようとさえ、するようになるだろう。

米国は基本的に移民と入植者の社会である。物資の乏しい中、借りたものは必ず返す事は、基本的な信頼のベースだったろう。また、移民たちは、出身国の家柄や地位とは関係なく、対等であった。

ちなみに、もっと歴史をさかのぼると、アングロサクソンを含むゲルマン民族全体が、もともと大移動によって中央アジアからやってきた移民であった。彼らは、基盤の乏しい社会にあって、自分たちでルールを作ることに心を砕いてきた。その根底にあったのが、フェアネスの感覚だろう。

そしてその感覚は、乱世を生きたわたし達の父祖にも、共通していたに違いない。戦国時代の主従関係は、江戸時代などと違って、もっと契約的な、今風な言葉を使えばドライなものだったことが知られている。世を圧する巨大なルールがないところでは、お互いがお互いを頼ったり縛ったりする、相互的な信義のルールが必要だったのだ。

今の世の中には、公正さなど、弱視や偽善者の論理だ、弱肉強食の世界では、たとえアンフェアでも強い者勝ちなのだ、などと信じている人たちもいる。とんでない思い違いだ。借りた物は返す、貸した物は返してもらう、約束は守る、部下の貢献や無能には信賞必罰をもって報いる――こうした事は、乱世にこそ誰もが行動基準とするのだ。

後醍醐天皇が足利尊氏らに権力を奪われたのも、織田信長が明智光秀に謀反を起こされたのも、元は功績への報奨の不満が原因だった。平和な時代、強大な権力が安定を支えている社会では、多少の不正は秩序の見返りに見過ごされることも多い。だが乱世では、そうはいかない。

自分の作ったベンチャー企業から追い出されたくなかったら、部下にも協力先にもフェアでなければならない。フェアネスが単なる建前論だという考え方こそ、じつは太平ボケの典型なのではないだろうか?


<関連エントリ>
 「映画評:★★★ 『スティーブ・ジョブズ』」 https://brevis.exblog.jp/24505542/ (2016-07-04)
 「言葉の二重の壁を乗り越える」 https://brevis.exblog.jp/30467903/ (2023-10-14)


by Tomoichi_Sato | 2023-10-22 17:00 | ビジネス | Comments(0)
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