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海外プロジェクトの障壁は文化や言語ではない

銀座のカフェに座って、この文章を書きはじめている。周囲は外国人ばかりだ。耳慣れない、いろんな音声が飛び交う。みんな観光客なのだろうな。日本にようこそ、楽しんでいってもらえば幸いです・・滅多に銀座なんかに来ないわたしだが、勤め先である横浜みなとみらいでも、事情はだんだんと似てきた。


観光地のカフェで外国人旅行客に取り囲まれる事と、海外企業とのプロジェクトを進めることとに、共通点はあまりない。耳慣れない外国語の音声がときどき聞こえる、でも意味が分からないので聞き捨てにする。髪の毛や肌の色の違う人たちが、ちょっと物珍しいことで喜んだりする。そんな楽しみ方もあるのかと驚くが、自分も共感できる訳では無い。共通するのは、そんなところだろうか。


海外プロジェクトの最大の障壁は文化・風習や言語の違いである、と考える人は少なくないようだ。たとえばイスラムの国では、1日に5回お祈りをするから、仕事がしょっちゅう中断されがちだ。とか、インドでは鉄道が遅れるのは当たり前、来れば御の字で、日本のように分刻みで正確に来たりしない、とか。


さらに言えば、日本人は勤勉で真面目な人種だが、途上国はそうでもない、みたいな風説もある。だから、納期なんかいい加減で守らないんだ、とか。


ちなみに念のため言っておくと、イスラム教の礼拝には、真夜中と夜明け前と日没時が含まれるから、日中のお祈りは、昼と午後3時ごろの2回だけである。だったら日本の休憩とさほど変わらない。また納期について言えば、半導体飢饉の昨今、サプライチェーンの混乱等で、「真面目な」日本企業だって、あまり胸を張って言えた義理ではない。


交通インフラが不十分で、サプライチェーンが分断されがちな社会では、分刻みの正確なスケジュールで動くことは困難である。そのことは、終戦直後の日本人の先輩たちに聞いてみればわかる。手紙と電報と呼び出し電話しかなかった昔の日本に比べれば、スマホで連絡が取り合える現代は、はるかにマシとも言える。これは文化の問題ではないし、まして、真面目かどうかの問題でもない。


上に述べたような言い方は、そもそも、日本人から見て「遅れた」国々に対して表明されることが多い。イギリスとかドイツの企業と共同で何事かを成し遂げようとする時、英独との文化の違いをリスクとして懸念するだろうか? キリスト教社会だからとか、論理的で堅物だからとか、そうしたことをプロジェクトの困難として挙げるだろうか。相手に合わせるべきだと、きっと最初から考えるのではないか。では、なぜ途上国相手だと、相手に合わせようとしないのか。


ちなみに、わたしの勤務先では、海外プロジェクトのスタートにあたって、文化の違いが真っ先にリスク項目として上がる事は、まずない。もちろん、我々がすべての国の文化をよく知っているわけでもない。文化については(我々が受注ビジネスであるため)、お客様に合わせ、その国の文化を尊重するしかないと思っている。


しかし、それ以上に大事なことがある。それは、「ビジネスにおける企業や個人の振る舞いは、文化の差を越えて、かなり普遍的である」という認識があることだ。すなわち、予測可能性が高いのである。


どこの国・どこの文化であっても、企業は営利追求を主たる目的とする存在である。お金が儲かるか損するかという選択肢においては、儲かる方を必ず選ぶ。金銭的ペナルティーを課せられる危険性があるなら、出来る限りそれを回避する方向に動く。見つからないと思えば、ズルをするかも知れない。これは、相手が聖なる月に断食をする人々であろうが、五体投地で礼拝する人たちだろうが、変わりは無い。ビジネスとはそういうものなのだ。


だって考えてみて欲しい。あなたの仕事では、同僚や取引先相手の宗教や、政治的信条によって、ふるまい方が変わるだろうか? そんなことは、話題にもしないだろう。こうした内心の事柄については、個人差が大きい。だが内心の価値観とは独立して、ビジネスのやりとりはできる。相手がお正月の初詣に行かないからといって、約束した納期を誰が疑うだろうか。


文化とは何か。それは簡単に言うと、人間にアイデンティティを与えるものである。アイデンティティは、価値観と考え方、並びに、周囲の人々との関係性の取り方によって支えられる。3ヶ月ほど前の記事「考える技法——人間は言葉で考えるかにも書いたが、言語は人間の考え方をある程度規定するので、言語と文化には深い関係がある。また、家族や氏族制度、共同体のあり方は、人間の関係性に強く影響する。


社会は、文化を通じて、個人の価値観を同調化させようとする働きを持つ。ただし価値観それ自体は内面にあって、外からは見えない。だから社会はもっぱら、人のふるまいを外的に規制しようとする。地鎮祭に参列して頭は下げるかも知れない。だがその人が八百万の神々に深く帰依しているかは、誰にもわからない。


一方、文化と対比した言い方をするならば、文明とは人に利便を与えるものである。そしてビジネスは文明のほうに属する。食料、衣服、住居、移動手段等は、基本的に文明によってもたらされる。食べるものがなければ、人間は生きていけない。そしてこれらは皆、お金で買うことができる。だからビジネスが成立する。


ところがアイデンティティはお金で買うことができない。アイデンティティとは、その人がその人である事を保証するもの、すなわち、その人の個性や価値観だ。


無論、文化的要素を売る商売は存在する。映画や音楽、文学は買えるし、さらに法事で読むお経にだって、お布施と言う対価を支払いはする。それらは文化を支えるが、文化自体を買っているわけではない。ビジネス上の行動は、極めて普遍的だ。しかし文化は極めて個別的だ。


まあ、そうは言っても、島国に育つわたし達は、文化の違いや類型をあまり意識してこなかったのは事実だ。だから自分たち以外は、みんな違うのかと思ってしまう。でも、そこには大きなパターンがあり、それを意識しておくことは有益である。


以前、「英語と運命」という本の書評で、英語教育家の中津燎子氏による「ソフト型」「ハード型」の文化類型を紹介した。日本やタイなどはソフト型の類型に属するが、世界では少数派である。英米、中国、南アジアなどはハード型に属する。人口はこちらの方が圧倒的に多い。


ソフト型は、主張よりも妥協が美点と感じるが、ハード型は主張は常識であり、対立は喧嘩ではないと考えている。そして、お互いが相手について、どう感じているかを整理したのが、次の表である。我々はハード型のきつい主張を、「生意気に見える」と感じる。逆に彼らは、すぐ「妥協する人はごまかしている」ように見える。我々は彼らを、自分中心で冷たい、と感じる。彼らは我々について、自他の責任が不明確、と考える。


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そして最後の2行は、海外型プロジェクトの説明用に、わたしが勝手につけ加えたものだが、ソフト型では「下請け側に無限責任がある」ように相手からは見え、ハード型は「権利主張ばかりで誠意なし」と感じられる。


わたし達がビジネスを行う時、その直接の目的は利益であり、経済合理性に従う。ただし他者の行動を理解したり推測したりする際には、しばしば自分が無意識にもっているパターン=型紙に当てはめて、その動機や感情や性格を理解しようとしがちだ。とくに我々の文化は、ハイ・コンテキストな、互いに文脈や感情を共有している(はず)、と考える類型に属している。なので言語化が足りない場合が多い。


そうした不足や誤解は、海外の相手と接して初めて、自覚することになる。それも、お互いの利害がはっきり絡む場合に、強烈に出てくるものである。文化はある意味で、人間を規制するものだ。それはなんとか、社会を協調的に保とうと働く。だから海外旅行をしたって、異文化は表層しか分からない。利害の絡むプロジェクトを一緒にやってみて、はじめて相手との本当の付き合い方が分かる。


海外プロジェクトの障壁は文化や言語ではない。所詮よく知らない相手と、ビジネスをせざるを得ないことなのだ。それは言語化をあまり意識して行わない、ソフト型文化の人間にとっては苦手なことだ。ビジネスには協力もあれば嘘もありうる。だから何より一番こわいのは、国ごとに個別にある文化ではなくて、普遍的な人間の欲得なのである。



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by Tomoichi_Sato | 2023-10-07 10:19 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)
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