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書評2点:「高い城の男」フィリップ・K・ ディック、「ムントゥリャサ通りで」ミルチャ・エリアーデ著

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(honto)


フィリップ・K・ディックの代表作。ずいぶん久しぶりに再読した。若い頃に、いちど読んだはずなのだが、ごく一部のエピソードを除いて、内容はほとんど忘れていた。というか、よく理解できていなかったらしい。それだけ深い内容を秘めた話なのだろう。今回読み直してみて、改めてこの小説の価値に気づくとともに、ディックの作家としての技巧の高さに、舌を巻いた。

周知の通り本作品は、日本とドイツが第二次世界大戦でアメリカに勝利してから15年後の、アメリカを舞台にしたSFである。反実仮想的なこの舞台設定の本書で、ディックは1963年度のヒューゴー賞を見事に受賞する。

20世紀アメリカを代表するSF作家を3人選べ、という人気投票をしたとして、P・K・ディックがその中に入るかどうかは、よくわからない。ハインライン、アシモフ、ベスター・・優れた作家は、もちろん数多い。しかしディックも、一定数の強い支持層を持つ、独自の個性ある作家だ。

何よりも、彼独特の、リアリティーが足元から次第に崩れていくような、不気味なサスペンスと、人間性のありか・根拠を問い直す独特の視点が、持ち味だ。

それは例えば、逃亡したアンドロイドをハンティングする賞金稼ぎが、次第に、自分自身も人間かどうか自信がぐらついていく、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」 (映画「ブレードランナー」原作として有名)にも表れているし、傑作「ユービック」 の奇怪な時間退行現象が支配する世界もそうだった。

ドイツと日本が戦争に勝ってから15年後。1960年代初めのサンフランシスコで、この物語は始まる。かつてのアメリカ合衆国は、3つの国に分断されていた。西海岸は、日本が事実上支配する「太平洋岸連邦」。それに隣接して、かろうじて中立的な立場を維持している「ロッキー山脈連邦」。そして、残る大半の地域が、ナチスドイツの支配する合衆国である。

物語は、特定の主人公を持たない群像形式で進められていく。美術商のチルダン、ユダヤ系の職工フランク、フランクの別れた妻ジュリアナ、そして通商代表部の高官・田上信輔らの行動と独白が、交代する形で叙述され、読者は次第にそのグロテスクな第二次大戦後の世界の有り様を理解する。

小説家としてのディックが非常にうまいなと感じるのは、それぞれの準主役級の登場人物たちが関わる、ディテールや小道具の扱いである。職工が手にする工具、女性が選ぶ服のスタイル、そうしたものを通じて、普通のアメリカ人の気分とメンタリティーが、現実味を伴って、読者に迫ってくる。

そして戦争に負けた国民が、いかに心根とメンタリティーを傷つけられ捻じ曲げられていくかを、ディックは見事に描く。ある者は勝者に媚びへつらい、ある者は反抗して打ち捨てられ、ある者は勝者側の女をモノにしたいと思う。戦争に負けるとはどういうことか、ディックはよくよく分かっている。この小説世界では、アメリカ人が、日本人やドイツ人に対して、敗者として振るまうのだが、それはまるで歪んだ鏡に映った自分たちの姿を見せられているような感じである。

そんな中で、ただ一人孤高の心を保つ、「高い城」に住む作家が、空想的な小説を書く。それは第二次大戦で、日本とドイツが、アメリカと英国に敗れると言うプロットの話だった。その本は当然ながらドイツの支配する合衆国では発禁処分になるが、登場人物たちはいろいろな手段で手に入れて読み、米英が戦勝国となった仮想の世界を知る事になるのだ・・

第二次大戦で、ナチスドイツが勝つという設定の小説を書いた人間は、他にもたくさんいるらしい。しかしディックの独創は、そのような世界で、さらに裏返した物語の中の物語を作って、そこから第二次大戦後のわたし達の住む、リアルな世界の歪んだ有り様を、逆照射するところにある。

ところで、この小説にはもう一つ、他にない重要な特徴がある。それは『易経』である。街角で易者が筮竹を手に、占いと称してする、あれだ。

ただし正確には、易は占いではない。普通、占いと言うと、既に決まっている運命を先読みすること、ちょうど天気予報のように、将来予測をすることだと思われている。言い換えるなら、未来は既に確定して存在していて、占いはその姿を垣間見せてくれる、との世界観にのっている。

だが中国で4千年前に成立した易は違う。易では、万物は変化し続けており、確定した未来は存在しないと考えている。では、筮竹やコイン投げによって現れる、「泰」「中孚」「剥」といった64種類の卦と呼ばれる状態(モード)は、一体何を表すのか?

答えは簡単だ。占う人間が、今のその気持ちや考えを持ち続けていくと、そのような状態に至る、との予測なのだ。だから、卦を見て反省し、考え方を変えるならば、別の未来が立ち現れる。これが易なのである。

この小説の主人公たちは、なぜか皆、易に詳しく、重要な決断の際には、易を立てて考える。実は作者のディック自身が、60年代初め頃から、易を立てるようになったらしい。神秘主義的な性格の強いディックにとって、易は東洋の英知が結晶したようなものに思えるのだろう。

この小説に出てくる日本人には、イヤミな人間はほとんどいない。居丈高な、権力好きな、強欲な、暴力的な日本人も出てこない。ナチスドイツの高官たちとは、対照的な扱いだ。日本人は、理解しにくいが東洋の叡智に近い存在、であるかのように描かれる。だから我々読者にとっては、とても読みやすい。本物の日本人は、こんなに潔ぎよくも、かっこよくもないな、とは思うのだが。

もっともそれは、我々がアメリカとの戦争に負けた存在だからなのかも、知れない。



「ムントゥリャサ通りで」 ミルチャ・エリアーデ 著、直野 敦訳

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昨年、所用で神保町を歩いていたら、東京堂書店のウィンドウに「ムントゥリャサ通りで」のポスターが貼ってあった。そのポスターは黒を基調とした、とてもアーティスティックなデザインだったが、著者の名前すら書いて無い。が、これを見て本を買う人なんているのかしら、と思ったが、たまたまわたしは著者を知っていた。ずっと気になっていた、宗教学者エリアーデの幻想小説だったからだ。思わず店に入って買い求めた。

渋い小説だろうな。そう思って、しばらく積ん読にしていたが、今年に入って手に取り読み始めた。そうしたら、何と、めちゃめちゃ面白かった。「一読、巻を置く能わず」という言葉があるが、まさに一気読みの状態になった。

この小説は意外にも、現代の「ほら男爵の冒険」である。いやあ、あの高尚かつ難解な宗教学者が、こんな話を書くんだなあ。

主人公はさえない元小学校教員だ。彼の相手をするのは、非情で冷酷なルーマニア共産党の内務警察の面々である。ここらへん、共産主義独裁国ルーマニアから西側世界に亡命したエリアーデの人物造形は、いかにも冷静かつ的確だ。だが、主人公の取り留めのない物語が述べられるにつれて、いつのまにか彼らが端からバタバタとなぎ倒されていく。

はじまりの場面は首都ブクレシュティ(ブカレスト)の、暑い夏の日。ムントゥリャサ通りという地名を地図で調べると、国会議事堂からも遠からぬ、街の中心部にある。主人公は拘束されてずっと街中にとどまるのだが、彼の語る物語は自在に広がり、遠く山岳地帯にまでのびていく・・

幻想文学には悲劇的なものが多いが、これは読んでいて実に楽しい。まさに傑作である。


by Tomoichi_Sato | 2023-09-27 23:17 | 書評 | Comments(0)
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