「データで読み解く中国経済―やがて中国の失速がはじまる」 Amazon honto 社会にとって経済成長とか経済発展とは、どういうプロセスなのだろうか。そのことを時々考えている。そういうことを考えるのは、本来、経済学の仕事だろう。だが、この10年間ほど、経済学が人々からその信用を失った事はなかった、と感じる。 なるほど、今でもエコノミストや経済学者は、論壇で活躍し、国の舵取りの指南をしている。でも、その結果、わたし達の社会は10年前に比べて、豊かになっただろうか。豊かさの方向に向かって、波しぶきを切って進んでいるだろうか。今ほど、わたし達の社会が、経済に関して自信喪失に陥った時期は無いのではないか。 本書の著者・川島博之氏は東大農学部の先生である(本書執筆当時)。もともとの専門は化学工学で、工学博士の学位を環境工学の研究で得られた。専門はシステム分析、特に農業生産に関するシステム分析的な研究で知られる。経済学者ではない。 そして本書の出版は、2012年11月。今から10年以上前の本だ。ちなみに本書の帯には、「中国は『失われた20年』へ突入した!」との煽り文句が、出版社によって描かれている。とりあえず今までのところ、この予言はあまり当たっていないように思われる。 だとしたら、今、この本を読むのはなぜか。そして書評に書き、読者諸賢にも、手に取って見ることをお勧めする理由は何だろうか? 答えは簡単だ。ここには普通の経済学者がやらない、経済成長に関するシステム工学的な分析が描かれているからだ。それも手に入りにくい、かつ信頼性に乏しいデータをもとに、いかに複雑な対象のシステムをモデリングしていくかについて、誠実かつ克明に記されている。この点が、本書の最大の価値である。 ただし、ほとんどの読者は、この本を「中国論」の文脈で読むだろう。そして著者もそういう意図で書いている。今や中国を理解せずに、現代世界の動きを理解することはできない。だが「中国の理解」と言う時、これまでのほとんどの論者は、自分の得意とする分野や視点に限り、定性的に論じることがほとんどだった。中国政府が公開する統計データが信頼に足りないことも、大きな一因だ。それ故、多くの論者たちは、中国に対する自分たちの価値観や願望やら敵意をもとに、議論の弱さを補強してきた。 しかし著者の川島氏は、あえてその方法をとらず、手に入り得る限りのデータをもとに、極めて多角的・多面的な分析を加えることで、立体的な中国像を描こうと努力している。 その真骨頂は、第2章の、エネルギー消費量から始まる各種統計数字の分析である。90年代後半から2000年にかけての、中国のエネルギー消費量の数字には不自然な点がある。そこで一人当たりのエネルギー消費や、経済のエネルギー効率(石油換算1トンのエネルギーを使用して生産できるGDP)などのグラフを作って国際比較を行い、中国の石炭依存と、朱鎔基の国営工場改革から、実像を割り出していく。 また、農業生産額・工業生産額やサービス生産額がGDPに占める割合と、一人当たりGDPの関係を他国と比較し、開発途上国としての中国における一人当たり農業生産が、都市住民に比べて、12.3%程度にしかならないことを指摘する。これはこの後の本書の論点に対する、重要なフックになっている。 さらに、政府支出額がGDPに占める割合の分析から、社会主義国であるにもかかわらず、中国は大きな政府とは言えないことも指摘する。ただ、GDPに占める消費と投資の比率では、中国は44%が投資によっており、突出して高い比率であることを示している。「日本の高度成長も投資によって牽引されたものであったが、1970年頃になると低下し始めている。それに比べると、中国の投資の割合は高い水準を維持しており、(中略)奇跡の成長の秘密はここにあるようだ」(P.99) 続く第3章では、著者は「中国統計年間」のデータをもとに、成長から取り残される農村社会について、いろいろな角度から分析する。周知の通り、中国の戸籍制度(「戸口」)は、都市戸籍と農村戸籍に分けられている。「農村戸籍の人は、年金制度や医療保険において、都市戸籍を持つ人よりも著しく不利になっている。」(p.109)。年金もなく、医療保険についても差別される。「都市に出た農民工が都市で、農民戸籍の女性と結婚しても、生まれた子供は農民戸籍になってしまい、都市の学校に通わせることができない」(p.109)。そのかわり、農民に対する農業収入には税金が課されない訳だが。 中国における工業の発展と、農村生活が決して豊かとは言えないことから、農村から都市への人口流入が大きく続くことが見て取れる。では、その人達への住宅供給は、誰が行うのか? 「中国の土地は公有制になっている。個人や企業が土地を所有することはできない。農地は多くの場合、村が所有している。農民は村から農地を借りて耕作を行う」(P.165)。ここに、もう一つのポイントがある。 日中戦争の末期、日本軍が大陸から敗退し、「共産党は延安を根拠地にして、解放区と呼ばれる支配地域を少しずつ広げていった。解放区において、地主から土地を取り上げて、小作人に分配したのだが、このことは共産党が中華人民共和国を建国する上で、極めて重要な役割をになった」(P.167) 何億人もの人口が農村から都市に流入する。その際の都市のインフラや住宅は、誰がどのように投資し供給してきたのか。それをコントロールしてきたのは、地方の共産党幹部であった。著者は土地開発公社が、100ヘクタール程度の都市近郊住宅造成の開発を行う場合の、不動産価格等の分析を行って、ほとんどタダ同然の値段で手に入れた農地が、1500億円相当の儲けを生み出すと推算している。ブルームバーグが推定する中国の裏マネーの総額は、この土地取引に関わる金額とほぼ同額になる。 農業中心の社会が、近代化とともに、工業中心の社会に変わっていく時、農村から都市への大きな人口流動がある。そしてそれに伴って、鉄道、港湾、道路、河川等のインフラの整備が必要になる。教育、医療、スポーツなどのサービス施設も必要だ。それは高度成長期の日本でも求められたことだ。 こうした実物資産、言い換えると社会資本がビルドアップしていく時、そこに経済価値が生まれる。このプロセスを整合性を持って進められるかどうか、また意思決定に透明性を持てるかどうかが、社会の成長や発展にとって致命的に重要になるのだろう。 本来、これはまさに「プログラム・マネジメント」の領域である。そして、経済政策・産業育成政策は、投資プロジェクトのポートフォリオと、産業連関と、その効果測定によって計画され、コントロールされるべきなのだ。だが、これが一部の権力を持った政治家と開発業者たちの、私的な利潤追求の物語にすり変わってしまいがちなのが、現代社会の病根だろう。そうした権力者たちは、経済政策と言われると、不動産開発やイベントしか思い付かない、思考の欠乏症に陥りがちだ。 本書の最後の部分は、中国における土地インフラ開発による経済成長が、ある種の踊り場にたどり着き、不動産のバブル崩壊が始まっていることから、中国の経済停滞が起きるだろうとの予測に紙数が使われている。ただし、中国共産党の支配体制は、そう簡単には崩壊しないと著者は予測する。 「地方政府が農地の転用に際して、不当に手に入れた資金が奇跡の成長の原動力であった。しかしそれによる成長は行き詰まりつつある。それがバブル崩壊を引き起こしている」(p.301)――これが本書の基調をなす論点だ。 しかし現実を見ると、著者が予言したような中国経済の失速は、あまり劇的な形では起きてこなかったように思う。コロナ禍による経済停滞はあったが、それは中国だけの現象ではない。 このことは、システム分析による予測のある種の難しさを示している。システムがビルドアップしていくときは、比較的予測がしやすい。順々に発展していくからだ。ところがシステムの崩壊現象は、何らかのきっかけで短期間に突然起こる。こちらは具体的にいつ、どこが崩れるかを、正確に予測する事は難しい。ちょうどテーブルに荷重をどんどんかけていった場合に、いつどこの脚が重みで座屈するかを予測するのが難しいのに似ている。 川島氏は、本書のいわば続編として、2015年に「データで読み解く中国の未来―中国脅威論は本当か」https://amzn.to/45LUSVC も出版しておられる(こちらは未読)。これもデータに基づくシステム分析のアプローチを展開しているようだ。川島氏には、わたしが主宰する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」でも、ずいぶん以前だが、一度講演をお願いしたこともある。その時のテーマは文字通り、『システム分析』であって、著書「戦略決定の方法」https://amzn.to/3PdBQ4X で展開された方法論を解説いただいた。 システム分析とかシステム・アナリストといった職種・専門分野を名乗る人は多い。しかし、そのほとんどがIT分野における業務プロセスの分析とかITシステム要件の定義の仕事である。複雑でわかりにくい対象をモデリングし、価値観をもとにどのようなアプローチの戦略を立てるか、といった問題を論じられる人は少ない。まして、それをプログラム・マネジメントの視点に立脚して構築できる人は、ほとんど皆無に近い。 だが、エコノミストの職分を含めて、私たちの社会で本当に必要とされるのは、結局のところ、そういった専門家=本当のシステム分析家ではないだろうか? <関連エントリ> 「書評:「『戦略』決定の方法 〜ビジネス・シミュレーションの活かし方」 川島博之・著」 https://brevis.exblog.jp/22891611/ (2015-03-19)
by Tomoichi_Sato
| 2023-08-27 19:04
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