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『特殊病』それは日本の病気です

自分のプロフィールに「国内外の製造業及びエネルギー産業向けに、工場作り・生産システム構築の仕事に従事してきた」などと書いているためか、「日本の製造業は、海外に比べて特殊なのですか?」という趣旨の質問をされることが、時々ある。「なぜ日本と海外はこうも違うのでしょうか?」といった聞き方の場合もある。

こうした質問は、日本と海外で同等なはずのものが、なぜか違っていた、との事例とともに、語られることが多い。例えば、同じ企業のグループに属しながら、生産管理系のパッケージソフトを、海外工場ではノンカスタマイズでスムーズに導入できたのに、国内工場では苦労したあげく、失敗したという事例。あるいは、国際標準に従ったサプライチェーンの仕組みが、日本国内だけどうしても使えなかった事例。

さらに、国内では立派なプロジェクトマネジメントの実績を持つ会社が、海外に出て行って遂行したら、赤字や納期遅延で痛手を被ったケース、など、似たような事例は案外多い。かくして『日本特殊論』みたいな疑念が生まれてくる。それは果たして本当だろうか、という訳だ。

この種の質問に対する、わたしの答えは、イエスでもありノーでもある。海外と言う時、具体的にはどこを指すのか。一口に海外といっても、米国と欧州では事情もかなり違うし、中国、韓国、東南アジアでも状況はそれぞれ異なる。南アジアや中東のややこしさは言うまでもない。それなのに十把一絡げに、「海外はああだが、日本はこうだ」と対比して言えるのか?

さらに「特殊」という言葉には、一種の価値判断的な響きがある。特殊はまずいことで、普通が良いことであるかのような。そこで、グローバル標準を背負って推進する立場の人に、「日本は特殊だ」と主張されると、なんだかお前は劣等生だ、と言われてるみたいな反発心も芽生えたりする。

一方、「特殊」という用語は、「差別化された」「専門的な」とのニュアンスで、ポジティブに使われることも多い。特殊陶業とか特殊鋼板といった言葉を含む社名は、もちろんそれなりのプライドを感じつつ選ばれたに違いない。むしろ「特別」という形容に近いのだろう。

なので、海外と比べて日本は特殊か、と問われても、わたしの答えは「場合による」となってしまう。違っている点はいろいろある。ただ、それは日本だけのことなのか、他にも同様の国はないのか、吟味が必要だ。もちろん、世界の8割がある傾向に属していて、日本が2割の側だとしたら、さすがに「日本は少数派だ」とは言えるだろうが。

それでもわたしの経験から、日本企業にかなり共通する特徴的な点を一つ、挙げることができる。それは、「自分たちの業務は特殊である」という自己認識が、非常に多い点だ。

仕事柄いろいろな企業と付き合ってきたが、どこの会社を訪れても、「ウチの業務は特殊です」「うちの業界は特殊です」という。人の命を預かる医薬品を作っているから特殊だ、爆発物や危険物を大量に扱うから特殊だ、人の口に入る食品を作っているから特殊だ・・という訳だ。

どこの会社に行っても、「うちは特殊です」と、判で押したように言われる。この点は驚くほど共通していて、普遍的である。おかしなことに、ほぼ正反対の理由でも、特殊性の説明になる。曰く、ひどく高価で少量な製品を扱うから特殊だ、ひどく安価でバルキーな商品だから特殊だ・・。そして(わたしの限られた経験ではあるが)、このような特殊性の言明を、欧米企業やアジアの企業から聞いた覚えがない。

「自分の業務は特殊だ・特別だ」という自己認識が、日本企業に限っては普遍的である。まことに奇妙なパラドックスと言わざるをえない。そして、特殊なるが故に、「自社の仕事は難しい」「他の業界や他社の事例は、参考にならない」という反応につながっていく。

この特殊性の主張は、業界や企業個社だけでなく、部門の業務に降りていっても、現れる。この部の業務は他に比べて特殊で、という枕詞が、たいていの説明の頭につく。さらに、「この業務を担えるのは⚪︎⚪︎さんだけで」との、属人的な分担にまで行き着く。これをわたしは、『特殊病』と呼ぶことにしている。

ちなみに「特殊」を表す英語は、”Special”である。もちろん欧米企業にも、specialな業務は色々ある。そして、それを担う職種は「スペシャリストSpecialist」だ。会計にも設計にも物流にも、スペシャリストがいる。彼らは、一種の敬意の対象でもある。だがそれは、彼らの仕事が属人的であることを意味しない。

むしろ、設計のスペシャリストなら、どこの会社に移っても、専門家として通用することが期待される。スペシャリストの技量は普遍的である、というのが彼らの認識であって、特殊な仕事だ、とは見なされない。この点が、日本における『特殊病』との違いだ。

『特殊病』はなぜ、立ち現れるのか。「特殊である」という説明は、日本企業や当事者にとって、どのようなメリットがあるのか?

そのヒントは、先に述べた「差別化」にある。特殊な会社・特殊な業務とは、差別化された存在であることを暗示している。差別化されているが故に、他社や他の業界からは学ぶことができない、という訳だ。

もともと差別化戦略は、単純な競争を避けるための手段として、発展してきた。同じような性能・仕様での、コスト競争のガチンコ勝負を避けるため、ライバルにはない機能・特徴を加味し、それをユーザにアピールする。これが差別化だ。

差別化とはつまり、単純比較から逃れるための手段である。他業界とのベンチマーク、他社とのベンチマーク、そして他の部署や従業員との比較競争から、少しでも逃れ出るために、無意識に差別化=特殊化を選ぶ。

普遍化とか標準化という思考は、物事を定型的に比較しやすくする作用を持つ。差別化・特殊化は、それに対抗する方向性だ。つまり『特殊病』とは、比較からの無意識の逃走である。これは無意識的な傾向であって、別に業務の特殊性を、戦略として会社が意識して選んでいる訳ではない。たいていの社内業務はユーザとは無縁のところで働いており、アピールする意義もないからだ。

業務の細部が属人化していく傾向もまた、その仕事を担う個人の、ジョブ・セキュリティを守る意義がある。彼(彼女)しかできない仕事があって、それが重要なら、簡単にはクビにできないことになるからだ。「この業務は特殊」派の人々は、現場業務に現れる例外的な事象をよく知っていて、ああいう事象もある、こういう例外もある、と指摘するのが得意だ。

では、特殊病が企業にもたらす病状とは何か? こたえは簡単、「学ぶ能力の喪失」である。なにせあらゆる存在、あらゆる業務が特殊で、比較できる対象が無いのだから、外を見て学ぶことはできない。そればかりか、特殊性は新規業務や新規製品にともなっても現れるから、昔と今を単純比較することも難しくなる。つまり、製造業お得意のPDCAサイクルさえ、十分機能しにくくなっていく。「最近の状況は特殊」だからだ。

企業が学ぶ能力を喪失したら、前進していける訳がない。日本企業を覆う『特殊病』が、重大な病状であることはお分かりいただけると思う。

そしてこの『特殊病』は、ある意味、単純なグローバリズムに対峙する局面で現れやすい。グローバリズムを単純に一括りすることは難しいが、少なくともその中心に、規模拡大志向と標準化思考があることはお分かりだろう。秦の始皇帝や豊臣秀吉が、度量衡の統一を重要な施策としたのは、彼らが標準化の力をよく理解していたからだ。

現代のグローバリズムはもっとソフィスティケートされた仕組みで、標準化のローラーを世界中にかけていこうとする。そして、もちろん日本国内にも、欧米の最新の方法論を輸入して、強引に展開していこうとする人たちがいて、政財界やメディアに一定の影響力をもっている。

ここまで来ると、なんとなく、学生時代に読んだ丸山眞男『日本の思想』 における、「理論信仰と実感信仰」の議論を思い出す。丸山は日本文化における、二つの無意識的傾向を指摘する。一つは「理論=公式」に寄りかかって、万事にそれを適用しようとする、理論信仰派である。もう一つは、現実世界に対する自分の実感が全てで、それによって理論を拒絶する、実感信仰派だ。前者の方が少数だが口数は多く、後者は多数派で無言の抵抗をする。この書物は今でも必読の文献だと思う(昭和の思想史の文脈を多少知らないと読みにくいが)。

・・さて、以上の書き方でお分かりの通り、わたし自身はどちらの側にも組みしない。グローバルな公式を無邪気に振り回す理論信仰派には共感できないが、現場業務の特殊論で身構える実感信仰派も、問題があると感じる。『特殊病』のスタンスは所詮、守りでしかなく、将来のビジョンを生みにくいからである。

特殊か普通か、個別か普遍か、といった議論は元々、相対的なものだ。それは西洋哲学を知るとよくわかる。もちろん、日本と欧米の製造業の商慣習はいろいろと異なるが、どちらが特殊でどちらが普通かといった議論よりも、経済社会という大きなシステムの中で、どれが合理的かというふうに考えるべきだと思う。

そしてわたしは、現状肯定に陥りやすい特殊性への着目よりも、より広いパースペクティブでの『抽象化』能力を育てることの方が、現代の日本企業には必要ではないかと考えている。

わたしのよく使うたとえだが、在庫理論とは業種業界を問わず普遍的で、ストックする対象がダイヤモンドであろうが、トイレットペーパーであろうが適用できる。それは在庫理論が、対象を抽象化した上で得られた、マネジメント・テクノロジーだからである。ダイヤモンドとトイレットペーパーでは、単価も、売り方も、生産技術も、なにもかも違うように思える。だが、在庫として抽象化してしまえば、共通の考え方とツールが使えるのだ。

『特殊病』が日本ではびこっているのは、経済の下降局面で守りのスタンスにいるからだろう。だが特殊化思考だけでは、未来は切り開けない。わたし達の社会の個性や伝統を生かしながらも、外に打って出られるだけのビジョンを得るには、抽象化する能力が必要なのである。


<関連エントリ>
 「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/10565262/ (2009-07-06)
 「必要な人はいつもたった一人しかいない」 https://brevis.exblog.jp/2916445/ (2006-03-06)
 「書評:「反哲学入門」 木田元・著」 https://brevis.exblog.jp/23954340/ (2015-12-12)


by Tomoichi_Sato | 2023-08-12 21:00 | ビジネス | Comments(3)
Commented by DD at 2023-08-15 13:20 x
なかなか興味深く鋭い論考です
ここで、「特殊」はProprietary=固有 (非コモディティ 差別化された)が、当てはまるでしょう
日本の企業から個人に至るまで Proprietaryに拘るのは、顧客なり業務なりの「囲い込み戦略」の手段です
固有な仕様、操作、知識 とすることで、自分だけが扱える状況にしてしまう事で 顧客や仕事を囲いこんでしまう事が出来ます 代替不可能な状況を作り上げる事で、競合する他社(他者)を排除できます
標準化によるメリットよりも、コモディティ化による代替可能性による機会喪失のデメリットを重視する「買い手市場」である日本市場が大きな要因です
Commented by Yok at 2023-08-17 11:47 x
まさしく私の所属する会社のことだ、と読みながら考えました。顧客の希望の仕様をそのまま実現し「特殊なサービス」が提供できる稀有な企業だという自我を持っていたところ、コストがかさみ他社に決定されてしまうケースが多々ありました。
顧客と自社のあるべき仕様のコンサルティングこそしなければならないのでしょう。
Commented by たむちよ at 2023-08-18 12:38 x
素晴らしい文章ありがとうございます。
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