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書評:「世界史とつなげて学ぶ 中国全史」岡本隆司・著

「世界史とつなげて学ぶ 中国全史」

 
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世界史をモデリングするーーシステム分析家やシステム・モデラーだったら、そういう課題に挑戦したいと思うかもしれない。そうでなくても、中国という隣国の成り立ちと行く末について、俯瞰的な立場から考えてみたいと感じる人は少なくあるまい。そういう人におすすめなのが、本書である。

著者は大学の先生で、歴史学者である。ふつうプロの学者というと、実証的で専門的な、ある意味で重箱の隅をつつくような、分野に特化した人を思う。分析的な、細かく分けて識別していくタイプの知的専門家だ。だが著者はまったく逆である。この人は、モデリングの人なのだ。

著者のアプローチは、梅棹忠夫の「文明の生態史観」などに通じる。事実、冒頭の章で梅棹の文明的な地域区分の図が出てくる。ユーラシア大陸を、ざっくり東西に伸びた楕円形に模して、その中心を斜めに走る砂漠と周囲の乾燥地帯、そして両端のより湿潤な地域に区分した図である。乾燥地帯には遊牧が、湿潤地域には定着農業が生まれる。

そして文明は、「農耕民と遊牧民の交流地帯から生まれた」(p.32)というのが著者の仮説だ。 この地域において交易が始まり、マーケットができた。その結果、「自然と言語が発達します。また紛争解決の手段として記録を残そうという話にもなるでしょう。」(p.39)という。

中国の中心、とくに黄河流域の広大な平原を、『中原』とよぶ。中原はまさに、農耕民と遊牧民が行き交う場であった。中国史は中原の支配権をめぐる、農耕民と遊牧民のせめぎあいの歴史だったと言ってもいい。

ちなみに「この国を『中国』と言う名称・固有名詞で呼ぶようになったのは、20世紀に入ってからです。」(p.52)という。とはいえ、本書では、他に呼びようもないからだろうが、中国の歴史を辿っていく。

ユーラシア大陸の古代文明は、西方のオリエント(乾燥地帯と農耕の交わる場所)から発する。その社会は、城壁で囲まれた都市国家からなっていたが、古代中国の黄河流域でも同様であった

この中原の地に、最初の大規模な国家を立てたのは秦であり、それを受け継いだのが漢王朝だった。当時北方では匈奴が、強大な遊牧民族国家を形成していた。万里の長城が匈奴の侵入を防ぐために建てられたのは、有名な話だ。

著者は、漢王朝発展のプロセスは、時期的にもローマ帝国の発展と一致している、と指摘する。たしかにこうした並行現象に気づくと、世界史が見通しやすくなる。ユーラシアを東西に結ぶシルクロードを経由して、シルクなどの交易がすすみ、同時に文明的な制度も並行的に発達していく。

この東西の帝国は、似た時期に隆盛から衰退に向かう。その理由として、著者は気候変動に注目する。「3世紀あたりから寒冷化局面が顕著になり、その底を打って温暖化に転じるのが、9〜10世紀頃である」(p.78)。このため、 「遊牧民は、生存のためにやむなく草原を求めて、南への移動を開始します。これが4から5世紀のヨーロッパを中心に各地で大混乱をもたらした。いわゆる『民族大移動』の契機をなすものです。」(p.81)という。

匈奴の一部は南下して、中原に移り住み、中華と夷狄の雑居状態が出現する。また一部は西に動いて、フン族としてゲルマン民族大移動のきっかけを作り出す。これらは4世紀頃の出来事だ。

寒冷化は、三つの変化を引き起こした。
(1)城壁に囲まれた都市(邑)を中心とした社会から、地域の屯(村)への定住と自給自足的な社会への移行、
(2)それに伴う貨幣経済と交易の衰退
(3)政治軍事の中心(都市部)と経済生産の場所(農村部)との乖離、である。

そして豊かな時代は一つの国だったものが、それぞれの地域で自給自足のブロック経済になっていく。その結果として、中国史は五胡十六国の時代に移る。続く南北朝時代には、支配階層として貴族階級が生まれてくる。

この時代を支えたのが、一種の屯田制である。下層の人々を強制労働によって働かせ、農地を開墾し、生産性をなんとか確保する。軍人は中国では昔から、食い詰め者だったから、まさに屯田兵である。三国志で有名な曹操の政策は、まさにこれだ。

さて、古代文明が栄えたのは、農耕のできる(灌漑可能な)高地だった。長安はその典型だが、水資源が枯渇すると、その地位が落ちていく。

6世紀末に、300年ぶりに中原を統一したのが隋である。隋の煬帝は暴君として知られるが、彼は黄河流域と長江を結ぶ大運河を建設した。これにより、結果として隋以降は南方の開発が進む。これは大きな転換点であった。

隋の跡を継いだ唐王朝の太宗・李世民は、中国史上屈指の名君とされる。彼の力量の源泉として、著者はトルコ系(突厥)の軍事力と、ソグド人(西域ウラル海地域のペルシャ系民族)の商業力を取り込んだことに求める。事実、唐はある意味、非常に多民族的な国家だった。

ところで、多民族国家は、漢民族のための倫理規定である儒教だけでは、抑えきれない。そこに入ってきたのが世界宗教としての仏教だった。

太宗の息子の嫁が、中国史上唯一の女帝・則天武后になったのも、仏教を利用してのことだった。しかしその孫、玄宗皇帝の頃になると、ソグド人の有力者・安禄山の乱などが起き、唐は次第に衰退に向かう。

この8世紀から9世紀にかけてユーラシア大陸で起きていたのが、「中央アジアのトルコ化」だった。トルコが東アジアから西域に出て、交易などの支配権を持つようになるのだ。

さて、唐から宋に王朝が交代する際に、『唐宋変革』という重要な概念が出てくる。「唐宋変革とは、唐と宋との間で起きた大きな社会変動であり、東洋史や中国史では必ず出てくる事象です」(p.183)。これは、唐の滅亡(907年)~五代十国時代~宋の建国(960年)あたりの出来事である。

「中国では、この時期あたりから石炭の利用が始まりました。それも蒸し焼きにしたコークスにして、より強い火力を引き出していたようです。これによって木材の枯渇という局面を克服し、(中略)大量の金属生産が可能になります。つまりは工具や武器の生産が容易になるので、農業生産も戦争能力も高くなるわけです」(p.185)

この時期、土木技術・農業技術の進展によって、低湿地を水田として利用できるようになった。これは古代の乾燥地の灌漑農業よりもはるかに、広大な農地を獲得できる。とくにその効果は長江下流の江南地域で大きく、ここが稲作地帯になる。実際、中国の人口の歴史的推移をみると、宋の時代から拡大を始め、14世紀や17世紀の揺り戻しはあるが、「巨大な人口を抱える中国」の基礎がこの時期にはじまることが分かる。

この農業生産力が生み出した社会経済的効果は二つある。貨幣経済の拡大と、官僚制の発達である。経済拡大は、世界史発の紙幣発行につながる。また従来の生まれと血筋による貴族制度から、能力主義による官僚抜擢に比重が移っていく。

この宋を滅ぼしたのが、モンゴルであった。「チンギス・カンの即位(1206年)から14世紀末までの200年弱を、世界史では『モンゴル時代』と呼んでいます」(p.230)。これはユーラシアの歴史の大転換だった。

モンゴル帝国はユーラシアを東西に貫通し、実際に交通路や駅施設(ジャムチ)を設置した。元帝国は農業には税をかけず、商業の流通過程での徴収を財源にしていた。また宋では普及しなかった紙幣を広く流通させた。つまり、グローバル経済システムを構築していったわけだ。

しかしモンゴル帝国の衰退を導いたのも、14世紀後半からの寒冷化だった。この時期、ヨーロッパでは「黒死病」(ペスト)が流行するが、悪疫は中国にも広がっていた。

結局、モンゴル帝国崩壊後、ユーラシアは東西に分裂し、二度と統合されなかった。西にはチムールの帝国、東には明王朝が成立する。明は元の逆をいき、農業優先、そして鎖国政策(海禁)をしく。租税も農作物と労働力の提供で、貨幣を使わない現物主義の経済制度にする。

しかし民間の経済・文化の隆盛とともに、流通貨幣としての銀の輸入に頼るようになり、鎖国政策は破綻していく。他方、都市化の進展と、旧来の官僚任命制度とのずれのために、官と民の関係がしだいに乖離していく。権力を持つ官の腐敗と、民間の勝手な行動。現代中国の社会意識の基礎は明朝時代に形成されるのだ。

漢民族の国家だった明を最終的に打ち破ったのが、満洲民族の清である。最近の日本では「満州」とも書かれるが、正しくはサンズイの付いた「満洲」で、これは地域の名ではなく民族の名前だった。彼らは万里の長城の東端にある山海関をやぶって(というか関所の管理官が自分で開けて引き入れたのだが)、中原に侵入する。

その清朝は、「究極の小さな政府」だったと著者は言う。少数民族の満洲が多数の漢民族その他を力で統治するのだから、それはある意味合理的な、あるいはやむを得ない選択だったのだろう。貨幣は各地域が独自に発行していた(雑種幣制)。

その清王朝を揺るがしていったのは、じつは近代化した西洋諸国による侵入と植民地化だった。だが「小さい政府」では、国の近代化はできないのだ。そして日清戦争の敗北で、彼らにはじめて、「領土」の意識が出てくる。「もともとこの言葉(領土)は中国の漢語ではなく、日本語です」(p.417)。そして「中国」という国名を名乗ることも、この時期に明確になる。

長くなったので、辛亥革命以後は、あえてふれないことにする。ただ、著者の問題認識は、とても明白だ。歴史の先生なのに、こんな事を書く「民間・経済から乖離した政治とは、単なる派閥争い・権力闘争で、コップの中の嵐というべきもの」だ(p.344)。だから、名前や出来事や年代など、覚える必要もない、という。

また本書には、『中国人の国民性』による歴史の説明はない。わたし達がしばしば行う、文化や風土や民族性による歴史の解説は、著者のモデリング方法論にはないのだ。

では、歴史社会のモデリングとは、どのようなアプローチで考えるべきか。それは、自然条件と気象が生態系を決め、生態系が人間の農業牧畜生産の形態を決め、農業形態が住居・社会の地理的構造を決めていく。それが経済と政治軍事のあり方を左右していく。こういう依存関係と因果の連鎖で、マクロな動きを見ていくのである。

このような著者のアプローチには、もちろんいろいろと批判が可能だろう。乱暴な断定である、実証が乏しい、例外があれこれある・・等々。ただ、そうした批判は結局、「モデリング」という行為への違和感、無理解なのだと思われる。

プラモデルを見て、「実物と違う」というのは簡単だ。だが、モデルとは現実を抽象化したものだ。それによって複雑な事象が理解しやすくなり、その動きを予測しやすくなる。それがモデルの効能なのである。英語の格言にある通りだ:”Models are all wrong. But they are useful.”

歴史とは上に立つ人間、英雄や権力者の人格と感情のドラマだ、というのが多くの人の歴史観だろう。そしてこれは、中国古来の歴史記述のスタンスでもある。だがそこには自然環境や技術などの要素の入り込む余地が、きわめて乏しい。

ユーラシア大陸では灌漑可能な乾燥地帯の高地に、古代文明が発生した。最初はオリエントで、それを遅れて追う形で、中原に文明が生まれる。その頃、湿潤な江南の地は未開だった。つまり南北格差問題があった。しかし運河の形成、そして火力や鉄などの技術開発は、次第に南をも豊かにしていく。

中原の統一国家は、寒冷化により揺さぶられ、周辺の遊牧民族の侵入で揺さぶられる。そのピークがモンゴルだった。だが15世紀以後は大航海時代になり、東西のシルクロードの重要性が失われていく。かわりに出てきたのは、貿易で豊かな沿岸地域と内陸農業地域の格差、東西格差だ。これが現代中国にまで、難題として残っている。

中国は、漢民族が多数派とはいえ、本質的に多元的・多地域的なエリアだ。そこを近代以降は「国民国家」としてまとめようとして、呻吟している。近代産業の時代、地域分権的な「小さな政府」では、発展のための戦略投資ができない。だから共産党が強権を握り続けているわけだ。

だが、中国の統一国家が揺らぐ場合、決まったパターンが有る。それは「貧しい下層民が政権から乖離するとともに、富裕層が諸外国と結んで国家を顧みなくなること」(p.447)である。現代の中国の為政者が最も恐れているのは、まさにこの事態なのである。







by Tomoichi_Sato | 2023-06-27 10:44 | G 書評 | Comments(0)
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