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書評2冊:河合雅雄「森林がサルを生んだ」、伊谷純一郎「チンパンジーの原野」

  • 「森林がサルを生んだ―原罪の自然誌」 河合雅雄・著

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河合雅雄と伊谷純一郎は、日本のサル学を作り上げた今西錦司の高弟である。ともに京都大学教授となり、霊長類のフィールド研究と社会構造の理論構築に長年、従事してきた。

河合雅雄「森林がサルを生んだ」は1979年、伊谷純一郎「チンパンジーの原野」は、1977年に出版された。どちらも学術書ではなく、一般書の位置づけで、雑誌「アニマ」の連載を元にしている。だが内容もアプローチも、とても対称的だ。2冊を読むと、ちょうど複眼視のように、人間社会の成り立ちが立体的に(ただし、まだ朦朧としているが)見えてくる。

現代の生物学研究は、ネオダーウィニズムと分子進化論のパラダイムの中にあり、擬人的な解釈や表現は、科学にふさわしくないとして排除される。しかしサルは、社会的にも知的にも、かなり高度なものを持っている。その研究者は、彼らの感情や動機などを想像せざるをえない。だから河合雅雄は、(ゴリラが)「死んだゴリラの上に葉っぱをかけて去っていったという現象の中に、宗教に通じる何ものかを見出そうとするのは、擬人的に過ぎるという非難を甘受しなければならないだろうか」(P. 12)と書く。

もっとも本書の主対象は文化現象ではない。もっと原初的なサルをふくむ霊長類の進化を、動物生態学のパースペクティブでとらえようとする。哺乳類は、爬虫類が開拓した生態的地位(ニッチ)をそっくり受け継いだが、「サルは森林の中に生活の場を開拓していった。爬虫類の中で、森林の樹上をすみ場所にしたものはなかった」 (P. 18)わけで、新しい開拓者なのである。そして、森林の樹上生活者を脅かす捕食者はほとんどなかったため、サル類は適応放散して分化していった、ととらえる。これが本書の出発点である。

サルは森林の遊動生活を通じて、豊富な食物を手に入れ、食性により次第に個性化を強めていく。また樹上生活のため出産数を1頭にまでへらし、出産間隔を長くしていく。

ところで、生まれてすぐに巣を離れる離巣性の動物は、行動を子孫に伝えるためには、遺伝しか方法がない。しかし群れ生活は、伝播できる行動のバラエティーを、大きく広げた。それにより、行動の模倣と、初期的な文化(有名なイモ洗い行動のような)が発生していく。無論、人間のような言語文化は、さらにそれを広げた訳だが。

その先に続くのは、道具であった。「人類とは道具を使う動物である」とかつては言われたが、「野生チンパンジーの道具使用と製作が明らかにされたことによって、この定義はあえなく廃棄される運命になった」(P. 119)

では、道具の主な目的は何か。欧米系の学者は、闘争における武器ではないか、と考えるようだ。ただ、著者は反論する。「ゴリラ、チンパンジー、ホエザルなどいくつかの種で、外敵に対して棒をふりまわす、木の枝を投げる、落とす、石をけとばすなどをして、威嚇や攻撃を試みることが観察されている。(中略)しかし、武器としての道具使用は、霊長類でも極めて貧困であり、むしろ食物獲得の問題に基盤を置いていると考える方が妥当なようだ」(P. 124)

すなわち、道具の使用は、種としての食性的な適応能力の拡大にあった、との立場である。ある意味、たしかに適応能力の拡大こそが、進化の歴史だろう。もっとも、「適応は、生物の進化を可能にする原動力であるが、実は適応とは一体どういう性質のものなのか、生物学はまだその実態を明らかにしていない」(P. 142)とも釘を差している。

さて、河合雅雄の研究上の大きな業績の1つは、ゲラダヒヒの社会が重層的な構造を持っていることを明らかにした点だ。ゴリラやチンパンジーなど霊長類でさえ、複雑だが単層的な社会構造しか持たない。しかしゲラダヒヒは小さな群れの上に、それを束ねた大きな群れ集団を持つ。まるで人間の氏族と地域社会みたいだ(無論、これは喩えである)。

この社会構造のあり方は、「なわばり制」と関係があるらしい。「なわばり制を持つ種は、すべて単層の社会であることに注目する必要がある」(P. 181)

なお、欧米の学者は、なわばりの原理をもとに、集団の形成から、人類の国家の起源までをつなげて考える傾向があるらしい。そこに貫通するのは、互いの生存競争と集団間の闘争の視点である。しかし著者はこの見解に批判的だ。狩猟採集民の調査によって、彼らの社会には、なわばり制がないことが明らかになってきたからだ。

そして結局、本書の関心は、サルの集団構造と、個体間の闘争や殺し合いの問題に収斂していく。「集団を作る肉食獣は、仲間を殺したり食べたりすることがかなり一般的であるようだ。この理由はまだはっきりしないが、1つの解釈はポピュレーションの自己調節と言うことに求められるだろう」(P. 240)。本書の副題が「原罪の自然史」となっているゆえんだ。

著者がなぜこのような問題意識で本を書いたかについては、あとがきでようやく明らかになる。当時、著者は日本政府の援助を得て、エチオピア南部に国立公園を建設し、調査を行うプロジェクトを進めつつあった。しかし、エリトリア及びソマリアとの内戦が激化し、涙をのんで中止の決断をせざるを得なかった。「私は効果不幸か、ウガンダとエチオピアの革命の際に現地にいた。そしてアフリカの政情や、今回のエチオピアの紛争でも、人間の計り知れない闘争性と権勢欲を如実に感じてきた。(中略)また、開発途上国と言われる国の人々が、西洋文明を摂取することによって、いかに素朴な人々の心をすさませて行くかを、肌で感じてきた」(P. 252)

人類という、様々な長所を持ちつつ、強い攻撃性も内包した生き物が、なぜ出現したのか。人類は霊長類から分岐して進化したわけだが、霊長類は他の哺乳類とはかなり異なった特性を内包している。その理由は、森林を生息場所にしているという生態学的背景から考察してみたいというのが、本書の目的意識である。その問いに、必ずしも決定打となる答えを出してはいないが、数多くのヒントが散りばめられている。そんな求心力のある本である。

  • 「チンパンジーの原野―野生の論理を求めて」 伊谷純一郎・著

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伊谷純一郎の「チンパンジーの原野」は、非常に不思議な本である。サルに関する研究の本かと思って本書を開くと、第1章から第2章、第3章と、ずっと西部タンザニアの調査紀行が旅行記風につづられ、現地のトゥングウェと言う人々の文化人類学的な記述が続いていく。チンパンジーの話が出てくるのはようやく前半3分の1を過ぎてからである。

ただし、この文化人類学的な分析が、淡々と書かれている割に、半端な深さではない。著者はトゥングウェの言語と習慣に精通し、彼らの生活を取り巻く多様な動物・植物が、その言語空間の中でどのように定義され分類されているかを、学名との対比の形で、精緻に洗い出す。これは生物学者としての訓練を受けた研究者でなければ、できない仕事だ。

さて、4章からしばらくは、チンパンジー集団の観察方法と分析の実践がつづく。移動性の高い野生動物群の観察というのは、とほうもなく時間と工夫と忍耐力のかかる仕事だが、GPSもデジカメもない時代のアフリカで、著者らはそれを実現する。研究の主題はなにか。それは、サルと人間の、社会構造の分析である。

「霊長類の社会構造の発展の歴史は、より多くの個体との交渉を保とうという傾向と、特定の集団の安定した結びつきを達成しようという、背反する2本の糸に操られてきたということができる」(P. 148、傍線は筆者)と著者は書く。これはまさに、体系的理論家でもある伊谷純一郎がこの問題に対して引いた、見事な補助線であろう。

チンパンジーの社会構造を調べつつ、群れがオス同士の結びつきを媒介にして、安定して継承されていくことに着目する。それは世代間の継承のない、ゴリラなどとの違いでもある。

本書は第8章から再び、ムブティ・ピグミーという森に住む狩猟採集民との交流と記述になり、最後に「損失の社会学—孤猿・仔殺し・カニバリズム」「混交の社会学—混群・交雑・収斂」の2章の考察でまとめられる。

霊長類には子殺しや同族を食べるカニバリズムの現象も多くの観察が積み上がっている。「人類の祖先の化石の中に、おびただしいカニバリズムの痕跡が残されていることも思い起こさなければならない。(中略)同時に、この一連の現象が、高等霊長類に至って目立って増えていることにも注目する必要がある。それは、進化を遂げたが故に、本能の絆から半ば解かれたが故に、現れてきた現象だと言うことを意味している」(P.300)。そして、ローレンツらのエソロジーが、進化した霊長類に単純にその論理を外挿する傾向をいましめている。

著者はさらに、サルにはしばしば異なる種からなる群れが存在し、その交雑が見られることを手がかりに、「高等霊長類の進化は、種の分化だけではなく、いくつもの種の収斂が大きな役割を果たしてきた事はまず間違いがない。そして、我々人類も、混交に混交を重ねながら、ホモ・サピエンスへと収斂していった歴史をもっているにちがいない」(P. 319-320)と、かなり大胆な推論をする。

分子進化と自然選択によって生物のありようが説明できる、というのがネオ・ダーウィニズムのパラダイムである。しかし高度な知能を持つ霊長類の場合、記憶・判断・意思・推測・感情など複雑な脳の内部状態を持っているため、単純な外界反応のメカニズムだけでは行動を説明するのが難しい。とくに集団(社会)と文化(伝承される習慣)を持ち始めれば、なおさらである。そこを動物社会学の切り口で、ほとんど構造主義のような視点を持って挑み続けているのが、日本のサル学の面白さであろう。

それと同時に、河合雅雄や伊谷純一郎らの著書をよんで感じるのは、英米の研究者達が無意識に前提する、「生存競争となわばり闘争」中心の視点への違和感である。サルや人の社会に、様々な形での同族への攻撃性が存在するのは、研究からも明らかだ。しかし同時に、継承されサステイナブルな集団社会を形成する能力も発達してきたことも、見過ごしてはならない。おそらく、社会には存続と刷新の、両面の力がつねに必要なのだ。その両面を見る視点こそ、日本のサル学のポテンシャルなのだろう。




by Tomoichi_Sato | 2023-05-09 15:12 | 書評 | Comments(0)
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