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書評2冊:「対談 パウロを語る」(佐古純一郎・井上洋治)、「使徒パウロ 伝道にかけた生涯」(佐竹明)

  • 「対談 パウロを語る」 佐古純一郎・井上洋治著  

対談 パウロを語る』(Amazon)

パウロという人は、「キリスト教」を作った人だ。——こう書くと、「え、キリスト教ってイエス・キリストが始めた宗教じゃないの?」という疑問の声が上がりそうな気がする。それはYesでもありNoでもある。

ナザレのイエスという人は、ユダヤ教から出てきた宗教改革者だった。ローマ帝国支配下にあえぐユダヤ人社会にあって、かなりラディカルな改革の主張と宣教をし、結局はユダヤ人支配階層から憎まれて、首都エルサレムで十字架刑で亡くなった。だが彼は、自分がキリスト(これ自体はギリシャ語で、ヘブライ語のメシア=油を注がれ聖別された者、に相当する)だと皆に言って回った訳でもなく、自分は神の子だと宣伝した訳でもない(自分は「人の子」だといっている)。

では、彼が神の子であり、人類皆の罪をあがなうために十字架上で亡くなった、という主張(信仰)は誰がはじめたか。それは彼の弟子たちだった。イエスに直接付き従った12人の弟子たちは、イエスが捕らえられた晩、全員が逃げてしまうのだが、後に「じつはイエスは復活された、わたし達が証人だ」と神殿などで言い出すようになる。ただ彼らは主にエルサレムにとどまり、ユダヤ人達にそのメッセージを伝えていた。そして、そのままだったら、キリスト教はきっと今日でも、パレスチナの一部地方にとどまって、中東の奇妙な宗教の一派と見なされるだけだったかも知れない。

キリスト教が現代のように広まったのは、広大なローマ帝国の、様々な民族の人達(ユダヤ人から見ると「異邦人」)に信じられ、後にはローマの国教となったからだった。そして、その基礎を作ったのが、パウロという人なのである。パウロ自身は元々、熱心なユダヤ教徒であり、若い頃はキリスト教徒を迫害する側だった。だがある時、(伝承によればダマスカスへの旅の途上で)劇的な回心を遂げる。そして、その後はきわめて精力的にローマ帝国の東半分を布教して歩き、最後にローマで殉教する。

イエス自身は、書いた物を一切残さなかった。しかしパウロは数多くの手紙を残している。キリスト教の聖典である「新約聖書」には、イエスの伝記である『福音書』4種類に加えて、10数通に及ぶパウロの手紙が収録されている。そしてパウロの手紙は4福音書よりも時代がずっと早く、そういう点では史料としての価値が高い。

だがパウロ自身は、生前のイエスには直接あったことがないのだ。なのに、「キリストとしてのイエス」の熱烈な弟子となり、今日のキリスト教の基礎を作った。不思議な人である。彼の思想や動機はいかなるものだったのか。

彼の手紙自体は、あまり具体的なエピソードや体験談やたとえ話が殆どなく、けっこう抽象度の高い説諭みたいな文体が続く。また主知的で霊肉二元論みたいなところは、今ひとつなじめなかった。とても分かりにくい人に、わたしには感じられてきが、今回あえて、2冊の本を取り上げ、よんでみた。そして確かに、この2冊はパウロという人の核心に、かなり迫る手がかりを与えてくれるものだった。

「対談 パウロを語る」は、プロテスタントの牧師である佐古純一郎師と、カトリックの神父・井上洋治師との対談である。二人とも学識の深い宗教者だ。

佐古師は最初の方で、弟子たちの中での「ヘブライストとヘレニストの対立」という視点を提示する。十二弟子たちは基本、エルサレムにいてユダヤ教の枠組みの中にとどまっている(ヘブライスト)。しかしギリシャ語を話すヘレニストの弟子たちは、神殿の権威と真っ向からぶつかるため、最初の殉教者ステファノのように厳しい迫害を受ける。そしてパウロは、このヘレニストの側に立っている、と。

ヘブライストとは、エルサレムを中心とするユダヤ地方にすみ、伝統的なユダヤ教、すなわち神殿に詣で、律法中心の暮らし方をしていた人達だ。他方、ヘレニストとはユダヤ地方を遠く離れて、地中海沿岸の様々な場所に暮らし、主にギリシャ語(当時の世界語だった)を話していたユダヤ人たちのことだ。パウロ自身はタルソスという(現在はトルコに属する)街の出身で、ヘレニストである。

エルサレム神殿から遠く離れていた彼らヘレニストのユダヤ人にとって、自分たちの義、正しさの根拠となるのは律法のみだった。かなり複雑な律法の細目にどれだけ忠実に従えるか。でもそれは多くの庶民にとっては困難な道だった。回心後のパウロは、そうした律法に依拠した自己義認をナンセンスと批判し、信仰によってのみ人は神から義とされ、救われると説いた。

回心したパウロの後半生で、一番大きな転換点となったのは、起源48年頃と推定される、「使徒会議(エルサレム会議)」であった。エルサレムにのぼったパウロは、そこでペテロやヤコブらヘブライストの使徒たちと話し合う。そして、ユダヤ人への布教は彼らが担い、パウロは外国とくに異邦人への伝道を主に行う、という分担が成立したのだった。パウロの長大な伝道旅行は、ある意味これに始まる。

パウロはすでにアンティオキアの教会に拠点を持っていたが、小アジアとギリシャ世界をせめていく。アテネでは失敗したようだが、交通の要所コリントにはしばらく滞在し、教会を作っていく。彼の遺した手紙の多くは、自分が築き上げて残した各地の教会コミュニティへの、フォローアップのメッセージだった。

唯一最大の例外は「ローマの教会への手紙」で、これはまだ訪れる前のローマにあてた、神学論を含むかなり長い文書だった。結局、ローマの市民権を持っていたパウロは、エルサレムで捕らえられた裁判への不服を皇帝に上訴するため、ローマに赴き、そこで殉教する。紀元61年か62年頃のことだ。

ちなみにパウロの生涯を知る手がかりとして、彼自身の手紙以外に、ルカが著した「使徒言行録」がある。これは成立がおそらく紀元80年代で、パウロの死後かなり経ってからのものだが、なぜかパウロがローマでも伝道に従事したと書いて結びとしており、殉教した事は書いていない。

「使徒言行録」も新約聖書に含まれており聖典だが、その記事にどこまで信憑性を求めるかで、著者らはかなり微妙な瀬踏みをしている。逆に言うと、ルター派の佐古師もカトリックの井上師も、聖書を文字通り一字一句真実だと信じる「キリスト教原理主義」からは、ほど遠いということだ。

本書の対談をよんで、いままで平板だったパウロ像が、少しは立体的に感じられるようになった。でも本書の一番面白いところはむしろ、後半の第4章・第5章あたりで交わされる、日本における布教の難しさに関する、お互いへの吐露だろう。

「北海道から沖縄までの中都市ぐらいはほぼ伝道に参ったのですけれども、行く先々で、牧師は大体皆、『佐古先生、この町が一番伝道が難しいんですよ』と言うんです、どこへ行っても」(佐古純一郎、P.156)。
「結局、ヤソと赤(注:キリスト教と共産主義の蔑称)というのは、要するにヨーロッパの言わば『個』の文化を代表するようなもので、日本の『場』の文化を破壊するものであるという、非常に本能的な民族の直感があるんだと思うんです」(井上洋治、P.232)
「日本人が一番優秀な民族だというような選民思想ですね、それをぶち壊すのがイエスの教えだと思うんですよ」(佐古純一郎、P.239)。
「私はね、だいたい、『キリスト教』と言うよりも、『キリスト道』と言うべきだと思うんです。」(井上洋治、P.218)
・・こうした発言は、生涯、日本での伝道に従事しながら、なかなかキリスト教が浸透していかないお二人の心情を表す発言だと思う。

だからこそ、地中海世界に伝道していったパウロの苦心と力量への、畏敬の念へとつながるのだ。なぜなら、彼が布教した相手は、ユダヤ教徒は全く異なる文化背景を持つ国々だったからだ。当時の地中海世界はローマ帝国が政治・武力面では支配していたが、知的な面ではギリシャ文化の影響が強かった。

そして、ギリシャには復活信仰という考え方がなかった。アテネでの宣教の失敗はその点が強かったらしい。「体というのは非常に問題なんですね、ギリシャ人にとっては」(井上洋治、P.149)。だが復活こそ、キリスト教信仰の中核にあるものなのだ。

その後のパウロは、「ユダヤ人のためにはユダヤ人になり、異邦人のためには異邦人になる、すべての人を得るためである」(コリント書第9章)とあるように、人を見て法を説くことに徹していく。著者二人が最も共感するのは、この点なのだろう。現代日本のキリスト教は、明治になってから、欧米人によって再び持ち込まれたものだ。それは舶来文明の後光を背負っていたが、日本人にはとても異質に感じられるものでもあった。その点を乗り越えて、日本人のためのキリスト教を見いだしたい、という強い思いを、対談の結びに感じるのである。


  • 「使徒パウロ 伝道にかけた生涯」佐竹明・著


本書はもともと、一般人向けの優れた入門書が多いNHKブックスの1冊として、刊行された。なので当初は何となく、信者向けの「聖人伝」みたいな本かな、と思っていたが、読み始めてまったく違うので襟を正した。これは本格的かつ客観的な記述による学術書である。(その後2008年に新版が新教出版社から出ている)

そのことは、弟子ペテロたちが復活したイエスに出会う、キリスト教徒にとって極めて重要な出来事を、ペテロらの「幻視体験」と書く点でも、明らかだ。同じように、キリストが亡くなって数年後(おそらく紀元33年頃)にあった、パウロの劇的な回心のエピソードについても、幻視体験と述べている。なお、「幻視体験そのものは、当時にあっては珍しいものではなかった。(中略)黙示思想家達は断食、祈りなどによって、そのような体験をする準備すらした」(p. 69)という。

著者は最初に、ユダヤ教の史的背景についてふれ、イスラエルの預言者の活動は前6世紀の王国崩壊の頃に終熄し、新約時代まで続いていた、との記述で始める。預言者達の沈黙・不在をカバーしたのが、律法主義であった。「神はもっぱら律法を通してその意志を人びとに伝達する」(P.14)というのが、パウロが生まれた頃のユダヤ教であった。

イエスはこのような時代に現れて、父なる神は直接人びとを、それも律法を守り得ないような下層の人びとをも招いていると説いた。律法主義を軽んじる布教活動ゆえに、ユダヤ教指導者と衝突し、最後は刑死することになる。

ところでこの時代、ユダヤ教自体もローマ帝国内で積極的に伝道を行っており、それなりに成功していたらしい。ユダヤ教への改宗者もユダヤ人とされ、ローマ帝国内総人口の約7%、450万人に達していたという(P.96)。すでに領域内の多くの都市にユダヤ人は住んでいた。

パウロもその一人であった。パウロはギリシャ名であって、サウロというユダヤ名ももっていた。当時、そのように二つの名を持つのは一般的であったらしい。パウロは当初、熱心なユダヤ教徒として、新しく出現したユダヤ教からの逸脱者(ナザレのイエスが救世主メシアであったと信じる人達)の迫害に、シリアで従事していた。

その彼が突然、ダマスカスへの旅の途上で180度転換し、イエスこそキリストであると信じるようになる(もっとも回心後3年間はアラビアに隠棲して、しばらく宗教活動を控えていたらしい)。その回心の本当の理由は、直接資料も乏しく、我々には分からない。

パウロは、キリストの死と復活という出来事に、神の歴史への介入を見たのだ、と著者の佐竹明氏は書く。「神はまもなく歴史に介入し、その結果今の世は終わって新しい世が始まるとする、ユダヤ教の黙示思想」を下敷きとして、ただし神の介入は「全くちがう形で実現した」と受けとった、という(P.80)。すなわち、世界規模の(神による)歴史の転換、神の計画の変更としてキリストの十字架をとらえた点が、イエスの直接の弟子たちと違う、パウロのユニーク性かと思われる。

回心と同時に、パウロは「異邦人への伝道こそ神に与えられた自分の使命である」との確信をもつようになる(「召命」とよぶ)。最初はアンティオキアの(おそらくエルサレムを追放されたヘレニスト信者達が作った)教会を拠点とし、後に広大な東地中海世界を布教して回る。それは、多神教世界への伝道であった。ユダヤ教とキリスト教は、強烈な一神教である点が特徴になっており、偶像(様々な神の姿を作って拝む行為)の排除が、その布教伝道の中心になったと想像される。

ところで、「対談 パウロを語る」にもふれられているように、紀元48年のエルサレム使徒会議は、パウロの活動にとって重大なメルクマールであった。この会議で、パウロは異教徒への伝道を、エルサレム教会から正式に任せられる。この当時、エルサレム教会の指導的役割をしていたのは、(ペテロではなく)イエスの弟ヤコブであったらしい。ヤコブはより厳格な律法遵守の立場を取っていたようだ。

他方パウロは、イエス・キリストの復活は律法の終わりを意味する、と考えている。両者は律法問題、とくに割礼と食物禁忌で立場の違いがあらわになっていく。そして翌年のアンティオキアの衝突(訪問したペテロの中途半端な態度について、パウロが批判した)がおきる。この事件をきっかけに、パウロはそれまで後ろ盾だったアンティオキア教会とも疎遠になり、独立して使徒としての伝道活動に踏み出すのである。

ちなみに当時、「使徒」は身分称号であったようだ。そしてパウロは自分を使徒と呼んでいるが、ルカの「使徒行伝」は、彼を使徒と呼ぶことを避けている。ここらへんに、パウロの同行者であり協力者だったはずのルカの、微妙な立ち位置が知られる。ルカはキリスト教がローマ帝国を救済する宗教となる、との史観で記述しているらしく、著者の佐竹明氏は、ルカの使徒行伝の史料価値には、かなりの留保をおいて参照している。

パウロの没年は正確には分かっていない。本書では紀元59年ごろ、ローマに移送されて直後に処刑されたとしているが、遅い推定では67年頃との説もある。

パウロという人の書簡を読む際に、気をつけるべき点が一つある。それは、パウロが、世の終わりとキリストの再臨はもうじきに来る、と信じていた点だ。これは本書での学びの一つだった。「キリストの十字架と復活は終末の開始に他ならず——一般に、神の歴史への介入は終末期の出来事として期待されていた——、その終末はしかし、まもなく完成するはずのものであった。その点、それから2000年近く経ち、もはや十字架と復活を少なくとも時間的な意味での終末の開始ととらえることのできなくなったわれわれとは、受け取り方がちがう」(p.192)。

「悔い改めよ! 神の国の到来は近い」とのメッセージは、洗礼者ヨハネも、その弟子筋であったイエスも、さらにその(間接的に)弟子であったパウロも、共通して訴えていたことだった。以来、2千年。とりあえず、わたし達はまだ、世の終わりの到来を見ていない。

それとも、すでに今の世は、末世の状態にあるのだろうか。わたし達はいつになったら、暴力と専横の歴史から学んで、多民族間の平和と互いへの尊重に生きることができるようになるのだろうか?



by Tomoichi_Sato | 2023-04-08 16:18 | 書評 | Comments(0)
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