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『考える技法』を学ぶ上で大切なこと

  • 考える方法を教わったことはあるか?

思考とモデリングの技術に関する解説を、当サイトでとりあげるべく、構成と切り口について考え続けている。そもそも、思考とはどういう営為なのか。その技術を学ぶには、どういうやり方がベストなのか。第一、わたし達は本当の意味で、「考える方法」を教わったことがあるのか。

わたし達は学びの姿勢を、自分が受けた教育の中で身に付けてきた。思考とモデリングのスキルを学ぶ際にも、それが無意識に影響する。そして、わたし達の社会における教育のあり方は、今ひとつ、考える力を育てる方向に向いていない。学ぶ側も、思考の方法を身に着けたいとは思っていないらしい。そのことを、この1年で何度か痛感することがあった。

というのも、どういうめぐり合わせか、昨年は人材教育カリキュラムの開発に、複数の場面で携わることになったからだ。相手は社会人で、テーマは主に「スマート工場」ないし「製造のデジタル化」であった。今、日本の製造業では『デジタル人材』が不足しており、その育成が急務になっている。そう、おカミも世の中も認識しているらしい。

デジタル人材がいかなる種類の人を指すのか、という疑問はさておき、とりあえず世の要請に応える形で、わたしが関わっている(財)エンジニアリング協会「次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」でも、育成カリキュラム作りを担うことになった。ところが、その途上でしばしば、「教育」に関する世の通念と、わたしの考え方の違いに直面したのだった。

デジタル人材と言ったって、製造とデジタルにかかわる局面に限っても、カバーすべき知識範囲は非常に広い。だから、その全体を教えることなど不可能に近い。ただし幸いにも、日本の製造業に携わる人達は、今も概ね、優秀だ。そういう人たちにとって大事なのは、方法を学ぶことで、個別の知識を覚えることではない。

そこで全体の見取り図だけを示して、あとは受講者が自分の頭で考え、必要な知識の水源には、自分の力で到達できるようにすべきだと思った。だが、日本の教育の文脈の中で、こんなふうに考える人間は、どうやら少数派らしい。

  • 授業あるいは教育に対する考え方の違い

では、多数派の人は、「学び」や「教え」を、どう捉えているのか。それは、大学の教養課程での授業を思い出してみれば分かる。学生は大教室に集められ、先生方の講義を聞かされる。とても一方的な、知識伝達である。

先生は最後に試験をして、理解度を評価する。そして採点し、成績簿で通知する。そしてこれが「教育」の姿だと思われている。

大学で語学や一般教養を教える教師は、教壇の上に立つ。学生と同じ平面の上にはいない。教師は生徒の顔も名前も、覚えない。つまり相手は人間ではなく、単に知識を吸い取るだけのロボットと見ていることになる。

知識と言うのはある意味、結果である。考えると言う探求行為がたどり着いた結果である。大学の講義が一方的な知識の伝達に終始している事は、一番肝心な考えるというプロセスについては、教える気がないことを意味している。

それどころかもしかすると、大学の先生たちは、考えるというプロセスを言語化し、あるいはモデル化して、意識に全景化することをすら、怠ってきたのかもしれない。自分たちは教えられずとも、無意識に、上手にできている。それは自分達に素質があるからだ。だから教育とは、素質のある学生を、試験を通じて拾い出すことに他ならない、と。

他方、試験を受ける側は、伝えられた知識を丸暗記して答えるのが、一番効率的である。知識を獲得したプロセスも目的意識も抜きで、結果だけを一時的に、頭に詰め込む。だからこそ「一夜漬け」などといった言葉が平気で試験と並んで語られる。翌日になると忘れてもOKという意味だ。

だとしたら、わたし達の社会の「考える能力」が低下するのも当然ではないか。

  • インプット学習とアウトプット学習

大学でこのような「教育」をしばらく受けた後、専門課程に進み、研究室に配属されるようになったときの、安堵感を、わたしはよく覚えている。少なくとも先生や先輩たちは、お互いの顔と名前を知っている。そこは教える側と学ぶ側が、個人対個人で接する場だった。

ただし、大学の専門課程の研究室は、決して理想の教育システムとは言えなかった。そこは一種の徒弟制である。徒弟制度とは、要するに、「俺の背中を見て学べ」と言っているに過ぎない。そこには体系化された方法論などない。先生たちもそうやって教えられてきた。だから、自分たちもそれを受け継いでいる。それがおかしいとか、非効率だとかとは考えないらしい。

それでも、大学の4年間のカリキュラムを全体としてみると、1つだけ良い点がある。それは、前半がインプット学習、後半、特に最後の1年がアウトプット学習になっている点だ。

インプット学習とは、知識情報の取得である。これに対して、アウトプット学習とは、自分が得た知識、情報材料にして、自分の頭で考え、自分で論理を組み立て、自分で言語化することを練習する過程だ。学生は、最後に、卒業制作なり、卒業論文なりを作ることを求められる。そこには特段の正解は無い。これがアウトプット学習である。

ちなみに、論文式の試験がアウトプット学習だと思っている人がいるが、それは出題者の意図による。日本の多くの試験では、論文の中で、カバーすべきキーワードやその順序等が、事前に規定されていて、回答がその通りに書かれているかどうかで、採点することが結構多い。つまり、正解があるわけだ。そうなると、この正解を丸暗記した人間が効率よく試験をパスできる。これはアウトプット学習とは呼べない。

アウトプット学習には、自分の頭で考え、他者と議論すると言うプロセスが不可欠だ。それによって初めて、取得した知識、情報を、多少なりとも、自分の血肉にする事ができるのである。教育には、あるいは人財の育成には、インプット学習とアウトプット学習の組み合わせが必須である。そして順番は、この順序でしかできない。

  • 思考とモデリングについて大学院で学んだこと

ところで、わたし自身が本当の意味で、思考とモデリングについて学びを得たのは、修士課程の2年間だった。わたしの大学での専攻は化学工学(Chemical Engineering)で、プロセスシステム工学の研究室に入った。そして修士論文のテーマは、いろいろと迷った後、湖沼生態系のシミュレーションによる環境問題の解決を選んだ。
(ちなみに、生態系でどのような要素間のループが生じると、貧酸素などの環境問題につながるかについては、「システムが崩壊するとき」を参照のこと)

この化学工学と生態学という2分野を、たまたま選んだのは幸運だった。というのも、この2分野の学問は、いずれも非常に複雑な系を対象としているため、上手なモデリングをしないと一歩も先に進めない。ここでは化学工学や数理生態学がどんな学問かの説明は割愛するが、結果として、両分野はモデルの宝庫となったのだ。

モデリングという仕事は、自分の手元に、いろいろなモデルのひな形をある程度たくさん持っていて、すぐに思い出して再利用可能にすることが望ましい。その点で、これはとても重要な基礎トレーニングだった。

同時に、研究室では恩師から、重要な2つの態度について学んだ。それは、
  • 「問題を出されたら、答えを見る前に、必ず自分の頭で考えてみること」
  • 「データ分析をする者は、必ず自分でもそのデータを取ってみること」
の2点だった。

答えを見る前に、自分で考える。そして考えた結果が答えと合っていれば、もちろんそれでよしとする。仮に違う答えだったとしたら、どこで、なぜ違うのかを検討してみる。とくに正解が一つとは限らない種類の問題に対しては、自分を正解に合わせるよりも、自分の違いを伸ばすことを考えること。これが第一のポイントだ。

そして二番目のポイントは、データは自分の手で取ってみなければならない、そのデータが、どのようなプロセスと手順を経て、そこにある数値になったのかを、体験して知らなければならない、ということだ。そうしないと、データの精度やクセや特性を、読み違えるからだ。

たとえば、生態系の水質データに溶存酸素濃度(DO)という量がある。サンプル採取した水1リットル中に、何mgの酸素O2が溶け込んでいるかを示す。濃度はppmオーダーで、微量である。これを直接測定できる測定器もあるが、多くの場合は(たとえば深層水などは)器械が届かないので、水を汲み上げて、分析容器に移し替え、試薬滴定で測る。

ところが、外気の中は酸素だらけなのだ。だから採取した水を小さな容器に移し替える際に、外気に触れず泡も立てないようにするには、どういう注意が必要なのか、それを怠ると結果の数値にどんな影響がでるのか、自分でやってみないと想像がつかない。やってみてはじめて、そのデータの信頼できる精度はどの程度なのか、その1点のデータを得るのにどれくらいの時間と労力とコストがかかるのか、分かるようになる。これが分からないと、適切なデータ収集計画が立てられない。そしてデータとは、分析を最初から意図して、収集方法を設計すべきなのである。

  • 考えるとは身体的行為である

データ収集とは体感的な行為である。そしてデータに基づく分析もモデル化も思考も、身体的行為だ。知能だけの抽象的な行為ではない(だから人工知能が簡単に人を凌駕できる分野でもない)。そのことを若いうちに知ったのは、とても大切な経験だったと今でも思っている。

実際、脳は臓器の一つだ。体調が低下したり、睡眠不足が続いたりしたら、脳はきちんと働かなくなる。だから思考とモデリングを職業とする人は、きちんと睡眠を取り、ちゃんと運動をしなければならない。これも、学んだ教訓だった。そして、そのどちらも、なかなか社会人になって実行するのは難しいのだが。

わたし達の社会の教育制度は、古代中国に生まれた科挙という試験と、近代の富国強兵策による軍隊教育に、大きく影響されている。あいにくどちらも、思考の創造性を開発するには向いていない。わたし達が考える技法を学びたかったら、まず学びの態度から変える必要があるのである。

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by Tomoichi_Sato | 2023-02-21 16:23 | 思考とモデリング | Comments(1)
Commented by boo at 2023-02-24 11:10 x
深いなあ・・・
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