人気ブログランキング | 話題のタグを見る

アートと科学、その配合の妙

  • あなたの思考は論理的か

エンジニアとは、考える仕事である。わたし達にとって、思考は仕事の中心プロセスであり、一番大事な商売道具である。である以上、自分の思考は有用で、正確で、かつ効率的であることが望ましい。知識労働者たるべきエンジニアが、肉体労働だとか、果ては感情労働(上司や顧客や仲間との感情的なフォロー等)について忙殺されているとしたら、嘆かわしいことだ。

とはいえ、わたし達が仕事で、とくに設計で行う思考は、ちゃんとすべて論理的だろうか。

この問いに答えるには、当然ながら「論理的」とは何かが、明確になっていなければならない。論理的とは、数式の展開計算のように、あるいは記号論理の真理値表のように、確実に正しい方法論に従う手続きを進める事だろうか?

思考には、一般に二つのモードがあると言われている。演繹(deduction)と帰納(induction)である。演繹とは、前提から結果を導き出す事で、帰納とは気づき・発見のことである。「人は全て死す、故にソクラテスもプラトンも死す」と推測するのが演繹で、「ソクラテスもプラトンも死んだから、人は皆死ぬのだ」と推論するのが帰納である。

この二つの単語の語源は、どちらも「ducere(導く)」から来ている。接頭辞のin-は入る方向、de-は離れる方向を示す。つまりinduction とは知識を導き入れる事、deductionとは知識を導き出す事を意味する。

もっとも、中山元の「思考の用語辞典」 によると、帰納の方が演繹よりも弱い推論だ、という。たとえば、ウィトゲンシュタイン(元はエンジニアだった)はこう言う。「太陽が明日昇るだろうと言うのは仮説である。太陽が昇るか昇らないかを、われわれは知らないからである」(「論理哲学論考」 6.36311節)。まあ厳密にはそうかもしれないが、でも十分なエビデンスがあれば、推論は普通、それなりの説得力をもつ。

いずれにせよ、論理性とは真であること、整合性(無矛盾であること)を重んじる。つまり真を重要な価値とする。では、このような真理を追求する方法と知識を専門的に磨いているのは誰か? 答えは科学者たちである。科学者は真理に仕える。彼らは確実で、正しいことを言うことが求められる。科学研究の論文で、根拠レスなあやふやな主張を自信満々述べることは許されない。

したがって科学的知識・能力は、思考の正しさを保証する、ということになる。科学が技術の基礎であるとは、そういう意味でもあるのだ。

  • エンジニアの頼るべき基礎は科学だけか?

ところで、本当にエンジニアが思考能力を磨くためには、科学を勉強していればいいのか。わたしが受けた工学部の教育は、そういう考えで出来上がっていたように思う。と言う事は、科学こそが技術とイノベーションの母である、と言えるのだろうか?

ついでにいうと、政策立案の分野では、科学と技術はよく、「科学技術」と一緒に表現される。この表現にも、わたしは、かねてから違和感があった。科学と技術は、相当に別物ではないか。

国の政策立案の中心部にいる人たちは、「科学技術」の振興が成長をうながすと考えているらしい。より具体的にいうと、研究開発に公的予算を投じれば(それも有望な最新分野と有能な研究者達に集中的に投じれば)、必ずやイノベーションを通じて、経済成長に貢献するはず、という信憑があるようだ。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラムなどは、その代表例であろう。

だが、繰り返しになるが、エンジニアとしての実感から言うと、科学と技術は別ものである。技術では、科学的に真であること以上に、役に立つこと=有用性が求められる。科学的に証明されていなくても、経験的に裏付けられていれば、それを使うのがエンジニアだ

例えばアスピリンと言う薬がある。19世紀末にバイエル社によって発見され、鎮痛解熱作用があるので広く使われてきた。しかしこの薬がなぜ効くのか、その作用機序については、70年近く謎だった。科学的には謎でも、医師たちは処方してきた。臨床を預かる医師たちには、エンジニア同様、真であるよりも、有用性の方が大事なのだ。

  • 良い設計=デザインは、アートと科学の配合である

話を少し戻すが、エンジニアの一番大事な仕事は設計である。では、良い設計をするためには、論理的な思考、科学的な訓練だけで充分だろうか。

よく、優れた設計能力を持つ同僚などを表して、「あの人はセンスが良い」などと表現する。ここで言うセンスとは、何なのか。あなただったら、「論理的で正確だ」と言われるのと、「センスが良い」と褒められるのと、どっちが嬉しいだろうか。

設計がどんな行為であるかについては、すでに以前、「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?」で論じた。設計とは、『機能を形状・構造に落としこむ』作業である。 設計対象に可動部分があったり、対象が入力を出力に変換する仕組み(システム)である場合は、その構造に、制御機構を与える作業が続く。

そして設計は、逆問題でもある。普通の問題(順問題)は、与えられた構造から、その性質や振る舞いを予測する。しかし、仕様で与えられた性質や振る舞いを示す構造とはどんなものかを考えるのが、逆問題である。

ジェームズ・ワットの蒸気機関は、その良い例だろう。それ以前に使われていた、ニューコメンの蒸気機関は、温めたり冷やしたりを繰り返すために、間欠的な動作しかしできなかった。ワットは連続して効率よく動く蒸気エンジンを作りたかった。そのために蒸気を温める部分と冷やす部分を分離し、かつ、遊星歯車や遠心調節器の機構を開発した。

彼のこのような発明は、演繹や帰納といった、論理的思考の結果だろうか? どこか、試行錯誤で発見的・探索的ではないだろうか? 

もう一つ、設計の事例を見よう。ワットの発明から80年近く後、19世紀半ばの「ロイヤル・アルバート橋」だ(写真はWikipedia英語版からの引用による)。340mの川幅に、30m以上の空頭高を確保するため、鋼鉄製の二重レンズ型トラスを考えて、作った。良い設計=デザインも、一種の発明と言える。設計者は、天才的技師ブルーネル。彼については、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 で書いたので、ここでは繰り返さない。
アートと科学、その配合の妙_e0058447_18141342.jpg
こうした本当にレベルの高い設計物を見た人間は、「美しい」という。センスが良い、とは、美しい設計を生み出す能力を指している。これは、論理性とは別の能力だ。

美を生み出す人、美を大切なものとして美に仕える人を、アーティストという。彼らの仕事はアートだ。ただし、英語のArtの翻訳は、日本語の「芸術」ではない。もっと幅広い、個人的なスキルも含めた、「技芸」に近い。

よく、「経営にはサイエンスとアートの部分がある」と言われる。ビジョンを作り人を動かす経営の仕事は、科学的論理だけでは足りない、という意味だ。でも、それなら、エンジニアの設計も、科学とアートの部分がある。優れた設計の仕事には、アートと科学の、配合の妙を感じるではないか。

さらにいうとモデリングも、科学の部分とアートの部分がある。モデルは現実を再現し、予測・シミュレートできないと役に立たない。予測には確実に科学知識や論理性が必要だ(演繹の作業だから)。だが、対象系の複雑なふるまいを見事に再現・予測できるモデルが、とてもシンプルで明晰な構造になっていると、わたし達は「美しい」と感じる。あるいは、抽象度の高い少数のパラメータから、現実的で豊穣なインスタンス群を生成できると、「美しい」と感じる。

  • わたし達の仕事には、アートが足りない

論理性とアートは、ふつう相反するもののように思われている。でも、それは少し近視眼的だ。なぜなら、論理性の権化である数学の世界で、一番の褒め言葉は「美しい」なのだから。

論理について言うと、帰納も演繹も、AIのおかげで、機械でかなりできるようになった。猫の写真を見分けられるようになって10年が経つ。いまやGTP3など、よくまあと思えるような、まことしやかな記事や論文を、自然言語で生成してくれる。しかし発明とアートの部分は、まだまだだ。というか、機械に「センス」を植え付けるようになるまでには、ずいぶん跳躍が必要そうに思える。

わたし達は、論理的で素早く思考できる人を、「頭が良い人」とよんで、感心する。だが正確で効率的であるだけでなく、美しい成果物を生み出せる人は、「賢い人」と呼ばれ、感動を呼び起こす。できるならわたし達は、賢い人を目指したいと思う。

そのためには、アート(センス)の部分を、もっと評価して伸ばしていく必要がある。あいにく、今の世の中は、アートだの芸術だのは「不要不急」だとされ、コロナ禍でもまっさきに切り落とされる領域だった。なぜ不要不急かというと、すぐお金儲けにつながらないから、という社会常識があるからだ。それが結局、わたし達の産業と製品サービスを、貧困なものにしてきたのではないか。

ただ、アートをもっと重視すると言っても、必要なのは専門家としてのアーティストと、各人の中に育てるべきアートの、両方の部分がある。アートの専門教育の場は世の中に、すでにたくさんある。だが、エンジニアに必要な素養としてのアート、技能としてのアートを育てる場は、極めて少ない。センス的な部分はすべて徒弟制度、というのがこの国の実態だ。

この状況もまた、「サーキュラーな問題」になっていて、すぐにマクロに解決できる処方はあまり思いつかない。ただ、そもそも、センスというのは個性につながっていて、ミクロなものではないだろうか。だとしたら、まず出発点とすべきなのは、わたし達一人ひとりが、もう少しだけ「アートと科学の配合の妙」に、より感覚を磨くことにあるはずだ。

<関連エントリ>
「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?」 https://brevis.exblog.jp/28975247/ (2020-05-07)
「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


by Tomoichi_Sato | 2023-01-17 17:04 | 思考とモデリング | Comments(1)
Commented by 匿名高専生 at 2023-07-30 03:12 x
いつも拝見してます。
とても含蓄のある文章で、読み応えがありました。
私は趣味で楽器を設計したりしているのですが、構造的な美しさにはこだわるところがあって、設計におけるアートの配合の必要性には非常に共感できました。
<< プロジェクトは不安定性な存在か 思考とモデリングの方法に向けて >>