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クリスマスメッセージ――運は実力のうちか

Merry Christmas !

受注ビジネスに従事しているので、入札に応じる経験を何度もしてきた。公的な本式の入札もあるし、私企業を相手とする略式の競争もあった。提案書を作り、値段を決めて、期限の日までに客先に提出する。客先はその日になると、各社から出てきた提案書を開封して比較し、一番良いと考える候補者を選ぶ。

本格的な国際入札になると、「技術提案書」と「商業提案書」を別々に出すことが求められる。客先は、最初に技術提案書を開封して、内容を比較吟味する。この時点で技術審査に通らないと、商業提案書は開封してもらえない。かりに1円入札、いや1ドル入札をしたとしても、技術点で落第したら仕事は取れない訳だ。

入札のことを英語でBidという(Tenderというときもある)。入札への参加要請を、Invitation to Bid、略して「ITB」という。ITBには普通、入札提案書に記載すべき要件、契約書のドラフト、そしてプロジェクトの成果物に関する技術仕様書がどっさりついてくる。ITBは、IT業界でRFQ (Request for Quotation)とかRFP (Request for Proposal)と呼ぶものに、ほぼ相当する。

我々エンジニアリング業界にいる人間にとって、ITBは一種の「神の声」である。呼ばれたら、応じる。運がよかったら、好い目を見ることができる。顧客からの「神の声」である要求内容に対し、こちら側から注文をつけることも、一応は許されるが、もし競合相手がその要求を丸呑みしたら、自分は比較審査で当然、不利になる。

長年そうした仕組みの中で仕事をしてきて、つくづく思うのは、入札の勝敗には運不運が影響する、ということだ。能力が全てだ、能力が高ければ勝ち、能力が劣るほうが負け――というほど単純ではない。顧客の嗜好、市場環境、競合相手の多さ、資機材価格や為替相場の安定性、相手国の政治環境など、数々の要素が入札結果に関わってくる。その多くは、入札する側のプロマネでは、コントロールしようもない。

プロジェクト・マネージャーが、短期的にコントロール不可能な事柄を、「環境」と呼ぶ。環境には「外部環境」と「内部環境」がある。外部環境とは、顧客や相場などの項目である。内部環境とは、社内で仕事を頼む相手部署のリソースの質や人数、自分に与えられた権限・ルール、上司の力量などなどだ。どれも自分ですぐに変えられるものではない。

プロマネだったら誰しも、ベストな顧客に恵まれ、ベストなスタッフで仕事をして、ベストなプロダクトを産み出したいと考える。だがその多くは、自分で決められない「環境条件」であり、仕事の成果はそれに左右される。それが短期的に、一番はっきり出てくるのが、入札という仕事だ。

入札に負けた経験は、自慢ではないが、たっぷりある(笑)。まあ入札というものは、3社以上で行うのが普通だし、業界内の似たレベルの企業が呼ばれるのだから、もともと勝率は3割以下ということになる。プロ野球選手の打率と似たようなものだ。それでも懸命に作った提案書で入札に負けると、かなり気分的にへこむ。

そして、負けた当初は、「運がなかったのだ」と考える。つまり、環境条件が良くなかった、という訳だ。顧客の妙な要求、競合相手の思わぬ値引き、相場の不安定・・責めるべき要因は、いろいろある。自分は懸命に頑張ったのだが、環境が許さなかったのだ、と。

だが、そうした敗北から半年経ち、1年経って振り返ってみると、少しだけ違う風景が見えてくる。「あの兆候に、なぜ気づかなかったのだろう」「そうか、あそこの、あの判断がまずかったのだ」と思い当たるところが出てくる。入札の最中は頭に血が上っているので、自分の落ち度に気づきにくい。しかし時が経って冷静になると、より客観的に見ることができるようになる。

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉が、スポーツの世界でよく言われる。故・野村克也氏の座右の銘で著書のタイトルにもしているが、もとは平戸藩主松浦静山が『甲子夜話』に遺した言葉だったという。落ち着いて考えると、自分の入札敗北も、「あれでは、勝てなくて当たり前だったのだ」と思い当たる。

仕事の成果の何割が、当事者の能力や努力のたまものであり、何割が、環境条件に依存するのか。アイツは運良く良い仕事を割り当てられて業績を上げて出世したが、俺は割の合わない案件で苦労したのに怒られる、などと考えるのは楽しくない。だったら、「今回のこの案件の業績評価では、結果の6割が君の実力、4割が環境条件に左右される分と考える」みたいなことが決められたら、ある意味、評定も透明になると思う。

しかし、これを推定するのは、もちろん難しい。とはいえ囲碁や将棋など、ほとんど運の入る余地のないと思われるゲームでさえ、必ず優勝劣敗の結果になるとは限らないのだ。したがって、運が左右する比率は、決して小さいとは言えないのだろう。ただ、自分が負けたときの反省では、ゲームの直後には「環境が大勢を左右した」(環境7割>能力3割)と考える。しかし冷静になると、「やはり自分の実力が足りなかったのだ」(環境3割<能力7割)と気づくようになる。比率が変わるのだ。

運も実力の内」という言葉がある。このテーゼは、(環境)⊂(能力)、すなわち「実力がほぼ10割だ」と主張している。あなたは、この主張に同意されるだろうか?

プロマネは結果がすべて」という言葉も聞く。これも、似たようなニュアンスがある。結果が全て、運が悪かった、客が悪かった、というような言い訳をするな。すべてを自分の責任として引き受けろ。と、そう聞こえる。あなたは、それが当然だ、と思われるだろうか。

『環境条件』とは、当事者が短期的にはコントロールしがたい物事だ、と上に書いた。「結果が全て」といった言い方は、逆に言うと「どんな環境だって、頑張ればコントロールできる」とのテーゼを表している。たちの悪い客だってうまくリードできるはずだ、使う技術ツールの欠陥だって避けることができるはずだ、与えられたチーム員が無能でもお前が育てて能力を伸ばせばいい。そう、言っている。為替変動だって、(どうやるのかよく分からないが、為替予約でも使うのか)ヘッジできるはずだ。そう、主張している。

わたし個人は、このような考え方には同意しがたい。パンデミックも戦争もインフレも、個人の力量と頑張りで影響をカバーできるはずだ、との主張は、組織内の個人に過剰な負担を強いるものだ。それだと、何のために組織があるのか、よく分からない。成員が組織に貢献するのは当然としても、組織が成員を支えることがなかったら、それは単なる収奪の仕組みではないか。

もちろん、育成のために、あえて多少難しい場面を経験させることはあるだろう。だが成員が真に困難な状況に陥ったら、上位者が手をさしのべ、あるいは横でも協力して助け合うのが、本来の組織ではないだろうか。
(ちなみに、わたしは勤務先で「プロマネは結果がすべて」と言われた覚えがない。世界の僻地で巨大プロジェクトを進めるのがなりわいの企業なので、あらゆる事象をプロマネの責に帰すのは無理だと考える人が大多数なのだろう)

そして、運が良いとは、『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』でも最後の方に書いたように(P. 237)、「本当につらいときに人が助けてくれる」という意味なのだ。

うまく成功したら、運がよかったのだと考える。失敗したら、自分にまずいところがあったのだと反省する。それなりに大きな仕事をしてきた人たちにはこういう共通した態度がある。

逆を考えてみればわかる。失敗したら、運が悪かっただけだと言い訳し、成功したら、自分の実力だと宣伝する。こういう人間に、他の人たちはついていきたいだろうか? 「運も実力の内」という言葉は、そういう人間の慢心をたしなめるときに使ってこそ、活きるのではないか。

「運も実力の内」との通念は、裏を返すと、不遇な人たちは自業自得だ、要するに彼らは頑張る実力が無かったから、その結果が招いた事態なのだ、という冷酷な考え方にもつながる。過度の実力主義とは、つまり、「運も実力の内」の傲慢さが支配する社会である。

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クリスマスの時期になると、シャンパンを開ける機会も増える。そういうとき、昔、シャンパーニュ地方を列車で旅行した際の記憶がよみがえる。車窓からは緑で美しいぶどう畑と、丘陵地帯が見える。素晴らしい景色だ。だが、「ここの人たちは、毎年天候に一喜一憂する暮らしなのだろうな」とも思った。お日様も雨も、人間は左右しがたい。農業という古い産業は、それだけコントロールできない外部環境に依存するのだ。

だから農業社会ではどこでも、豊作を願って天に祈る。自分たちが万能でないから、祈りの心が生じるのだ。農作物だけではない。初めての子どもが生まれそうなとき、親しい人が緊急に入院したとき、家族が遠くに旅立っていくとき、そして戦争の不安が地を覆いそうなとき、わたし達は天に祈りたくならないだろうか。

宗教というものを知的レベルで批判する人は多い。たしかに地上の全ての宗教の全ての側面が、擁護可能だとはわたしも思わない。だが、わたし達の『祈りたい心』がある限り、この世から宗教が無くなることはあるまい。

「明日、何を食べ、何を着ようかと思い悩むのはやめよ。一日の悩みは、一日で足りる」と、かつて中東の宗教改革者は、山上の垂訓で人びとに説いた。この言葉には続きがある。「野の鳥を見よ。種まきも刈り取りもしないが、それでも天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたが本当に必要とするものは、天の父はすべてご存じなのだ」と。

わたし達が左右できないものごとは、最後は天に委ねるしかない。そして、天はわたし達の本当に必要とするものは知っておられる、と信じられることが大切なのだ。

そして冬の最も暗いこのひととき、どうか、地には善意の人びとに平和がありますように。


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by Tomoichi_Sato | 2022-12-24 12:48 | リスク・マネジメント | Comments(0)
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