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書評:「オランダ紀行」 司馬遼太郎・著


  • よその国を多面的に見るためには

今月のはじめ、オランダに数日間、出張した。アムステルダムで開かれた石油ガス業界のデジタル化に関するカンファレンスに出席するためだ。オランダに行くのは、2度目である。いや、30年以上も前に、ベルギーのブリュッセルから日帰りで観光に行ったことがあったが、それを入れても3度目だ。

出張には、軽い本を持っていく。今回持っていったのは、司馬遼太郎の「オランダ紀行」 の文庫本である。わたしは司馬遼太郎の小説はほとんど読まないが、彼の外国に取材した文章は、案外面白いと思う。「愛蘭土(アイルランド)紀行」、イベリア半島紀行の「南蛮のみち」、そしてベトナム戦争終盤のルポ「人間の集団について」など、どれも感心した。

旅行先で、その国に関する本を読むのは、実地勉強の面もあって、有用だと思う。ただ一般に、紀行文というのは退屈だ。著者がたまたま経験したことが、断片的に感傷を込めて書かれている程度のものが多い。だからわたし自身も、紀行文は原則として、書かない。ただ、この著者は、新聞記者出身だったからか、自分の見聞きした体験だけでなく、対象国を立体的に、多面的に理解し記述しようという姿勢がある。

立体的に一つの国を理解するとは、どういうことか。それは、文化と文明の両面において、また人間と自然の両面において、そして歴史と地理のパースペクティブにおいて、考え感じるという意味である。

多くの作家・文人は、文化と人間と歴史の側にしか興味が無い。だがこの著者は、オランダ絵画も土木技術も、出会った老医師にも霧の気候にも、スペイン独立戦争にもドイツとの関係についても、目配りしている。しかも対象の国に、敬意と愛着をもって文章を編んでいる。

  • 文明と土木技術

世界は神が創ったが、オランダはオランダ人が作った」——この言葉ほど、オランダ人を見事に表した一言はないだろう。オランダの国土の3分の1は、海面下の低さにある。彼らは堤防を築き、干拓地をつくることで国土を広げていった。

オランダは風車で有名だが、なぜあんなに風車が必要だったか? 風車の用途は、麦の粉ひきだけではない。じつは水を汲み上げるポンプの動力なのだ。海抜よりも低い干拓地から、水を海に排水するためのポンプである。

文庫本のP.139に、わかりやすい図が載っている。水のくみ上げは、2段階になっている。干拓地の排水溝(-4mのレベル)から、排水ポンプによって、まず内側の第1の堤防を越え、もう少し高い集水溝(-2mのレベル)に水をくみ上げる。さらにもう1段、排水ポンプを使って、そこから外側の第2の堤防の外、つまり海(0m)にくみ上げて流すのである。そのための動力として、「19世紀頃までは風車にたより、19世紀なかばごろから蒸気機関によるポンプになった。今はディーゼル機関か、電気に拠っている」(p.139)

このように国土の創生と維持の根底に、土木技術があることを、ここの国民は肌身で知っているはずだ。それは受け継ぎ、育てなければならない。主要な国立大学から『土木工学』の名前のつく学科がすべて無くなってしまった、東洋の島国との差が、これだろう。

また17世紀、スペインから独立した時代には、火砲のニーズが高まった。これが金属冶金の技術を刺激した。また鋳鉄の砲は、砲口をくりぬかなければならず、原始的な旋盤などの工作機械を発達させた。最初は人力だったが次いで水車の力が利用されたらしい。

「水車が動力になったとき、今まで錐を回してえぐっていたのをやめた。錐の方を固定し、砲身を水車でぐるぐる旋回させてえぐるようになった。水車の力で金属が加工されるようになったことは、人の意識まで変え、このあたりから近代工業の誕生にむかって文明がすすんだのではないかとおもわれる。」(p.285)。こうした技術への洞察と目配りが、本書の特徴の一つである。

  • 商業の合理主義

ところで著者の考えでは、古代、ローマ文明は帝国主義(収奪の機構)の形をとって、ヨーロッパの他民族の居住地を占領していった。やがてローマ帝国が滅び、キリスト教がその文明の輝きを継承する。中世、司祭たちは、村村における文明の指導者でもあった。

文明を背負ったその「カトリックが古びてきたのは、商人の台頭による」(p.27)。「商工業は、従事する個々において独立自尊の精神がなければ成り立たない」からだ(p.69)。「理性は、いうまでもなく物の質量を量るということから出発する。物の質量を量るのは、商工業社会から生まれるのである。」(p70)。つまり商品経済を通した合理主義の考え方が、聖俗革命を推進した。これが著者の歴史認識である。

15世紀末、オランダはエラスムスと言う理性的な人文主義者を生んだ。哲学者スピノザや国際法の始祖グロピウスも、オランダの人たちだ。「造船も要塞作りも、エラスムスやスピノザにおける透明な理性も、グロピウスにおける国際法も、すべて商業と言う機能の所産だった。商業は、物質(商品の品質)と量(商品の数)で見、また物事を理性で見るのである。」(p.281)

それどころか、「17世紀の黄金時代のオランダは、農業と言ういわば生き方と言っていい営みに、換金性と言うものを持ち込んだ」(p.281)

ハイネはドイツの詩人だが、彼の詩『流刑の神々』の中に、オランダ商人が自由に移動する民の象徴として、でてくるようだ。「商工業の発達が、ハイネの大好きな自由と言う思想を拡大し、封建制の首を絞め、カトリック教会までを制約していた。」(p.50)

もっとも、この考えに従えば、農業経済社会では自由も個人も育たないのだろうか? 確かにまあ、農本主義的な保守思想は、個人の自由とか権利主張を、うとましく思うようだが。

  • 株式会社という発明

さて、突飛に聞こえることを承知で言うが、「アメリカ人はオランダ人の子孫である」と、わたしはよく感じる。無論、民族的・血縁的な子孫ではない(アメリカの主流はアングロ・サクソンだということになっているし、実際には結構ドイツ系が多い)。だが、その実際的で、オープンで、気取らない態度、そして実務を組織的に進めるやり方、平民的で貴族社会を嫌う態度などの点で、むしろ英国やドイツよりもずっと、オランダのほうが米国人の気質に近い。

オランダ人は古代から小さな船を北海に漕ぎ出し、漁業や交易をしてきた海洋民族だが、大航海時代に入り、大きく勢力を伸ばす。

「彼らはたいてい仲間(マート)を組んで船を買い、有能な船長をやとい、その船長に買いつけのための金を渡す。ぶじ帰ってくれば出資した額に応じて利益を分配していた。途中船が沈めば損失もまた分散される。1航海を限ってのこんなやり方を、江戸時代の日本の経済用語でいうと当座という。」(日本の「当座預金」といった用語のルーツが、こんな江戸時代にあることを初めて知った)

しかしオランダ人たちは、もっと恒常的な形態は無いかと考えるようになった。その結果としてできたのが、株式会社という独創的な形だった。やがて、これがオランダの東印度会社になる。」(p.107)。「物事を組織的にやるという、今日の巨大ビジネスのやり方をあみだしたのは17世紀のオランダであり、18世紀初めの英国は、それをいわばまねたに過ぎないとさえいえそうである」(p.29)。だとしたら、確かに、アメリカ人はオランダ人の精神的な子孫である、といってよさそうだ。

  • 3人の画家について


本書では、3人の画家がそれなりの頁数をかけて紹介されている。オランダの誇る画家レンブラントと、隣国ベルギーの画家ルーベンス(彼はオランダ国境に接する街アントワープを本拠地にしていた)、そしてフランスでの画業が有名なフィンセント・ファン・ゴッホである。

レンブラントの大作「夜警」は、アムステルダム国立美術館最大の呼び物である。わたしはこの美術館を3回たずねたが、いついっても、絵の前には人だかりが絶えない。なお、この絵は群像であり、オランダ絵画には群像が多いが、実は「割り勘」のためだという。有力な大貴族の居ないオランダでは、市民達がお金を出し合って、画家に肖像画を描かせたのだ。もちろんご存じの通り、割り勘は英語でDutch account = オランダ式会計、という。

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レンブラント「夜警」(フェンスとガラスカバーのある実物の前で撮影したので、やや映り込みがある)

ともあれ中世末期から近世にかけて、オランダは欧州における絵画の中心地の一つだった。その特徴は、克明な写実性と、非宗教性である。それはたとえばフェルメールのような絵を見ても分かる。室内でミルクを器に注ぐ女性の姿は、ほんとうにそこで生活の時間が切り取られたかのような、静謐さがある。当時のオランダ絵画がなかったら、欧州の各美術館はずいぶん淋しくなってしまうに違いない。

ところで、ゴッホという人はフランスの印象派の系譜として理解されている。燃え上がるような色彩で、えもいえぬ情念を絵の中に溶かし込んだ彼の作品は、写実とはほど遠いと思える。しかし彼の画業を、時代を通して見ていくと、やはり彼だってオランダ絵画の長い系譜の末に現れた人だと、感じることがある。

司馬遼太郎はゴッホの人と思想について、残された全6冊分もの手紙をていねいに読み込むことで、再現を試みている。それは決して、巷間いわれているような狂気だの非合理だのではなく、非常に物事を深く考える精神だという。

「ゴッホはイエスが好きでほとんど一体感を持っていたが、現世においては短命で、恵まれなかった」(p.324)という指摘は、重要だと思う。そして、「イエスが復活したように、ゴッホも自分自身の復活を信じていたはずである。イエスの問いかけが現世ではむなしかったように、ゴッホの絵もまた他者からかえり見られることがまれだったが、かれ自身、のちになればたれもが自分の作品を見てくれると信じていた。」(p.295)——この確信こそ、ある意味、ゴッホを理解するカギかも知れない。

ちなみにゴッホの苗字は正確にはvan Gochである。ドイツ語のvonとか仏語のdeなどは英語のofにあたるが、苗字につくと貴族の家系であることを示す。しかし、オランダではそうとは限らないという。ナポレオンがオランダを占領した時、オランダ人に苗字をつけることを強制した。このことにオランダ人たちは腹を立てて、結構適当な苗字をつけたりしたらしい。ゴッホの先祖のように、単に出身の村名を冠して、ファンをつける人もその時期多かった。(p.299)

  • 蘭学と日本

ところで、「絵画が純粋芸術などとされるのは近代に入ってからで、それ以前は‐ 宗教画以外は‐ 建築、機械学、医学といった技術の良き伴侶の1技術であった」(p.17)。だから医学書の図も、オランダ流に見事に精確だったはずである。

オランダ絵画の写実主義は、解剖学概論と言う医学書を通じて、「解体新書」と言う形で、近世日本に大きな影響を与えた。ここに、オランダと日本の特異な歴史的関係が成立する。オランダを通した学問、蘭学を学ぶことが、「江戸中期、商品経済の影響で成立しつつあった合理主義的な考え方をいっそう加速させた」(p.16)というのが、著者の意見である。

  • ベイラントの自由

自由と理性と合理主義。もちろん結構なものだ。だが、オランダには「ベイラントの自由」と言う、いささか不名誉な言葉もある。アムステルダムの商人ベイラントは、自国がスペインに対する独立戦争を戦っていた時に、こっそり敵のスペイン軍に武器を売っていた。

「資本主義は人類に、自由と個人と言う2つの贈り物をした。自由と個人は、経済活動の中では、前時代にはなかった高エネルギーを持っている。この活動力に対し、いわば歯止めとしての自律性と倫理性をプロテスタンティズムは説き続けた。」

「今は宗教の時代ではないが、資本主義には強烈な倫理性が必要であることに変わりがなく、ベイラント現象をふせぐことが市場原理を守ることが第一条件である」(p.271)。これが、著者の資本主義社会に対する認識なのだろう。

  • オランダの退潮

「オランダが、はるかに船を送って日本と接触するのは、日本史では関ヶ原の年の1600年で、オランダでは、17世紀と言う黄金時代の幕開けの頃だった。オランダの人口は、わずか150万に過ぎなかった。」(p.83-84)

ちなみに、オランダの「国としての正しい称号は、ネーデルラント王国で、オランダと言うのは、低地の1部であるホラント州から来た通称である」(p.26) 。日本語のオランダは、ポルトガル人がホラントを訛ってオランダと呼んでいたかららしい。

そのオランダは、17世紀が最盛期であった。しかし「英仏にねたまれ、英国から2度にわたって戦争を仕掛けられて屈しした。フランスからも侵入を受け、国力も文化も衰えた。」

17世紀末に、まだ若きロシア皇帝ピョートル大帝が、身分を隠してオランダの造船所に、技術を習得するために働いた。その彼も、オランダのかげりに気がつき、にわかに英国視察を思い出す。

だが、衰退の本当の原因は別のところにあったらしい。「オランダは、技術を怠りつつあった。金が金を生むと言う金融のほうに浮かれ、製造業おろそかにし始めたために、英国との間に工業技術の差が大きくなり始めていたのである。」(p.263)。まことに、今日のわたし達が90年代初めに刊行された本書を読んで、一番恐ろしく感じるのは、この記述の箇所ではないだろうか?

日本はオランダから蘭学を通し、非常に多くのことを学んだ。だがもう一つ学ぶべきなのは、世俗的で非宗教的な商人国家オランダの、正しい盛衰の歴史なのである。



by Tomoichi_Sato | 2022-06-30 20:27 | 書評 | Comments(0)
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