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そのKPIで本当にいいですか?

「君はなかなかのやり手だと思っていたが、君のこの工場が案外、成績が上がらないのはどういうわけだろう?」「・・わからないのです。おどしたり、すかしたり、おだてたり、あらゆる手段を講じていますが、工員たちはさっぱり働いてくれません。」

ちょうど昼勤組と夜勤組が交代する時間だった。経営者は工場長を連れて現場にいき、工員の1人をつかまえてたずねた。「君の組は、今日、何回鋳物を鋳込んだ?」「6回です」

経営者は何も言わずに、床の上に大きな字で「6」とだけチョークで書いて、出ていった。夜勤組が入ってきて、字の意味をたずねた。「ボスが工場にやってきて、今日、何回鋳物を鋳込んだかと聞いたので、6回と答えたんだ。」

その経営者は翌朝また工場にやってきた。夜勤組が6を消して、大きな字で7と書いてあった。昼勤組が出てくると、床の上に7と書いてあるので、対抗意識を燃え上がらせ、退勤時には10と書き残した。こうしてこの工場の能率はぐんぐん上がり、やがて他の工場がして生産率第1位を占めるに至った・・

経営者の名前は、チャールズ・シュワブ。ずいぶん昔に読んだ、D・カーネギー著「人を動かすで紹介されているエピソードだ。

仕事のパフォーマンスを、何らかの方法で測定して、その値で人を競わせる。こうした方法は、広く用いられている。現代は目標管理と成果主義の時代だ。目標値を個人や組織が自ら設定して、それを達成するように頑張る。この時に使う目標値の物差しを、KPI (Key performance index)と呼ぶ。

最近ではこうした目標値も、最上位のものと、それを構成する中間的なものに階層化し、最上位のものをKGI (Key goal index)と呼んだりする。だが本記事では、両者をまとめてKPIと呼ぶことにしよう。

サラリーマンとは、サラリー(給料)をもらって生活している人種の呼び名である。そのサラリーやボーナスは、多くの場合、業績目標のKPIに紐付いて評価される。(サラリーマンなる言葉は、昭和的な響きがあって古臭く感じられるため、ビジネスパーソンと自称する人も多いだろう。だがビジネスという言葉を使うと、官庁や非営利団体に働いている人が除外されてしまうので、ここではあえて古い言葉を用いた)

繰り返すが、組織や人は、自分たちが高く評価されるよう、モノサシの尺度に合わせて行動する。これが、KPIで互いに競争させる、『KPI経営』の原理である。最初に挙げたシュワブの例が、まさにそれだ。KPI経営は広く行われている。

さて、ここからが本題だ。そのKPIは、誰がどう選んで、決めるのか。

わかりやすい例として、営業部門を取り上げてみよう。多くの企業では、受注高ないし売上高を、営業部門のKPIとしている。小売業やサービス業では、受注・即・売上げだから、この二つのモノサシは同じである。

製造業や建設業では、注文を受けてから、納品して売り上げるまでに時間がかかるので、営業部門のKPIとして売上でなく受注高を選ぶところがも多い。

昭和の高度成長期、ある意味、ビジネスは単純であった。貧しい時代を過ぎて、人々の生活が向上していくので、基本は物不足であり、商品は作れば売れた。この時代の論理は、薄利多売である。なるべく大量の商品を売ることで、コストを下げ、市場シェアを上げて、ビジネスを成長させる。もちろん利潤も大事だが、まずは規模の拡大だ。だから売上高が営業部門のKPIとなることには必然性があった。

ところで物不足時代の営業にとって、足を引っ張る要因が一つあった。それは商品の欠品である。陳列棚にお目当ての商品がなければ、消費者は買うのを諦めるか、別の商品を買っていってしまう。流通在庫の欠品は、売り損ない、すなわち販売機会損失を意味する。したがって、これはぜひとも防がねばならない。

欠品率の逆の指標を、流通の世界で「サービス率」と呼ぶ。サービス率とは、100%から欠品率を引いたものである。 10回に一回、欠品が起こる状況だったら欠品率は10%、サービス率は90%と言うことになる。営業部門はサービス率をなるべく100%に近づけるよう、工場に生産を依頼したり、仕入れを行うことが求められた。

工場ではどうか。物不足だったこの時代、基本的な生産形態は、「見込生産」である。英語では Make to stock = MTS と呼ぶ。それも少品種大量生産である。

薄利多売の論理で会社全体が動いているから、工場も、大量・高速の生産ラインを持つほど、コストダウンが図れる、と考える。そうした生産ラインを構成する高価な製造設備は、稼働率を最大限に高めるべきである。ものを作っていても設備を遊ばせていても、減価償却費は同じようにかかるのだから、ものを作るべきである。作れば必ず売れるのだ。

なおかつ工場は、省人化を図り、労務費を極力抑えることが望ましい。また材料費についても、大量仕入れによって単価を下げるべきである。かくして大量生産がコストダウンにつながっていく。

まとめると、営業部門は「売上高」「サービス率」で、工場は「コスト」「稼働率」で、KPI管理すべきである、ということになる。

さて、昭和の高度成長時代が終わってからすでに30年以上が過ぎた。この間、世の中はどう変わったか。

まず、競合相手が増え、物不足からモノ余り時代に変わった。言い方を変えれば、「プロダクト・アウト」から「マーケット・イン」の時代に変わったのである。作れば売れる時代は、終わった。企業はやむなく、差別化を求めて、新製品を次々投入することになった。あるいは、製品のオプションを増やすことで対応した。

もう一つ、過去30年を象徴する変化がある。それは、生産と販売の力関係、あるいは製造業と販売チャネルの力関係が、逆転したことである。

物不足時代には、ものを作る能力、すなわち生産側が力を持っていた。工場がものを作らない限り、営業部門は商品を得ることができない。ところが技術が成熟してくると、同等の商品を供給できる仕入れ先は国内にも海外にもたくさん出てくる。

むしろ市場での競争が激化しているために、受注販売の方が難しくなってきた。組織内では、難易度の高い、リスクの大きい仕事を成功させる部門の方が、大きい発言権を持つことができる。結果として、生産部門と営業部門の間の、発言力の逆転現象が起きたのだ。

この現象を象徴するのが、子会社の地位である。かつては、「販社」が子会社だった。今は、工場が「製造子会社」化される時代である。

また流通側のチェーンストアが、力を持つようになった。

昭和時代を生きた方は記憶にあるだろうが、全国どこの街にも、小さな電気屋さんがあって、そこはナショナルや東芝やサンヨーといった、電機メーカーの販売代理店になっていた。店頭ではメーカーの家電製品を売り、またその設置工事や修理サービスを受け持っていた。人々が最寄りの電気屋で家電製品を買い、家まで運んで設置してもらうのが普通だった。

今は、そういうことをする人はずっと減ってしまった。ほとんどの消費者は、○○カメラなど大手流通チェーンの店舗に行って、パナソニックやシャープやハイアールなどの異なるメーカーの商品を見比べて、選んで買って帰る。あるいはネットで安い量販店に注文する。

似たような変化は、家電以外にも、化粧品・トイレタリーでも、家庭用医薬品でも、食品でも、ほとんどありとあらゆる業界に起きている。流通販売側で力を持つのは、コンビニやチェーンストアなどである。

そうした大手流通チェーンは、流通在庫を削減し、変動する消費者動向(=需要情報)に即応できるよう、メーカーに短納期を要求するようになった。その結果、現在では、かなりの業種が「受注生産」の形態になっている。

それなのに、製造業の側はいまだに、社内ルールも、評価のモノサシも、古い見込生産時代のままになってるのではないか。貴方の会社では相変わらず、営業部門は受注高で、製造部門はコストと稼働率で、KPIを設定していないだろうか?

考えても見てほしい。受注生産では、作る量は顧客から与えられるのだから、工場が頑張って稼働率をアップすることはできないはずである。稼働率は受注量の従属変数なのだ。それなのに、どうしても稼働率を上げてコストダウンを図ろうとするなら、売れるかどうかわからない商品や中間部品を、作りだめするしかあるまい。それが本当に望ましいことなのか。

そもそもコストダウンに邁進すると言うのは、差別化されていない商品を、相も変わらず作っていることの表れではないのか。

また、かりに差別化を求めて、商品の多品種化を進めてきたのだとしたら、本当に売上高だけで営業を評価して良いのだろうか。もしも単価が同じ1万円ならば、1品種の製品を100個受注するのも、10品種の製品を10個ずつ受注するのも、同じ100万円の売上になる。だが、工場の性質から考えて、1品種の製品を100個作るよりも、10品種の製品を10個ずつ切り替えて作る方が、明らかにコストアップである。その多品種のコストは、一体どこの部門がマネージしているのだろうか。

大量生産時代のマインドセットのまま受注生産を行おうとすることが、今日の日本の製造業における問題の根底にある。そのマインドセットを決めているのは、固定されたKPIである。さらに言うなら、縦割りにした部門ごとに、KPIを与えて競わせれば、全社のパフォーマンスが自動的に上がるはずだと思う、経営思想の古臭さである。

この問題を、わたしは20年以上も前に、「特別な我が社という記事で指摘した。以来、機会があるごとに、講演などでも繰り返し指摘してきたつもりだ。だがあまりにも力不足で、世の中はほとんど変わっていないように見える。

それは結局、KPI=モノサシの持つ力の強さを表しているらしい。私たちの文化は、真面目で、かつ素直な文化だ。学校教育では、国語や算数の点数を上げることを、まず教えられ、期待される。ほとんどの子は真面目に、それに従う。試験の点数というモノサシ=KPIに対する疑問は、あまり入り込む余地がない。わたしのように、中学生の分際で、「こんな英語教育に果たして意味はあるのか」などと生意気にも考えた子どもは、例外中の例外なのだろう。

幸か不幸か、学校英語の成績はそれなりに良かったので、受験ではそれほど苦労しなかった。だがあてがわれたモノサシに対する違和感は、ずっと持って生きている。

冒頭にあげたシュワブのエピソードは、カーネギー「人を動かす」の第三部「人を説得する12原則」に出てくる。だが実は、最後の12番目の原則として紹介されているのだ。その前には、「議論を避ける」「誤りを指摘しない」「思いつかせる」「同情を持つ」などの原則が並ぶ。

人を動かし、人のモチベーションを上げる方法は様々にある。 KPIと言うニンジンで人を駆り立てる方法は、その末位の1つなのである。そのニンジンをぶら下げる棒の方向を、どちらに向けるかによって、人々は右にも行くし、左にも行く。いや、きりきり舞いしてその場にずっと留まることだって起きるのである。それはKPIについて、世の変化とビジネスの方向性に合わせて、考え直すことを怠った結果なのである。


<関連エントリ>
特別な我が社 (2001-02-03)
再び、モノサシを疑え (2021-11-17)

by Tomoichi_Sato | 2022-04-16 23:15 | ビジネス | Comments(0)
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