Merry Christmas ! 世界最古の成文法であるハンムラビ法典には、有名な「目には目で、歯には歯で、つぐなえ」という条項がある。“目には目を”、という言葉には、復讐のニュアンスが強いので、まるで報復を推奨する法律のように思える。だが、実は逆である。 この条文が意味しているのは、もしも何らかの傷害を受けて、自分が仮に片目を失ったとしても、相手の片目以上の報復をしてはいけない、という制限だ。これを『同害報復』原則と呼ぶ。 ハンムラビ王が同害報復を明文化したのは、報復のエスカレーションが実際には中東では多かったためだろう。自分が受けた被害以上に、相手に復讐する。日本でも「倍返しだ!」という言葉で有名になったドラマがあるが、古代の中東では、倍返しどころか「7倍返し」くらいが珍しくなかったのかもしれない。いや、古代どころか現代でも中東で紛争が絶えないのは、人間の復讐心というものが、なかなか制御しきれないからだろう。 借りたものは、返す。貸したものは、返してもらう。その時は、同等のもので返済するのが、フェアな感覚というものだ。まあ、当然のことだろう。モノの貸し借りだったら、文字通り同じモノが、借りてと貸し手の間を行き来する。もちろん、そうできない場合もある。クリスマス・プレゼントの交換なども、その一例だ。そんなとき、あまり価値に不釣り合いがあっては、気まずい。 「フェアである」とはどんな事かを、最近考えている。 もしかすると、その一番根底にあるのは、「貸し借り」の感覚だったのかもしれないと、思う。現在のビジネス取引は、商品と支払いが引き替えで、売りと買いが同時に成立する。だが、昔の取引は(特に物々交換は)相手に渡すのと、相手から受け取るのに、時間差があったはずだ。その間は、「貸し借り」の関係ができる。でも、その貸し借りの一時的アンバランスな状態は、ほぼ等価のものを返すことで解消する。これを支えるのは、人間が持っている、損得に関する原初的な欲求だと思う。 『交換』の概念もまた、おそらくここに始まる。あるモノと別のモノが、交換可能であると互いに思えること。それが交換の基礎である。農民と山の民が、薪とお米を交換するとき、まったく別種の用途に使う別種のモノが、お互いにほぼ等価に見えなければ、交換とか交易は成立しない。 そこで、交換価値というものが、使用価値とは別に生じる。さらに、交換価値の指標として、貨幣(権利の表象)が生まれるのだろう。貨幣それ自体に、絶対的な価値はない(だから為替相場が上下しうるし、インフレも起きる)。ただ、貨幣という汎用的な交換価値を表す道具が普及して、市場と市場原理なるものが、ようやく成立するのだ。ここでは貨幣で等価であることが、2者間のフェアな交換を表す。 貸し借りはまた、「約束」の感覚のはじまりでもある。 二人の個人が、貸し借りについて約束をしたとしよう。でも、貸し借りだから、一時的なアンバランスが生じる可能性がある。その場合、個人間の約束を相手が果たすという保証は、どこにあるのか? 交換でも実は同じで、たとえば実物の引き渡しと代金の支払いのタイミングが異なることは、よくある。商品を先に渡して、あとで相手が支払ってくれると、確信できるのか? むろん、「彼は約束を守る人だ」という『信用』が、ある意味では、保証することもある。個人間のちょっとした貸し借りは、そのレベルで済む。なじみの酒場で、ツケで飲むのも(まだやったことはないが)、その類いである。 しかし、もう少し大きな約束事になると、もっと具体的な、頼れる手立てが欲しくなる。ここで、個人間の約束に、外部からの強制力をあたえる、『掟』(おきて)とか、法とか呼ばれるものが登場する。それは組織・社会と共に、誕生してくるのだ。約束を破る者、個人間でフェアに振る舞わない者は、組織や社会からなんらかの罰を受ける。これが強制力だ。 欧米、とくに英米法の概念では、 契約=約束+強制力 という風に理解することができる。契約は単なる約束(合意)よりも強いものだ。 ところで、単なる交換の場合は、1:1の関係だけを考えれば良かった。しかし、組織や社会が成立すると、1:Nの関係も生じてくる。たとえば、学校の先生が特定の生徒だけを「えこひいき」したら、、子どもだって、フェアじゃない、と思うだろう。あるいは、会社での昇進や給与の査定だって、そうだ。組織では、1:Nの関係でも、フェアであることが、要求されるのだ。 先生とか上司は、組織の中で一定の権力をもっている。『権力』とは、掟を定める権限と、価値を配分する権限を表す。給与は貨幣的な価値だし、成績評価は学業的な(進学を左右する)価値だ。だが、彼らはそのような権力をフェアに行使することが、求められる。そのためのルール=掟も、ふつうは定める。つまり、社会的強制力(権力)自体も、乱用を防ぐ仕組みが必要なのだ。 個人間の貸し借り・約束から始まって、交換と市場メカニズム、そして組織・社会におけるルールまで、世の仕組みは発達してきた。どのレベルでも、フェアであることが要求され、またそれを支える方法が作られている。では、これで、フェアな社会が成立するだろうか? そうは限らない。それは植民地に暮らす人びとを考えてみれば、分かる。植民地には市場もある。貨幣もある。法律だって、もちろんある。王権だって、あるかもしれない。たとえばローマ帝国の支配下にある国々。「皇帝」とは王の上に立つ王、という意味で、「帝国」とは諸王国の上に支配するスーパー国家である。それぞれにローカルな王がいて、伝統的な掟も生きている。だが王の上にローマの総督がいて、王権を監視・制限している。税金を課し、あるいは労働を徴用する。 植民地に真の自由はない。それはいつの時代も同じだ。社会の上層部にいるのは、支配国側の人間、あるいは彼らに媚びへつらう連中だけだ。その国の人間は、まともな職業・地位に就けない。その国に生まれた民族だというだけで、差別的な待遇を受ける。まことにアンフェアである。 つまり、たとえ社会に法律があったとしても、それが「冷たい法の支配」だ、という状態もあり得るのだ。 別に、ことは植民地に限らない。たとえば独立国だが、その社会では、過度の実力主義が支配原理だったとする。過度の実力主義とは、つまり、「運も実力の内」という通念が支配する社会である。富める者はますます富み、乏しい者はますます貧しくなるような仕組みが、市場原理を通じて制度的に固定化される。最初にちょっと運が良ければ益々富み、最初に運が悪ければ、ますますいじめられる社会だ。両者の溝は深く、下からは簡単に這い上がれない。そういう世の中は、フェアとは呼べないように思う。なぜなら、自分の意思の力が届かない社会、能力も努力も認められない社会だからだ。 そんな社会では、フェアな扱いへの要望が静かに堆積し、発酵して、次第にアンフェアな扱いをされた事への怒りに転化・沸騰していく。大勢の人に対するアンフェアな扱いが長く続くと、社会に怒りの感情が充満する。無意識に、攻撃性が高まる。そして組織や集団が不安定になり、世が荒れる。 では、そうした「冷たい法の支配」に欠けている、足りないものは、何なのか。 答えは簡単だ。暖かい「情け」の気持ちである。人生にはいろいろな運・不運がある。そのこと自体は、どんな社会になっても、かわらないだろう。だが、わずかな運の天秤の傾きが、その人の人生の苦労を長らく規定するような制度は、あまりフェアでない、と我々は感じる。そういう場合には、なんらかの手助けとなるように、法や仕組みが運用されるべきだ。そうでない社会は、「情けない社会」である。 なお、「情け」という大和言葉をつかったが、古代中国人なら「徳」と呼び、西洋人なら「愛」という言葉を使うかも知れない。いずれにせよ、それは、他者に対しても、自分自身と同じように大事にしようという気持ちである。 自分が他人の立場だったら、どう感じるか。自分と他人を、交換してみる。そこで等価に扱うのが、フェアである。いや、こんな理詰めの説明では少しずれてしまう。フェアであることは、(理屈の問題ではなく)気持ちの問題なのだから。 もちろん、ここでわたしが言っているのは、権力者が情け深くあるべきだ、というような話ではない。約束やら取引やらに関わる一人ひとりが、そうした気持ちをもって、はじめて世の秩序に「魂がこもる」のではないか。 O・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、ある貧しい夫婦の、クリスマスの物語だ。乏しい中を切り詰めて貯めた、わずかな金額を前に、若い妻デラは大好きな夫ジムに、何かプレゼントをしたいと考える。夫が唯一、誇りにしている父の形見の金時計のために、ちょうどいい鎖を買ってあげたい。だが彼女の持ち金では足りないのだ。彼女が売ることができる大事な持ちものが、たった一つあった。それは彼女の波打つ、豊かな金色の髪だった・・ クリスマスの贈り物を交換し合う、若い二人の物語は、青空文庫で読める。ごく短い掌編だから、ぜひ読んでほしい。ほんの数分で読める。そして彼らを、何故あえて作者は、「賢者」と呼んだのか、考えてみてほしい。 あるいはもう一組、若い夫婦の物語を紹介しようか。こちらは古代の中東の話だ。ローマ帝国治下の植民地、パレスチナの農村のことである。夫婦といっても、まだ婚約したばかり。ただ、この地の掟では、婚約したらすでに、夫婦と同等に扱われる。婚約は約束だが、強制力があるのだ。 男の職業は、大工だったらしい。だが彼は、若い許嫁(名前をミリヤムといった)が身ごもっていることに気がついた。もちろん、自分の子ではない。何ということだ。こんな状況では、男なら誰だって、はらわたがちぎれる思いになるに違いない。 この当時、姦通は重罪だった。相手の男と一緒に、石打ちの刑となる。事実上の死罪である。もちろん、彼はこのことを表沙汰にしても良かった。むしろ、宗教の掟では、そうすべきだった。 だが彼は、そうしたくなかった。情け深い人だったのだろう。かわりに、ひそかにミリヤムを離縁しようとした。すでに正式に婚約していたから、それを白紙に戻すとなると、おそらく金を払って役職者を買収しなければならない。彼はそこまで、腹を決めたのだ。 だがその夜、彼は不思議な夢を見る。夢枕に立った、神の使いから、「離縁してはいけない。その子は、神様の聖なる息吹で授かった子だ。大きくなって、この国の人びとを救う。ヨシュアという名前をつけなさい」と告げられる。彼は目覚めて、その言葉どおりに従う。ヨシュアは、「ヤーウェ(神)は救う」という意味の名前で、その地方の訛りではイェシューと呼ぶ。ギリシャ語ではイエスス。英語ではジーザス、日本ではイエスと普通、表記する。男の名はヨセフ。妻ミリヤムの名は、ラテン語ではマリアという。 男ヨセフの生涯については、あまり詳しい事は伝わっていない。ただ、その子イエスは大人になると、大工の職を継がずに、宗教改革者の道を選んだ。そして「目には目を」の掟が残るその地で、「報復はやめろ。 自分の仇だって大事にしろ。7の70倍も許せ」というような、常人にはほとんど不可能と思えるような事を、説いて歩いた。 ローマ帝国の苛烈な支配下にあったから、彼の弟子の中には、一気に革命を、グレート・リセットを、みたいな事を夢見た者もいたに違いない。だが、彼はそのような権力奪取の政治的・軍事的な行動は選ばなかった。それだけでは世は良くならないと、知っていたのだろう。かわりに、人々にも弟子たちにも、お互いを大事にすることを求めた。 彼が捕らえられる前の晩、弟子たちに最後に残した言葉は、「今後お前たちが、一番小さな者に対してする事が、すなわち、わたしに対してする事だと思え」というものだった。小さい、弱い者をいたわり、助けるならば、それは自分を助けることと同じで、逆に虐げ苦しめるなら、それは自分を苦しめるのと同じことだ、と言い残したのだ。 一番小さな者。それはまさに、父ヨセフが、妻マリアの宿していた子どもに対して、した事ではないか。ヨセフは彼を自分の子として、育てたのだ。ヨセフは情けを知る者だった。それがフェアな扱いだと、思ったのだ。人はただ正しいだけでは、十分ではない。そこにやさしさを込めてこそ、はじめて地は平和になると、彼もヨセフも、賢く分かっていたからだ。 <関連エントリ> (2014-12-23)
by Tomoichi_Sato
| 2021-12-24 18:36
| 考えるヒント
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