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頭が良くなる方法は存在するか

過日、母のお墓参りのために鎌倉に行った。その時たまたま連れ合いが、今年は林達夫の生誕125周年に当たると、教えてくれた。ある出版社が、Twitterにそう書いていたらしい。

林達夫は長年、鵠沼に住んでいた。だとしたらお墓もこの辺にあるに違いない。そう思ってスマホでネットを調べてみると、果たせるかな、葬られている場所の名前が出てきた。じゃあちょっと足を伸ばして、林達夫のお墓参りにも行ってみるか、と決めた。

林達夫は私の最も敬愛する著作家の1人である。この人ほど頭の良い人は、滅多にいない。知的であるだけでなく、価値観も生活態度も高潔清廉で、かつ実際的であった。

林達夫の最もよく知られた仕事は、平凡社の「世界大百科事典」の編集長だったことだろう。昭和33年に8年がかりで完成したこの百科事典は、ある意味、戦後の知的世界の海図、ないし灯台の役割を果たした。林は戦後日本の知識人達の、水先案内人であった。

百科事典の編纂がどのようなプロジェクトで、そのプロジェクトマネージャーたる編集長が、いかなる能力を持たねばならないのか、今のわたし達には分かりにくくなっている。世の中を理系文系で分けて平然としている、わたし達の鈍感な知的風土にあって、林はどのトピックを拾い、どれを捨て、誰にどの原稿を依頼し、どういう注文をつけるべきかについて、最終的な責任を負った。

平凡社の世界大百科事典の記事は全て、著者の名前が最後に括弧書きで付いている。実名主義である。著者は記事の内容について、その正確さと公平さを含めて、保証しなければならない。だが最終責任はやはり、編集長にある。百科事典は高額な商品でもあり、それだけの信頼性が必要であった。これは無料だが匿名・無保証で提供されるネットの辞典に、すっかり飼い慣らされてしまった現代の我々とは、ずいぶん異なる態度である。

(ちなみに現在の世界大百科事典は、「ジャパンナレッジ」と言うサービスのもとで、ネットからサブスク・モデルで提供されている。その中には「林達夫」の項目もあり、ほとんどベタほめの内容だが、書いているのは、次の編集長となった加藤周一である)

林達夫は、わたしにとって若い頃から、一種のロールモデルであった。林は大学のアカデミズムにこもることもせず、出版ジャーナリズムの実業界で栄達も求めず、常に研究と実務のバランスをとりながら生きていた。

若い頃の林は一時、コミュニズムに傾き、戦闘的無神論者であった。後に共産主義からは離れるが、無神論者である事は変わらなかった。念のために書いておくが、西洋で『無神論者』とは、単に神の存在をあまり信じない者ではなく、キリスト教会に積極的に反対する人間、と言う意味である。

(もしもあなたが、「自分は神とか仏とか、あまり真面目に信じられないなぁ」と感じていても、西洋で「自分は無神論者だ」などと口走ってはいけない。その時あなたは、周囲にいるキリスト教徒を敵に回すと宣言するのと同じである。

単に特定の神仏を信じてないなら、「自分は非宗教的だ」と言えばいい。そういう言い方をする西洋人も、実際、非常に多い。さもなければ、自分はBuddhist(仏教徒)だ、とでも言っておくのが無難である。日本人は宗教に無頓着で、そのため海外でうっかり地雷を踏む人がいるので、あえて述べておく)

林達夫が1951年に発表した「共産主義的人間」は、彼のメルクマール的な文章だ。この中で彼は、スターリンとその共産主義を、徹頭徹尾、事実と証拠を挙げて批判している。フルシチョフによるスターリン批判の5年も前のことだ。その当時、スターリンはクレムリン宮殿の中の、いわば無謬の教皇であって、全世界の共産主義者は彼の前にひれ伏すことを専らとしていた。

もしも林達夫を知るために、著書を一冊選んで欲しい、と言われたら、私は中公文庫の「共産主義的人間」をお勧めする。薄い本で、戦後5年間に書いた、10余りのエッセイや論文が載っている。古代思想史、宗教、大学、戦争と現代政治に至るまで、その慧眼と予見力は、執筆時期を考えあわせると、驚嘆の一語である。

スターリンへの批判を始め、現代世界のおかしさに対し、彼が急角度で切り込むことができたのは、彼が誰かの翻訳や又聞きではなく、源情報に直接あたることを怠らなかったからだろう。

もっとも、自分が好きな一冊をと言われれば、哲学者の久野収との対談を収めた「思想のドラマトゥルギー」を挙げるだろう。自分のことをめったに語らない林が、晩年のこの本の中では、自己の知的遍歴を含めて、学び考えるとはどういうことかを、自由闊達に話している。西洋人の書いた本を、ありがたがって読むことが、知識人のシンボルであった時代に、自分の頭で考えるとはどういうことかを、林は身をもって示してきた。

真に頭のいい人とは、こういう人のことを言うのだ。

頭が良いとは、どういう意味だろうか。このサイトでも、時々考えてきた。わたし達は、頭が良くなれるだろうか。良くなるためには、どんな方法があるだろうか。

以前も書いたように、考えることの主たる目的は、問題解決にある。問題といっても、試験問題のように、誰かから与えられるものではない。自分の直面する現実を、より良いものにしようとして、直面するのが問題だ。望ましいのはこうだ、ところで今の状態は、この点が問題である、と。

であるから、もしも自分が、もっと頭が良くなりたい、と思うなら、とりあえず「自分は頭が悪い」と認めることから、始まなくてはならない。いいですか? 思った??

では、頭が良いとはどういうことなのか。

何か問題を考えるときは、まず、
「この問題は、世界で初めて、自分が気づいて取り組んでいるのか? それとも、すでにこの問題について、考えてきた人たちがいるだろうか?」
を検討するのがよろしい(ちなみにこのチェックリスト的な設問は、次世代スマート工場の研究会仲間で、とても頭の良い人である渡辺薫氏の、教育資料に依っている)。

そこですぐ思い出すのが、知能テストである。知能指数、いわゆるIQを調べるテストだ。知能指数が高ければ、頭が良い。ふむ、なるほど。そこですぐ、調べてみることにする。もちろん世界大百科事典を、だ(笑)

すると、こういうことが書いてある。知能はおおむね3種類に大別できる。適応力、抽象的思考力、そして学習能力である。それらは相互に関係がある。そして「一般には,知能とは知能テストで測定される能力であるという操作的定義(測定操作による定義)が,採用されている」とある。ただしこの記事の著者・滝沢武久は発達心理学者なので、どちらかというと青少年の知能について書いていると見るべきだろう。

ちなみに知能指数自体は、小学校2年生以後はあまり大きく変化しないという。また知能には遺伝的要因があることも、多くの証拠が示している。だとすると、アタマの良し悪しはほとんど生まれつき、ないし子どものうちに決まってしまい、大人になってからジタバタしても良くはならない、という事になりそうだ。

しかし、そうなのだろうか。そこで、知能検査の主流であるウェクスラー式についてネットで調べると、「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」という4つの指標と、それらを合わせた総合的な指標(全検査 IQ)で個人の特性を評価します、という記事が見つかる(https://www.kaien-lab.com/faq/2-faq-diagnosis/wais-iv/)。

言語能力、空間知覚と推理能力、短期記憶、そして頭の回転の速さ。これがIQ、すなわち世でいう頭の良さである、と。もちろんこれらは大切に違いない。しかし私たちが、「あの人は頭が良い」と言う時に、これで全部カバーされているのだろうか?

例えば、「物知り」である事は、頭が良いと言われる大事な条件ではないだろうか。いろいろなことを知っている、知識量。それから、優れたアイディアを思いつくのも、頭の良さの1つではないか。そうした事は知能テストで測れるのだろうか。

あるいは、一見バラバラな出来事を結びつけたり、パターンに「気付く」能力も、頭の良さの一部だ。どうやら知能テストと、我々が求める頭の良さの間には、ギャップがあるらしい。

そもそも頭が良くなりたい理由は、問題解決をしたいからだ。そして問題解決については、前回の記事で5つのステップからなっていると書いた。検知、予測、決断、伝達、行動、の5つである。最後の「行動」は、頭の良さに関係ないので外すとしても、残る4つをどう高めるかが問題だ。

ちなみに「決断」の中には、解決策(選択肢)を思いつくことと、評価して決めることが含まれる。すなわち、気づく力、見通す力、思いつく力、決める力、伝える力、の5つだ。パターン認識、推論、創造、比較考量、言語化、と言いかえてもいい。これらの能力を、どうしたら高めることができるのか。

どういう方法があるかを考える前に、まず、そういう方法が存在するかどうかを検討してみよう。人間の能力は生まれつきだ、遺伝的なものだ、と考えるならば、アタマを良くする方法など存在しないと言うことになる。

しかし、上記の5つの能力をより生かすのに必要な基盤(資源)として、十分な知識量がいる。さらに、諸能力をバランス良く使いこなす、メタ能力(センス)が大事となるはずだ。こうした事は学んだり、訓練したりすることができる。

およそどのような能力であれ、身に付けるためには3つのことが必要だ。第一に、良い先生を見つけること。先生が見つけられない場合は、良いロールモデルを見つけること。2番目に、基本的な原理・方法を一応学ぶこと。そして3番目に、繰り返し練習すること。

特に最後の、自分で繰り返し練習する事は、重要だ。これなしに優れた能力が身に付く事は、絶対にない。すなわち自分で問題を立てて、考えることである。人から与えられた問題を解くだけでは不十分で、自分で問題を立てて解くことが必要だ。たとえ人から命じられ要求された問題でも、自分でその枠組み・フレームワークを捉え直して、問題を再設定する取り組みから始めた方が良い。

またある程度の思考体力をつけるためには、比較的長めの論理的な文章を読むことが大切だ。たくさんのステートメントを、つながりを頭に置きつつ、繰り返し追いかける事は、推論や創造、そして言語能力を高めることに役立つ。

2番目の、考えるための原理・方法はどうだろうか。思考の技法(テクニック)的な事柄については、世の中にたくさんの本が出回っている。だが、その根幹になる原理(プリンシプル)となると、やや心もとない。それでも例えば、哲学は多少の役に立つ。哲学(論理学を含む)は、真理探求の方法論だからだ。

では、先生は。あるいはロールモデルは?

そう。わたしにとって、若い頃からのロールモデルの1人が、林達夫だった。

彼が生きたのは、2つの世界大戦をまたぐ、困難な時代だった。彼の考え方は、大勢の主流派とも異なり、かつ、反体制の主流派だった共産主義とも異なっていた。彼を守ってくれる会社も党も組織もなかった。それでも彼は、自由に思考する人だった。考えれば、必ず、活路は開ける、と信じていたに違いない。

考える能力は、たいていの人に与えられている。しかし、考えることが妨げられている思考停止領域があると、ちゃんと考えられないものだ。思考停止領域は、ドグマや、イデオロギーが、自らの影として生み出す。ちょうどスターリン批判が許されなかった、共産主義社会のように。軍部の批判が許されなかった、戦時中の日本のように。

その日本が負けたとき、しかし彼は「文字通り滂沱として涙を止めなかった」と書いている(「新しき幕明き」)。こういうことを書く知識人は、実は本当に珍しい。でも彼は歴史家として、戦争に敗れると言うことの暗い恐ろしさを、よくよく知っていたのだ。

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その日は、夕方から霧雨になった。林達夫の墓標は、変哲もない市民墓地の片隅にあった。いかにも生涯、無神論者であった林にふさわしい。小さな、明るめの色合いの、横長の墓石に「林」と書いてあるだけで、墓碑銘は何もなかった。

建立されたのはご家族の方らしい。だが、そのために墓碑銘がなかったのではあるまい。おそらくご本人が、そういうものを一切望まれなかったのだ。その点も、とても林達夫らしいと感じた。知的な高潔さとは、こういうものなのだ。

プライドとは、国中に自分の銅像を造らせることではない。Prideという英語を、あるとき連れ合いは日本語に訳そうとして、自負とか自尊心とかいった、誤解され手垢のついた言葉を避け、「気高い心」という言葉を選んだ。それは他人に自分を尊敬させたいという、いやしい欲望とは無縁の言葉だ。誰にも屈せず、誰にも属さず、自由に考えること。わたしが何より林達夫に見習うべきなのは、その点だったのではないだろうか?


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by Tomoichi_Sato | 2021-12-05 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)
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