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書評:「反知性主義―アメリカが生んだ『熱病』の正体―」 森本あんり


最近読んだ中で、最も面白い本のひとつだ。

「反知性主義」という言葉はふつう、「知性に反対する態度・主張」の意味で使われている。例えば外務省出身の作家・佐藤優は、「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義しているらしい(本書の序文でそう引用されている)。当然、そこには批判的な意味が込められている。

しかしアメリカにおいては、反知性主義(Anti-intellectualism)という言葉は、必ずしも否定的な意味ばかりではない。この語を有名にしたのは、R・ホフスタッターで、1963年に出版し、後にピューリッツァー賞を受賞した「アメリカの反知性主義」らしい。彼が同書の中で使ったこの言葉の意味とは、反・知的権威主義だった。

著者も決して、否定的ではない。「反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である」という(P. 235)。そういう感覚は、誰もがある程度もつものだろう。

しかし、アメリカにおける反知性主義は、社会の中でしばしば強力な、ある意味、特異な現れ方をする。その背景には、米国キリスト教の「リバイバル」(信仰復興)運動があるのだ、というのが本書の中心主題である。

いうまでもないが、アメリカの初期の植民者たち(いわゆるピルグリム・ファーザーズに代表される清教徒など)は、英国や欧州大陸の宗教的迫害を逃れて、アメリカ大陸という新天地にやってきた、という歴史がある。したがって、彼らの入植した東部ニュー・イングランドなどの地域は、キリスト教の理想を中心にした社会制度設計になっていく。

著者はここで、宗教社会学における2つの社会類型を紹介する。「チャーチ型」と「セクト型」である。チャーチ型では、その社会に生まれたものは皆、その宗教の構成員となる。

17世紀のマサチューセッツは、まさにチャーチ型の社会であった。「協会員だけが投票権を持ち、政治に参加することができる、という決まりであった」(P. 64)。また「理由なく礼拝を続けて欠席すると、罰金が科される。これは植民地の法律に定められており、罰金は協会ではなく政府が徴収する。こういう点では、当時の社会に政教分離と言う概念は存在しない」(P. 50)。

ちなみにチャーチというのは宗教社会学用語なので、キリスト教に限らない。「伝統的な日本の仏教における檀家制や神道における氏子制は、本人の意思にかかわりなくその土地に生まれたものを皆含むのでチャーチと言ってよい」(P.106)のである。

これに対して、宗教的な回心を体験した純粋な構成員だけで、教会を作ろうとする集団を、宗教社会学で「セクト」と呼ぶ。セクトは、「既存の母集団を批判して、より純粋な別集団を新たに形成しようとする人々の集まりである」(62ページ)。

ここから先は私の解釈だが、宗教には社会の維持と、個人の魂の救済と言う、2つの大きな役割がある。前者を突き詰めたものがチャーチ制であり、後者をひたすら追求していくと、セクト主義が正しいと言うことになる。

このセクト主義の米国における現れが、「信仰復興」(リバイバル)運動なのだ。それは社会周縁の大衆に向けた、説教師を中心とした回心の運動となる。そして、「およそ何らかの主義と言うものは、自分の身にそれを担って体現するヒーローがいるものである」(P. 271)。そこで著者は、リバイバル運動のヒーロー達を、エピソードを交えて、歴史順に生き生きと描き出す。

その列伝は、故レーガン大統領が崇拝した建国時代のピューリタン指導者ジョン・ウィンスロップに始まり、18世紀前半の神学者エドワーズと伝道師ホイットフィールド、19世紀第二次信仰復興運動の指導者チャールズ・フィニー、19世紀後半のムーディー、20世紀初頭の元大リーガーであるビリー・サンデーに至る。(本書執筆段階では存命だった、現代のTV伝道師ビリー・グラハムは対象外のようだ)

著者は言う。「『信仰復興』(リバイバル)は、前章で見たようなピューリタン社会の知的土壌の上に開花し、以後繰り返しアメリカ史に現れる、いわば周期的な熱病のようなものである。リバイバルの最初の大波は18世紀に訪れ、アメリカ独立革命を精神的に準備した。19世紀に再来したときには、奴隷制廃止運動や女性の権利拡張運動に指導的な役割を果たし、20世紀には公民権運動や消費者運動に影響を与えた」(P. 56)。すごい社会的影響力である。

なぜリバイバルがこうした運動の原動力となるのか。それは、「リバイバルが『平等』という極めてアメリカ的な理念を強く呼び覚ますからである。平等主義こそ、本書が追求する「反知性主義」の主成分なのである」(P. 57)。

ヨーロッパのキリスト教社会では、「神の前での平等は、この世の社会における平等を導かない」というのが近代までのごく一般的な共通理解だった(P. 101)。まあ、いかにも古き階級社会らしい考え方である。しかしアメリカ社会は、一応それを否定したところから出発する。

とはいえ、初期の植民地は、「当局の承認なしに新しい教会を立てたり、公定教会とは別の私的集会を開いて礼拝したりすると、刑事罰の対象となる」(P. 110)社会だった。そこでは、キリスト教の牧師はそれなりに知的なエスタブリッシュメントの職業で、育成は重大な社会課題だった。

わたしも本書ではじめて知ったのだが、ハーバード、イエール、プリンストン大学の東部名門三校は、「いずれもピューリタン牧師を養成することを第一の目的として設立された大学である」(P. 34) 。「ハーバードは、初めから純粋にプロテスタント的ないしピューリタン的な大学として設立されたと言う点で、中世以来の大学とは設立の理念を大きく異にしている」(P. 35)。

ただ、こうした教会の指導者たちは、「自分たちの定住開拓地で安定した社会を築くことに精一杯で、海の向こうから押し寄せてくる新しい移民をどうするかなどは、海辺の港町で考えてくれれば良い、位にしか受け止めていなかっただろう。しかし、その新参者の彼らこそ、不慣れな土地で心の糧を求める不安いっぱいな人々だったのである」(P. 66)

この人達の不安を受け止め、浄化してキリスト教に導く(=リバイバル)、というのが「福音派」と呼ばれたセクトの人びとの活動だった。

今日のアメリカのキリスト教は、大別すると、主流であるプロテスタント、少数派のカトリック、そして「福音派」からなる。福音派はプロテスタントの一種のセクトで、その代表はバプテストとメソジストである。彼らは草の根型の大衆組織力を持っていて、19世紀半ばには合わせてプロテスタント教会の7割を占めていた。

結局、チャーチ型だった初期のプロテスタント社会が、こうしたリバイバル運動を進める福音派のセクトと共存するために、信教の自由をベースとする「政教分離政策」を憲法に書き込むに至る。この潮流はさらに、エスタブリッシュメントへの反感を政治的に利用しようとする、政治家の動きにつながっていく。

米国の大統領選挙が、今日のようなお祭り騒ぎになったきっかけは、19世紀初めの直接投票制度の導入にある。この時に大衆支持の波に乗って大統領になったジャクソンは、東部の知的エスタブリッシュメントに対する批判で、多くの票を得た。

ジャクソン大統領は、「政権交代ごとに公務員を入れ替える猟官制(スポイルズ・システム)を導入して、今日のアメリカの政治制度の性格付けを行った。スポイルとは戦利品と言う意味である。これは「連邦政府を牛耳っていた東部の貴族的な政治家や金融課を引きずり下ろす」ためだった(P. 163)

19世紀後半に入ると、産業革命に伴い、アメリカは農業社会から工業社会、農村の中心から都市中心の国家へと姿を変えていった。「その変化を支えるために、さらに大量の移民が流入した」(185ページ)。無名で孤独なアメリカ大衆の誕生である。

こうした大衆の魂の不安をマーケットに、ショービジネス的な伝道集会は、ますます広がっていく。

「アメリカ人にとって宗教とは、困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰を持ちなさい。それがあなたは道徳的にし、人格的にし、そして金持ちにしてくれる」(P. 266〜7)。宗教とは、この世での成功への道、アメリカン・ドリームの裏付けなのだ。

「アメリカンドリームの可能性は、啓蒙主義的なジェントルマンが社会を支配していた時代にはなかったし、その後の高度に産業化され専門化した都市社会の時代にもない。その間に挟まれた19世紀の一時期にだけ見られるものである。おそらくそれは、アメリカと言う国家の青年時代の記憶である。」(168ページ)

今日の米国の書店に行くと、自己啓発系のノウハウ本(Self-help)のコーナーが非常に広い。なにせ、神は自ら助けるものを助く、が信条の国なのだ。米国人の心の中では、自己啓発と宗教が、真っ直ぐつながっている。

また著者が映画「リバー・ランズ・スルー・イット」を引いて説明するように、人間の手がついていない美しい自然は、アメリカにおいては一種の宗教的な畏敬と崇拝の対象である。これをナチュラリズムと呼ぶ。その代表者は「森の生活」の著者ソローだろう。こうした感覚の背後にも、神の創造した自然を読み解くことによって、自然は神の栄光を語り出すと言うピューリタン的な理解がある。この点でも、森林を不気味な魔物の住む異教的な世界と考えた、ヨーロッパ旧世界の宗教感覚とは断絶がある。

チャーチ制とセクト主義。著者によると、アメリカ人が政府権力を見る際にも、この2つの考え方が影響を及ぼしている。多くのアメリカ人は、アメリカ国家を「地上における神の道具とみなし、積極的な社会建設を志す。これはチャーチ型の精神である。」しかし同時に、「大方のアメリカ人は、政府というものが必要だ、ということまではしぶしぶ認めるだろう。だが、それは最小限でなければならないし、本音を言えば、ないほうがいいに決まっている。」(P. 123)。これが地上の権力に対するセクト的な精神である。

著者・森本あんり氏は、プリンストン大学神学部の博士課程を出た方だ。だから、という訳でもないだろうが、大衆動員ビジネスと化したTV伝道師のような、現代の米国キリスト教の一部のあり方には批判的だ。でも、リバイバル運動に象徴される反知性主義自体は、それなりに意義を評価している。「反知性主義の本質は、宗教的使命に裏打ちされた反権威主義である」(P. 141)、「反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である」(P. 262)と、繰り返し書く。

そしてまた、大変文章の上手い人である。文体それ自体はクセのない平明なものだが、エピソードの選び方や配置、時折差しはさむユーモア、全体のリズム感など、ページの森の中で読者を導く手腕は、大したものだ。

本書はアメリカへの複眼的理解を助ける書物である。ひどく世俗的な資本主義社会なのに、キリスト教原理主義者が大勢いて、国内政治は大衆迎合的ながら、ときおり極端な道徳主義に走り、外交では人権主張と権謀術数が入り混じる、世界最大の軍事国・アメリカ合衆国。この分かりにくい超大国を、精神史の面からシャープな光を当てて、見事に分析している。

2015年の出版後、米国ではドナルド・トランプが大統領選挙で勝つ。彼もまた、アメリカの生んだ反知性主義という「熱病」の巧みな利用者だ。今は、“不正選挙”に負けておとなしくしているが、バイデン政権が失政で揺らぐと、また出番をねらうだろう。揺らぐ大国の今後を見据える際に、本書は欠かせない参考書となるはずである。


by Tomoichi_Sato | 2021-10-24 22:32 | 書評 | Comments(0)
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