Kさんは、わたしの大学の1年先輩である。大学院では同じ研究室で過ごした。Kさんは大手メーカーに就職し、地方の工場勤務からキャリアをはじめた。後に研究開発部門にうつり、社会人ドクターも取得したが、ある時、転職して外資系のベンチャーに入った。そこは優秀な技術を持っており、数年後に、もっと大手の外資系企業に買収された。当然、小さな日本法人も、その大手の日本支社に吸収合併されることになる。 このような状態で、その会社に働き続けるかどうか、先輩は迷ったらしい。大学時代の恩師に相談したところ、意外な助言を受けた。「君は営業マンになれ。外資系企業では、研究開発は結局、欧米にある本社の仕事だ。現地では、ローカライズやサポートが技術者の仕事に過ぎない。それでは上にあがれない。上がらなければ、面白い仕事もできないだろう。もし日本支社で上に上がりたかったら、セールスで実力を見せるしかない。」 繰り返すが、この人は博士号も持っている、生粋の技術者だ。それなのに恩師は、生き残りたかったら、営業の仕事をしろと言う。先輩は結局、この助言に従うことを決めた。そして本当に頭角を現し、この会社の日本支社長まで上り詰めた。 Kさんは人当たりの柔らかい、温厚で誠実な人だ。だが、いわゆる典型的な「営業マン」タイプではない。根っからセールスの才能に恵まれている人とは思えない。わたしは久しぶりにお目にかかったときに、思い切って、「セールスに成功する秘訣とは何ですか?」、とたずねてみた。というのも、わたし自身、仕事の限界というか、自分の殻を破って成長するためには、他人と交渉する能力が必要だと感じていた時だったからだ。 といっても、別にわたしが何か特定の商品を、誰かに売ろうとしていた訳ではない。わたしが「売り」たかったのは、自分の提案、ないしアイデアだった。相手は顧客であり、社内でもある。わたしは受注型プロジェクトの仕事をずっとしてきて、その途上では、顧客の追加要求だとか気まぐれな好みだとかに、しばしば振り回される。そのまま従うと、納期やコストにインパクトが出る。そこで対案を考えて、社内の合意を取り付け、顧客に提示して説得しなければならない。つまりネゴ(交渉)である。 世の中にはネゴが得意で、交渉が大好きな人も、たまにはいるのだろう。だが身の回りを見ても、わたし自身も、それほどではない。もちろん仕事で必要だから、交渉はする。だが、顧客の説得がもっと上手だったらなあ、といつも思っている。 さらに、受注プロジェクトの現場を離れてからも、説得の機会は減らない。たとえば社内のIT系プロジェクト。あるいは業務改革の提案活動。いずれも社内ユーザの仕事のやり方に変化をもたらす。当然、当事者の同意が必要になる。そして大抵の人は、慣れたやり方を変えたがらない。その相手に、こういう新しいやり方のほうが、会社全体としてはメリットが有るはずなんです、と説得しなければならない。 英語では、こういうとき、自分のアイデアを『売る』(sell)と表現する。すごく直接的な言葉だが、核心をついている。人を説得し、自分の提案に同意してもらう。それは、アイデアの販売であると、彼らは考える。だとすると、わたし達が何かを「売り込み」「営業する」機会は、思ったよりもずっと多いことになる。だから、わたしは先輩に、営業の秘訣を訪ねたのである。 するとこの先輩の答えは、とても意外なものだった。「米国のセリングに関する本で理論と手法を学び、そのまま実践した」と。理論と手法! さすが理論派の技術者だとは思ったが、ふつう、セールスは人間系のスキルが決め手だと言われている。対人関係とか、熱心さとか誠実さとか、さらには根性とか。誠実さや根性がスキルなのかどうかは、かなりあやしいが、とにかく「文系」的な価値観が支配する世界だ。それなのに理論とは。 納得できない顔のわたしに、先輩は説明した。「ぼくが売るのは、ケータイやクルマみたいに、目に見える製品じゃない。目に見えないソフトウェア、つまりソリューションだ。『提案型営業』と言ってもいい。だから、ちゃんとした売り方の方法論が必要だ。」 そして先輩が紹介してくれたのが、『ソリューション・セリング』(M・ボスワース著)という本と、そこに書かれているエッセンスだった。とくに、顧客のペインをつかむ事の重要性を、教えてくれた。 著者ボスワース(と訳されているが、ボズワースと濁るのが正確な発音かと思う)は、顧客のニーズは3段階からなる、というモデルを考える。それは、 (1) 隠れたペイン (2) ペイン (3) 解決策のビジョン である。 そして、提案型営業(ソリューション・セリング)とは、顧客のニーズを(1)→(2)→(3)と掘り起こして導いていくプロセスで、これを経ずに、いきなり何かの「解決策」を提示しても、相手はそれを必要とは思わない、という。 たとえば(と、ボズワースは例を挙げる)ウォールストリート・ジャーナル朝刊に、「ジェネテック社が男性の禿げの遺伝子の分離に成功した。5年以内に米国男性のハゲという問題は解決するだろう」という記事が載ったとする。 頭のてっぺんの髪が薄くなってきている自分にとって、薄毛は問題(ペイン)だ。だが、解決方法がないとあきらめて、意識にはのぼらせてこなかった。つまり、「(1)隠れたペイン」だったのである。しかし、この新聞記事をよんで、にわかに「(2)ペイン」として意識化される。 もちろんまだ、この段階では、そのジェネテック社の新薬を買うとは決めていない。安全性も、値段も未知数だ。だが、この問題は意識化され、活性化された。そして解決策を真剣に考えはじめている。 「(1)隠れたペイン」と「(2)ペイン」の違いは、『希望』である。わたし達をとりまく問題は数多い。仕事でも、プライベートの生活でも。だが、人はあまり多数の事柄を、意識の前景におくことはできない。心理学によると、意識は同時に、7±2個、すなわち5〜9個くらいしか、注意すべき主題を保持し続けられない。だから多くの問題は、当面解決策がないと思われると、潜在意識の下に追いやられ、忘れられてしまう。 自分が相手に何かを売り込みたければ、無意識の中にしまい込まれ、忘れられていたペインを、相手の意識に登場させる必要がある。すなわち顧客に希望を与えることで、その一つの方法は、参照事例を示すことなのだ。解決の実例を見せて、その方法や状況は多少違っていても、自分の問題が解決可能らしい、と思ってもらうことが、セリング活動の第一歩である。 「しかし、一番難しいのは、相手のペインを知ることだ」と、先輩のKさんは言った。人は悩みとか問題といったものを、簡単に他人に打ち明けたりはしない。まして相手が部下とか他者の人間だったら、なおさらだ。自分には何も問題はない。そういうポーズを、誰だって自分を守るために、とっている。 相手が抱えているペインは様々だ。だが、自分が売りたいパッケージ・ソリューションの多くは、幸い、いろいろな機能を持ち、ユーザに対して多面的なベネフィットを提供できる。だから、相手のペインをなんとかして探り当て、その内容に応じて、売り方を変えるべきだ。どんな顧客に対しても、同じ売り方をしては、いけない。これが先輩のアドバイスだった。 この話を聞いて以来、わたしは顧客や社内他部門へのプレゼンテーションを作る際、必ず相手のペインを考えることから、はじめることにした。そのためには周到な情報収集と、想像力が必要だ。 プレゼンテーションを、自己(自社)紹介や最近のトレンドからスタートする人が多い。だが、わたしはそうではなく、相手の隠れたペインを想定し、それに類似するシチュエーションの説明からはじめることにした(ただし、押しつけがましくならないように、自分自身の類似トラブル体験を持ち出すこともある)。 そして、できれば、解決した参照事例の話を、さらりと紹介する。相手が興味を持ち、身を乗り出して聞いてくれるようになったら、問題の背景と、自分の提案について順を追って説明するようにする。 例えば自分が、IoTシステムの導入を社内で提案したいのだと仮定しよう。それによって機械設備の稼働状況と、人の動線を可視化し、工程改善に使いたい。説得する相手は、場合により、生産技術部かも知れないし、工場長かも知しれない。あるいは財務部門の場合もあろう。 この3者は、おそらく抱えている潜在的ペインが異なる。生産技術部は、機械の故障が悩みだろう。ただ設備投資は抑えられているので、古い設備を保守しながら、だましだまし使っている。じゃあAIで予知保全、などと考えるのは、いきなりジャンプしすぎだ。まず、「だまし運転の危険」で話を始めてみる。それが労災を引き起こした例、生産がしばらくストップした例、そして機械の深刻なダメージが起きた例をあげる。 大事なのは、機械の保守記録と、累積稼働時間だろう。でも今は、工場の建屋の外に一歩出てしまうと、機械が動いているか止まっているかすら、分からないのだ。では、それが遠隔でモニタリングできたら、どうだろう。こういう風に、ペインを構成してみる。 相手が工場長なら、機械故障よりも、生産性や稼働率の向上が悩みの種かも知れない。だが今は、製造部の配下の各現場リーダーに、「改善しろ」「頑張れ」と指示することしかできないのだ。受注生産の場合、営業が仕事を取ってきてくれない限り、稼働率は上がらない。これが、隠れたペインだ。 でも、工場内の重要な工程について、稼働率と余力が可視化されたら、どうだろう。工場にはまだ、これだけの能力が余っているから、もっとこういう種類の仕事を取ってきてくれ、と営業部門に働きかけることができる。人の配置も、無駄な偏りが毎日、具体的に見えれば、再配置を命じることができるだろう。そう考えると、稼働率や人の配置が可視化できていない、というペインが前景に浮かび上がる。 そして財務部門が相手の場合は? もちろん、原価管理に訴えるしかない。今の状況では、どの機械にどれくらい人がはりついているのか、よく分からないのだ。ということは、真の原価がとらえ切れていない訳だ。すると・・ このように、同じ仕組みを売り込むのだって、相手の立場や関心によってペインのあり方が異なるから、ハイライトすべきベネフィットも、よく考えて選ぶべきなのだ。 もちろん、こういうアプローチが空振りすることもある。一種の賭けである。腰が痛くて悩んでいる人に、「あなたに必要なのは胃腸薬だ!」と提案したって、拒否されるに決まっている。わたしも後になって、相手は思いもよらなかったことに悩んでいた、と気づくこともしばしばだ。ただ、はずれることを怖れて、誰にも共通するような、薄まったペインを持ち出しても、なかなか多忙な相手をひきつけることは難しい。 そして、相手がペインを意識化したら、一緒に解決策のビジョンの構築をたどるべきなのである。これを飛ばして、いきなり解決策のビジョンだけ示したって、絵に描いた餅を買いたいと思う人は少ない。 ボズワースは、多くの広告はこの点を間違えている、という。「広告の80%は単に『ビジョン』を提示しているように思えます。しかし、これでは売れることにはつながらないのです。(中略)買い手の隠れているニーズを(意識の中に)運び込み、買い手に自分がそれを買えば、自分の問題は解決するのだとと思わせるものでなければなりません」(邦訳 P.86-87)。 「皆さんが大人になったとき、セールスマンになっていればいいな、と思っていたお母さんは何人くらいいたでしょう?」と、彼はセミナーの受講生にたずねるのだそうだ。だが皆、答えずに笑うらしい(アメリカ人が質問に答えず笑うのは、よほど恥ずかしいときだ)。セールスマンは、その程度の社会的尊敬しか受けていない。 だが、目に見えないアイデアのセールスは、想像力をフルに使う、非常に知的な仕事である。そして、技術者を含むわたし達全員が、そのための交渉能力を身につける価値がある。もしもあなたが、他人に同意してもらいたい、ブリリアントな技術的アイデアを抱えているなら、あなたはそれにもかかわらず、まずセールスマンになる覚悟とスキルを身につけるべきなのだ。 <関連エントリ> →「書評:『ソリューション・セリング』 マイケル・ボスワース著」 (2006-04-11)
by Tomoichi_Sato
| 2021-06-19 23:18
| E4 ビジネスのソフト・スキル
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Comments(1)
突然のメッセージにて失礼いたします。
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