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アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ

頭が良くなりたい、と思う人は多い。

もちろん、わたしも例外ではない。わたしは不注意で、うっかり大事なことを忘れたり、間違ったことを発信しがちだし、数学的能力もあまり高くない。将棋や囲碁なんて、三手詰めさえ解けない。「それなのに、どうやってプロジェクト・マネジメントなんてできるの?」と将棋の得意な友人に以前きかれて、ぐうの音も出なかった(苦笑)。

プログラミングもあまり上手ではない。今でもたまにコードを組むことがあるが、すぐにバグに突っかかって、「何でこいつ(=コンピュータ)は、思ったように動いてくれないんだろ」と独り言をいってしまう。だが計算機にしたら、「あんたの言うとおりに動いただけですよ」と、答えるに違いない。当たり前だが、バグの原因は、ほとんどがこちらの考えや思い込みが、間違っているからだ。

なぜ、頭が良くなりたい、とわたし達が願うかというと、もっと良い答えを出したいから、豊かに発想したいから、そして、効率よく考えられるようになりたいからだ。では、わたし達にとって、「考える事」の主な目的は、何か。それは、自分たちの問題を解決したいためである。つまり、考えることの主たる目的は、問題解決にある

もちろん、単に空想するだけ、想像するだけ、という頭の使い方だって、たしかにある。だが、そういう場面では、「もっと頭が良くなりたい」とは、ふつう思わない。何かの問題を解くという目的意識があって、頭を使う時こそ、「もっと頭が良ければなあ」と感じるのだろう。

そして問題解決とは、試験問題を解くことではない。
 「応仁の乱が起きたのは、西暦何年か?」
 「部分積分の公式って、どう使うんだっけ?」
こういう問いは、あとで本やネットで調べれば分かる。調べれば分かる問いは、『出題』であって、問題ではない。

わたし達を悩ませるのは、そして悩んで「あー、頭良くなりたい」と思わせるのは、調べてもすぐ答えが出ない問題である。

ちなみに資格試験か何かの勉強をしていて、教科書をよんでも分かりにくいし、なかなか覚えられない、「あー、頭良くなりたい」と思うのは、個別の出題が解けないからというよりも、資格試験をスラスラ解けるようになりたい、という一種のメタ問題に悩むからだ。

いいかえると、「資格を持つ自分」という“ありたい姿”(To-Be)と、「資格を持っていない自分」の“現在の姿”(As-Is)にギャップがある。As-IsからTo-Beに移るための、最大の障害が試験勉強だ、と認識するから、それを問題と感じるのである。

つまり、一般的にわたし達が直面する「問題」とは、“あるがままの姿”(As-Is)と、“ありたい姿・本来はこうあるべきだったはずの姿”(To-Be)との、ギャップを超える上での障害を、意味するのだ。売上を伸ばしたいとか、就職先を選びたいとか、あるいは転職すべきか決めたいとか。良い設計とかデザインというのも、優れたTo-Beの構想であるから、広い意味で問題解決のための思考に属する。

では、どうすれば、頭が良くなるのか?

それについて、思い出すことがある。わたしは数年前から、声楽家の先生について、歌を習っている。一応、合唱が趣味だったので、それまでも自分なりに、ちゃんと歌ってはきたつもりだった。だが、我流のままでは、いつまでも伸び悩む。そこで、ある出来事をきっかけに、プロについて習うことにしたのだ。

先生からはいろんなことを学んできたが、一つ分かったのは、自分はちゃんと朗々とした声を持っていた、という事だ。

そんなの当たり前、と思うかもしれない。だが、それまで自分は、「もっと声量があったら良かったのに」「もっと良い喉を持って生まれついたら良かったのに」などと、密かに感じていたのだ。それどころか、何年も前だが、別の合唱指導の大家であるS先生に、セミナーの懇親会で「合唱を歌う上で、声量って必要条件なのでしょうか?」と質問したりしたこともあった。

だが、しばらく習って気づいたことは、自分には(そして多分、誰にでも)ちゃんとした声があった、という事実だった。ただ、声の出し方、からだの使い方が下手だから、それが活きて出てこなかったのだ。

発声は身体的な事なので、文字で説明するのは、なかなか難しい。ともあれ、からだの余計なこわばりを取り除くこと。ムダな力を、喉や舌や顎などから抜くこと。そして自分の身体が、とりまく周囲の空間と一体に感じるくらいに、なんというか、バランスよく「全体的に」働くようイメージすること。そうすると、声はちゃんと響くように出てくるのだった。自分が無理して「出す」のではない。「出てくる」ものなのだ。

そして、こうした教訓は、おそらくスポーツなど、殆どの身体技法と通じているのではないかと想像する。わたしはひどい運動音痴なので、せいぜい多少楽しめるスポーツはスキーぐらいなのだが、あれもバランスと、しなやかさの競技である。斜面で無理して力を入れたら、かえって転ぶ。スキーを楽しむのに、別に並外れた筋力は要らない。からだの使い方、重心の移し方を覚えれば、あとは自然が助けてくれるのだ。

わたし達が上手にできない身体技法は、もともと力量や素質がないことよりも、ムダな力の入れ方、下手な使い方をしていて、バランスやつながりが良くないことから生じる。

そして、「考える」という行為も、ほぼ同じだと、わたしは見ている。

「考える」行為は、いろいろな要素的機能によって、支えられている。記憶する、記憶したことを思い出す、パターンを認識する、論理的に推理する、感覚的イメージを想像する、つながりや組み合わせをつくる、言語化する、等々。こうしたことの自在な組み合わせで、「考える」はできあがっている。ちょうど身体の種々の筋肉などをうまく連携させて、運動や発声などをするのと同じである。

違うのは、こうした行為がほぼすべて、脳という単一の臓器の中で行われていることだろうか。だから外から見えにくい。まあ発声だって、外からは相当見えにくいプロセスだが。

そして、人間の臓器や筋肉の基礎的能力というのは、基本的にそれほど大きな違いがある訳ではない。肺活量だって、正常な大人の間では、倍半分も違うまい。100mを10秒で走れる人はごく少数だが、20秒でなら中学生だって走れる。走る速さだけでなく、眼の良さ、肩の強さだって、素質的には桁違いの差はないのだ。

だから、思考能力の基礎的な要素も、びっくりするほどの違いはないと思われる。もちろん世の中には異常な記憶力を誇る人や、とてつもなく論理展開力の速い人もいる。だが、ここで論じているのは、そういう特殊な、天才的な人の話ではない。わたし達、ごくふつうの人間の思考能力であって、それは大差はないだろう。

では何が違いを生むのか? それは、要素的な働きが、バランスよくスムーズに連携できるかどうかと、そうした鍛錬を常日頃からやっているかどうか、なのである。

今のわたしが100mを何秒で走れるかは、自分が高校や大学のときに何秒で走れたかとは、ほとんど関係がない。それ以後の時期に、どれだけ走り込む機会があったかに依存している。同じように、考える能力は、最終学歴がどこだったかよりも、社会に出てからどれだけ考えることを続けたかに、よっているのだ。

そしてまた、脳を使うとは、きわめて身体的な作業である。身体的に疲れすぎていたり、睡眠不足だったりすると、てきめん、思考能力は落ちる。

もちろん、かりに身体的に大丈夫で、睡眠も取れているときでも、「なんだかムダな頭の使い方」になっているなあ、と自分で感じることは、けっこう多い。そして他人に対しても、「この人、もったいない頭の使い方だなあ」と(まあ余計なお世話だろうが)感じることが、時々ある。

それは、考えるという行為をするための、準備・方向・偏り・限界などに関する、必要条件をちゃんと満たしていないときに生じやすいのだ。ただ、例によってまた長くなりそうので、そうした必要条件については、稿を改めて、また書こう。

(この稿続く)


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by Tomoichi_Sato | 2021-02-14 23:21 | 考えるヒント | Comments(0)
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