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書評:「囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論」 W・パウンドストーン著



第2次大戦終了の4年後、1949年8月に、ソビエト連邦はシベリアで核実験を行い、原子爆弾の保有国となったこ。これにより米国による核兵器の独占体制は(西側諸国の予想よりもずっと早く)終わり、世界は東西の核軍拡競争時代に突入した。

翌1950年の時点では、「アメリカや西ヨーロッパの相当数の人々が、アメリカはただちに、理由などどうでもいいから、対ソ核攻撃を考えるべきだという気持ちになって」いたという。そして、この考え方は「『予防戦争』という遠回しな名で知られ、アメリカが時機をとらえ、核の脅しと奇襲攻撃を通じて世界政府を樹立すべきだというものであった」(P.15-16)

この動きを支持した知識人は、当時たくさんおり、その中に著名な数学者も二人いた。バートランド・ラッセルと、本書の主人公ジョン・フォン・ノイマンである。ラッセルは後に平和主義に転じるが、フォン・ノイマンはよりタカ派的で、ソ連への先制核攻撃を主張した。

フォン・ノイマンはその数年前に、経済学者モルゲンシュテルンとともに『ゲームの理論』を確立したばかりで、すでに戦略研究の大家だった。また、米軍の設立した作戦研究とORのシンクタンクである「ランド研究所」の主要メンバーでもあった。

彼の影響力は当時、数学や物理学のアカデミアを超えて、軍や政界に対しても甚大であった。すでに第二次大戦中、フォン・ノイマンは原爆の使用に対する戦略的な助言を提供し、投下すべき攻撃対象のリストを作成した。その中には、「京都、広島、横浜、小倉」などの都市の名前が記されていた・・


著者ウィリアム・パウンドストーンの本はいつも、非常に面白い。わたしが最初に呼んだパウンドストーンの本は『ライフゲイムの宇宙』(原題:Recursive univers = 再帰的な宇宙)で、セル・オートマトン上のライフゲームと、最新の宇宙論を並べて論じた、印象的な科学書だった。

また『天才数学者はこう賭ける』も非常に斬新で、情報学者シャノンと、ベル研の数学者ケリーによる情報の価値に関する「ケリーの公式」とをめぐる物語が興味深かった。パウンドストーンの、重要だが世から忘れられかけている科学的発見を、科学者たちの伝記とともに蘇らせる手腕は見事である。また米国の一流のサイエンス・ライターらしく、科学全般への深い理解と、対象に多面的・実証的に迫るアプローチが素晴らしい。

ジョン・フォン・ノイマンは1903年、ハンガリーのブダペストで、裕福なユダヤ人家庭に生まれる。幼い頃から神童と呼ばれ、1925年にチューリヒ連邦工科大学で化学工学(!)の学位を得、翌年にはブタペスト大学から数学の博士号を受ける。ベルリン大学で最年少の講師になり、さらに大数学者ヒルベルトに学ぶ。

フォン・ノイマンの数学上の業績は、作用素環をはじめ集合論、エルゴード理論、論理学など多方面に渡るが、彼の名を数学の外でも有名にしたのは、「量子力学の数学的基礎」という公理論的数理物理学の研究だった。

もちろん、その他に、電子計算機の発明への貢献も忘れてはいけない。プログラムそれ自体を「データ」として扱うことで、計算手順をハードウェアの結線(Hard coding)から開放して、独立した「ソフトウェア」という分野を作ったのが彼なのだ。だから、こうした種類の計算機を「ノイマン型コンピュータ」と呼ぶ。

だが、彼がソ連への積極的先制攻撃を主張していた1950年に、ランド研究所の後輩フラッドとドレッシャーが、ある奇妙な性質を持つ「ゲーム」に関して、実験的研究に取り掛かった。それは、プレイヤーたちの合理的な決定を積み上げると、全体最適から遠く離れた結果に陥る、というゲームだった。プリンストン高等研究所の数学者タッカー(「ナッシュ均衡」で知られるJ・ナッシュの師匠)は、このゲームを「囚人のジレンマ」と名付けた。

囚人のジレンマについては、前の記事で詳しく解説したので、ここでは繰り返さない。フラッドとドレッシャーの研究は、普通の人たちに、このゲームを100回繰り返してプレーさせると、最終的に「協力」行動(これが全体最適を与える)をとるようになるのか、それとも「裏切り」行動(ナッシュ均衡解=利己的な局所最適になる)をとるのか、という実験だった。結果は、多くの場合は「協力」を選ぶというものだった。

この実験については、その後、多くの追試的研究が行われている。中でも有名なのは、1980年のアクセルロッドによる、コンピュータ同士の試合による実験だった。そこでは、相手が裏切れば次に自分も裏切り、相手が協力すれば次は自分も協力するという、「オウム返し」tit-for-tat戦略が、もっとも良い結果を生むことが示された。

ゲーム理論は、生物進化の研究分野でもよく援用されているが、アクセルロッドは競争原理が支配する集団の中で、「協調戦略」がどう発生していくかをうまく説明したのである。

すると、ゲームの理論に基づいて、核による先制攻撃を主張したフォン・ノイマンの議論は、どうなるのだろうか? 朝鮮戦争の始まった1950年以降、アメリカ世論は「予防戦争」論に急速に傾く。それを加速したのが「赤狩り」だったろう(フォン・ノイマンは反共主義者だったが、狂信的なマッカーシー議員のことは嫌っていた)。

しかしスターリン没後、1955年の軍縮交渉(未成立に終わるが)、そして62年のキューバ危機を経て、米国とソ連は冷戦的な共存状態に落ち着いていく。

逆に、ゲームの理論はどうなったか? 応用数学と経済学の分野としては、その後も発展していく。1966年、ラパポートらは単純な二人ゲームを分類し、ジレンマ(板ばさみ)状況を生じるものを明らかにした。それは、以下の4種類だ。

 行き詰まりゲーム:両者とも裏切るのが全体で最良の結果を生む
 シカ狩りゲーム:両者とも協力するのが全体で最良の結果を生むが、裏切ると自分だけ利を得る
 チキンゲーム:両者とも裏切ると全体が最悪の結果になるが、片方だけが協力すると相手の利になる
 囚人のジレンマ:両者とも裏切ると全体が最悪の結果になるが、片方だけが裏切ると自分の利になる

中でも、「囚人のジレンマ」自体は、うまい理論的な解決が与えられないままだ。戦略に関する「メタ戦略」を考える、という理論も提案されたが、あまり現実的ではない。フラッドとドレッシャーは、最初は同僚のナッシュらが解決してくれると期待していた。しかし今では「囚人のジレンマは絶対に『解決』できないだろうと考えており、ほとんどすべてのゲーム理論かも二人と同じ意見である」(p.162)。

そして本書には触れられていないが、2000年にはM・ラビンが、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの「期待効用理論」自体に、深刻な問題点があることを数学的に証明した(もっとも経済学者の多くはラビンの指摘をあまり重大視していないようだが)。

では、フォン・ノイマンその人はどうなったのか。

彼が晩年にうちこんだのは、水爆の開発であった。さらに彼は1954年、アメリカ原子力委員会AECの委員に就任する。だが翌55年に、骨ガンが発見される。フォン・ノイマンはその少し前から次第に厭世的になっており、また、あれほど優れた頭脳を誇りながら、プログラミングで単純な間違いをすることもあった(彼は50行くらいのアセンブラは頭の中で組んだ)。

ちなみに原爆開発に関わった大勢の物理学者が、比較的若い時期にガンで死亡している(フェルミは53歳、オッペンハイマーは62歳で亡くなった)。フォン・ノイマンもビキニ環礁で原爆実験に立ち会っていた。

フォン・ノイマンが生まれたのは、ハンガリーの富裕なユダヤ人家庭だが、非宗教的だった。彼は最初の結婚のとき、形式的にカトリックに改宗するが、本人は徹底した不可知論者で、キリスト教などまともに信じてなどいなかった。それが最晩年にはふたたび病床で、カトリックに入信する。これには友人モルゲンシュテルンらも驚いたらしい。だが「この改宗はフォン・ノイマンにそれほど平和をもたらさなかった。フォン・ノイマンは最後まで死を恐れていた」(P.250)。彼は1957年に53歳で世を去る。

「ジレンマ」とは、あちらを立てればこちらが立たず、という板ばさみ状況を示す言葉だ。囚人のジレンマがこれほど有名になったのは、各プレイヤーが合理的なミニマックス解を選ぶと、全体としては最悪結果を得るからだ。これはゲームの理論から生まれる、一種のパラドックスであった。

パラドックス」とは、妥当に見える前提から、合理的な推論を組み合わせると、非条理としか思えない結論が出てくるような問題を示している。だから皆、何らかの理論的な「解決」を望んだ。

だが、「囚人のジレンマ」がパラドックスに見えるのは、局所的な経済合理性を積み上げたら、結果的に全体最適がもたらされるはずだという、わたし達のリニアな直感の方に、じつは問題があるからなのだ。組織やシステムというものは、そういう単純な足し算を超えた性質がある。

フォン・ノイマンのゲーム理論は、そうしたパースペクティブへの入り口を提供するはずだった。だが、彼自身はその道には踏み込まなかった。彼があまりにも頭の良い、現世的な合理主義者だったからだろう。晩年には、ゲーム理論通りに世の中が動かなかったのは、大多数の人間が愚かで非合理的だからだ、と考えていたふしがある。

もちろん、わたし達は、彼ほど知力に恵まれた存在ではない。だが、ここでカトリック思想家の言葉を一つ、思い出すのもいいだろう。「あまりにも現世的な人間には、現世のことはよく分からないのだ」(G・K・チェスタトン)。なぜなら人は、善意の協力だの道徳だの宗教だのと言った、非合理的なものを信じたがる存在だからである。


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by Tomoichi_Sato | 2021-02-08 07:48 | 書評 | Comments(0)
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